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なお、これはわたしが個人的にテレビを見て書いたものであり、各テレビ局や番組とは全く関係はありません。
すべての文章の無断使用・転載を禁止いたします。
またここの情報を使って、何か問題が起こったとしても私は一切責任は持ちませんのであしからず。


テレビ番組「THE 世界遺産 イースター島」

 2008年12月7日放送。

●イースター島
 1722年イースターの夜、オランダ艦隊が発見した謎の島。謎ばかり残っていたが、今新たな光が。モアイは誰がいつ何のために作ったのか。50年後再び探検家が訪れると、ほとんどのモアイは倒されていた。一体何があったのか?
 日本の小豆島ほどの小さな島を島民たちは「ラパ・ヌイ Rapa Nui (大きな陸地)」と呼んできた。モアイは大きなものは9mを越え、重さは80トンを越える。イースター島には川もなく、荒れた土地に草が生えるだけ。人が住むことさえ難しいこの地に、どうやってモアイを建造したのか?
 ラノ・カウ山の火山の噴火口にある湖に堆積した多くの花粉から、イースター島にはかつては森があることがわかった。ラノ・ララク山はモアイの製作現場だった。斜面には当時の製作途中のものが残されている。石は表面は固いが、内部はチョークより少し固い程度で、加工するのに適していた。運搬にはコロなどが使われたことも否定できなくなった。

 ピエール・ロティの想像画「偶像崇拝の祭」ではモアイの製作の様子などが描かれている。アプ(祭壇)にモアイを置くという習慣により巨大化したものと思われる。20世紀後半、アフ・ナウナウの遺跡の周辺で発見があった。出土したサンゴのかけらを重ねあわせるとモアイの目となった。復元され島に建ち並ぶものは、全て目をなくしたものばかり。

 ハンガ・ロア村の人口は4000人。チリ本土からの移住者が年々増加している。奴隷狩りと伝染病でかつての原住民は19世紀に100人まで激減していた。キリスト教の宣教師がそれまでの宗教を禁じたことで、モアイの伝統はすっかり失われた。多くの人は西のポリネシアから来た人々だと考えたが、1人だけ反対していた。ノルウェーの生物学者トール・ヘイエルダールは、アフ・ピナプなどを観て、カミソリの刃すら通さない見事な技術は、インカ帝国の遺跡と瓜二つだと思った。大胆な仮説を証明しようと、彼は昔の筏のコンティキ号でペルーから南太平洋へと船出した。1947年8月タヒチの東の無人島に到着した。それは101日間7000kmの命がけの冒険だった。多くの批判を受けたが、航海記がベストセラーとなり、イースター島の名前が世界に広まった。

 伝説ではイースター島の王は西から海を渡ってきたという。DNA分析からも先祖はポリネシア人だとしている。5−7世紀に来たという説が多い。チリ大学のクラウディオ・クリスティーノ教授はアナケナ海岸の1991年の発掘から、800年頃だったと結論付けた。さらにかつては川が流れていたという画期的な説を主張している。ハンガ・ロア村にしか飲み水として使える地下水が出ない。しかしモアイが作られた当時はいくつかの集落が点在していた。それは川があったからだと教授はいう。当時の豊かな暮らしがモアイを生んだ。
 1722年発見され、50年後に訪れたキャプテン・クックは島の光景に愕然とした。あちこちに立っていたモアイがほとんど倒されていた。今我々が見ているモアイは20世紀に世界各国の援助により復元されたもの。モアイは建て直せても、島に自然は戻らなかった。野放図な開拓が全ての始まりだった。増え続ける人口に対して、人々は森林を焼き払い畑にした。そして裸の島だけが残った。椰子の実が見つかった。孔が空いているのは、ネズミがかじったもの。根本の原因は人々が最後まで気がつかなかったこと。自然には限りがあること。食料不足に陥って、部族間で争いが絶えず、モアイは倒された。
 人々はモアイに替わる信仰を求めた。頭は鳥、体は人という神の化身、鳥人崇拝が起こった。オロンゴにその姿が残る。森をなくし、舟も作れなくなった島の人々は鳥に全てを託そうとしたのかもしれない。洞窟のアナ・カイ・タンガタ。しかし、全ては手遅れだった。


テレビ番組「たけしの新・世界の七不思議2」

 2008年1月1日放送。ビートたけし、大江麻理子アナウンサーが司会。古代ギリシャのフィロンは数学者で旅行家だった。紀元前2世紀に世界で初めて七不思議を紹介した。この中でエジプトのピラミッドを除いて全て消え去った。2007年1月たけしは3つの不思議から第一の不思議を選んだ。つまり「マチュピチュ」、「楽山大仏」、ペルーの「ナスカの地上絵」の中から「ナスカの地上絵」を選んだ。
 今年選ぶのは、イースター島の「モアイ像」、マヤ文明「チチェン・イッツァ」、スリランカの「シーギリヤ・ロック」の中から1つ。

●イースター島
 南米大陸から3700km、タヒチから4000km。1000体のモアイ像、1個200トンを越えるモアイ像をどうやって運んで作ったのか。周辺の島や南米にもない文字を持っていた。ヨーロッパ人がやってきて文字の文化も破壊された。
 1722年4月5日イースターの日にオランダ人提督ヤコブ・ロッヘーフェンの率いる船が島にやってきた。彼はモアイ像に驚いた。木もなくロープも持たないこの島の人がどうやって建てたのかが不思議だと日記に書いている。
 パルパライン大学のホセ・ミゲル・ラミレス教授は、当時5000−1万人住んでいたという。12の部族に分かれ、それぞれの部族はその長が治めていた。食料はたっぷりあったという。その後、スペイン人探検家、キャプテン・クック、フランス人探検家たちがこの島に寄港している。1770年スペイン人ゴンザレスが寄港した際に、文字の文化を持っていることがわかった。ロンゴロンゴと呼ばれ、1500以上の形からなり、1行毎に上下逆さまにして読む。
 モアイ像はどうやって作られ運ばれたのか?10−16世紀に作られたというのがわかっている。ラノ・ララク山に作りかけのモアイが397体置いてある。数十km離れた場所いにどうやって運んだか?ノルウェーのトール・ヘイエルダールが地元住民に伝わる伝説に注目した。「彼らは海辺まで歩いた」。今回、高さ2.5mのモアイに対して、島民20名を6つのグループにわけロープで引っ張った実験をしてみた。1986年にヘイエルダールが実験した。京都橘大学の猪熊兼勝教授は、2艘の船を使って運ぶ方法を提唱した。しかし浜辺は2ヶ所しかない。しかし海に沈んだものもあるが、チリのダイバーが観光用に沈めた物でした。
 何故建てられたのか?ほとんどのモアイは海に背を向けている。1978年にうるしのようなものをのせたモアイが発見された。復元する際に初めて目が発見された。全てのモアイが目をもっていることがわかった。まわりはサンゴで中は黒曜石。18世紀の欧州人は「人々は石像の前で踊り、うやうやしく頭を下げていた」と書いていた。亡くなった部族の長や大切な人の名前がついていた。アフと呼ばれる台座から、人骨が丁寧に埋葬されて見つかっている。モアイは村を守るものだった。19世紀にはことごとく倒されていた。18世紀には食料争いが起きていた。そのために能力を持つモアイを倒すことが先決だと思われた。昔は豊かな森が存在していた。欧米人が奴隷を求めてやってきた。かつ天然痘という病気をもたらした。環境破壊が森を壊し、島が滅亡しかけた。
 ヘイエルダールは彼らがさつまいもを食べていたことから、アンデス地方から来たと考えた。またトトラと呼ばれる南米原産の葦のような植物が原生していて、それで船を作っている。巨石文明に通じるので、インカの末裔だと考えた。現在はポリネシアから来たと思われる。そのために、あやとりやコマがある。モアイ像に近いものがマルケサスやタヒチで発見されている。5000年前にアジアから太平洋に旅立った人だと思われている。
 ポリネシアのバヌアツで縄文土器が11年前に発見された。ミシガン大学教授のチャールズ・ローリング・プレイス4世が縄文人が先祖ではないかと考えた。頭蓋骨が酷似していることや、いれずみの風習が似ていることや、モアイのルーツも猿石などにあるという。マケマケという創造神はハート型の顔をしているが、埴輪などにハート型のものがあるという。モアイの中で正座しているものがあるし、ふんどしをしているものもある。

●チチェン・イツァ
 マヤはメキシコのユカタン半島に紀元前3〜紀元9世紀に繁栄し、突然消えた。発見された遺跡はほんの一部で、熱帯ジャングルの中に多くあると言われている。19世紀にフレデリック・キャザーウッドなどが多くの遺跡を見つけた。
 1922年11月26日イギリス人のハワード・カーターによってエジプト史上初めて見つかった未盗掘の墓からツタンカーメンの遺産が見つかった。その30年後にマヤで大発見があったことはあまり知られていない。
 1948年にアルベルト・ルスがパレンケの遺跡を訪れた。かつて欧米人によりユートピアに仕立てられたマヤの真実を探ろうとしていた。紀元7世紀頃に建てられた高さ35mのピラミッド(碑銘の神殿)に多数の碑文が刻まれていた。神殿の最上部にある瓦礫を取り除いていた時、穴が見つかった。そこには下へと続く階段があった。1952年、瓦礫を全て取り除いた後に、不思議な石版を見つけた。その奥には高さ7mの空間があり、彫刻を施した石があった。そこには宇宙船を操縦しているかのような絵と、マヤ文字が刻まれていた。石は5トンで、ジャッキで開けてみた。身長190cmを越える人物の骨があり、緑の光を放つ多くのヒスイのアクセサリーで飾ってあった。ヒスイと貝殻と黒曜石の仮面だった。値段がつけられないほどの貴重な品で、現在はメキシコ国立人類学博物館に展示されている。下の碑文が後に解読された。7世紀頃のパカル1世だった。他のピラミッドなどからも王の品が見つかった。
 13号神殿からも1994年にアルノルド・ゴンザレス博士が水銀が酸化されて赤くなった女性の遺体を見つけた。パカル王の碑文に11年前にツァクブ・アハウ王女が亡くなったことが書いてあるので、その王女だろう。1979年に亡くなったルスの墓はピラミッドを見上げる正面の場所にある。
 大河のほとりでもないのに、どうして文明が発展したのか?ここには3万人が暮らしていた。200m離れた場所にセノーテと言われる泉がある。直径60m、水面までは20mの泉。フリオ・セサル・ホイル研究員はユカタン半島にはこういうセノーテが大小あわせて2000以上あるという。ダイバーのロヘリオ・ミエル・オルテガさんの協力で潜ってみた。セノーテは洞窟のように横に広がっていた。鍾乳洞のような空間。10分泳ぐと地上の木の幹もあった。40分後、太陽の光が入る場所がある。別のセノーテだった。実はセノーテ同士がつながっている。セノーテは全長550kmの天然水路だった。
 6500万年前、巨大な隕石が地球に落ちた。その時開いたクレーターに土が堆積し、石灰質土壌になった。長い間かけてふった雨が地中にしみこみ、空洞の中に巨大な地下水脈ができた。一部が陥没してセノーテができたと考えられている。
 ククルカン神殿は巨大な暦になっている。4つの階段には18個の「きだん」があるが、これはマヤの月(ハアブ暦)にあたる。各面に91段の階段があり、神殿をあわせると、91x4+1=365段となる。春分の日と秋分の日に神と崇めるククルカンが姿を見せる。午後3時30分それは始まった。高度な天文学的知識と建築知識がないとできない技である。
 カタツムリ(カラコル)と名づけられた建物は天文台だった。屋根にあけた穴から星や太陽の動きを見ていた。マヤの暦では1年は365.2420日で、現代の365.2422日とほぼ一致している。ラモン・カラスコ博士は作物の種を植えたり、収穫する時期を知るために暦を利用したという。王が儀式を行なう時にも使った。新たに王につく時は日食の日などにしたのだろうという。また、5000年の暦も作っていた。
 生け贄の儀式があった。そのための特殊部隊があったという。捕虜は青く塗られ神殿の頂上に連れて行かれ、黒曜石のナイフで心臓を取り出され、心臓はチャック・モールと呼ばれる台座に置かれた。広場は球技場として使われていた。
 マヤによれば、かつて太陽は3度滅び、地球の文明は塗り替えられてきた。その弟4の太陽は紀元前3113年に始まり、5128年が経過するとその時代が終るという。それが2012年12月22日だという。マヤの長老フンバツメンは、人類が母なる自然を痛めつけてきたから、そのお返しがあるという。アステカ文明にも同じような言い伝えがある。アステカでは第一の太陽はジャガーに、第二の太陽は風に、第三の太陽は火の雨、第四の太陽は水によって滅びたが、第五の太陽は地震によって滅びるという。
 最近の本によると、フォトンベルト突入説が主流らしい。1910年にはハレー彗星の尾に入ると毒ガスで死ぬといわれていた。

●スリランカのシーギリヤ・ロック
 緑を敷き詰めた熱帯ジャングルに岩山がある。高さ200m、周囲420mのシーギリヤ・ロック。中腹には獅子の爪、頂きにはかつて建物があったことを示すレンガの基礎が残っている。これは1500年前に王が築いた宮殿。東洋のモナリザと称される壁画がある。
 最初に注目したのは1831年にイギリス軍人のフォーブスが、岩山の中腹に人工物と思われるものを見出した。日本の古事記に相当するスリランカの「マハーヴァンサ」には、歴代王の伝説が綴られており、岩山に宮殿を建てたカーサパ王のことも記録があった。これは架空の話にすぎないと思われていた。1851年再び岩山を訪れカーサパ王の宮殿であることを確認した。しかし、これは岩山だけではなかった。
 周囲を堀に囲まれた庭園は東京ドームの50個分以上。城壁は「蓮の水路」と呼ばれる堀で囲まれていた。ここにはワニが放たれていた。中には「水の庭園」があり、下水道施設があり、噴水が設置してある。ムーンストーン、アメジスト、金を贅沢に使った王妃のものと思われるイヤリングも見つかっている。庭園の中には1本の小道がある。奥は巨石庭園となる。昔はこの岩山には神が宿ると思われていて、麓には石窟寺院が数多く残されている。少し上がるとシーギリヤロックの発見につながった「ミラーウォール」と呼ばれる回廊がある。壁面は卵白、ハチミツ、石灰を混ぜたものが塗られて、鏡のような光沢をもっている。中腹の小さい広場にライオンの宮殿の入口がある。両脇には鋭いライオンの爪が鎮座している。以前はライオンの胴や頭部まであったという。急勾配の階段を上がる。王が使ったリフト跡も残っている。頂上には広さ4000坪の宮殿跡がある。レンガ造りの建築基礎が刻まれている。大臣や召使の住居も並んでいる。王の沐浴場や、王座の前にはダンス・ステージまである。
 1875年イギリス人役人のデイビットは、ミラーウォールの上に夕陽が当たり、洞窟に雲に乗った美女の絵が見えた。シーギリヤ・レディと呼ばれた。元々、人が近づける場所ではない。東洋のモナリザと称されるその微笑は、古代ギリシャ彫刻や日本の仏像に見られるアルカイック・スマイル。衣服を着た女性と裸体の女性がいる。裸体の女性が上の位らしい。現在は18人のレディが見られる。以前は500人のレディが描かれていたという。
 国立カラニヤ大学セーナカ・バンダーラナヤカ名誉教授に話を聞いた。10年前にミラーウォールに水をかけると現れた。ここにペンキが塗られたので発見されなかったようだ。調査隊長のチャンダナ・ヴィーラセーナ博士は、雲に乗っている黄金の肌の女性は雷、青い肌の女性は雨を表わすという。シーギリヤ・ロックに降る雨水は岩肌に刻まれた水路を通って下に下りて、庭園を潤していた。頂上には飲料水用の貯水池がある。極めて高度な灌漑技術があった。
 ミラーウォールはなぜ光るのか?これは未だ謎である。
 スリランカの町では獅子の姿が多い。国旗にも獅子がある。かつてはシンハラ王国と呼ばれていたが、シンハラとは「獅子の民」という意味。マハーヴァンサには紀元前5世紀、インドで獅子と姫の間に子供が生まれた。この子が親を殺し、子孫が開いたのがシンハラ王朝だった。5世紀、ダーツセーナ王は農業で国を富ませた偉大な王だった。2人の息子がいた。兄は身分の低い側室の子のカーサパで、弟はモッガラーナは正妻の子だった。王は弟に王位を譲るつもりだった。王と折り合いの悪かった将軍がカーサパを支持し、478年反乱を起こし、王を捕らえた。王に財産のありかを聞いたところ、王はカラー・ウェアという池に連れていった。これが農業の基になっていた。王はこれをカーサパに教えようとしたが、カーサパは王を堤防の壁に塗り固めて殺した。仏教では父親を殺すことは禁止されている。後に王の愛情が理解できたカーサパは悔いた。さらにカーサパは傀儡にすぎず、将軍が実権を握り、人民に圧制を強いた。カーサパ王は国民の反感を買い孤立した。ある日、夢を見た。父の意志を知りたいなら、父の道を辿れといわれた。辿ってみて、岩山にたどり着いた。ここに灌漑をしようと決意し、宮殿も造った。絵を描かせたのは、蓮の葉に乗り寺院にお参りに行く様子だといわれている。父親に対する懺悔の念を表わすものだった。11年後、インドに逃れていた弟が帰ってきて、都を制圧した。カーサパは自害した。シーギリヤロックは父親への深い愛情と畏敬の念をもったカーサパの償いだった。

 ということで、マヤのチチェン・イツァが選ばれました。


テレビ番組「プレミアム10 地球と出会う旅、体感!これがエコ・ツアーだ」

 2007年6月1日放送。地球を体で感じる旅。ガイドに誘われ砂漠やジャングルを歩く。NHK製作。

●ボルネオ島
 マレーシア・サバ州に広がるうっそうとしたジャングル。参加したのはフリー・クライマーの平山ユージさん。今回のツアーには8人が参加。ガイドはセッド・プルデンテさん。まずはボートで全長560kmのキナバタンガン川を上がる。野生生物の保護区を行く。指さした先にはボルネオだけにしかいないテングザルがいた。鼻が大きい。泳げるし、情報交換するために川べりにいるのだろう。対岸に渡る時は高い木に登って川に飛び込む感じ。
 雨季はかなり水につかっている。むっとする湿気。ワイングラスのような赤いキノコ。鳥がいたが、セッドが口笛を吹くと返事が返ってきた。
 大きなイチジクの木に実が赤く熟している。そこにオランウータンがいた。見られるのは珍しいそうです。野生のオランウータンはスマトラ島北部とボルネオ島にしかいなくて、絶滅が心配されている。その原因はアブラヤシ農園が増えているため。
 セピロク・オランウータン・リハビリテーション・センターを訪問した。保護されたオランウータンの子供を自然に戻す訓練をしている。遊び場兼食堂でリンゴとバナナを5個ずつ、ミルクも与える。オランウータンは喧嘩が大嫌いだそうです。その後は訓練。次の2次施設ではさらに訓練を受け、さらに次の段階に進み、3−6年で野生に帰る。

●タンザニア
 世界自然遺産「ンゴロンゴロ自然保護区」はサバンナを自分で歩く。参加したのは、アルピニストの野口健さん。
 アルーシャは観光の拠点。サファリツアーが人気で外貨獲得の手段。その中でもエコツアーが増えている。ガイド歴10年のレミ・ファランジェさん(42歳)が案内。2泊3日食事付きで450ドル、2日目はまる1日歩く。
 1990年代に登場したエコツアーは3つの定義がある。「自然を敬い、自然から学ぶ旅」、「環境保護に貢献する旅」、「地域社会に利益をもたらす旅」です。
 「ンゴロンゴロ大クレーター」は、大地溝帯の上にできたカルデラ。南北16km、東西19kmで世界最大級のカルデラ。このクレーターの中は動物の数も多く危険性も高いので歩けない。イボイノシシ、セグロジャッカル、ライオン、ピンク色のフラミンゴなどがいる。
 2日目のウォーキング・サファリは25kmを歩く。ライオンが出てきたら、レンジャーのピーター・モマルッサニャさん(通称パパ)にまかせる。午前9時半に出発。インパラがいる。1頭のオスが多くのメスを連れている。クチブエアカシアという木は、風が吹くと口笛のような音が出る。穴が音を出すが、実はアリの住みか。動物が食べにくるとアリが攻撃する。足元にゾウの糞があった。ゾウは50%しか消化できないので、イボイノシシなどが糞を食べるそうです。マサイ族の少年が牛を追っていた。出発前に教えてもらった方法で挨拶した。ここには5万人のマサイ族の人が住んでいる。村を訪問した。
 12時半に昼食。サンドイッチなどが配られました。お昼は雨が降り始めました。雨がひどくなるとウォーキング・サファリは中止して、無線で車を呼ぶ。空をハゲワシが展開していた。ここから先はライオンなどもいて危険なので、集団になって歩く。チータがいたので迂回して進む。行く手にヌーの死骸があった。チータは歩けないようにしてから首を噛んで窒息させる。一方ヒョウは首の骨を折る。今回のはチータの仕業だとわかった。ヌー、ガゼル、シマウマの群れがいた。エンデュレンを出発してから9時間で、ナビパタットの丘の麓のキャンプ場に到着。

●オーストラリア
 オーストラリアの北部にあるトップエンドと言われる地域は先住民アボリジニの人々が暮らしてきた。千葉すずさんが参加。エコツアーはジョナサン・モグリッジさんが案内。
 まず川に入ってスィミング・ボードを使って、川を上がっていく。滝の下でランチ。今日はメキシコ料理トルティージャ。6時過ぎに宿に到着。ツアーの間は同じ寝袋とテントを使う。密閉されていたテントは蒸し風呂状態なので、風を通すことから始める。夕食はバラマンティというオーストラリアで採れる白身魚のホイル焼き。ロウソクの明かりで食べる夕食。
 2日目。カカドゥ国立公園の南にあるマニュアラルックはアボリジニの居住区。50人のアボリジニが住んでいる。通常国立公園以外での居住区は、一般の人は入れないが、マニュアラルックの人たちは、開放した。10年前にアボリジニの文化に触れるツアーを始めた。
 まずはブッシュ・タッカーに出かけた。野生のニンジンを食べる。木の上にツムギアリの巣があった。これを手で潰して食べます。みんな意外と平気です。レモンみたいな味だそうです。風邪薬として喉の痛みにも効くし、水の中にアリを入れて飲むと翌朝には元気になるそうです。パッショングラスは絵を描く時の筆になる。

●ペルー
 世界遺産「マヌー国立公園」はアマゾンの上流で蛇行している。1週間かけて船で旅するエコ・ツアーがある。沿岸の木に3匹の赤毛ザルがいた。ガイドはペルー政府公認ガイドの鈴木智子さん。鈴木さんは17歳でタスマニアに留学、大学卒業後コスタリカでガイドとして修行した。河辺にキャップト・ヘーロン(シロゴイサギ)という白と黄色い鳥がいる。ブラック・スキマー(クロハサミアジサシ)は下のクチバシの長さが上より長い。水面すれすれに飛んで小魚を採る。他にもジャビル(スグロハゲコウ)、パイド・ラップウイング(マダラゲリ)、カラカラなどがいた。マヌーにいる鳥は1000種で、全世界の9分の1がいる。1度のツアーで200−300種見ることができる。カピバラは世界最大のげっ歯類。土の色と同化していて、隠れているが、自分は見えていないと思っている。
 川岸にはオリガミのような蝶が集まっていた。動物の尿のミネラルを摂取するそうです。そういうのは産卵用にメスが多いそうです。
 森に上陸した。幹にトゲが生えている木「ハカラテイアビヒタ」(パパイヤ科)がある。中の成分が甘くて動物に狙われるからだそうです。にんにくの匂いがする「ガーリック・トゥリー」は匂いで自分を守る。ウォーキング・パームというヤシの木は光のある方向に移動する。イノシシがいたが、森で最も危険な動物です。出会ったらとにかく木に登るのがいいそうです。
 お昼は船内で食事。ホアンさんが料理を作る。今回はチキン・サラダでポテトとアボカドが添えられていた。
 アマゾン河は蛇行しているので、三日月湖ができる。それによって独自の生態系が構築される。オオカワウソは三日月湖の王様。体長1.5m、体重は30kg以上。1頭以上1日8kgの魚を食べる。彼らの毛皮は防水性に優れているので、乱獲されたそうです。1976年保護地区での狩が禁止された。現在は70頭の生息が確認されている。

●ナミビアのナミブ砂漠
 レーシング・ドライバー片山右京さんが参加。世界最古の砂漠。赤い砂に近い。刻々と形を変える大地だが、生き物たちが暮らしている。虫がいたが、オナマクレス・プラナという昆虫で、昆虫の中で最も早く走ることができる(時速4.2km)。羽根を広げて貴重な水分を失わないように走る。レペトステスタス・ワルトニは危険を感じると死んだフリをするが、トカゲの餌食になる。サイド・ワインディング・アダーは砂漠に住むヘビで、砂丘を登ることができる。
 砂漠を抜けると広大な草原地帯が広がっている。ここでオコンジュマ Okonjuma の開催するAfricat の施設を見て歩くエコツアーに参加した。オコンジュマには現在70頭のチータが保護されている。ほとんどが野生に戻るが、保護地区には元には戻れないチータ6頭がいる。2日に一度牛や馬の肉を与える。車の荷台にある肉を取っていきますが、目の前です。スムージーという名前をもつチータはペットとして育てられたので、野生に戻れない。
 翌日、4頭を野に帰すことになったので、片山さんも同行した。スタッフはデイブ・ハウトンさん(44歳)。麻酔をかけて、目が乾燥しないようにオイルを入れる。血液を採取し、発信機をつけて、翌日広さ4000ヘクタールのリハビリテーション・キャンプに放つ。

●ニュージーランド
 南西部にあるフィヨルドランド国立公園。鎌倉千秋アナウンサーが参加。氷河によって削られた場所に海の水が流れこんでできたフィヨルド。船で巡るエコツアーがある。バンドウイルカの群れがいた。先にはニュージーランド・オットセイのコロニーがあり、一緒に泳げる。小船で近づく。オットセイたちが食べる魚のいる海藻群で待っているとオットセイがやってきた。かつては脂を採るために乱獲されて、絶滅しかけたが、政府の保護政策が守った。

●チリ
 世界遺産「パイネ国立公園」。パイネは先住民の言葉で青いという意味。風と氷の大地パタゴニアを行くエコ・ツアー。参加したのは登山家の田部井淳子さん。
 ツアーの一行は湖に流れ込むグレイ氷河を見る。1日2回遊覧船が出ている。湖には強い風が吹いている。パタゴニアの強い風は、雨を凍らせて雪に変え、こんな低い土地にグレイ氷河を作った。青く輝く氷の塊が流れている。風によって氷の中には多くの空気の粒が入りこみ、光が反射して青く見える。触っても不思議に冷たくない。しかし、氷の世界にも異変が起こっている。昔はかなりの部分に氷が見えたが、だいぶ岩肌が見えてきている。このペースだと、あと80年足らずで、グレイ氷河は消えるだろう。
 上陸して氷河の上を歩く。力を入れて踏みつけないと滑る。氷に裂け目がある。太陽の光で溶けていき、最後は崩落するそうです。横に滑るように崩落していく姿が見えました。

テレビ番組「ポカポカ地球家族 チリ・イースター島」

 2007年2月3日放送。全長4m、重さ30トン程の巨大な石像・モアイ像を一体誰が何のために作ったのか、21世紀になった今もなお謎に包まれている。カンボジアのアンコールワット、ペルーのマチュピチュなどと共に『世界七不思議』の一つとされている。神秘の島・イースター島へは日本からの直行便がない為、タヒチやチリのサンティアゴを経由して到着まで最低2日間かかる。
 1722年にオランダ人が上陸、その日が復活祭の日だったことからイースター島と名づけられた。1000円以上前に作られたモアイは1000体以上が残されている。ツアーガイドをしているのが、最上賢二さん(42歳)、小さい頃からの夢だったそうです。奥さんは由生子さん(38歳)と移住して9年。島で移住権を持つ唯一の外国人夫婦だそうです。

 アフ・トンガリキには15体のモアイ像が聳え立つ。お客さんに見てもらって、結構歓声が沸くそうです。
 二人が住んでいるのは、島の南西にある唯一の村ハンガロア村。人口は3800人で、その7割がポリネシア系のラパヌイ人。村人のほとんどが観光業。村では大規模な開発を規制しており、村の人たちは家族的なつながりが強い。当初は受け入れてもらえず、外国人排除の署名運動にまで発展した。

 朝9時に最上さんはホテルで日本人観光客をピックアップする。観光客の平均滞在日数は3日。3日間で島中が回れるように計画している。村を出て5分。舗装されていない道路を走る。
 ツアーで最初に訪れるのはタハイ。島で唯一の目がついたモアイ「アフ・コテリク」がある。かつては全てのモアイに目はついていた。今ついている目はイミテーション。フランスの雑誌が写真撮影するために作ったものらしい。日本人観光客は年間3000人。最上さんはそのほとんどをガイドしている。タハイは夕陽が沈む夕方に来るのがお勧めだそうです。
 もう一つ魅力的なモアイは島の北にあるアナケナ・ビーチのすぐ後ろにあるアフ・ナウナウのモアイ。頭にはプカオというものをのせている。長く伸ばした髪の毛を結ったまげといわれている。砂に埋もれていたので、保存状態がよいモアイです。
 その西?車で5分にあるアフ・テ・ピト・クラには全長10mのモアイが顔を下に向けて倒されている。部族間の争いの際に、目から放たれるマナという聖なる力を防ぐために倒されたもの。
 島の北西部にあるアフ・アキビは例外的に内陸部に遺跡があり、モアイは海の方を向いている。元々イースター島にたどりついた7人の象徴で、元来た方向を向いているという理由。

 妻の由生子さんは観光で来る日本人がよく利用するホテル「タハタイ・ホテル」で働いている。部屋数は40、宿泊料は1泊140ドル〜。勤めて9年、ここで一番のベテランスタッフで、お客様のアテンドから、部屋の準備、食事のサービス、経理まであらゆる業務を任されている。午前11時にタヒチから飛行機でお客さんが到着するので、お昼に集中する。事前にお昼を食べる。「マヒマヒと野菜の付け合せ」。
 島に1軒しかない市場に行く。午前8時〜夕方5時まで営業している。チリ本土から運ばれる物資が多い。ニンジン、サツマイモ5本500ペソ(110円)、タロ芋、パイナップル、べんり菜(ほうれん草の代わり)など島で取れた野菜も売っている。市場の奥にはみやげ物屋があり、石や木でできたモアイの置物がズラリ!観光客に一番人気は石でできたモアイで10ドル、黒い大理石のモアイ15ドル。

 夫婦で訪れたのは村で人気のチリ料理のお店「アリンガ・オラ」。島の近海で捕れたマグロを玉葱やトマトと混ぜ合わせ、塩胡椒、オリーブオイル、レモンで味付けした「セビッチェ」5000ペソ(1100円)は、ヘルシーで女性に人気のメニュー。「チュラスコ」3000ペソ(660円)は、パンの間に焼肉とマヨネーズがはさんである。

 自宅はホテルのすぐ側の賃貸で、広さ2LDK(60平方m)、家賃は3万円。イースター島以外の人は土地や事業の主にはなれない。外資のホテルやレストランも入れない。

 移住して9年、最上さん夫婦の楽しみはゆっくりとモアイを眺めること。モアイが作られた石切り場では製作途中のモアイが残されている。島で唯一の正座しているモアイも残されている。
 2人の出会いは10年前で、島で偶然出会った。由生子さんは一時帰国したが、やがて2人はイースター島で暮らし始めた。初めての外国人カップルの移住者だったので、就労ビザが下りなかった。島全体が国立公園で外部からの受け入れに、役所がとても慎重。追い出すために住民が署名運動までした。同じホテルで働いていたウリ、シルバーナさん夫婦は助けてくれた。少しずつ人柄の良さで島の人々の理解を得た。5年後にビザを得て、結婚した。
 同じホテルで働いているウリさんの息子の誕生日パーティーに招待された。息子のジョバンニさんは12歳になった。イースター島の誕生日パーティーは賑やかな声を聞きつけた近所の人々も沢山集まってきた。


テレビ番組「仲間由紀恵の蒼い地球、環境破壊・温暖化 ペンギンたちが泣いている」

 2007年1月1日放送。6500万年前に恐竜たち、1万年前に巨大なマンモスも絶滅した。地球上の生物は10分に1種絶滅しているという。東京大学の樋口広芳教授は毎年2〜3万種の生物種が絶滅しているという。アフリカゾウは30年間に3分の1近くになった。オランウータンは100年間で3万頭にまで減った。タンチョウは今では2000羽。この速度がさらに加速すれば、2−30年後に地球上の4分の1が絶滅するという。テレビ東京製作。

●大干ばつ
 1000年に1度の大干ばつに見舞われたのがオーストラリアで、森林火災が発生し、250平方kmが焼失した。2006年1月にシドニーで44度を観測した。中国の重慶では数ヶ月にわたり、気温35度以上の日が続き、70日以上雨が降らなかった。焼失面積は6平方km。
 チャドのチャド湖では面積が40年で20分の1以下になった。タンザニアではキリマンジャロの氷河が消えた。ソマリアでは干ばつがさらに進行した。

●熱波
 2006年7月、フランスに観測史上最大の熱波が襲った。35度を越える猛暑が続き、熱中症などで60人以上が死亡。

●大洪水
 2005年8月にハリケーン・カトリーナが襲った。1800人が死亡し、被害総額は22兆円。10月にギリシャのクレタ島でもあらゆるものが海に流され、村がいくつか消えた。アフリカのソマリアでは10月に250人以上が死亡し、180万人以上が被災した。マラリアなどの感染症が広がった。10月にはニューヨークで季節はずれの大雪となった。セントラル・パークでは観測史上最高となる68cmの積雪となり、15万世帯が停電した。日本でも1月に大雪となり、平成18年豪雪と呼ばれ、死者は151人となった。2004年の台風22号は首都圏を直撃し、池袋駅の地下街が浸水した。

●地球温暖化
 地球の表面は太陽により温められ、熱を外に放出していたが、二酸化炭素などが放出を止めて、温暖化。特に極地で被害が大きい。海洋研究開発機構の江守正多さんは北極海は2070年には氷がなくなるという。
 この50年で2度気温が上昇し、ペンギンたちは雪や氷の上で住めなくなり、ゴミの山に住んでいる。

●日本
 世界全体で100年間で0.6度、日本では1度、東京では3度上昇した。最悪の場合、2100年には現在よりも気温は4度上昇する。すると夏は6ヶ月となり、正月に紅葉の見頃となる。富士山の頂から雪が消える。1m海面が上昇すると、砂浜の90%が海に沈んでしまう。海抜の低い浅草の雷門は3m浸水する。デング熱が日本に上陸する可能性がでてきた。台湾では2002年8月に21人が死亡した。

●ガラパゴス諸島
 1978年世界遺産第一号。エクアドルの海岸線から西に1000km、赤道直下。13の大きな島と6つの小さな島。1835年チャールズ・ダーウィンが訪れ、進化論を発表して有名となった。5000種の生物が生息し、うち1900種が固有種。ゾウガメだけでも島毎に甲羅の形が異なる。求愛の印の首の赤い袋をふくらませるガラパゴス・アメリカ・グンカンドリ Fregata magnificens magnificens 。目の覚めるようなコバルトブルーの足が名前の由来となったガラパゴス・アオアシカツオドリ Sula nebouxii excisa 。ガラパゴスアシカ Zalophus californianus wollebacki 。恐竜時代の生き残りのようなガラパゴス・リクイグアナ Conolophus subcristatus 、ガラパゴス・ウミイグアナ Amblyrhynchus cristatus 。
 ガラパゴスペンギンは体長50cm。1982年〜83年、97〜98年にエルニーニョによりえさとなる小魚がなくなり、1800羽が400羽にまで減少し、絶滅しかけた。地球上のペンギンは18種類、6000万羽。ガラパゴス・ペンギンは個体数1200羽で一番少ない。
 サンタクルス島のチャールズ・ダーウィン研究所を訪問した。ブライアン・ミルステッド博士に話を聞いた。気温が2度上昇し、プランクトンや小魚が死に、ペンギンたちも死んだ。フォト・ジャーナリスト藤原幸一さんはそのエルニーニョによる被害を目撃していた。バルトロメ島は溶岩流の島でペンギンが多い島だった。特にピナクルロックの場所が多かったのだが、ガラパゴスアシカしかいなかった。ガイドのファブリシオ・カルボさんは3羽出会えたらラッキーだという。2羽いました。12月も水温が上昇しているそうで、平均水温23度から1度高くなっていた。海にもぐるとガラパゴスアシカやガラパゴスアオウミガメはいた。ペンギンの大好物のガラパゴス・ブラウンストライプト・スナッパーはいた。しかし白化したサンゴが多く、岩に張り付いたイワガキの殻だけがあった。
 サンタクルス島のプエルト・アヨラの魚市場ではガラパゴス・カッショクペリカンが頻繁に顔を出す。魚の頭とかのアラを競って食べる。その数は日に日に増えている。漁師は水温が上がったので、今までより遠くに行かないと取れないという。そのために魚の値段が上がった。エルニーニョの発生頻度が増し、ガラパゴスペンギンは100年以内に絶滅するだろうとミルステッド博士はいう。
 ガラパゴス・ウミイグアナも海の中の海藻を食べるが、エルニーニョでは数が減るという。フェルナンディナ島のエスピノサ岬はウミイグアナが多数生息する。
 ノース・セイモア島のウミイグアナは進化していた。アシカやオットセイ、アメリカグンカンドリが多く生息している。ウミイグアナは岩にはえる海藻を食べていたが、ソルトブッシュという木の葉などを食べていた。プラサ島ではガラパゴス・ウチワサボテンが多く繁殖する。リクイグアナは雨により増えたサボテンを多く食べていた。ウミイグアナはリクイグアナと一緒に生活していた。ハイブリッド種は現在2頭確認されていて、木に上り海にもぐる。
 最近のガラパゴスの悩みはゴミで、毎日相当量をそのまま燃やし、地中に埋められる。年間12万人の観光客が訪れ、人気のクルーズ観光は3年先まで予約で一杯。動物たちにとってここは既に楽園ではない。ガラパゴス・ゾウガメはこの世に1頭しかいない「ロンサム・ジョージ」のような悲劇を繰り返さないために人工孵化を行なっている。1965年から行なわれ3092匹が孵化した。
 チャールズ・ダーウィン研究所のレイチェル・アトキンソン博士はサンタクルス島のミコニアという植物を保護していて、外来種に1本ずつ薬品を塗り駆除している。
 イサベラ島の沿岸にはペンギンの小さな生息地がいくつかあるが、プエルト・ビヤミールにペンギンが集まっているという。40羽くらいいて、毛がわりの時期を迎えていた。

●南アフリカ共和国
 テーブルマウンテン、希望峰がある。ケープタウンは人口300万人。高橋良輔さんが案内。まず車で1時間のサイモンズタウンに向かった。
 ここのボルダーズビーチには3900羽のアフリカン・ペンギン Spheniscus demersus の大繁殖地がある。体長70cm。以前は鳴き声がロバに似ていることから、ジャッカスペンギンと呼ばれた。1996年に国立公園となった。20世紀初頭には150万羽いたが、今は8万羽。タンカーの衝突事故によりオイルが流れだし、それで亡くなるペンギンが多い。カモメとオットセイが天敵。ペンギン保護のための1mの塀や柵などがある。朝4時にペンギンが活発になるという。住宅街に巣穴を作っていて、道路を渡り、塀を越えている。40年暮らすチョップス・クレイグさんに話を聞いた。1982年に小学生の女の子が2羽のペンギンを見かけ、ペンギンたちが巣を作った。しかしペンギンの数が減ったという。漁師さんはこの付近の海で魚が取れなくなったという。観光客が増えた。交通事故も増えた。ケープタウン大学のレズ・アンダーヒル教授に話を聞いた。海水の温度が上昇し、エサが減っているという。市内の Two Oceans 水族館で大自然のゆがみを垣間見た。本来は2000km離れたマリオン島に住んでいて、ケープタウンにはいないはずのロックホッパー・ペンギンがいた。昨年4月に流れ着いたという。
 ひなを生んだばかりの親が育児放棄をしている。ペンギンが激減しているダイアー島 Dyer Island はボルダービーチから100km離れた島。ケープ州立自然保護団体のローレン・ウォーラーさんが案内してくれた。海岸に世界で5000羽しかいないアフリカクロミヤコドリの卵があった。キンドハナグロウ、ミナミオオセグロカモメもいる。イワシが減ってペンギンが減っているという。向かいのギーザーロックという岩の島には5.5万頭の天敵のオットセイで溢れていた。オットセイはイワシも食べるが、イワシが減ったので、ペンギンを狙うようです。ダイアー島では人工巣穴を作っている。羽の生え変わりの時期にかかってしまい、エサが取れないから育児放棄をしたようです。700羽のヒナが孤児になっていた。Sanccob という団体に保護され、育てられここで野生に帰す計画だという。会長のアラン・ジャーディーンさんに話を聞いた。免疫がないので、鳥マラリアにかかるペンギンも多い。最近も多くのウミウが死亡した。ある日、ペンギンのうち37羽がダイアー島近くで自然に帰された。数日後、島の人工巣穴に彼らがいた。


テレビ番組「地球新世紀 月尾嘉男の文明大冒険」

 2006年11月23日放送。月尾嘉男、草野満代さんが案内。地球が危機にさらされている。洪水、砂漠化、森林破壊。つき進む崩壊へのカウントダウン。このままいくと森は400年後に消滅するという。水は50年後に70億人分が足りなくなる。採掘可能な石炭は164年後、石油は41年後に全てがなくなる。1000年後全ての生き物が地球上から消し去るという試算もある。
 東大名誉教授・環境学の月尾嘉男氏は、過去に崩壊した文明を紐解けばヒントがあるという。日本人とケルト人の生活に地球を救う鍵があるという。TBSテレビ製作。

●森
 森は1990年から2000年にかけて地球上で毎年1000万ヘクタール近い森林が消滅した。日本の国土面積の4分の1にあたる。このままいくと400年後に全ての森が消滅する。それが文明の崩壊をもたらす。

●イースター島
 絶海の孤島。周囲58km、小豆島と同じ面積で、荒涼とした大地が続く。世界的に有名にしたのはモアイ像。毎年4.5万人の観光客が訪れている。1774年この島に上陸したキャプテン・クックは、「島の東側で廃墟に出会った。巨大な像の多くは倒壊し、倒れていた。」と書いている。現在立っているモアイは近年修復されたもの。
 ハンガ・ロア Hanga Roa を中心に3900人が生活している。はるか昔、伝説の王ホツマツアが神様のお告げで一族と共に大海原を船でやってきた。5世紀頃、ポリネシアの民が海を渡り、この島に辿りついで文明を起こしたというものが有力な説となっている。タヒチやフィジーにも石像を作る文明の形跡が残されている。
 モアイ像は5−7m、重さは20トン。様々な装飾が施されている。背中にはふんどしらしき文様もある。頭の上にはプカオと呼ばれる石の帽子をかぶる。アフと呼ばれる祭壇に建てられている。精巧な石組みは高度な文明であったことをうかがわせる。モアイの研究をしているセルヒオ・ラプさんは「モアイ像は人々を見守るご先祖様。亡くなったご先祖様を崇拝するために作られた。」と語る。アフの下から発掘された頭蓋骨がある。当時の人々はモアイ像の前に集落を作っていた。だいたい20人くらいが石の住居の中で暮らしていた。畳50畳分程度の空間で、天然の洞窟を利用していた。入り口付近には石のテーブルのようなものがある。奥には新鮮な空気を得るための風穴もあった。主に食べていたのは、魚、海鳥、タロ芋などだった。
 彼らはロンゴロンゴという奇妙な文字を使っていたが、未だ解明されていない。最盛期は50の部族1万人が暮らしていたと考えられている。

 ラノララク山(標高200m)でモアイが作られた。山肌には作りかけのモアイが397体あり、文明崩壊が突然だったこともわかる。高さ21mの島最大のモアイはその雄姿を一度も見せることもなく風化を待っている。
 ラノララク山は山全体が柔らかい凝灰岩でできている。石斧などで直接切り出してモアイが作られている。まず頭、体、脇腹の順に作られていた。30人が1年間かけてようやくモアイ1体ができた。1000体もあったモアイから15世紀には人口が1万人程度と考えられている。モアイを運ぶために木材のコロを使ったので、森林破壊に拍車をかけた。ニュージーランドのマッセイ大学?のジョン・フレンリー教授は農業を行なうために、森林を全て破壊したと語る。花粉分析により、3万年前から1000年前まで島にはジャングルのような深い大きなヤシの森があったことが判明した。国際日本文化研究センターの安田喜憲教授は土の記録「年縞」に森が消えていく様子が書き込まれているという。紀元1000年頃から急激に森が消え始め、1200年頃にはほぼ消滅、1550年頃に文明が崩壊した。森がなくなり、土壌が流出、肥沃な土は海に流され、土地は痩せ衰え、食料難になったのだろう。わずかな食料を巡って戦争が起こり、モアイは倒された。
 セルヒオ・ラプさんは島の西側にある「アナカイタンガタ?(人を食べる洞窟)」を説明してくれた。食料難で島では食人が行なわれていたようだ。最盛期1万人いた人口は1872年にはわずか111人にまで減ってしまった。
 トロミロの木はヨーロッパ人に持ち帰られていたが、今戻ってきた。今島ではトロミロの森を復活させようとしている。ヤシの木も植林されている。

●ケルト文明
 ケルト文明の専門家の鶴岡真由美さんは「ユーラシア大陸の両端にある文明が大事だ」と語る。  フランスのロリアンでは毎年夏にケルト民族フェスティバルが開催されるが、毎年大きな盛り上がりを見せている。ヨーロッパ全体がケルト民族の精神・考え方を見直そうという気運が色濃く感じられる祭りである。1993年に生まれたEUにはヨーロッパ共通の精神が必要で、それこそがケルトだった。
 2500年以上前のヨーロッパは大地は森に覆われ、美しい景観を作っていた。フランスのブルターニュ地方のブロセリアンドの森のような森がかつてはヨーロッパ全土を覆っていた。ケルトの民は森を大切にしていた。文字は持たず、背は高く、色白で目は青く金髪だった。国を作らず部族単位で暮らしていた。金細工、青銅器、鉄器など金属の加工技術はずば抜けていた。ケルトの精神は自然との共生の中にあった。木は神々が宿るものとして敬愛してきた。特にオークの木、実のどんぐり、それを猪が食べる。人はこの神聖な猪を与えられ、人の排泄物が森を豊かにした。ドルイドと呼ばれる神官が祭儀を取り行なうのもカシやブナの巨木の下と決められていた。紀元前1世紀に始まるローマの侵攻によりケルトに危機が迫った。ケルトの民はスペイン北西部、フランスのブルゴーニュ、イギリス北部と西部、アイルランドで生き残る。キリスト教が入ってくるとケルトの精神が発揮された。多神教のケルトは排除せず融合した。「ケルズの書」、ケルト十字架などが例。

●日本
 一方日本も豊かな自然を守ってきた。長野県の諏訪大社の祭でもモミの大木に神が宿るとしている。山形県大蔵村でも山の麓に田を開き、森林の恵みと共に暮らしてきた里山という原風景。樹齢250年以上と言われる杉の木は村の御神木。祠には「さんじんさま」が祀られている。かつては木を切ったら、植林していた。はるかに遠い山は奥山と呼び、畏敬の念を抱いてきた。八百万の神が住む神聖な場所だと考えている。

 「エコロジーとエコノミーの統合」を月尾さんは提言したいという。ヨーロッパでよく読まれている絵本「木を植えた男」を紹介しました。
 次回はマヤ文明を例に土と水をテーマに1月2日送ります。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 チリ・イースター島」

 2006年9月2日放送。鬼頭あゆみアナが案内。モアイ像は7世紀頃から作られ始め16世紀まで、現在900体以上残っている。世界7不思議と言われた。東南アジアの民が東に移動し、ニューギニア、ポリネシアを経て4世紀頃に到着した。途中のスマトラ島の石人像、タヒチの神像など、石像文化が残っている。

●イースター島 Isla de Pascua
 チリの首都サンチァゴからは3800km離れている。周囲は60kmで小豆島と同じくらいの大きさ。日本から30時間以上かかった。島の人が一人一人温かく出迎えてくれた。18世紀の初頭、島に初めて上陸した西洋人が、その日が復活祭の日だったので、イースター島と名づけた。地元ではラパヌイ Rapa Nui (大きな地)と呼ばれている。
 モアイ像は島の東側の海の近くにある。15体ある。高さは8〜11m、最も重いもので80トン以上ある。顔も全て違う。上半身だけが石の上に載っている。おなかを抱えるように手、腕もある。頭の上には赤い石が置かれている。モアイは海を背にして、山を向いている。
 海辺から2kmの場所に7体のモアイがある。アゴの線が鋭く、体型も鋭い。島の西南にいるモアイは1体で、目が描かれている。

 この島で生まれ育った考古学者セルヒオ・ラプさんは30年以上研究してきた。島の西に立つ5体のモアイは7世紀頃に作られた。石組から先は神聖なので立入禁止。モアイが立っているのはアフ Ahuと呼ばれる祭壇の上。
 モアイの前には昔は村があり、多くの家があり、1000人くらい暮らしていた。今でも家の一部(石を組み上げたトゥパ Tupa )が残っている。洞窟の前に石を組み上げて家を作っていた。人々は強い風を避けるために洞窟の中で暮らしていた。1つのトゥパに60−100人暮らしていた。中は石作りのベッドがある。
 ラプさんは秘密の場所に連れて行ってくれた。車で2時間、島の最北端。洞窟の中にマケマケという神様の顔が描かれていた。現在でもイースター島の民はこの神を崇めている。モアイ像は別の目的のためだった。
 ラプさんは祭壇に大きな意味があるという。ここには人の骨が多く見つかっている。精巧な石の部屋に入れられているので、位の高い人物の墓だったと思える。モアイは部族の長の姿を描いたもので、部族の力の象徴だった。最盛期で50の部族がいたという。7世紀には高さ2mだったのが、すぐに3mとなり、10世紀には5m、15世紀には11mにもなった。頭の上の赤い石はプカオ Pukaoと呼ばれていて、太平洋の島々では人々は髪の毛を頭上で束ねていた。これを表現している。プカオをのせることでモアイはさらに巨大化した。

 島の南東部にある小さな標高200mの山ラノララク Rano Rarakuに行った。ここはモアイ製造工場だった。山の斜面にモアイの顔だけが置いてある。作る途中か、運ぶ途中だったのか、不思議な光景。
 イースター島は70万年前に火山が噴火して生まれた。ラノララクは灰と小石でできた凝灰岩でできている。石切り場には削られたままのモアイが300体もある。あお向けの状態で顔を刻み、最後に背中の部分を切り出していたようです。最大のモアイ像がある。完成していれば、長さは22m、重さは400トンになったろう。
 20世紀の半ばに一艘の筏が島に到着した。乗っていたのはノルウェー人のトール・ヘイエルダールで、コンチキ号による南太平洋横断の途中だった。1955年彼はモアイ像の発掘を始め、様々な調査を行なった。実際に横に倒して、180人で運び出せることができた。しかし、島にはモアイは自分で歩いたという伝説があり、山の途中にあるモアイ像こそ、その姿だと島民は主張した。1986年、彼は再度、立てたまま運ぶ実験をした。6方向から支えてわずかずつ動かした。しかも90人以下で可能だった。
 ほかにも運搬方法には、木材のコロを利用したもの、テコを使ったものなどがある。一番離れたものは20kmもあるので、猪熊兼勝さんは2艘の船を使ってモアイ像を海面下で運んだと考えている。

 何故モアイは途中で製作をやめたのか。島の南東、中央にあるモアイ像はうつぶせになっている。1774年に上陸したキャプテン・クックは、「島の東側の海岸で、石像の台座というよりは、その廃墟に出会った。上の像は、全部倒れており、みな破損し、もとの面影を失っていた。」と記している。
 国際日本文化研究センター教授の安田喜憲さんは、環境から読み解こうとしている。湖や湿地帯のボーリング調査で、12m掘ると2000年間の変化がわかる。その結果、4世紀にはヤシの森が生い茂っていて、7世紀頃に大幅に減少し、12世紀になくなった。船やモアイと作るために伐採したのだろう。森がなくなり肥えた土が流れ出し、やせた大地となった。13世紀から土地浸食が起こりはじめた。食料不足となり、部族同士の争いに発展したのだろう。島民同士の戦やモアイ像が倒される場面を西洋人が見ている。
 モアイ像の目にはサンゴが使われていた。うつ伏せに倒すことにより、目に宿るとされた霊力を封じこめようとした。
 19世紀になると、スペイン、イギリス、フランスなどの支配を受け、1万人以上いた島民も奴隷などになり、一時は111人まで減った。40年前にチリの領土として、観光島として再生を始めた。
 1960年代以降、島民によるモアイ像をかつての姿に復元する試みが始まった。1995年には日本の協力で3年がかりで15体のモアイが立ち並んだ。現在39体が立つ。
 イースター島の人々は環境の復興にも力を入れている。子供たちがマコイという木を植林している。50年後には10mを肥える大木に成長する。

●ハンガロア
 島の唯一の街。3800人が暮らしている。観光客は年間2万人、うち日本人が3000人。島最大の祭りタパティでは、ポリネシアの伝統を受け継ぐ文化が披露される。1週間、島は熱狂に包まれる。

http://hipo0.hp.infoseek.co.jp/ab22.mp3


テレビ番組「世界不思議発見! モンゴロイド大移動 世界の果てへの旅」

 2006年4月29日放送。チリのプエルト・モンに1万年前のモンゴル系の人の足跡が見つかった。氷河期はアラスカとアジアの間のベーリング海峡が凍っていたので、歩いて渡れた。アメリカン・インディアンやマヤなどの人は取り上げられているが、アメリカ大陸の南端にまで行った人たちは取り上げられていない。巨大な遺跡を残さず、彼らは西洋人による迫害により歴史の表舞台には出てきていない。TBS制作

●イグアスの滝
 アルゼンチン、ブラジル、パラグアイの3つの国境にまたがる。毎秒6.5万トンの水量は世界一。アルゼンチン側には遊歩道があり、滝のすぐ近くまで行ける。また高さ80mの悪魔の喉笛の近くまで行ける。ここは先住民グアラニーの聖地で、イグアスとは彼らの言葉で「大いなる水」という意味。彼らはまだ近くに住んでいる。イリアプ村を訪問した。お客をもてなす時にマテ茶でもてなす。ガンに効くニエルミ・イグアスの葉、男性の精力剤となるカツアバなどがある。世界三大美果のチリモヤもある。ほかの2つはマンゴスチンとパイナップル。ここは熱帯です。

●チリ
 プエルト・パラスは日本と同じくらいの気候で、富士山に似ているオソルノ山(2661m)もある。このあたりに住むのはスペイン人にも抵抗していたマプーチェ。  テムコは中心都市で、市場には熱帯のもの、寒い地方のものなどが並んでいる。薬草もあり、乾燥した葉などをパックにして売っている。ウィケはお風呂に入れるとリューマチに効く。クニャーナは血圧を下げる。マプーチェには呪術医(マチ)がいる。滅多に取材は受けないが、セバスチャン・アジレフさんにみてもらった。
 鳥の声アーティストのロレンソ・アイジャパンさんは詩人。ロレンソさんの声に鳥も反応していました。マプーチェの人は海藻も食べる。コシャユーヨはジャガイモと煮てスープにしたコーリとして食べたりする。

●チリのパルマ・セダ
 パタゴニア地方。フィヨルドの中にサン・ラファエル氷河もある。クルーズ船からボートを下ろして近くまで行けるが、氷河の崩落には注意が必要。

●アルゼンチンとチリ
 フェゴ島のウシュアイア。マゼランが世界一周した際に立ち寄った島。アメリカ大陸のフェアバンクスからここまでパン・アメリカン・ハイウェイと呼ばれる道路でつながっている。ここに住んでいたのはヤーガンと呼ばれた。迫害されたり、持ち込まれた病原菌で多くが亡くなり、今は純粋にはたった一人だけとなった。その人はフェゴ島の向かいのナバリノ島のプエルト・ウィリアムズに住むクリスティーナ・カルデロンさん(78歳)。ヤーガンにも蒙古斑があったそうです。


テレビ番組「2006年4月1日の旅サラダは純名りささんで「タヒチからイースター島へ 」」

 場所はオーストラリアと南米の間にある。最後の楽園タヒチはフランス領ポリネシアが正式名で118の島がある。タヒチへの直行便(11時間、週3便)のエアタヒチヌイで行ったようです。少し物価が高いけど〜っていう感じみたいですね。タヒチに関する情報は、タヒチ観光局のホームページが便利です。
http://www.airtahitinui.co.jp/
http://www.tahiti-tourisme.jp/

●ランギロア島 Rangiroa
 タヒチ語で大きな空を意味する。海の青がとてもきれいです。「ゴーギャンズ・パール Gauguin's Pearl」(住所:B.P.105 Avatoru Rangiroa、Tel:689-96-11-30)は、タヒチで人気のアクセサリー黒真珠のお店。黒蝶貝という貝で養殖する。養殖作業を見学し、併設しているブティック「Gauguin's Pearl Shop」にて黒真珠を1粒ずつから購入することができる。黒っぽいものや、ピンク色などそれぞれ微妙に色が違う。Aランク10mmで25500CFP(3.1万円)、Aランク10.5mmで31000CFP(3.6万円)を純名さんが悩んでいたが、少し安い緑がかったものを購入されました。1000CFP(1200円?)からあります。

 もう一つの黒真珠といわれる話題のもの(ワイン)がある。フィッシャーさんが案内してくれました。ポリネシアで初のものが3年前にできた。ぶどうはカリニヨンで、1年に10月と5月に2回収穫ができるが、世界でここだけでしょう。「タヒチワイン・ワイナリー Vin de Tahiti」(住所:B.P.40 003-98 713 Papeete Tahiti、Tel:689-96-04-70)を訪問した。2004年の赤を試飲させてもらいました。2004年のは1本3000CFP(3700円)でした。

 夕方、島の名人を訪ねた。ポフウエさんはモノイオイル Monoi Oil 作りの名人で、1瓶3000CFP(3700円)。材料は芽が出た椰子の実で、内側を削り、ヤドカリを1,2個入れる。これでオイルが出やすくなり、きれいなオレンジ色になるという。出てきたオイル?に乾燥させたティアレ・タヒチで香りをつけて1年間置くと完成。タヒチの人々の生活に欠かせないもので、強い日差しから肌を守ったり、子供が病気にならないように、寒い時は体に塗って海に入るそうです。マッサージにも使うようです。

 宿泊は「ホテル・キア・オラ Hotel Kia Ora」(住所:B.P.1 Tiputa Rangiroa、Tel:689-93-11-11)で、島で一番人気の5つ星ホテル。椰子の木よりも高い建物はない、高級でのんびりしたホテル。客室はすべて1軒家のバンガローで、一番人気は水上バンガロー(1泊68000CFP:8.3万円)。テーブルの下は海で、魚がいました。海がとてもきれいで、部屋からそのまま海に出られる。昨年10月にオープンした客室ビーチデラックスの54号室Tera に宿泊しましたが、窓が大きくて海が一望できました。ベッドの目の前がすぐ海という開放的なデザインで、バスタブは露天で高い壁に囲まれています。各種マリンスポーツも充実している。
http://hotelkiaora.com/

 翌日はダイビング。「ブルー・ドルフィン・ファンダイビング Blue Dolphins」(住所:B.P.1 Tiputa Rangiroa、Tel:689-96-03-01)は、ホテル・キア・オラ敷地内にあるダイビングセンター。インストラクターの喜田純子さんが常駐している。7700CFP(9500円)。深いブルーでダイバーたちの憧れ。タイマイという海ガメと遊んだ。バラクーダ、グレイリーフ・シャークの群れがいました。マンタもいました。

●タヒチ島
 虹のかかる島という意味。パペーテ Papeete はフレンチ・ポリネシアンの中心で、ヨーロッパのような雰囲気の街並み。町を走る市民の足はル・トラック le truck という古いタイプのバス。料金はパペーテ市内だと130CFP(160円)。どこでも降りたいところでボタンを押す。乗りたい時は手を上げる。
 市場マルシェ Marche にやってきた。街の中心にあり、朝早くから夕方までやっている公共市場で、干しバナナは干しイモみたいな味だそうです。カジキマグロ、キハダマグロなどの赤身も売っている。
 Le Croissant D'OR はフランス領ならではのパン屋さん。物価が高めの時でも大きなフランスパンは1本47CFP(60円)。
 夕方、浜辺でタヒチアン・ダンス Tahitian Dance をメヘリオ・プランシャーさんに教えてもらった。日本語もできます。去年タヒチアンダンスで優勝したチームが踊りを見せてくれました。音楽にあわせて腰を振って踊るタヒチの伝統芸能で、戦いを表す踊り「オテア」や、「手で表現する」の意味の「アパリマ」などがある。純名さんはアパリマを教えてもらい、ティアレタヒチをみんなで踊りました。

●ボラボラ島 Bora Bora
 「ボラボラ」は最初に生まれたという意味。タヒチ島から飛行機で1時間、空港の隣がきれいな海の港で、ホテルの船でホテルに向かう。水上バンガローが並ぶ「ボラボラ・ヌイ・リゾート&スパ Bora Bora Nui Resort & Spa」(住所:B.P.502,98730 Vaitape Bora Bora、Tel:689-60-33-00)は、到着すると音楽でお出迎え。ここはボラボラ島内で最も多くの水上バンガローを持つ。水上バンガローは全室スィートで、1室1泊11万CFP(13.5万円)。ベッドは天蓋付きで、浴室は超豪華です。少し山の中にあるマンダラスパのスパ・トリートメントは50分〜で13500CFP(16500円)〜。
http://www.boraboranui.com/

 島の中心バイタペ Vaitape からミスター・ボラボラのパトリックさんの運転する4WDツアー(8名:5万CFP:6.2万円)に参加。かなりの悪路を行きますが、さらに怖いそうです。
 油絵を描きながら、パレオ作りをしている画家エマニュエル・マッソンさんのアトリエ Paarara mountain artist を4WDで訪ねる。奥さんの画家マイマさんと夫婦でパレオ作りも行っている。ボラボラ島の自然から力をもらっているそうです。1枚2000CFP(2500円)〜。とてもきれいです。
 夜はパトリックさんが素もぐりで取ってくれたロブスターや焼いたパンノミをいただきました。パンノミはウルと呼ばれるパンの木の実で、じゃがいもとサツマイモを混ぜてもちもちさせた感じだそうです。1本の木は50年生息し、年に3回実をつけるそうです。

 ヘリコプター周遊をした。ボラボラ島を空から眺めるヘリコプターツアーで、30分コース(26560CFP:3.25万円)では、青いオープンハート型のツパァイ島まで見ることができる。今回はボラボラ島のオテマヌ山の山頂まできれいに見え、サンゴ礁の様子も見えました。

 ポール・ゴーギャン Paul Gauguin (1848-1903)は1891年にやってきた。光溢れる色彩と現地の美しさに魅せられた。南部のマタイエア地区の聖ジョン・バプティスト教会でタヒチ語の賛美歌「イア・オラナ・マリア」を耳にした。それに触発されてタヒチ人のマリア「イア・オラナ・マリア」を描いた。「ゴーギャン博物館 Musee Paul Gauguin」(住所:Ppeari、Tel:689-57-10-58)は、タヒチ島の観光スポットとして人気で、本物の絵は一枚も無いが、ゴーギャンが彫ったスプーンなどが置かれている。生前にタヒチで絵は認められることはなかった。自殺を図る前に描いた「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(1897)はボストン美術館に所蔵されているが、レプリカ?が置いてある。命をとりとめ、タヒチの絵を描き続けた。入館料600CFP(750円)。
 お孫さんのタイ・マセルさんに会った。ゴーギャンの2番目の妻・パウウッラの孫にあたる。パウウッラさんは「ネヴァーモア」、「王の娘」などのモデルとなっている。プナアウイア地区の海辺?はゴーギャン夫妻が暮らした場所。ゴーギャンが古城のようだと言ったモーレア島が見える。


●チリ領イースター島 Easter island
 タヒチからLAN航空の直行便で6時間、イースター島のラパヌイ Rapa Nui (大きな土地の意味)に到着。約1000体のモアイ像が残る神秘の島。
 イースター島唯一の村ハンガロア村 Hangaroa はのんびりしている。宿泊の「ホテル・タハタイ Hotel Taha Tai」(住所:Apina s/n、Tel:56-32-55-11-92)は、アットホームな雰囲気の、海辺に面したホテル。日本人スタッフ最上由生子さんが常駐している。白壁で落ち着く感じ。今回は34号室でいい香りがするそうです。カーテンはオレンジ、ベッドはオレンジと青。民宿っぽいかも?シングル140USドル、ツインは180USドル。
http://www.hotel-tahatai.co.cl/

 郵便局 Correos Chile で切手を買い、記念スタンプを押してもらう。1USドル。3月18日でした。
 市場に行く。土地が痩せているので、サツマイモ、サトイモ、果物などしか作れない。飛行機のスチュワードのシモン・アビラさんはここでも働いていた。漁師もしているそうです。
 お昼は伝統料理をいただいた。テトさんが海辺で、焼いた石で作ってくれたウムという蒸し焼き料理で、バナナの葉と海藻を敷いて、その上に鶏肉、さつまいも、さといも、太刀魚似のよりでかい魚、などを巻いて2時間蒸し焼きにした。出来上がると大地に感謝して取り出す。
 タハイ Tahai という広場にはテントのおみやげ物屋がある。モアイ像はイースター島のラノカウ山の石で作った手作りのもの。10USドル〜。島の人はみんなモアイ像は作れるそうです。
 若者がホコという戦いの踊りをモアイ像の前で見せてくれた。純名さんも一緒に踊りましたが、最後はニュージーランドのマオリ族のハカ Haka にも似ていました。

 1722年4月5日、オランダの提督がイースターの日に発見したのでイースター島と呼ばれる。7世紀から作られ始めたモアイ像は作りかけも含めて1000体ある。15体のモアイが立つアフトンガリキ Ahu Tongariki はイースター島最大の遺跡。アフという台座が先祖を祭る祭壇で、その上にモアイが立っている。歴代の部族の長に似せたモアイが作られた。右から2番目の髪のあるモアイ像「ブカオ」にパワーを感じたそうです。かつては目には瞳が入っていて、それで部族を見守っていたという。手前に何でもないように転がっている岩は実はモアイだった。立っているモアイは全て復元された姿です。
 アフ・バイフ Ahu Vaihu のモアイ像は全て倒れているが、これは部族間の戦いフリ・モアイ(モアイ倒し戦争)によるもの。目に力があると信じられていたので、うつぶせに倒し、目を破壊した。
 ほとんどのモアイが切り出されたラノ・ララク山 Rano Raraku には作りかけのモアイなどが300体ある。戦いのやり方が変わった。ある不思議なレースによって島の実力者を決めるようになった。オロンゴ儀式村 Orongo に残る上半身が鳥、下半身が人の鳥人崇拝による。ここの高いガケから降りて行って、向かいの岩の無人島のその年の最初の海鳥の卵を持ち帰るレースで競ったようだ。
 島に残るカイカイ Kai kai というあやとりみたいなものを、クララさんが説明してくれました。舟、ネコの目などほぼ同じです。
 地球のおへそと言われる岩もあり、頭をつけるとパワーをもらえるそうです。
 モアイのいる素晴らしい夕陽でした。


テレビ番組「日本のタクシー大冒険U…地球縦断26000キロ南米最南端〜ニューヨーク100日間奇跡の旅」

 2004年7月18日、19日放送。乗客は大鶴義丹。前回の東京〜ロンドンに続く第2弾。南米の南端からニューヨークまでの2.6万kmの旅。使用ガソリン2359.547リットル、給油回数74回、最高気温37度、最低気温ー2度、乗車時間637時間、越えた国境11ケ所。
 2003年8月5日、ドライバーを決めるオーディションをした。全国から61組の応募があり、練馬区大泉学園に住む父65歳佐久間侃さん、娘39歳の綾子(日生交通)さん親子が選ばれた。テレビ東京製作。

●アルゼンチン・フエゴ島
 日本から飛行機で37時間。2003年12月22日にウシュアイア国際空港に到着。ここから1000km南下すれば南極。空港のすぐ南のビーグル水道はダーウィンが乗っていたビーグル号にちなんで名づけられた。アシカ科のオタリア、ズグロムナジロヒメウなどが生息している。
 ウシュアイア(アルゼンチン:南緯55度)は世界最南端の町。先住民は日本人と同じモンゴロイドだが、今は純粋な先住民は誰もいない町、南極観光の拠点として世界中から観光客が集まってくる。

 12月27日午前9時、世界最南端、国道3号線の終点からスタート。2ヶ月かかってタクシーは船で先に到着していました。グアナコという鹿みたいなのが道路の横をはねていました。

●チリ・フエゴ島 ⇒チリ本土
 12月28日、アルゼンチンからチリへの国境越え。フエゴ島は九州よりも少し大きいくらいで、島の真中を縦に国境がある。国境を出ると何もない緩衝地帯が10km続く。チリに入って395km、11万円。ポルベニール港から本土へ渡ろうとしたが、満車で乗れなかった。仕方なく、バイア・アスール港のフェリー乗り場から南米大陸に渡る。12月は百夜。巨大な虹がかかりました。海の底から照明を当てているようなすごい虹でした。午後10時半にフェリーに乗り、マゼラン海峡を20分で渡る。

●チリ
 3時間走って、プンタ・アレーナス Punta Arenas (岬の先端という意味)という町に到着。夜中の2時。プンタ・アレーナスはマゼラン海峡の入口にあり、マゼランによる発見により栄え、その衰退とともに静かな町に戻った。マゼランのブロンズ像があるが、その足元には、マゼランによって滅ぼされた先住民の姿がある。足が異様に光っているのは、ここにキスをすると再度帰って来られるという伝説があるからだという。

●チリ・パタゴニア
 1年を通じて強風が吹く。海沿いの陸上にマゼラン・ペンギンがいました。海にえさを取りに入っていきました。巣の中には卵からかえって2ヶ月の、大きな子供がいました。パタゴニアは冬が長く野生動物が暮らすには適している。
 12月30日、美しい場所の一つパイネ国立公園が見えてきたところで、車がスピン。路肩の岩にぶつかって止まりました。右側の前輪と後輪がパンクしたが、お父さんが交換しました。怪我はなかったのですが、綾子さんはショックが大きすぎて、静かになってしまいました。1220kmしか走ってないし、お客を乗せていただけにショックだったようです。
 12月31日、アルゼンチンに入国。やけに明るい職員で綾子さんも笑う。1350km、40.6万円。

●アルゼンチン
 パタゴニアの広大な風景が広がっていた。コンドルが悠々と飛んでいました。カラファテの町で1泊し、新年を迎える。1月1日6時半、朝日に佐久間さん親子は、安全を手をあわせて祈りました。
 アンデス山脈の上に広がる、ペリト・モレノ氷河。高さ60m幅5kmの巨大な氷河の壁。崩れて川に落ち込む様子を見て、滅多に感動しない大鶴さんも感動しました。氷河って生きているみたいです。
 パタゴニアは日本の2倍の広さ。1月3日、大西洋に出ました。1月5日バルデス半島、オタリアというアシカとオットセイに似た動物がいました。南米大陸しかいません。オスはSea Lion と呼ばれていて、1頭がメスを10頭くらい従えている。1月6日、費用が100万円になりました。3403km。

 1月8日ブエノスアイレスに到着。人口300万人で、南米のパリと呼ばれています。移民たちが作り上げた町です。ブエノスアイレスで一番という喜納自動車整備工場で修理してもらった。沖縄出身の日系移民がオーナーです。休日も修理をしてくれました。本来は部品交換をするのですが、部品がないので、叩きだしという技術で対応しました。
 その間に、おいしいと評判のレストラン「ロス・プラティトス」で食事をした。アルゼンチンは牛肉の消費量世界一を誇ります。ベイビー・ビーフを注文。800gで20ペソ(600円)。
 アルゼンチンには日系移民が3.5万人暮らしている。ブエノスアイレス郊外の渡辺よしのさん(90歳)宅を訪問。昭和10年にアルゼンチンに来て68年。最初は苦労ばかりでしたが、花の栽培をはじめてから生活が楽になったそうです。妹さんが東京・足立区の五十嵐すみえさん(82歳)で、ビデオレターを見て、涙していました。
 1月12日に当初の予定よりも3日早く、タクシーが新品同様に直っていました。
 南米のきれいなひまわり畑が広がっていた。

 1月16日イグアスの滝。世界三大瀑布の一つ。悪魔ののど笛を含め300近い滝が流れ落ちます。圧倒的なスケールに人間は立ちすくむのみです。あまりに量が多すぎて、水の動きが奇妙なんだと大鶴さんは言います。

●ブラジル
 1月17日ブラジル国境を越える。6230km、180万円。ブラジル側からもイグアスの滝を見ました。ブラジル国内を走るが、お父さんも大鶴さんも爆睡。
 1月20日サンパウロに到着。人口1500万人、南米最大の町。異なる文化を持った移住者の街。かつての日本人街、今のリベルタージュ(東洋人街)に行ってみた。サンパウロには37万人の日系人が暮らしている。日本のタクシーを見て、いろいろ聞いてきた人がいました。
 1月24日、マウリシオ・ジョペル橋を渡る。パウナ川を渡る全長13kmの橋で、渡りきるのに10分以上かかった。ここで自然渋滞に巻き込まれた。ここでお父さんがイライラし始めた。その夜カンポ・グランジのホテルで、スタッフが親子の関係について聞いてみた。やはり亀裂ができていた。

 パンタナール湿原。日本の本州と同じくらいの面積、パンパジカという鹿などの80種類の哺乳類、トゥユユ(ズグロハゲコウ)という白鳥などの650種類の鳥類が確認されています。中でもスミレ色をしたスミレコンゴウインコはここにしかいない。そして、ジャカレ・ド・パンタナール(パラグアイ・カイマン)というワニのような50種類の爬虫類。
 1月29日パラグアイ川で釣りを楽しんだ。ピラニアが釣れますが、ワニもいます。地元の人が川に飛びこんだ。この時期、パンタナールは雨季で、毎日バケツをひっくり返したような雨が降った。
 1月31日、300万円到達。ボリビアとの国境に近い、カセレスに到着。ここにも日本人移民が住んでいます。中本仁平さん68歳。昭和34年に23歳で単身ブラジルに渡った。その半生は壮絶を極めるものだった。戦時中は満州に家族で行っていて、日本に帰れたのは兄と妹だけだったそうです。農地を切り開き、木材などの伐採などもしていた。体長2mのジャガーも食べたが、おいしくなかったそうです。1968年アルミで雨どいをつくる工場をつくり、これがあたって、生活が楽になった。叔母さんの北村時子さん(87歳)のビデオレターを見て涙しました。3人は日本食をおいしくいただきました。刺身はパクーという魚でした。
 2月5日アマゾン縦断道路 BR319 を600km、マナウスに向かって走っていましたが、道路のぬかるみにはまりました。抜け出しましたが、退却することに決定しました。346万円で撤退。川で行くことを提案され、農作物を載せる船に船長に頼んで、マデイラ川から船に3台乗せてもらって、マナウスに2泊3日で向かいました。途中で、10kmに渡り黒い川と白い川が分かれて流れているのを体験しました。2月11日午後8時マナウス上陸。マナウスは19世紀に天然ゴム景気に湧いた町です。
 2月12日、道はあてにならないので、船がメインの町。中央市場に行く。一部は魚専用市場になっています。でかい魚が並び、さばき方も豪快で輪切りです。タンパキ、アロワナ、ピラルクなどもでかいです。アカリというナマズの一種が一番人気。炭焼きして、塩とレモン汁をかけて食べますが、おいしいそうです。
 2月13日、赤道を通過。赤道モニュメントもありました。

●ベネズエラ
 2月18日ベネズエラの国境を越えた。13277km、384.6万円。最近クーデターがあったばかりで政情が不安定なので、ピリピリしていた。
 大鶴さんはギアナ高地へ来るのが夢でした。1000mの絶壁です。ヘリコプターを使い、1000m上の太古の大地に上がりました。下を見ながら、いろいろなことを思いました。2月21日、目の前にカリブ海が広がりました。ここから船でパナマに渡ります。ところが船がキャンセルされた。
 カラカスのシモン・ボリーバル国際空港から3人は飛行機でパナマに飛び、ディレクターはタクシーをパナマに運んでくれる貨物船を探します。

●パナマ
 3人はホテルでディレクターからの連絡を待っていました。タクシーはコロンビアからパナマまでは道がないので、飛行機で空輸してもらいました。パナマのトクメン国際空港で、ディレクターからカギを受け取りましたが、ディレクターは泣いていました。いろいろあったのでしょう。

●コスタリカ
 3月1日コスタリカ入国。17099km、452万円。人口は350万人たらず。山下鉄郎さん89歳、長女和子さんがコスタリカ人と結婚したので、18年前に一緒に来たそうです。次女裕子さん、三女泰子さんのことはいつも忘れないと言います。事業に失敗し、奥さんと離婚し、和子さんには迷惑をかけたと言います。三女のビデオレターに和子さんと鉄郎さんは涙しました。

 3月5日、お父さんが突然、体調を崩しました。長い間、風邪ひとつひいたことがないというお父さんでしたが、咳と熱がでました。

●ニカラグア
 18199km、483万円。コンセプシオン火山(標高1610m)が見えてきた。富士山に似ていました。病院どころか町がありません。
 グラナダという町があり、日本からの資金協力で作られた日本ニカラグア友好病院があり、入院した。39度になった。ちょうどこの頃、中米ではデング熱というのが流行していたので、それかもしれなかった。原因不明でした。3日連続して寝ていました。黄熱病やマラリアなども考えられていましたが、3月8日復活しました。
 ガソリンの値段の値上がりでトラックの運転手がストライキをしていて、道路が閉鎖されていた。みんなが農道を教えてくれたが、橋のない川を何度も渡りました。

●グアテマラ
 3月12日、19197.5km、511.9万円。
 3月14日、世界で最も美しいという湖、アティトラン湖に到着。ここにも富士山に似た火山が3つある。サンペドロ火山(標高3020m)も見事な火山です。
 湖畔には、先住民族カクチケル族が暮らしています。日本人にとってはどこか懐かしい風景です。男たちが漁から帰ってきました。サンタ・カタリーナ村。カクチケル族は古代マヤ文明の衣装と同じです。
 ある一軒の家を訪ねてみた。カタリーナ・ミマカチさんのお宅です。マッチだけで火がつく木があります。トウモロコシの粉をこねて作る、中南米代表の食材トルティーヤを作るのを綾子さんは手伝った。各家庭には石、水を加熱した石で作った部屋がある。サウナで、みんな毎日入るそうです。男性はサウナに入りました。中はかなり煙いそうです(笑)
 湖で獲れたモバラという魚を油で揚げた。今晩のメニューはトルティーヤに魚が1匹ずつ、それにチキンが入ったスープにライス。

●メキシコ
 3月15日。19849km、530.7万円。日本の5倍の面積の国、メキシコに入りました。
 3月19日、ティオティワカンが見えてきた。メキシコ最大の宗教都市遺跡、死者の道と呼ばれる全長4kmのメイン・ストリートを中心に、太陽のピラミッド、月のピラミッドがある。謎多き遺跡ティオティワカン。太陽のピラミッドは、全部で248段ある急な階段、高さは65m。世界でも3番目に大きいピラミッドです。紀元前2世紀に作られて、最盛期には20万人が暮らしていた。
 突然、ピラミッドの頂上にいた人が両手を上にあげ、逆立ちしている人も出ました。この日は丁度春分の日。年に2回、太陽の位置が一番高くなる日だった。太陽のエネルギーを得るためだそうです。

●アメリカ合衆国
 3月22日、22446km、606.1万円。テキサス州に入りました。 あとはゴールのニューヨークに向けてつき進むだけ。
 3月23日、サンアントニオ市。観光都市としても知られ、水路が走っています。満枝・マクダニエル(旧姓川島さん)さん70歳は、両親のとまどいを押し切って、リチャードさんと1959年結婚した。両親との仲を修復したいという思いはあったが、ちゃんと言えないままに逃げていて、両親は亡くなった。妹さんの大川由子さんからのビデオレターを見て、涙しました。

 3月27日、ミシシッピ川の河口のニューオーリンズに到着。ここで日本人観光客に囲まれました。
 500km北東に進み、アトランタのストーン・マウンテンが見えた。世界最大の花崗岩。レリーフは南北戦争の南軍の英雄3将軍。ケーブルカーで山頂にも上ることができます。眼下にはアメリカ南部の風景が見えましたが、タクシーが目に入りました。
 ここで The long and winding road が流れました。3月31日、ワシントンDCを通過しました。満開の桜が向かえてくれました。ホワイトハウスも見えました。

 4月2日、午前5時、フィラデルフィア。気温0度。とても寒い日でした。朝6時に最後の洗車・給油をしてから、200km先のニューヨークに向けて8時に出発しました。7108420円からのスタート。最後は綾子さんがハンドルを握りました。
 ブルックリン橋を渡り、プラザ・ホテルの前に向かう。1907年10月2日に新装オープンしたこのホテルの前で、アメリカで初めてメーター付きのタクシーが使われた。それで、プラザ・ホテルの前に向かう。エンパイア・ステートビルの横、タイムズスクエアを通過し、60丁目の角を左折しました。しばらくするとクラクションの音がすごい。イエローキャブが迎えてくれました。鳩も飛んでいて、綾子さんはとっても嬉しかったようで、涙にくれていました。
 2004年4月2日、12時57分ゴールしました。全走行距離26368.6km。プラザホテル前には、お母さんと綾子さんの子供たちが待っていました。しっかり抱き合って、感動しました。改めて家族の大切さを感じた旅でもありました。
 料金は716万1860円でした。


TV番組「旅サラダ」、1999年1月は河合千春さんでチリ

まず、チリのアタカマ砂漠でした。
なお、これは私個人が番組からピックアップしたもので、朝日放送とは関係がありません。
 ホテルはエクスプローラといって、最低3泊4日でUS1858ドルですが、乗馬ツアーやトコナオ、アタカマ塩湖、バロスネグロス湖、早朝のタティオ間欠泉群のツアーがこみです。
 ここの撮影でスタッフがバタバタ倒れたと言ってました。
 次はパタゴニアでした。資料が紛失したので、失礼。


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