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なお、これはわたしが個人的にテレビを見て書いたものであり、各テレビ局や番組とは全く関係はありません。
すべての文章の無断使用・転載を禁止いたします。
またここの情報を使って、何か問題が起こったとしても私は一切責任は持ちませんのであしからず。


テレビ番組「THE 世界遺産 ヨルダンのペトラ遺跡」

 2010年7月11日放送。紀元前2世紀からおよそ400年に渡って繁栄した都。アラビア半島の遊牧民ナバテア人は、牧草地を求めて移動し続けた。何故岩山に住んだのか?今も遺跡の9割は砂に埋もれたまま。当時、交易をするキャラバン隊が目指したのはペトラだった。水を手に入れるための技術もあった。

●ペトラ遺跡
 ペトラはギリシャ語で「岩」。長い間幻の都だった。19世紀の初めに発見され、世界に知られるようになった。ペトラに入る道は岩の裂け目にできた細い道「シーク」。延々と2kmも続く道。両側から絶壁が迫る。40分歩いて、突然目の前に巨大な建造物が見える。岩山を削って作られていたペトラのシンボル「エル・カズネ(宝物庫)」があった。ファラオの財宝が隠されていると語りつがれていたが、宝はなかった。残っていたのは、傷ついた彫刻。
 19世紀に一人の画家デヴィッド・ロバーツがエル・カズネを描いていた。絵を見ると、その頃女神の彫刻は美しい姿をとどめていた。その上には丸い壷。これも今は無残な姿。財宝を狙った盗賊が宝が入った入れ物だと思い、銃弾を浴びせた。
 エル・カズネは本当に宝物庫だったのか?2003年、地下室が発見された。中には天井の低い部屋と奥へ続く通路があった。「当時は1日に15人ほどの観光客しか訪れなかったので、大規模な発掘調査を実施できた」とスレイマン・ファラジャットさんはいう。この奥で頭蓋骨のかけらが発見され、研究は進んだ。現在は、王の墓ではないか?とも考えられている。

 エル・カズネはペトラの玄関口でしかない。奥には王家の墓もある。マーブル模様の岩山を彫り、華麗な装飾を施している。ペトラの岩山は砂岩で、柔らかいので、上から下へ彫っていった。岩山の中に丸く窪んだ場所がある。古代ローマの影響が数多く見られるが、円形劇場の跡。古代エジプト建築の特徴もあった。先の尖った4本の柱はオベリスク。壁面にはギリシャの文字。砂漠の遊牧民はギリシャ、ローマ、エジプトの文明を取り入れ、岩の芸術を作った。
 ペトラにはおよそ3万人が暮らした。奥には多くの建造物が岩山に隠されていた。山の頂き近くにはペトラ最大の建造物がある。高さ25m。何故これほど岩山が彫られたのか?他にも世界には、インドのエローラ石窟群、中国の雲岡石窟、エチオピアのラリベラ石窟教会群があると紹介された。
 岩の裂け目「シーク」にいくつもの祠がある。ペトラを見下ろす岩山の頂きには、儀式を行なう祭壇を設けた。生け贄の動物を神に捧げ、その血を岩山に流した。エル・カズネの正面にも、これと同じ祭壇の跡が残っている。
 ペトラは遊牧民が築いた聖地だったのかもしれない。

 砂漠を旅した人たちの絵が残されている。ペトラから南へ向かうと紅海に面した町アカバに到着する。多くの交易品が荷揚げされた。活気あふれる市場には香辛料を売る店がある。この中に見かけないものがある。古代ローマが求めた「乳香」。当時は金と同じ価値で取引されたという。あぶると甘い香りが漂う。神に捧げる神聖な香りとされた。乳香はアラビア半島南部の特産品で、限られた場所でしか取れない。これを古代ローマに運ぶ際に、ペトラを通過していた。
 ペトラの北にある死海も交易ルートにあった。海抜マイナス400mという世界で最も低い場所にあり、海水の塩分の5倍もある。今から80年前、この浮力が湖の底から思わぬ物を浮かびあがらせた。天然のアスファルトだった。これはミイラに塗る防腐剤として古代エジプトが求めた物だった。アスファルトもペトラを通ってエジプトに運ばれた。ナバテア人は高い通行税を取ったが、それでもキャラバン隊はペトラを目指した。岩山を越えた小高い場所に町があった。ここには、ペトラの時代から枯れることのない泉がある。今も町の住民は水飲み場として活用している。この湧き水を利用するため、ペトラは水路を作った。長さは2km。さらに2kmシークの岩陰にも水路を作った。
 この地に暮らす遊牧民ベドウィンはナバテア人の末裔とも言われている。くり貫いた岩山が彼らの家。ひんやりしている。しかし1980年代、遺跡を保護するために、近くの町に移住させられた。遊牧民の暮らしも変わった。遺跡案内をするベドウィンも増えている。それでも食の伝統は守られていた。岩山で10歳まで暮らしたというモハンマッド・アルプドゥールさんが作る、「チキンと野菜の蒸し焼き」。これを薄く焼いたパンに巻いて食べる。

 岩山に降った雨は岩山をくり貫いて作った水路を通って、貯水槽に溜まるようになっていた。現在見つかっている水路は100箇所。
 19世紀に描かれた絵には、エル・クズネの前に川が流れていた。取材陣の目の前で急に雨が降った。その雨がその秘密を教えてくれた。一瞬のことですが、乾いた砂漠に水が流れ、岩山に滝が現れ、エル・カズネの前に絵と同じ川を生んだ。そして岩の裂け目「シーク」まで川に変えた。岩に彫られた水路が水を運ぶ。今もそのシステムは変わることなく働いていた。

 やがてローマ帝国に吸収され、交易ルートが陸から海へ変更されると、急激に町は衰えていった。


テレビ番組「世界遺産への招待状46 イスラエルのマサダ」

 2010年7月10日放送。マサダは昔イスラエルにあった要塞。かつてローマ軍と戦い、敗れた後に集団自決した誇り高きユダヤ民族。一方でマサダはイスラエルの国威発揚にも使われてきた。

●マサダ
 テリアビブから南東に150km。死海の西のほとりにマサダは聳えている。ここには年間80万人が訪れる。高さ400mの山頂には、兵士の住居や、巨大な倉庫の跡などがあり、当時の巨大な権力を示している。要塞として作られたが、王の滞在する宮殿も造られた。宮殿のなかには大浴場もあった。古代ローマ時代の贅沢な施設で、今でも多くの観光客の目を惹いている。しかしひきつけられるのは建物だけではない。
 礼拝堂の跡で歌を歌っている人たちがいた。ユダヤの成人式だった。成人を迎えるのは13歳の少年で、フランスからやって来た。ユダヤの人々が受け継いできた聖典を高々に謳いあげる。民族の誇りを守るために努力すると彼は語りました。
 紀元1世紀、ユダヤの地はローマ帝国によって支配されていた。しかし圧政に対し、ユダヤの人々は反乱を起こした。エルサレムは陥落するが、女性や子供までもマサダに立てこもった。マサダはローマ軍に完全に包囲された。劣勢の中で960人のユダヤ人は3年に渡って戦い続けた。ユダヤ戦記には、マサダの最後を伝える一節が書き残されている。降伏して奴隷となるよりも、民族の誇りを守るために、自決した。この話はその後の発掘調査によって確かなものと判明した。ヘブライ大学ガイ・シュティーベル博士が説明してくれました。1963年に発見された30体の遺骨は、この自決した人々のものだと言われ、マサダへの求心力は高まった。陶器の破片に反乱軍のリーダーの「ベン・ヤイール」の名前があった。これが集団自決の際のクジだと考えられた。ユダヤ人にとって最後まで戦った抵抗のシンボルでもある。この戦いに敗れた後、ユダヤの人々は世界各地に離散し、苦難の道を歩んだ。
 故郷を失った人々は、その後は聖書を拠り所として暮らしていく。2000年前に失われたマサダの聖書を作り直す作業が続けられている。写本家のシャイ・アブラモヴィッチさんは1年をかけて聖書を写しとっていっている。聖書には一度滅んだユダヤの民が一度復活し、祖国に帰ることができると書いてある。ユダヤの人々は聖書を支えに復活の日を待ち続けた。人々は厳格な戒律をひたすら守り続けてきた。

 エルサレム。4月19日は建国記念の日で、サイレンが鳴り響いた。1948年にユダヤの人々は長い離散の日にピリオドを打ち、イスラエルが建国された。しかしそれは新たな悲劇の始まりだった。イスラエルの建国を認めないアラブ諸国との戦争が始まった。こうした状況の中でイスラエルの人々に見出されたのがマサダだった。ローマ軍に包囲されて追い詰められた人々に自分たちを重ねた。イスラエル軍の入隊式もマサダで行われるようになった。
 マサダで入隊の宣誓をしたイェフダ・シュヴァルツさんは、60年前のその日のことを今でもハッキリ覚えている。シュヴァルツさんは3度の戦いに出陣した。シュヴァルツさんはハンガリーで生まれ、アウシュビッツに送られたが、生き残った。長男のラミさんがレバノン戦争に赴き、自分が戦争に行っていた頃とは違う恐怖を覚えたという。さらに戦争の目的にも疑問をもった。戦いが許されるとすれば、人間の尊厳が命を守るために、他に選択肢がない場合だという。レバノン戦争では、イスラエル軍はレバノン領内で戦っていた。
 近年マサダの物語を見直そうという動きがある。発掘をしているガイ・シュティーベルさんの発見が大きな波紋をよんでいる。かつて集団自決の際のクジだと言われていた陶器の破片、その定説が覆った。同じ名前の陶器がいくつも見つかった。これはクジではなく、食料の引き換え券として生活に使われていたと考えられる。「自決した人々も本当は生きたかった」とガイさんは語る。


テレビ番組「にじいろジーン 地球まるごと見聞録 テルアビブ」

 2010年6月5日放送。トルコ航空でイスタンブール経由で着きました。

●テルアビブ
 イスラエルの経済と文化の中心地。浜辺ではビーチリゾートを楽しむ人で賑わっている。元々砂丘だった地を開発して作られた街。
 にじいろガイドはヤエル・ラヴィさん(21歳)。クロックタワーに行く。

 街の中心部「ドクター・シャクシューカ」は地元料理の人気店。パンと一緒に食べているのは、「シャクシューカ」約700円。タマネギとにんにくをオリーブオイルで炒め、トマトと共に煮込んだもので、そこに卵を2個落とす。卵の白身が固まる寸前が一番食べ頃だという。パンをスプーン代わりにして食べるのが地元流で、毎日食べるそうです。
 地元で最近流行しているファースト・フードは「ファラフェル・スタンド」で、ひよこ豆のコロッケのこと。これを袋状にしたパンに入れ、野菜、キュウリのピクルスをトッピングすれば、完成。約300円。3種類のソースをお好みでかけて食べるが、白いのはゴマのペーストのソース。赤は?、緑色は青唐辛子のソース。

 流行の最先端のお店が並ぶ通りネヴェ・ツェデクは、イスラエル・ブランドの聖地とも言われる場所。世界各国に販売している「ラロ・トレジャー」には、可愛い飴細工のようなアクセサリーがある。指輪は約1900円、ネックレス約7200円。
 今、イスラエルの流行はカチューシャ。「ケレン・ウルフ」は特別なカチューシャを置いているお店。1つ約3600円のが紹介されました。現代風でゴージャスです。

 カルメル市場に行く。イスラエルはフルーツが美味しいことで有名。ナツメヤシが特産物で、生のままジュースに入れてミキサーにかけて飲む。「生ナツメヤシのミックス・ジュース(大)」約460円。甘酸っぱいそうです。
 スイカは1kg約70円。カットしてもらって、次のお店でブルガリア・チーズを購入。イスラエルではスイカはブルガリア・チーズと一緒に食べる。

 街の不動産屋さん「Acropo...」に行く。ビーチの近くの新築分譲マンションは、中が明るく、リビングが広い。2LDK65平方mで、庭は住居部分よりも広い。270万シェケル(約6400万円)でした。

●死海
 車で3時間で到着。塩分濃度が高いが、海にはつながっていない。水上読書が名物です。浜辺では泥を塗った人が多い。肌がいいと言われている。売店でも買えるが、場所によっては無料で使える。
 死海の泥を使ってエステをしてくれるのは、「ホッド・ハミドバル・ホテル」のスパ。死海の水を使ったプールで楽しんだ後は、「マッド・ラップ」として全身を泥でパック。約5300円。関節や肌にとてもよくてヒーリング効果があるそうです。
 「ジープツアー」に参加。広大な砂漠をジープで走りぬける。2時間で約1.6万円。敢えてデコボコ道を走行しています。


テレビ番組「世界遺産の招待状30 シリア」

 2010年1月25日放送。シリアのお札には首都ダマスカスにあるウマイヤド・モスクが描かれている。今から1300年前に建てられた、現存する世界最古のモスク。モスクの壁には砂漠の民が憧れた緑豊かな「天国の絵」が描かれている。アレッポを守った難攻不落の城とその傍の市場。そして世界遺産を結ぶ古い鉄道では、100年前に作られた列車が今も現役。

●アレッポ
 シリア北部にはシルクロードが走る。路上には多くのトラックが並ぶ。国境を越えるための手続きを待っている。丘を越えると突然視界が開け、眼下にアレッポの町が広がった。アレッポはメソポタミアとエジプトやギリシャを結ぶ東西貿易の中継地として発展した。紀元前3000年頃から歴史に登場する。世界最古の都市の一つ。町には数百年前に建てられた古い建造物が並ぶ。
 起源をローマ時代に遡るスークと呼ばれる市場がある。スークは昔も今もアレッポの商業の中心。長い年月をかけて発展していったので、まるで迷路。観光ガイドのムハンマド・アル・ホセインさんに案内してもらった。ベビー用品、ウェディングドレス、結婚式場、死んだ人に着せる服の店を紹介。
 隊商宿では、シルクロードを越えてきた人たちが休んだ。入口の高さは6mもある。扉は鉄で覆われている。2階に商人たちが宿泊した。今は工房として使われている。最盛期には隊商宿が70軒以上もあったという。

 この町を守ってきたのが、アレッポ城。天然の丘の上に築かれた巨大な要塞。元は宮殿だったが、12世紀に十字軍が攻めてきて、要塞化され、今の形になった。深さ22mの堀、斜面には平らな石が敷き詰められていて、簡単には登れない。その上に12mの高さの城壁があり、敵の侵入を防いだ。城に入るには、1本の橋があり、大きな城門が待ち構えていた。上からは大きな石を落とし、中央からは熱した油を流した。矢を射るための穴がある。十字軍は22回攻めたが、全てにおいて撃退した。城の中は東京ドームの10倍の広さ。城の下には高さ22mの食料庫があり、3000人が5年間食べていけるだけの穀物が確保されていたという。
 考古学者のユーセフ・カンジョさんは、最近魅力的なものが発掘されたという。これはハダトという雨や風を操る神を祀った建物の一部。この宮殿は紀元前2400年頃に建てられたもの。

 スークのあるお店を訪ねた。店主のマヘムード・メーマーさん。昔ワクフと言って自ら建物や財産を寄進した。これにより誰もが天国に行けるようだ。そこで地元の大富豪は学校や慈善使節、同時に市場を寄進した。アレpッポではワクフで寄進された建物が9割を占めるという。子供たちの学費、先生の給与もワクフで賄われている。
 11月27日、イスラムの正月「犠牲祭」。この日、ヒツジを生け贄にして祝う。この祭りは、予言者アブラハムが神に息子を犠牲として捧げようとしたことに始まる祭り。今はヒツジを代わりに神に捧げる。メーマーさんは1頭買い、ヒツジをさばいて、袋に入れて配った。
 その夜、親戚一同が集まり食事をとった。

●ヒジャーズ鉄道
 この機関車は100年前に作られたもの。窓の外には砂だらけの乾燥地帯。シリアの4割は裁く。半世紀前、この砂漠を駆け抜けたのが「アラビアのロレンス」。このロレンスは実在の人物で、トマス・エドワード・ロレンスという。当時ヒジャーズ鉄道はダマスカスとメジナを結んで走っていたオスマン帝国のものだった。ロレンスは何度もこの鉄道に攻撃を仕掛け、勝利に導いた。鉄道は修復され、今はダマスカスとヨルダンのアンマンを結んでいる。

●ダマスカス
 古代よりオリエントの真珠と呼ばれたシリアの首都。旧約聖書の時代からその名は出てくる世界最古の都市の一つ。ダマスカスはメソポタミアと地中海を結ぶ交易の十字路として発展した。城壁はローマ時代が起源。市場の入口にあるのはローマ時代の列柱。
 最も繁栄したのは8世紀。イスラム最初の都が置かれた。その時建てられたのが、ウマイヤド・モスクで、完全な形で現存する世界最古のモスク。中に入る時にはすっぽり体が入る服を着させられた。礼拝の前に口、手足などを清める。中庭の南側には大きな礼拝堂が建っている。中では聖地メッカに向かい人々が思い思いに祈りを捧げる。ミフラーブでメッカの方向を教えてくれる。イスラム教は偶像崇拝を禁止しているため、銅像などは一切ない。その代わり窓や壁にはコーランが装飾として描かれている。訪れる人は年間250万人を越えるという。礼拝堂の壁にモスクには珍しく具体的な絵が描かれている。それが緑豊かな天国を描いたモザイク画。天国は善行を続けた者だけが行ける究極の理想郷。中庭をめぐる回廊にも、水と緑に溢れる街並みが描かれている。これはダマスカスだと伝えられている。水は砂漠の人には貴重だった。ダマスカスは「水の集まる場所」という意味があり、バラダ川の流れがあった。
 イスラムの時代になり、水飲み場がたくさん作られ、無料で飲めた。イスラムでは水は全ての人に分け与えることが義務とされている。この水飲み場もワクフで建てられた。
 およそ100年前、ワクフは大きくその姿を変えた。1918年、ロレンス率いるアラブ軍はダマスカスに入場し、オスマン帝国に勝利した。しかしイギリスはアラブ独立の約束を破り、アラビア半島をイギリスとフランスの二軍統治領とした。700年前にワクフで建てられたヌーリー病院は、高度な医療技術を誇るシリア最古の医療病院だった。現在病院は閉鎖され、医療博物館になっている。フランス統治時代、多くのワクフの施設は占拠され、閉鎖された。ワクフは徐々に寂れていった。その後シリアが独立し、残ったワクフは全てが国の管轄下に置かれ、ワクフを通した人と人のつながりが弱まった。
 以前ワクフで建てられた病院は「サダカ」という一般市民の寄付で成り立っている。国外からの患者にも提供されている。イラクからの人も多い。病院職員のサナー・ムハンニさんはシリアにサダカという精神がある限り、貧困にある程度の歯止めがかけられるという。ダマスカス市内にこういう医療施設が100箇所以上あるという。
 金曜日、ウマイヤド・モスクでは週に1度の大きな礼拝「金曜礼拝」が行なわれる。広い礼拝堂は人々で埋め尽くされていた。モスクの前では寄付を呼びかける人が多い。このお金は慈善施設などに送られる。
 分け与える精神は明日へと受け継がれていく。


テレビ番組「にじいろジーン 地球まるごと見聞録 オマーンのマスカット」

 2009年11月21日放送。

●マスカット
 カタール航空でドーハ経由で到着。アラビア半島に位置するオマーンの首都マスカット。オマーンは伝説の船乗り「シンドバッド」ゆかりの国。40年前までは、保守的な鎖国を続けていたが、現在の国王が門戸を開いて以来、古き良きアラブの風情を残しながら、急速に近代化を遂げている。
 今でもシンドバッドに出会えそうなのが、スークと呼ばれる市場。
 町で目立つのは男性たちの服装。11月でも30度を越える気候でも、「ディスターシャ」という男性の民族衣装を着ている。とても涼しいそうです。ディスターシャを着た時は必ず、クンマという帽子を被る。

 にじいろガイドはサブリヤ・アルナマニさん(23歳)。「スルタン・カブース・グランド・モスク」はオマーン最大のモスク。国王が6年の歳月をかけて完成させたというモスクの内部は荘厳な雰囲気。オマーンで唯一、異教徒でも見学できる。女性がモスクに入るときは腕・足・頭を覆い隠さないといけない。サブリヤさんは全て黒でした。
 モスクを出た後は普段の服装に着替えて町を案内してくれました。髪は覆わず、上は赤い服でした。しかし、町では人前で肌を隠さねばならないイスラム女性の民俗衣装「アバヤ」が目につく。全て真っ黒ないでたちはミステリアス。しかしアバヤの専門店を訪れてみると、スカーフやそで口に華やかな模様が施されていて、とてもお洒落。さらにみんなはアバヤの下にカラフルなドレスを着てお洒落を楽しむそうです。
 マスカットで人気のブティック「カジャーカ Kashkha 」。店内では色とりどりのドレスでいっぱい。アバヤの下からお気に入りのドレスをのぞかせるのがオシャレなんだとか。サブリヤさんが着た服は、最初はアバヤ3.9万円、ドレス8700円、シャラビア・スカーフ1.2万円、次はアバヤ3.6万円、ドレス1.8万円でした。2つめはスカーフを頭に巻くのではなく、オシャレなフードで隠すもの。イスラム教徒でなくてもアバヤを着こなすことをお勧めするそうです。

 夜にしか味わえない街角グルメ「ムシカーク」は、羊の肉を串焼きにしたもので、人が集まる所には必ずこの店がある。立ち込める煙の中で焼き鳥のように焼いています。ヒツジ、牛、イカなどを串焼きにしたもので、1本50円。
 朝の漁港「カブース港」に行く。オマーンは砂漠のイメージが強いが、1700kmの海岸線を持つ世界有数の漁場国でもある。港の観光スポット「フィッシュ・マーケット」には、多くの大きな魚がたくさん売られている。オマーンの人はサワラをよく食べる。サメ、カツオなども。
 安くて美味しいシーフードの店「アル・ヘール・シーフード・レストラン」。陳列ケースから魚を選び、料理方法をオーダーする。サブリヤさんは「タイはグリルで焼いて、ハタはカレー料理にしてください。」とお願いしました。「ハタのカレー」は170円、「タイのグリル」は350円。オマーンでは魚のグリルを生野菜と一緒に食べる。マスカットのレストランは高い店が多いが、この店は低価格で家庭的な味が楽しめる。

 港町マトラにあるマトラ・スークは、アラビア半島で一番活気のあるスークと言われ、アラビア半島随一の市場で、店頭に香水の瓶を並べられているのが目立つ。お香を売る店もあるが、オマーンには香りを楽しむ文化が根付いているから。お香はオマーン文化の一つで、お香はあらゆる世代の人たちが買いに来るそうです。
 一般家庭での楽しみ方を教えてもらうために、サブリヤさんのお宅を訪問。母はサルマさんで、衣装に香りをつけていた。この時、ピラミッド型のカゴを使う。カゴの下でお香を焚いて、衣装をかけていく。
 オマーンの香りの中には、世界的に有名な香りもある。オマーン国が世界に誇る香水のブランド「アムアージュ」のお店を訪ねた。世界で最も高価な香水と言われるアムアージュの香水が格調高く並べられている。「ジュビレイション」100mL2.8万円。人気の香りを生み出すのは、主な原料となっている「乳香」と呼ばれるアラビア半島原産の木の樹脂。古代エジプトでは乳香を宗教儀式に利用し、重宝したそうです。

 ゴージャスなホテルは「アル・ブスタン・パレス・インターコンチネンタル・マスカット」で、エメラルド・グリーンの海と切り立った崖に囲まれているホテル。オマーン国王がアラブサミットのために造らせた、迎賓館でもあるホテル。超豪華なロビーでは19m、18トンのシャンデリアが自慢。目の前の海とホテルのプールが一体化しているように錯覚させるゴージャスな眺め。「ラグーン・ルーム」は40平方mで、青を基調とした落ち着いた雰囲気。日光浴にぴったりのバルコニー。ここからプールに行けるようになっている。

●バハラ
 車で3時間、岩山に囲まれたオアシスの村。世界遺産「バハラ・フォート」は1200年前に造られた砦。その昔、この城塞は女王が守っていた。陶器の産地としても有名。赤土と粘土で作られる。

●ミスファ
 帰りに小さな村に寄った。ガイドブックにはほとんど載っていない穴場。ここは、伝統のある村なので、女性が入るには民族衣装のアバヤを着ないといけない。荒々しい岩に囲まれた集落。険しい山の中にありながら、水が豊富で、欧米からの自然派志向の観光客には人気。
 民宿「ジャハラザード・ナイトB&B・ミスファ」で休憩。オマーンの伝統的なおもてなしに出てくるのが、カルダモンなどのスパイスが入った「オマーニ・コーヒー」。お茶うけには、ナツメヤシの実デーツやういろうのような食感のハロワなどの甘い物が欠かせない。90歳になる村の長老を交えて、時間がゆったりと流れていく。コーヒーを飲み干した後、お替りが不要であればカップを振る。合図をしなければいつまでもコーヒーをつがれる。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 梨花・しげるちゃんでヨルダン」

 2009年9月12日、19日放送。100回記念。梨花さんと15年来の友人しげるちゃんがヨルダンのペトラ遺跡と死海を訪ねる。JAL185便(羽田〜関西空港)、エミレーツ航空EK317便/901便で日本から15時間30分、1泊4日の旅。

●予定
 1日目、19:55、羽田空港発JAL185便、23:15、関西国際空港発EK317便。
 2日目、7:25、ドバイ国際空港発EK901便、9:20、クイーン・アーリア国際空港着。11:30、アンマン市内へタクシーで移動。12:30、キング・フセイン・モスク見学。13:00、アルクドゥス・レストランで昼食。15:00、死海へタクシーで移動。16:00、ホテルにチェックイン。19:00、夕陽とディナーを堪能。
 3日目、6:00、ペトラ遺跡に。9:00、ペトラ着。世界遺産「ペトラ遺跡」を堪能。11:00、ラクダで絶景ポイントに。12:30、空港に移動。15:30、空港着。17:15、クイーン・アーリア国際空港発EK904便。
 4日目、3:10、ドバイ国際空港発EK316便、19:15、関西国際空港発JAL188便、20:25、羽田空港着。

●アンマン
 空港からタクシーで30分でアンマンの中心に到着。キング・フセイン・モスクを見学。ここは7世紀中ごろに建てられたイスラム教の寺院で、イスラム教徒は1日に5回礼拝に訪れる。
 アルクドゥス・レストランは寺院から500m行った右側。途中で「スーク・エル・ダハブ」を通過するが、ここはヨルダン国内でも最大級のゴールド市場。約150店舗あり、良質の金が揃う人気の場所。ゴールド・ショップ「フィラデルフィア・マジューハラート」を見つけて寄る。金のバングルは1個450JD(5.5万円)。
 やっと「アル・クドゥス Al Quds Rest. 」を見つけた。1968年創業の伝統あるお店で、地元の人たちに愛されるアラブ料理の味は絶品。メニューを見ても読めないので、他の人が食べているのを見て選ぶ。一番人気の「カプセ」(鶏肉とライスのオーブン焼き)4.5JD(630円)。ターメリックなどの香辛料で味付けしたローストチキンとライスを組み合わせた逸品。

●死海
 40分遅れで死海に向かう。5つ星ホテル「モーベンビック・リゾート&スパ・デッド・シー」にチェックイン。ウェルカム・ドリンクは面白い器具を使って入れてくれるレモネード。とても美味しいそうです。約1500年前の街並みをイメージし、死海ビーチ・レストランなど充実した設備が整っている。部屋のバルコニーの前は死海という「ビーチ・ルーム」269JD(3.8万円)。水着に着替えてホテルのプライベート・ビーチに出る。
 死海は世界で最も低い場所にある湖(海抜はマイナス400m)、塩分濃度は海水の10倍。
 湖畔に壷が置いてある。ここには泥が入っている。この泥は有機成分、塩類を豊富に含んでおり、肌の古い角質を落とし、新陳代謝を高める効果がある。これで泥パックしました。顔もしてみました。これを死海で洗い流す。

 マンゴーのシェイク?をいただきながら夕陽を見る。とてもきれいでした。
夕食しながら過去の恋愛などの話をしていました。

 翌朝6時、ドライバーのムスタファさん(32歳)によりペトラ遺跡に向かう。

●ペトラ遺跡
 3時間で到着。岩と岩の間の「シーク」(秘密の通路)を歩いていく。シークの全長は1.5kmで、雨水の浸食により岩山が削られてできた道。当時は道に沿って水路も引かれていた。
 遺跡に到着。切り立った岩山を削って作られた「エル・ハズネ(宝物殿)」は2000年前、当時最高の建築技術で作られた。内部は意外とシンプル。
 横にラクダがいました。これに乗って絶景ポイントに向かう。右手に洞窟住居の跡がある。さらにローマ劇場。30分後、絶景ポイントに到着。360度展望できる場所。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 命の水が文明を生んだ」

 2008年11月1日放送。今から2500年前、最初の哲学者と言われるタレースは「万物の根源は水である。」と語った。今回は水をテーマに世界遺産を見る。

●スペインのグラナダ
 アルハンブラ宮殿にはミニ・バスで向かう。総面積は1.4万平方m。13世紀から15世紀にスペイン南部を統治したイスラムのグラナダ王国の王宮。中世イスラム建築の最高峰といわれている。アラヤネスの中庭は後にインドのタージマハルにも取り入れられた美しい水鏡で有名。
 中庭に陽がさすと、壁に水面のゆらめきが反射した。壁の繊細な模様と水面のゆらめきが融合して幻想的な光景を作り出しました。
 かつては王妃の住居だった「二姉妹の間」、天井は万華鏡のようです。石造りの複雑な模様は「鍾乳洞飾り」と呼ばれ、イスラムの人々にとっては特別な意味を持っている。予言者ムハンマドが神の啓示を得たとされる洞窟を表わす。壁にはアラビア文字が刻まれている。その周りを植物や幾何学図形がびっしり覆っている。アラベスクと呼ばれるイスラム美術に独特のデザイン。
 8世紀スペインにイスラムの国を作ったのは、アフリカ大陸から海を渡ってきた人たちでした。しかし、11世紀以来、キリスト教徒が制圧し、最後に残ったのがアルハンブラ宮殿のあったグラナダ王国でした。
 宮殿の美しさの秘密をガイドのエセキエル・ロドリゲスさんが説明してくれました。「二姉妹の間」のようにびっしりと模様が必要だったのは、元々砂漠から来た人々は、砂漠にないものを求めたからで、執念深く空間を埋め尽くし、全てを装飾品で飾りたいと考えたから。そして砂漠の民が最も憧れたものは水。
 ヘネラリーフェ離宮は水の宮殿と言われる。水の階段には手すりに水が勢いよく流れている。宮殿は小高い丘の上にあり、近くに水源はない。どうやって水をひいてきたのか?アラブ文化高等研究所のルイス・ガルシアさんが連れて行ってくれたのは、東にある山の中。遠くの白い山は雪をいだいていて、そこから流れてくる川から用水路をひいている。全長6km。高低差20mを利用して水を運んでいた。谷を越えるには水道橋を作り、水はようやく宮殿に入る。そこから城の端まで城はわずかずつ低くなっている。その地形を利用して水が流されていた。ライオンの中庭。水は管を細くすることにより、水圧を高め水が噴出す。
 この治水技術はスペイン南部のバレンシア地方を有数の農業地帯に変える働きも果たした。元々雨が少ないこの地方に、イスラムの技術によって水田耕作まで行なわれるようになった。スペイン料理の名物料理パエリアもこの地で生まれた。

●ヨルダンのペトラ
 国土の8割が砂漠というヨルダン。5月は過ごしやすい気候だが、日中の気温は40度を越える。砂漠の中に巨大な岩が点在する奇妙な風景。高さ100mを越す岩の間を入っていくと、かつて幻の都と言われた都市ペトラがある。入口から1.5kmを歩くと目に飛び込んできたのは、ギリシャ神殿を思わせる壮大な建造物だった。「エル・ハズネ」と呼ばれるこの建物は王の墓だといわれている。高さ40m、岸壁を掘り込んで築かれている。
 10分歩くと岩山に囲まれた壮大な空間が広がっていた。これがペトラの中心だった。岩肌に掘られた無数の穴はお墓。その数からペトラにはおよそ3万人が暮らしていたと推測されている。墓の壁の鮮やかな色彩。ペトラの岩山には様々な鉱物が含まれているため、神秘的な模様が自然に作られている。都市の中心部を貫く大通り。その周辺には王宮、神殿など重要な施設が建ち並んでいた。ペトラはローマ軍との攻防の末、3世紀に姿を消すまで、およそ500年豊かな都として繁栄を謳歌したと言われている。ペトラは文献には知られていたが、その場所などは長年、見つかっていなかった。1812年に見つかり、調査の結果、ペトラを築いたのはナバテア人と呼ばれる砂漠の遊牧民だった。キャラバンを組み商いをして富を蓄えた。富を狙う外敵から守るためにペトラを都とした。
 水源はどうしたのか?岩に掘られた長い溝は水道管だった。表面と内側には白い塗料が塗られていた。シリカと呼ばれる防水効果のある鉱物だった。その管は近年ペトラ観光で賑わい始めた街「ワディ・ムーサ」に届いた。ここに古より湧きつづけている泉がある。泉からペトラまでの距離は6km。傾斜と水圧だけを利用した水利技術は、あのアルハンブラ宮殿で見られたもの。生命線である水源が都の外側でよかったのか?
 それを解消する答えがペトラの近くの岩山にあった。母なる山と呼ばれるこの山にもう一つの水源があった。ペトラ発掘調査団のサミー・ナワファさんが案内してくれました。頂上には穴があいている。雨を集めるシステムでした。年間降水量は150mmで、水を1滴でも多く集めようと、188の貯水槽が掘られていた。

●カンボジアのアンコール・ワット
 首都プノンペンから北西250kmにあるアンコール・ワット。町から密林を抜ける1本道がある。山本美希さんが案内。広さは1.5km四方、世界最大規模の広さ。12世紀カンボジアで繁栄を誇ったアンコール王国の王がヒンドゥー教の世界観に基づいて築いた寺院。3つの回廊に囲まれた中央の塔は、世界の中心にあるという聖なる山を表わしている。塔への向かう階段の角度は60度。かつては王をはじめ、限られた人間だけが登ることが許された場所。登れるのはそこまで。アンコール王国では王が即位すると、新たな寺院を作るものとされてきた。王は寺院で神々を迎える儀式を行なった。最盛期には王国はインドシア半島の大半を支配した。こうした繁栄はどうして築かれたのか?
 アンコール・ワットの北40kmにあるクーレン山。アンコール遺跡の研究で世界的に知られる早稲田大学の石澤良昭教授。ここはアンコール王国の初代の王が建国を宣言した場所だと伝えられている。1時間歩いて到着した場所には石像などの石の彫刻が多くあった。ここはアンコール・ワットに流れ込む水源だった。アンコールの人々は水源地の底に神々の像を彫った。彫刻の上を流れた水は聖なる水となり、王国に繁栄をもたらすと信じられていた。生命の川はどこに流れるのか?衛星写真で見ると、アンコール・ワットの西の四角い影に到達していた。この影の正体はバライと呼ばれる広大な貯め池だった。東西8km。南北2km。これが人工の池だった。貯水池の真中に島メボンがあった。これも人工的に作られたもので、メボンとは「神の恵み」という意味。島には石で築かれた遺跡が残されていた。アンコールの王はこの島で水量を確認していたという。雨季には田畑が陥水し、乾季には田畑が干上がり荒地となった。巨大な貯水池は水をコントロールするために作られた。乾季には水を放流した。これにより米の三期作が可能となった。それで東南アジア一番の大国に成長した。
 東の回廊に最も有名な浮き彫りがある。長さ50mに渡りヒンドゥー教の天地創造神話を描いたもの。神々が大蛇で綱引きをし、その力で海をかき回すと万物が生まれたという。中央にはヴィシュヌ神が描かれ、当時は王その人と同一視されていた。

●世界の現状
 中国の黄河は1990年代から何度も川が干上がっている。上流で水をくみあげるため。
 グランド・キャニオンのコロラド川では、下流80kmにあるモロレス・ダムから下流はか細い小川となる。海に至るまでに水はほぼ使い尽くされる。
 水を巡る人類の叡智は今こそ試されているのかもしれない。

●トルコのパムッカレ
 トルコの南西部にあるパムッカレは石灰棚。水に含まれる石灰質が結晶し、長い年月をかけて階段状の不思議な造形になった。空の色が映え、コバルトブルーに輝く水。実は温泉。古代ローマ時代、ここは温泉保養地として発達し、石灰棚の周辺に人口4.5万人を擁する都市が発達した。今でも1日3000人の観光客が訪れる。
 原泉は水着姿の人たちで賑わう。ここから湧き出す毎分2万リットルのお湯が、2000年来の温泉郷を支えている。よく見ると水底に石の円柱が何本も沈んでいる。これは14世紀に地震で倒壊した神殿の遺跡。古代の人々は原泉に女神が宿ると信じ、大理石の壮麗な神殿で覆った。石灰棚に流れこむ温泉だが、見渡すと温泉の入っていない棚もある。水の出し入れは調節されている。1990年前後、観光ブームでホテルなどが建ち、湧き出る水が激減したため。以来、本当に必要な水の利用を検討し、水を管理するようになった。古来この水は地元の貴重な農業用水でもあった。先祖代々綿花の栽培をしてきた農家の人は水を待っている。パムッカレの綿花はローマ時代からの特産品。帝国に綿織物の文化をもたらした。水をたっぷり分かち合って使う。こうして人間は文明の苗木をしっかり育ててきた。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 イエメンのサヌア」

 2008年5月17日放送。岡田理江さんが案内。

●サヌア
 イエメンはかつては「幸福のアラビア」と呼ばれた。西部の高原地帯に首都サヌアはある。標高2000mあるので、温暖な気候。城壁に囲まれた1.5km四方の旧市街が世界遺産で、6万人が暮らす。外から見ると建物は茶色で、白い枠が描いてある。旧約聖書にあるノアの方舟で難を逃れた人が築いた街という伝説がある。町の歴史は3000年以上。
 イエメン門をくぐると世界遺産の街並み。門からスークという市場が続く。デーツ(ナツメヤシ)、カラフルなドレスの生地、香辛料、貴金属など2000以上の店舗がある。香辛料もクミンはイラン、黒胡椒はインドからのもの。男性は腰に半月刀(ジャンビーヤ)を差している。これが正装で、大切な伝統。
 礼拝の自国にはアザーンと呼ばれる呼びかけが流れる。金曜日は集団礼拝の日。サヌア最大のモスク「ジャーミア・カビール」は西暦630年の建造で、世界最古のモスクの一つ。入りきれない人は路上で祈る。モスクでは修復作業が行なわれている。責任者のアブダルハキム・アル・サッヤーリさんに案内してもらった。一つの柱の漆喰を取り除いたところ、紀元前のシバ王国時代の石柱がでてきた。シバ王国の神殿を利用してモスクは作られたらしい。旧約聖書にもでてくるシバ王国は紀元前8世紀から後3世紀に存在した。サヌアは紀元2世紀に都となった。

 建物はれんが造りで、5−6階建が多く、最も高いのは10階建で、ほとんどが200年以上前に建てられたもので、最も古いものは1000年以上。建物の数は9000にのぼる。白い模様のはしっくい。雨の多い4月を迎えて塗りなおしがされていた。防水の意味。アブドルラハマン・サバさん(26歳)のお宅の中を見せてもらった。7階建に4世帯18人が暮らす。ヤギ、羊、鶏を飼っていたそうです。内部はしっくいで塗り固めてある。3階の応接間は18畳。4階は台所と食堂で中心。屋上からは町が一望できる。雨があがった時が特に美しいそうです。
 ジャンビーヤ・スークは男性の装身具がある。アブドルラハマンさんはジャンビーヤの鞘を作っている。緑色はサヌアの伝統の色で人気がある。

 サヌア発展の秘密がスークに残されていた。日本の1円銀貨、オスマントルコの硬貨などがあった。最も古いコインは古代ローマの金貨で、乳香の取引のために紀元前にシバ王国にもたらされたもの。シバ王国は内陸のマーリブを拠点に乳香の一大産地だった。当時は多神教だったので、乳香は儀式に重要で、同じ重さの金貨と交換された。2世紀に海を経る経路が確立され、シバ王国はより海に近いサヌアに首都を移した。ローマ人は「幸福のアラビア」と呼んだ。キリスト教とイスラム教が進展すると乳香は儀式で使われなくなり、需要が減った。
 しかしサヌアを繁栄させたのは、コーヒーで13世紀にイスラムの行者が眠気覚ましに飲んだのが始まり。16世紀以降、モカから輸出されたコーヒーはヨーロッパ中で人気となった。現在世界のコーヒーの7割はイエメンから伝わった品種だといわれる。収穫されたコーヒーはスークにあるサムサラ(隊商宿)に集められ、大きさや品質が選別された。
 サヌアから西に車で2時間、モカ・コーヒーの故郷に向かった。最高級品「モカ・マタリ」の産地。ぶどうのように甘いそうです。コーヒー豆は赤い実を乾燥させたもので、6日間天日に干す。これを粉にしてお湯に入れて飲むが、イエメンではコーヒーにスパイスを入れる。このお宅ではカルダモンとクローブ。
 財産を守るための智恵が高層建築だった。建築史家のエマ・アルラザク・ガッハーフさんが説明してくれた。1階の窓やドアが小さいのは防御のためで、家畜小屋。2階が貯蔵庫。出窓の下に穴が開いていて、1階に降りなくても玄関にいる人を確認できるようになっている。11世紀には6000を越える高層の建物があったという。
 しかし1918年、宗教指導者イマーム・ヤヒヤがヨーロッパ諸国に対して鎖国政策をとった。1962年民主化要求が起こり共和制となるが、近代化に乗り遅れた。
 サヌアは50の地区に分かれていて、各々にアーキルと呼ばれる世話役がいる。町の治安を守るために古くからある制度。地区の人の身元保証人としてあらゆる人の世話をする。アブドルマリク・アルカバットさんは金曜日の礼拝の後に音楽で楽しんだ。街角で相続のことで呼び止められたり、警察の役目もする。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー マリエさんでヨルダンの死海」

 2008年4月5日放送。マリエさん(20歳)は死海でパラソルでも立てて読書をしたいという。死海はアラビア半島に位置する塩の湖。クレオパトラも美貌を保つために死海の泥を利用していた。愛用の枕を持って、ヨルダンまで1泊4日9000kmの旅。

●予定
 1日目、19:55羽田空港発、日本航空185便で関西空港に。23:15エミレーツ航空317便で11時間40分かけてドバイ国際空港に。
 2日目、ドバイ国際空港からエミレーツ航空903便でアンマンに。3時間25分かけて15:25ヨルダンのクイーン・アリア国際空港到着。17;00アンマン城(Citadel)見学。19:00「ジャフラ・カフェ」にて食事。21:00「ル・ロイヤル・ホテル」にチェックイン。
 3日目、8:00「ル・ロイヤル・ホテル」発。8:30「モーベンビック・リゾート&スパ・デッドシー・ホテル」着。、9:30死海に浮かぶ。11:30死海ならではのエステ体験。16:30クイーン・アリア空港発エミレーツ航空904便。
 4日目、2:45ドバイ国際空港発エミレーツ航空314便、16:50中部国際空港着。19:10名古屋駅発のぞみ155号、20:45品川着。

●アンマン
 ヨルダンの首都。英語がわかるタクシーを見つけるのがたいへん。市内までは19.5ディナール(3000円)。アンマン城(Citadel)に5時に到着。入場料2ディナール(300円)。ローマ時代に作られた城塞の遺跡。ここが人気なのは360度の景色、夜景。音楽がどこからともなく聞こえてくる。
 キング・フセイン・モスクでは男性が礼拝をしていた。レストランに行く前にジュース屋「アル・アマル」による。ミックス・フルーツ・ジュース1杯0.5ディナール(75円)。味はおいしくないので、タマリンド・ジュースに挑戦。0.5ディナール。こっちもおいしくない。
 民族衣装の店「アル・カルハ」に寄る。一番人気を見せてもらった。試着はリフトに乗って2階に行って行なう。1着37.5ディナール(5600円)で、合計4つお買い上げ。
 19:00「ジャフラ・カフェ」で食事。すごく暗い場所にある。店内は混んでいて、地元の若者に大人気のカフェ・レストラン。ケバブは3.5ディナール(525円)、羊や鶏肉のケバブが大人気。ピタパンとフモス1.5ディナール(225円)。ピザの起源ともいわれるピタパンを窯で焼き上げ、ひよこ豆などをすりつぶして作ったソースにつけて食べる。
 ホテルはアンマンの中でも一際目立つホテル「ル・ロイヤル・ホテル」1泊200ディナール(3万円)。旅行に必ず持っていくのは、枕、グローブトロッターのスーツケース、マーク・ジェイコブスの手鏡、バスローブ、キッドブルーのパジャマ、洋服5着。
 翌朝、息が白い。海抜900mのため?寒いようです。

●死海
 ホテルからタクシー。30分走る。死海は海抜マイナス400mなので、合計1300m下がる。世界で最も低い湖。琵琶湖の1.4倍あり、塩分濃度は海水の10倍。
 「モーベンビック・リゾート&スパ・デッドシー・ホテル」では、死海に面するプライベート・ビーチが30ディナール(4500円)で利用できる。日本からの予約も受け付けている。着替えた後、ビーチにはゴンドラで下る。死海は温かいそうです。自然と浮きます。1回に15分以上入ると肌に刺激が強すぎるために、一度上がる。再度入って、漫画「コブラ」を読むが、バランスを取るのが難しい。片手で読んで成功。
 「ザラ・スパ Zara Spa」でエステ。死海の塩にアーモンド・オイルなどを混ぜたホテル・オリジナルのソルト・スクラブ。血行を促進し、美肌効果を高める。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 イスラエルのテルアビブ」

 2008年3月22日放送。鹿島綾乃アナウンサーが案内。20世紀にイスラエルの人たちが砂漠だった土地に白亜の街を作った。70年前に近代建築の粋を集めて作った建物には、迫害を逃れて作ったユダヤ人の理想郷を夢見る切実な願いがある。

●テルアビブ
 ベングリオン空港は1970年に日本赤軍が銃を乱射し、24人を殺害した事件現場。空港は免税店や飲食店で賑わっていた。銃を持った兵士はいない。朝3時半に到着した。午前5時市内に到着。東京やニューヨークと変わらない光景が広がる。人口38万人でイスラエル最大の都市。白亜の建物は1930年代から50年代にヨーロッパから移り住んだユダヤの人たちによって建てられた。壁は白で、正方形や円形を組み合わせたシンプルな形を特徴としている。鉄、コンクリート、ガラスで構築するという今では当たり前の建築が、当時作られた。増え続けるユダヤ人を安い値段で早く作る必要があったためらしい。こういう近代建築は1000軒で、これだけの規模で残っているのは世界にも例がない。
 宿泊は「ホテル・シネマ」で、白亜の街を代表する建築の一つ。元は映画館だった。当時使われていた映写機が展示されている。1939年に建設されたままの姿だが、モダン。
 白亜の街を見学するツアーがある。ガイドが背景などを詳しく解説する。バルコニーがついているのも特徴的。特に東ヨーロッパでは閉鎖的な生活をしていたので、ここに移り住んだ人たちは理想郷を感じただろう。
 最も長く住み続けているというルツ・ゴルニーさん(80歳)を訪ねた。住まいは1936年建築で、ルツさんが9歳の時。ご主人はピカソの絵も購入したそうです。

 ある建物の「独立宣言ホール」で1948年イスラエルの独立が宣言された。今も当時のままの状態で保存されている。初代首相エングリオンによる独立の宣言は現代に至る扮装の引き金となった。周辺のアラブ諸国が立ち上がり第一次中東戦争が勃発した。元々この地に住んでいたパレスチナ人70万人が難民となった。その後も幾度も衝突した。第三次中東戦争でガザ地区をイスラエルが占領し、さらに対立が激化した。そして1996年、街の中心のショッピング・センターで自爆テロが行なわれ13人が亡くなった。現場のすぐ近くに事件の碑が建てられている。犠牲者の中に当時中学生だったバトヘン・シャハクさんがいた。母のアヤレットさん宅を訪問した。復讐心からは何も生まれない。3ヶ月前からパレスチナの女性と対話する集会を月2回開いている。しかし議論は対立したままだった。和解は「相手を知り、理解することから始まる」とアヤレットさんは語る。
 市内ではかつて見られたパレスチナ人労働者の姿はあまり見なくなった。シャディさんは19歳。生まれ育ったのはヨルダン川西岸地区。車で30分。回りの風景は一変した。自爆テロが盛んになり西岸地区からの出稼ぎは制限された。この村の失業率は40%を越える。

 カルメル市場にはいろいろな国から来ている人がいる。ホテル・シネマの向かいに「のみの市」が開かれていた。ロシアから移り住んできたユダヤ人女性ナタリーさんに話を聞いた。1990年頃のソ連崩壊時に100万人を超す人々がイスラエル等に移住したという。夫のイリヤ・ワイズバーグさんは法律事務所に勤める弁護士。娘のカリンさん(8歳)はベリーダンスを踊る。アラブの踊りが流行しているそうです。


テレビ番組「世界の絶景 新世界七不思議」

 2007年12月30日放送。世界七不思議は定義は曖昧だったが、2007年7月7日に新世界七不思議財団により、全世界から1億票の投票で新世界七不思議が決定した。ペルーのマチュピチュ、メキシコのチチェン・イッツァのピラミッド、ヨルダンのペトラ遺跡、インドのタージマハル、イタリアのコロッセオ、中国の万里の長城、ブラジルのコルコバードのキリスト像。新世界七不思議財団のバーナード・ウェーバー会長が説明してくれました。
 司会は内藤剛志、久本雅美さん。審査員は橋田壽賀子、優香、さまぁ〜ず、船越英一郎、ベッキーさん。フジテレビ製作。

●タージマハル
 350年前、22年の歳月をかけて建てられたお墓は世界一美しいといわれている。全て大理石、2万人の職人が集められた。いたる所に金や宝石が施され、国が傾くほどの総工費だった。たった一人の女性のために建てられたお墓。
 成田からはデリーにJALが毎日飛んでいる。10時間の旅。ここから南南東へ車で9時間でアグラ Agra に到着する。酒井敏也、田中要次さんが旅をして、スワッティーさん(19歳)が案内。
 まずは東門。敷地面積5万坪。東京ドーム4個分。2つ目の門をくぐると見える。この正門も立派です。通りすぎるとタージマハルが遠くにある。荘厳。
 皇帝シャー・ジャハーンが36歳で亡くなった愛する妻ムムターズ・マハルのために建てたお墓。高さ65mのドームを中心に左右対称になっている。建築の際には、イタリア、フランスなどから職人が集められた。アーチには楽園をイメージした花が細やかに装飾されている。
 この白さを守るために、1500m以内は車では入れない。

 黒いタージマハルがあるという。デリーは人口1300万人。ここで情報を集める。ヨガをしている公園でヨガを体験。サロ・ジャニ・ナガル・マーケットの市場に行ってみた。インドのお札には17種類の言語で金額が書かれている。タージ・パレス・ホテルのマネージャーのカランジット・シンさんから話を聞いたところ、「アグラのタージマハルを建てた石彫り職人の末裔がそう言っていた」という。

 アグラに行って、職人に会い、妹さんに案内してもらった。小さな集落を抜けて15分車で走り、さらに林の中を歩く。夕陽の中に黒く見えるタージマハルが見えました。
 皇帝は自らの墓として対岸に黒いタージマハルを建てようとしたが、願いは反対されて叶わなかった。

●ヨルダンのペトラ遺跡
 ペトラはギリシャ語で岩を意味する古代都市。紀元前に築かれたという。長い間、世間から忘れさられていた。インディ・ジョーンズ「最後の聖戦」で宝が眠る神殿として使われた。ここに住んでいたのはベドウィンと呼ばれる砂漠の民。今もラクダや羊を放牧する生活を送っている。
 首都アンマンまではドバイを経由して成田から15時間。要潤さんが旅をして、ベドウィン族のサーレムさん(34歳)が案内。国土の8割が砂漠というヨルダンを車で1時間走る。目の前に死海が広がる。生物が住めない死の湖。広さは琵琶湖の1.5倍。要さんは泳いでみた。水温20度。普通の海の塩分は3%だが、ここは30%。波うち際には塩の結晶がある。

 3時間で岩山が見えてみた。岩だらけ。どこに遺跡があるかわからない。シク(割れ目)というペトラの入口がある。これが1km続く。高いところだと100mあるそうです。昔は川が流れていたためらしい。
 そしてペトラ遺跡エル・ハズネ El Khazneh が目の前に見えた。ビル10階建の高さがあり、紀元前1世紀頃にかつてこの地に住んでいた砂漠の民が作ったもの。エル・ハズネはアラビア語で宝物殿という意味。しかし宝の形跡は全くなかった。中央上の柱に小さな穴がある。盗賊が銃を撃った跡らしい。
 さらに奥にはまだいくつもの遺跡群がある。王家の墓(1世紀〜2世紀頃)。まだ発掘中のものも多く、謎が多い。最大の謎は「雨が年に数日しか降らない場所で、なぜ高度な文明が栄えたのか?」。
 崖に沿って溝が通っていた。これは水道管だった。町の外の6km先の泉からひいていたそうです。
 ろばにのって絶景を観にいく。階段をろばが登る。次は崖の横をろばが通る。1時間降りて、ここから歩く。1時間後、特別な場所に到着した。高いところからエル・ハズネが見えました。

●久本が選ぶロマンチックな絶景
 イタリアの青の洞窟。ネパールのエベレストを独り占めできるホテル。モナコの世界一セレブな絶景。スウェーデンのダイヤモンド・ダストが降り注ぐアイス・ホテル。ドイツの世界一ロマンチックなお城ノイシュヴァンシュタイン城。フィリピン・エルニドの誰も知らない秘密のビーチ。アイスランドの10年に1度の奇跡のオーロラ。

●メキシコのチチェン・イッツァのピラミッド
 ギザのピラミッド以外にも、先の尖ったものとしては、スーダンのゲベル・バルカル、イランのチョガ・ザンビール、ミャンマーのバガン、メキシコのティオティワカン、グアテマラのティカルなどがある。
 メキシコ周辺で4世紀〜10世紀頃に最も栄えたマヤ文明の遺跡。非常に高度な天文学の知識を持っていた。天文台の遺跡エル・カラコルがあり、非常に精密な暦を作り出した。
 日本からはカンクンまで15時間。上原多香子、紺野まひるさんが旅をして、グスタボ・フラボソさん(32歳)が案内。カンクンは白い砂のビーチとカンクン・ターコイズブルーのカリブ海。
 チチェン・イッツァまでは車で2時間半。ジャングルの中の1本道を飛ばす。遺跡の手前からは歩いて到着。
 何のために作られたのか?マヤ文明の神を祀る神殿だった。階段の一番下にはヘビの頭がある。ククルカンという神で、穀物の豊作を願った。頭しかない。階段は2年前に観光客が転落事故をして登ることが禁止された。特別に許可をもらい、角度45度の階段を登った。階段の段数にも秘密がある。91段あり、4つの階段があるから、364、これに最上段の1段があり365となる。18回の段差はマヤ文明の1年の月を表している。最上段から見たジャングルは絶景。
 秋分の日と春分の日に見られる秘密がある。エンカデナTV局のプロデューサーのダビ・コロナさんに貴重な映像を見せてもらった。ククルカンのヘビの姿が現れていました。これを見てマヤ人は種まきの時期を知ったそうです。

●コロッセオ
 2000年前に皇帝は民衆の支持を得るために、巨大な競技場を作り民衆を楽しませた。
 日本からはローマまで12時間。三船美佳、スティーブン・セキルバーグさんが旅をして、マルコ・ベルッティさん(38歳)が案内。コロッセオは元は白かったが、排気ガスで黒く見えるとか?中に入る。今は床がなくなっているが、当時は砂の床があり、アレーナと呼ばれていた。地下には剣闘士の収容施設や猛獣と剣闘士を地上に運ぶエレベーターもあった。トイレがないのも謎です。
 町に出る。スペイン広場。「ローマの休日」では男性が腰をかける前の時計台の時刻は2時40分だが、腰をかけた後は5時になっている。
 三船さんは18年前の7歳の時に家族で行ったレストラン「サバティーニ」に行った。オーナーのスルベストラ・サバティーニさんに会った。「手長海老のブリュレ」をいただいた。
 コロッセオの夜景。ライトアップされてきれいです。

●内藤が選ぶ困難の後の絶景
 バヌアツの青く輝く神秘の湖は、ラピスラズリが溶けたもの。アルゼンチンの崩壊する巨大なペリトモレノ氷河。スイスのアルプスの超パノラマをパラグライダーで体験。ロシアのカムチャッカ富士のイリンスキー山は、クマの群れの中を通ってみる。気象の変化が激しく滅多に全貌を見せない。ボリビアの天空4400mのエメラルドの湖ラグーナ・ベルデは、銅が溶けているため。ベネズエラのエンジェル・フォールの落差は979m。水は霧になってしまい、滝つぼは存在しない。

●万里の長城
 2500年かけて作られた全長6000kmの長城。騎馬民族の侵略を防ぐために作られた。東の果ての関所は山海関で海になっている。西の果ては川で終っている。年間観光客は1000万人以上。誰もいない万里の長城もある。
 成田から北京まで3時間。川合俊一、misonoさんが旅をして、殷銘さん(40歳)が案内。
 まずは八達嶺長城に行く。入場料45元(720円)。ロープウェーは片道40元(640円)。人気の理由は、1952年に最初に観光地化され、修復されて整備が進んでいて、北京から車で1時間のところにあるから。まずは北八楼まで行った。人が多いので、絶景とはいえないようです。一番人気は長城記念マグカップ40元で、写真を撮って、それを貼ってくれます。
 東に10km、山の中へ進んで行く。門番がいて説明して通過する。アジアを代表する建築家達が設計したリゾートホテルがある。一番人気のコテージは日本人による竹屋。吉永小百合さんのシャープのアクオスのCMで使われた場所でした。1泊料金は45万円。敷地内に長城があり、宿泊者以外は立ち入り禁止。
 午前6時に出発。マイナス9度で朝8時までに山の頂上に行く。がんばれ、は中国語で加油(チャーユ)。到着した。長城の人が歩いている部分には草木が茂っていました。修復前の長城で、誰もいない。さらにその向かいの山に絶景があるという。がれきの山を越えて8時までに到着。どこまでも続く絶景が見えました。

●マチュピチュ
 インカ帝国は15−15世紀に栄えた南北4000kmの大帝国。言語の違う80の民族、人口1000万人を50年で統一した。鉄製の道具がないので、全て石製のもので石を切り出し、車輪を持たないので、人力で山の上に運搬した。何故この場所に都市を作らないといけないのかわからない。インカ帝国は文字を持っていなかった。
 保坂尚希さんが旅をして、マチュピチュをさらに高い場所から見た。マチュピチュはコンドルの形をしている。人間の無限の力を見せた遺跡でした。

●ブラジルのコルコバードのキリスト像
 南米で最も有名な建造物。日本人は見たいという希望者は少ない。リオ・デ・ジャネイロのコルコバードの丘に建つ高さ30mの巨大な像。年間180万人の観光客が訪れるという。何のために建てられたのか?
 80年前にブラジル独立100周年を記念して建てられた。大量の石材をフランスに送って作った。それが分解され、また戻ってきて建てられた。のべ5年間かけて建設された。腕の部分を命綱をつけないで掃除することが、18年前にあまりにも危険なので中止された。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 オマーンのファラジ灌漑施設」

 2007年12月15日放送。竹中三佳さんが案内。砂漠の中に忽然と緑豊かなオアシスがある。たくさんの水が流れるファラジ。北部オマーンに3000以上のファラジがある。その起源は2700年前。世界遺産に登録されているのは5個。複数形でアフラージとも呼ばれている。今回はその中でも最も水が豊富なファラジを9月に訪ねる。

●ビルケットモーズ村
 車に乗っていてもとても暑く、不毛の大地が続く。首都マスカットから南西に1時間半。オマーンは国土の8割を砂漠が占めるが、北部は岩で覆われている。オマーンの年間降水量は約100mm。東京の15分の1。雨季は12月〜2月。岩山を登りきると谷間に緑の森が現れた。ナツメヤシの木々。ビルケットモーズ村です。人口8000人で、古くから農業が盛んな村。
 まるで熱帯の植物園のよう。ここに世界遺産のファラジがある。水路に水が流れている。これが「ファラジ・ハトゥメーン」。72万平方mのオアシスを生み出している。水路の幅は70cmほどで、村中に網の目のように張り巡らされている。こういう用水路全体をファラジと呼ぶ。ファラジ・ハトゥメーンが作られたのは400年前。
 上流からたどってみた。みんな車で乗り付けて水を汲んでいる。飲み水にするそうです。飲んでみると甘いそうです。不純物が少ないことが分析の結果わかっている。その下流で3つに別れている。1秒間に平均200リットルで、乾季でも枯れたことがない。オマーンではファラジは「村の血管」と呼ばれている。
 村の中ではみんな洗濯をし、食器を洗っている。放し飼いのヤギも水を飲んでいる。下流ではナツメヤシの畑に流れ込む。この先に水路はない。なつめやしの実には糖分が多く、熟すと干し柿のような甘さになる。鉄分や繊維質も多く、かつては主食だった。
 ファラジでは1日中、鼻や口や顔や足を念入りに洗う男性を見かける。イスラムでは祈りの前に体を清める。清潔は信仰の半分と言われる。取材の9月はラマダンという断食月にあたった。日の出から日の入りまで何も口にしてはいけない。礼拝後に、子供たちがファラジで水遊びをする。ラマダンの間は水も飲めないし、暑いから唇が乾くし、時間を過ごすのに丁度いいようです。

 どこからこの水はやってくるのか?40km上流の山の中の洞窟に行った。今から50年前に地元の人が偶然にこの洞窟を見つけた。奥行き500m。ここに水が溜まっていた。オマーン観光省のマハムード・アルソブヒさんが説明してくれた。山に降った雨が、何十年、何百年かかって岩盤をしみ渡り、ここに池ができた。この水がさらに地下に溜まってファラジへと繋がっている。このあたりの山の地下にはこういう水がたくさんあり、ファラジの水源となっていると考えられている。
 巨大な水の層はファラジとどう結びついているのか。ファラジ管理人のムハンマド・アルサクリさんが説明してくれた。400年前人々は谷に穴を掘って、地下に巨大な水の層を発見した。深さは12m。この井戸から世界遺産ファラジの建設が始まった。どうやって集落へ水がひかれたか。別に竪穴と少し傾斜をつけた横穴を掘り、水源の水を村に誘導していった。地下水路は高さ1m、幅80cm。体長10cmほどの魚も泳いでいました。一つ一つ積み上げられた石が続きます。先人たちの気の遠くなるような努力の結晶でした。
 独自の管理システムがある。水の流れを管理している人がいる。ファラジの総責任者は水長(おさ)と呼ばれている。今はハミース・アルダガイシさん。取り決めが書かれている。この村では9日周期で全ての場所に水を配っている。この水利権は400年前にファラジを建設した人に与えられたもので、代々相続されている。
 もともとファラジとは「限られた資源を分かち合う」という意味。夜10時でもファラジを見守る村人がいる。水の割り当てを待っている人でした。

 オマーンの石油が見つかったのは1962年。お金が入りマスカットでは近代化が進んだ。最近この村でも給水システムができて、家の中でできるようになった。
 農業を60年してきたアブダッラ・アルサクリさんは2度水長も勤めた。1950年代に村のファラジは危機に見舞われたそうです。当時オマーンは鎖国政策をしており、部族同士での争いが多かった。村の人は身をていしてファラジを守った。アブダッラさんはそれを忘れない。
 10月に年に2回のなつめやしの実の収穫が始まった。どの畑も豊作だった。コーランにはなつめやしは神が授けた食べ物と記されている。ラマダンが終るとまずはなつめやしを食べて空腹を満たす。

 今、村では新たに水源の確保に乗り出した。5年前には井戸を掘り、新しい水源を発見した。


テレビ番組「世界遺産新たなる旅へ イエメン共和国サナア旧市街」

 2007年11月10日放送。

●サナア
 イエメンの首都。太鼓の音が鳴り響き、市場の中で剣の踊りが始まった。男たちが手に持っているのはジャンビアというアラブの短剣。イエメンの男たちはいつも肌身話さずジャンビアを持ち歩いている。ジャンビアは一人前の男の印。
 サナアは灼熱の砂漠地帯にありながら、標高2200mの高原にあるので、1年中過ごしやすい。
 旧市街では壁を漆喰で飾った6000棟の建物がある。歴史は古く、紀元前10世紀頃にはシバの女王で知られるシバ王国を交易の町として栄えていた。
 伝説によれば、サナアは旧約聖書に書かれた大洪水を逃れたノアの息子セム?が作ったとされる。サナアとは「守りを固めた場所」という意味。2世紀頃に建てられたアシッラー城はサナアに現存する最も古い建物。6世紀以降サナアはエチオピア、ペルシャに支配された。7世紀前半にはイスラム帝国の支配下になった。開祖ムハンマドがまだ生きていた時代です。
 アル・ジャーミア・トル・カービル(大モスク)は町の中央にある。建てられたのは630年。ムハンマドが亡くなる2年前。建物の大きさや塔の高さなど、建物は全てムハンマドの指示により作られたという。
 かつて城壁に囲まれていたイエメンの町には5つの門があったが、現存するのはイエメン門ただ一つ。門を入るとスーク(市場)が広がっている。交易の町サナアの歴史は塩の売買から始まった。高地なので、塩は貴重品だった。香辛料の並ぶ市場は今でも塩のスークと呼ばれている。
 旧市街の職人の町。ジャンビアが作られている。柄には水牛の角が使われている。漆喰で美しく飾られたサナアの建物は全て1000年以上経っている。日干し煉瓦を重ねて造られた建物。漆喰は防水も兼ねている。サナアの人々は先祖から受け継いだ家を修復を繰り返しながら住んでいる。この6階建ての建物には4世帯が住んでいる。食事はそれぞれ別の部屋で取る。大広間は結婚式などに使われる。正面の壁にはコーランが入った袋がある。家族毎に専用の部屋もある。最上階にある特別の部屋はマフラージで、男性しか入れない。男の家族の語らいの場でもあり、訪問客を通す部屋でもある。アラブの人にとっておしゃべりは何よりも娯楽。マフラージは人と人の絆を作る場所。


テレビ番組「世界遺産新たな旅へ ヨルダン・ハシェミット王国アムラ城」

 2007年10月27日放送。

●アンマン
 ヨルダンの首都。イスラエル、イラン、サウジアラビアと国境を接する。人口500万人で90%以上がイスラム教徒。町の中心部には、前の国王の名前を冠したキング・フセイン・モスクがある。イスラム教は紀元7世紀に預言者ムハンマドがメッカにて唯一の神アッラーから啓示を受けたことに始まる。記したものがコーランで、中心は六信五行。六信は神、天使、聖典、預言者、来世、定命。五行は信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼。世界が終る日がやってきた日に、全ての人は墓から出され、人生の行いにより天国に行くか地獄に行くかが決まる。偶像崇拝を禁じている。

●アムラ城
 アンマン郊外、80km東のヨルダンからイラクに向かう街道の砂漠の中にある。1898年オーストリアの探検家アロイス・ムジルにより発見された。それまでの厳格なイスラム教の世界とは異なっていた。城の壁には人間の姿が描かれていた。
 イスラム教は7世紀後半にはアラビア半島、ペルシャ、エジプトに拡大、その後ウマイヤ朝の時に北アフリカ、スペインにまで勢力を伸ばした。アムラ城はそのウマイヤ朝の王によって8世紀前半に建てられた。ウマイヤ朝の王の祖先は砂漠の遊牧民だった。アムラ城を建てた理由は、いくつかある。祖先が送っていた伝統的な生活を体験する、拡大した領土を警備する、厳しいイスラム教の戒律から逃れるためなど。
 中に入ると大きな広間がある。壁から天井まで隙間なくフレスコ画が描かれている。ウマイヤ朝の都は現在のシリアの首都ダマスカスにあった。彼らはこの地で絵画や禁じられた酒を楽しんだと思われる。絵画には女性の姿も描かれている。快楽を楽しんだのだろう。
 アムラ城の前には小屋のような建物が残っている。これは深さ40mの井戸。この地を選んだのは地下に豊富な水脈があったから。広間の奥には浴場があった。蒸し風呂に入りお湯で汗を流したのだろう。そこの石の柱の上にはかつては大理石の床がのっていて、蒸し風呂の蒸気は床下を通って浴場に送られたと考えられている。浴槽にはかけ湯のための湯が張られていた。浴場にも壁画が描かれている。ほおずえをつく男性。その横にはキューピッドが描かれている。天井に作られたドームには天体図が描かれている。こぐま座、双子座など、砂漠の遊牧民は星を頼りに移動していた。彼らはここで祖先のことを思い出していたのかもしれない。
 アムラ城で享楽を過ごしたウマイヤ朝は100年で滅びた。


テレビ番組「世界遺産新たな旅へ シリア・アラブ共和国・古都アレッポ」

 2007年10月20日放送。

●アレッポ
 首都ダマスカスに次ぐ、シリア第二の都市。シリアはトルコはイラクと国境を接する。アレッポは首都ダマスカスから北へ350km。アレッポは現在、人口150万人の商業都市。ここに天然の岩山を利用した周囲2.5kmの巨大な城跡がある。アレッポ城を中心に古代から発展してきた。今でも街中で馬に乗っている人がいる。
 紀元前18世紀頃にはシリアの北部を支配していた古代国家ヤムハド王国の都だった。町の中心はアレッポ城。城が建つ丘には紀元前10世紀頃、トルコからシリア北部を支配していたネオヒッタイト人が神殿を建てた。紀元前4世紀の終わり頃、この町を支配したセレウコス朝が神殿を要塞に作り変えた。その後支配者はローマ帝国、ビザンチン帝国、7世紀にはイスラム帝国の支配下になる。現在の城を作ったのは12世紀に起こったイスラム帝国のアイユール朝。十字軍の攻撃に備えるためだった。難攻不落と言われ、堀は深さ20m、1本の橋を渡らないと城の中に入れなかった。城門の中の廊下は敵の侵入を防ぐために折れ曲がり、天井の穴から湯を落とした。城門の最上部にある「謁見の間」は、16世紀にアレッポを支配したオスマン帝国の内装をそのまま再現している。天井はアラベスク模様。アラベスクはフランス語でアラビア風という意味。城内には王族や兵士が暮らした住居跡がある。アレッポ城は十字軍は防いだが、その後モンゴルやチムール軍の攻撃に大きな被害を受けた。
 階段の道の中央の窪んだ部分は排水溝。井戸がなかったので、雨は地下の貯水槽に貯められた。王族のための浴場、壁の2本の配管は水と湯を別々にひくためのもの。
 城内にはモスクも建てられた。高くそびえる塔ミナレットからは今でも礼拝を告げる声アザールが流れる。旧市街にもドームを持ったモスクがいたる所にある。毎週金曜日、イスラム教の安息日の昼に行なわれる合同礼拝は最も大切。イスラムとはアラビア語で「絶対的な帰依」という意味。イスラム教徒は神の意志、命令に絶対に従わないといけない。一列になって礼拝するのは、アッラーの前では皆平等だということを表す。
 アレッポの旧市街にはスーク(市場)が迷路のように広がる。紀元前2世紀頃から交易都市として栄えてきた。市場にはらくだを連ねたキャラバンが砂漠を越えて運んでくる珍しいもので溢れていた。雑貨屋の棚に並んでいるのは、アレッポの特産品の石鹸。シリア北部は石鹸発祥の地で、3000年以上も前のこと。郊外には昔ながらの製造方法で作る石鹸工場がある。原料はオリーブの実から取れるオリーブオイル。一番絞りのエクストラ・バージンオイルは食用として使われ、絞りかすをさらに絞ったオイルが石鹸の原料になる。2昼夜にわたって加熱した後、床に流し込み、冷やして固める。石鹸は気温が低くならないと固まらないので、冬場に行なわれる。切断機で小さくカットされ、印をつける。その後2、3年かけて乾燥させた後、表面が酸化されて茶色になってきた頃、ようやく出荷される。肌にやさしく、日本にまで輸出されている。


テレビ番組「世界遺産新たなる旅へ イエメン共和国シバームの旧城壁都市」

 2007年7月28日放送。アラビア半島の先端にあるイエメン。アラビア半島にはワジという名前が多くある。ワジとはアラビア語で、かつて川が流れていた処をさす言葉。イエメンにあるハダラマウトの谷はアラビア半島最大のワジです。そこに忽然と現れる摩天楼。これがシバームの旧城壁都市。

●シバーム
 東西500m、南北400mの狭い街に500棟近くの高層建築が建ち、約5000人が暮らす。紀元前1世紀頃から古代南アラビア王国の町の一つだった。シバームは16世紀頃まで乳香の取引で賑わっていた。乳香とは、この地帯に自生する木の樹液を固めたもの。ガムのように弾力性を持ち、燃やすと甘い香がする。古代エジプトやローマ帝国の儀式に乳香は欠かせなかったために、金と同様の値打ちで取引されていた。
 街の中心にあるアル・ラシッド広場には、904に建てられたシバームで最も古いモスクがある。ここにイスラム教が伝わったのは、7世紀半ば。以来街の人々はイスラム教を信仰している。
 1539年、大洪水で街が壊滅状態になると、街の周りに高さ6mの壁が作られた。シバームに高層建築が多いのも、洪水に備えているため。高いと敵の攻撃から身を守ることができるし、陰ができるので、暑さをしのぐことができた。シバームの建物は日干し煉瓦で造られている。原料はこの一帯で採れる土と麦わら。木枠を使って同じ大きさにし、2−3日天日で干して完成。これを積み重ねて高層建築を作っている。
 街で最も高い建物は8階建。この5階建の建物には3世代の家族が住んでいる。一族は同じ屋根の下で暮らしている。他の建物も同じ構造が多い。1階は家畜部屋。2階は居間。建物の白く見える部分は漆喰が塗られている。漆喰は日干しレンガを補強している。漆喰には防水効果を高めるために、牛?の油が混ぜられている。3階は客で賑わっている。紅茶やコーヒーや水パイプでもてなす。
 街で結婚式に出会った。新郎の一族が新婦の家に向かった。式はイスラム教の聖職者が執り行う。結婚の相手は親同士が決め、新婦は式に出席しない。婚姻届にサインすると、3日3晩に渡って披露宴が行なわれる。


テレビ番組「世界遺産新たなる旅へ エルサレム」

 2007年7月21日放送。

●エルサレム
 嘆きの壁はユダヤの神殿の跡。神の子イエスが処刑されたと伝えられるゴルゴダの丘に建つ聖墳墓教会。イスラム教の開祖ムハンマドがここから神の元へ旅したという岩のドーム。3つの宗教の聖地エルサレム。
 まわりに深い谷を持つ丘の上の都市。都市が作られたのは紀元前18世紀頃と考えられている。紀元前11世紀頃ダビデ王に率いられたユダヤ人によって制服された。ダビデ王は古代イスラエルを建国した。その宗教がユダヤ教。ユダヤ教は紀元前20世紀頃の預言者アブラハムから始まる。現在嘆きの壁として知られる壁はユダヤの神殿の西壁の一部。神殿にはアブラハムの血をひく預言者モーゼが授かった神の言葉を記した石版と、それを納めた箱「契約の櫃」が置かれていた。それに接した教会シナゴーグ。男子13歳の成人式バルミツバーが行なわれていた。神の言葉を暗誦し、神との契約を誓う。
 ダビデ王の時代から1000年後の1世紀に、古代イスラエルはローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人は世界各地へと離散した。

 紀元1世紀一人のユダヤ人が新たな教えを広めようとした。イエス・キリストでした。ゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会。4世紀、重要な聖地に建てられた教会です。イエスの墓。イエスの遺体を寝かせたという石の板が置かれている。処刑されたとされる場所は今は殉教聖堂の祭壇となっている。イエスは神の愛は罪人を含めて全ての人に及ぶと説いた。しかし、厳格なユダヤの法に背くものだとイエスは十字架に架けられた。
 ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)はイエスが十字架を担ぎ、ゴルゴダの丘へと歩いたという道。エッケホモ修道院の地下には当時の道が残されている。石畳に刻まれた轍の跡は、この町の歴史の長さを感じさせる。

 ローマ人に続いて新たな支配者となったのはイスラム教徒だった。7世紀末に完成した岩のドーム。現存する最古のイスラム建築。聖なる石が祀られている。開祖ムハンマドがこの岩から光の梯子を登り、唯一の神アッラーのもとを訪れたと伝えられている。岩の下は「魂の井戸」と呼ばれるイスラム教徒の祈りの場。聖なる岩を巡礼する人のために、8世紀に建てられたアル・アクサー・モスク(銀のモスク)。人々は礼拝の前に手足を清め、モスクに向かう。約3000人が一度に祈ることができる。
 イスラム教徒がハラム・アッシャリーフ(高貴な聖域)と呼ぶ丘。この丘がかつてユダヤの神殿が建っていたところと同じ場所なのです。


テレビ番組「世界遺産新たなる旅へ シリア・アラブ共和国・古代都市ボスラ」

 2007年7月14日放送。

●ボスカ
 首都ダマスカスから140km南。ヨルダン国境近くにあるハウラン平原。ハウラン平原は古代メソポタミアの時代からオリーブや小麦の産地として知られていた。その平原にある都市ボスカは、現在5万人が暮らす。2000年前ローマ帝国の都の一つで、当時の人口は8万人で、貿易の中継都市だった。ローマ時代の古代都市の姿を旧市街に残し、ここには2000人が暮らす。旧市街の中には幼稚園や学校もある。
 ボスラは紀元前2世紀頃、砂漠の遊牧民だったナバタイ人が作った。ヨルダンにあるペトラを南の都、ボスラを北の都として定住した。馬やラクダを使って交易して富を蓄えた。ナバタイ門はその名残?
 2世紀にローマに支配された。ローマ人が作った巨大な街の入口「風の門」もある。ローマ人はここを都の一つとして発展していった。遺跡の多くは黒い玄武岩で作られていたため、黒い町とも呼ばれた。ローマ浴場・食料倉庫も残っている。要塞と呼ばれている建物が異様に建っている。中には半円形の劇場がある。2世紀に建てられ、1.5万人を収容できる。今でも当時の姿を完全に残している。音響効果もそのまま。観客席の最上階には柱がめぐらされているが、これはボスカ独特のもの。4世紀に建てられたキリスト教のパヒーラ教会。イスラム教の開祖モハンマドがここで、「あなたは将来預言者になる」と告げられたという。
 800年後、イスラム王朝に支配される。720年頃に建てられたウマール・モスクはイスラム所期のモスク。今も礼拝の時間になると旧市街の住民が集まり、礼拝をする。
 8世紀以降は聖地メッカに向かう人々の宿場町としても発達した。浴場や宿坊が多く作られた。洗い場に水と湯が別々に流れる給水管が設けられている。
 円形劇場はイスラム教徒により高い壁の要塞へと作り変えられた。十字軍遠征が始まったため。ここは2度に渡り十字軍に攻撃されたが攻め落とされることはなかった。その後は食料倉庫として使われた。
 シリア独立後の1947年、ようやく円形劇場の修復作業が開始された。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 エルサレム」

 2006年9月23日放送。伊藤雄彦アナが案内。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の34億人の聖地。キリスト教が信じる奇蹟の街。エルサレムは8000年〜9000年の歴史がある。旧市街は1km四方の城壁に囲まれた古い都。220の歴史的建造物と城壁が世界遺産。エルサレムはイスラエルにあるが、これは世界的には認められていない。

●歴史
 エルサレムの周辺は水が出る、丘の上にあるので外敵から守られていたことから、エルサレムは太古の昔から砂漠の拠点として発展してきた。紀元前1000年頃、遊牧や農業を営んでいたユダヤの民が力をつけ、エルサレムを占領し王国をうちたてた。その宗教がユダヤ教。神はユダヤ教の祖アブラハムに息子を捧げるように命じた。アブラハムは岩の上に息子を横たえ、剣を突き立てようとしたら、天使が現われこれを止めたという。ヤハオエはアブラハムに対し、子々孫々まで唯一の神として信仰することを求め、代わりにパレスチナの地を与えると約束した。ユダヤ人にとって、エルサレムを中心とする地は「約束の地」となった。イエス・キリストはこのユダヤ教の改革者として登場し、ユダヤ教は形式に走りすぎていると批判し、溝が深まり処刑された。
 イエス自身はユダヤ教徒だった。ユダヤ教には、いつか人類を救うために現われるという教えがある。それがイエスだったのだという人達が、ユダヤ教と袂を分かち、キリスト教徒となった。キリスト教では、イエスが人間の罪をあがない、復活を遂げたとしている。

●旧市街
 朝5時、旧市街が見渡せる高台に行く。白い石の町に圧倒される。その1km四方の城壁の中に3つの聖地がある。ユダヤ教の「嘆きの壁」、キリスト教の「聖墳墓教会」、イスラム教の「ハラム・アッシャリフ」。旧市街の人口は2万人。旧市街の人はおおよそ3つのブロックに別れて生活している。北端に岩のドームがあり、北西がイスラム教徒、北東がユダヤ教徒、南がキリスト教徒。

 まずダマスカス門から入り、「ハラム・アッシャリフ」に行く。ここには、岩のドーム、アル・アクサ・モスクがある。午前11時にダマスカス門にイスラムの集団礼拝に行く人々が集まる。ダマスカス門は8つある門の中で最も古く、紀元前に建てられ、その後16世紀オスマン帝国の時代に今の形に再建された。イスラムの聖地に続く道は、紀元前から続く市場。「ハラム・アッシャリフ」に入る門からは、金曜日には入れない。集団礼拝の日だからで、他の日の朝やお昼なら入れる。岩のドームには女性が、アル・アクサ・モスクには男性が入って、正午から集団礼拝が行なわれた。モスクに入れなかった人は建物の外で、メッカの方角に向かい礼拝をする。

 「聖墳墓教会」に至る「悲しみの道」はイスラム教徒の居住区を縫うように通っている。午後4時、十字架を担いだキリスト教の巡礼団が歩く。道沿いにはイエスゆかりの場所が9箇所設けられている。巡礼はイエスの体験を追体験するもの。「聖墳墓教会」は1700年前に建てられ、増改築を繰り返してきた。処刑されたゴルゴダの丘、遺体を寝かせた石、イエスの墓の3ヶ所を全て覆うように教会が建てられ、それぞれが礼拝所となっている。
 教会に入ると香の香りがする。厳粛な感じが伝わってくる。天井のドームにはイエスの絵がある。正面の入口を入ると四角の平たい板がある。目の前には遺体を横たえたという絵がある。この板の上にイエスの遺体は横たえられたという。十字架から降ろされた遺体は、当時の慣習に従い、法衣をぬって清められ布に巻かれた。磨り減った石段を登りきったところがゴルゴダの丘。絵がある場所が十字架に打ち付けられた場所で、隣が十字架が立てられた場所。巡礼の最後はイエスの墓とされる場所、聖墳墓。今では聖堂が立っているが、かつては岩に穴を掘っただけの場所だった。聖堂の中に遺体が安置された母室がある。今回、特別に内部の撮影が許された。小さな礼拝堂があり、その奥に小さな墓穴がある。イエスの遺体はこの上に安置されたという。

 夕方6時、岩のドームの真下にある「嘆きの壁」でユダヤ教の祈りが始まる。黒装束に長く伸ばしたもみあげは敬虔な信者の姿。ユダヤ教では祈りの場で、頭を露出することを禁じているので、ヒッパという白い帽子をかぶり、聖地に足を踏み入れる。ユダヤ人は厳しい戒律を守り、神への献身を喜びとしている。嘆きの壁は2000年前にあった神殿の土台の一部が残り、祈りの場となったもの。ユダヤ教では、金曜日の日没から安息日に入る。その直前、多くの人々が嘆きの壁の前に集まる。一部は輪になって歌を謳っている。

●聖墳墓教会
 司祭の春山勝美さんに話を聞いた。10年前にここに来られた。案内してもらったのは、聖墳墓の2階部分。ここは普通は公開していない。春山さんは、この教会は正しくは「キリスト復活聖堂」と言った方がいいという。一言で言えば、今もキリストが生きているということだという。

●嘆きの壁
 壁の前で成人式が始まった。ユダヤ教では男性は13歳、女性は12歳で成人式を迎え、礼拝に正式に参加できる。礼拝では、頭にテフィリンという黒い小箱を縛り付け、さらに心臓に近い左腕にも巻きつける。箱には神聖な文書が入っていて、神に仕えることを忘れないため。ユダヤ教の聖典「律法」は、旧約聖書とほぼ内容は重なる。ユダヤ教徒は律法に書かれている600以上の戒律を守って生活している。紀元前に、ユダヤ人は嘆きの壁の場所に神ヤハオエを祭る神殿を作っていた。しかし1世紀、ローマ帝国に神殿を破壊され、ユダヤ人は散り散りとなった。国を持たないユダヤ人は各地で迫害を受けた。嘆きの壁の嘆きとは神殿崩壊の嘆き。2000年近い苦難の末にイスラエルを建国、約束の地に帰ってきた。
 嘆きの壁に沿って、嘆きの壁の続きが掘り出されている。新しく発掘された壁でも熱心なユダヤ教徒が祈りを捧げている。考古学者のダン・バハトさんが発掘中の場所を見せてくれた。そこには14世紀にイスラム教徒が作ったものがあった。神殿の壁のところにアーチ状の柱を作り、その上にイスラム神学校を作ったという。ユダヤの聖地はイスラムにとっても神聖な場所になった。さらに奥には、1世紀時代の神殿の壁や土がでてきている。イエスはこれを見たのだとバハトさんは語る。ユダヤの人々は神殿は必ず再建されると2000年の間、信じてきている。1世紀の神殿の姿の模型もある。神殿は1世紀のものとしては世界最大級のもの。現在の嘆きの壁は西側の壁の9分の1に相当し、長さは元は500mあった。

●ハラム・アッシャリフ
 かつてのユダヤの神殿のあった場所は、イスラムの聖地になっている。アル・アクサ・モスク博物館運営委員のファーミ・アンサリさんが案内してくれた。アンサリさんはイスラムの開祖ムハンマドの直弟子の末裔です。イスラムはムハンマドの弟子たちにより領土を拡大し、638年エルサレムを占領した。ヤハオエとアッラーは同一である。
 岩のドームは最も神聖だとする一つの岩を守るために建てられた。畳160畳ほどの岩には、神から教えを授かる預言者についての逸話が伝えられている。ムハンマドは天使に連れられて、メッカから馬に乗ってこの石のところに飛んで来て、そして神から教えを授かり、メッカに戻った。ユダヤ教では、この岩がアブラハムが息子を神に捧げようとした場所だという。岩の下にはさらに神聖な場所がある。ここはかつて、預言者たちが祈りを捧げた場所。ムハンマドが頭をつけた場所、天に昇った場所がある。
 7世紀、イスラムがこの地に来た時、ユダヤの神殿は破壊されたままだった。人々はこの岩を掘り起こし、美しい神殿を建てた。岩のドームは現存する最も古いイスラム建築。その後修築が重ねられ、現在の姿になった。細かいモザイクやアラベスク、、世界で最も美しいイスラム建築だと称えられる。

 過去紛争が多く起こった。1990年10月にはハラム・アッシャリフで19人が死んだ。聖墳墓教会にも争いの痕跡として、十字軍が残した十字架が残されている。1099年イスラムのセルジューク朝からエルサレムを奪還した。2日間で4万人の人々を殺したという。「アギュイーユのレイモンの記録」には凄惨な場面が描かれている。アンサリさんの親族は340人も十字軍にこのモスクで殺されたという。

 現在、旧市街の背後に奇妙な建造物が見える。高さ8mのコンクリート製の壁。イスラエルがテロを防ぐために建設した分離壁。繰り返された紛争の原因はエルサレムの帰属問題があった。1948年イスラエル建国、中東紛争が勃発した。土地を追われたアラブ人はパレスチナ人として現在までも繰り返されている。両者の領土は確定していない。ガザ地区とヨルダン地区にはパレスチナ暫定政府が設立されたが、独立は認められていない。今年に入りイスラム過激派組織ハマスが自治政府の与党となった。


テレビ番組「世界遺産 イランのタフテ・ソレイマーン」

 2006年9月17日放送。イラン北西部のイラン高原。冬には雪が積もるが、凍らない湖がある。人々は神を感じ、ゾロアスター教の聖地となった。標高2000mを越える高地、2003年世界遺産。

●タフテ・ソレイマーン
 紀元前、オリエント世界に君臨したペルシアの都ペルセポリスは栄華の象徴だった。人々が信じたのはゾロアスター教で、翼を持つ神が最高神アフラ・マズダー Ahura Mazda だった。ゾロアスターは古代の教えを体系的にまとめた。この地に暮らした遊牧民にとって、火や水や風や大地は神の力の現われであり、清らかに神聖なものだった。
 湖のほとりに多くは1500年前の神殿「拝火神殿」の遺跡が残る。サンサーン朝ペルシアには3つの火があったという。消えることがないその火にペルシャの王も巡礼に訪れた。かつては大きなドームがかかっていたと思われる。隣は水の女神アナーヒターの神殿で、ドームがなかった。近くにそびえる聖なる火山ゼンダーネ・ソレイマーン。噴火口が祈りの場であった。
 ここ50年の発掘で、タフテ・ソレイマーンのその後が明らかとなった。色鮮やかな装飾タイルなどが出ている。7世紀にペルシァ帝国は滅亡し、イスラームの時代となり、この聖地は忘れさられ、13世紀にモンゴル帝国により、この地に宮殿が建てられた。その後廃墟となり、ソロモンの玉座と呼ばれるようになった。

●ヤズド Yazd
 イラン中部の砂漠の町。ゾロアスターの信仰を密かに守っている。世界中に20万人の信者がいて、ほとんどがインドに住む。集団礼拝が始まった。右手の人差し指だけを上に向けるのは、指導者に従う証。2本立てるのは仲間との絆の証。そろって手の平を上に向け、自然のエネルギーを体に向ける。  この地で500年以上前から守り続けられてきた聖なる火。ゾロアスター教の人々は死を迎えると、町外れの郊外の丘の上に死体を運んだ。はげたかについばまれ、風雪と日光にさらされる。火葬にしないのは神聖な火や土を汚さないため、疫病の発生などを防ぐ智恵でもあった。現在はそういう「ちょう葬」は禁じられ、土葬となった。

●アブヤーネ Abyane
 山間の小さな村。イランの人々の生活の中に、ゾロアスター教のなごりが見える。イスラム教最大の祭り「アーシュラーの祭」の日でも、男たちは自らをムチで打ち、殉教者の痛みを分かち合い、神輿が出る。お供えを配る人は、その年に家族に不幸のあった人。彼らは街角で火を焚いているが、死者の魂を清め、天へと運んでもらうため。これはイスラーム本来の風習ではない。神輿は山の麓に運ばれる。そこははるか昔からこの村の聖地とされていた場所。そこは岩山に湧き出る小さな泉だった。

http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20060917/access.html


テレビ番組「NHKスペシャル・千年の帝国ビザンチン」

 2006年6月2日放送。

●イスタンブール
 かつてはコンスタンチノーブルと言われたキリスト教のビザンチン帝国。アヤ・ソフィア(聖ソフィア大聖堂)は1500年前に建てられたキリスト教の大聖堂。皇帝の命によりのべ50万人以上が動員されたという。当時はここが世界のキリスト教の中心だった。その後帝国はイスラム勢力に攻め滅ぼされ、聖堂はモスクに変わった。宮殿を始め、都の多くは破壊され帝国の記憶は遠ざかっていった。
 ビザンチンの名が再び注目された。2004年トルコのEU加盟交渉が始まった。フランスのシラク大統領はトルコもヨーロッパもビザンチン帝国の子孫だと語った。ヨーロッパの各国はビザンチンの遺跡の発掘に資金を提供している。イスタンブール考古学博物館のアスマン・デンキャル研究員が地下の宮殿の遺跡を紹介してくれた。金細工などに進んだ技術が見られる。帝国は1000年も生き長らえた。
 アヤ・ソフィアはつくば大の日高健一郎教授がレーザーでドームの詳細を測定している。地上50m、直径31mの巨大なドーム。当時としては相当進んだ技術である。先生は柱がドームを支えているという。ドームの下の窓は強度を低下させているが、入る光によって天から鎖で吊り下げられているように感じられたるという。皇帝は神の代理人を名乗った。

●エジプト
 シナイ半島の砂漠の中にビザンチン時代の6世紀に建設された現存する世界最古の修道院「聖エカテリニ修道院」がある。ベドウィンと呼ばれる砂漠の遊牧民がいる。砂漠のあちこちにキリスト教徒が住んでいた集落の跡がある。シナイ山はモーゼが神から十戒を授かったというキリスト教の聖地。「聖エカテリニ修道院」はその麓にある。まるで城塞のような分厚い壁に囲まれている。主聖堂の中の正面には金の飾りを施された聖障(せいしょう)がある。シナイ山に立つモーゼの姿がある。モーゼはこの敷地の中で神のお告げを聞き、シナイ山に登ったと伝えられる。午前4時、聖体礼儀が主聖堂で始まった。キリストの血と体として聖なるパンとワインを拝領する。1500年間毎日欠かさず行なわれてきたビザンチン伝来の儀式。儀式を代行する第123代修道院長ダミアノス大主教、あと20人の修道士。ほとんどがギリシャ人です。3時間に及ぶ儀式は朝日が出るとクライマックスとなる。金色のキリストのモザイクは朝日を受けて輝く。最後の晩餐のイエスの言葉「取りて食らえ、わが体。」が唱えられるとパンは体に、ワインは血に変化すると言われている。大主教によりパンをつけたワインが修道士や出席者の口に入れられる。
 ビザンチン帝国の旗である「双頭の鷲の旗」がひるがえる時がある。4世紀末に古代ローマは東西に分裂し、西はまもなく滅びたが、東ローマ帝国は1000年の長きに渡って続いた。東ローマ帝国は首都ビザンチウムにちなんでビザンチン帝国と言われた。キリスト教は正教として西のカトリックとは別に発展していった。聖エカテリニ修道院は正教の聖地として、その正教の伝統を厳格に伝えてきた。修道院の中で働くベドウィンの人でイスラムの祈りをしている人もいた。頭蓋骨がある部屋がある。ここに1500年間の修道士の遺骨がある。3000冊の蔵書もあるが、バチカンに続く規模だと言われている。
 7世紀にアラビア半島にイスラム国家ウマイヤ朝が誕生し、砂漠の民を一つに束ね、巨大な宗教国家となり、ビザンチン帝国を侵略していった。聖エカテリニ修道院周辺は一番に攻撃された。その防衛のために分厚い壁ができた。上の方の小さな櫓を出入り口にしていた。ここに滑車を置いてものを運んでいた。時にはイスラムに何百人も殺害されたという。修道院はイスラムとの共存を選んだ。建物の中に「アッラーの偉大さは極まれり」と書かれているところがある。敷地の中にイスラムのモスクを作った。修道士はイスラムのメッカに向かう人を泊めたという。

 ビザンチン帝国はアヤ・ソフィアにイスラムの国使を招いて懐柔しようとした。

●イタリアのラベンナ
 ビザンチン文化を代表する技術「モザイク」が伝えられているのは、学校。しっくいの上に精密な下絵を描き、その上に色ガラスを埋め込んでいく。古代ローマでは石だったが、ビザンチンでは色ガラスだった。色ガラスを割って、割った面を使用する。光を反射して輝くから。国立モザイク学校のッフェリーチェ・ニットロさんは、ビザンチンの人はモザイクを「永遠の絵画」と考えていたという。6世紀に建てられたサン・ヴィターレ教会には、世界で最も美しいと言われるモザイクが残されている。帝都ビザンチンから来た職人が作成した。天井の中心にはキリストを象徴する子羊。そのまわりの絵画は日の光によって輝き、今も失われていない。祭壇には天上の楽園が描かれている。ビザンチン帝国の最盛期を築いた皇帝ユスティニアヌスも巧みに陰影をつけて描かれている。皇妃テオドラと従者達のモザイクのところどころには真珠母貝があしらわれている。

●シリア
 首都ダマスカスにはウマイヤ朝の都があった。その中心に建つウマイヤ・モスクは現存する世界最古にして最大級。ここにモザイクがあるが、ラベンナのモザイクと同じ。シリア考古学会会長のムハンマド・クッチ教授は、ビザンチンとウマイヤ朝の間には戦争があったが、職人が招かれたのだという。8世紀にビザンチンの女帝エイレーネがイスラムのハールーンと高価な贈り物を交換しあい、和平を結んだ。

●エジプト
 ダミアノス大主教は自ら車を運転して周囲の村を訪れる。薬剤師の資格を持つので、ベドウィンたちから信頼を勝ち得ている。
 修道院が大切にしてきた文書がある。ムハンマドがこの修道院を訪れた際に、修道士たちの歓待を受け、盟約書を残した。キリスト教徒を守り、彼らの安全と財産を保証せよと書かれている。
 11世紀にこの修道院に十字軍が立ち寄った。壁には今も十字軍が彫ったエンブレムが残っている。彼らは聖地に平和をもたらすと言っていたが、破壊と混乱をもたらしたのは十字軍自身だった。次第に目的が領土の獲得になった。1204年に十字軍は矛先をビザンチン帝国に向け、コンスタンチノーブルに攻め入った。多くの人が殺され、宝物が盗まれた。これ以降、帝国は滅亡に向かう。

●イタリア・ベネチア
 十字軍のコンスタンチノーブル攻略に多大な役割を果たしたのはベネチアだった。サン・マルコ寺院には黄金のモザイクがある。11世紀にビザンチンの職人を招いて制作が始まった。ベネチアはかつてはビザンチンの属国だったが、交易により11世紀にはイタリア一の海洋国家となっていた。このモザイクも最後はベネチア人により完成した。サンマルコ寺院の宝物室はビザンチンの美術品の最大の宝庫といわれている。10世紀頃に描かれた聖ミカエルは幅1mmの金の装飾。天使の羽根はしっぽう焼きでできている。「メノウのせいかい」は赤く輝き、キリストの血を想像させたという。4頭の馬の像もある。

 1453年ビザンチン帝国はオスマン帝国の侵略によって滅亡した。

●キプロス島
 世界遺産のランパディスティス修道院は11世紀ビザンチン帝国によって建てられたが、聖人たちの目は全てかき消されている。オスマン帝国に占領された時の傷跡だという。1974年、イスラムを信仰するトルコ系住民とギリシャ正教を信じるギリシャ系住民との間に内戦が勃発した。今、北キプロスはトルコ系、南はギリシャ系で分裂したまま。

●エジプト
 ダミアノス大主教は各国の首脳に次のように語っている。「互いの信仰を尊重しあえば、共に暮らしても何の問題もない」と。


テレビ番組「世界遺産 エルサレム旧市街とその城壁」

 2006年2月19日、26日放送。旧約聖書でイスラエルの民がたどりついたのはカナンという地。その中心に築かれた都エルサレムは人類史で最も重要な場所となった。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がここを聖地とした。イエス・キリストの墓、アル・アクサー・モスクなどがある。

 城壁に囲まれたエルサレム旧市街。城門から一歩入るとバザールがあり、至るところにある祈りの声。3つの宗教が入り組み、信仰の熱気に溢れている。ソロモンの神殿のそびえた丘はユダヤの民にとって地上で最も神聖な場所だが、今ではイスラムの丸屋根が輝く。ここはイスラムにとってもムハンマドにまつわる聖地。
 岩のドームは純金で687年に創建された、現存するイスラムの最古の建物。聖なる岩を守るために建てられたという。イスラムの教えでは、天馬にまたがりメッカからやってきたムハンマドは、この岩から光の梯子を登って昇天したという。さらにこの岩では旧約聖書でアブラハムがわが子をいけにえにしようとした場所とされ、古代イスラエルの時代にはソロモン王の大神殿が建っていた。聖なる岩のもとには「魂の井戸」とよばれる洞穴がある。「最後の審判」の日まで死者の魂はこの穴に祈りのために集まるのだとイスラームの人は語りついできた。
 旧市街の城壁の中は現在4つの地区に分かれている。3つの宗教の人が住む地区とアルメニア人地区。4世紀初頭初めてキリスト教を国の宗教として受け入れたアルメニア。キリスト教の中でも独自の信仰を貫いてきた。聖ヤコブ大聖堂の晩課。
 キリスト教徒地区の中心は、聖墳墓、イエス・キリストの墓がある。紀元前1000年にここを都としたのは、古代イスラエルの王ダビデ。ダビデ王の墓はユダヤ教の最も古い礼拝所の一つ。モーゼの十戒にさかのぼるユダヤ教の教えは、トーラーというモーゼ五書を納める容器に入っている。これら宗教は不毛の砂漠で発生した。モーゼの子孫は神に約束されたカナンの地、パレスチナに定住し、ダビデ王の時代にエルサレムを占領する。そこは湧き水に恵まれた場所だった。3000年もの昔、現在の城壁の南にダビデの町が築かれた。ダビデに続くソロモン王の時代に王朝は絶頂を極めた。神殿にはモーゼの十戒が納められた。王国の栄華は長く続かなかった。幾度もの政変で改築を繰り返した神殿は、西暦70年、ローマ帝国の軍勢により破壊された。かつての神殿の土台にあたる石壁は「嘆きの壁」と呼ばれる。国も神殿も失いエルサレムを追われた人々はモーゼの教えを守って生きてきた。それがユダヤ教、ユダヤ人の始まりだった。
 ユダヤの人々にとって、祖国の栄光につながる「嘆きの壁」は希望の証しであり、心の支えでもあった。
 7世紀イスラム教の軍勢により征服されたエルサレムは3つの宗教が対立する。その始めが十字軍で、11〜13世紀、聖地奪回に燃えたキリスト教徒がヨーロッパから大挙して押し寄せた。つかの間、キリスト教徒により制圧されたが、熱が冷めるとイスラム勢力の手に落ちた。しかし、聖地を巡る対立と抗争に終わりはなかった。20世紀に争いが起こった。
 パレスチナに移住したユダヤ人がイスラエル独立を宣言した直後の1948年中東戦争勃発。反発するアラブ諸国とは争いが今も続いている。エルサレムの郊外に分離壁が作られている。紛争解決の難しさを物語るように壁がエルサレムの回りを囲む。
 「聖地は誰のものか?」パレスチナ自治政府とイスラエルがエルサレムを首都であると主張している。住み慣れた町に暮らしながら、人々は帰属する国が定まらない。イスラエルによる占領が続く中で、毎週金曜日の集団礼拝の時はイスラム教徒が神殿アル・アクサー・モスクの丘を埋め尽くす。アラーへの礼拝がこだまする中で、ユダヤ教徒は嘆きの壁で礼拝する。
 国家の枠を越えた新たな共存の道が求められている。1981年ヨルダンの申請により世界遺産に登録されたエルサレムの旧市街。

 マリア永眠教会もある。

●ベツレヘム
 エルサレムの南10km。ここでイエス・キリストは生まれた。聖誕教会の奥深く祭壇の真下にある洞窟がその舞台だった。

 エルサレムにイエスが入場したのは紀元30年頃。ユダヤ教徒だったイエスはユダヤ教の原点に戻ることを求めて各地で布教活動をしていた。数々の奇跡を起こす彼の下には熱狂的な信者が集まった。当時はローマ帝国の支配の下、巨大都市としてエルサレムは繁栄していたが、疫病や貧困で多くの人は苦しんでいた。そういう都でただ戒律を説くだけのユダヤ僧侶に、イエスは同じユダヤ教徒として我慢できず行動を起こす。今イスラームのモスクのある場所にはかつてはユダヤ教の大神殿があった。そこで社会の貧困層を省みない指導者を批判し、貧しき者にも救いがあるべきことを説いた。神殿と谷をはさんで向かい合うオリーブ山、その麓のゲッセマネにもイエスゆかりの場所が残っている。「万国民の教会」は苦悶のバシリカとも呼ばれる。十字架の前夜、イエスが祈りを捧げた場所に建てられたもの。「私は死ぬばかりに悲しい」と言い、地面にひれふし、苦しみの時が過ぎ去るようにと祈った。祭壇の前にある剥き出しの岩がその場所だった。ユダヤ教に論争を起こしたことにより、支配者ローマ帝国から反乱を企てる者として十字架にかけられた。

 イタリア・ミラノにあるレオナルド・ダ・ヴィンチ作の最後の晩餐。その舞台となった家はエルサレム旧市街の南、なだらかな丘の上にあったとされる。今残りその部屋は、12世紀に十字軍がエルサレムを制圧した際に復元したもの。
 エルサレムに来て1週間、ユダヤ教最大の祭「過ぎこし祭」の晩餐の日に、イエスは最後を知る。ゲッセマネの園に向かい、苦悶の祈りを続けるうちに、ユダに導かれた群集により捕らえられた。
 オリーブ山の麓から大祭祀の屋敷へ、次いでローマ総督の下へ連れられ、反乱を起こす者として死刑を言い渡された。ゴルゴダの丘に続く2000年前と同じ石段がある。ビア・ドロローサ Via Dolorosa 悲しみの道。十字架を背負わされたイエスは刑場のあるゴルゴダの丘に向かったという。悲しみの道に世界中から巡礼者が訪れ、足跡をたどりながら受難を追体験をする。「鞭打ちの教会」は裁きを終えたイエスがいばらの冠をかぶせられ、鞭打たれたという場所に建っている。巡礼たちはしばしば足を止め、修道士の声に耳と傾ける。ある場所は十字架の重みに耐えかね倒れた場所がある。沿道の群集の中に一人声をあげて嘆き悲しむ母マリアを見たという場所もある。十字架を背負う力もなく手をついたという石壁には巡礼者がみんな手をあわせる。最後に行きつくのはゴルゴダの丘。
 イエスが行き着いた場所は今では数多くのドームに被われている。聖墳墓教会はゴルゴダの丘をまるごと覆う。この教会は4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により創建された。初めてキリスト教を公認した皇帝で、母が熱心なキリスト教信者だった。母はエルサレムでイエスの足跡を訪ね、ついにゴルゴダの丘ではりつけにあった十字架を発見した。十字架の見つかった場所には今でも小さな祭壇「十字架上の死の祭壇」が残っている。「わが神よ、何故私をお見捨てになったのですか?」大声で叫ぶと息をひきとったイエス。神殿で垂れ幕が真っ二つに裂けるのを見て、人々は「本当にこの人は神の子だった」と言った。
 十字架から降ろされてイエスは同じゴルゴダの丘に葬られた。大きな墓地がイエスの墓「聖墳墓」。聖墳墓はキリスト教の布教に最も重要な役割を示した奇跡の舞台となった。白いあま布をまかれ、平たい石に寝かされたイエスの亡骸は、3日後忽然と墓から消え去り、復活を遂げた。
 深夜1時ギリシャ正教の礼拝が始まる。現在キリスト教の5つの教派が夜通し管理する。次いでアルメニア教会、午前4時からはエジプトのコプト教会が始める。コプト教会は聖墳墓の裏の小さな祭壇で祈る。実際のイエスの墓はそこにあったと彼らは信じている。朝6時からカトリックのミサが始まる。

 3つの宗教は重なり合い、この町に息づいている。


テレビ番組「エジプト・イスラエル、クレオパトラ大作戦」

 2002年8月31日関西で放送。 デヴィ夫人、坂本ちゃん、佐藤江梨子さん。エジプト航空で行った。FBS 福岡放送製作。

●カイロ
 ギザの三大ピラミッド。クフ王のは紀元前2500年のもの。最近は王様 の墓とは思われていないらしい。中に入ってみた。
 宿泊は「ホテル・メナ・ハウス・オベロイ」。
 カイロのハーン・ハリーリ市場。「ミルダケ」「ミタミタ」「かわい〜い 」「バザールデゴザール」「ヤマモトヤマ」「ホントヤスイ」「ワカリマッ カ」「さよなら〜」「ヂンタコスッタラドンタコス」「キミニドキドキ、キ ミニムラムラ」なんていう日本語が飛び交う。デヴィ夫人は香水の店に行っ て「砂漠の秘密」というのを所望したが、あれは妖しくて特別なところに つけてくださいという。逆三角形につけるとか。クレオパトラの香水を所望 した。アルコールが入ってないから蓋を開けたままでも香りが飛ばないらし い。
 シシカバーブを焼いている店、モッホサンドの店に行く。モッホは羊の脳 らしい。
 水タバコの店、ヘナという植物でボディペインティングする。すぐに取る とすぐ取れるが、2−3時間おくと3日くらいもつという。
 古代エジプト人の生活を見られるのがファラオニック・ビレッジに行く。 まぁテーマパークみたいなもので船に乗って移動。
 次は古代の人の恰好で写真を撮ってくれるところ。絵にあった絢爛豪華な コスチュームで台の上に乗ってみた。クレオパトラは牛乳風呂を好んでいた という。フォーシーズンズ・ホテルのスパで体験できる。牛乳とレモン・ス ライスを入れ、バラの花も入れる。パピルス・ラップというのもある。まず はラクダの皮で全身の角質を落とす。ヨーグルトにハチミツ、ペプリン(豆 の粉)、ミント、レモン、塩、ハスの香油を混ぜ全身をスクラブ・マッサー ジ。細かい粉が皮膚のすき間に入ってお肌をきれいにスベスベにする。その 後にパピルスでくるむ。韓国のよもぎ蒸しみたいに下半身を香でスモークし て、最後にローズウォーターを飲む。
 少し高級な店で食事。ラハム・ガマリ(ラクダ肉のガーリック風味焼き) をいただく。堅いらしい。
 次はエジプト料理レストラン「フェルフェラ」(Felfel)。まずエジプトの パンのエイシにタヒーナ(白ごまのペーストにヨーグルトを混ぜたもの)を いただく。モロヘイヤのスープ、コシャリ(エジプト風混ぜごはん)。マハ シ・ワラ・アイナブ(ごはんのブドウの葉包み)はおいしいらしい。ハマー ム・フィルゲン(ハトのごはん詰め)、ハマーム・マシュイ(ハトのスパイ ス焼き)

 高級ガラベイヤショップ「エド・ドゥカン」で買物。ガラベイヤはアラブ の民族衣装。
 ファラオ社のゴールデン・クルーズ船でナイル川を下る。船の中ではベリ ー・ダンスを見るが、デヴィ夫人も参加。スーフィーダンスというグルグル 回る踊りもある。サイド・ラビーアさんにこの踊りを教えてもらった。目は 回らないそうです。
 クレオパトラは宴会の最中にお酒に真珠を入れて飲んだとか。

●シャルム・エル・シェイク
 紅海のリゾート地。飛行機で1時間。水の透明度がすごい。目的はベドウ ィン族の美の秘薬を求めて行ったら、山があった。ここから先はバギーでは 行けない。山を登り、ラクダに乗って、ベドウィン族の衣装に着替えた。紅 茶とパンでおもてなししてもらい、秘薬をもらった。

●イスラエル
 カイロから陸路で10時間でエルサレム。イスラエルは装飾ダイヤの製造 では世界の80%。エルサレムの郊外のイスラエル・ダイヤモンド・ストッ ク・センター Caprice を訪問。16596USドルのが一番高い。研磨加 工を見学。
 東へ車で1時間、海抜マイナス400mにある死海。塩分は海の10倍で 魚が住めない。ここは命の海、若返りの海。温水らしい。水を口に入れては いけないし、顔をつけてもいけないそうです。クレオパトラはここの泥を肌 に塗っていたそうです。
 死海のエンボケックにあるリゾート・ホテル「ニルヴァーナ」のニルヴァ ーナ・スパで死海のエステ。死海のミネラル・ソルトを使ったボディ・ピー リング。泥には28種類のミネラルが入っているそうです。死海の泥のフェ イシャルトリートメントも受けた。
 AHAVA (ヘブライ語で愛の意味)という化粧品が売れている。その死海工 場を訪問。特別なところでしか泥が取れないらしい。その泥を取りにいった が砂が相当熱いらしい。

●アレキサンドリア
 アレキサンドリアの海の中に遺跡が見つかっている。1600年前に大地 震で陥没したクレオパトラの宮殿だったらしい。
 カイト・ベイ要塞、浜辺、アレキサンドリア図書館に行く。浜辺ではおへ そを出した服装で歩いたら、男が群がってきた。女性は肌はあまり出さない かららしい。デヴィ夫人は本を2冊寄贈しました。
 コム・エル・シュカファのカタコンベ(キリスト教共同墓地)に行く。 ローマ円形劇場にアントニーのシーザーの恰好をした人を連れてきた。
 グレコ・ローマン博物館には起源前7世紀から紀元前3世紀までのものが 展示されている。クレオパトラの顔の小さい像もありました。細い顔ですが ちょっと男性顔かな?


テレビ番組「大使の国のたからもの」2000年8月+9月はイラン

テレビ番組「大使の国のたからもの」8月20日、27日、9月3日はイラン


●エスファハーン
 1501年、戦乱の国とまとめ、ペルシア帝国を再建したのはサファヴィー王朝。その黄金期はエスファハーンにアッバース大帝が夢見た楽園を築いた。標高1500mに位置するイランの古都。イランで3番目の都市。
 紀元前6世紀が紀元のシルクロードの街。9−10世紀に交易の都市として発展。アッバース大帝(1588-1629)はルネッサンス後のヨーロッパと関係をもった。第5代の王アッバース1世。
 その象徴のエマーム広場。ヨーロッパの人々にエスファハーンは世界の半分と言わせた。広場の西にあるアリー・カプー宮殿は、王室の迎賓館でもあった。最上階の陶磁器の部屋は音響効果を高める工夫が施してある。大きく張り出したバルコニーには1本の木を1本の柱に使ったものが数本ある。
 この広場には夕方に貴族達はポロ Polo というスポーツを観戦した。王宮はポロの観戦する場でもあった。

 エマーム・モスクはペルシア建築の最高傑作と言われる。正面入り口にイーマーンと言われるアーチと2本のミナレットがそびえる。目を見張るイーマーンの天井群。鍾乳石飾りと言われる。大量生産できるタイル装飾で覆われている。それで工業が発達したらしい。アクトランディという方法で多用している。1612年に着工され完成に18年かかった。アッバース1世は完成直前に亡くなった。
 シェイフ・ロトフォッラー・モスクは広場の東側に位置する。王室専用でタイル技術が芸術として完成している。ドーム部分には浮き彫りの技法が用いられて光が取り込まれている。壁面はアーチ型のパネルからなり、コーランが書き込まれている。
 日本語コーディネーター・ガイドのアリー・ペタラフ氏が案内。サフィーンと昔呼ばれていたらしい。気持ちがよくなるという意味らしい。

 ザーヤンデ川。ザーヤンデとは「命を生み出す」という意味。このあたりは年内降水量が200mmだかららしい。スィー・オ・セ橋(33の橋という意味らしい)はこの街を代表する橋。長さ300m、400年前に完成に3年かかった。総レンガ作り。アッバース大帝は美観にこだわった橋をいくつも作っていった。
 チャハール・バーゲ・アッバースィ通りのように緑を多く用いた通りも作られた。世界に名だたる庭園都市を作るために都市計画を進めていった。40の柱という意味のチェヘル・ソトゥーン宮殿。実は20本だが、池に映って40本に見える。アッバース2世時代に作られた。今は博物館になっている。庭園は欠かすことができない芸術。庭は周囲とは別世界!これがヨーロッパに伝わり、パラダイスと呼ばれるようになった。

 広場の北側のカイサリーヤ門。この門をくぐるとバーザールが広がっている。商業の中枢として機能してきた。エスファハーンへ通じる通路もよくし、経済もよくした。ペルシア絨毯は生産性を上げ、ヨーロッパやインドへ輸出し、王朝に利益をもたらした。女性による手作業。結び目の細かさで価値が違う。

 17世紀当時、50万〜60万の人口だった。ヨーロッパ最大の都市のロンドンと並ぶ規模だった。その中心がバーザールだった。

●ペルセポリス
 紀元前550年頃、ペルシア帝国ができた。ペルセポリスの遺跡。パサルガダエ。ザクロース山脈の南のパールス州。メディア人の王国ができた。それをアケメネス王朝のキュロス2世がメディア王国を破ったのが紀元前550年。その後ヨーロッパまで支配した。その中心地がペルセポリス。タレイオ3世はエジプトからインダス川まで手中に収めた。大宮殿を建築した。
 ペルセポリスの入り口だった万国の間。完成に60年かかったらしい。百柱の間には百の柱があった。28の属州があったらしい。アバダーナは王による謁見の間だった。36本の柱が立っていたはず。今は12本が残る。アバダーナ東階段の浮き彫り彫刻群には、王に貢物をする各国の使者が描かれている。心臓部は中央宮殿。床にあった石板の真中にある円に太陽の光がさすと、新年?だったらしい。暦も進んでいたようだ。

●ナグシュ・ロスタム
 ペルセポリスから北へ6キロ。切り立った岩山。4人のアケメネスの王達が眠っている。12代220年栄華を極めた王朝。

●シーラーズ
 パールス州の州都。標高1500m、コーラン門が玄関口。やっては門の上の部屋にコーランが収められていた。1750年にザンド王朝の都となり今の街づくりがなされた。
 王朝のキャリーム・ハーン・ザンドの像もある。1773年完成した。ヴァキール・モスクはザンド朝を代表するモスク。カラフルなモスク。その横には往時を彷彿とさせるバーザールがある。
 シャー・チェラーグ霊廟は旧市街にあり人がいつも絶えない。シーア派の聖地らしい。街中にはいくつもの庭園があり、花が咲いている。
 エラム庭園は4−5月に園内がバラで埋めつくされている。それでバラの街と言われる。シーラーズは詩人の街とも言われる。サアディーなど4人の有名な詩人のうち2人がシーラーズ出身。サアディー廟もある。13世紀に活躍。モンゴル軍におびえていた人々に彼の叙事詩が助けとなった。もう一人の詩人ハーフェズはサアディー死後30年後生まれた。ハーフェズ廟として今も人が絶えない。イランの人は必ず自分が好きなハーフェズの詩があるという。

●バム Bam
 イラン東南部。大地と同じ色の堅牢な城砦がシルクロードを行く人々を迎え入れた。アルゲ・バムは、今は廃墟と化している。250年前に住民達に放置されたままになっている。どうも伝染病が原因らしい。それで石灰を建物に塗ったらしい。街がそのまま残っている。まるでポンペイの遺跡のようである。
 周囲2キロの城壁は街を取り囲み、街を守っていた。バム城には宮殿も残っている。日干しレンガで土を塗り固めた建物。バム周辺はなつめ椰子の産地で、そこで街は商業都市として繁栄していった。

●ケルマーン Kerman
 バムの北西。3世紀にサーサーン王朝のアルデシール1世により開かれた街。中心のバーザール広場。各都市はバーザールから形成されていっている。原則としてはレンガでできたドーム状の屋根でできている。夏の日差し、冬の寒さ、雨をしのげる。売られているのは日曜雑貨が多い。
 バーザールの中央にあるハンマーメ・ギャンジ・アリー・ハーンという建物は17世紀に建てられた公共浴場。今は博物館になっている。マッサージやアカスリもあったらしい。タイル張りの浴場は今も残る。
 バーザールの一角にあるギャンジ・アリー・ハーン広場はかつてのキャラバンサライがあった場所。昔は中庭に商品が山と積まれていた。
 生果市場。果物が豊富。緑黄色野菜も豊富。ニンニク、キュウリ、胡椒などシルクロードを経由して日本に入った。胡が付くとイランから来たものということ。日本とイランはサーサーン王朝以前から関係があったことが正倉院の品を見てもわかる。

●ヤズド Yazd
 ケルマーンの北西、砂漠のオアシス。アミールチャフマーグ・タッキャーの噴水は印象的。オアシス都市の中で最も美しい街といわれている。街のあちこちで見られる塔バードギールは砂漠を通る風と取り込んで、街に風を通そうというもの。古来考えられていた方法。
 ジャーメ・モスクはシンボル。入り口のミナレットは国内で最大の高さ。14−15世紀に建造された。その昔はサーサーン朝にゾロアスター教寺院が立っていたらしい。ゾロアスター教寺院としては中心部南にあるアーテシェキャデが残っていて、重要な寺院。アケメネス王朝、サーサーン王朝の国教だったゾロアスター教は、紀元前650年に誕生したというザラスシュトラは20歳で出家し、30歳で神からの啓示を受け、善悪二元論を説いた。光と火を崇拝するゾロアスター教の寺院での、ここの火は1500年間絶えていない。
 郊外の丘にゾロアスター教の葬儀場であった塔が立っている。「沈黙の塔」と呼ばれる。丘の上に高さ3mの円形の髪が築かれ、その中に遺体を横たえて浄化させた。この儀式は50年前まで行われていた。
 ヤズドから北西50キロのチャクチャク Chak Chak はゾロアスター教の聖地で、落ち着いた場所。

テレビ番組「道浪漫」2000年2月は星野知子さんでシリア

●シリア
 ユーフラテス川に5000年前に文化があり、楔形文字が使われた。オリーブ石鹸(通称「アレッポの石鹸」)が古代の方法で作られていて、その石鹸は年に1度しか作られないというので、行くことになった。ダマスカスから伸びる「まっすぐな道」は聖書にも出てくる。
 エールフランスでパリ経由で行ったとか。ダマスカスまで16時間。

●ダマスカス
 ダマスカスで、スークと呼ばれる市場は何でも揃う。香水の量り売りの店「レディー」自分用のを作ってくれる。しかし、思い切り目分量。一瓶150シリアンポンド(約330円)。アラビア語なので紙幣も読めない(^^;;
 アレッポの石鹸を見つける。1個90シリアンポンド(約200円)。みんなこれを使っているんだとか。オリーブは神々の秘薬と言われていた。北西部が原産地らしい。そこでそこへ向かう。ミクロバス乗り場でバスに乗ってパルミラに向かう。バスに乗るのにパスポート、両親の名前や誕生日も必要、このHappy Journey Bus の中は無料の紅茶サービスもある。甘くておいしいらしい。外の景色は見渡す限りシリア砂漠。
 ウマイヤド・モスクは郊外の旧市街にあり、観光客も入れる現存する世界最古のモスク。
 ダマスカス国立博物館。発掘品が多くある。休館日は毎週火曜日。

●パルミラ
 北に230キロのパルミラは緑のオアシス、2000年前はシルクロードの都市として発展した都。記念門。円形劇場もある。ベル神殿。
 地下の「三兄弟の墓」。フレスコ画が色鮮やかに残っている。ここには親族400体の遺体が埋葬されていたそうだ。墓は死後に住まう家「永遠の家」と呼ばれていた。砂漠の下の「永遠の家」である。
 街はずれにある、温泉。パルミラ近辺には断層が近くに走っていて31度の温泉が出ている。ナツメヤシとオリーブができる。冬の収穫期にはオリーブの実のつけこみ作業が行われる。ファティマ・ムハマッドさん宅を訪問。 このまま食べるとすごく渋いらしい。麻袋の中に入っていたのは渋味のとれたオリーブの実。もしかすると渋柿と同じような感じなのかも。
 これからマハムードさんに頼んで車を出してもらいシリア砂漠を横断して

●砂漠の中
 途中に見えたホテルは、今年2月に開店するゼノビア・ホテル。Zenobia Camp and Bath (Zenobia Hotel Palmyra) Fax:912407 Tel:912???砂漠を楽しめるようにアラブの人用のテント風のもの。しかし、特徴は、建物の中に温泉がある。しかし泥色。窓の外は砂漠。温泉とくるとやはり石鹸。
 見えてきたのは、変わった建物。エレベータで降りると160m地下。ティップニー塩採掘場では塩を取っている。トロッコに乗って塩の採掘現場へ。1日700トン。クリスタルと呼ばれる純度の高い塩が取れる。太古の昔この砂漠が海だった証である。3500万年前のものらしい。
 ユーフラテス川が姿を現した。川沿いには羊もいる。作物も作っている。

●アレッポ
 スーク(市場)でアレッポの石鹸を見つける。家の形をしているものもあり、遊べるらしい。ヒモがぶらさがっているが、これで店員が出入りに使うらしい。石鹸の店が多い。とても沢山ある。2年ものは切ると緑が多いが、4年ものとなると茶色?が多い。長いものは長く使えると言っているが、本当かな?ここのスークは世界最古。
 アレッポ城。謁見の間は見事。この城のメインゲートに刻まれているレリーフは馬の蹄鉄とオリーブの葉。5000年前の楔形文字にも作付け面積が記録されている。オリーブの原産地。
 宿泊はベイト・ワキール・ホテル。1泊シングル$70〜。

●郊外
 アレッポから車で1時間の郊外。ドーム状ハウスはコッベハウス(別名:蜂の巣住宅)は紀元前の前から変わらない形らしい。
 アハマッド家は20ものドームをつなげているが、これで1軒の家。1ドーム1部屋のイメージ。ふとんが使われている。お風呂はタライ。冷蔵庫もある(外が40度でも冷蔵庫中は20度とか)。
 家にお客が来ると必ずコーヒーが振る舞われる。カルダモンといわれるハーブの入ったアラビアン・コーヒー。コーヒーのかすがたくさん口の中に入る。苦いらしい。

●アフリン地方
 オリーブ畑の中に石鹸製造工場が点在している。石鹸にするには、まず、搾油工場、ベリン工場、石鹸製造工場の3つが必要。この地方では10月から12月がオリーブの収穫。オイルとなり、熱を加えないこの方法で得られる油は食料オイルとなる(エクストラ・バージンオイルと呼ばれる)。黄色。
 その絞りかす(ベリン)から熱を加えて水分を抜かれてタンクに入れられて5時間も圧力をかけられて、加工される。深緑色となる。あとは絞りかすを取り出すのだが、爆発する感じ!圧力をかけられていたかららしい。最後は石鹸をつくる工程。巨大な鍋が一つあるだけ。まずオリーブオイル2番絞り4250キログラム+月桂樹のオイル100キログラム+水酸化ナトリウム600キログラムを鍋に入れて120度で12時間熱する。1晩さまし、温度が50度くらいになったくらいでサンドをチェックする。方法は味見。
 こうしてできた石鹸のモトを工場の床にばらまく。これでさらに1晩乾燥させる。乾燥すると緑の床ができた感じ。職人たちは下駄(コップカープ)を履いて熊手のようなもの(アッターフ)を持ち石鹸を人力で切っていく。つまり人が乗って、下駄に切るものがついていて?4人で引いて切る。星野さん大笑い。仕上げは工場名のスタンプ押し。3日で一床25000個の石鹸がこうしてできあがる。この製法は地中海を渡り、ヨーロッパへ伝わった。
 近所の家でどう使われているか見た。1箱で1年とか。体を洗う、洗濯にも使う。すごくすてきな部屋!香りがいいから芳香剤としても使われている。虫除けにもなるらしい。
 ラマダンの時期だった。太陽の出ている間は食事はできない。シリアの主食はホブスとよばれるパン。このパンにおかずをはさんで食べるのが正式な食べ方。ナスのオリーブオイル漬け、ひきわり麦のオリーブオイル和え、オリーブの香草漬け。約1箇月も続くラマダン。

参考は
道浪漫のホームページ


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