アジア

ハワイ・グアム・サイパン・フィジー・ニューカレドニアなど

北アメリカ

中央・南アメリカ

ヨーロッパ

オーストラリア・ニュージーランド

アフリカ

いのうえの海外旅行記

いのうえの海外旅行写真記

日本の宿

日本のレストラン

トップ

オーストリア・ウィーンの旅行情報


なお、これはわたしが個人的にテレビを見て書いたものであり、各テレビ局や番組とは全く関係はありません。
すべての文章の無断使用・転載を禁止いたします。
またここの情報を使って、何か問題が起こったとしても私は一切責任は持ちませんのであしからず。


テレビ番組「美の巨人たち 放送500回記念スペシャル・愛と野望の美の宮殿」

 2010年3月27日、28日放送。2000年4月開始で10年、番組も500回。小林薫さんが案内。シェーンブルン宮殿のマリア・テレジア、ヴェルサイユ宮殿のメリー・アントワネット、エルミタージュのエカテリーナ2世の3人は不思議な縁で結ばれていた。

●シェーンブルン宮殿
 ウィーンはかつての世界の中心だった。市内のそこかしこで見かける「双頭の鷲」の紋章を掲げたハプスブルグ家は、スペイン、オランダ、イタリア、ドイツ、ハンガリーなどを治めていた。南西およそ5kmにシェーンブルン宮殿がある。
 200ヘクタールという広大な宮殿を持つハプスブルグ家の夏の離宮。シェーンブンとは「美しい泉」という元は清らかな泉に建てられた小さな宮殿だった。それを現在の形に変えたのがマリア・テレジア。外壁は鮮やかな黄色で、テレジアン・イエローと呼ばれている。
 正門から入ると、部屋数1441室の壮大な夏の離宮。夏が始まると宮殿で働く人々の引越しの荷車がウィーン市内から途切れることなく続いたという。
 宮殿学芸員のアルフレッド・ダイムさんが案内。まず青の階段をあがり、宮殿の目玉というべき大ギャラリー「大広間」がある。今、110年ぶりの大修復中だった。長さ43m、王家の晩餐会や国際会議で使用された。大きな天井画が特徴。また支配した12の地も描かれている。トスカーナのワイン、チロルの人々と岩塩、オランダの人々、ハンガリーの牧童など。その中心に描かれているのが、マリア・テレジアが描かれている。これでハプスブルグ家の威光を感じさせた。1777年、建てられて20年後に最初の修復が行なわれたようだ。今回の修復は3年続く。この大ギャラリーは、いろいろな場面で登場する。フルシチョフとケネディの会談もここで行なわれた。

 マリア・テレジアは1717年にハプスブルグ家の皇帝の娘として生まれた。ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国の帝位まで兼任していて、王の中の王と言われた。サファイア、ルビー、エメラルド、真珠が並ぶ王冠を使っていた。1741年、父カール6世が男子を残さずに死去した。マリアは23歳で後継者となった。すると、プロイセン国王のフリードリヒ2世、バイエルンのカール・アルブレヒトなどの隣国のライバルたちが次々と領内に侵入し、領土と王冠を奪った。その中でマリアはシェーンブルン宮殿の大改造を命じた。各国の王にハプスブルグ家には余裕があることを示し、領民には自信を持たせた。そしてハンガリーの騎馬隊が味方につき、王冠を奪い返した。マリアはより美しく見せるために、取り入れたのがバロック。「バロック」とは「ゆがんだ真珠」の意味で、形や空間をわざとゆがませることで、ドラマチックな空間を作り出すこと。シェーンブルン宮殿にも、大ギャラリーに採用されている。天井はドーム状にうねっている。その空間に命を吹き込むのは、柱やシャンデリアの複雑な装飾。
 小ギャラリーは、庭に向かう途中にある。バルコニーで窓を開けると広大な景色がある。小ギャラリーを通るからこそ、壮大な景色が印象付けられる。見える森までも計算されていて、森に木々を植え足したという。シェーンブルンは建物だけじゃないということ。バルコニーから見えた丘に登る。丘の頂上に到着。宮殿と街が一望できる。
 宮殿には必ず廊下がなく、部屋から部屋に抜けるしかない。皇帝の部屋は一番奥にあり、周辺は側近で固めた。会議室にマリアが入ると、別のドアが開き、側近が覗き窓がある小部屋につながる階段を利用することができるようにしてあった。

 シェーンブルン宮殿に、作曲家のシルベスター・リーヴァイさんは住んでいる。この宮殿の最上階は賃貸アパートになっている。住民用のエレベータで4階に行く。元々は侍従たちが使っていたが、1960年代に今のようなアパートになった。現在52世帯が住んでいる。4LDKで家賃は言えないそうです。自慢はリビングからの眺めで、宮殿の庭園が一望できる。ドアなどの取り替えが禁じられていて、当時のまま。ガスも使用禁止。入居には審査があるが、奥さんがハプスブルグ家の研究者だったのがよかったそうです。
 ハプスブルグ家は「戦争は他家に任せ、幸いなオーストリアよ。汝、結婚せよ」という家訓がある。マリアもこれにならい子供を16人産んだ。フランスのルイ15世からマリアに贈られた貴重な食器が保管されている。この中には子供を産むためにマリアが毎日食べたスープが入れられた。ハプスブルグ家研究者のイングリッド・ハスリンガー博士が説明してくれました。100年以上作られていなかった幻のスープのレシピ本をハスリンガーさんは蚤の市で発見した。レシピには30種類以上の肉や野菜が書き込まれていた。味については、筆舌に尽くし難いと書いてあるだけ。
 ウィーンを代表する老舗レストラン「シュヴァルツ・カメール」は、かつての王家のご用達。マリア・テレジアのスープの再現に協力してもらった。野生の鴨、ガチョウ、野生のウサギ、仔牛の脚、セロリの根などを使って、マレーク・コヴァルスキーさんが作ってくれました。野生の肉、肉、野菜を別々の鍋で煮込んだ。3日煮込み、布でこし、3つの鍋を合わせて完成。濃い味だそうですが、スキヤキの割り下の感じとか。
 マリアは身辺を東洋の陶器で飾った。ほとんどがオランダ経由で手に入れた物だった。日本の徳利もある。歴史学者のレナーテ・ツェディンガー博士は、東洋の陶器は当時最先端の流行だったという。相当の高値だったが、マリアは家族のために買い求めたという。マリアと夫のフランツ・シュテファンは当時一風変わった夫婦だった。政略結婚が当たり前だった当時、異例の恋愛結婚。マリアは何通も夫にラヴレターを書いた。書き出しはいつも決まって「私の愛しい子ネズミ様」だった。子供たちのサロンがある。このサロンの隣に、自分と夫の朝食用の特別室を注文し、子供たちの声を聞きながら朝食をとった。
 58歳で夫を失うと、それ以降は死ぬまでの15年喪服で過ごしたという。国を支え、家族を愛したマリアのことを国民は「国母」と呼ぶようになった。
 夕陽を浴びるとシェーンブルン宮殿の黄色が一層輝きを増す。最初は国威向上のための宮殿だったが、後には優しさが感じられるようになった。
 一番の心配が末娘のマリー・アントワネットでした。

●ベルサイユ宮殿
 パリ市内から電車で30分、「ベルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅」に到着。狩猟のために別荘を建てたルイ13世。息子のルイ14世は父の残した館を囲むように50年にわたり改築を重ね、稀に見る壮大な建築物を作り上げた。建築当初の敷地面積は、およそ2400ヘクタールで、皇居のおよそ20倍。森を切り開き作った道の全長は、およそ20km。樹木の数はおよそ20万本。大地に描いた水と緑の幾何学模様は、まるで自然をも自在に操っているかのよう。

 宮殿内、まずは向かって左手前の「アポロンの間」。ルイ14世の肖像がある。それに向き合っている絵は、「王妃マリー・アントワネットと子供たち」。次は「戦争の間」。天井には、ルイ14世が勝利した戦いの場面が描かれ、黄金の装飾でその偉業を称えている。
 次は「鏡の間」で宮殿のクライマックス。全長73m、天井まで12.5m。まばゆい巨大なギャラレーで太陽王の権力の象徴。庭側に大きな17の窓、それに対面するように並ぶ17の鏡。よく見れば、小さな鏡をつなぎあわせて、大きな鏡が構成されている。鏡の総数は567枚。庭からの日差しを鏡が受け、天井画を光らす。そこにはルイ14世の偉業の数々。その頭上には、ライバル国が擬人化して描かれている。シャンデリアの位置が異様に低くして、天井画を見やすくしている。2年前の修復で絵を調べなおしたところ、1670年頃ルイ14世に日本の将軍から贈られた甲冑が描かれているということがわかった。日本の兜をかぶっていて、横縞の鎧をつけている絵がある。
 「ベルサイユの壮大さを見ぬ者はまだ何も見ていない」と作家シャトーブリアンは書いている。

 1770年、ここにオーストリアからマリー・アントワネットが嫁いできた。14歳のマリー・アントワネットは当時ハプスブルグ家と敵対していたブルボン王朝に嫁いだ。ウィーンからパリまで馬車で23日かけてやってきた。マリー・アントワネットは1755年に生まれ、ダンスや音楽が好きな活発な少女だった。ルイ・オーギュストと結婚した時は、まだ幸せになれるのだと信じていた。しかし後のルイ16世は錠前作りが趣味という地味な男性。妻への愛も乏しく、なかなか子供にも恵まれなかった。母からは「子供を産むことが使命」だという手紙が送り続けられた。
 マリーの部屋は儀式的な部屋だった?せいか、毎朝、婦人たちが起こしに来た。スケジュールが詰まっていた。宮殿の暮らしに疲れ、逃げ込んだ場所は、寝室の隠し扉の向こうだった。金色の間は一人で過ごし、安らいだ部屋だった。肖像画も描かせた。画家の名はルブランで、斬新なファッションに包まれたアントワネットの姿を可愛らしく描き、そのファッションは婦人たちの間で流行した。しかしその影でオーストリアの贅沢でワガママな娘、などと噂された。しばらくして夜な夜な宮殿を抜け出し、仮面舞踏会やパーティ三昧にふけった。
 ベルサイユ宮殿近くのホテル「トリアノン・パラス」でアントワネットが愛したお菓子を再現してもらった。有名ホテルで修行したパティシエのエディ・ベンガネムさんは、マリー・アントワネットのお菓子を今も作っている。ホテルのエレーヌ・デュケさんと一緒にいただいた。「クグロフ」とメレンゲは彼女が大好きなお菓子だった。メレンゲは彼女が自分で作っていたという。「いちごのシャルロット」も18世紀に登場し、彼女が好んで食べたケーキだという。

 マリア・テレジアはコーヒーにリキュールを入れて飲むのが好きだったそうです。マリー・アントワネットはシャンパンが好きだったという。

 ベルサイユ宮殿から1km離れた敷地にアントワネットの館「プチトリアノン」がある。1774年、夫から贈られた。学芸員のピエール=グザヴィエ・ハンスさんが案内してくれました。
 最初の部屋は「王妃の寝室」で、実にシンプル。部屋にあるものは素朴なデザインのものが多い。マリー・アントワネットは小さな花柄が大好きだった。次は「動く鏡の間」で、鏡が上下に動く。窓にはチェーンがついている。通常は鏡を降ろしていて、人目を避けたい時は鏡を上げていたようです。
 庭にでて向かったのは、非公開の「王妃の劇場」は外見は質素だが、中は青、白、金で装飾されている。青っぽいイスと壁と美しい天井画の部屋。実は大理石も金箔もニセモノで、決して贅沢だったわけではない。小さいながらオーケストラピット(オケピ)もある。自ら舞台に立つのも趣味だったとか。2階席は天井に手が届きそうな感じ。さらに上に行くと、イスのない秘密の三階の部屋があった。

 ベルサイユの町のノートルダム広場では終末恒例のマルシェが開かれる。街の路地にあるアンティーク村に行くと、宮殿とこの街の結びつきがよくわかる。ルイ15世時代のイスや家具があり、職人も多く住んでいた。小さなアンティーク銀食器の店「ETMA」を見つけた。18世紀から19世紀初頭の銀製品が並ぶ。ドミニク・ドゥルベルグさんが説明してくれました。マリー・アントワネットはいろいろな人にプレゼントをするのが好きで、そういう際の指輪もありました。マリー・アントワネットは貧困にあえぐ国民のことは知らなかった。ただ、「退屈が怖かった」。

 「アモー」は王妃が作り上げた農村。「自然に帰れ」という哲学者ルソーの言葉が当時大流行していた。「文明を捨て、自然の恩恵を受けて生きていくことこそ、人間らしい生き方」。その思想を一つの村にしてしまった。彼女はここで農村の娘のように振る舞い、卵を集め、お菓子を作った。
 しかし、1789年宮殿に市民が押し寄せ、「国王をパリへ」と叫び、国王一家を幽閉した。
 「ランビネ美術館」はベルサイユの町の18世紀の記録を残す美術館。日本のカメラが初めて入った。ここに牢獄で描かれた最後の肖像画「タンプル塔のマリー・アントワネット」があった。38歳にして自慢の金髪は白く、喪服姿。筆のタッチが気になった。彼女は毅然とした態度で肖像画に臨んだ。「不幸にあって初めて人間は自分が何者であるかが分かります」という言葉を残し、1793年、断頭台に消えた。

●エルミタージュ
 母マリア・テレジアは娘の処刑の13年前にこの世を去っていた。ところがそのニュースに怖れ慄いたもう一人の女帝がいた。ロマノフ王朝最強の女帝と謳われた第8代皇帝エカテリーナ2世。マリー・アントワネットは処刑の1年前、エカテリーナ2世に1通の手紙を送っていた。自らの窮状を訴え、力を貸して欲しいという懇願だった。当時のロシアはヨーロッパ諸国に睨みをきかせるほど強力な権力を有していた。その権力の象徴がエルミタージュで、世界に類を見ない美の殿堂となっていた。

 モスクワから北西におよそ650km、ロシア第二の都市サンクト・ペテルスブルグ。北のベニスと称えられた美しい街は春先の今も川は凍りつき、白一色の世界。300万点を誇る美術コレクションの基礎は、エカテリーナ2世によって集められた。
 18世紀に皇帝の宮殿として造られ、最初に作られたのが「冬宮」で川から見て、一番右、その左に細長い「小エルミタージュ」、その左手前が「旧エルミタージュ」、その奥に「新エルミタージュ」、さらに左に「劇場」の5つの建物を総称し、現在「エルミタージュ美術館」と呼んでいる。
 白い柱に引き立つ黄色い彫刻。草花をモチーフにした門の装飾。見るものを圧倒させ、威厳を高めるバロックの手法です。最初に向かえてくれるのは、驚くほど手のこんだ階段「大使の階段」で、これを大使が登ってから皇帝と謁見していた。どっしりした花崗岩の円柱、濃いグレーが広い空間を引き締める。赤いビロードの壁に覆われた「ピョートル1世の間」。部屋の奥に大切に掲げられた肖像画の人物こそ初代ロシア皇帝ピョートル1世。
 サンクト・ペテルブルグの街は18世紀初頭にピョートル1世によって作られ、帝政ロシアの首都として発展した。冬宮が建設されたのは1762年。その最初の主となったのがエカテリア2世だった。彼女の指示により絢爛を極めた内装が施された。その先に息を呑む空間が待っていた。2階の「黄金の客間」は部屋全体が金箔に覆われている。ここは元は皇帝のプライベート・ルームだった。続いては「孔雀石の間」。鮮やかな緑色の柱はロシアのウラル山脈で取れる孔雀石を加工して作ったもの。薄くプレート状にした孔雀石をモザイクのように貼り合わせてある。

 「エルミタージュ宝物室」には、コレクションの中でも貴重なものが展示されている。エカテリア2世が特に力を入れて収集していたのが、「嗅ぎタバコ入れ」。ダイヤモンドを並べた高価な箱の表面には、彼女の好きだった「役に立つ」という言葉がかかれている。自分の肖像をあしらったタバコ入れには、ダイヤモンドとサファイヤが散りばめられている。貴族の必需品だったタバコ入れは、エカテリーナは日に3度持ち換えるほど好きだったという。

 1729年ドイツの北にあるシュテッティン Stettin という街で、後のロシア皇帝エカテリーナ2世となるソフィー・フレデリーゲ・アウグスタは生まれた。貧しい貴族の娘でしたが、何より書物を愛し、勉学を愛し、知識を身に付けていた。10歳の時、舞踏会で一人の少年と会った。後の皇太子ピョートル3世。14歳の時、ピョートル3世の花嫁候補となった。彼女はものすごく勉強した。母国語ではないロシア語の書物を何ページも暗誦できるほどになった。当時の皇帝に気に入られた少女は皇太子妃に選ばれた。改宗し、名前もエカテリーナ2世と改めた。しかし皇太子ピョートル3世は皇帝の器ではなかった。結婚して7年、全く妻の体に触れず、オモチャの兵隊遊びばかりしていた。「幸福を夢見てロシアに来たのではなく、政治を司るために来た」と気持ちを切り替えた。30歳の時、運命を変えるグリゴーリー・オルローフという近衛部隊員と恋に落ちた。1762年、オルローフは近衛隊員とクーデターを起こし、ピョートル3世を廃し、エカテリーナ2世を皇帝に押し上げた。

 冬宮の奥にあるのは、エルミタージュ「大玉座の間」。イスに座ることを許されたのは、ロシアを治めるただ一人の人物だけ。1762年第8代ロシア皇帝エカテリーナ2世即位。双頭の鷲はロマノフ家の紋章。エカテリーナ2世はロシア全土に号令を発した。「わが祖国ロシアをヨーロッパの列強へ」。外交政策は素早く大胆だった。70以上の戦争に勝利し、ポーランドから黒海まで国土を飛躍的に拡大した。
 彼女は戦争に並行して、すさまじい情熱を注いだのが「美術品の収集」だった。膨大な数の芸術品を買いあさった。当初は西欧にも誇れる美術コレクションを揃えることだった。その中には22枚にも及ぶレンブラント・コレクションがある。「キリストの降架」や最晩年の作品「放蕩息子の帰宅」もある。コレクションが進むにつれ、エカテリーナは絵画コレクションにのめりこんでいったという。2枚の作品のためだけの部屋もある。「レオナルド・ダ・ヴィンチの間」。26歳の作品「ブノワの聖母」で、イエスを大人のように描き、マリアを少女のように描いたという。しかも立体的に描いた革新作だった。もう1枚は30代の終わり頃に描いたとされる「リッタの聖母」。エカテリーナは10年で2600点も買ったという。スペースが必要となり、「小エルミタージュ」を作った。ここが最初にエルミタージュと呼ばれた。彼女は「小エルミタージュ」の南端に愛人の部屋を作った。北側は宴会場「パヴィリオンの間」だった。間をつなぐ廊下を絵画ギャラリーにした。彼女にも生涯を通じて数十人の愛人がいたという。ただ一人永遠の恋人という愛人は天才的軍人グリゴーリー・ポチョムキンだった。
 「パヴィリオンの間」は白と金で優雅に装飾された女帝のプライベート・ルームだった。床に施されたのはタイルによるモザイク。古代ローマの共同浴場跡で発見されたモザイクを再現した。天井も素晴らしい。ここにポチョムキンがエカテリーナに贈ったプレゼントがある。金属で作られた動物たち。部品保護のため、最近では動かしてないという装置を動かしてもらった。イギリス製の極めて精密な仕掛け時計だった。
 「ラファエロのロッジア」は細長い廊下のような場所で、金色の輝きに目を奪われる。細やかな彩色が施された。バチカンの宮殿にあるラファエロのギャラリーをそっくりに再現させた。芸術のためには、お金に一切糸目をつけなかった。女帝は愛人と絵画に囲まれていても孤独を感じていたという。

 サンクト・ペテルブルグの街を歩いてみた。レストラン「猟師の家」で、エカテリーナ2世も好きだったという伝統的なロシアのスープをいただいた。発酵キャベツと牛肉を煮込んだ「シチー」というスープ。

 市内から車でおよそ40分、「エルミタージュ修復保管センター」を訪れた。ここに日本のテレビ・カメラが入るのは初めて。300万点を越えるコレクションを保管し、修復や研究のために2003年に開館した。1日4組限定ではあるが、一般の人が館内を見学できる。エフゲニア・スースロヴァさんが案内してくれました。エカテリーナが最初に飾った作品もある。実際に使われてきた家具や装飾品も見ることができる。最後に驚くべき部屋が待っていた。ロマノフ王家がずっと使ってきた馬車が一同に会している。オルローフから贈られたイギリス製の馬車もある。車体にエカテリーナの肖像をわざわざ描かせている。王冠が載った金色の豪華な馬車がある。あらゆる場所に木彫りの彫刻が施され、金箔が貼られている。

 「小エルミタージュ」には当時はエカテリーナの部屋を通らないと入れなかった。そして入口には「エカテリーナ十か条」が書かれていた。第一条「全ての位を扉の外で脱ぎ去るべし」。第二条「傲慢さを全て扉のそばで捨て去るべし」。第七条「あくびをするべからず。また何人をも退屈させるへからず」。もしこれらに違反したら、コップ1杯の冷水を飲むこと。これはエカテリーナのユーモア。女帝はエルミタージュ会という夜会を開いて、親しい人と夜を過ごした。「パヴィリオンの間」などで。「エルミタージュ」はフランス語で「プライベートな」という意味。彼女は誰にも邪魔されず隠遁生活を楽しんだ。
 しかし宮廷内では、権力闘争が繰り返され、裏切り、ねたみが横行していた。女帝はロシアを思い、発展させたが、女帝は結局最後までロシア人を信頼できなかったとも言われている。エカテリーナはエルミタージュを歩きまわるだけで慰められるとも言っている。彼女は67歳で生涯を閉じたが、30年以上も大国の頂点であり続けた。それから120年後、ロシアにも革命の嵐が吹き荒れ、300年にも渡るロマノフ王朝の時代も終わりを告げた。女帝の作った美術館は世界有数の美術館となった。


テレビ番組「ちょっと贅沢!欧州列車旅行 プラハ」

 2010年2月14日放送。JIC製作。

●ウィーン
 西駅は天井が高く、ネオ・ルネッサンス様式の建物だったが、戦争で破壊され、1954年に再建された。10:58発のプラハ行きのECに乗る。国際列車のホームは駅の入口から見て、駅の奥にある。プラハ行きはチェコ国鉄のスーパー列車 Super City 14。水色と黄色のラインが特徴で、側面のCDのマークはチェコ国鉄のマーク。スーパーシティには列車によってそれぞれ名前がつけられている。この列車は「スメタナ」号。
 出発すると、ドイツ語、英語、チェコ語の案内が流れる。プラハまではおよそ4時間。ファーストクラスは赤色で頭の部分が白。セカンドクラスは青色で同じシートが使われている。車掌さんがチケットをチェックしにきた。
 出発して1時間、列車はチェコに入った。最初の停車駅はブレツラフ Breclav。ファーストクラスではドリンクと軽食が無料でサービスされる。

 チェコ共和国は日本の国土の5分の1で、人口は1000万人。公用語はチェコ語、通貨はチェコ・コルナ。

 しばらくしてブルノ本駅に到着。ブルノはチェコ共和国第二の都市。F1が開催された国際サーキットがあることでも有名。大きな教会が見えます。
 ここを出ると列車は山間部に入る。この列車はイタリアの振り子式車両(ペンドリーノ)を2005年から採用している。高速運行用の新たな線路を敷かずに、従来の線路で曲線通過速度や加減速性能の向上を実現させた。ウィーン・プラハ間では2往復走っている。
 ビストロ車両が連結されている。ここではドリンク、軽食、スープやメインやデザートも注文できる。チェコ・ビールといえば、やはりピルスナー。ちなみにチェコはビール消費量世界一。車内ではユーロもコルナも使用できる。1Kcは約4.6円。スープE1.8E、チキンカツE4.6、ビールE1.7で合計約1000円。

●プラハ
 人口は約120万人。列車がプラハ市内に入ると、車内に「モルダウ」が流れる。右手にプラハ城が見えてきて、駅に入り、午後3時2分に到着した。駅の構内には多くの売店があり、通り過ぎるて外に出ると、目の前は公園。
 プラハは14世紀に神聖ローマ帝国の首都となって繁栄した。当時の街並みを今に留めている。様々な建築様式の建物が混在し、「建築博物館の町」とも呼ばれる。「100の塔を持つ街」、「北のローマ」、「ヨーロッパの魔法の都」などとも呼ばれる。

 そんなプラハの基礎を作ったのは、1346年カレル1世(神聖ローマ帝国カール4世)で、大学を創設し、学問を根付かせた。さらに「黄金のプラハ」と言われるほどに町を発展させていった。  日本ではモルダウ川として知られるプルタヴァ川が中心を流れる。この川をはさんで、旧市街とプラハ城がある。旧市街の入口にあるのは火薬塔で、1479年に町を守る城壁の門として建てられた。多くの王が行なった戴冠パレードを行なった「王の道」の出発点でもあった。全長2500mの「王の道」は4世紀に渡って華やかな歴史の舞台となった。

 王の道を歩いてみた。まず旧市街広場に出る。カレル通りを通るとカレル1世が作ったカレル橋が現れる。ボヘミアン・ゴシック彫刻の最高傑作と呼ばれる聖人像の下に並ぶのは、カレル1世が治めていたボヘミアン王国の領地の紋章。カレル1世の命により、60年近い歳月をかけて作られたカレル橋。橋の欄干には、30体の聖人像が並ぶ。観光客に人気が高いのは、唯一のブロンズ像である「聖人ヤン・ネポムツキー」の像。触ると幸運が訪れるといわれている。橋の両側にはお土産屋さんが並ぶ。ストリート・パフォーマーも集まる。

 橋を渡り終えると、マラー・ストラナと呼ばれるエリアに入る。バロック様式の建物が並ぶ。丘の上にはプラハ城で、9世紀から建築が始まり、14世紀のカレル1世の時代に今の形になった。プラハ城は全体が一つの街のようになっている。正門を入って中庭を抜けると、第二の中庭が現れる。さらに第三の中庭があり、正面に聳えるのは聖ヴィート大聖堂。大聖堂を囲むように、旧王宮や大統領府が建っている。大聖堂のさらに奥に教会や修道院が連なっている。

 聖ヴィート大聖堂を囲むように建っていた城には、一般市民が自由に出入りできた。10世紀ボヘミアにおけるカトリックの総本山として建てられた聖ヴィート大聖堂。カレル1世によって改修され、ゴシック建築の壮麗な大聖堂となった。入口の真上はバラ窓と呼ばれる円形の窓。ゴシック建築の傑作です。内部の装飾で特に人々の目をひくのは、美しいステンドグラス。14世紀以降にも手が加えられ、20世紀に完成した聖ヴィート大聖堂。入口から左に向かって3番目のステンドグラスは、アールヌーボーの巨匠アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の作品「聖キリルと聖ヌスティウス」。大聖堂の中央には、大理石で作られた王の棺が祀られている。その下には歴代の王たちの棺があり、カレル1世は今もここで町を見守り続けている。
 プラハ城の北側は街の中を歩く感覚。「黄金小路」は元々は召使の家が続いていたが、やがてその一角に錬金術師たちが住むようになり、黄金小路の名前がついた。現在は多くが土産物店になっている。その中の1軒は人形屋さん。チェコは人形劇が盛んだった。黄金小路で一番有名なのは、入口に22と書かれた家で、作家フランツ・カフカの仕事場だった。
 黄金小路を抜けるとプラハ城の北門にでる。

 この周辺の城下町を歩く。北側はフラッチャニ、南側はマラー・ストラナ。14世紀マラー・ストラナから発展したプラハはゴシック建築で統一されていた。しかし15世紀以降に起きた宗教戦争や火災により、町は破壊された。プロテスタント系貴族を排除したカトリック系貴族たちが、15世紀にバロック様式の建物を次々と建築した。
 マラー・ストラナ広場に面して建つ緑色がかった建物はスミジツキーの館。16世紀以降この地を治めていたハプスブルグ家の皇帝フェルジナンド2世は、カトリックへの改宗を強行に推し進めていた。改宗政策に反対したスミジツキーは、1618年5月、この館からプラハ城に向かい、ハプスブルグ家の代理人3名を窓の外に投げ落とした。30年戦争の引き金となり、1520年チェコではピーラー・ホラの戦いが起こった。
 マラー・ストラナに建つバロック建築の中でも、ヴァルトシュテイン宮殿は特に大きい。ヴァルトシュテインはスミジツキーらとは逆の行動を取った。30年戦争では皇帝軍の総司令官に任命された。やがて反逆者と目されて、皇帝に暗殺された。庭園は美しく広大で、映画アマデウスの撮影にも使われた。

 ストラホフ修道院(Strahovske nadvori 1/132, Praha )は是非訪れて欲しい。12世紀に創建され、見所は、2つの図書室。「神学の間」と呼ばれる部屋は、白い天井にフレスコ画が描かれ、地球儀や天球儀が置かれている。棚を埋め尽くす本の背表紙と天井のフレスコ画は、中世にタイムスリップしたような感覚になります。大人80Kc(約370円)、学生50Kc(約230円)。「哲学の間」は、蔵書の量に圧倒される。
http://www.strahovnonastery.cz/

 旧市街は細い路地に石畳が続く。趣のある建物には様々なショップが入っている。市場にでた。
 旧市街の中心は旧市街広場。旧市庁舎や教会などが建つ。ゴシック様式の旧市庁舎だったが、数世紀の間に増改築を繰り返しているので、部分的に装飾などが異なっている。塔の下にあるのが「天文時計」。縦に2つの文字盤が並び、それぞれが作られた時代の天文学における時間を示している。1時間に1度、天文時計の前に人だかりができる。からくり時計で、中から人形が顔をのぞかせる。キリストの12使徒が登場し、最後に一番上の鶏が現れる。人形たちは30秒しか登場しないので、見逃さないように。
 旧市街広場の中心に建つのは、ヤン・フス像。15世紀プラハで宗教改革を行なったプロテスタントの宗教人。彼はカトリック教会の堕落を批判し、コンスタンツ公会議で有罪となり、処刑された。衝撃を受けた民衆たちはフス派を名乗って立ち上がり、カトリック教会を相手にフス戦争が勃発した。フスはチェコ語で行なっていたので、ドイツ語を強要するカトリックへの反発が強まり、フス戦争は次第に民族戦争の色を濃くしていった。フス戦争はフス派の敗北で終わったが、プロテスタントとカトリックの対立は続いき、1620年ピーラー・ホラの戦いで再び衝突した。
 ヤン・フス像の東側に建つのは、フス戦争でフス派の本拠地となったディーン教会。広場の地面に27個の十字架が描かれている。これはピーラー・ホラーの戦いで、カトリック側のハプスブルク家に敗れ、この広場で処刑されたプロテスタントの指導者たちと同じ数。地面には処刑の行なわれた日も書かれている。
 その後、チェコはハプスブルグ家の属領となり、王宮もウィーンに移動した。チェコ語の使用も禁止され、宗教弾圧などを受け、独自の文化を失った。
 その中で人々の民族意識は高まっていった。国民劇場は暗黒の時代を絶えぬいたチェコ文化復興の象徴。チェコ語によるチェコ人のための舞台を作ろうと、1849年に建設を開始した。国民の寄付により、1881年に完成した。舞台の上には、「国民がおのれ自身のために」とチェコ語で書かれている。
http://www.narodni-divadio.cz/

 この時期、チェコではスメタナやドヴォルザークらが活躍していた。こけら落としで上演されたのは、スメタナのオペラ「リブジェ」だった。
 スメタナをよく知るために是非、足を運びたいのが「スメタナ博物館」(Novotneho lavkal, Praha1 )で、カレル橋のたもとにある。元々スメタナが住んでいた建物で、年代順に資料が展示されている。19歳でプラハに出てきて、リストに才能を見出され、1848年音楽学校を設立した。スメタナは50歳で聴力を失うが、その後「わが祖国」を作曲し、チェコ人のアイデンティティを強く表現した。日本人にはドイツ語の「モルダウ」で知られているが、チェコでは「プルタヴァ」と呼ばれる。
 スメタナに続いてチェコ音楽を世界に広めたのは、アントニン・ドヴォルザーク。1841年に生まれ、16歳でオルガン学校に入学し、卒業後はビオラ奏者としてオーケストラに就職、指揮者だったスメタナの教えを受けながら、作曲活動を行なった。やがてニューヨークに渡り、音楽学校で教鞭をとった。その時に作曲した交響曲9番「新世界より」は、チェコへの郷愁が色濃く打ち出された作品である。チェコ国民学派を世界に知らしメタ。彼の作品には直接的なものは少ないが、祖国への愛が満ち溢れている。亡くなった1904年には国葬が行なわれた。

 ブルタヴァ川が茜色になり、夜になると、プラハの街の表情は大きく変わる。昼間は赤い屋根の街並みが、夜は色鮮やかに変貌する。カフェ&レストラン「スラヴィア Slavia 」は国民劇場の隣で、上演時間の合間に観客たちが集まる。ピアノの演奏もあり、雰囲気はとてもいいです。コーヒーだけでなく、チェコ・ビールも楽しめる。
http://www.cafeslavia.cz/

 国民劇場と並んで人気なのが「エステート劇場」。ここではスメタナがオーケストラの指揮をしていたこともある。建設は18世紀、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」がここで初演されたのは1787年のことだった。
http://www.narodni-divadlo.cz/

 18世紀の末、ハプスブルグ家の支配化にあったチェコで、新たな民族文化が発展した。それは「国立マリオネット劇場」のマリオネットの人形劇。ハプスブルグ家の弾圧で、ドイツ語の使用を強要されたが、大衆の娯楽であった、人形や人形劇だけは、チェコ語が使われていた。人々は弾圧によるうっぷんを晴らしていった。スメタナやドボルザークも人形劇の曲を提供した。今は観光客のために、英語やドイツ語でも上演されている。
http://www.mozart.cz/

 一時はヨーロッパの中心として脚光を浴びながら、他国の支配下で暗黒の時代を過ごすことを余儀なくされたが、国民は民族の誇りを捨てることはなかった。ここにはチェコ人のアイデンティティが息づいている。

 次の旅にでるために、プラハ城の北に位置する「プラハ・ホレショヴィヴェ」駅に向かった。ここから12時40分発の列車でベルリンに向かう。特別急行列車ユーロシティです。


テレビ番組「THE 世界遺産 船でめぐるドナウ」

 2010年1月10日放送。ヨーロッパをつないだ2つの道があった。船と鉄道。2回に渡り特集する。ドナウ川はヨーロッパを東西に流れる2800kmの大河。ドイツを源に発し、10ヶ国を通って黒海に注ぐ。ドナウ川の岸辺には6つの世界遺産がある。

●ドナウエッシンゲン
 ドイツ南部の町。教会と宮殿の間に挟まれるようにある丸いもの。ここがドナウの源泉。18世紀、この地方の領主が湧き水を大理石で囲み、ここが水源であると宣言した。それ以来、ドナウの水源といえば、ここをさすようになった。辺には母と子の像。母は右手でドナウが流れていく東を指し、若い娘を旅に送りだそうとしている。そして宮殿の脇を流れるブリバッハ川へと注ぐ。そして次の流れと出あってから、ドナウ川と呼ばれる川になる。生まれたての川は「ユンゲドナウ」(若きドナウ)と呼ばれる。
 その後100mの断崖の険しい渓谷へ。ここでは小型の船でしか通ることができない。

●レーゲンスブルク旧市街 Regensburg
 源流から400km。最初の大きな都市。町のたたずまいは1000年前とほとんど変わらない。町の黄金時代に建てられた聖ペテロ大聖堂。塔の高さは100mを越える。
 ドナウの辺に建つ巨大な倉庫には、アルプスで採れる塩がある。塩は白い黄金と呼ばれるほど高価だった。ここから塩が各地に運ばれた。12世紀、富をつぎこんで建設されたのが、ドナウ川で最も古い石橋。昔のままで900年。未だに人と車が通れる。重い石を運ぶ職人のために、ドイツ名物「ソーセージ」が生まれた。ドイツで一番古いソーセージの店として観光客が必ず立ち寄る人気スポットとなっている店がある。
 ここから先、大型船が通れるようになる。19世紀に出版された旅行記に、「レーゲンスブルクとウィーンの間がドナウで最も旅人に愛された」と書いてありました。

●ヴァッハウ街道 Wachau
 オーストリアにある。ドナウで一番美しい渓谷。城と川と自然が織り成す風景はドナウではここだけ。ゆったりした時間を過ごせる。
 この渓谷で一際豪華な建物が「メルク修道院」。聖堂内はまるで地上に現れた天国。黄金に光輝いている。これを建築したのは、ハプスブルク家の皇帝だった。
 その皇帝に愛されたものはワイン。ワインの文化を育んだものは修道院。修道院は手作りのワインで巡礼者をもてなした。ヴァッハウ渓谷のワインは「王様」と呼ばれ、皇帝や貴族の食卓にも運ばれた。

●ウィーン歴史地区
 芸術や文化が花開いた街。19世紀後半、「美しき青きドナウ」を書いたのは、ワルツ王ヨハン・シュトラウス2世。
 もう一つの文化はカフェ。
 マリア・テレジアが情熱をかけて作りあげたシェーンブルン宮殿。その中心が大広間。彼女が特に好きだったお菓子は、薄くのばした生地にリンゴをくるんで焼くアップルパイの元になった「アプフェル・シュトルーデル」。宮殿のカフェで味わうことができる。

●ブダペスト Budapest
 ドナウは街の真中をゆったりと流れる。国会議事堂が美しい。19世紀末に建てられた自由と独立のシンボル。ヨーロッパ一豪華な議事堂として知られている。
 中央市場は100年前に鉄とガラスを使い、時代を先駆けた建築だった。ハンガリーは世界一のパプリカの名産地。16世紀にアメリカ大陸からスペインの船に乗って伝えられた。魚市場では川で取れた魚が並ぶ。鯉の仲間はクリスマスに食べるそうです。

●ドナウデルタ
 源流から2850km。河口にやってきた。デルタ状に広がり、広大な湿地となる。ここは野鳥たちの世界。およそ300種いて、渡り鳥の楽園としても知られる。湿原は見渡す限り葦で覆いつくされている。ここでは人の暮らしも葦とともにある。中に空気が保たれ、いい保温材となっている。
 ドナウデルタの小さな村。葦はすぐれた建築材料で、葦で屋根をふくと50年もつという。
 そして黒海。昔は多くの商人がドナウを目の前にして交易品と一緒に沈んだという。それでも人々はドナウを目指した。


テレビ番組「世界の果てまでイッテQ! 2泊3日予算10万円で、世界の芸術いくつ見られる?第2弾!」

 2009年12月20日放送。松嶋尚美さんがノルウェー、オランダ、オーストリアで挑戦。日本との往復運賃は除いて、10万円を使い切ったら終了。第1弾はベッキーがフランス、イタリア、スペインで挑戦していた。

●オスロ
 ガーデモエン国際空港からスタート。8時40分朝日が昇り始めた。オスロ国立美術館にムンクの「叫び」がある。入場料は無料。夕暮れ時に空が真っ赤になって、血の色になり、「自然の雄叫び」がムンクには聞こえたという体験を描いたもの。その叫びを聞きたくないというもの。他にもムンクの「マドンナ」、「思春期」などがあった。この「叫び」は一度盗まれたが、出てきた品が本物だという確証は、右下の偶然ついた汚れだったそうです。
 ヴィーゲラン公園には193の彫刻があるが、人生の瞬間を描いたもの。人間の数にして650体以上ある。中でも橋の両側にある彫刻はとてもユニーク。この公園の一番人気は赤ちゃんの「おこりんぼう」。全ての彫刻には名前がついていないが、この赤ちゃんには他の人が名前をつけている。ヴィーゲランで一番有名なのは、ノーベル平和賞で贈られる金のメダルのデザイン。
 オスロ市庁舎では、12月にノーベル平和賞の授賞式が行なわれる。カリヨンという有名な楽器がある。これはオスロ市庁舎の屋上にある無数の鐘を使った巨大な楽器。14世紀頃に教会の時報などに使われたのが始まり。ベガル・サンド・ホルトさんが演奏してくれました。

●アムステルダム
 早朝6時54分、「アンネ・フランク・ハウス Anne Frank Huis 」に行く。ここはアンネが1942年から2年間住んでいた場所。入場料8.5ユーロ。「動く本棚」と言われた「隠し扉」がある。この奥でユダヤ人8人が暮らしていた。本物の「アンネの日記」もある。
 「国立ミュージアム」は工事中だったが、入場は可能でした。12.5ユーロ。ここの最大の目玉は、レンブラント・ファン・レイン作の「夜警」。当時、火縄銃組合の人が自分たちの肖像画を描いてほしいというので頼んだものだが、クレームがついた。それは、みんな大きさが平等に描かれていないということ。しかし、各自がその大きさによって、支払う金額を決めた。
 歩いて3分に「国立ゴッホ美術館」がある。入場料14ユーロ。生前は1枚しか絵が売れなかったが、今は1枚で数十億円。「暗色のフェルト帽を被った自画像」、「黄色い家」、「花咲くアーモンドの小枝」、「馬鈴薯を食べる人々」、「アルルの寝室」、「カラスの群れ飛ぶ麦畑」、「ひまわり」などがある。「ひまわり」は現存するだけで世界に5枚ある。
 電車代6.7ユーロでユトレヒトに向かう。

●ユトレヒト
 ミッフィーは1855年ユトレヒト生まれ。街中には世界で1つだけのミッフィーちゃん信号機もある。「ディック・ブルーナ・ハウス」は2006年開館、作者のディックさんの作品が楽しめる。子供の目線で楽しめる。現在絵本は40カ国以上に翻訳されていて、発行部数は8500万部以上。
 電車代9.6ユーロでロッテルダムに移動。

●ロッテルダム
 1984年完成の「キューブ・ハウス」。街の再開発にとにかく目立つようにと建築された。「キューブハウス・ミュージアム」は3階建。入場料2.5ユーロ。

●ウィーン
 飛行機で281ユーロで移動。まず「国立オペラ座」では、世界最高峰のオーケストラでオペラが楽しめる。音楽監督は小沢征爾さん。
 ウィーン少年合唱団に会うために「ウィーン少年合唱団学校」に行く。世界中から選抜された7歳から15歳までの子が合宿する。規則は厳しい。コンサート前のアイスクリームや炭酸は厳禁。15歳を迎えなくても、声変わりしたら即退団。逆に声変わり以外の退団は許されない。
 「ウィーン美術史美術館」。ブリューゲルの「バベルの塔」。ジュゼッペ・アルチンボルトの「夏」、「庭師」。
 ベルヴェデーレ宮殿の中にクリムトの「接吻」がある。究極の愛を表現したものと言われている。入場料9ユーロ。しかし入口にジャック・ルイ・ダヴィットの「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」がある。

 以上合計1070点


テレビ番組「世界の果てまでイッテQ! 世界の果て温泉同好会 ハンガリー」

 2009年12月20日放送。森三中さんが旅をした。

●ブダペスト
 市内観光していたら、バスがドナウ川に入った。水陸両用でした。この街では100箇所以上で温泉が湧き出している。
 「ゲッレールト温泉」に行く。立派な建物です。温度は36度。「セーチェニ温泉」は露天で、チェスをしている人もいる。ぐるぐる回る流れる温泉もあるが流れが早い。
 サーカスの綱渡りに挑戦。まずは高さ1mから。
 世界最大の天然の露天風呂「ヘーヴィーズ温泉湖」に行く。温度は低いが、温泉の香りがする。最も深い場所で水深38m。湖底からは37度のお湯が湧き出ているが、この日は27度。

●オーストリア
 「Seaper Ranch 」というホテルには「藁風呂」がある。温泉につけたワラをベッドに敷き詰める。全身をワラでくるんだら、ビニールでくるんで、その上にもワラを敷く。ワラが発酵し、中はほどよいサウナ状態。35度くらい。
 高原にあるアクティビティに参加。赤い車のボブスレー。最高時速は150kmにも達する。雪のない時に使う練習用のボブスレーだが、時速100kmにもなる。体重が重いと早くなる。全長1270m、標高差124mのオリンピックのコースを体験。
http://www.seaperranch.at/SeaperAlm-d.html


テレビ番組「THE 世界遺産 プラハ」

 2009年11月8日放送。

●プラハ
 2009年9月厳戒態勢の中運ばれたものは、冠を被った頭蓋骨。プラハは「黄金の都」の名前をもつ。ヨーロッパで最も中世の姿を残す町として、1992年に世界遺産に登録された。美しい伝統建築で埋め尽くされ、遠い昔にタイムスリップしたよう。「百塔の街」、「建築の博物館」、「欧州の音楽院」などとも呼ばれている。年間500万人の観光客が足を運ぶ。
 300年にわたり愛され続ける人形劇。それと共に神話や王の物語も語り継がれてきた。
 火薬庫のある場所の門がかつての町の入口だった。その先では商人たちが店を連ねていた。ここから城まで続く2.5kmの道は歴代の王が戴冠パレードを行ってきた歴史的な道で、「王の道」と呼ばれる。この道沿いには数百年のときを隔てた建築が隣り合いながら調和し、建築の博物館と呼ばれている。この王の道の終点がプラハ城。
 パレードの日、この道は王の姿を一目見ようとした商人や旅人で埋めつくされた。10世紀頃からのあらゆる建築様式が残る。文化財だけで1500を数え、町全体が「建築の博物館」ともいえる。
 街角では壁に紋章を掲げた建物をよく見る。16世紀頃まではそのような紋章が住所代わりだった。宛名に「黄金のヘビ」と書けば、それだけで手紙が届いたという。
 かつて市が立った広場。人が上を見上げているのは、旧市庁舎の時計塔。15世紀に作られた天文時計。1時間に1度は時を告げる鐘と共に窓が開き、キリストの12人の弟子たちが登場する。その下にあるのは、1年に1周するカレンダー「カレンダリウム」。1日に1人ずつ歴史上の人物の名前が記されている。9月28日祝日に書いてあるのは、聖ヴァーツラフ。彼と共にプラハは始まったとされる。そして中心を流れるブルタバ川に沿って街並みを広げていった。ブルタバ川両端を16のアーチで結ぶ石の橋。カレル橋は全長516m。14世紀に完成し、19世紀までこの川にかかる唯一の橋だった。橋を30体の聖人像が守る。ここにも聖ヴァーツラフはいた。橋を渡るとプラハ城まであと一息。石段の上に城が迫ってくる。
 プラハの歴史は9世紀後半、プラハ城と共に始まった。歴代の王たちが増改築を繰り返した城は、王宮、聖堂、家臣の住まいなどからなる一つの町だった。今もチェコの大統領府として使われている。正門の前では正午に衛兵の交替の儀式が行なわれる。衛兵になる競争率は10倍を越えて、金髪と青い目のハンサムな男性が選ばれる確率が高いという。
 城の中心に建つ聖ヴィート大聖堂。この門が王の道の終着点だった。10世紀に建てられた小さな聖堂を基に、この大聖堂の建築を始めたのは、14世紀の後半、カレル4世。プラハを「黄金の都」と呼ばれる輝ける都市に変貌させた偉大なる王の一人だった。
 大聖堂を光で満たすのはステンドグラスの数々。ミュシャの1931年の作品にもチェコの聖人たちが描かれている。美しい少年として描かれているのがヴァーツラフ。
 ここで歴代チェコの王の戴冠式が行なわれた。21人の王がここで冠をかぶった。この黄金の王冠を作らせたのがカレル4世。彼はこの王冠にヴァーツラフの名をつけた。カレル4世が敬愛したのが、プラハ創設者であるヴァーツラフ王だった。リホール?・ゴッドフリートさんが説明してくれました。カレル4世は自分の戴冠式の時にヴァーツラフの頭蓋骨にこの冠を載せたという。ヴァーツラフは大聖堂の礼拝堂に眠る。その頭骸骨こそがチェコの知られざる宝。限られた特別なミサを除き、目にすることはできない。
 ヴァーツラフはキリスト教を深く根付かせたチェコ創世期の王だった。しかし935年、暗殺された。手を貸したのは反対勢力に担がれた実の弟だった。無念の死が彼への崇拝を一層高めた。死後、彼は守護第一聖人となった。その上にプラハ城とプラハの街は作られた。
 「黄金の小径」かつて、金細工の職人が暮らしたことから、この名がある。その後城の番兵が住んだという。20世紀になると芸術家たちがインスピレーションを求め、移り住むようになった。その一人が22番地を仕事場にしたフランツ・カフカだった。1916年、「プラハは私を離さない」という言葉が残る。ユダヤ人街で生まれたカフカは、第一次世界大戦前後のプラハの暗さがにじみ出るような作品を多く残した。彼ほどプラハの姿を描いた作家はいないという。
 イラストレーターのイジー・ヴォトルバさんは革命で政権が変わってから、ポップな絵が描けるようになったという。プラハを訪れる多くの人にこの町を知ってもらう作品を描きたいという気持ちで描いているそうです。ヴォトルバさんの代表作もチェコの偉人たちを描いている。その一番上に馬に乗ったヴァーツラフの姿がある。

 2009年9月27日はヴァーツラフの命日を翌日に控えた日。プラハでは厳戒態勢が敷かれていた。年に1度、ヴァーツラフの遺骨が運ばれる。人々が見守る中、一台の車が出発した。目指すは40kmほど離れた小さな村「スタラーボレスラフ村」の教会。10世紀、この村はヴァースラフの弟の領地だった。この教会の入口で兄は暗殺された。弟は兄の頭蓋骨をプラハ城に返したという。その骨が年に1度帰ってきて、ミサが行なわれる。教会の前ではチェコ全土からやってきた4万人の人が赤いバラを持って遺骨を待った。
 そして聖なる車の列が姿を見せた。頭蓋骨の入った箱の上に赤いバラが次々に置かれた。教会内では演奏。
 そして9月28日。10世紀に始まったこのミサは、社会主義の時代に一度は途絶えたが、今まで続いてきた。死後1000年を経てもなお、一人の王への思いが熱く息づいている。


テレビ番組「ヨーロッパ”最先端アート”への旅、知花くららデジタルに触れた!」

 2009年11月7日放送。知花くららさんが案内。知られざる最先端アートの中心地オーストリアのリンツ。今リンツで起きている芸術革命、都市再生の奇跡を紹介する。テクノロジーと社会をアートでつなぐ。関西テレビ製作。

●リンツ
 エール・フランス航空でパリを経由して18時間。9月のリンツは秋の気配に染まっていた。オーストリア第3の都市で、ドナウ川に沿って発達した都。現在人口19万人。15世紀には神聖ローマ帝国の首都だった。モーツァルトが「リンツ交響曲」を書き上げた場所もある。
 そのモーツァルトも食べたかもしれないリンツを代表する食べ物は、1929年創業の「カフェ・コンディトライ・シントラク」でいただkる「リンツァー・トルテ」。17世紀から伝わるレシピに基づいて作られている。アーモンドの粉末やシナモンが利いている。

 ハウプト・プラッツ(中央広場)では、動物で彩られる。「アルス・エレクトロニカ・フェスティバル」が開催され、10万人が訪れる。この動物たちはリンツの人々が手作りで製作したアート作品。  これを主催しているのが「アルス・エレクトロニカ・センター」。メディア・アート(最新のテクノロジーを使った芸術作品)を展示するミュージアムとしては世界最高峰の場所。まず目をひいたのは、沢尻えりかさんの100枚の写真。タイトルは「100 ERIKAs 」で、元々は携帯電話のカバーを着せ替えできるようにと考えられたもの。
 ここに展示されているのは、テクノロジーを使った楽しいアート作品。「Thinking Chair 」はイスが考えているように動いている。「Margot's other Cat 」はイスが猫の上を飛んでいる。「Machine with concrete 」は歯車が回るアート作品。2億年かけて削るようです。「Bellows2008 」。「L-E-D-LED-L-ED 」はお客がこれを使ってアートを作るというもの。知花さんはハートを作りました。「Absolute Quartet 」は玉がでてきて木琴を叩くというもの。これを作ったダン・パウスカさんに話を聞いた。次の「Deep Space 」は、9mx16mという壁面と床面を使った大スクリーン。最新3D技術で宇宙の絵を見えます。

 リンツ市内から車で30分、「ザンクト・フローリアン修道院」を訪ねた。14世紀に建てられたバロック様式の修道院。ここで作曲家アントン・ブルックナーがパイプオルガンを演奏していた。彼の遺言により、このオルガンの下にブルックナーが葬られていることから、世界中にその名を知られている。大広間はハプスブルグ家が贅の限りをつくしている。
 今回特別に図書室に入らせてもらった。天井まで美しい。蔵書数は14万冊で、9世紀のものまである。これでリンツの町が文化に溢れた町だったことがわかった。
 リンツは中世繁栄を極めた。その後鉄鋼業で繁栄するが、第二次世界大戦後に鉄鋼業が衰退し、町は活気を失った。1979年にアルス・エレクトロニカ・フェスティバルが開催された。最新の電子楽器を使った野外コンサートが開催された。この後アートで再生した。この活動が評価され、リンツは2009年「欧州文化首都」の称号を獲得した。

 「OKセンター」では、今年参加した作品が展示されている。「bios (bible)」はラテン語で聖書を書く機械で、1日24時間稼動して7ヶ月半かかるそうです。「The idea of a tree 」は糸を巻いている機械で、太陽電池で動く。「Tantalum Memorial Residue 」は100年前の電話交換機を使った社会批判。「TaxiLink 」はイスラエルなどの現地のタクシーから見える画像が、乗った人の前の画面に出るというもの。「Open Sailing 」は海に浮かぶ海洋ステーションを作ろうという計画。
 今回オスカーともいえるゴールデン・ニカ賞を受賞したのが、「Nemo Observatorium 」。5つの送付機を使って、ポリエチレンの玉を吹雪のように回転させる。アニメーションは「HA AKi 」が受賞した。フランスの「Skhizein 」、イギリスの「This way up 」。
 テーマは1991年は「Out of Control 」でソ連崩壊後の世界の混乱を描き、1998年は「Info War 」で進化する兵器、失われていくプライバシー。2009年は「Human Nature 」で、人間もまた自然の一部であるという視点。
 今年の Featured Person に選ばれたのは、大阪大学知能ロボット研究室の石黒浩教授。二足歩行ロボット研究の世界的権威でジェミノイドを作っている。CNNが選ぶ「世界を変える世界の8人」にも選ばれている。
 アルス・エレクトロニカ・センターの2階には30周年を記念して、日本人の作品を2階に半年間だけ特別展示されている。ヨーロッパはアート性を重視しているが、日本人アートの特徴はエンターテイメント性を重視しているとか。
 明和電気の「おたまアート」は面白い。

 中央広場に「アルス・エレクトロニカ・文化メディア芸術祭コラボレーション企画」Japan Game がある。
 「ミッション・フューチャー」という投資家やビジネスマンなどが一同に会するビジネスサロンも開かれている。これに関連して大阪北ヤード開発の話もあった。大阪でも「Baca-Ja 」はリンツのアルス・プロジェクトとも連携していて、日本の学生を対象としたデジタル・アートのコンテストとして有名。

 週末の夜、ドナウ川に浮かべた船でフェスティバルのフィナーレを飾る壮大な水上イベントが開催された。今年のテーマは「ノアの洪水」。最後に「アルス・エレクトロニカ・センター」が赤いLEDで輝きました。


テレビ番組「THE 世界遺産 オーストリアのハルシュタット」

 2009年10月4日放送。ハルシュタット、ダハシュタイン、ザルツカンマーグートの文化的景観。

●ハルシュタット
 アルプス山脈の東に翼を持つ者だけが見ることができる絶景が広がる。2000m級の山々と大小76の湖がおりなす湖水地方。そこに世界一美しいと言われる湖畔の街がある。
 紀元前1200年、この地で古代文明は花開いた。中世にはハプスブルグ家が世界屈指の大帝国をつくるきっかけになった。それが岩塩。山々に囲まれたわずかな土地に作られた街。

 アルプス山脈の東に位置する「ダハシュタイン連峰」は、氷河が大地を削り取る荒々しい山肌と天をつく断崖を作り出した。「屋根の石」を意味するダッハシュタイン連峰は、世界の山の中でも絶景に数えられる。
 石灰岩の大地を雪解け水が溶かし生まれる洞窟。夏でも氷点下の温度や湿度でできる「氷穴」。山の洞窟に染み出した雪解け水が、再び凍って産み落とされた氷の柱。1910年に発見された氷穴は、総延長2.7km。時間と自然が奇跡的に作り上げた、世界でもっとも美しい氷の絶景。

 ここから流れる水は滝となって、麓の町に流れ落ちる。土砂を運び、湖の淵に堆積される。そこに1軒1軒家が建ち、小さな街が形づくられた。その一つがハルシュタット。山を背にしているため、街は湖を縁取るように細長く広がった。とても美しい街です。狭い土地を有効に使うため、家は4階建、5階建がほとんど。19世紀末まで、この町まで通じる道はなく、人々は物資を運ぶのに小船を使っていた。ハルシュタットの人口はおよそ1000人。端から端まで歩いても15分足らず。家々も軒を重ねるように密集し、今でも車の通れる道はほとんどない。人里を離れた場所になぜ街が作られたのか?
 13世紀末、スイスの一貴族にしかすぎなかったハプスブルグ家はオーストリアを手に入れ、この辺境の地に目をつけた。この街で金銀に匹敵する塩が欲しかった。山の上にケーブルカーで上がると、山頂に岩塩の坑道がいくつも見える。クリスティーナという坑道は1719年に作られた。かつて海だった場所が隆起し、水分が蒸発して塩となる。岩塩は白い黄金と呼ばれた。

 1846年、ここに無数の人骨をラムザウアーが発見した。それは古代人の墓地だった。ハルシュタットには紀元前2000年に人々が暮らしていたと判明した。古代人の岩塩採掘坑が発見された。地下300mの深さまで張り巡らされていた。岩塩を運ぶ皮製のリュックは、紀元前10世紀頃のもの。塩漬けになっていたので、腐ることなく保存されていた。皮を加工し編み上げる技術は現代の皮製品と比べても見劣りしない。青銅を細工した装飾品も多数発掘された。中央ヨーロッパに高度な古代文化があった。
 ハルシュタットに紀元前1200年頃から繁栄したのは、ハルシュタット文化と呼ばれ、ヨーロッパ全土に大きな影響を与えたと考えられている。紀元前4世紀頃、古代人たちはこの地を去った。そこで岩塩採掘は止まった。

 ハプスブルグ家が採掘を始めてから、街には製塩所が作られ、街の人は塩業に就いた。
 家にもまた物語がある。一見木造に見えるが、実は石造り。以前は木造だったが、1750年の大火事で多くが焼失したので、石造りとし、木造に見えるように、外側に木の板を張った。「ガスト・フォーク?」というハルシュタット式の民宿では、湖の眺めと名物料理でもてなしてくれる。湖で獲れたマスのソテーは地元の塩で味付けしてくれる。家の外側だけでなく、家の中も木の温もりに溢れている。現在はリゾート地なので、多くの家が民宿を営んでいる。狭く入り組んだ路地、山の斜面に建つ家も多く、急な坂や階段も目立つ。

 教会も湖に面した岩の上に建てられた。最大の難問は墓地の不足だった。土葬の習慣があるためで、人々は変わった埋葬の仕方を考えた。16世紀、土に埋められた遺体は10数年経ったら掘り返し、教会の納骨堂に収めた。頭蓋骨は3週間太陽に干され、花や木々の緑、十字架が描かれた。頭蓋骨には人の名前、命日、職業が記され、親類や友人同士が近くに並べられた。この納骨堂には1200人の頭蓋骨が納められていて、この埋葬法は今でも続けられている。

 街の経済を支えた製塩所は20世紀半ばに廃業した。衰退していく街で人々はハルシュタットの美しさに気付いた。湖を横切る道路の計画も拒んだ。


テレビ番組「にじいろジーン 地球まるごと見聞録 プラハ」

 2009年9月5日放送。大韓航空で行きました。

●プラハ
 中世ローマ帝国時代に発展した美しい町。クルティチュカさんがタクシーで市内まで案内。初乗りは190円、中心地まで約30分。
 旧市街広場にあるプラハの象徴「天文時計」。毎時キリストの12人の使途たちが窓から顔を出す。
 にじいろガイドはテレサ・マルソヴァさん(25歳)。プラハの人はみんなビールが大好きで、朝からずっと飲んでいる。これが普通のこと。ビールの個人消費量が世界一。銘柄も400種類以上もある。お昼にはビールを飲む人も多い。中には料理にかけて食べる人もいる。ビールも安い。230円程度。ペットボトルにビールを詰めるサービスもある。500mLで160円!
 ハヴェル市場に行く。1232年から続く歴史のある市場。新鮮な果物や野菜のほかにお菓子もある。パセリ、セロリはチェコでは根っこしか使わない。主にスープの具材として使うそうです。基本的に葉っぱを使うことがないらしい。人気なのが屋台「Eurohotdog 」の「パーレック・ロフリーク(ロールの中のソーセージ)」160円。筒状のパンにソーセージをすっぽり入れて、マスタードをかけるだけ。昔から根強い人気の屋台グルメが「トゥルデルニーク」240円。今は屋台でしか買えない。バウムクーヘンみたいな感じでしょうか。

 気軽に食事をしたいなら「ホスポダ」が安くてお勧め。テレサさんのお母さんミロスラヴァさんも居酒屋食堂「ウ・ラウリ」を経営している。チェコは内陸なので、肉や野菜が中心。メイン料理1皿「モラビアン・ローストポーク」1170円と、スープ1皿「じゃがいもとマッシュルームのスープ」500円を注文するのが一般的。これに定番の前菜「プラハハム」580円をあわせればかなりのボリューム。ハムは普通はマスタードをつけて食べるが、生のホースラディッシュ(西洋ワサビ)をヤスリでおろしてつけて食べる方法もある。お肉料理には「クネドリーキ」という蒸しパンがついていて、お肉料理と一緒に食べると美味しい。もう一つ代表的なチェコ料理がブタの膝肉を使った「ブタ膝肉のロースト」1540円。この肉にナイフをグサリと刺して出す。1つで2−3人前なので、ナイフで切ってねという意味らしい。

 街角で見かけるのがマリオネット。市内には国立のマリオネット劇場もある。連日行なわれていて、入場料は3100円。観光だけでなく子供達の教育の教材ともなっている。プラハ文化はマリオネットと共に歩んできたと言っても過言ではない。この日の演目は国立劇場で4000回以上も演奏されている「ドン・ジョヴァンニ」。街中にはたくさんの専門店もあり、お土産としても大人気。すごい店員さんもいました。「マリオネッティ」は数ある専門店でもプラハっ子に圧倒的支持されている手作りのお店。プラハでは子供が生まれるとマリオネットを買って親たちが演じるのが親たちの勤め。1つ2600円のが紹介されていました。みんな部屋に1つは人形を飾っている。「魔女のマリオネット」をテレサさんは使っているようで、魔女は昔から幸福を呼ぶと伝えられている。特に主婦は家の中心という意味で、キッチンにおいている。

 不動産屋さん「Svoboda & Williams 」に行く。プラハの中心にある歴史の趣のある建物の賃貸マンションの最上階。プラハの繁栄の時代の建物で、アール・ヌーボーのスタイル。暖炉付きで、2LDK118平方m、家具は全て備え付け。バルコニーからは川やプラハ城まで見渡せる。家賃は1ヶ月4.5万コルナ(24万円)。

●カルロヴィ・ヴァリ
 車で90分。ヨーロッパ中から観光客が訪れる温泉町。昔は芸術家がよく通っていた。ベートーベン、ゲーテ、チャイコフスキー、ドボルザークなど。日本の「草津」はここの姉妹都市。ここには12箇所の源泉がある。ここの温泉は日本のように入浴するのではなく、飲むためにある温泉。12箇所には名前と温度が表示されている。中には60度以上にもなる高温の源泉もある。音楽の生演奏に耳を傾けながら、温泉が飲める場所もある。
 ここには名物になっているお菓子「スパワッフル」がある。プラハでも売っているが、ここでは焼いてくれる。生地に地元の温泉を練りこみ、口あたりサッパリのクリームをはさんである。1枚40円。
 ここで売っているコップは少し変わっている。ここの温泉を飲む専用のコップ。上から注いで、取っ手の先から口をつけて飲む。1つ300円〜。温度が下がるというメリットと歩きながら飲めるというメリットがある。


テレビ番組「男自転車ふたり旅 〜チェコ ボヘミアの街道を行く〜」

 2009年8月12日放送。狂言師の茂山宗彦(35歳)、俳優の黄川田将也さん(29歳)が自転車で旅をした。チェコで大人気の狂言を自分の目で確かめる。ウィーンから出発し、北北東の町ブルノ、西南西に向かいチェスキー・クルムロフ、北東に向かいタートル、北北西に向かいプラハに。合計500km、1週間の旅。NHK製作。

●ウィーン
 まず北に向かい国境を目指す。麦畑の続く田園地帯。6時間で国境に到着。何のチェックもなく通り過ぎた。

●ミクロフ
 ウィーンから71km。街が見渡せる丘に登った。レンガでできた屋根は中世から続いてきたチェコの風景。人々は街並みを守り続けてきた。
 ホテルでは近くのワインセラーを紹介された。ラディスラブ・ソラジークさんは「残念だけど味の保証はないよ」と語った(笑)無農薬のブドウの仕込みから、ワイン樽への詰めまで全て一人で行なって50年。決して市場には出さないので、ここでしか味わえない。まずは男性専用のワイン。精力剤の成分が入っているそうです。毎日飲むと疲れを知らない。年間200リットルしかできない貴重なワイン。次はワインを原料にした強い酒「ピーノ・ピーツァ」。ワインを蒸留したもので、ブランデーのようで、アルコール度数は60度。ソラジークさんは人差し指を突っ込んで、それにライターの火をつけ、すぐに口に運んで消しました。青い炎はよいお酒だそうです。二人もやってみました。お店を大きくしたら、お客さん一人一人との素敵な時間が過ごせなくなるという。ソレジークさんは楽しかったからお金は要らないとお金を受け取らなかった。茂山さんも感動しましたが、僕も感動しました。
 翌朝、お別れを言いに行くと、奥さんのクベトスラバさんとお話した。そしてブルノに向かう。
 途中で雨にあった。チェコでは街路樹としてチェリーの木がたくさん植えられている。ここになっているサクランボは誰でも食べていい。これをいただきました。

●ブルノ
 2日目の夜に到着。124km。
 狂言が行なわれている劇場「Divadlo Husa Na Provazku 」を訪ねた。週に1回の公演が行なわれている。劇団の名前は「チェコなごみ狂言会」。劇場が満員になるほどの人気劇団。劇団発足のきっかけは、茂山さんの父の茂山七五三さんが10年前にチェコで公演を行い、興味を持った人たちが日本に来て稽古した。今回は3年ぶりの再会でした。開演3時間前から打ち合わせと練習。茂山さんは準備段階で父親の存在を感じた。どれほど真剣に父親の狂言を吸収してきたかがわかった。平日のお昼でしたが、客室は満席。演目は「口真似」。お客さんは爆笑でした。来年も来たいと思ったようです。
 メンバーの一人がテルチで音楽のライブをするという。テルチは西に120km。ここからは標高400m前後の高原地帯が続く。雨と雷がやってきたが、避けることができました。夜8時、太陽が沈むほんのわずかな瞬間に世界が金色に染まった。

●ズノイモ
 3日目の夜に宿泊。

●ジェレティツェ Zeletice
 4日目の朝、ジェレティツェという小さな村を通過。201km。村で伝統の紙作りをしていると聞いてやってきた。絵が好きな黄川田さんはスケッチブックが欲しかった。
 お店は「Davidovi 」(Tel:723-365-454)。伝統の手すき紙が並ぶ。工房も見せてもらった。店主のカレル・ダビッドさん。昔の印刷機で書いた地下出版物もあった。ガリ版印刷機を見せてもらった。社会主義の時代には出版物は厳しく検閲された。当時カレルさんは音楽家だったそうです。特に地下出版は最も重い罪の一つだった。しかし印刷を続けた。
http://www.handmadepaper.cz/

 村の近くのオーストリアとの国境に社会主義時代の鉄条網が残っていた。これを越えようとして、多くの人が射殺された。

●テルチ
 5日目、251km。ルネサンスやバロック様式の建物が、建てられた当時そのままで残っている世界遺産。
 突然けたたましいクラクションが鳴り、数台の車が広場を通過。車から降りてきた人が「振る舞い酒」だと言って、お酒を飲ませてくれた。結婚式でした。みんなきれいな人です。
 広場で300年の歴史を持つチェコの人形劇をしていた。イトカ・ティハーさんは12歳からやっているという。今は芸術大学で人形劇を学んでいる。
 オンジェイ・ハブリークさんに会う。マコマコというバンドで、メンバーは、ボーカルのクリスティーナ、ベースのミハル、ギターとバイオリンのペテルさん。芸術大学でクラシック音楽を学び、それをベースにして新しい音楽に挑戦している。ヒューマン・ビートボックスと言って、ペテルさんが口で音を出していました。二人は5分間だけ練習しました。
 広場でライブが始まった。二人はステージに呼ばれて、参加しました。

●養殖池
 移動の途中で養殖池を多くみかけた。海のないチェコでは、14世紀から貴重なタンパク源として、マスやコイを養殖していた。夜9時、果てしない小麦畑にようやく夜が訪れる。

●世界うまいもの紀行 チェコ編
 「ニンニク・スープ Cesnecka 」。二日酔いにはニンニク・スープと生ビールだとみんなが言う。「マスのグリル Pstruh na Grilu 」魚はマスとコイが中心。「酢漬けソーセージ Utopenec 」は、たっぷりのタマネギと共にスパイスの効いた酢につけて1週間かけて作る。
 お気に入りは「グラーシュ」でビーフ・ストロガノフのような感じ。これについているのはチェコの蒸しパン。「チェコ風肉の欲張りセット」。
 国民一人あたりのビールの消費量は世界一。飲んだので、そこで列車に乗りました(笑)

●チェスキー・クルムロフ
 世界遺産。人口は1.3万人。街のシンボルはお城。13世紀に建設が始まり、時代を経る毎に様々な様式の建て方がしてある。街も同様。
 世界で一番美しい町とも言われている、可愛い街でした。

●ホラショビツェ
 6日目、331km。世界遺産。中世の面影が残る街。

●チェスキー・ブジェヨビツェ
 344km。美しい街並み。

●ティーンナドブルタボウ
 370km。街を出ると田園風景が美しい。

●ターボル
 夜10時に到着。狂言に興味のある画家のナジェジュダ・スボボドバさんの家を訪ねる。30番地。5年ぶりの再会でした。父のイリー、母のヤロスラバさんも歓迎してくれました。
 チェコ料理をいただく。まずは「サラークリームとキノコのスープ」。次はコイ料理でしたが、チェコではクリスマスやお祝いの際に作る。地元で取れたヒマワリ油でキツネ色になるまで揚げる。美味しいのですが、理由は養殖池の底が泥ではなく、きれいな砂だから。ビールをいただきました。
 翌朝ネジェジュダさんのアトリエを見せてもらった。風景や動物などをモチーフにして色鮮やかに描かれた抽象的な作品は、海外でも高く評価されている。「街につづく道」、「青の渦」などが紹介されました。チェコの狂言界の衣装もデザインしている。風景のスケッチは1枚5分程度とか。黄川田さんの絵も見てもらったら、ナジェジュダさんがチェコの地図を描いて送るから、それに絵をつけてと言ってきました。
 プラハまでは100km以上。最終日は晴天で30度を越えた。夜は大雨らしいので、それまでに到着したい。

●プラハ
 あと20kmでプラハ市に入る。雨が降ってきたが、市街地に入ると西の空に太陽が顔を出した。走行距離は492km。旧市街広場に到着。
 茂山さんは、現地の人の優しい心に「ありがとう」でしか返せないのがとても悔しかったそうです。思い出すと自然と涙が流れた。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 西川史子さんでザルツブルグ」

 2009年6月20日放送。西川史子さん(38歳)がザルツブルグで行われる豪華結婚式に憧れて、その下見に行きたいという。エールフランス277便/1138便、オーストリア航空917便で日本から16時間。1泊4日の旅。

●予定
 1日目、21:55成田空港発AF277便。
 2日目、4:15シャルル・ド・ゴール空港着。7:15、シャルル・ド・ゴール空港発AF1138便、9:15ウィーン国際空港着。10:20、ウィーン国際空港発OS917便、11:20、ザルツブルグ着。12:00、バスで市内に移動。12:30、モーツァルト広場でガイドと待ち合わせ。13:00、ウェディング・ドレス選び。15:00、ウェディング・アクセサリー選び。17:00、ホテル「シュロス・メンヒシュタイン」チェックイン。20:00、レストランで食事。
 3日目、8:00、ヘアメイク、ウェディング・ドレス着付け。12:30、ミラベル宮殿で豪華結婚式の下見。18:25、ザルツブルク空港発OS924便。19:15、ウィーン国際空港着。19:55、ウィーン国際空港発AF2039便、22:00シャルル・ド・ゴール空港着。23:35、シャルル・ド・ゴール空港発AF278便。
 4日目、18:00、成田空港着。

●ザルツブルグ
 モーツァルトが生まれた町としても知られ、世界中からの観光客で賑わう。ガイドはステファンさん(27歳)。
 ドレス専門店「パミーナ」は400種類以上のウェディング・ドレスが揃うザルツブルグで人気No.1のお店。レンタル代は200ユーロ〜(2.7万円〜)。ガイドはクラシックなタイプが好きなので、それにした。
 ゲトライデ通りは街一番の賑わい。通りの向こうに山も見えます。「スワロフスキー」のお店がある。オーストリアの会社なので、その年の新作は日本よりも早い。結婚指輪は2個で400ユーロ(5.4万円)。
 ホテル「シュロス・メンヒシュタイン」にチェックイン。650年前に建てられた古城を改築した5つ星ホテルで、壁は黄土色〜茶色。女性好みかも?西川さんの部屋のベッドにはバラで作られたハートのマーク。ホテル代は1泊560ユーロ〜(7.6万円〜)。眺めもとてもいいです。
 夕食は教会を改装したレストラン「シュティフツケラー・ザンクトペーター」は、803年創業の中欧最古のレストラン。モーツァルトも愛した伝統料理が味わえる。「カポン(雄鶏)のロースト」は肉質の柔らかい雄鶏だけを使い、バターでじっくり焼くという当時の味をそのままに再現してある。途中で暗くなり、プロの小オーケストラによる「モーツァルト・ディナー・ショー」48ユーロ(6400円)が始まった。これはお店の目玉。今回は「フィガロの結婚」。

 翌朝8時、ホテル専属のメイクさんが来室し、1時間かけてメイク。2頭の白馬の馬車に乗って会場に行く。150ユーロ(2万円)。「驚くほど美しい」という意味をもつ「ミラベル宮殿」に到着。1606年建築のザルツブルクで最も古く豪華な宮殿。結婚式場としては、この上なく豪華な宮殿。庭が美しい。天使の階段?を上がり、擬似結婚式を体験します。部屋は豪華なシャンデリア、大理石と金箔が施された豪華な造りが特徴。ここはモーツァルトがマリー・アントワネットのために演奏した場所だと言われている。指輪を交換しました。
 庭園に出るとプロの演奏者による「弦楽5重奏による生演奏」があった。1000ユーロ(13.5万円)。ここでライス・シャワー、そして風船を飛ばした。ここで西川さんはどうしても演奏して欲しい日本の曲を依頼。長淵剛の「乾杯」でした。ここで平たいケーキに入刀。最後にブーケトス。
 ミラベル宮殿で結婚式を挙げると、ウェディング・ドレスのままヘリコプターに乗って世界遺産の湖畔の町ハルシュタットに行く。青い宝石とも言われます。ヘリコプター遊覧飛行は30分720ユーロ(9.7万円)。


テレビ番組「世界遺産への招待状7 スロバキア」

 2009年5月18日放送。人口540万人、九州と同じくらいの小さな国。天空の城スピシュ城、バルデヨフ市街保護区、カルパチア山脈木造教会群。

●スピシュ城
 中央ヨーロッパ最大級の城塞。丘の上に雄大に建つ。広い城を案内してくれたのは、ホツキツコさん。元教師で城の生き字引きといわれる。まず自慢は城の広さ。行き止まりがない。幅430m、奥行き最大150m。周囲は1km。のどかな田園地帯になぜ作られたのか?
 中世、スロバキアは東はモンゴル帝国、北はポーランド王国、西は神聖ローマ帝国、南はハンガリー王国に囲まれていた。13世紀のモンゴル帝国は中世ヨーロッパにとって最大の脅威だった。王たちが始めたのは、スピシュ城を大きくすることだった。12世紀に建設が始まり、600年にわたり、増築が繰り返された。現在城は無人の廃墟となっている。シーサーというリスの一種が住む。穴になっているのは、12世紀の初代王の塔の基礎。後にこの上にポーランド王が塔を建て増しした。外の城壁には14世紀にハンガリー王が作った石灰岩の城壁がある。さらに守りを固めようとしたもの。15世紀にはポーランド王が建て増したゴチック建築の見張り塔。モンゴルに代わり新たな脅威となったオスマン帝国に備え、砲台や兵舎も大増築された。
 城の達人が暮す村も世界遺産の保護地域。一番大事なのは羊飼い。織物の原料となる羊の毛を刈り、そのミルクからはチーズを作ってきた。酸で乳を分離させ、手でゆっくりと固めていく。こういう技術は外から入ってきた。スピシュ城お王たちは土木技術や教育ももたらした。スロバキアの民は、厳しい大地で生きていくために支配者との共存する道を選んだ。支配者はよそ者ではなく仲間だった。
 争い事を避け、支配者とうまくつきあってきたスロバキアの人々。春の祭りに出会った。案山子のような像を掲げた若い女性たちが歌を歌いながら町を歩く。歌の内容は「お前は100人息子を生んだけど、全員ろくでなしのクズだった。そのうえドケチ」。これが厄払い。他人の家に勝手に入って、食べ物を取っていく。少女たちが掲げてきた像は、大地の冬の象徴。祭りの最後はこれを燃やし、待ち焦がれた春を迎え入れる。

●バルデヨフ旧市街保護区
 スピシュ城の北東。中世以来、農業が中心だったスロバキアにもヨーロッパ有数の商業拠点があった。バルデヨフはその中心となった町。きれいなパステル・カラーの商家がぐるりと広場を取り囲んでいる。町じゅうが世界遺産。特徴的な赤い三角屋根は13世紀にドイツ人がもたらした。中世そのままの街並みが今も残っている。市長のボリス・ハヌシュチャクさんが挨拶。
 バルデヨフは多民族で多文化の街。16世紀にベネチアからきたワイングラスもあった。当時流通していた各国の通貨もある。町のシンボル「聖ギディヴス教会」は設計を担当したのがドイツ人とスイス人。当時流行していたゴシック建築をこの町にもたらした。祭壇はポーランド人で、緻密な彫刻を作り上げた。今も現役のパイプオルガンはハンガリー人の手によるもの。木でできた信者席は木工が得意なスロバキア人が手がけた。そして15世紀にこの教会は完成した。
 1930年代、そんな共存の町を悲劇が襲った。ナチス・ドイツの台頭だった。当時、ナチスはスロバキアを含む中央ヨーロッパに進出。1939年スロバキアにヒトラーの傀儡政権が誕生し、初代大統領にティソが就任した。皮肉なことにスロバキアにとって初の独立国家だった。独立を祝うパレードにも、ナチスの親衛隊を真似た「フリンカ親衛隊」の少女たちが町を行進した。当時の悲劇を知るユダヤ人のイルマさん(70歳)に話を聞いた。イルマさんはこの町で生まれ育った。スロバキアは独立の代償として、共存してきたユダヤ人を強制収容所に送った。バルデヨフからは3700人が送られた。イルマさんは1944年11月1日に送られたらしい。財産は全て奪われた。イルマさんの生家はイルマさんの運動の末に、現在は町の博物館になっている。それまでは町中が家族のようだったとイルマさんは語った。
 18世紀に作られたユダヤ教の会堂「シナゴーグ」は打ち捨てられたような姿で残っていた。かつて町の人口の6割を占めたユダヤ人。バルデヨフではようやく来年から修復が始まるという。
 近郊の酒場では、若者の2割が民族音楽を演奏できる。ツィンバロンはハンガリーから伝わった楽器。ハンガリー舞踏も踊られた。スラブ系少数民族のワルツも演奏された。スロバキアのポルカもある。スロバキアが共和国になったのは16年前。再び共存の心が蘇ろうとしている。

●カルパチア山脈
 異なる宗派の8つの木造教会が世界遺産に2008年に登録された。様々な宗派が共存していることが評価された。カトリックのヘルバルトフ教会は15世紀に建てられた。スロバキア最古の木造教会の一つ。木の壁に直接描かれた当時の壁画がそのまま残っている。素材は樹齢600年のイチイの木。
 プロテスタントのケジュマロク教会。天井が船に似ている。18世紀に建てられた。人手が足りないので、船大工が借り出され、船底のように作った。席に掘られた1番の数字もイカリのようなデザイン。
 ギリシャ・カトリックのラドミロバ教会は、3段になった3つの屋根が特徴。1742年に完成。貧しい村にようやく作られた念願の教会だった。教会は松の木で作られた。まず目を捕らえるのが中央の祭壇。キリストの弟子12人と中央にキリストが描かれている。一番奥に飾られているのは、金色に輝く聖母マリア。この教会の鍵番はマリアさん(85歳)。20年に1度、木の外壁が張り替えられる。毎日ミサが行なわれている。鐘突きのペトルさん。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ザルツブルグ」

 2009年5月9日放送。

●ザルツブルク
 紀元前から経済の中心地として栄えた。文化芸術の分野でオーストリアを代表する。年間550万人の観光客が訪れる。
 旧市街アルターマークト Alter Markt に行く。モーツァルトが生まれた町なので、看板などがある。ケーキ屋さんにも「モーツァルト・クーゲルン」というチョコレート菓子もある。ナッツやヌガーなどをチョコレートでコーティングしてある。「シュトランツ&スキオ」というカフェでは「ヴィーナス・ブルッツェン」というお菓子があるが、日本語でいうと「チクビ・チョコレート」。乳房とチクビの形のチョコレート。当時エロスが流行したが、映画「アマデウス」でもこのお菓子を食べるシーンがある。1個1.4ユーロ〜(180円〜)。
 クリスマス・グッズの店「クリスマス・イン・ザルツブルク」は1年中クリスマス商品を扱う。特に「グラス・オーナメント」というガラスに絵が描いてある飾り付けは、ザルツブルグ近郊で手作りで作られている。
 ゲトライデガッセはメイン・ストリート。建物の下がくりぬかれていて路地だらけ。行列のできているお店がある。ホットドッグみたいな「ボーズナ」はブルガリアから伝わったホットドッグで、味の決め手は最後にかける粉。ターメリックやペッパーなど16種類のスパイスを調合している。1日700個以上も売り上げるとか。1個2.5ユーロ(330円)。
 アンジェロ・フラッチャーさん(19歳)が紹介してくれたのは、サンクト・ペーター教会。中は高級レストランみたいだが、モーツァルトのディナー・コンサートの会場でした。ディナーは17世紀の調理法で作ったロースト・チキンなど。このコンサートでは弦楽曲だけでなく歌曲も聞くことができる。毎日開催されていて、連日超満員。48ユーロから。

 郊外のヘルブルン宮殿。1618年に建てられた。からくり人形が人気だが、後ろから水が飛び出してきた。建設当初から水が出る仕掛けになっている。ほぼ必ずぬれるようです。

 踊りに行く若者がいた。オーストリアの若者は15歳くらいになると社交ダンスを学ぶ。オーストリアでは秋から冬にかけて様々な舞踏会が開催される。4ヶ月通うと基本的なダンスが踊れるようになるという。

 新婚さんの朝ごはん。郊外の一軒屋に住むエリザベート・ピラーさん(23歳)が作るのは、1品目オーストリアの伝統的料理「グリースノッケル・ズッペ」。卵にサラダオイルとナツメグ、粗挽きの小麦を入れよくかき混ぜる。スプーンで一口大の団子状にしてお湯に入れる。別の鍋にブイヨンを入れてスープを作り、先ほどの団子を入れる。
 2品目「ウィンナー・シュニッツェル」。豚もも肉の両面に小麦粉をつけ、卵、パン粉をまぶして、フライパンに油を敷いて焼く。焼きすぎないことがコツ。表面がカリカリになるまで焼く。キッチンペーパーで余分な油を吸い取る。ジャムをつけながら食べるのがオーストリア流。
 3品目「アイアーノッケル」。小麦粉、卵、塩、水少々をボウルに入れ、ハンドミキサーで手早く混ぜる。シュペッツェル・フォーベル?というおろし金のような器具をお湯をはった鍋の上にセットして、生地を流しこむ。日本のすいとんのようなアイアーノッケル。茹であがったら、水を切る。フライパンでたまねぎのみじん切りを透明になるまで炒め、アイアーノッケルを加え、さらによく炒め、溶き卵をまわしいれ、パセリ、塩、胡椒で味付けする。


テレビ番組「THE 世界遺産 シェーンブルン宮殿」

 2009年4月5日放送。ビデオの調子が悪くて録画できませんでした。HPからの情報です。

●ウィーン
 ヨーロッパの歴史の礎に、多大なる影響を与えたハプスブルク家。その王朝の記念碑とも言うべき建築物がシェーンブルン宮殿。17世紀の終わりハプスブルク家の夏の離宮として、建てられた。やがて18世紀の半ば、女帝・マリア・テレジアの居城とするため、絢爛豪華に改装され、今日の姿になった。部屋数はおよそ、1400室以上。中国やインドの美術を取り入れた華麗な内装。遥か異国の美術を手に入れていたということは、富と権力の象徴でもあった。第一次世界大戦後、ハプスブルグ家が崩壊した後、この宮殿は市民に開放されたが、実に驚くべき形で市民に開放されることになった。

 シェーンブルン宮殿の「大ギャラリー」はかつて、シェーンブルン宮殿に招かれた客人が一番最初に目にする大ホールであった。巨大な天井の中心にはマリア・テレジアが描かれている。テレジアはこの大ギャラリーを客人達に見せつける事で自分の権力を誇示したのである。

 「庭園の間」は現在は一般公開されていない。インドの自然をモチーフにした、この部屋には宮殿生活とはほど遠い田園風景への憧れがあった。テレジアはその他の部屋の装飾にも、外国の文化を積極的に取り入れた。世界の文化をこの宮殿に取り入れることで、この場所が世界の中心である事を誇示したかったのである。

 「動物園」。シェーンブルン宮殿の庭園には、今でも動物園がある。世界初で最古の動物園である。当時、世界の動物をここに集め、それを見ながら夫と共に朝食をとるのがテレジアの毎朝の楽しみであった。


テレビ番組「THE 世界遺産 スロバキアのヴルコリニェツ」

 2009年1月25日放送。2008年12月24日、たった一人のクリスマス・イヴ。たった一つの歌が時を重ねてきた。

●ヴルコリニェツ
 16年前にチェコと分離し分かれた国スロバキアの山奥の村。標高718m。暮すのは6世帯28人。最も小さな世界遺産の村。スロバキア語で「オオカミ」の意味で、オオカミを撃つ狩人たちの村だった。木造の家屋はおよそ45個。3分の1が既に空家。家は同じ作りで、石の土台に丸太をほぼ横に組み上げている。急勾配の屋根。最寄の町からおよそ10km。10世紀から12世紀にかけて人が住み始めた。
 鐘楼は1770年建てられた。今は1日3度の時報の役割。小川でベルナルディア・ミラノヴァさん(69歳)が水を汲みに来た。もう20年も一人暗しをしている。煙で木がいぶされ家屋の耐久年数が増す。ミラノヴァさんが生まれた20世紀前半には、村には300人が暮らしていた。生計を支えたのは、じゃがいも、キャベツなど。ヤギや鶏も多く飼っていた。ほとんど自給自足で暮すことができた。
 ヨゼフ・ヴィラディアクさん(44歳)がモミの木を切って、ミラノヴァさんのお宅に届けた。ヨゼフさんの祖先はこの村に暮らしていたが、国に土地を没収された。30年間コンクリートの家に住んでいたが、最近やっとこの村の木の家に住むことができるようになった。
 一軒だけあるお店。欲しいものがあれば、言っておくと近くの村まで買出しに行ってくれる。
 クリスマス・イヴには村に長く伝わる鯉の料理を食べる。この日の夜だけは里帰りの人たちで増える。音楽を演奏する人が一軒一軒回る。ミラノヴァさんはお菓子をお返しにあげました。夜10時、クリスマス・イヴのミサがある。
 祖先の記憶を守るというのは、民族の誇りでもある。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン チェコのプラハ」

 2008年11月15日放送。

●プラハ
 市内を流れるプルタヴァ川の両岸には、世界でも指折りの美しい街が広がる。四方をドイツ、ポーランドなどに囲まれ、ヨーロッパのハートとも呼ばれる。30体の聖人像が欄干を彩るカレル橋は一番の観光スポットになっている。旧市街の広場はいつも活気に溢れている。市街地は赤いトラムが走る。
 町の中心地から車で30分の郊外に住むシルヴィア・ロヴェンスカさん(33歳)のお宅を訪問した。音楽家の夫のミレックさん、3人姉妹と暮らす2LDK、120平方m。
 ボヘミアン・グラスは伝統工芸品。ガラス工芸の歴史は2000年以上。ガラスに鉛を混ぜる技術が可能となってから、堅くて透明なグラスが加工しやすくなったそうです。
 有名人墓地には有名な音楽家や芸術家が眠る。親たちは子供たちをここに連れてくることで、歴史や文化を学ばせる。ロボットという言葉を発明した作家チャペック、作曲家のドボルザーク、スメタナなど。
 チェコで生まれたものとしては、他にはソフト・コンタクトレンズ、ポチという名前の犬、角砂糖。チェコ語で「おいで」というのを「ポイチ」と言う。日本に来ていたチェコの人がそう言っていたのを聞いて、名づけたらしい。あとピルスナー・ビールも?
 街中には、楽しそうに踊っているビル、赤ちゃん達が柱を這うテレビ塔、通りの上にぶら下がる男性のオブジェなどのアートが溢れている。
 旧市街の青空市場は800年前に創設。セロリの根とパセリの根はスープに使う基本材料だそうです。白菜は1kg90円(日本は200円)、桃は100円(日本は770円)。市場には水で洗える場所があって、買ったばかりのリンゴなどをガブリ。
 乾燥させた「ケシの実」を粉にひいて伝統的なケーキ作りに使う。プラハでは、ケシの実を使うケーキが一般的だそうです。こねた生地を「レモスカ」という鍋に入れ調理する。これは電子レンジがない時代にはどの家庭にもあった電気鍋だそうです。20分で「マコヴェッツ」が完成、パウダー・シュガーをかけて出来上がり。ケシの実のプチプチとした歯ざわりが特徴で、子供はみんな大好きです。
 最近人気なのは、川沿いでの「遊覧バルーン」。地上からロープでつながっている。風が強くてスリル満点とか。料金は1人4000円。

 郊外のある教会。中には骨ばかり。4万人の人骨だそうです。昔は聖地だったので、埋葬を希望する人が多く、場所もなくなり装飾として積み上げられたそうです。シャンデリアに紋章も人の骨。

 市街地での伝統ある人形劇。チェコ語が禁止されていた期間も、マリオネットだけは許された。

 夕食は伝統料理。根菜類を切り、豚のラードを切り牛肉に詰める。牛肉の塊をソテーした後に野菜と共に鍋に入れ、ベースとなるスープと煮る。牛肉を取り出し、残った野菜をつぶして濃厚なスープに仕上げる。牛肉はスライスする。牛肉にかけた「スヴィチコヴァー・ナ・スメタニエ」(牛ヒレ肉のクリームソースがけ)。
 家族みんなで演奏会。チェコの人は演奏会が好きです。
 絵本には隣の村に住んでいた絵本作家ヨゼフ・ラダの直筆のサインがありました。


テレビ番組「旅サラダ 2008年10月は岩崎宏美さんでチェコ、オーストリア」

 岩崎さんはチェコの親善大使。1K(チェココルナ)=6.06円(2008年9月30日現在)。

●プラハ
 街中を流れるモルダウ川。プラハ城をのぞむ中世からの街並みは世界遺産。
 以前食べて今回も食べたいと思っていた「トルドロー」はバウムクーヘンみたいなお菓子で、45K(270円)。小麦粉・砂糖・シナモンを練ったパン生地をのばして、鉄の棒に巻きつけ、ざらめをつけて焼き上げる。16世紀頃からあるチェコの伝統的なお菓子。甘く、表がサクサク、中がふっくらした食感でどこか懐かしい味。キャラメル味、アーモンド味が選べる。
 中世から残された「王の道」という特別な道がある。それは火薬塔からカレル橋を渡りプラハ城まで続く2.5kmの道のこと。歴代の王たちはこの「王の道」で1458年から約4世紀に渡って華麗な載冠パレードを行ってきた。鼓笛隊や兵士、王子たちを乗せた馬車が行列を作り、民衆が見守る中プラハ城を目指して華麗なパレードが繰り広げられた。
 火薬塔は、「王の道」の起点。高さ65mで、1757年ロシアとの戦いで火薬庫に使われたことから「火薬塔」と呼ばれる。15世紀後半、ゴシック様式の城門として、旧市街広場から東に延びるツェレトナー通りの突き当たりに造られた。かつては王の宮廷の門として、外国の大使や王侯貴族、聖職者たちを迎えた。現在内部はギャラリーとして使用されている。

 旧市街広場は11世紀頃、商業発展に伴い次第に形成された。旧市庁舎は14世紀に建築が始まった。広場を囲む建物全てが中世のもの。周りにはゴシック様式、ルネッサンス様式、バロック様式などプラハの歴史を代表する建築群が広場を取り囲む。15世紀にはオーストリアで絶大な勢力を誇っていたハプスブルグ家の支配下となった。
 「カレル橋」はヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の美しい石橋。カレル4世の命により1357年に着工、およそ60年かけて1402年に完成した。16のアーチで支えられた橋の欄干には、30体の聖人の像が並ぶ。フランシスコ・ザビエル像もある。当時のヨーロッパで最大の土木工事であり、27歳の天才建築家ペトル・パルレーシュが手がけた。この橋はゴシック様式で全長520m、幅10m。橋の上には露店が立ち並び、ストリートパフォーマーが演奏を披露する。
 「ドボルザーク・ホール」は岩崎さんが昨年レコーディングをした場所。

 「プラハ城」に行くために険しい階段をあがった。ここからプラハを見るととても美しい。岩崎さんが一番好きな景色だそうです。
 「プラハ城」は500年の年月をかけて、9世紀半ばから建設が始まり、現在の状態に近いところまで14世紀のカレル4世の時代にほぼ完成した。プラハのシンボル。城壁に囲まれた広大な敷地には旧王宮、教会、修道院などが建つ。その後は、苦しい他国による支配が続いた。その暗く影を落としたプラハ城に輝きを与えた人物がいた。アール・ヌーボーを代表する画家アルフォンス・ミュシャ。チェコをこよなく愛していた画家は、ステンドグラスに祖国にキリスト教の歴史を描いた。1993年チェコ共和国が誕生。しかしミュシャは祖国が解放される前に亡くなっていた。
 「聖ヴィート大聖堂」(開場時間:9:00〜17:00、日曜12:00〜、冬期〜16:00、冬期日曜12:00〜16:00、定休日:無休、入場料:100K(600円))は、もともとは930年に造られた円筒形のシンプルな教会だった。14世紀改築工事が始められ、1420年見事なゴシック建築の大聖堂が完成。その後も手が加えられ、最終的な完成は20世紀に入ってから。奥行き124m、幅60m、塔の高さ96.6m。地下にはカレル4世、ヴァーツラフ4世、ルドルフ2世ら歴代の王の墓が納められている。ボヘミア地方全体のカトリック総本山で、教会の中に入るとアールヌーボー様式のステンドグラスに目を奪われる。
 ミュシャ(ムハ)のガラス絵「聖キリルと聖メトディウス」は、チェコの聖人たちを題材にしたガラス絵。鮮やかなモラヴィアの色彩を採り入れたスラヴ的要素の強いムハ晩年の作品。

 宿泊は「パジーシュ」(住所:U Obecniho domu 1,11000 Praha 1)で、アールヌーボー建築。1904年、国の文化財であった建物を保護しながら内部をホテルとして改修した。パジーシュとはパリのこと。建物の外観、内部ともにアールヌーボーとネオゴシックが混在した見事な装飾がある。
 今回は最上階の「タワースイート」で1泊朝食付き一室1300EUR(約19.4万円)。新しいものと古いものが共存している。寝室には丸い窓がついている。部屋からさらに続く階段を上がると、プラハが一望できるテラス。
 夕食は「ウ・カリハ」(住所:Na bojisti 21-14,Praha 2、営業時間:11:00〜23:00、無休)。チェコで国民的人気小説「兵士シュヴェイクの冒険」(DVD「善良な兵士シュヴェイク1-コニャックの巻」もでています)の作者ヤロスラフ・ハシェクが愛したレストラン。店内は物語の登場人物たちの人形やイラストで飾られている。いただいたのは、チェコの伝統的な料理「蒸した豚肉、キャベツ添え」250K(1500円)で、オニオンとバターで1時間半煮込んだもの。夜はアコーディオンとチューバのバンドの生演奏も楽しめました。メリー・ホプキンの「悲しい天使」を全員で歌って手拍子していました。

 社会主義時代に思想などを制限されたチェコで唯一許されていたのは子供向けの絵本。今でも絵本にはチェコの思想が息づいている。美しい色使いが特徴の作家のアトリエを訪問した。ヨゼフ・パレチェクさん(76歳)。優しい色あいと繊細な絵がとても印象的。35年前から絵本を描き始めた。今では世界27カ国、日本でも出版されている。1枚の絵にいくつものストーリーが含まれていて、見ているだけで創造性がふくらむ。チェコ文化庁の「最も美しい絵本賞」に何度も選ばれた彼の絵は、テキスト以上に読者に語りかけてくる力を持っている。岩崎さんの紫色の猫の絵を描いてくれました。無邪気な心が伝わってきた。
 パレチェクさんの絵に物語をつけているのが、奥さんのリブシェ・パレチコヴァーさん(71歳)。二人の大好きな作品に「マシュリカの旅」という絵本がある。これは娘のヴェロニカ・パレチコヴァーさんに向けて書いたもの。魔法のリボンが彼女の人生を導いていくストーリー。ヴェロニカさんは孫にあたるクリスティーナさんが生まれた時も読んで聞かせたそうです。

 プラハの人は陽気でお昼からビールを飲む人もいる。プラハで最も美味しいと言われるビール専門店「ウ・ズラテーホ・ティグラ」(住所:Husova 17, Praha 1、営業時間:15:00〜23:00、休み:なし)に行ってみた。午後4時なのに店内は満席(笑)。世界で醸造されている大半のピルスナー・ビール。実はチェコが発祥。席に着くと、注文しなくてもビールが運ばれてくる。隣のおじさんは1回来ると10杯飲むと言っていました。「ピルスナー・ウルクェル」500mLで34K(200円)。
 チェコの国民一人当たりのビール消費量は世界一!2006年の年間161.5リットルは日本の約3倍。チェコは11世紀にビール醸造所が誕生した。1842年にピルスナービールが開発されるまでは、ビールは濁った茶褐色のものしかなかった。この店は1920年代に創業。本場のチェコビール、ピルスナー・ウルクェル(元祖)を飲めるピヴニッツェ(ビアホール)。日本語で「黄金の虎」の意味。16世紀頃からこの場所はビアホールだった(店は違う)。開店と同時に常連客でいっぱいになるほどの人気。店で売れるビールは1日平均1000杯!1人平均7,8杯は飲むそうです。

 お土産物のお店を見るとマトリョーシカが多いのに気づく。子孫繁栄の象徴とされている。元々はロシアだが、ガイドのマルティン・ヴァチカージェさんの話では、このあたりはロシア人が多いからだそうです。チェコ人はこれを見ると、苦く感じるそうです。マリナーズのイチロー選手、長谷川選手のものもありました。もともと1900年のパリ万国博覧会で銅メダルをとったのを機会に、ロシア各地でいろいろなマトリョーシカが作られるようになり、ロシアの民芸品、土産物として知られるようになった。

 ガイドのマルティンさんのお宅で開かれたホームパーティーに招待された。奥さんのルチエ・ヴァチカージョヴァさんの家庭料理をいただきました。寒いチェコでは鍋料理が一般的。「チェコ風牛肉の煮込み」、伝統的な蒸しパン「クネドリーキ」。お肉とパンにハーブの入ったクリームソースをかけていただく。独立してここ15年でどう変わったのかを聞いてみた。白と黒の違いくらい違うそうです。突然みんなが演奏してチェコの民謡をみんなで歌いました。

●チェスキー・クルムロフ
 プラハから車で2時間半。1時間もあれば一周できるほどの小さい町だが、とても可愛い町。モルダウ川の上流にある小さな町にやってきた。町の意味は「チェコの曲がりくねった川」の意味。中世から続くこの街は1992年世界遺産に登録された。19世紀まではとても華やかな時代が続いたが、次第に近代化から取り残され、時の流れに取り残されたために中世の街並みがそのまま現在も残る。
 壁には立体的に描かれた絵がある。ルネサンス期ヨーロッパを中心に大流行した「だまし絵」です。裕福であればあるほど、人々は壁に絵を描いた。
 チェスキー・クルムロフ城はプラハ城に次いで、チェコで2番目に大きいお城です。ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココなどそれぞれの時代の様式が融合した建築物。中央ヨーロッパ最大の複合建築物といわれる。中に入ってみた。13世紀にボヘミア王国の領主によって築かれたお城で、この城を中心に町は発展した。入場料は160K〜(960円〜)。開場:9:00〜17:00、休み:月曜と11月〜3月。場内のお堀には熊が飼われており、城を訪れる人々を出迎えてくれる。
 お城の中にあるバロック劇場は、町が華やかだった頃に市民がオペラなどを楽しんだ場所。18世紀に使われていた舞台セットがそのまま美しい形で残されている。1766年に完成。当時はヨーロッパで城内にある劇場は他にもあったが、現存しているものは世界的に見ても非常に珍しい。特にこの劇場は舞台装置、衣装、楽譜なども残っている貴重なもの。当時、入場料などはなく貴族や権力者、裕福なものなど招待されないと鑑賞すらできなかった。 舞台客側のセットの高さは5m、奥の高さは2mと遠近法を利用している。背景を動かしたり効果音を出す装置がさらなる臨場感を生みだす。風の音は布を使い、雷の音は小石を利用して効果音を出している。
 ステージに上がらせてもらった。舞台が変わる瞬間も見せてもらいました。館長のパヴェル・スラフコさんに仕掛けを教えてもらいました。

 「マリオネット・ミュージアム」(住所:U sv.Jo?ta,Latran 6,38101 ?esky Krumlov、営業時間:10:00〜17:00、休み:月曜日、鑑賞料:95K(約530円))に行ってみた。15世紀は教会だった建物を持ち主が変わるたびに改築し、1997年にマリオネット・ミュージアムとしてオープン。館内には250体以上の人形が飾られており、19世紀中頃のものもある。17世紀、ハプスブルク家に支配されていた時代にさまざまな文化がチェコに流入し、外国の演劇を真似た人形劇が娯楽として大人気になった。18世紀にはチェコ人による人形劇が作られ始める。ハプスブルク家によってドイツ語を強制されていたなかで、チェコ語を使えるのは民謡や人形劇だけだった。都会ではチェコ語が禁止されていたため、劇団は地方の町や村を巡業した。テレビも無かった当時、市民向けの人形劇の公演が文化・情報・言葉を伝えた。また、オーストリアの圧制に対する批判を投げつけ、チェコ人の民族意識を高めるとともに心のよりどころにもなった。
 チェコ国立マリオネット劇団団長 ヤン・ドヴォルザークさんに話を聞いた。さらに17世紀から続く人形劇を見せてもらった。

 心地よい川沿いのカフェで伝統的なお菓子をいただいた。「パラチンキ」75K(450円)はチェコ版のクレープといった感じ。生クリームとフルーツが添えてある。19世紀から伝わるという。

●ウィーン
 ヨーロッパで640年間勢力を誇ったハプスブルク家ゆかりの地でもある。 グラーベンという旧市街の中心地にやってきた。大道芸人の腕も立派です。ウィーンは路面電車(トラム)が旧市街を一周しているのが特徴。19世紀後半にハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、大規模な都市改造を行なった。町の外周を取り囲んでいた城壁を壊し、現在はリンクと呼ばれる1周4kmの環状道路を造った。現在ではこのリンクにトラムが1周約30分で走る。
 シュテファン寺院や旧市街をふくむ歴史地区は、「ウィーン歴史地区」の名称で2001年にユネスコの世界遺産に登録された。ここには旧王宮(ホーフブルク)(現在は大統領官邸や博物館、国立図書館などとして使用)・オペラ座・ブルク劇場・自然史博物館・美術史博物館、南駅に近いベルヴェデーレ宮殿などが含まれる。
 世界三大歌劇場のオペラ座の前でトラムを降り、再び町を歩いた。19世紀頃に建てられた華やかな建物が数多く並ぶ。ハプスブルク家の全盛期を築いたマリア・テレジアの像もある。

 ベルヴェデーレ宮殿は世界で最も美しいバロック建築の一つといわれる。もとは17世紀の英雄オイゲン公の離宮で、住まいがあった下宮と、迎賓館として使われた上宮からなる。現在はいずれも美術館として公開されており、2棟の間には庭園が広がる。
 岩崎さんはグスタフ・クリムトの「接吻 The Kiss」に14年前に衝撃を受け、本物に会いたいと思っていた。
 ウィーンで活躍した世紀末芸術の作品が上宮の「19−20世紀絵画館」に飾られている。入場料9ユーロ(1250円)。クリムトをはじめ、シーレ、ココシュカ、ゲルストルといった世紀末アートを代表する画家の作品が充実。そのほか印象派や写実派、ビーダーマイヤー様式の作品も展示。玄関ホールは宮殿らしい豪華な装飾で埋まり、天井を支える4人の男像柱の構成は見事。
 「接吻」の本物は意外と大きかった。当時は、キリスト教の道徳観から男女間の性愛が肯定的に描かれることがタブーで、その風潮に真っ向から挑んだクリムトの問題作だった。背景の金箔は江戸時代の屏風絵と共通点が多く、日本美術の影響が見られる。眩いばかりの黄金の中に溶け合う男と女は、非現実的でありながらも、極めて深い思想と官能性に満ちている。男性が身にまとう衣の装飾「四角」は男性器、女性の衣の装飾「円」は女性器を表現しており、2人の愛の成就を示唆している。正反対のものこそ融合するという原則、普遍的な真実を描こうとした。また、男女が立っている花の咲く崖が、愛の絶頂期においても「愛や幸せ」と「疑心や不安」が紙一重であることを示しているそうです。
 岩崎さんは感動していました。

 ウィーンの美術の発展と非常に関係の深いある文化がある。それはカフェでお茶を飲むこと。ウィーンではじめてカフェが誕生したのは300年以上も前の1685年。18世紀末にはウィーンには200軒以上のカフェがあり、チェスやビリヤード、カードなどを楽しんだり、コンサートや朗読会がたびたび開かれたり社交の場だった。また文化人たちの意見交換の場でもあり、そこから新しい文学や芸術が生まれた。
 カフェ「ハヴェルカ」(住所:Dorotheergasse 6、営業時間:8:00〜翌2:00(日曜、祝日10:00〜)、休み:火曜日)に行ってみた。1939年創業。かつて芸術家やジャーナリストたちはカフェに集い、意見を交わして、新しい文化や芸術を育んできた。ウィンナー・コーヒーは地元では「アインシュペナー」3.6EUR(約500円)は、19世紀中ごろオーストリアで生まれた。この店は戦火を奇跡的に免れ、店主が改装を拒み続けているため、内装は当時のまま。壁にはいくつもの絵が飾られている。お金のない画家はコーヒーを飲んでは、自分の絵を置いて帰ったそうです。現在では、お店の壁にかけられた絵を気に入れば買うこともできます。カフェで絵を描いている人が数人いた。その中のクリストフ・エクスラーさんに話を聞いた。この店にくるようになって50年、今は週に3日もこの店に通うという。様々な人に会って刺激を受けるために通っているそうです。お店にも2枚クリストフさんの絵が飾られていました。

 宿泊はトラムの走るリンク沿いにある「ザ・リンク」(住所:Karntner Ring 8)で、2007年にオープン。もともとは19世紀末に貴族の館として建てられ、法律で保存されていた建物。部屋に飾られている絵画、インテリアなどウィーンのデザイナーのものをセレクト。ホテルのテーマは「カジュアルなくつろぎ」。部屋は植物をイメージした緑色のインテリアで統一されている。今回は702号室「コスモポリタンスイート」で、1泊1室朝食付きで700EUR(9.8万円)。

 宮廷前広場に行ってみた。音楽があちこちから聞こえる。墓地にも行ってみた。ウィーンといえばモーツァルト。ウィーンに来て初めて暮らしたという「ドイツ騎士修道院」(住所:Singerstrasse 7)に行ってみた。主君であったザルツブルクの大司教のために、モーツァルトは25歳の時、わずか3ヶ月だけ、この2階の1室に住み作曲活動を行なっていた。さらに実際にモーツァルトが何度も演奏したというホール「サラ・テレーナ」がある。このホールは、1764年に建てられた現存しているウィーン最古のホール。ホールの壁面には後期ベネチアルネサンス式の美しいフレスコ画が描かれている。ここでは定期的に演奏会が開かれています。公演日:木、金、日-19:30〜 土-18:00〜、鑑賞料:A席42EUR(約6000円)、B席35EUR(約4900円)。

●ザルツカンマーグート
 ザルツブルクの東一帯に広がる標高500〜800mの山岳地帯は13世紀末、ハプスブルク家の財務局の管轄にあったことから「ザルツカンマーグート(塩の御料地)」と呼ばれている。周囲は2000m級のアルプスの山々が連なり、大小合わせて約50以上の美しい湖が点在する。この地方には岩塩鉱脈があり、塩産業によって小さな町が栄えた。昔から王侯貴族たちの保養地として愛された。ザンクト・ヴォルフガングなどの町が点在する。

●ザンクト・ヴォルフガング
 ザンクト・ヴォルフガング湖の北岸にある町。湖と町の名は、レーゲンスブルクの司教で、後に聖人となった聖ヴォルフガングに由来する。中心部には15世紀に建造された教区教会が建つ。各々の家に木でできた出窓がついていて、お花がきれいに飾られている。43年前に公開されたミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった。
 その映画にも登場した赤い登山鉄道「シャーフベルク登山鉄道」に乗ってみました。1893年に開通した登山鉄道で、1783mのシャーフベルク山の頂上まで1000m以上も登る。「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となって以来、多くの観光客が訪れる。乗車料金は、大人往復26.9EUR(約3500円)。登るときは右手に青く輝く湖がとてもきれいです。頂上からの眺めも素晴らしい。青い空と輝く緑、まさにサウンド・オブ・ミュージカルの世界が広がっていました。湖の色もとてもきれいな青色でした。山頂に掲げられた十字架がこの風景を守っているかのようでした。

●ハルシュタット
 車で南へ1時間。ザルツカンマーグートにある小さな町で、世界で一番美しいと言われる湖畔の町。切り立った崖とそれにかかる霧が幻想的な町。谷間に横たわるハルシュタット湖は、周囲の山を映し出して深青色の水をたたえている。1997年世界遺産に登録された湖畔の町ハルシュタットは、狭まった岸壁にへばりつくように開けた町。岩塩が採掘されるようになったのは紀元前3000年頃、塩は地中海やバルト海沿岸諸国まで運ばれていた。
 湖沿いに建つ素敵なペンション「ブロイガストホーフ」(住所:Seestrasse 120)を訪ねた。母ベレーナ・ルヴィサーさん、父アールノルト、娘ベレーナさん?の母娘が経営する。今回は8番の部屋で、可愛い部屋。18世紀に作られたオーストリアの家具がある。ベランダからは美しい湖を見渡すことができる。一泊一室朝食付き90ユーロ(約11720円)。
 湖畔でワインを飲みながらオーナーと食事をしました。「牛肉の煮込み クリームソース添え」15ユーロ(約2000円)は、柔らかく煮込んだ牛肉に、煮汁で作ったクリームソースを添えてある家庭料理。ホースラディッシュとともに食べる。楽器作りをしているお父さんがヨーデルを歌ってくれました。
 「湖上の演奏会」。湖に船を浮かべ、民族衣装を着た演奏者と子供たちが湖の上で演奏会。この町ではこうしてお客様をもてなすことが今も習慣として残っているそうです。

●プラハ
 旅の最終日プラハに戻り、「ドヴォルザークホール」に行く。ここは1876年〜84年に、アンティーク品や絵画を展示するギャラリーとして設計・建築が進められた見事なネオ・ルネッサンス様式の建築。1946年からはチェコ・フィルハーモニー交響楽団が拠点を置き、活動を開始。現在も交響楽団のオーケストラを中心にさまざまなコンサートが開かれている。また年に1度開かれる音楽祭のメイン会場でもある。岩崎さんは2007年4月にドヴォルザークホールでCD「PRAHA」のレコーディングを行ったが、音楽観に変化をもたらした節目となったそうです。1年前のレコーディングの際に指揮をしてくれたマリオ・クレメンスさんと再会しました。大切なこの場所で歌いたい曲があった。岩崎さんにとって大切な曲「思秋期」。デビューして3年目、10代最後に歌い、1977年の第19回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した曲。それまで芸能界に反対していた父親が何も言わなくなったそうです。また故阿久悠先生との思い出がいっぱい詰まっている。当時、何度も何度も泣きながら歌っていたそうです。
 今回ドヴォルザークホールで収録した「思秋期」は、岩崎さんのアルバム「Dear Friends N 」(2008年10月22日発売)のボーナストラックとして聴くことができるそうです。

 この旅がくれた感動は、岩崎さんの胸に残りつづけるでしょう。
みんな感動で泣いていました。


テレビ番組「THE 世界遺産 オーストリアのゼメリング鉄道」

 2008年10月12日放送。

●オーストリア
 ウィーンの公園には、ベートーベン、Rシュトラウス、ブラームスなどが眠る。その一角にある一際大きな墓はイタリア人だが、ウィーンの人に愛されたカール・リッター・フォン・ゲーガのもの。鉄道建設に命をかけた男だった。
 ヨーロッパ内陸と地中海の間には、あまりにも大きな壁アルプス山脈がある。19世紀半ばまで、アルプスを鉄道で越えるなんて、馬鹿なことだと思われていた。それをゼメリング鉄道で可能にしたのが土木の天才ゲーガだった。ダイナマイトのない時代にたった6年で夢を実現した。

●ゼメリング鉄道
 ウィーンとイタリアの港町トリエステを結ぶ路線のうち、アルプスを越える区間がゼメリング鉄道。標高436m、アルプスの北側の麓にあるグログニッツ駅。ゼメリング鉄道の旅はここから始まる。1960年代に実際に走っていた古い列車は、今でも週末に限り乗ることができる。まずは鮮やかな緑の中を平均時速60kmほどで走る。乗客のほとんどは高級リゾートのゼメリング高原で週末を過ごす旅行客。夏は避暑、ハイキング、冬はスキー客で賑わう。
 19世紀はウィーンからトリエステに兵士や物資を輸送するのに、この路線はたいへん重要だった。その最大の難所がアルプスの山越えだった。それまではここには細い峠道があるだけだった。ゲーガは単線ではなく複線で鉄道を建設した。当時、ヨーロッパは政情不安定で、国力を上げたかった。また産業革命を成し遂げたイギリスに追いつきたいという希望があった。
 トンネルの数は全部で15個、最も長いものは1500m。高架橋は16個で、最先端だった鉄は使わず、石とレンガで作った。ローマ時代の水道橋がモチーフになっている。最も高い標高は898m。それは1854年の開通当時、鉄道で行くことができた世界最高地点だった。
 グログニッツを出発して40分、ゼメリング駅に到着。澄んだ空気と明るい高原の日差しが旅人を迎える。19世紀の半ばまでは裕福な貴族の別荘が点在するリゾートだった。ゼメリング鉄道が開通すると、一台保養地に生まれ変わった。ホテル・パンハンス Panhans などが建てられた。アルプスの社交場となり、ウィーン人のバルコニーとも呼ばれた。グスタフ・マーラーをはじめ、名士の別荘も次々できた。アール・ヌーボー調の木造の建物も建てられ、ゼメリング様式と呼ばれた。
 ウィーン郊外にあるシュトラスホーフ鉄道博物館。ゼメリングを走った100年前の蒸気機関車が展示されている。ルーベルト・ガンステラー?さんが説明してくれました。前輪と後輪が小さくなっているのが特徴で、カーブの多いゼメリング鉄道には走行が楽だった。当時は山を越える際の平均時速は6km。
 鉄道の愛好家の間では有名な絶好の撮影ポイント。こういう風景には滅多にお目にかかれないと彼らは言う。ベネチア生まれの建築家ゲーガが建設に取り掛かったのは、1842年。それまで馬車で丸1日かかったアルプス越えの考えは、人々の嘲笑の的になったという。
 ウィーン技術博物館に、ゲーガがどう難題に取り組んだかが残っている。トーマス・ウィンクラーさんが説明してくれました。峠まで直線距離で21km、ゲーガは何年も歩いて測量をし、40kmの線路で結んだ。1000m行って25m登るという緩やかな勾配が特徴。傾斜を利用して少しずつ登り、やむをえない場合のみ岩などを削った。ダイナマイトがなかったので、火薬で竪穴を空け、そこから横に掘り進めた。石灰岩質だったので、掘りやすいが、落石などによる事故も多かったそうです。2万人が投入され、着工から6年で完成した。ゲーガが最もこだわったのは、景観との調和。鉄を使わなかったのもその理由。石は全部で6500万個使われた。
 完成は1854年。新聞には「もはや鉄道が越えられぬ山はない。川を越えられぬ橋はない。」と書かれた。ほとんど修復なく現役で走り続ける山岳鉄道はマレだと言われる。今も毎日200本近くの列車が行き来するが、150年前の高架橋はびくともしない。複線も含めて、未来を見越したゲーガの見識に脱帽。
 ゲーガは工事中から結核に悩み、開通6年後に58歳で亡くなった。


テレビ番組「2008年8月の旅サラダは酒井美紀さんでヨーロッパ・アルペン・ルート」

 9日は高校野球でなかったはずだが、HPには掲載。1ユーロ=167.6円で計算してある。フルトハンザとスイス・インターナショナルで行きました。

●ドイツ・ミュンヘン
 「ホーフブロイハウス」(住所:Wirtsleut' Familie Sperger Platzl 9 80331 Munchen、Tel:+49-8929-01360、営業時間:9:00〜24:00)は、「白ソーセージとプレッツェルのセット」4.4ユーロ(740円)、ヴァイツェン・ビール3.65ユーロ(620円)。

●ドイツ・ベルヒテスガーデン
 シュークリーム屋さん「ヴィントボイテルバロン」(住所:Scharitzkehlstrase 8 83471 Berchtesgaden/Obersalzberg、Tel:+49-8652-2577、営業時間:10:00〜18:00(11月12月は営業していない)、定休日:水曜)。ホイップクリームをたっぷり使い、チェリーのソースをかけた大きなシュークリーム「ヴァッツマン」5.3ユーロ(900円)。
 岩塩坑「ザルツベルクヴェルク」(住所:Bergwerkstrase83 D-83471 Berchtesgaden、Tel:+49-8652-60020、営業時間:9:00〜17:00(5月1日〜10月31日)、11:30〜15:00(11月2日〜4月30日))で、入場料は14ユーロ(2400円)、リラクゼーションーム(2時間利用)で25ユーロ(4200円)。他にも、もっと多くの場所があり、船に乗ってアトラクションも楽しめる。
http://www.salzzeitreise.de/

 「ケーニヒ湖」は「王様の湖」という意味で、フィヨルド湖。湖の環境を守るため、遊覧船は電動ボート。30分かけて聖バルトロメー僧院へ移動。料金は(聖バートロメー修道院まで往復で)8.5ユーロ(1500円)。特に美しいと言われる聖バルトロメー修道院の周辺を散策する。年に数十万人の人が癒しを求めてここに来る。湖畔の森には遊歩道がある。

 1834mの断崖絶壁の上にある「ケールシュタインハウス」は別名「ワシの巣」(Tel:+49-8652-64971)で、ヒトラーの50歳の誕生日を祝い贈られた山荘だった。無傷のまま終戦を迎え、今はレストランとなっている。ムッソリーニから贈られた暖炉の大理石は連合軍兵士により、戦利品として持ち帰られたと言われている。
 山道を車で登り、途中からはバスでしか上にあがれないようになっている。バスの往復と、ケールシュタインハウスまで続くエレベーターまでの料金は、15ユーロ(2600円)。
http://www.kehlstein.info/
 ここから山頂を目指した。

●オーストリアのインスブルック
 インスブルックはハプスブルグ家のゆかりの地。マリアテレジア、その娘マリー・アントワネット、映画エリザベートで有名になったシシーもハプスブルク家の人々。
 インスブルックに35kmの所にある山の中腹に、現在もハプスブルク家の子孫の方が住んでいるお城がある。「トラッツベルク城」(住所:Schloss Tratzberg A-6200 Jenbach/Tirol、Tel:+43-5242-63566、営業時間:10:00〜16:00、入場料:9ユーロ(1600円))に住むのは、ウルリッヒ・グラーフ・ゴエスーエンツェンベルク伯爵とカットリン伯爵夫人。マリア・テレジアの6代目の子孫にあたる。特別に伯爵夫妻にお城の中を案内してもらった。1508年に建てられて今年でちょうど500年になるお城はオーストリアの文化遺産。ハプスブルク・ホールには148人ものハプスブルク家の人々が描かれている。世界最大のハプスブルク家の家系図。結婚政策を始めたのが、マキシミリアン1世でした。プライベート・スペースのお庭でシャンパンをご馳走になった。
http://www.schloss-tratzberg.at/

 インスブルックは人口13万人、チロル州の州都。アルプスの古都と呼ばれるこの町は、古代ローマ帝国時代以来、ヨーロッパの東西南北を結ぶ交易の要所だった。マキシミリアン1世によって作られた黄金の小屋根が街のシンボル。自分の権力を誇示するためのものだったと言われている。
 看板の絵が特徴。あるホテルは1590年と書いてある。当時の人は文字が読めない人も多かったので、絵で示してある。
 宮廷教会にはマクシミリアン1世のお墓がある。その両脇には28体の黒いブロンズ像が並ぶ。ハプスブルク家の人や歴史上の強い人に守ってもらいたいという彼の希望だったという。
 かつての王宮前に人が集まっていた。社交ダンス教室「ポーライダンス教室 Tanzschule Polai 」で、約8000人の生徒がいるダンス教室。毎週のレッスンや、一ヶ月に一回など春だけの集中コース、プライベートレッスン、社交界マナーレッスンなど、色々なコースがある。校長のフェレンチ・ポーライさんはヨーロッパ社交ダンス界の重鎮中の重鎮。

 チロル州観光局日本担当オフィス
URL :http://www.tirol-info.jp
TEL :+43-512-565764

●オーストリア・インスブルック郊外
 ゼーフェルトに向かう途中に出会った緑色の奇妙なオブジェ。これは「スワロフスキー・クリスタルワールド Kristallweltenstrase 」(住所:A-6112 Wattens/Tirol, Austria、Tel:+43-5224-51080、Fax:+43-5224-51080-3831、E-mail:swarovski.kristallwelten@swarovski.com、営業時間:毎日9:00〜18:30、12月24日は14:00、12月31日は16:00まで、入場料:9.5ユーロ(1600円))というショッピング・スペースと体験型ミュージアムを併せ持ったテーマパーク。スワロフスキーは100年以上の老舗で、本店はインスブルックにある。
 広がっていたのは、摩訶不思議なクリスタルの世界。一番のお勧めは踏むとクリスタルの絵が浮かびあがる場所。子供の頃のように夢中で遊んだ。
http://www.swarovski-kristallwelten.com/

●オーストリアのゼーフェルト Seefeld
 アルプスの山々に囲まれた町で、人口3100人の高原都市。のんびりしてとても穏やか。時間の流れが緩やか。町はずれの草原を観光局のベアナテッテ・シュタウダーさんと散策した。草笛を体験。

 山登りハイキングに挑戦。ガイドはマーティン・クルックナーさんで、いきなり焼酎にあたる品で乾杯。頂上へはゴンドラとケーブルカーで行く。ゴンドラのみだとTalstation(タルスタシオン)⇒Mittelstation Rosshutte(ミッテルスタシオン ロッスヒュッテ)までで片道10.5ユーロ(1700円)、往復14.5ユーロ(2400円)。ゴンドラ+ケーブルカーだとさらに⇒Seefelder Joch(ゼーフェルダー ヨッホ)まで行けて、片道13.5ユーロ(2200円)、往復16.5ユーロ(2700円)。
 標高2080mから見渡せる風景は素晴らしい。ここからトレッキング。雪が残っていました。残りのお酒を飲みました。注意事項として、山の頂上にはお手洗いはないので、中間地点の「ミッテルスタシオン ロッスヒュッテ」のレストランなどの休憩所などですませておくことが大事です。
http://www.seefeld-bergbahnen.at/

 夜7時でも明るい。マーティンさん所有の山小屋でのパーティに誘われた。他にベアナテッテさん、ヨーデルの女王アンニ・イエーガーさん、アストリッド・バッハマンさんなど。マーティンさんはオーストリア国家公認の料理マイスターでもある。ベーコン、ソーセージ、流しそうめん、ラム肉の煮込みなどをいただきました。チロルの衣装を着せてもらいました。ヨーデルも歌いました。

●オーストリアのサンクト・アントン St.Anton
 ゼーフェルトから車で1時間、澄んだ渓流が流れ、緑が溢れる人口2300人の町。アルペン・スキー発祥の地として有名。クマの形をしたセルフ・サービスのアイスクリーム販売機もある。1.5ユーロ。まずはコーンが出てきて、それを別の場所に置くとクリームがのる。
 夜9時、「アールベルク・ホール」で夏の間に行なわれるショー「チロルの夕べ Tiroler Abend 」を見る。入場料17ユーロ(2800円)で1ドリンク付き。公演時間は9pm〜11pmで、6〜9月の火曜日と木曜日に行われる。チロル地方の伝統を守りたいという人たちが集まり開催されている。チロリアン・ダンスは3拍子で、ウィンナー・ワルツの元になったともいわれている。
 チケットの予約やお問い合わせは、「サンクト・アントン観光局 Tourismusverband 」(住所:A-6580 St. Anton am Arlberg、Tel:+43-5446-22690、E-mail:info@stantonamarlberg.com )。
http://www.stantonamarlberg.com/

●オーストリアのレッヒ
 カウベルの音がのどかに響く村。2004年にヨーロッパで最も美しい村に選ばれた。人口は1400人。王室の人々も滞在する高級スキー・リゾートとしてヨーロッパでは有名な村。ロープウェイで山頂に上がっていける。川で釣りをしている人がいる。鱒が取れるそうです。
 川沿いにある5つ星ホテル「ホテル・アールベルク Hotel Arlberg 」(住所:A 6764 Lech am Arlberg、Tel:+43-5583-21340、E-mail:info@arlberghotel.at )に宿泊。アールベルクスイート Arlberg Suite はかなり広い。1室あたり1泊2食付きで、529ユーロ(8.4万円)、冬はハイシーズンのため、800ユーロ(12.8万円)。アメニティはブルガリです。
http://www.arlberghotel.at/


●スイス・マイエンフェルト Maienfeld
 女流作家ヨハンヌ・シュピーリの名作「アルプスの少女ハイジ」の舞台になった場所。静かな村です。村の中心にハイジの村らしいお店を見つけた。「ハイジ・ショップ Heidi Shop 」(住所:Steckli9 CH-7304 Maienfeld、Tel:+41-8133-01912、Fax:+41-8133-01913、E-mail:info@heididorf.ch 、営業時間:9:30〜11:45 & 13:30〜17:00、休み:土日)。ハイジ・グッズがいっぱい。日本のアニメとは顔が違います。この店で絵ハガキを買うと、ハイジのスタンプを押してくれる。この村の中心以外のハイジ村という場所にもハイジショップがあります。
http://www.heidihaus.ch/
 牧草地にはハイジの世界が広がっていた。

●スイス・サンモリッツ St.Moritz
 晴れの日が年間322日と恵まれた気候。高級ホテルや有名ブランド・ショップが建ち並ぶ。冬季オリンピックが2度開催された。
 サン・マウリツィサス?教会は1890年に火事にあい、斜塔になったという名物の1つ。サンモリッツで一番最初に作られたという1856年開業の「クルムホテル・サンモリッツ Kulm Hotel ST.Moritz 」(住所:CH-7500 St.Moritz、Tel:+41-81-836-80-00、E-mail:info@kulmhotel-stmoritz.ch )は全部で173室で5つ星。料金は、ジュニアスイートで、夏のオフシーズン(2008年6月27日〜7月20日、2008年8月21日〜9月6日)は855SFr(8.6万円)、ハイシーズン(2008年7月21日〜8月20日)は970SFr(9.7万円)。冬はハイシーズン(2008年12月20日〜2009年1月15日、2009年1月29日〜3月1日)で1855SFr(18.5万円)、中間シーズン(2009年1月15日〜1月29日、2009年3月1日〜4月5日)で1330SFr(13.3万円)、オフシーズン(2008年12月5日〜12月20日)で1130SFr(11.3万円)。
http://www.kulmhotel-stmoritz.ch/

 サンモリッツ中心部にある「セガンティーニ美術館 Segantini Museum 」(住所:Via Somplaz 30 CH-7500 St. Moritz、Tel:+41-81-833-44-54、E-mail:info@segantini-museum.ch、入場料:10SFr(1000円)、開館日(2008年):5月13日〜9月14日、開館時間:10am〜12am & 2pm〜6pm )。イタリアで生まれスイスに移住したジョヴァンニ・セガンティーニの最後の作品となった未完の大作「アルプス三部作(生、自然、死)」が展示されている。彼はこのあたりに住む人々を描き続けた。
http://www.segantini-museum.ch

 セガンティーニが1892年以降晩年を過ごしたのは、サンモリッツから車で45分の小さな村ソーリオ Soglio。

●ベルニナ・エクスプレス Bernina Express
 ベルニナ特急とその周辺は2008年7月に世界遺産に登録されたばかり。サンモリッツから終点のティラーノまで往復した。一等車は96SFr(9600円)、二等車は58SFr(5800円)。今回の取材の時に乗ったのは二等車でした。右手に氷河が見えました。
 予約の際の連絡先は、レーティッシュ鉄道サンモリッツ駅 RhB-Bahnhof in St.Moritz で、Tel:+41-81-288-56-40、Fax:+41-81-288-56-31、E-mail:stmoritz@rhb.ch 。指定座席の予約には、サンモリッツ〜ティラーノまで片道7SFr(700円)が必要。途中下車した場合、乗車券は有効ですが、もう一度指定席予約料は払わなければなりません。
http://www.rhb.ch/

●氷河
 35分後にベルニナ・ディアヴォレッツァ Diavolezza 駅で途中下車した。駅のすぐ横にはロープウェイ乗り場があり、標高2093mの場所から2984mの山頂まで登ることができる。ロープウェイ往復は33SFr(3300円)。この氷河は3万年前の氷河期にできたもの。
 美しい雪山をバックに、「ベルガウス・ディアボレッツァ Berghaus Diavolezza ?」(Tel:+41-81-839-39-00、E-mail:berghaus@diavolezza.ch )にて、チーズ・フォンデュをいただいた。3人前で81.9SFr(8200円)。チェリーのお酒、にんにく入りのオリーブオイルにつけて食べる楽しみ方もある。アルコールが少しきついかもと言ってました。同感です。ワインは別料金。
http://www.engadin.stmoritz.ch/

●ベルニナ特急
 ベルニナ・ディアボレッツァから10分走ると、美しい湖に出る。湖畔を歩くために、オスピツィオ・ベルニナ駅で下車。ゆっくり散策していると、次の列車が通過しました。
 サンモリッツをでて2時間、最大の魅力の地点を通過する。半径70mのブルージオのオープン・ループ橋。高低差の克服と美しさを求めて作られた。
 イタリアのティラーノに到着しました。


テレビ番組「地球街道 東儀秀樹さんでチェコ共和国」

 2008年8月2日、9日放送。

●プラハ
 世界遺産の街だが、芸術の都、百塔の街、迷宮都市とも言われる。旧市街は魅力がいっぱい。旧市街広場の時計塔には15世紀に作られたという天文時計がある。1時間毎にキリストと聖人たちが姿を見せる。特別に時計塔の内部を見せてもらった。時計技師のヨゼフ・ザメチュニックさんが説明してくれました。
 カレル橋、プラハ城をはじめ、様々な芸術が花開いた。ベドルジハ・スメタナ、フランツ・カフカ、アルフォンス・ミュシャなど。人形劇もそんな芸術から生まれたチェコの文化。ハプスブルグ家の支配の時代、ドイツ語を強要され、チェコ語が伝えられたのは、人形劇だけだった。国立マリオネット劇場のズザナ・ヴァレノヴァさんが説明してくれました。
 街中には様々な様式の建物がある。プラハは建築博物館とも呼ばれている。20世紀初頭に作られたアパートには螺旋階段が素晴らしい。チェコスロバキア・オブホドニー銀行は80年前に建てられた建物で、内部はアール・デコで、直線と曲線が見事に融合している。

●テルチ
 郊外にでて、ハイウェイD1号線を南東に走る。まわりは田園風景。2時間で到着。カラフルでおとぎの国のような街並みで、世界遺産。16世紀に燃えてしまい、間口と高さとルネサンス様式で建てることを規定して建てられた。
 広場の一角に住むヤン・ヴィミエールさんは1920〜30年代の服装をしている。チェコ人にとっては古き良き時代だったという。ヤンさんは当時の自転車を収集している。1936年のエスカル社製の自転車に乗せてもらいました。

●ミクロフ Mikulov
 国道23号線を東へ走る。そこから南東へ。
 北緯45度、東経16度にあるミクロフの丘からは2つの国を同時に見ることができる。つまり南にオーストリア、東にスロバキアを見ることができる。この丘でひちりきを演奏しました。

●カルロヴィ・ヴァリ
 ヴァリとは温泉という意味。古くから温泉保養地として栄えた。ゲーテやベートーベンも訪れたという。160コルナ(1100円)のカップを購入して温泉水を飲みました。
 ガラス工場も名産で、ボヘミアン・グラスがある。カットの技術が素晴らしく、ガラスを削り模様を出す。モーゼル社のブラディミール・スカーラさんの指導でカットにも挑戦した。さらにガラスの筒に穴をあけ、スカーラさんに模様を描いてもらいました。ヒチリキらしい音がでると信じています。

●ホラショヴィツェ
 カルロヴィ・ヴァリからE45号線を南南東に走った。人口300人。この村の広場は世界遺産。18世紀頃に建てられたバロック様式。とても素朴な様式で、壁に描かれた模様は家紋のようなもの。2棟で1軒。ルゼーナ・アンテロヴァさんのお宅を訪問した。イチゴのクネドリーキ(ゆでたり蒸したりしたパン)をいただいた。季節により中には桃、さくらんぼ、メロンが入る。
 丸太の塔があるが、井戸でした。
 広大な麦畑の中でグラスの笛を吹きました。

●チェスキー・クルムロフ
 カルロヴィ・ヴァリから250km、ホラショヴィツェから35km。北緯48度、東経14度にある世界遺産。
 チェスキー・クルムロフ城は何世代にも渡って建造されてきた複合的な建造物。様々な様式の建物が混在している。城門をくぐると円柱型の塔がある。掘には熊がいて、16世紀から飼われている。中庭に面した建物の灰色の壁などはだまし絵で、スグラフィットと呼ばれる。建物の中にも、舞踏会の部屋にもだまし絵がある。遊び心に富んでいる。
 渡り廊下の先にはバロック劇場がある。1766年に完成し、舞台装置なども当時のまま。オーケストラピットの片隅には、風の音を出す道具があった。舞台の上で笙を演奏してみました。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン ウィーン」

 2008年7月12日放送。

●ウィーン
 今も文化の中心地。中世ヨーロッパを代表するハプスブルグ家の築いた、シェーンブルン宮殿など豪華絢爛たる遺産が多く残る。夏場の最高気温も25度と過ごしやすい。500年前に誕生し、ウィーンを代表する存在はウィーン少年合唱団。モーツァルト、ベートーベン、シューベルトなどの作曲家を輩出している「音楽の都」。
 王宮の中の馬術場では、430年間この地に受け継がれた馬術を披露している。スペイン式乗馬学校と呼ばれている。

 ウィーン市内の外れの自然の中に住むヴァイラ・クロウさん(46歳)のお宅を訪問した。1男1女の4人家族で、7LDK170平方m。ピアノが5台ある。家族で演奏会ができている。町の至る処に楽器の修理屋さんがある。
 ウィーンの水道水は全てアルプスの水。カフェ「ハペルカ」でコーヒーをいただいた。コーヒー1杯で何時間も過ごすのがウィーン流だそうです。ただ、ウィンナー・コーヒーとは呼ばないで、「アインシュペンナー」と呼ぶ。
 ウィーンで泳ぐならドナウ川。緑色していますが(笑)地元の人にとっては、泳いだり、ボートを漕いだりするレジャーの地。
 ナッシュマルクトという市場に行く。特産のリンゴは1kg300円(日本は500円)、ホワイトアスパラ430円(日本4110円)、豚肉2000円(日本は2460円)。
 「フンデルトヴァッサー・ハウス」は市営住宅は変わった外観。こういう建物と歴史的な建造物が混在している。
 公園風のホイリゲ(ワイン酒場)「Buschenschank F.S. Nierscher 」に行って、熟成前のワインをいただいた。若い白ワインが大人気。首都なのに市内にワイナリーがあるのはここだけ?
 7時に帰宅して、豚肉をトンカツ風の「ウィンナー・シュニッツェル」という伝統料理にしました。あとはデザートの特製アップル・パイ、ジャガイモのサラダ。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 プラハ」

 2008年4月12日放送。山根基世アナウンサーが案内。

●プラハ
 チェコの首都。プルタバ川とその両側の街並みが世界遺産。17本ある橋の中で最も古いカレル橋はプラハの代名詞。両側に素晴らしい彫刻が林立している美術館のような広場。30体の彫刻はカトリックの聖人。石組みは600年に造られた時のまま。
 ブルタバ川から街を見る。建物の高さが同じくらいで、色調が同じ。ヨーロッパ中世の面影を奇跡的に残す街。モーツァルト、ワグナー、ロダンも褒め称えた街。
 川から500m東に歩くと旧市街広場に出る。中世以来外国商人で賑わってきた。旧市庁舎塔は14世紀に建てられた。ここに天文時計がある。精巧なからくりと豊かな表情。建物全てが中世のものとは限らない。ある華やかな建物は18世紀に建てられたバロック様式。中世の宝石と言われたプラハだが、それ以後のものも重要で、今は建築の博物館と言われる。プラハ市民にとって旧市街広場は憧れの結婚式場。
 中世に何故プラハは輝きつづけたのか?プラハ城にその答えがある。敷地内で最大の建築の聖ヴィート大聖堂。14世紀に建築が始まり、完成までに600年かかった。天井が高い。光を受けたステンドグラスが荘厳。建築を始めたのはカレル4世。神聖ローマ帝国の皇帝にも選ばれた。各地から芸術家や学者を招き、プラハを文化の香り高い都にした。プラハ城学芸員のカドレック・フランチセクさんが案内してくれた。よく黄金のプラハと呼ばれるが、カレル4世がカレル4世の礼拝堂のような華やかなものを築いたこともその一因だという。壁面には聖書を題材にしたフレスコ画が描かれている。金、アメジストなどの宝石1300個が埋め込まれている。
 古本屋さんに行く。レジスターもかなり古いもの。イヴァン・ヴェルニッシュさんは古いものが好きだという。プラハは幸いにも空襲も大火事もなかったのがよかったと語りました。
 プラハ市博物館には1837年の図書館に勤めていた人が作ったプラハの紙の模型がある。11年かかったそうです。学芸員のカテリーナ・ペチコヴァさんが説明してくれました。模型ができた170年前からほとんど変わらない街。他の都市のように雑多な街並みにならなかったのは何故だろう。1908年に近代的なビルが建つという話が出た時、街並み保存に取り組む市民団体が活動し、募金をして建物を保存してきたからだという。一度壊してしまうと二度と元には戻らない。

 プラハは16世紀にハプスブルグ家の支配を受け、400年続いた。1938年ナチス・ドイツがチェコに侵入し、1945年までナチスの占領下に置かれた。戦後はソ連の共産党の下に置かれた。  お人形のお店がある。人形を売る店が多い。人形はおもちゃではなく、心を表現する手段だとお店の人は語る。国立マリオネット劇場で人形劇を見た。チェコには1000以上の人形劇団がある。17世紀にハプスブルグ家はドイツ語を強要し、チェコ語は農民の話し言葉として蔑まれた。その危機を救ったのが人形劇だった。旅芸人たちは農村を回りチェコ語で語った。これによってチェコ語が保存された。
 20世紀半ばにも、言論の自由が奪われた。1967年作家たちが立ち上がった。プラハの春と言われた。改革を阻んだのは1968年のプラハ侵攻で、戦車の隊列。改革の指導者はソビエトに送られた。この時プラハ市民はどう思ったか。侵攻した軍隊はプラハ博物館を銃撃し、今も傷跡が残る。チェコの文化に対する侮辱だと思ったとカテリーナさんは語る。この軍事介入に対して市民は非暴力を貫いた。放送局も侵攻軍に占拠されたが、その日のうちにどこからともなく放送が再開された。やがてそこから1つの曲が流れた。マルタ・タビショヴァさんの「マルタの祈り」。失った力はまた戻ってくると歌った。放送局も閉鎖され、厳しい言論統制が始まった。秘密警察による逮捕は日常的になった。「秘密出版図書館」には非合法で出版された1.4万冊の本が集められている。館長のイルジー・グルントラードさんが案内してくれた。
 プラハ城に共産党は第一書記の執務室をここに構えた。プラハ城の中でもとりわけ壮麗といわれるスペインの間では、共産党の中央委員会が開かれた。
 先ほどの古本屋の常連の画家トンダ・スラーデックさんは、フランスに逃れていた。店主のイヴァンさんは詩人だった。
 1980年代にプラハに変化が起こった。改革を訴えるデモは何度弾圧しても繰り返された。1989年学生の集会をきっかけにプラハで50万人のデモが起きた。鎮圧が無理となり共産党の支配は終った。一滴の血も流れず、ビロード革命と呼ばれた。その前にマルタさんが登場した。
 民主化以前は、建物はどんどん悪くなっていたが、民主化後は建物は元の持ち主に返還され、修復が進んでいる。旧市街広場には5年前、昔ながらのガス灯が復活した。
 小さなライブハウスでマルタさんが歌いつづけているという。ヘイ・ジュードの歌詞を変えてチェコの人々を勇気づける歌として歌っていた。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 チェスキー・クルムロフ」

 2008年1月26日放送。岡田理江さんが案内。チェコ南部の古都、眠れる森の美女と言われた町。おとぎの国。10月上旬に訪問。NHK製作。

●チェスキー・クルムロフ
 スメタナのモルダウはチェコではプルタバ川。この上流にあるのがチェスキー・クルムロフ。年間100万人が訪れる町。ドイツやオーストリアの国境近くにある。世界遺産の旧市街は広さ700m四方。蛇行するプルタバ川がS字に貫いている。
 13世紀川に囲まれた高台に城が作られ、その後に周囲に町ができ、この地方の中心都市として栄えた。
 北側の門から入る。石畳に花の飾られた建物。500年前のもの。川沿いでみんながゆったりしている。広場に出た。カラフルな建物が並ぶ。壁に彫刻みたいな建物があるが、絵でした。アーチも絵でした。だまし絵が多い。15世紀頃にイタリアやフランスで大流行したルネサンス様式。当時この町ではこのルネサンス様式で建物が装飾された。当時の姿をほぼ完全に見られる町は珍しいと言われている。
 町には7000人が暮す。イロナ・ハナコヴァーさんのお宅を訪問した。天井はルネサンス様式。
 チェスキー・クルムロフ城を訪ねた。壁も装飾が描かれている。建物は41、部屋の総数は340.チェコで2番目に大きな城。城の最高責任者のバベル・スラフコさんが案内してくれた。壁はだまし絵。塔は高さ55m。半分の高さにくると、巨大な鐘があった。塔は13世紀当初はゴシック様式でここまでしかなかった。ここから上は鐘を残したまま、ルネサンス様式で増築された。この鐘は年に1度、元日の正午にしか鳴らさない。塔の上からは絶景が見える。城の中には17−18世紀にヨーロッパで一世を風靡したバロック様式の部屋もある。当時の最先端をいく一流品が集められた。食卓にはウィーンの金食器、壁にはベルギーのタペストリー、ボヘミアン・グラスのシャンデリア、日本の伊万里焼きのお皿。仮面舞踏会の間には、ヨーロッパから人が集まり、館はリトル・ウィートして有名だった。城主は城を改築せず増築していった。この地方の人は伝統や古さを大切にした。最後に案内してくれたのは、城の奥にある18世紀に作られたバロック劇場。奥行きがないが奥行きがあるように見せているバロックの幻想。現在も使われている。
 毎年6月、バラ祭りが開かれる。人々はルネサンス時代の装束で町を練り歩く。バラをあしらったデザインが目立つ。14世紀以来町を治めたロジュンベルク家の紋章。当時のボヘミア王国はドイツを中心とする神聖ローマ帝国の一部だった。地下牢にはロジュンベルク家の力を示すものがある。1394年ここに神聖ローマ皇帝ヴァーツラフ1世が幽閉された。時の城主がいさめるために捕らえたもの。
 朝6時、北東に向かった。車で30分、ロジュンベルク家ゆかりの場所がある。霧に煙る中、多くの人が池を叩いて、鯉を捕まえている。秋から冬にかけて鯉の漁が盛んに行なわれる。大きな鯉が2万匹。トレボニ養殖組合のヤン・フーダ組合長が説明してくれた。鯉は養殖で、池は500年前に人工的に作ったもの。昔からドイツやオーストリアに多く輸出していたそうです。ロジュンベルク家は数千の養殖池を整備した。海のない内陸部の貴重な蛋白源だった。銀も繁栄を支えた。城で精錬された。当時銀は通貨として用いられた。後にはコインの鋳造も城内で行なわれた。城の近くには今も銀の坑道の跡がある。ロジュンベルク家は採掘権を市民に売り、得られた銀を利用して莫大な富を得た。
 16世紀最盛期のロジュンベルク家の当主はヴィレーム・フォン・ロジュンベルク。城の2階にヴィレームが作った応接間がある。壁にはルネサンス様式の絵、天井にはバラの装飾。ヴィレームは若い頃にイタリアに行き感銘を受けた。城の中庭もヴィレームが築いたもの。壁面にはルネサンスが理想とした古代ローマの神話世界が描かれている。本場イタリアから画家などを呼び寄せ、自由と慶びに満ちた美で城を飾った。市民たちも自分たちの家に鮮やかな装飾を施した。町にはバラの紋章が溢れた。人々は町を豊かに変身させたヴィレームに尊敬を表した。
 秋から冬にかけてチェコの食卓には鯉が出る。伝統的な料理はオリーブオイルで揚げたフライ。コクのある内臓のスープ。旬のきのこを添えた鯉のソテー。漁師のイジー・シェンバウエルさんのお宅でいただきました。
 19世紀から繁栄にかげりが見え始めた。1911年、ウィーン世紀末の画家エゴン・シーレが町を訪れている。風景画に描かれているのは「ノルタバ川に面したクルマウ」(1914年)などの華やかさが失われた街並み。産業革命以降、森の中の町は近代化に乗り遅れた。住む人も徐々に少なくなった。

 城で金属製品の修復を担当しているマルティン・シュワンベルクさん(47歳)は子供の頃は、この町は荒れ果てていたそうです。町中の建物が修理されないまま放置されていた。1938年町にナチス・ドイツが侵攻し、チェコ人は追い出され、住民はドイツ人だけになった。第二次世界大戦でドイツが破れると、チェコからドイツ人が追放され、チェスキー・クルムロフは無人の町となった。町は静かに荒廃し、眠れる森の美女と呼ばれるようになった。1948年社会主義政権が樹立し、かつての貴族文化は軽んじられた。20年前、城は警察官が駐在したり、道路の建設事務所が置かれていたという。城の管理スタッフは自由に歩くことも許されなかったそうです。1986年のバロック劇場も天井は崩れ落ち、豪華な装飾品も持ち去られていた。歴史学者のバベル・スラフコさんが城の管理責任者になったのもその頃。1988年に劇場を見て泣きたくなったそうです。調べて劇場の貴重さがわかったという。1年後、社会主義政権が崩壊した。これを機に城の修復が始まった。まず貴族の館の復元をした。調度品リストを見つけ倉庫に眠っていた膨大な品々を元の部屋に戻した。城は息を吹き返した。ベロック劇場は15年かけて元の姿に戻った。6年前に公演が再開され、年に4回行なわれている。保安担当のミレック・ボラークさんや修復工のマルティンさんも舞台裏の装置を動かすのに動員された。みんな今は熱意を持ってやっているそうです。バロック・オペラをバロック劇場で見る。世界各地から人が集まった。オペラ「ラ・セメレ」が上演された。ナポリでの1726年の初演以来、280年ぶりの上演だったそうです。舞台の変化が見事でした。
 10月下旬初雪が降りました。修復が再開された。町の修復も8割進んだ。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 ウィーン」

 2008年1月5日、12日放送。鬼頭あゆみさんが案内。グスタフ・クリムト、フロイト、モーツァルトなどが活躍した。10月末に訪問したそうです。

●ウィーン
 オーストリアの首都で、8平方kmが歴史地区として世界遺産。4000以上の歴史的建造物が建ち並ぶ。年間300万人の観光客が訪問する。
 王宮にはハプスブルク家の遺産が多くある。1602年に作られたルドルフ2世の王冠は金と宝石で作られている。一般公開されているが、利用が少ないのは18世紀に作られた図書館。バロック様式で世界一美しい図書館とも称される。ハプスブルク家がヨーロッパ各地から600年かけて集めた20万冊。ここにしかない本も多くある。1565年に出版されたマルチン・ルター翻訳のドイツ語聖書もあるが、カラーです。国立図書館学芸員のアントン・クノールさんは当時は図書館は権威を示すためのものだった。
 町の中心にはシュテファン大聖堂。中世ゴシック様式の建築で、塔の高さは137m。13世紀、ウィーンを都にした時、この場所には小さな教会堂があった。14世紀半ばから150年かけて大改築を行なった。屋根に描かれる「双頭の鷲」はハプスブルク家の象徴。

 ウィーン伝統の馬車に乗る。シュテファン大聖堂から5分で路面電車の走るリング通り(環状大通り)にでた。幅は58mある。歴史的建造物の多くはリング通りの両側に並んでいる。右に1869年完成のオペラ座はイタリアを意識したルネサンス様式の建築。マーラーも活躍した。5分で左手?に1881年完成の美術史美術館は、ハプスブルク家が長年集めた美術品がある。ラファエロの「草原の聖母」、ブリューゲル作「バベルの塔」など。5分で、左手に1873年から10年かけて作られた国会議事堂はギリシャのパルテノン神殿みたい。女神アテナ像もある。左手には10年かけて1883年に完成した市庁舎はネオ・ゴシック建築。表面には貴族や騎士の石像。1850年以前はどうだったのか?
 ウィーン博物館を訪問。17世紀の町の様子の絵がある。周囲に壁を作った要塞都市だった。城壁は撤去されリング通りとなった。
 元々スイスの一貴族だったハプスブルク家がウィーンに移ったのは1278年神聖ローマ皇帝として即位してから。その後力を蓄えた。絶頂は16世紀で、スペイン、ハンガリーなどの王家と婚姻関係を結んだために、ベルギー周辺、アメリカ合衆国南部、メキシコからチリの真中まで、ベネズエラ、ボルネオ島を支配した。日没なき帝国と言われた。その後衰退し、19世紀半ばでは、ほぼ中央ヨーロッパだけとなっていた。その頃にウィーンの大改造がなされた。
 リング沿いの建物の多くに皇帝フランツ・ヨーゼフ1世 Kaiser Franz Joseph I の名前が刻まれている。18歳で即位し、20世紀初頭まで68年間君臨していた。王宮に執務室が残されている。倹約節制をモットーとした勤勉実直な皇帝だった。朝早くから夜遅くまで公務に励み、王冠をかぶった役人と言われた。選んだ妃によって皇帝は庶民の人気が決まる。皇妃エリザベートはヨーロッパ王室最高の美女と言われた。エリザベートの部屋にはトレーニング器具がある。扉にも吊り革がある。結婚して4年ルドルフが生まれたが、姑ゾフィーに取り上げられた。エリザベートはふさぎこみ、王宮から逃れて、各地に滞在した。
 1858年にウィーン大改造に着手した。極めて特殊な事情がある。マッシェン・マルクト?市場にはそれが今もわかる。エジプト人が香辛料を売っている。小さなレモンを果汁につけたデザート。ブルガリア、トルコ、ハンガリーなどの民族が集まっていた。10以上の多民族国家だった。皇帝は王宮で多くの人と面会していた。謁見控え室が再現されている。謁見の際の正装は民族衣装だった。皇帝は人々の話を丁寧に聞いた。1910年はドイツ系24%、ハンガリー20%、チェコ・スロバキア16%、クロアチア・セルビア10%、ポーランド10%、ウクライナ8%、ルーマニア6%、スロベニア3%、イタリア2%だった。ウィーン大学のヴィルフガング・ロアバッハ教授はギリシャ正教の三位一体教会に連れて行ってくれた。柱の上に「双頭の鷲」の飾りがあった。1858年に建てられた教会はこれを置いて忠誠を誓った。皇帝は民族によって不平等が起きないように寛容な政策を行なっていた。方針として民族としてのオーストリア人は存在しない。オーストリアとは領域を示す概念である。ハプスブルク家は多民族の共存を目指した。
 しかし、ヴィティーフ教会。堂内のステンドグラスには翼のついた龍を騎士が退治している姿。ハンガリー人による1853年フランツ・ヨーゼフ暗殺事件を象徴している。帝国内で独立を要望する動きがあった。帝国分裂の危機となった。フランツ・ヨーゼフは1858年に城壁をなくして、リング通り沿いにギリシャ風の国会議事堂を造り、市民に議会制民主主義を押し進めた。オペラ座は市民の娯楽で、他の国の大都市のオペラ座に負けないようにした。王宮も壁面に様々な民族衣装をまとった人々の像を作った。
 シェーンブルン宮殿は18世紀に郊外に建築された。フランツ・ヨーゼフ1世は末期はこの宮殿にいた。19世紀に入ると各地の独立、自治の要求は増えた。フランツ・ヨーゼフは民主主義を導入した憲法を最初に導入した。1889年、ウィーン郊外の森で息子ルドルフが自殺した。皇妃エリザベートは1898年に暗殺された。ルドルフに代わって皇太子となったオーストリア大公が1914年にセルビア人により暗殺され、第一次世界大戦が勃発した。戦争のさ中1916年にフランツ・ヨーゼフは86歳で死去。2年後に大戦は集結し、ハプスブルク帝国は滅亡し、8つの国に分かれ独立した。
 現在はユーゴスラビアの分裂後に、コソボ紛争が起こり、独立の気運も続いているが、EUのように統合も進んでいる。
 クロアチアのザグレブで、2007年10月にパン・ヨーロッパ会議が開催された。この会議の起源は1926年のウィーンでの会議。ハプスブルグ家正統継承者オットー・フォン・ハプスブルクさん(95歳)は第二回の議長で、EU統合にも力を発揮した。

 ウィーン市の北部にウィーン少年合唱団を訪ねた。王宮礼拝堂ではウィーン少年合唱団の歌声が500年にわたって響く。15世紀、ハプスブルク家の宮廷礼拝付少年聖歌隊として始まった。10歳〜14歳までおよそ100人が全寮制で暮らしている。11の国々から来た人が参加している。様々な民族から構成されるのは、その時からの伝統。

●ウィーン世紀末芸術
 19世紀末からわずか30年ほどの間に突如として現れた「ウィーン世紀末芸術」。絵本から飛び出したようなデザインの駅 Karlsplatz 。黄金のオブジェをいただく美術館。絵画の世界ではグスタフ・クリムトやエゴン・シーレたちが斬新な作品を次々と発表した。

 11月半ば、シュテファン大聖堂は雪化粧。オーストリア美術館に行ってみた。まず世紀末芸術以前のハンス・マカルトの「アリアドネの勝利」(1874年)のテーマはギリシャ神話。ルドルフ・フォン・アルトの「シュテファン大聖堂」(1832年)は写実的。次は世紀末芸術の作品。グスタフ・クリムトの「接吻」(1908年)は象徴的な感じがある。エゴン・シーレの「死と乙女」(1915年)は女性を抱きかかえる死神に自分を重ねている。

 ブルク劇場は1874年建築で半円形のアーチでルネサンス様式とバロック様式。国会議事堂は古代ギリシャ様式。煙突掃除職人のフリッツ・マイヤー、ハネス・サレイさんに案内してもらった。町の南にある世紀末建築はオットー・ワーグナーが作ったカールスプラッツ駅 Karlsplatz (1899年)。絵本から飛び出したようなかわいらしいデザイン。壁面には金色のヒマワリ。町のずっと北側のドナウ運河の1898年にオットー・ワーグナーが造った「ドナウ運河の水門にかかる橋」。当時は石造りが主流だったが、ワーグナーは鉄骨剥き出しの橋を作った。ウィーンの南西にあるハネスさんご推奨の「マジョリカ・ハウス」、「メダイヨン・マンション」もオットー・ワーグナーの作品(1899年)。壁面には黄金のメダルがある。マジョリカ・ハウスは絵の描かれたタイルが貼り付けてある。ウィーン一番美しいという。建物の中のエレベータも幻想的。当時は創始者的存在で、お金のある人がこれ以降は上の階に住むようになった。

 ウィーン名物の大観覧車は1897年に完成した。映画「第三の男」で使用された。工芸品もヨーゼフ・ホフマンらによる作品が有名。ファッションもシンプルで軽やかなものが特徴だった。
 多くの芸術家が出入りしたという「カフェ・ムゼウム」。世紀末にもあった生クリームたっぷりのウィンナー・コーヒーをいただいた。給仕長のロベルト・ネロズブさんが説明してくれました。エゴン・シーレやクリムトは常連だった。ワーグナーもホフマンもクリムトを囲んだとクリムトの弟子の手記に書いてある。純粋な芸術とは何かと激しく情熱的に議論したという。当時ウィーンにはフランス革命の余波がおしよせ、ウィーンも三月革命が1848年に起こった。政府はオペラ座なども建築し、日々演劇を催して市民の不満を抑えようとしていた。しかし芸術家たちの一部は違った。作家ヘルマン・バールは終末の世にいるのかもしれない、建物は仮面舞踏会だと記している。映画「輪舞/ラ・ロンド」では華やかな世界でも欺瞞などがはびこっていることを表している。
 オーストリア美術館学芸員のマリアン・ビザンツさんは、偽りのウィーンへの思いがあったと考えている。上流階級は過去の芸術をただコピーしたにすぎなかった。クリムトらはこれにいらだちを感じていた。1897年「分離派」が誕生し、既存の芸術から決別した。分離派会館(1898年)の屋上には金色の月桂樹のオブジェがある。入口の上には「時代にはその芸術を、芸術にはその自由を」と書いてある。欺瞞のある時代だからこそ、芸術は自由でなければならないというのがテーマだった。オットー・ワーグナー設計の郵便貯金局(1906年)は天井も床もガラス張り。王宮の豪華さんい対抗して作られたのは、アドルフ・ローズ設計の集合住宅「ロース・ハウス」(1910年)で、一切の彫刻を否定し、外壁には窓しかない。エゴン・シーレはタブーを打ち破ろうとした。20歳の時の作品「座る裸の男」(1910年)。心の奥底にある何かと戦うのがシーレの芸術。「死と乙女」(1915年)。クリムト「ヌーダ・ヴェリタス/裸の真実」(1899年)は全裸の女性が右手に鏡を持っている。この絵を見る者に真実の光を当てようとしているらしい。足元にはヘビがいて虚飾の象徴。「接吻」でも、男性を象徴する四角形と女性を象徴する円が相容れない様子を描いていて、足元には崖がある。真実の愛とは危うさやはかなさなどを越えた所にあると言っているようです。
 歴史学者のティーナ・ヴァルツァーさんはレオポルト・シュタット地区に案内してくれた。ここはユダヤ人街で、1867年の憲法で居住や職業の自由を認められるまでは、ユダヤ人はウィーン市街地に住むことは禁止されていた。これ以降、ユダヤ人が増えていった。ユダヤ人が社会を動かす原動力になった。ツヴィ・ペレス・カイェス学院はユダヤ人の子供達だけが通う学校で、語学に力を入れている。銀行家として財をなしたエプシュタインの邸宅。こういうユダヤ人の成功が世紀末芸術に結びついていった。分離派会館はユダヤ人がかなりの資金を提供した。ユダヤ人は偶像崇拝などは禁止されているため、芸術などとは距離を置いてきたが、世紀末芸術を支援したのは、多民族国家で生きていくための智恵だった。
 ところが思わぬ壁がたちはだかった。1900年ウィーン大学。クリムトが大学から依頼された大学の講堂の天井画。その製作が騒動になった。クリムトは「哲学」を要求され、愛を全裸でからみあう幾人かの姿で表現したが、大学は受け取りを拒否した。対立は論争となり、国を巻き込んだ。描き直しを要求された。エゴン・シーレはわいせつな絵画を描いたとして逮捕された。世紀末芸術は非難され、否定されていった。クリムトが応じた応えが分離派会館に残されている。「ベートーベン・フリーズ」(1902年)は長さ30mの3面にわたる巨大な壁画。ベートーベンの第九の歓喜の歌にクリムトは芸術家が決して失ってはならぬものを見出した。第一面は鎧をまとう勇者、第二面は強大な敵(行動を起こさない者の悪しき感情・肉欲や不貞・絶望・虚飾や不満)、第三面は戦いの果てにある世界。いかなる抵抗を受けても芸術家は戦わなければならない。その先に希望があると言いたかったようだ。
 第一次世界大戦でハプスブルグ家は滅亡。クリムトやシーレもこの世を去った。ヒトラーによりオーストリアは占領され、芸術作品は押収され、戦火の中で灰になった。世界遺産となり、修復が進んでいる。


テレビ番組「世界ふれあい街歩き チェスキー・クルムロフ」

 2006年12月29日放送、2008年1月1日再放送。NHK製作。

●チェスキー・クルムロフ
 街をぐるりと回っているのはフルタバ川。横には古いお城。チェスキーはチェコの、クルムロフは「ねじれた河辺」という意味。
 午前6時半。丘の上にお城が見える。とんがり屋根の街の正門。くぐると町並があるが、古い建物。
 午前9時、お城の門をくぐる。門もその横も描いたもので、だまし絵。正面の家の窓は14世紀のものらしい。
 3つある橋の1つ「床屋橋」を越える。川沿いに家が並んでいていい感じ。建物の前に石が置いてある。馬車が走っていた時代に建物にぶつかって壊れないように置いた角石だそうです。
 坂を上がってくると、陸橋がある。降りて川まで行く。2002年8月13日の洪水の跡が残っている。2mくらいの高さまで水がきたようです。
 午後1時、3つ目の橋「エドワルド橋?」にでた。建物と建物の間の細い階段を登る。
 城の手前に4つ目の橋がある。渡ると城の渡り廊下をくぐる。階段を上がって城の中に入る。中庭を通過。壁はだまし絵。

 エゴン・シーレ・アート・センター館長のハナ・イルムショバさんが説明してくれた。なぜ Egon Schiele がチェスキー・クルムロフに関係しているかというと、1890年ウィーン近郊で生まれたが、母はこの町が故郷だった。美術学校を退学した後にこの町にやってきた。「庭の家」とよばれるアトリエを構え、多くの傑作を生み出した。シーレは城や塔という町を象徴するものを決して描かなかった。彼の好んだモチーフはごく普通の家々だった。シーレが描いたクルムロフの絵はここには一枚もない。理由はかなり値段が高いかららしい。

 オペラ女優のイヴァ・ホシュベソバさんが説明してくれました。クルムロフ城の庭園の奥に変わった劇場がある。通常は舞台が回るが、ここは客席が回る。

 お城で働いている高校生のカレル・フラバチェクさんが説明してくれた。おじいさんのヤン・ツェルネイさんと一緒に熊の世話をしている。2頭いて、大きくて黒いのがオスのボブ?、小さいのがカーチャ。王様をメス熊が追いかけてきて、はね橋に間に合わず下に落ちた。熊は子供を産み、以来300年城の堀に住んでいる。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん プラハ」

 2007年11月10日放送。

●プラハ
 中世の街並みが残る。14世紀にローマ帝国の都市としてモルダウ川のほとりにに作られた。黄金の都、北のローマ、建築博物館の町と呼ばれる。
 メラントリホヴァ通りを歩く。マリオネットを売っている。昔からマリオネットを使った劇が有名で、お勧めの劇場は国立マリオネット劇場。小さいけどお客さんでいっぱい。17世紀頃から始まったそうです。プラハの大学にはマリオネット学科というのもあるらしい。
 ネルドヴァ通りでは、建物の入口にカギ、ヘビなどの飾りがついている。住所のなかった時に家のレリーフとして示していたらしい。
 フソバ通りには建物の上に人が!と思ったら銅像でした。他にも幽霊みたいな銅像や、ベンチに座った銅像もある。大人の小便小僧があるが、これは動いてました。
 スメタノヴォ・ナーブジェジー通りは車が多いが、ビルが曲がっている。ダンシングビルと呼ばれている。街並みに合わないと最初は言われた。
 ヴィクトル・スラネッツスさんが紹介してくれたのは、チェコ料理の店「ウ・カリハ U Kalicha 」で、人でごったがえしている。料理はペチェネーコレノで、ボリューム満点。豚のひざ肉を薫製にし、塩やハーブで味付けし、オーブンで30分焼いて、油をかける。450チェココルナ(2700円)。
 旧市街広場。百塔の町と言われるだけあって塔が多い。教会でのコンサートも多い。歴史ある教会でのコンサートを観にいった。見上げてみると二階で弾いている。18世紀に作られた教会のパイプオルガンとバイオリンの共演でした。ほぼ毎日コンサートが開かれている。

 新婚さんの朝ごはん。郊外の住宅街のマンションに住むカテジナ・マトグシュコヴァー・プレシュミードゥグヴァー?さん。1品目は「チェコ風お好み焼きブランボラーク Bramborak 」。皮をむいたじゃがいもをおろし、卵、にんにく、小麦粉、スパイスを加え混ぜる。よく熱したフライパンに油をひいて、作った生地を広げ、しっかり焼く。
 2品目は「レバーのスープ Polevkas jatrovymiknedicky ? 」。レバーを細かく刻みペースト状にし、胡椒とマヨランカというスパイスを加えて臭みを消し、卵、調味料を加えてよく混ぜる。一口大を手にとりパン粉をつけながら丸める。骨つき肉と野菜でとったスープにレバー団子を加えて煮る。
 3品目は「人参とリンゴのサラダ Mrkvovo jablecny salat 」。人参をおろし、リンゴもおろし、レモン汁を加えて混ぜて完成。


テレビ番組「地球街道 渡辺美里さんでザルツブルグ」

 2007年8月11、18日放送。

●ザルツブルク
 ザルツは塩、ブルグは砦を意味する。またモーツァルトの生誕の地としても知られている。どこのお店も看板が素敵。モーツァルトの生家は黄色い建物。
 1965年公開の映画「サウンド・オブ・ミュージック」の主な舞台となったのがザルツブルグ。
 「ミラベル庭園」は、ドレミの歌を歌いながらバラのトンネルや噴水の近くを踊り歩き、階段をあがるシーンで使われた。これら3つと妖精の像もある。サウンド・オブ・ミュージックのロケ地が10ヶ所あり、全て歩いて見ることができる。マリアが立ち去る修道院は1300年前に創建された歴史ある「ノンベルク修道院」。黄色い壁が印象的なトラップ大佐の家はフローンブルク宮殿(現在はモーツァルト音楽大学寮)。ヘルブルン宮殿に残されているガラスの東屋は、長女と恋人が雨の中で歌いながらダンスをする場面で使われた。
 郊外の山の上でドレミの歌を歌った場所でドレミの歌を歌いたい。

●郊外
 ヴォルフガング湖はきれい。この辺りにはアルプスの山並みの中に70以上の湖が点在している。湖の北側にある町がザンクト・ヴォルフガング。登山鉄道の駅にある電車 Schafbergbahnは赤色で可愛い。映画では黒で、マリアらがこれに乗ってピクニックにでかけた。路線は撮影当時と変わっていない。40分で頂上の駅に到着。頂上から見える展望は素晴らしい。眼下には2つの湖。頂上は標高1700mにある切り立った断崖の頂上。ここは撮影場所ではなく、ヴェルフェンという町らしい。

●ヴェルフェン Werfen
 2時間ほど走って到着。ここにちょっと変わった洞窟があるという。その入口はケーブルカーで上がった後、切り立った崖の細い道を30分ほど歩いたところにある。ガイドのアロイス・レッテンバッハーさんが案内してくれた。カンテラ?ランプを用意してくれています。洞窟の中には巨大な氷の塊。世界最大級の氷の洞窟。氷の柱、つららが見事です。夏は洞窟の中の温度が2度。
 町のシンボルは小高い丘の上にそびえるホーエンヴェルフェン城。1077年頃に建てられた。城の上に上がると山の緑など景色が素晴らしい。
 農家のルベルト・グロッサウアーさんの牧草地にその場所があった。

●ザルツブルク
 大学広場の前には市がたち、野菜や果物が並ぶ。しかし野生のエーデルワイスは街中にはない。見つけるためには山の上に行かないといけないと言われた。それでも見つけるのはとても難しいそうです。見つけても摘んではいけない。もし持ち帰った場合は6000−9000ユーロの罰金だそうです。見つけられたらとてもラッキーだという。
 エーデルワイスはオーストリアの国花。サウンド・オブ・ミュージックの中でもうまく使われていて、ナチスに対するオーストリア人の心を示していた。

●ハルシュタット Hallstatt
 ザルツブルクから車で2時間。人口1000人ほどの小さな町。世界で一番美しい湖畔の町とうたわれ、町全体が世界遺産。
 この日はキリストの復活を祝う聖体節 Fronleichnarn ?(5月下旬から6月下旬の木曜日で毎年変動する)でした。約380年前から行なわれていて、毎年1万人以上の観光客で賑わう。
 祭りは街中が終ると湖に出ていく。飾り付けされた船がいくつも湖に浮かぶ。祭りの後の町を歩いた。窓の花がとてもきれい。ある家の壁には木が張り付いて伸びていた。しかもそんな家が何軒もある。ウルズラ・ビルツさんが教えてくれましたが、土地が狭いので、こうやって育てるのだそうです。植物がよく育つそうです。
 福音教会は旅人を優しく迎えてくれた。
 岩塩杭はこの町を古より支えてきた。7000年前から採掘されていたという。現在も操業中で、ガイドのクラウス・ポムベルガーさんが案内してくれた。中に入るには赤いヤッケを上下着る。すぐにトンネルの壁に塩がついていた。これは「塩の毛」で坑内の塩分が温度が冷えて壁に付着したもの。奥に入ると、80%が塩の地層があった。さらに奥に行くと、70mの木製のすべり台がある。かなり怖いそうですが、5ユーロでその恐怖の顔をした写真も買えます。ここからはトロッコに乗って、70分で回れる見学コースになっている。

●郊外の農家
 この岩塩をどう使うのか、標高1300mにある農家を訪問した。ハンス&フリーダ夫妻は伝統的な山小屋料理でもてなしてくれた。長男はハンス・クリスティアン・デンムルさん。スライスしたジャガイモをバターで炒め、最後にたまねぎを加え、よく炒めたら完成。ゲデンプテ・ヘクセ(魔女の蒸し上げ)と言われる。ジャガイモの甘さを押さえるために、塩が必要だそうです。おいしいそうです。
 牛小屋で牛に岩塩を食べさせている。ミネラルが豊富なので、牛がなめるといいミルクが取れるのだそうです。

●グロースグロックナー山岳道路
 夏の間だけ開通する。この道の先に可憐な花が咲く場所がある。「エーデルワイスの頂 Edelweisspitze」に到着。自然保護区域になっている。山岳道路事務局長のフランツ・ピルスさんによると、エーデルワイスはアルプスの宝と呼ばれている。高山植物の生えている場所にあるそうでうs。但し、見つけるためには上に行ったり、下に行ったりしないといけない。可愛い野生動物もいます。渡辺さんは見事にエーデルワイスを見つけました。エーデルワイスを見つけた人には幸運が訪れると言われています。渡辺さんは涙していました。


テレビ番組「憧れの都へ チェコ」

 2007年5月6日放送。JP製作。

●プラハ
 時代時代の美しい建物が残る。プラハ城の中の聖ヴィート大聖堂は1929年に完成。600年の歳月をかけた。ステンドグラスがとても美しい。聖母マリアの愛を表現しているというバラ窓。19〜20世紀に市民が寄付したお金で作られた。中でもアール・ヌーボーの巨匠アルフォンソ・ミュシャのステンドグラス「聖キリルと聖ストディウス」は見逃せない。
 カレル橋の上では楽しいジャズの音楽が聞こえる。演奏会も洒落ている。彼らは20年間、ここで演奏し続けている。
 旧市街広場に向かう。ここには旧市庁舎の天文時計は15世紀に作られた。正確な時を知らせている。当時は天動説だった。12人の使徒が回る。
 かつては黄金のプラハと呼ばれた美しい町を散策した。石畳の路地を過ぎると昔ながらの市場がある。色とりどりのフルーツの山、野菜も種類が豊富。チェコ名物マリオネットもある。ハプスブルグ家に支配された時にチェコ語が制限されたが、人形劇だけはチェコ語が許可されたそうです。
 老舗のレストラン「ウ・カリハ U Svejka 」を訪ねた。中でhアコーディオンの演奏がある。「兵士シュヴェイク」の壁画があるが、国民的小説家ハシュクの小説にでてくるキャラクター。ビールのジョッキにも描いてある。「仔牛のヒレ肉のクリームソース煮」には、生クリームとジャムをつけて食べる。チェコはビールが有名。

●チェスキー・クルムロフ
 プラハ本駅から列車で3時間半。曲がりくねったヴルタヴァ川に囲まれた可愛い町。スヴォルノスティ広場。
 チェスキー・クルムロフ城に向かう。13世紀に建てられ、時代時代の最先端の技術を導入している。壁の立体感のある装飾は筆で描かれたもの。内部はシックな感じ。エッゲンベルクの黄金の馬車はまぶしい。
 ブラーシュチョビー橋。城には渡り廊下が作られた。城内の宮廷劇場も見逃せない。
 フィッシュ・レストラン「ヤコブ・クルチーン」でランチをいただいた。肉料理が禁じられているクリスマス料理には魚料理が欠かせない。鯉を使った料理が多いそうです。「魚のフライ」、「鱒のグリル、ニンニクソース」をいただいた。
 宿泊は「ホテル・ルージュ Hotel Ruze 」。元は16世紀のイエズス会の修道院。ここのレストランは高級料理。テラスでちょっと一休み。
 夜、お城でとっておきの催しものがある。城内の演奏会が「仮面舞踏会の間」で開催された。壁にはユーモアたっぷりのだまし絵が描かれている。


テレビ番組「憧れの都へ オーストリア 音楽の都ウィーン」

 2007年4月22日放送。ドナウ川河畔にあるウィーンは650年ヨーロッパに君臨したハプスブルグ家の都だった。

●ウィーン
 可愛い路面電車もいいが、フィアカーと呼ばれる二頭立ての馬車に乗って、国会議事堂、王宮などを見る。
 旧市街の広場では一年中音楽が響いている。お花で描かれたト音記号の向こうにモーツァルトの銅像が立っている。25歳でザルツブルグからウィーンに移り、モーツァルトハウスに住んだ。周囲も昔のままらしい。今は博物館になっている。直筆の楽譜を見ると音符が踊っているので、曲を楽しんで書いていたのでしょう。
 オペラ座はモーツァルトが亡くなって80年後に建てられたが、初演はドン・ジョバンニだったそうです。場内も豪華絢爛。でも天井桟敷は格安でバスの運賃ほどらしい。
 ケルントナー通りは優雅な繁華街。チケットを売っている人がいる。ドイチェス・オルテンスハウスでモーツァルトの出し物を聴いた。
 シュテファン寺院はウィーンの壮麗なシンボル。モーツァルトの結婚式もここで行なわれたそうです。多くの蝋燭が掲げてあるのは、マリア・ペッチの祭壇。伝染病の波及から街を救った守り神だという。
 宮殿には朝早く行って列に並ぶ。みんなのお目当てはウィーン少年合唱団。王室礼拝堂で神聖なミサを行なうために500年前に結成された。清らかな天使の歌声は宮廷がはぐくんだ文化。4階のテラスで歌っているので、天から降ってくるように聴こえる。最後は祭壇のところで歌ってくれます。

●郊外のバーデン・バイ・ウィーン
 ザウアーホーフ・ホテルに宿泊。この一帯は古くからの温泉地で、このホテルは貴族の館ビーダーマイヤー宮殿を改造した貴賓あふれるスパホテル。シャワー室は全面大理石。スパを楽しんだ後は、レストラン「Rauhenstein 」で食事。前菜は「サワガニのコンソメゼリー」。メインは牛肉を白ワインで煮込んだ「ターフェルシュビッツ」。デザートはハプスブルグの皇帝も愛したというふわふわのパンケーキ「カイザーシュマレン」。

●シェーンブルン宮殿
 ハプスブルグ家の壮麗な宮殿で、建てたのはマリア・テレジア。本格的な病院を作ったり、義務教育を導入した。今でもオーストリアの母とされている。赤を基調とした館内。マリア・テレジアは16人の子供に恵まれた。その末娘がマリー・アントワネット。マリーが7歳の時にモーツァルトが6歳で「鏡の間」で演奏し、皆をおおいに驚かせたそうです。
 大ギャラリーは息を呑むようなきらびやかさ。その伝統に担い手がダンス・スクール。

●ウィーン
 ホーライ・ダンススクールに行ってみた。オーストリアでは若者はダンススクールに通い、踊りと共にマナーやエチケットを身に付ける。若い人は自分のお金でファッションやアクセサリーを購入するそうです。
 中央墓地には偉大な作曲家たちが眠る。モーツァルトのお墓に別れを告げて、ウィーンをあとにしました。


テレビ番組「ポカポカ地球家族 オーストリア・チロル」

 2007年2月10日放送。ヨーロッパの中部アルプス山脈のふもとに広がる風光明媚なチロル地方の古都ハル・イン・チロル。標高574m、約1万2千人が暮らす小さな町。飲み水はアルプスの山から流れ出る雪解け水、天然のミネラルウォーター。日本から14時間。人口約70万人が暮らす。街角で売られている絵ハガキの古城は、700年前のもので、今は分譲住宅となっている。
 町の広場から歩いて5分にその古城があり、当時のままに城壁も残されている。ここの最上階に杉原絵美さん(47歳)、バイオリンを教えているヨハンネスさん(41歳)、娘のベロニカさん(9歳)が暮らす。窓からの景色は素晴らしい。チロル風の窓は空気が取り入れるための工夫がある。広さ140平方m、3LDKで価格はこのあたりの平均とほぼ同じ。

 自宅からすぐ近く?にパッチャーコーヘル駅があり、ロープウェイ(往復で16.5ユーロ)でハイキングにでかけた。地元の人に人気のツィルベンベーグというハイキング・コース。標高2200mで山々や街並みが一望できる。昔はオリンピックのコースだったそうです。

 町の中央にある広場では毎週末、市場が開かれる。店先に並ぶのはアルプスの空気と水で育った新鮮な野菜や果物。一家も週に一度この市場へ足を運ぶのを楽しみにしている。カボチャが旬で、1個150円、飾り用は90円。酪農が盛んなので、市場には農家自家製のチーズ(1kg1600円)やベーコン(1kg1900円、2800円など)なども数多く並ぶ。

 ベロニカさんはシュティフツプラッツ小学校に通う。朝のホームルームでは歌とダンスが必須。集中力を高めるために太極拳も取り入れている。
 オーストリアは音楽が盛んで、ブラスバンドはどこにもある。絵美さんはピアノの先生をしている。自宅から車でおよそ30分のイタリア国境に近いシャタイナッハという町。学校に赴任したのは9年前、6歳〜78歳のおじいちゃんまで幅広い生徒17名がいる。

 チロルの家庭料理「ケーゼ・シュペッツレ」を作る。まず小麦粉、卵、オリーブオイル、牛乳を混ぜ生地を作り、湯に落として固める。シュペッツレ・ホーベルを使って均等な大きさにする。刻みチーズを作り、バターをひいたフライパンに炒めたタマネギ、生地、チーズを焼く。最後にパセリをのせて完成。モチモチとした食感は濃厚なチーズと相性は抜群。平日の夜はヨハンネスさんか絵美さんが仕事に行っている為、家族揃っての夕食は休日だけ。絵美さんが作れない時は、ヨハンネスさんは料理が得意なので腕を振るいます。
 夕食後は家族で演奏会。

 牛の祭り(アルム・アプトリープ)は牛たちが無事に過ごせたことを感謝するお祭り。牛に飾りをつけて牧草地から麓の村まで練り歩く。約1万人の見物客が訪れた。50軒の屋台で一番人気はキアヒルというチロル風の揚げパン。あとザワークラウト(キャベツの酢漬)やハチミツをのせて食べる。

 週末、一家は人気の観光地へ向かった。一家が乗った機関車は現在走っている中で世界最古のアプト式機関車。後から車両を押して急勾配を登る。乗車料は往復で3900円。40分で標高931mの「アーヘン湖」に到着。チロルでは最も大きく最も美しいと言われる湖。遊覧船に乗って湖を一周することが出来る。季節毎にその表情を変えるアルプスの大自然を眺める。

 ハルの教区教会、毎週日曜日に一家でミサに参加する。ベロニカさんは司祭を手伝うミニストランテという係。
 絵美さんがオーストリアに渡ったのは今から24年前。大好きなピアノを学ぶためチロル州の州都・インスブルックにある音楽学校に入学。アルバイトをしながら通い、1989年ピアノ教師の国家資格を取得。最初に赴任した学校でヨハンネスさんと出会った。4年間の交際を経て1996年に結婚。その2年後にベロニカさんが産れた。

 ホームコンサートの日、ちぎったパンを団子状にしたクネーデルを作る。ペースト状にしたほうれん草を混ぜて揚げる。肉料理のつけあわせや、スープに入れて食べる。デザートには一家の大好きな西洋スモノのタルト。
 午後7時、音楽仲間の友人がそれぞれの楽器を持ち寄った。この国ではこのような演奏会が各家庭でよく行われる。この日は2時間。終ると全員で食卓を囲む。
 アンバス教会は結婚式を挙げた教会。

 クネーデル(3人分)は元は古くなったパンを食べる方法だった。レストラン「アルテリーペ」のロイックさんが説明。卵4個、グラニュー糖(40g)、小麦粉(75g)、クリームチーズ(150g)、バニラエッセンス、レモンピールを混ぜ、よくこねて冷蔵庫で寝かせる。ベーコンやひき肉を入れるのが一般的だが、今回はシロップに漬けたアプリコットと梅を巻く。塩を入れたお湯で10分茹でる。このままでも食べれるが、ケーキクラムで衣をつけ180度の油で2分揚げ、チョコレートソースをかけるともっとおいしくなる。


テレビ番組「プレミアム10 サウンド・オブ・ミュージック」

 2007年2月5日放送。歌が好きな家庭教師と7人の子供たちが織り成す物語。そのモデルとなったのが、トラップ・ファミリーの実話。第二次世界大戦の直前のオーストリアで過ごしたマリア・フォン・トラップさん。映画では描かれなかった、その後の家族の物語。マリアさんは1914年生まれで、現在92歳。4日間に渡って一家の歩みを話してくれた。NHK製作。

●アメリカ・バーモント州
 美しい自然に囲まれたこの地方をニュー・イングランドと呼ばれている。森の中にたたずむ小さな家がマリアさんのお宅。

●オーストリア・ザルツブルグ
 モーツァルトが生まれた音楽の都。町の郊外にトラップ一家が住んだ屋敷が今も残されている。3階建の大きな屋敷で25部屋あった。7人の子供たちがいた。長男ルーペルト、長女アガーテ、次女マリア、次男ベルナー、三女ヘートビック、四女ヨハンナ、五女マルティナ。父は第一次世界大戦で数々の戦績を挙げ、オーストリア海軍の潜水艦の艦長で英雄だったゲオルク・フォン・トラップ男爵。妻はアガーテは若くして病死した。マリアさんが7歳の時だった。
 育ち盛りの子供たちを統制するために笛を使った。長男は低い音1+高い音1、長女は低い音1+高い音2、次女は高い音3、次男は低い音1+高い音1+中間1、全員集合は・・。ある日トラップ家に家庭教師マリア・クチェラさんがやってきた。ウィーンで生まれ、ヨーロッパで最も古い女子修道院である、ノンベルク修道院で修道女となるべく修行していた。最も厳しい戒律だった。20歳になり、附属学校で先生として働き始めたその教え子がザルツブルグにまだ住んでいた。88歳のドロテア・ラーコチさん。階段についていたオーク材の手すりを滑り降りたそうです。21歳の時、友人宅に居候していたそうで、娘のイル・ゼ・ガナールさん(91歳)はトラップ家から病弱な次女マリアの家庭教師の依頼があった時(1926年の秋)のことを覚えている。使用人は10人以上だった。着ていく服は友人の服を借りたそうです。またギターを持ってやってきたそうです。彼女の頭の中は空想の世界で満ち溢れていたそうです。
 1927年、家庭教師としてやってきて1年後にマリアと父は結婚した。マリアは4部合唱を7人の子に教えた。次女マリアは名門モーツァルテウムに入学し、ピアノを習った。同じピアノの先生に習っていた子がヘルベルト・フォン・カラヤンだった。

 1929年世界恐慌が起こり、1932年に全財産を預けていた銀行が倒産した。みんな落ち込んだが、マリアだけは違った。1階を礼拝堂に作り変えた。学生に部屋を貸した。礼拝堂でのミサに、ある日フランツ・バスナー神父がやってきた。神父の甥フランツさんは、1935年の復活祭の日曜日にトラップ家でミサをした。一家の歌声はもっと磨くことができると言った。ローマでグレゴリー聖歌を学んだ神父は本格的な合唱を教えた。次にソプラノ歌手ロッテ・レーマンさんがザルツブルクの音楽祭に出るために、部屋を借りに来た。歌声を聞いてレーマンは音楽祭に出るように薦めた。そして一家は優勝した。芸能プロモーターの目に留まり、「トラップ・ファミリー聖歌隊」としてヨーロッパで公演旅行を行なった。ロンドン、パリ、ブリュッセル、ミラノ。ハイライトはパリで12曲のアンコールを歌った。楽器の演奏も得意だった。次女マリアさんはビオラ・ダ・ガンバ、次男はチェロ、他の兄弟はリコーダーを担当した。
 1933年ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を取った。1938年3月12日の真夜中、ザルツブルグ中の教会の鐘が鳴った。オーストリアにドイツ軍が侵攻してきた。首相は降伏しオーストリアは併合された。父はナチスに反対だった。執事のハンス・シュワイガーは何でもしてくれたが、ナチに所属していた。しばらくして父に召集令状が届いた。ヒトラーの前でトラップ・ファミリー聖歌隊に歌ってもらいたいという電話があった。ナチスは宣伝に使いたかったらしい。アメリカからコンサートの依頼が舞い込んだ。アメリカに行けるチャンスがあるなら早く行ってくれとハンスが言った。間もなく国境が閉鎖されると伝えた。子供たちはダイニング・ルームに集まり、アメリカに行きたいかどうかみんなに聞いた。長男ルーペルト(27歳)、長女アガーテ(25歳)、次女マリア(24歳)、次男ベルナー(23歳)、三女ヘートビック、四女ヨハンナ、五女マルティナ、マリアの子供ローズマリー(9歳)、エレオノーレ(7歳)。みんなヒトラーから離れたかった。
 映画では歩いてアルプスを越えたが、本当のトラップ一家は列車で離れました。北イタリアを経て、イギリスに渡り、客船で10日後にニューヨークに1938年10月に着いた。所持金は4ドルだった。一家はバッハを歌ったが、お客はポップスを待っていた。

●アメリカ
 1940年グループ名を「トラップ・ファミリー・シンガーズ」として各地のフォークソングなどを歌う公演旅行をした。しかし生活は豊かにならなかった。マリアが歌う前に観客とのコミュニケーションを図った。
 1941年12月にアメリカは第二次世界大戦に参戦した。国内は物資が統制された。トラップ一家は敵性外国人として登録された。アメリカの市民権を申請し、長男と次男は軍隊に入りナチスと戦った。コンサートは女性だけで行なったそうです。

●バーモント州ストウ
 1941年バーモント州ストウに家を建て、畑を作った。今はトラップ・ファミリー・ロッジとなっている。海外からも多くの人が訪問する。マリアさんの山荘はホテルのすぐ近くで、客の話し相手もする。毎年秋には長女アガーテさん(93歳)も来る。次女マリアさんはアコーディオンを弾いてくれましたが、とても上手でした。
 1943年ライフ誌はナチスに反対してアメリカにやってきた一家の暮らし振りを特集した。戦争中の理想的な家庭として紹介した。1945年長男と次男が無事に戦地から戻ってきた。次女マリアさんは今でも靴下を編めました。
 ロッジの庭の一角に家族の墓地がある。1947年に父が67歳で亡くなった。1948年に市民権を得たが、1956年にトラップ・ファミリー・シンガーズはその活動に終止符を打った。長男ルーペルトさんは開業医として働いた。長女アガーテさんはストウの町に幼稚園を開いた。次男ベルナーさんは農場を買って酪農家として生活している。三男のヨハネスさんはロッジの支配人となった。次女マリアさんの妹たちも家庭の主婦になったり、教会の活動を手伝ったりしている。母マリアはバーモントで暮らし、82歳で亡くなった。
 1965年母マリアが書いた自伝を元にして、映画サウンド・オブ・ミュージックが作られた。次女マリアさんは42歳の時にパプア・ニューギニアに渡り、宣教師として30年この地に暮らした。キクリさんを10年前に養子にした。今、次女マリアさんは自分たちが歌っていたオーストリアの音楽をアメリカの子供たちに伝えたいと思って歌の本を作った。Sound of Children's Music 。


テレビ番組「世界遺産 プラハ」

 2007年2月4日放送。1000年以上の歴史を積み重ねてきた古都プラハ。古くから民族のるつぼだった。スラブ、ユダヤ、ゲルマンなど周囲の国から人が流れ込む文化の交差点だった。絶えず進歩的な学者や文化人が集まり、芸術と文化の先端を行く町が作られていった。町全体が美術館ともいえるプラハ歴史地区は1992年世界遺産。

 チェコのガラス工芸が飛躍的な発展を遂げたのは500年前で、ベネチアなどから移り住んだガラス職人たちによって、特別な技法が生み出された。ボヘミアン・グラスはヨーロッパ全土に知れ渡り、当時、貴族たちの人気を独占した。

 町は9世紀に町を一望する丘の上に城が建てられた時から始まった。1000年以上の歩みの中で様々な建物が組み込まれた。城の中にある聖ヴィート大聖堂は天にもそびえる。城の中にあるのはヨーロッパでも極めて稀。荘厳な空間の奥深くに一人の王が眠る礼拝堂がある。この地にキリスト教を広めたヴァーツラフは後に聖人となり、聖ヴァーツラフ礼拝堂ができた。黄金の都と称えられるプラハは、城内にその発展の歴史が凝縮されている。ウラヂスラフホールは議会や商人の取引の場として使われ、町の繁栄に寄与した。黄金の小道と呼ばれる城内の路地。小さなあずまやは城に住む衛兵のために建てられたもの。しかしいつしかここには錬金術師が住んだという伝説が生まれ、魔法の都というイメージが加わった。

 絢爛豪華なサロンはプラハがハプスブルグ家に支配されてから作られた。やがてこの町に一大転機をもたらす一人の王が現れた。
 旧市街広場に600年前に作られたからくり付きの天文時計がある。この精巧な時計を作った人は他で作れないように、目をつぶされたという。上の円盤は太陽、月、星座の位置を示す天文時計。下は文字盤が1年で一周するカレンダーで、季節毎に行なう農作業の風景も描かれている。この時代は天動説が信じられていたが、それが時計に反映されている。
 天文学をはじめ、当時の先端学術を集めたクレメンティーメム。当時、ヨーロッパの学問、芸術の最先端をいっていた。その背景はプラハに居を構えた変わり者の王ルドルフ2世の存在があった。錬金術にものめりこんだ。当時宗教対立の真っ只中にあったヨーロッパの中で、王は宗教や政治に全く興味がなかった。そのために迫害・弾圧をうけた学者たちが各国から集まってきた。天文学者のケプラーもその一人だった。ケプラーから住んでいた部屋から見える修道院がヒントだった。「地球は楕円軌道を描いて、太陽の周りを回っている」と発表した。当時の最先端地動説に基づいた置時計がプラハに残されている。
 天体観測塔(クレメンティーメム内)にもあるように、望遠鏡の発明が天体研究を発展させた。星の動きを精密に観測できるようになった。また大航海時代の到来も天文学を発展させた。1688年製の地球儀には日本も描かれている。天才と言われたケプラーでさえ、副業で占星術の本を書いて生活の糧にしていた。ルドルフ2世は芸術ももたらした。中でも裕福な市民は音楽を熱烈に求めた。スメタナ、ドボルザークはプラハで才を育んだ。
 プラハには町ができた当時からユダヤ人が住んでいた。今はなき彼らの様子を伝える史跡がある。ユダヤ人墓地で、1.2万の墓石がひしめいている。ヨーロッパで最古のユダヤの礼拝堂もある。20世紀初め、スラムと化していたユダヤ人街は再開発で生まれ変わった。今では最高級の住宅街で、建築様式はアール・ヌーボー。

 ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココ、アール・ヌーボーなどプラハは建築様式の博物館。建物だけでなく、橋も見事です。
 ベルトラムカ荘で220年前にモーツァルトは「ドン・ジョバンニ」を作曲した。
 市民会館はアール・ヌーボーの花。スメタナホールではヨーロッパ有数の音楽祭プラハの春が催される。いくつものホールがあり、チェコを代表する芸術家達が総力を上げて作り上げたもの。20世紀初めのチェコは独自の文化を作り出そうという気運に満ち溢れていた。
 そうした芸術家の一人にアール・ヌーボーの旗手アルフォンス・ミュシャがいた。プラハ城内のステンドグラスもそう。スラブ民族の文化を世に知らしめたいと、その生涯を祖国のための作品制作に捧げた。そうした中、プラハ独自の建築様式も誕生した。ピカソに代表されるキュービズムを建築に押し広げたもの。世界中でこの町だけ。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 オーストリア・ザルツブルク」

 2006年12月16日放送。鬼頭あゆみさんが案内。モーツァルトはこの町に1756年に生まれ、この町を有名にした。生誕250周年。

●ザルツブルク
 町は7世紀以来繁栄した。ウィーンの西300km。ザルツァッハ川はドナウ河に続く川から船でザルツブルクに入ると、丘の上にお城が見える。旧市街が世界遺産で、半月形。周囲4kmにも満たない小さな町。町に入ると音楽の都だけあって音楽が聴こえる。モーツァルトの曲は人気がある。グラスハーモニカを演奏している人がいた。18世紀の楽器で、「グラスハーモニカのためのアダージョ」をモーツァルトも作っている。
 ヘルブルン宮殿は17世紀の建築。水の庭園には大理石のテーブルとベンチがある。椅子から水が噴出しました。水の噴射で宙に浮かぶ金の王冠もある。
 小高い丘の城は町のシンボルのホーエンザルツブルク城。城の周囲は700mでヨーロッパでも最大規模。11世紀に最初に建てられ、600年かけて増築された。大砲は30門、城の中には1000人の人が1年篭城できるだけの食料もあったという。歴史上一度も攻め落とされたことがない難攻不落の城。
 ザルツブルク大聖堂は旧市街に16ある聖堂の中で最大。作られたのは8世紀で、火災などで再建されたのは18世紀。ドームの高さは71m。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂を真似て作られた。柱や天井はフレスコ画や化粧しっくいの飾りで色どられている。当時ヨーロッパで流行した豪勢なバロック様式。5つのパイプ・オルガンがある。右の方にあるパイプオルガンはモーツアルトが弾いていたもの。日曜にはミサが開催され、遠くからの人も来る。この日は「ミサ・プレヴィス・ヘ長調」(K.192)が総勢50人で演奏されていた。

 モーツァルトの生家も残されている。モーツァルトの愛用した楽器もある。交響曲第25番ト短調(K.183)は映画「アマデウス」で使われた。「ディベルティメント ニ長調」(K.136)など、800曲中の半分はザルツブルクで作曲された。
 国際モーツァルテウム財団のウルリヒ・ライジンガーさんに資料庫を見せてもらった。モーツァルトが書いた楽譜があるが、全く違う2つの作品が1枚の楽譜に書かれている。
 レジデンツ宮殿は大聖堂の隣にある。17世紀に建てられたもので、世界遺産に登録されている。モーツァルトが6歳の時に演奏した部屋がある。呼んだのはザルツブルク大司教だった。教会の最高指導者であり、ザルツブルクの領主でもあった。ザルツブルクは教会国家だった。大司教は専属の音楽家を多く抱えたが、モーツァルトは13歳で楽団のコンサートマスターとなった。15歳の時に書いた楽譜がそれだった。この楽譜では鍵盤楽器の曲を書き始めて、一番下に宗教音楽を書いている。モーツァルトは大司教の命令で急いで下の曲を書き上げないといけなかったのだろうとウルリヒさんは語る。上の曲は「フラグメント 1771a 」で、舞踏会などで使われたものだろう。下の曲は「聖墓の音楽」(K.42)で、大聖堂で演奏されたもの。こういう全く違うタイプの曲を同時に作っていたことがわかる。これは大司教が政治と宗教に両方関与していたからだろう。
 ミラベル宮殿は世界遺産。映画「サウンド・オブ・ミュージック」に使われた。大理石の間はモーツァルトも演奏した部屋。今では世界一美しい結婚式場と呼ばれ人気を集めている。

 ザルツブルクはハプスブルク家などの領土に囲まれていたが1000年以上も独立していた。理由は塩。ザルツブルク国立資料館のフリッツ・コラー館長が説明してくれた。まず案内したのは旧市街にある古い建物で、800年前からのパン屋さん。このパンの上には塩がのっている。ザルツブルグという名前も「塩の城」という意味。

 旧市街から南に20kmのハラインという町に行った。山々は全て塩の鉱山で、岩塩の層が広がっている。牧草地の下が鉱山。3500年も前から塩の採掘が行なわれていた。塩の鉱山の近くでケルト人の墓がある。ケルト人は紀元前に食料や鉱物資源を求めて中央アジアからヨーロッパにやってきた。
 今でも塩は採掘されている。15分でトロッコに乗って3000mトンネルの中を鉱山に行ってみた。終点から梯子で上に上がると鉱山。空気がしょっぱいがおいしいそうです。ピンク色に見えていますが、純度95%と高品質。岩は全て塩の塊。16世紀のトンネルの地図が残っているが、総延長15km。当時、塩は「白い黄金」と呼ばれていた。食用だけでなく、肉や魚の保存にも使われていたが、ザルツブルグでは大司教がその所有権を持っていた。最盛期は年間3.7万トン生産していた。今の価値で数百億円に相当する。長さ1mの60kmの塊はフーダと呼ばれていた。クリスマスのプレゼントにモーツァルトもフーダを1本もらったことが記載されている。

 塩によって蓄えられた莫大な富がホーエンザルツブルグ城に残されている。「黄金の小部屋」は16世紀の始めに大司教が貴族や客人をもてなすために作られた。豪華なマヨルカ焼きの暖炉は特注品。そこにザルツブルグを開いた初代の司教も描かれていて、手には塩の入った壷を持っている。
 塩を守るために司教は町の防衛にも気を配り、壁を作り、兵隊を雇った。旧市街には城壁や砦の一部が残っている。17世紀に30年戦争でスウェーデンに攻められた時も、この城壁・前の川・後ろの山が町を守った。

 1800年にナポレオンが侵攻し、恐れをなした大司教は逃亡した。1816年ザルツブルグはハプスブルク領となった。塩の採掘権も奪われた。
 1841年、市民が自らのお金で音楽教育の場「モーツァルテウム音楽大学」の前身を作った。今年新校舎が完成した。指揮者カラヤンを始め、多くの音楽関係者が巣立った。今はウィーンと並び、音楽の都として栄えている。
 楽器を作っている人もいる。バイオリン職人のアドリアン・エルシェクさんはスロバキアからやってきた。ここに工房を開いて8年になる。子供たちはまるでオモチャと遊ぶように楽器と戯れていた。

 モーツァルトの楽譜が無料でダウンロードできます。
http://www.mozarteum.at/


テレビ番組「山本耕史とたどる モーツァルトへの旅」

 2006年12月11日放送。山本耕史さんがモーツァルトの手紙をもとにして旅をした。1778年9月11日の手紙に「旅をしない人は哀れだ」と書いている。NHK製作。

●ザルツブルグ
 アルプスの山々に囲まれたオーストリアの美しい街が生誕の地。町の広場にはモーツァルト像が誇らしげに立っている。訪問した日は有名なザルツブルグ音楽祭の最中だった。特に今年はファンの熱気が凄かった。今年は1ヶ月の祭の間にオペラ22作品を全て上演するという史上初の試みが行なわれた。その一つ「フィガロの結婚」を鑑賞した。演奏はニコラウス・アーノンクールがウィーン・フィルを指揮した。プリマドンナはアンナ・ネトレプコ。

 生家に行ってみた。4階でモーツァルト一家は暮らしていた。ガイドはエリザベート・ラートさん。この家は中世に建てられ、モーツァルトの時代のまま保存されている。床は大理石、天井もその時のままで、台所は黒くなっている。ピアノのある部屋もある。部屋の片隅にモーツァルトが弾いていたクラヴィーアが置いてあり、弾かせてもらった。最初の作品は5歳の「クラヴィーアのためのアンダンテ」(K.1a)。父レオポルドが書いたバイオリン教典が残っている。当時大評判だったそうです。ロシア語のものも展示されています。

●ウィーン
 6歳でウィーンに演奏旅行に旅立った。ハプスブルグ家の都で大評判となった。皇帝の耳に達し、マリア・テレジアが18世紀に豪華に建築したシェーンブルグ宮殿の「鏡の間」で演奏した。最後に訪れた部屋のマリア・テレジア?の肖像画の右に「ハプスブルグ家の皇太子の結婚式」の時の音楽会の様子を描いたものがある。実際にはいなかったのだが、有名人の一人として絵の中の右の方の中央に描かれた。

●旅
 パリ、ロンドンなど3年半かけて延べ88都市を巡り、演奏会を催した。当時は馬車の旅で悪路を走るので厳しいものだった。夜の間は一分として眠れなかった。座席は石のように硬いと書いている。
 13歳になってイタリアに向かった。14歳で自作オペラを上演し大成功した。音楽の本場で音楽を吸収して帰国した。

●ザルツブルグ
 帰国して新しい家に引越しをした。ここでしばしば演奏会を開いた。この家の地下にゆかりの資料が大切に保管されていた。普段は見ることができないが、モーツァルテウム図書館長のジュヌヴィエーヴ・ジェフリーさんが案内してくれた。8歳の時の直筆の楽譜の一つ「クラヴィーアのためのアレグロ」(K.5a)がある。モーツァルト一家の手紙もある。
 大司教コロレドは音楽家を召使同然にみなしていた。21歳で宮廷楽団を辞職し、母と旅に出るが就職活動はうまくいかなかった。

●マンハイム〜パリ〜ミュンヘン
 アロイシア・ヴェーバーに出会ったが、父の反対でパリに向かった。かつては神童モーツァルトと騒がれたが、今の青年モーツァルトには冷たかった。その中で母が死去。ミュンヘンに移っていたアロイジアの元にやってくるが、歌姫として成功していた彼女はモーツァルトに見向きもしなかった。失職、母の死去、失恋でボロボロになって帰国した。

●ウィーン
 1781年春、大司教コロレドはウィーンにモールァルトを呼び話しあったが、決裂し、モーツァルトはウィーンで暮すことを決意した。そして父とも見解の違いがはっきりした。
 18世紀はハプスブルグ家が栄えていて、音楽家が集い、毎日のように演奏会が上演され、オペラも盛んだった。モーツァルトはフリーランスで出発した。まず士族のピアノの教師となり、演奏会も人が多く集まり、音楽家モーツァルトの名前は広まった。モーツァルトはアロイジアの妹のコンスタンツェと結婚した。
 中心地の広場から一歩入った細い路地にモーツァルトが暮らした当時の高級住宅「モーツァルトハウス」が復元されて残されている。ここでフィガロの結婚を書いた。ここの2階で2年半を過ごした。モーツァルト研究家のフェリックス・シュタインバントネルさんが案内してくれた。彼は一晩で2000グルゲン?を稼いだが、これは当時の国の上級クラスの役人の年収に相当した。当時は羽根ペンを使っていたので、書くのが大変だったのに、繊細で美しく、1日に6ページ書いていた。フィガロの結婚の楽譜の一部?が展示されています。このオペラは貴族社会を揶揄した戯曲を選んで書いたもので、上演は危ぶまれたが、成功した。

●プラハ
 ウィーンの人よりもはるかな熱狂で「フィガロの結婚」を迎えた。モーツァルトはこの町を愛した。みんながフィガロを愛していた。フィガロの結婚が上演されたスタボフスケー劇場が今も残っている。モーツァルトがここで指揮をしたが、実際に指揮をした劇場で残っているのは、ヨーロッパでここだけだという。劇場ガイドのヨセフ・ボンドルシュカさんが案内してくれた。この劇場は古典様式で建てられていて、本当に美しい。金色のプレートの場所に立って指揮をしたそうです。昔はヨセフさんはここで指揮者をしていたそうです。
 街中でジャズを演奏している人がいた。形に縛られないのびのびしたモーツァルトの音楽をこの町の人が愛した理由がわかるような気がした。
 文化複合施設「クレメンテイメム」も、モーツァルトの足跡が残っている場所。16世紀からの書籍が残されている図書館も豪華だが、モーツァルトが亡くなる前に残した言葉が書かれた「ニーメチェクの伝記」がある。
 ここを出て5年後にモーツァルトは亡くなった。

●ウィーン
 アウエルスペルク宮殿はかつてモーツァルトが演奏会を開いていた宮殿。当時はこうした貴族の館で演奏会を開いて冨と名声を得ていた。しかしプラハからの帰国後に聴衆はどんどん減っていき、演奏会は開かれなくなった。
 1788年オーストリアが隣国トルコと衝突した。王や貴族たちは戦争へ多額の出費を余儀なくされ、夜毎の華やかな宴が姿を消した。モーツァルトは借金に頼るようになり、晩年の手紙は借金の依頼が多かった。

●バーデン
 妻のコンスタンツェが足の病気にかかり、通ったのがバーデン。温泉が湧く保養地。借金を抱えたモーツァルトの大きな原因はコンスタンツェのバーデンでの浪費だったという。
 コンスタンツェを見舞うためにモーツァルトが通っていた聖シュテファン教会で、一つの曲を書き、ここで初演していた。壁に自筆の楽譜がある。聖歌隊のアントン・シュトルにこの曲を捧げたという。コンスタンツェを宿泊させ、たいへんよく世話をしてくれたお礼だった。バーデンの合唱団は代々この歌を歌い、歌い続けてきた。

●ウィーン
 1791年はモーツァルトの最後の年となった。春に新しいオペラに挑戦した。ドイツ語のオペラ「魔笛」だった。9月30日アン・デア・ウィーン劇場の前身の劇場で魔笛が上演された。台本を書いたのは旅周り一座の座長シカネーダーだった。興業的にも大成功だった。劇場近くの木造の粗末な小屋で魔笛を作曲したが、その小屋は今は移築されている。
 夏頃から体調を崩し、急速に衰弱していった。モーツァルトは死者のためのミサ曲「レクイエム」を書いていた。アルベルティーナ美術館には特別にレクイエムの直筆譜が展示されていた。途中から他の作曲家が続きを書き加えていた。完成させられなかった無念さがひしひしと伝わってくる。この楽譜には彼の魂の一部があることを感じています、とオーストリア国立図書館音楽部長のトーマス・ライプニッツさんは語る。
 1791年11月20日モーツァルトは再起不能の病床につき、12月5日午前0時55分に亡くなった。義理の妹のゾフィーが回想している。

 聖マルクス墓地に葬られたが、共同の埋葬場所に埋められたので、正式な場所はわかっていない。死後15年後に記念碑が建てられた。ここには今も花が絶えることはない。


テレビ番組「モーツァルト生誕250年目の真実」

 2006年11月3日放送。平成18年度文化庁芸術祭参加作品。東山紀之、雨宮塔子さんが案内。第一生命105周年記念番組。日本テレビ製作。

●モーツァルト
 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト Walfgang Amadeus Mozart(1756−1791)は生誕250年。35年の生涯に800曲を残す。5歳の時の「メヌエット」K.1、8歳の交響曲第一番(K.16)、11歳の交響曲6番(K.43)、アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク(K.525)、ピアノ協奏曲第20番(K.466)、フィガロの結婚(K.492)、交響曲第40番(K.550)などの名曲を作った。ブラームスは「すべて私には奇蹟だ。これほど完璧な音楽を生み出す人間がいるなんて理解できない。あんな作品は誰にも書けなかった。ベートーベンにさえ」と語っている。アインシュタインは「彼の音楽は、宇宙に昔から存在して彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ。」と語っていた。内田光子さんは「惹かれる理由は優しさだ」と語る。

●ウィーン
 10月13日、ウィーン最古の劇場アン・デア・ウィーン劇場では、215年前に初演されたモーツァルトのオペラが新たな装いで現代に蘇った。K620「魔笛」だった。

●ザルツブルグ
 中世の香りを残すモーツァルトの誕生の地。18世紀は新生児の2人に1人は死んでいく劣悪な衛生状態で、モーツァルト家も7人のうち生き残ったのは、5つ上の姉ナンネルと末弟のウォルフガングだった。1756年1月27日に誕生。ザルツブルグ大聖堂で洗礼を受けた。洗礼名簿にはテオーフィルスとなっているが、後にギリシャ語のテオーフィリスをラテン語に読み替えてアマデウスと自ら名乗るようになった。アマデウスとは「神に愛されし者」という意味。ゲトライデ通り9番地に生家がある。今は博物館となっているが、17歳まで過ごした部屋がある。

●モーツァルト
 天才の条件とは何だったのか?母マリア・アンナは楽天的だったという。父レオポルトの家系は製本?の職人で、宮廷楽師となった父レオポルトが突然変異に近かった。しかし、楽師仲間は凡庸な人物だったと思っていた。楽師としての生活は豊かではないが、家庭には音楽が溢れていた。頻繁に家庭でヴァイオリンの練習や音楽界が開かれていた。レオポルトは姉に教則本を書いているが、彼の友人は「教育者としては稀に見る天分の持ち主だった」と語っている。レオポルトは昇進できなかったので、情熱を子供の教育に向けた。父から姉がクラヴィーアの手ほどきを受けるのを横で見ながら、モーツァルトが弾き始めたのは3歳の時だった。4歳から本格的なレッスンを受け、見る間に能力を発揮した。5歳で作曲し、父は世間にモーツァルトの姿を見せることを決めた。
 ハプスブルグ家の都ウィーンで、目隠しをしてクラヴィーアを演奏し拍手喝采を得た。6歳の時鏡の間でマリア・テレジアに演奏を見せた。8歳で交響曲を書き、11歳でオペラの第一作「アポロとヒュアキントス」(K.38)を書いた。後に多い時は年間60曲作曲した。妻コンスタンツェは「私が手紙を書くよりも早く曲を書いた」と語っている。楽譜数は推定2.5万葉(表・裏)で、CDは180枚分、総演奏時間184時間分。
 まるで最初から曲が頭の中でできあがっていたかのような自筆の楽譜は、書き直しの形跡がない。小さい時から褒められたことが効果が大きかったのかもしれない。さらに「100回の練習より1回の本番」というように、現場で演奏をしていたというのが大きかったかもしれない。

●ローマ
 ヴァチカンにもエピソード残っている。サンピエトロ寺院のシスティーナ礼拝堂で1770年、14歳のモーツァルトは人々を驚嘆させた。カサナテンセ図書館に残っている楽譜は、聖歌「ミゼレーレ」の楽譜で、システィーナ礼拝堂でしか歌うことは許されなかった。モーツァルトの時代は外に持ち出せなかった。9つの音階の合唱が続く複雑な楽譜で、何人もの音楽家が挑戦して誰もなし得なかった。モーツァルトはたった1度聴いただけで、全曲を譜面に書き写してしまった。全曲12分以上。

●現代のモーツァルト
 アメリカのジャズ・シーンで天才と呼ばれる少年がいる。マット・サヴェッジ(14歳)は6歳でピアノを弾きこなし、7歳で作曲、8歳でプロデビューし、既に8枚CDを出している。チャカ・カーン、チック・コリア、ケニーGなどともセッションしている。
 北東部の町マンチェスターに彼の家を訪問した。両親は牧畜業。1日8時間ピアノの前に座っているそうです。両親は子供の才能に気が付き、ボストンのニュー・イングランド音楽院に通わせた。ここでジャズと出会い、7歳で作曲の方法も学んだ。当時の担当教師だったエラン・カッツエレンバーゲンさんは天才と言えると語った。8歳で書いた Forty-seven は幼い譜面だが、書き直しがない。今はコンピュータを使って作曲している。日本の曲「花」を1度聴いてもらって、ピアノで再現できるか試してもらったが、ちゃんとできました。

 ハーバード大医学部ゴットフリード・シュラーグ教授は、優秀な音楽家と普通の人の脳の違いをみると、音楽家はまず左右の脳をつなぐ脳梁の前方が大きくなっているという。メロディーの理解という情緒的な作用を右脳、リズムや拍子の分析を左脳で行なう。モーツァルトがミゼレーレを聞いて覚えたのは、絶対音感ができていたからだという。絶対音感は音楽教育の開始が早ければ早いほど出て来る。3−4歳で始めると絶対音感を得る可能性は50−60%だが、8−9歳では5−10%でしかない。音楽家は聴覚をつかさどる側頭葉の内側の側頭平面が左右非対称で、左が大きく、右が小さい。訓練がもたらした結果としか言いようがないそうです。
 天才的な面は、「どんな小さな子供であっても、自分から進んで練習するという特質」、「自分の技術を卓越したものにしたいという強い衝動」だそうです。ドーパミンによる強化学習だろう。

●モーツァルトの旅
 旅は17回、期間は10年2ヶ月に及ぶ。父レオポルトはこの町にいたのではダメだと思い、ヨーロッパ各地を渡り、子供にいろいろな音楽を聞かせ、いい就職先を探した。ミュンヘン、フランクフルト、ブリュッセル、パリ、ロンドンと移動した。13歳の時、母にはこの旅が面白いと書いている。パリでは世界的なピアニストのヨハン・ショーベルトから最先端の鍵盤演奏法や作曲法の教えを受けた。産業革命の始まったロンドンでは大バッハの息子ヨハン・クリスチャン・バッハから旋律法の手ほどきを受けた。しかし延べ2万kmの旅は過酷だった。当時の旅で最も恐ろしいのは、劣悪な衛生状態からくる病気だった。リューマチは彼を死ぬまで苦しめた。
 マサチューセッツ大学の心理学部のセリア・ムーア教授は、「旅により脳はその環境の変化に適応しようと活性化する。主に脳内の海馬や扁桃体だと言われている。新しい神経回路ができ、それが創造性につながる。さらにひらめきが生まれる。」と語る。さらに旅によりいろいろな地で受け入れられる普遍的な音楽になったと思われる。
 14歳から17歳くらいの3回の旅は、ザルツブルク、インスブルック、ヴェローナ、ミラノ、パルマ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマ、ナポリへの旅だったが、就職はままならなかった。そのことが微妙な旋律への陰影になったようだ。17歳で作曲した交響曲第25番(K.193)もその例で、映画「アマデウス」のテーマとして使われた。特に15歳で帰国した際に、音楽活動に理解のあったシュラッテンバッハ大司教が急逝し、新たに就任したヒエロニムス・コロレド大司教は音楽に全く興味を示さず、モーツァルト親子は冷たく扱われた。
 イタリア・ボローニャで最大の師と出会った。聖ドメニコ教会に14歳でやってきた。演奏を披露し、本場の音楽家たちをあっと驚かせた。その時モーツァルトが弾いたオルガンが今も残る。アカデミア・フィラルモニカ(楽友協会)の会員でもあったマルティーニ神父は天才ぶりを見抜き、様々な音楽理論を手ほどきした。アカデミアの認定試験に最年少で合格した。マルティーニ国立音楽学院は神父ゆかりの学校で、東山さんは日本からのの留学生・太田有香さんに話を聞いた。
 イタリアのミラノのスカラ座の前身では念願だった、14歳で作曲した「ポント王ミトリダーテ」(K.87)が公演された。
 旅の終わる頃に小さなサロンで演奏するような「ディヴェルティメント、ニ長調K.136」(16歳)などが生まれた。
 17歳〜21歳までは田舎の宮廷楽師として郷里に縛られた。17歳からはザルツブルグの旧市街のタンツマイスターハウスに住んだが、最近修復された。この4年間にモーツァルトらしい名曲が作られ始めた。20歳のセレナード第7番「ハフナー」(K.250)など。
 1778年?コロレド大司教から次の就職旅行の許可が下りた。母とドイツからパリに旅立った。ドイツのアウグスブルグで運命的な楽器に出会う。ピアノフォルテ(ハンマークラヴィーア)で、音色や音の強弱などを改良したピアノの前身。21歳でピアノソナタ第8番(K.310)などを作曲した。ここで従姉妹のマリア・アンナ・テークラ(通称ベーズレ)と出あった。旅先から手紙をたくさん書いているが、このベーズレ書簡はモーツァルトの尊厳を壊すという意味で長く封印されていた。マンハイムで出会ったオペラ歌手アロイジア・ウェーバーに恋に落ち、母も捨ててイタリアに旅した。父は怒り、モーツァルトは父の忠告を受け入れパリに向かった。しかし、15年前とは違っていた。社交性がないためだったようだ。1778年旅先で病気になった母が亡くなった。葬儀は聖トゥスタンシュ教会で行なわれた。音楽はこの頃のは、交響曲第31番ニ長調「パリ」(K.297)のように明るい。
 内田光子さんは「彼は人間の喜怒哀楽を本当に音に移し変えることができた。」と言う。ギャップがあるのが天才かもしれない。モーツァルトは映画アマデウスに見られるような性格だった。長嶋茂雄はプレーは天才的だが、言語がおかしい。そういうのがあるのではないか?と茂木健一郎さんは語る。

 旅から帰ってザルツブルグの宮廷楽師となり、作曲に力をこめた。トルコ行進曲(K.331)などがある。そして25歳で、コロレド大司教とウィーンのドイツ騎士団教会で会談し、決別した。
 オーストリア国王ヨーゼフ2世に認められた。ウィーンのブルク劇場でオペラ「後宮からの誘拐」(K.384)などを上演した。アロイジアの妹コンスタンツェと1781年26歳で結婚した。1782年には60曲作った。日に4時間しか机に向かっていなかったと言われている。交響曲第38番「プラハ」(K.504)はわずか4−5日で書き上げた。映画「みじかくも美しく燃え」のテーマとして使われたピアノ協奏曲第21番(K.467)、ピアノ協奏曲第23番(K.488)などがある。子供も4人恵まれた。住まいの一つはモーツァルト・ハウスと呼ばれている。ここで30歳での歌劇「フィガロの結婚」(K.492)が生まれた。許す、許してほしいという願いがこめられていると内田光子さんは語る。指揮者の金聖響さんはモーツァルトの音楽には思想、哲学的な話が盛り込まれているのに、多くを語らないと言う。

 1783年長男ライムント、86年には3男ヨハネ・トーマスが死去。1787年5月父レオポルトが死去。1988年悲しみを越えてオペラ「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)が生まれた。父の終生の期待に応えられず、裏切ってしまった罪悪感が出ている。地獄にひきずりこもうという騎士長は死の影であると言われている。貴族たちはモーツァルトの音楽は自分たちを馬鹿にしていると反発した。時期はフランス革命前夜。88年長女テレージア、89年次女アンナが死去。90年最大の保護者の国王ヨーゼフ2世が死去。妻コンスタンツェが病で精神のバランスを崩し、療養を必要としていた。友人にはお金をたくさん無心していた。療養中のコンスタンツェは浪費を重ねた。ピアノ協奏曲第27番変ロ長調(K.595)は演奏会ができなかった。
 1791年夏に主人の使いだと言う男がレクイエムの作曲の依頼に来た。匿名にしてほしいという依頼にモーツァルトは自分の死の影を予感する。9月歌劇「魔笛」(K.620)が完成した。あとはレクイエムの作曲だった。
 「私は自分の才能を十二分に楽しむ前に終わりにたどり着いてしまいました。人生は何と美しかったことでしょう。でも人は自分の運命を変えることは叶いません。」と最後の手紙となった、劇作家ダ・ポンテへの手紙に書いている。
 レクイエム(K.626)の第3曲「涙の日」(ラクリモサ)の途中でペンが止まった。1791年12月5日35歳で亡くなった。亡骸は馬車で聖マルクス墓地に運ばれ葬られた。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 世界遺産と生きる人々」

 2006年11月25日放送。NHK製作。

●マダガスカル
 ツィンギ・ド・ベマラハ厳正自然保護区。生き物をよせつけない高さ100mに及ぶ岩の摩天楼。石灰岩の岩山が長年の雨水の浸食をうけて作られた風景。水沢蛍さんが案内。岩の隙間に素焼きの土器がった。ここにも人が住んでいた。ヴァジンバ族の人が今も麓に暮す。ツィンギからは50種類もの薬草が手に入る。マラリアも治すという万能薬もある。針山にはシファカと呼ばれる小さなサルが生息している。地下に洞窟があり、水が流れていて、乾季でも枯れることはない。

●カッパドキア
 石灰岩の侵食によって作り上げられた幻想的な光景。地中へと続く竪穴や横穴が無数にある。もっとも深いところでは地下80mに達し、地底都市は30を越えると言われる。今も岩山を掘った中で暮らしている人がいる。末吉美紀アナが訪問した。冬は寒いが、夏は涼しくて快適だそうです。
 アルカリ性なので、植物は育たないとされるが、ぶどうはそういう土地だから栄養を体内に貯めておこうとする。それで味わい深いぶどうができる。

●ボリビア
 標高3800mの高原にある都市遺跡ティワナクは紀元前2世紀から1000年以上に渡って栄えた壮大な古代文明。緻密な石組みの技術は後のインカ帝国に影響を与えた。伊藤雄彦さんが案内。古くから住むアイマラ族の村を訪ねた。じゃがいもは地面に置いたままにする。日中は15度、夜は氷点下で、気温差は最大30度にも達する。凍って溶ける、これを足で踏んで、じゃがいもの毒を出す。これから100年はもつという保存食チューニョができる。食べる時は水で戻し、スープに入れて煮込む。

 チチカカ湖の真中にあるのは島ではなく、草でできた浮島。この湖にはこうした島が58あり、2000人が暮らしている。浮島はトトラという植物でできていて、1ヶ月に1回新しいトトラを追加する。夜は寒さが防げるためのようです。魚の宝庫で、石の上で焼くのが伝統。

●ウィーン
 シェーンブルグ宮殿はハプスブルグ家が18世紀半ばに完成させた。部屋の数は1141もある。水沢蛍さんが案内。女帝マリア・テレジアは莫大な富と圧倒的な力を誇示した。舞踏会に使われた大ギャラリー。インゲボルク・リンデックさんが案内してくれた。観光客が入れない特別な場所は、宮殿の最上階にある部屋、ここにリンデックさんが住んでいる。1918年ハプスブルグ帝国の崩壊と共に宮殿はオーストリア新政府の手に渡った。その時に多くの部屋が住宅難に苦しむ市民に提供され、今でも250世帯が賃貸で生活している。マリア・テレジアが作った世界初の動物園も今でも人気。あとは庭園が住民の散歩コースとなっている。

●バルセロナ
 サグラダ・ファミリア贖罪教会は、天才アントニ・ガウディの代表作。1883年に建設が始まり、120年以上が過ぎた今も工事が続けられている。バルセロナではガウディが作った7つの建物が世界遺産、うち4つは住宅。石井麻由子さんが紹介。
 カサ・ミラは1910年に建築された地上6階の建物がアパートになった。地元の人は「ラ・ペドレラ(石切場)」と呼んでいる。洞窟のような入口。中には吹き抜けが作られている。一つとして四角な部屋はない。クレメンティーナ・リスカノさんのお宅を見せてもらった。打ち寄せる波のような曲線が天井にある。ガウディは家の環境が人を育てると信じていた。

●オランダ
 1平方kmの平原に19の風車がある「キンデルダイクの風車群」。高さ18m、250年前の創建当時と変わらない佇まい。風車の中では水車が回っていた。オランダは国土の4分の1が海面より低いので、水車は水位が上がって川の水が溢れそうになると汲み上げて排出し、農地や牧草地を守ってきた。岡田理江さんが案内。
 コック・ファン・デン・ベルクさんの風車(お宅)を訪問した。入るとすぐにキッチンと台所。5階建で、風車が回りだすと大きな音がするそうです。電気式のポンプは停電になると使えなくなるから風車は必要だそうです。風車の位置は360度回転する。布をかけるのも大変な作業。強すぎてもいけないし、弱くてもいけないそうです。

●ハバナ
 旧市街が世界遺産。ハバナは16世紀〜19世紀はスペインの支配下にあり、バロック建築が数多く残っている。かつての大邸宅を改造して20世帯の家族が住んでいた。1DKの細長い室内でした。岡田理江さんが案内。19世紀にアフリカから70万人の奴隷が連れて来られた。砂糖の生産のために強制労働させられた。その中で祈りの儀式が重要となり、太鼓の音楽が心を癒した。19世紀末にスペインの植民地支配が終結し、人々はハバナに集結し、新たな音楽が発生した。融合した音楽は「ソン」と呼ばれた。そこからさらに多彩な音楽が生まれた。

●インド・ダージリン地方
 ダージリン・ヒマラヤ鉄道は世界遺産。120年以上続く世界で最も古い山岳鉄道の一つ。わずか2両編成で高低差2000mを走る。19世紀末にイギリスが造った。当時は細く険しい山道を通るしかなかった。当時は牛車や籠に乗って行き来していた。イギリスは紅茶の栽培を始めた。これを安全に大量に運ぶために、1881年開通した。20世紀半ばインド独立後、車社会到来で、トラックに代わった。沿線の住民たちは思わぬ利用法を考えた。通学の際に子供たちは駅でもないところから飛び乗る。伝統を引き継ごうとしている若者はミラージュ・ビスワカルマさん17歳。


テレビ番組「ズームイン!世界の絶叫マシーン、一番怖〜いの決定戦 2005」

 2005年9月23日放送。世界の絶叫マシンは1万3000台。7つのエリア(USA、オーストリア、ニュージーランド、UAE、ドイツ、インド、フロリダ)にわけ、世界で一番恐いマシンを選ぶ。出演は極楽とんぼの山本圭壱、ペナルティ。司会は今田耕司、羽鳥慎一アナ、西尾由佳理アナ。審査員は江守徹、杉田かおる、花田勝、加藤夏希、ビビる大木。日本テレビ製作。

●オーストリア・ウィーン
 メリーゴーラウンドは本物のお馬さんが回っている!日テレの鈴江奈々アナが調査した。プラーター遊園地の初級編はボラーム。うつぶせのまま螺旋状で登り、猛スピードで走る。上級編はターボブースト。時計の針のように回転する。その先に乗るが、そこでも回転する。時速110km。このダブルくるくるでピスタチオがどうなるかを測定したら、全て豆から出ていました。これに乗ってみると、すごいくるくるです。さらに次のお客が乗る際は、一番高いところで止まったまま30秒とか。その後は逆方向にさらにすごいくるくる。着地前でさえすごく回転していました。

●アメリカ
 馬場典子アナが調査。世界一のブランコはカリフォルニアの「ナッツベリー・ファーム」にある「スクリーミング・スィング」で、高さ18mの塔が単に建っているだけに見えるが、振れ始めると時速100kmになる。オーマイゴッドと5回以上叫ばせるマシンが怖いマシンと思われる。90度になった時に時速100km、130度まで高くなりました。
 コロラド州の「ロイヤル・ラッシュ・スカイコースター」は、宙吊りで高さ30mの上空から振り子のように空中でブラブラと遊泳できる。どこが世界一かというと、目の前が高さ350mの断崖になっている。
 世界一のスピードはニュージャージー州の「シックス・フラッグス・グレート・アドベンチャー」に今年登場したマシン。3つの世界一を持つ。高さ139mと世界一(40階のビルに相当)、時速206kmで3.5秒で上昇したかと思ったら、落差127mで急に落ちる「キンダカ」。逸見愛さんが挑戦した。顔が変形していました。
 世界一のグルグルはラスベガスのストラトスフィア・タワーは350m。この塔の上の外側で横に回転しているマシン「インサニティ」がある。乗ると柵が外側に倒れ、マシンが外に出ていってから回転を始める。足元に何もない恐怖だけではなく、どんどん下を向いていき、ほとんど真下を見る格好になる。

●インド
 ペナルティが挑戦した。デリーから車で1時間の街にお祭り騒ぎになるという。8月15日はインドの独立記念日で、空には凧がクルクルとんでいた。そこの公園に絶叫マシン「メリーゴーラウンド」が置いてあったが、違った。そのオーナーのところにあるという。広場で翌日に組み立ててくれたのは、「バルチェ・ヒンドラ」という観覧車で、頼りない。屋根も安全ベルトもなくさびだらけ。人力で回すが、結構高速回転します。ペナルティも気分が悪くなりました。

●ドイツ
 山下美穂子アナが調査した。ドイツはジェットコースター界の革命王と呼ばれている。1975年世界初の1回転コースターを開発。今回は世界初の高所360度ひねり。畑の真中にそびえるマシン「スカイウィール」は「スカイライン・パーク」の中にある。地上48mで横に1回転ひねられている。しかもレールが風で揺れていて、支柱がない。ベルトは腰に当てるだけ。自由に動くちくわを置いて、どう変化するかも調べた。ゆっくり上がっていって、少しゆっくり目に360度ひねってから、勢いで急降下しました。あがってもう一度360度ひねってから急降下し、かなり登ったところから、逆方向に高いところまで登り、また前に進行して高いところで止まり、そこからゆっくりスタート地点に戻りました。

●フロリダ
 大気圏突入体験マシンはタンパベイの「ブッシュガーデン」にある「シェイクラ」で、ジェットコースターでは初めて2度も垂直落下する。全長は972mで、3分間の体験で、1回目は地上61mから、2度目は穴の中に突入し、最後は水を飛ばす。落ちる直前に止まり、落ちる時は4Gの力がかかる。
 山本圭壱さんが挑戦。オーランドらしいが、工事現場のように2本のクレーンが立っているが、その間が世界最強の逆バンジー「スリングショット」。高さ115mと世界一で、座席は完全な剥き出し状態。少し下に下がってからドーンと115mまで上がります。その後は何度か上下しますが、回転していました。

 宇宙体験マシーン「Zero Gravity」は1回約41万円。NASAの人と同じように青い服を着て行なう。まずホテルで説明会があり、40人が参加。次に全員に酔い止め薬 Dramamine が配布され、吐く場合の汚物入れも配布された。
 Zero-Gと書かれたジェット機が止まっている。1万mを目指して上昇していく。全員起立して、床に座って横になる。3分前。30秒前。急に地面に吸い寄せられる感じになり体が重たくなる。そして全員が空中を遊泳した。これが30秒続き、また機体が上昇し重力が2倍になり、床に押し付けられ、再度、無重力になる。山本さんは無重力状態で水を飲むことに挑戦。4度目の無重力状態で成功!

●ニュージーランド
 伝説のアナウンサー若林健治は、2003年にスタン・ハンセンが放送席のモニターを奪おうとしたのを阻止して伝説となった。
 クィーンズタウンの山奥の「キャニオン・スイング」は落差109mで、さらに時速150kmでスイングする。下はショットオーバー・リバー。頭からゴミ箱をかぶって落ちるコースもある(笑)場所に行くと「へい、いらっしゃい」と日本語で言われた(笑)
 残酷度No.1は「チェアー」で椅子に縛り付けられて、後ろ向きで落とされるもの。「おっさん、まだスペシャルあるで」と言われた(笑)それは
 「ファイブ・カウント」でロープを1本1本係員が切る。体重によって切れる時が変わるそうです。最後の1本まで残っていましたが、落ちました。

●アラブ首長国連邦UAE・ドバイ
 巨大リゾートランドができつつある。高級リゾートホテルなどが建設中。宮崎宣子アナが調査した。去年オープンしたばかりのマディナ・ジュメイラというホテルは東京ドーム10個分の広さで、運河が取り囲む。キーになるのは、モハメド・ビン・スレイヤム氏で、父は元大臣、王族との縁戚で、彼自身は実業家でレーサーでもある。1台7000万円のフェラーリ・エンツォなどの車が13台もあるが、ここはゲストハウス。
 5つ星ホテル「ジュメイラビーチ・ホテル」と7つ星ホテル「バージュアル・アラブ」のすぐ近くのウォーターパーク「ワイルド・ワディ」の中に絶叫マシンがある。世界最長レベルのウォータースライダーであり、超個性派。高さ33m(ビル8階分)でスライダーの長さは100m、段差が3つあり、第一の傾斜は70度で、ゴール直前ですべる人の速度は70kmにもなる。名前は「ジュメイラ・スケアラー」で「美しき恐怖」という意味。登っていくときに階段にすき間があり、下が見えて怖い。かつ風が強い。両手を胸の前で交差して、両足も交差して落ちます。ゴール直前は体が宙に浮いてアザができたそうです。

 優勝はフロリダでした。


テレビ番組「世界の絶景100選U」

 2004年7月31日放送。前回は1月31日で、スイス・マッターホルン対アメリカ・モニュメント・バレー。中国・桂林対イタリア・ベニス。ドイツ・ノイシュバンシュタイン対フランス・モンサンミッシェルでした。フジテレビ製作。

●ナポリ・青の洞窟
 森久美子さんが「世界一神秘的な洞窟」として紹介。24年前にイタリアに留学してカプリ島を目指したが、一度も見てない。ナポリのホテル・パラディッソに宿泊。アルベルト・カプーロさん42歳が案内してくれた。彼のひいおじいさんはオ・ソレ・ミオの作詞者ジョバンニさん。
 30km離れたカプリ島に1時間かけて行くと、マリーナ・グランデでは満潮だからダメだと言われた。仕方なく589mのソラーロ山にリフトで登る。約10分で山頂に到着。港から青の洞窟に行ってみた。入れる条件は、晴れた日で、引き潮の時間で、波と風が穏やかな時です。5年前から水位が上がってきていて、なかなか中には入れない状況になっているそうです。波が高くて、今日は無理でした。と言っても、この10日間天候が悪く、誰一人として入ってなかったそうです。
 「ダ・ジェルソミーナ」というレストランで食事。「車えびのオリーブオイル・ソテー」。翌朝9時に再度挑戦して内部に入れました。感涙して、オー・ソレ・ミオを歌いました。太陽の光が海底の石灰岩に反射して、洞窟が青く輝いているのです。

●ヨセミテ・世界一の岩
 アメリカ合衆国には57箇所の国立公園があり、アメリカの全国民が世界一美しいというカリフォルニアの国立公園。内山理名さんが紹介した。サンフランシスコから自分が車を運転して5時間で到着。案内人はマイケル・ロスさん52歳。
 世界一大きな一枚岩「エル・キャピタン」が背後にあった。高さ1095mで、世界中のロッククライマーの憧れ。頂上まで3日かかるそうです。「ミラーレイク」は大きな2つの岩・青い空・緑の木々が湖面に写っています。春の雪解け水の時に可能だそうです。夏は水垢で見えなくなるそうです。最後の絶景は2時間のトレッキングが必要。カリフォルニア・ジリスがいた。1時間登ったところからは手をつかないと登れないくらいになった。ポイントに到着。右にハーフドームがあり、谷がそちらにひとつ、左側にも谷があり、目の前には大きな滝がありました。

●オリエント急行
 イタリアのベニスから1泊2日で、オーストリア、リヒテンシュタイン、スイス、フランス、イギリスへの旅をする。中尾彬、小沢真珠さん。サンタルチア駅で見てみると青い車体です。案内人はブルーノ・ジャンセンスさん40歳。タオルはアメニティもオリエント急行オリジナル。午前11時10分出発。
 早速フランス料理のランチ。前菜は「スモークサーモンのアボカド添え」、メインは「鴨のレモングラス風味生姜添え」、デザートは「フレッシュマンゴとお米のココナッツミルクプディング」でした。午後1時半に国境を通過。左側の窓にアルプスの絶景が見えた。車内にはオリジナル・グッズを売るお店もある。小物入れは1.9万円、時計は9.5万円、人気のホイッスルは2800円。午後7時にリヒテンシュタインを4分で通過して、スイスに入った。
 夕食には中尾さんから小沢さんに花束のプレゼントがあった。乗車する際に注文したそうです。前菜は「石もちとアンチョビのサフラン・リゾット添え」、メインは4時間じっくり煮込んだ「牛肉のトスカーナワイン煮、フォアグラ添え」、デザートは「3種のチョコレートとオレンジリキュールカスタード」。ディナーの後は、サロンカーで一杯やりながら、ピアノ演奏を聞いた。オリジナル・カクテル「アガサ・クリスティ」をいただいた。部屋に帰るとベッド・メイキングしてあった。
 午前5時フランスに入り、午後1時25分にカレーヴィルに到着。ここで列車とお別れして、バスに乗りかえ、これがコンテナに入って、ドーバー海峡を越える。イギリスでは茶色と黄土色のプルマン車両に乗り換える。オードリー号はエリザベス女王のお気に入りの車両です。ロンドン・ビクトリア駅に午後5時に到着。約1800kmに及ぶ絶景の旅でした。費用は一人26.9万円です。

●エジプトのピラミッド
 勝俣州和、金子貴俊さんが紹介。ピラミッドは町から目と鼻の先にある。宿泊はル・メリディアン・ピラミッドだったが、ここからもピラミッドが望める。歩いて行けます。案内人はナスル・A。アールさん38歳。
 2004年一押しの絶景は、ケンタッキー・フライド・チキンとピザハットのお店の3階。ここからは、正面にスフィンクス、後ろに3つのピラミッドが見える。
 次は140年前の1864年に日本人が初めて写真を撮った場所に行く。スフィンクスの右肩の位置で幕府から派遣された使節団26名?が写真を撮ったという。二人は武士の姿になって観光客を斬りました(笑)
 クフ王のピラミッドは底辺230m、高さ147m、石の数300万個。西暦820年にアル・マムーンという王様がピラミッドの中に初めて入ったときの入口からみんな中に入っています。昔はなかった入口です。入ると階段を登り、大回廊と呼ばれる高さ8m長さ50mの通路があります。その先が王の間。
 4500年前と同じ風景を見る。街がピラミッドまで近づいた現在のエジプトでは建物を見ずにピラミッドだけを眺めるのはとても難しい。車も多い。全く見えなくなる場所がある。そこは気温40度以上の砂漠の中。2時間歩くと、その場所があった。小さいピラミッドのその先のようで、大きさがほぼ均等に見えました。手前に小さいのが3つあって、その後ろに3つのピラミッドが見えました。街は見えませんでした。

●中国・泰山 世界一の大階段
 中国の人が一度は見てみたいというご来光。そのためには7412段の石段を登らないといけない。MEGUMI、KABAちゃんが紹介した。上海経由で済南へ5時間、さらに車で1時間で泰安市に到着。案内人は劉剣さん27歳。サンシャイン60ビルで階段が1204段なので、6個分(笑)最初の2000段は傾斜は急ではない。泰山せんべい5元(70円)を売っている。中国版クレープ風で具はネギ(笑)ネギの効能は乳酸を分解して疲労を回復する。1時間で1000段通過。2500段に中天門がある。ここの人気のお店は刀で麺を削る刀削麺20元(280円)。
 ここからは1500段の最大の難所「十八盤」。これを越えて、心臓破りの階段。最後は最大斜度50度を越える難所。8時間で6500段南天門に到着。この時、夕陽が沈みかけていました。残り900段は暗闇の中を登った。10時間で到着。山頂の食堂でご来光を待つ。
 午前4時、500人以上の人がご来光を待つ。5時、茜色に染まり、太陽が昇った。

●ベネズエラ エンジェルフォール 世界一の落差を誇る滝
 高すぎて、水が霧となってしまい、滝壷がない。地図に記載されていない秘境「ギアナ高地」にある幻の滝「エンジェルフォール」を有坂来瞳さんが紹介。カラカスからカナイマまで飛行機で行く。案内人はマターソンさん36歳。
 まずジャングルの中を川まで車で移動。横幅100mのアチャの滝も絶景ですが、土色に濁っています。この頃は水量が多いそうです。日本を出てから4日目やっとボート乗り場に到着。ここからボートで川を80km上ります。川の両岸はジャングルで、水量も多く、急流が多い。5時間で休憩。上陸し、最後の村で昼食。ベモン族の村で、バナナの皮の屋根に土壁の家。白アリのローストを食べさせてくれたが、有坂さんは食べられませんでした(笑)
 目の前にテーブル・マウンテンが見えてきました。100以上もあって、2000m級の高さです。気温は33度。エンジェルフォール直前の宿営地に到着。しかし、トタン屋根だけ(笑)ハンモックで寝ました。
 翌朝、5時間のトレッキング。川も渡り、ジャングルの中を歩きました。世界一の滝エンジェル・フォールが目の前にありました。落差977m。滝の落ちる場所ははるか雲の上でした。

http://www.fujitv.co.jp/zekkei100/index.html


テレビ番組「叶美香ウィーンひとり旅、悲劇の皇妃エリザベートの美を求めて」

 2002年9月7日放送。
悲劇のオーストリア皇妃エリザベートの華麗なる私生活と愛と死の謎 世界三大美女と言われた。死後100年以上経つ今もヨーロッパじゅうの人 に愛されている。毎日放送製作。

●ウィーン
 13世紀から20世紀始めまでオーストリアはハプルブルグ家の統治する 国だった。ケルントナー通り。街中でよく見かけるのは皇妃エリザベート( 愛称シシィ)。ホフブルグ宮殿に住んでいた。中を見るとつり輪もあったり する。身長172cmウエスト50cmという。野生の皇妃とも言われてい た。自由奔放な性格は夫フランツ・ヨーゼフの母と対立した。
 エルマイヤー・ダンス・スクールで左まわりのワルツを練習した。これは 普通のワルツよりも少し難しいらしい。
 シェーンブルグ宮殿。

 ホテル・インペリアル。西郷隆盛まで宿泊したことがあるという。フラン ツ・ヨーゼフが宮殿を改造して作ったホテル。とてもゴージャスで、ロイヤ ル・スィート・ルームは3740ユーロ。天井が高い。メゾネット・スィー ト・ルームは1600ユーロ。一部屋一部屋のつくりの違いが、元は宮殿だ ったことがわかる。
 レストランでは、ヨーゼフと皇妃の好きだった肉料理ターフェルシュビッ ツ Tafelspitz をいただく。蛋白らしい。リンゴのすったのとあうらしい。 冷製リンゴのスープ Geeiste Apfelsupre は甘酸っぱくておいしいらしい。 最後はデザート。

 生鮮食品市場ナッシュマルクトに行く。Gegenbauer はお酢の店。バルサ ミコ酢などがある。美容のためのワインから造られた酢もある。トルコ系の エスニックフード店が多い。シシカバブのサンドイッチ屋さんもある。
 シシィが好きだったのはカフェ。カフェ・デーメルがご用足しだった。 何よりも好きだったのはチョコレート・ケーキでザッハ・トルテは有名。 スタイルを保つために何時間も激しい乗馬をしたらしい。
 宝石店「ケッヘルト」を訪問。ここは王家ご用達。贅沢が嫌いだったシシ ィも宝石は好きだったという。エリザベートが使っていたものも置いてある し、好きだった星飾りもある。今でも旧貴族の人がよく使っているという。 オーナーのクリストフ・ケッヘルトさんのエスコートで馬車に乗る。

 バードイシェルは出会いの地。結婚祝いに建てられた別荘カイザー・ヴィ ラがある。亡くなる2ヶ月前に立ち寄った部屋は今もその時のまま。その 別荘に子孫が住んでいる。マキシミリアン・ロートリングさんが案内をして くれた。彼は末娘のひ孫にあたる。シシィの胸像もある。

●ブダペスト
 エリザベートは宮殿のしきたりに居心地が悪く、ブダペストにまでも旅を した。ヴァーツィ通りを歩いてみた。かつてハンガリーはオーストリアを敵 視していたが、エリザベートは人気となり、1867年ハンガリー王妃とな った。国民がすごく熱狂したという。
 レストラン「フォルトナ」。シシィはワインと音楽が好きだったという。 ゲデレ城が気にいっていた。ウィーンではふさぎこんでいたがハンガリーで は笑っていたという。ところがウィーンにいた長男ルドルフが母の愛情に飢 えて1889年自殺。この日からふたたびふさぎこむようになったという。 その後は喪服ばかりを着ていたという。1898年無政府主義の男性にすれ ちがいざまに心臓を刺されて60歳で亡くなった。

 今、エリザベート展が美術館「えき」KYOTOで開催されている。


テレビ番組「筧利夫が世界を駆ける,7日間世界一周!温泉めぐり46000kmの旅,珍道中」

 2003年3月17日?放送。関東では2002年に放送?筧利夫、楊原 京子さん。筧さんには旅程は知らされていなかった。スターアライアンスの 航空会社を利用して世界一周のチケットを利用する。通常は10日間以上の 滞在が必要なのだが、特別に許可してもらった。値段は33.5万円〜。 テレビ朝日製作。

●ニューヨーク
 入浴するというので、ANAで成田からニューヨークに!(笑)リッツ・ カールトン・ニューヨーク・バッテリー・パークに到着。オープンしたばか り。317号室のスィート。バス・バトラーがいて(US$30)、バラの お風呂に入れる。入ってシャンパンをいただいた。
 公園でホットドックをいただいた。1.5ドル。フランクフルトがおいし いって言ったので、もっとおいしいのを食べようというので、また飛行機に 乗った。ニューヨークの滞在時間はわずか3時間でした(爆)

●バーデン・バーデン
 ルフトハンザでフランクフルトに到着(笑)。車で2時間。バーデンバー デンに到着。古代ローマ時代からの温泉の町。バーデンは温泉という意味。
 トリンクハレに行く。豪華な美術館みたいな感じ。入場無料。ここは飲む 温泉だが、手で飲んではいけない。コップが有料。20セント(24円)。 胃腸にいいらしい。東京でてからパンツも履き替えてないらしい(爆)が、 ずっとお昼らしい。(笑)夜8時半でも明るい(笑)。
 カラカラスパ Caracalla Spa に行く。2時間11ユーロ。プールみたい なのもあり、室内の大きなプールもあるが、温泉!水着で入ります。入った ところが冷泉だった(爆)BGMは「♪恨みます」でした(激爆)
 真中に温水があった。風呂上りに2リットルのジョッキでビールを飲みな がら、ソーセージ盛り合わせ(10.5ユーロ)をいただいた。あとはハクセ (トン足:10.5ユーロ)とクネーデル(じゃがいも:2.5ユーロ)。
 やっと宿泊、ブレナーズ・ホテル Bernner's Park Hotel はハリウッドス ターなども訪れるという。ホテル内にも温泉はある。1泊170ユーロ〜、 SPA2日間で600ユーロ。
 朝、写真を撮った。「ハイ・チーズ!」って言ったので、チーズのおいし いところに行くことになった(笑)ドイツ・フライブルグ駅から電車でスイ スのフリブールに向かう。

●スイス・フリブール
 3年に1度のヨーデル・フェストの真っ最中だった。第25回連邦ヨーデ ルフェスト。中世の行軍の様子を再現したという勇壮な行進。行進の途中で グラッパという強いお酒も飲まされた。ムチを鳴らす行進もある。各地から この国特有の音楽の名手たちが集まってきていた。ヨーデルの発声を教えて もらった。人前で恥かしげもなく練習した(笑)アルトホルンの吹き方も教 えてもらった。
 谷の反対側から1100年頃できた、古い街並みを見た。ヌシャテル湖を 渡るフェリーに乗り温泉へ向かう。目の前に湯気をあげるディズニーランド のスペースマウンテンのようなパビリオンEXPO’02が見えてきた。1 日券大人CHF48(3840)子供は半額。雨ガッパをかぶって入る。雲 が湧いていて何かあるかと思いその上へ向かったが、それだけでした(笑) 人工の雲。EXPO’02はエコロジーをテーマにこの他に5つの会場があ る。
 老舗のグランド・ホテル・レ・バン Grand Hotel Des Bains に宿泊。 水着で室内プールに入るが、硫黄臭い。屋外プールもある。もしかすると イベルドンという地域?
 ローザンヌのオリンピック・ミュージアムにバスで向かう。入場料は大人 CHF14(1120円)子供は半額。高橋尚子さんが金メダルを取ったと きのシューズや清水宏保さんの服、カールルイスの靴などもあり、感動の 名場面も見られる。
 ワイン列車に乗り、世界で一番きれいなブドウ畑に来た。赤ワインだと ピノノワールなどがある。コンヌワイナリーで赤ワイン「ギオン」などをい ただく。
 氷河特急に乗って、ロープウェイを乗り換えて、標高3000m。目の前 に全長24kmのアレッチ氷河が見える。美しい世界遺産です。
 宿泊はリンドナー・ホテル・メゾン・ド・フランシェ。1泊CHF160 (12800円)〜。自慢は大絶景露天風呂「アルペンテルム」。岩山が目 の前にあります。入浴料大人CHF22(1760円)子供はCHF14。 今までで一番温かいらしい。お盆にジュースなどを載せていただく。こうい う風習は古代ローマの時代からあったとか。
 バスに乗って、ステファン教会に行く。16−17世紀の建物だが、塔は 12世紀のもの。カーテンを開けると3面のガイコツの壁があった。本物だ という。1983年の改修の時に発見されたという。一説によると、当時の ペストの大流行の時のものだという。バスに乗って移動していると、おなか が減ったという。英語で言って、ハングリー。そこでLauda 航空などでハン ガリーに向かう。

●ブダペスト
 ジュネーブからウィーン経由でブダペストに到着。ドナウの真珠と呼ばれ る美しい街。くさり橋 Lanchid やマーチャーシュ教会 Matyas Templom が 有名。
 宿泊は老舗の高級ホテル「ゲッレールト」Gellert 。ここには5つのツー ル?と36の温泉?がある。フルーク先生が温泉の入り方について指導して いる。運動が足りないという。市内の30を越える温泉の中でもゲッレール トは王様と呼ばれる。入浴料2600フォリント(1300円)。シャワー キャップをつけないと入れない。柱や壁が立派です。プールの形をしている が、冷泉(笑)。他に温かいのがあった。建物の外にもあった。
 もう一つ有名なホテルはテルマールホテルThermal Hotel Margitsziget。 さらに近代的な温泉療法に力を入れている。マッサージなどが用意されてい る。その後、橋を歩いて渡るが、気温40度とか(笑)
 郊外の温泉 Tofurdo に行く。湖があって、人が浮いている。東京ドーム 1個分入るくらいの湖。水深30mなので浮き輪を持って入る。入浴料大人 600フォリント(300円)子供は半額。温かいらしくて、いいらしい! 大満足。ヘーヴィーズ温泉湖 Heviz Gyocyto が大きさは世界一では?温度 は33度。湖畔のホテル「テルマルホテル・ヘーヴィーズ」Danubius Thermal Hotel Heviz で泥パック。3400フォリント(1700円)。 真っ黒で局所、局所塗り、布と毛布で覆う。この泥は湖の泥。むちうちの 治療も行なっている。風呂あがりに食事をしていると、踊りに誘われた。 のんびりくつろいでいて、コーヒーを飲みたいという。そこでオーストリア でウィンナーコーヒーを飲みに行く。ところが、60kmの渋滞で、国境で 足止め。

●オーストリア
 グランドホテル・サウワーホフ Grand Hotel Sauerhof で温泉にハーブの 干し草を入れたお風呂に入る。馬小屋にいるみたいとか(笑)硫黄泉の湯を 飲む。テラスでアインシュペンナー Einspanner (ウィンナーコーヒー)を いただく。切った茄子みたいなお菓子サウワーホフ・シュトレン Sauerhof Stollen 80g3.49ユーロをいただく。くるみが入っているとか。この ホテルにはベートーベンも泊まって、温泉にも入ったという。ベートーベン が下宿していたというお家 Beethovenhaus に行く。入場料大人2.5ユー ロ、子供1ユーロ。楽譜やデスマスクがある。マッサージしてほしいという ので、バンコクに飛ぶ。

●バンコク
 アマリ・エアポート・ホテルは1泊US$158。ここのテラスでマッサ ージを受ける。タイ式マッサージ30分US$30〜。次はパクチー風呂。 トムヤムクン290バーツ(870円)、カイ・パッド・メッド・マムアン 200バーツ(600円)。4時間だけバンコクにいて、次へ飛ぶ。

一句には笑いました。
「本当に身体によいのか、この旅は」

●ニュージーランド
 タイ航空でオークランドに到着。真冬でした。ニュージーランド・マオリ アーツ&クラフツ・インスティテュート The New Zealand Maori Arts and Crafts Institute は入場料大人NZ$18(1080円)、子供半額。 別府みたい!ポフツ・ガイザー Pohutu Geyser は高くお湯を噴出してい る。ポリネシアン・スパの庭園?で温泉に入る。入浴料大人NZ$30 (1800円)子供NZ$12.5。温かくて気持ちいいらしい。硫黄の 匂いがすごいらしい。
 宿泊は Royal Lakeside Rotorua がお勧めとか。ロトリア湖が一望できる 。ホテルの隣にはマオリ族のショーも楽しめるポリネシアン・レストラン。 Matariki Hangi and Concert は料金大人NZ$58(3480円)、子供 半額。マオリ族といえば、舌をベロンと出すしぐさ。マオリの人と3人で舌 を出してみた。
 秘湯に行ってみた。Hell's Gate。入場料大人NZ$12(720円)子 供半額。一般の人は入れないところらしいが、低木の森?の間に直径50m くらいの泥色の池があった。真中は湯だっていたが、周辺は38度くらい。 中に入ると急に深くなるらしい。ミネラルを吸収していく感じらしい。泥を 身体に塗った。マオリの戦士はここで傷を治していたそうです。
 宿泊は Novotel & Ibis Ellerslie Auckland で、イビスNZ$95( 5700円)〜、ホテルNZ$185(11100円)〜。
 翌朝、Air New Zealand で成田に到着。


テレビ番組「榎本加奈子&モト冬樹、ウィーン冬紀行!」

 関東地方では2001年2月18日に放送された。テレビ朝日製作。関西 では2002年1月26日頃放送。
 ウィーンで冬に舞踏会がよく行われる。初めて舞踏会にデビューする人は 、男性はデビュタント、女性はデビュタンティンと言われて、最初に全員が オープニングダンスをする。みんなが同じ踊りをして、次はワルツ演舞をす る。それから一般的なワルツをみんなが踊る。榎本加奈子さんが王宮での 薬剤師舞踏会に参加する。

●観光
 シュトラッセンバーンというトラムに乗る。乗車券1ゾーン19シリング (170円)。市電のチケットで地下鉄・バスにも乗ることが可能。冬は寒 いので、ドアの開閉は入口のボタンを押す。国立オペラ座の横を通過(18 69年に宮廷オペラ劇場として建てられたベネチアルネッサンス様式の劇場 で、今年小澤が音楽監督になる)。王宮庭園ではモーツァルト像がある。 自然史博物館と美術史博物館の間にあるマリア・テレジア像。16人の子を もうけ、その一人がマリー・アントワネット。歩いてすぐの国会議事堂は、 ギリシャ神殿風の壮大な建物で、正面には智恵の女神像がある。ワルツ王の ヨハン・シュトラウス2世像、ブラームス像、シューベルト像、ベートーベ ン像もある。
 シェーンブルグ宮殿は18世紀後半に完成したハプスグルグ家夏の離宮。 東京ドーム37個分の大きさ(1.7平方km)。鏡の間では、モーツァル トが6歳の時にマリア・テレジアの前で演奏した場所とか。大ギャラリーは グレゴリオ・グリエルミによるフレスコ画がある。
 王宮(ホーフブルグ)は1918年まで650年間のハプスブルグ家皇帝 の居城で、部屋数は2500以上。

●ケーキ
 ハプスブルグ家はケーキが好きだったので盛んになったらしい。まずレス トランカフェ「ラントマン」。ほとんどが44シリング(400円?)。 トリフェル・チョコレートケーキ、ウィーン風ティラミス(テラミストルッ フェン)野イチゴのチーズケーキ(トプフェントルテ)、栗のムースモンブ ラン風(マロニブリューテ)、いろいろなベリーのチーズケーキ(ヴォルト ベーシンフレック)、いちごのヨーグルトケーキ(エルドベールムーストル ティ)、クリームカコ(クリームシュニッテル)、チョコとピスタチオクリ ームのケーキ(モーツァルトトルテ)、オーストリア名物アップルケーキ (アプフェルシュトルーテル)、チョコレートムースケーキ(ショコムース シトレン)、ナッツのケーキ(エステルハーシシュニッテ)、赤い野いちご のケーキ(ヒンベルスフレトルテ)、アイリッシュブランデー味のチョコム ース(アイリッシュトルテヘン)、チョコレートムース(ショコムーストル テヘン)、洋梨とアーモンドのチョコレートケーキ(ビルネンヴィリアムス トルテ)、ヌガーチョコのトルテ(ヘレントルテ)、栗のヨーグルトチョコ ケーキ(マロニトルテ)、ヘーゼルナッツのケーキ(ヘザーレントルテ)、 洋梨のムース(ビルネンムーストルテ)、ザッハトルテ。
 カフェ・ザッハのザッハトルテとカフェ・デーメルのザッハトルテは10 年以上の裁判になって、カフェ・ザッハが勝った。
 外に出るとケルントナー通りは大人の感じ。

●夕食
 13世紀の城壁の一部でウィーン最古の建物にある、15世紀からやって いるという(創業1447年)グリーヒェンバイズル Griechen Baisl 。店 内には有名人のサインだらけ。ベートーベン、モーツァルト、シューベルト 、ヨハン・シュトラウス、山本陽子さん、田村正和さんのサインもある。モ トさんと榎本さんもサインした。料理は「前菜」がマスの燻製・西洋ワサビ の生クリーム添え(ゲロイヒェルテ・フォレレ・ミット・オーバースクレン )135シリング(1200円)、家鴨胸肉の燻製とリンズ豆のサラダ(ゲ ロイヒェルテ・ゲンゼブルスト・ミット・リンセンサラート)120シリン グ。レバー団子入りコンソメスープ(レバークヌーデルスッペ)52シリン グ(470円)、細切りクレープ入りコンソメスープ(フリターテンスッペ )52シリング。メインはウィーン風カツレツ(ウィンナーシュニッツェル )215シリング(2000円)、茹で牛肉・ウィーン風盛り付け(ターフ ェルシュビッツ)226シリング(2050円)(リンゴのソースとサワー クリームソースでいただく)。

●居酒屋
 ホイリゲは若いワインを飲ませるウィーンの居酒屋。ワインを炭酸水で 1:1で割って飲む。相当飲みやすいらしい。血のソーセージをいただく。 そこにオーストリア伝統の楽器シラベル?の演奏が来た。

●買物
 フローマルクト(のみの市)は毎週土曜6時から18時頃まで開催。雨天 中止。食料品とかはナッシュマルクト(市場)月曜〜土曜6時〜18時。 ドーナーケバブの店もあった。羊の肉を切ってくれた。ザウアークラウト( キャベツの酢漬け)1kg38シリング(340円)。
 コールマルクト通りにはヴィトンなどが並ぶ。オーストリアには表示価格 に消費税20%が含まれているが、手続きをすると約13%が返金される。 カルティエなどにも行った。
 陶磁器の名店アウガルテンに行く。マリア・テレジアも愛用したという。 昔は王室専用だったが、王室解散後に一般に開放されたお店。1719年に オープンしたアウガルテン磁器工房を見学した。
 Shoppinng City Sud にあるインターシュパーというスーパーマーケット に行った。巨大でかなり広い。

●バーテン
 ウィーンの西南、皇帝の温泉地だった場所。カジノバーテン国際会議場の 地下には温泉の最古の源泉がある。カジノもある。1821年から3年間 ベートーベンが住んでいて、第9を完成させたという建物がある。デスマス クと遺髪もある。
 グランドホテル・ザウルホフにはベートーベンスィートという部屋があっ て、1泊1万シリング(9万円)。ここにはスパもあって、ベートーベンも 受けたであろうハーブを使ったマッサージを受けられる。フェイシャル・マ ッサージなどもしてみた。
 食事も優雅。前菜はアミューズグル(コックさんのプレゼントという意味 らしい)。ムーススープにスモークサーモン、チーズ、トマト、フルーツが 添えられている。メインは鹿肉フィレと赤キャベツ(ビュルシュ・ミダイオ ン・ミット・ロットクラウト)285シリング(2570円)またはスズキ のソテー・エビ&ライス(エーデルフィッシュ・ウント・ガルネーレ・ミッ ト・ライス)310シリング(2790円)。

●ホテルとヘアカット
 宿泊はヴィエナ・マリオット・ホテル。シュタットパーク入口前。 インターナショナレ・ヘアカッテに行って髪を切った。

●舞踏会
 下見に行く。デビューの3日前に軍隊士官舞踏会が行われていた。白いド レスのデビュタンティンがどんな風かを見た。ギャラリーは3000人!翌 日、薬剤師会の練習があった。翌日は「エルマイヤー・ダンススクール」で 集中してレッスンした。
 当日。馬車で舞踏会会場に向かった。リハーサル後に開場。登場口に向か う。緊張していたが、パートナーのマイヤーさんが緊張をほぐしてくれた。 オープニングダンスと途中から笑顔が増えてきた。いい感じでワルツ演舞。 これも無事終了し、みんなの舞踏会が始まった。


テレビ番組「ウィーン少年合唱団」

 2002年4月6日放送。東儀秀樹さんとテレビ朝日の吉元潤子さんが案内。テレビ 朝日製作。
 ウィーンには650年支配したハプスブルグ家による歴史的建造物が多く ある。ホーフブルク王宮、聖シュテファン寺院などや近代的なデザイン美術 が融合している。かつ、この町にはモーツァルト、シューベルト、ブルック ナーなどの音楽家の町でもある。この春日本公演を控えたウィーン少年合唱 団の姿を紹介する。
 ホーフブルク王宮の王宮礼拝堂で賛美歌を歌うのが少年合唱団。いくつか のコアに分かれていて、世界旅行をしている。どれかのコアは必ずウィーン に残っていて日曜日にミサを行う。2年前に来日したシューベルト・コア。 シューベルトが実際に所属していたらしい。またモーツァルトが主席作曲家 を勤めていたこともある。
 ミサが終わると観光客にちょっとつきあう。家に帰る子はそのまま家に帰 るが、帰らない子はそのまま寄宿舎のアウガルテン宮殿に帰る。ここは17 世紀に建てられたゴシック様式の建物。500年前にマキシミリアン1世が 少年聖歌隊を作ったのが起源。現在は4つのコアがある。モーツァルト・コ ア、シューベルト・コア、ハイドン・コア、ブルックナー・コアで、今回、 来日するのはハイドン・コア。練習風景を覗いてみた。
 この日練習していたのは、日本公演用の「ねむの木の子守唄」。東儀さん は笙やひちりきという日本古来の楽器を紹介した。オペラに喜劇的要素を 取り入れたオペレッタの練習もした。
 食事では、喉にとてもよいという木イチゴのシロップの水割を飲む。ギム ナジウム低学年にあたるので、そこで勉強している。付属小学校や幼稚園も ある。合唱団に入るには試験を合格しないといけない。日本人の教師もここ にいた。栗林純子さんは
 夜7時の王宮に、かつての天使たちが集まっていた。王宮リハーサル室で 毎週火曜日に集合して練習している。50年前に作られたOB合唱団。時折 海外ツアーも行うらしい。ほとんどの人が音楽以外の道に進んでいるという 。理由を聞くために、ベートーベンの家を改装した居酒屋ホイリゲ「フラン ツ・マイヤー」で聞いてみた。料理はカモ肉のロースト、豚の血入りソーセ ージ。中でも名物なのが子牛のカツレツ(ウィンナーシュニッツェル)。外 国にいくことで外国の文化を見ることができた。ウィーンには世界から一流 の音楽家が入ってくるので、プロの音楽家になるのは非常に難しいとか。
 環状ロード・リングの側のANAグランドホテルに宿泊。1Fのメイン・ バー「カバリエ・バー」で楽しむ。ホテルの入口でピアノ演奏をやっている くらいに音楽に溢れた町でもある。このホテルでは、ペーター・ガルサイさ ん。東儀さんも横でピアノを弾いていたが、なかなかうまいです。
 翌日、世界トップのピアノメーカー「ベーゼンドルファー」を訪問。ここ は1828年創業。1台のピアノは全て手作業。1842年のピアノも残し てある。現在のピアノとハープシコードの中間の音を出していた。昔の工場 の一室が演奏会場にもなっている。
 ミノリーテン教会は最も古い教会の一つ。コンサート会場としても人気が ある。音がよく響く。そこで笙を取り出して演奏してみた。笙の音はパイプ オルガンの音に近いのでいい感じでした。
 ウィーン楽友協会に行く。黄金のホールに入らせてもらう。ニューイヤー コンサートを行っている部屋。木製です。しちりきを演奏してみたが、すご くよく響きました。
 町中では歴史的な建物がさりげなく目に飛び込んでくる。マジョリカハウ スはアール・ヌーボー作家オットー・ワグナーの作品。その近くにはナッシ ュマルクトという市場がある。ナッシュとはつまみぐいの意味でウィーン市 民の台所となっている。東儀さんはカメラ好きでカメラ博物館ウェストリヒ トに行く。世界最大級だが、ほとんどが館長のペーターさんの個人所有物。
 国立オペラ座に行く方法をフロントに聞いたが、日本語で答えが返ってき た。350年前からオペラが開催されていた。パバロッティなどの世界三大 オペラ歌手が揃うのはここだけ。ジョン・健・ヌッツォさんはここの専属歌 手で、イタリア系アメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた。胸板がすご い。オペラ座の中を案内してもらった。ロイヤルボックス席は普通の時はチ ケットも販売している。一人22000円〜。ロイヤルティーサロンは素晴 らしいカフェで、高い時は1時間100万円とか。
 フォルクスオーパーでもジョンさんは出演している。現在ウェストサイド 物語の主役をやっている。
 アウガルテン宮殿でウィーン少年合唱団、東儀さん、ジョンさんのジョイ ントコンサートが実現した。曲は野ばらでした。

 ウィーン少年合唱団の大阪公演は5月25.26日ザ・シンフォニーホー ル。


テレビ番組「道浪漫」2001年5月13、20日は辛島美登里さんでオーストリア

 辛島さんはシンガーソングライター。モーツァルテウム学生寮(音楽大学) オーストリアは憧れの地だった。1965年の映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台を訪ねる旅。後半はチロル・リヒテンシュタインを訪ねる。

●ウィーン
 ウィーンは音楽の聖地。よく町で見かけるのは体重計。1階1シリング( 10円)。ウィーン西駅から1日1本のモーツァルト号に乗り込んだ。

●ザルツブルグ
 列車で3時間、北のローマと呼ばれる古都。モーツァルト生誕の地。 メインストリートはゲトライデ通り。美しい鉄細工の看板はこの通りの伝統。 通りが狭いので看板は上につけることを義務付けられていた。マクドナルドの 看板でさえ、恰好いい。
 カフェ・トマセッリTomaselli は1705年創業。モーツァルトが生まれる 50年前からある。オリジナル・カフェ76シリング(700円)にはモーツァ ルト・リキュールが入っている。スプーンはコップの上に置いて出すのが伝統 。文化を育んできた。
 ボスニア系ホットドッグの老舗 Balkan Grillボスナ・スタンド(創業51年) に行く。カレー風味のスパイスが特徴。1個32シリング(300円)。
 モーツァルトの生家。夕方6時、モーツァルトの音楽を奏でる鐘。その音に 誘われるようにして来たのはアウグスティン修道院。しかし、アウグスティー ナ・ブロイという修道院のビアホールでした。あまりハメをはずせない。自分 でジョッキの大きさを選んでお金を払い、ビールで洗い、中に入れ、おつまみ を購入。ビール300ml 70シリング(600円)、ラディッシュ24シリング(200円)。

 「サウンド・オブ・ミュージック」のロケ地をまわるツアーがあった。 Panorama Tours の The original sound of music tour. 9時半と2時の2回 あり、料金は1人400シリング(3600円)。バス3台はいっぱい!当日・事前 予約が必要。 tel:+43+662+874-029
 トラック大佐の庭にある温室。配ってくれたのは(エーデルワイス)花の種。 トラック大佐の家。湖にみんな落ちてしまうその家は、現在はアメリカ・バー モント州のセミナーハウスとして使われている。レオポルツクロン宮殿

●ハルシュタット
 ザルツブルグ郊外、車で1時間半。世界遺産。世界一美しい町と言われてい る。湖畔に輝く真珠の美しさはおとぎの世界。ハルシュタットの春とは岩塩の 意味。2500年前から塩の採掘が行われている。宝石の輝き。鉄器文明と世 界最古の塩坑がある。
 「きよしこの夜」は1818年にザルツブルグ州オーベルンドルフの教会で ヨゼフ・モーアとクランツ・クサーバ・グルーバーによって作られたクリスマ ス・ソングである。トラック大佐、マリア、その家族は実在の人物だった。彼 らはアメリカに亡命しアメリカをまわって「きよしこの夜」を広めた。この曲 はこのハルシュタット付近で作られた。
 この町にオルガニストのヨハンナ・アッシャワーさん(81歳)がいた。こ の町でたった一人のオルガニスト。1897年製作のパイプオルガンで弾いて もらった。

●ロシュフェルド峠
 サウンド・オブ・ミュージックでは最後にオーストリアから山を登って、イ タリアに亡命する。実際に撮影されたこの峠はドイツとオーストリアの国境。 向こうの山の上に要塞が見えた。これはヒトラーの山の別荘と呼ばれていた「 鷲の巣城」。ヒトラーはザルツブルグを第二のベルリンにしたいと思っていた らしい。映画の中に少しだけこの城が写っていた(約2秒)そこから離れるよ うにしてトラック一家は歩き始めた。

●インスブルック
 チロル州の州都。イタリアに抜ける道にある。モーツァルトも立ち寄って いる(1769年12月15日に父と)。白十字亭に泊まった。今でもこの旅人が泊ま れる。500年の歴史があるらしい。ロビーはベージュ系と茶色の階段だけ ど、緑色の廊下?で部屋は可愛い感じ。白い壁、1泊1菜750シリング( 6700円)〜。小さい目のベッド?。
 1964年と1976年に冬季オリンピックが開催された町でもある。こ このパン屋ベッカライクレール によってみた。そこで、バウムクーヘンの 原型フリューゲルトルテを見つけ、40シリング(360円)で購入。

 隣町のイエンバッハから小さなディーゼル列車に乗る。ツィラタールバウ アー・イエンバッハ駅。チロルらしいチロルに向かい、エーデルワイスの花 を見る。

●ツィラタール
 巡礼教会で子供たちが歌を練習している。一緒に歌わせてもらった。 手作りのフェルトの靴を作ってくれるというハルトゥル靴店に行く。 チロルの室内用スリッパは679シリング(6000円)。暖かそう。皮膚 の一部のような感じらしい。
 テレサ・ホテル。木のぬくもりが優しい。部屋は好みだとか。1泊1名で 1250シリング(1万円)〜。ツェル・アム・ツィラーの滞在型スポーツ ホテル。エステ、サウナ、スポーツジムが充実。tel:+43-52-82-22-86
e-mail: info@therasa.at
 翌日は朝からなごり雪。そこでカフェへ。コンディトライ・カフェ Cafe- Konditdrei ザッハートルテ38シリング(350円)、フルーツミックス ティ20シリング(230円)。
 酪農家の家に行く。牛の首に付けるカウベルに興味がある。エーデルワイ スは険しいアルプスの崖の上に咲く花で、なかなか見れない。だから女性が エーデルワイスの花をもらうということは愛を打ち明けられることらしい。 エーデルワイスとは「高貴な白」という意味。押し花を見せてもらい、それ をプレゼントしてもらった。13歳の時の服を貸してくれて着て歌をみんな で歌った。チロルでは歌が家族の絆。ファンクハウザーさん一家。 http://www.tiscover.com/breierhof

●フェルドキルヒ
 インスブルックから約2時間。さらに西に行く。国境の町。小雪が舞って いた。リヒテンシュタイン・バスに乗ってファドーツ(リヒテンシュタイン )に向かう。3スイスフラン・32シリング(280円)。当然、パスポー トの検閲がある。

●リヒテンシュタイン
 東京ドーム34個分の広さに3万人が暮らしている。有名なのは切手です が、切手博物館では、意外なものが人気。旅行者のためのパスポートスタン プ。しかしお金が必要2SF(180円)。切手も見せてもらう。
 デザインの美しさ、印刷技術の高さで定評がある。大事な財源でもあった が、今では世界の切手の殿堂入り。日本の切手もあった。特に古いものが興 味深かった。
 いろいろな美術館ができている。その中のリヒテンシュタイン美術館に 行ってみた。その中のカフェ・イム・クンストミュゼアムが少し変です。 中では寿司 30.5SF (2500円)、ミソズッペ 11.5SF (880円)にはパンもつい ているのが食べられる。リヒテンシュタインでは寿司ブーム。健康食として みな食べてみたいと思っているらしい。
 ここはチューリッヒ空港から車で1時間半!

道浪漫のホームページ


テレビ番組「旅サラダ」2000年10月は手塚理美さんでドイツ・オーストリア・チェコ

●ウィーン
 モーツァルトなどの音楽家が活躍した。国立オペラ座、シュテファン寺院が紹介された。ウィーン市街の南西にあるハプスブルグ家のシェ−ンブルン宮殿は世界遺産。大ギャラリー(大広間)にはすごいシャンデリア。1441室もある。百万の富をつぎ込んだと言われる「百万の間」、漆をはめこんだ「漆の間」、子供部屋も広いし、絵も多い。マリー・アントワネットも幼少の頃、ここで過ごした。壮大な庭園を散歩。並木道を越えると大温室。ここは1800年代の建築。放射線状に広がっているのは動物園。1859年作。真中に作られたレストラン。ここのテラス席でティー。皇帝はここで朝食をとって動物を見ていたらしい。

●ドナウ川
 Ms. オーストリア号でドナウ川を行く。乗船料200シリング(1400円)、デッキに座ってみる。船内のレストランでは季節のオーストリアの伝統料理が食べられる。今回は秋メニューで219シリング(1530円)でキノコのスープ、クリーム入り炭焼きローストビーフと白ワインソース、揚げリンゴ。見える山の斜面にはブドウ畑。

●デュルンシュタイン Durnstein (オーストリア)
 ワインの産地の村。可愛い町。窓に花が飾ってある。Alter Klosterkellerアルター・クロースターケラーというワイン・バーに行く。必ずワインバーには表にワラで作った飾りがある。今回はデュルンシュタイナー・スペリン70シリング(500円)1999白をテラス席で飲む。フルーティらしい。気持ちのいい山と緑。

●チェコのチェスキー・クルムロフ
 中世のたたずまいのひっそりした街。赤い屋根、白い壁の世界遺産。時折黒い屋根が見える。旧市街を見下ろすチェスキー・クロムロフ城は街のシンボル。12世紀には要塞として建てられた。城内を歩いていて、城の地下の洞窟を利用したギャラレーを見つけた。チェコ・ポーランド・ハンガリー・ルーマニアのアーティストの作品。マグカップなども売っている。7600円とか2000円とか。
 街を散策する。石畳がヒールだと歩きにくい。ホテル・ルージュ Ruze に宿泊。ロビーに二人の騎士の人形が迎えてくれる。212号室。アンティーク風のベッド、リビング、バスルーム。便器は木製の椅子の中にある!一番いい部屋(スィートルーム)で朝食付5760コルナ(21900円)窓からの眺めもいい。テラスも広い。紅葉も近く、家と融合している。ここは昔、学校だったらしい。

●プラハ
 黄金のプラハと言われる。中心に王の道がプラハ城まで2.5キロ。これを歩いてみる。石畳。建物には当時の紋章が各家に飾ってある。旧市街市場。時計台は天文時計、1年で1周するプラネタリウムと1日で1目盛動く。カレンダリウムがセットになっている。15世紀に作られた。1時間毎にキリストの12使徒が顔を出す。さらに行くとカレル橋。30体の先人の像がある。何度も修復されている。そしてプラハ城。石段上がって入り口。大統領府があり、お城の中にまた可愛い街がある。お城に仕える職人が住んでいた可愛い街。聖ヴィート大聖堂が一番迫力がある。ここのステンドグラスを アルフォンヌ・ミュシャが描いた。
 レストラン・Mucha へ。店内にはミュシャのポスターが多い。グラッシュ・スープ(牛肉)35コルナ(130円)、メインはミュシャ・プレート(牡蠣と豚肉の盛り合わせ)240コルナ(910円)、クネドリーキ(蒸しパンみたい。これにガーリックのついたほうれん草のソースをたっぷりつけて食べる)。チョコパンケーキ45コルナ(170円)。
 ホテルはホテル・サヴォイ。ロビーは開閉式の天井になっている。書斎風のラウンジ、ジムもある。806号室。木の造り。リビングとベッドルーム(シングル、キングサイズ)、ミニバー、朝食付のサヴォイ・スィートで660マルク(32350円)。
 「黄金の虎」Zlaty Tygr というビール酒場。午後3時でも混雑している。チェコの人はビールが大事らしい。マイ・グラスが置いてある!おいしく飲むビールの温度は6度とか。1ジョッキ約1リットル弱くらいで22コルナ(84円)安い!
 夜はライトアップ。ボヘミアン・グラスも買ってきていた。2個セットで2万円の分でした。

●マリアンスケー・ラーズニェ
 車で2時間。温泉街でゲーテやショパンも訪れたらしい。温泉と言っても入るのではなく、飲む。街の中心の繊細な建物はラーゼニェスカ・コロナーダで、その一番先に源泉の湧くところがあった。飲めるので、皆変なカップで飲んでいる。クロス源泉では、飲泉カップは160コルナ(608円)。皆カップを買って滞在中預けておく。炭酸水に鉄分ぽいのが混じっているという感じらしい。
 「ラーズニェスケ・オプラッキー」温泉せんべいの店。バニラ・チョコ・ココアの3種。皆焼きたてを待っている。直径20センチでチョコ5.6コルナ(21円)、バニラ4.2コルナ(16円)。

●ザクセン・スイス
 ドイツ東南部。渡し舟で川を渡って、山を登る。ブナの林?の中を通っていく。岩の崖の上に出る。目の前が川と平野と向こうに山。緑がとてもきれい。さらに岩を上がっていくと、バスタイ橋という石橋。岩が侵食されて100mの高さの岩が並ぶ。ロッククライミングしている人もいる。

●マイセン
 車で1時間。ヨーロッパの磁器の故郷。こじんまりした街。窓に花が置いてある。あちこちに磁器。
 マイセン磁器工場へ。博物館もある。3000点展示してあり、絵つけの見学もできる。工場内にお店もある。カップ&ソーサーで487マルク(25000円)のものが紹介された。白がきれいみたい。
 街はワイン祭りの日だった。ワインでも有名な街らしい。Konditorei Cafe Zieger というカフェでマイセン名物のパンを買う。マイセナー・フンメルといい、1個3.5マルク(175円)、クラッカーみたいな味らしいが、中はすかすか。マイセン磁器を運ぶ時に、磁器の無事を確かめるために作られたものらしい。メダル入りのパンは観光客用で、12.5マルク( 625円)割れずに持ち帰ると幸運があるか。中のメダルは磁器でできていた。

 ホテル・パティス Pattis は郊外のプチホテル。スィートルームで580マルク(29000円)朝食付。庭も広くて散歩にいい。
 夕食は宮廷料理をコースで、116マルク(5800円)。キノコとロブスターのテリーヌ、3種類のスープ(カニ味、うずら入りコンソメ、マッシュルームスープのカプチーノ風)、白身魚とロブスター・ソーセージ・牡蠣ソース添え、鹿肉と長ネギパイ・えんどう豆ソース添え、チーズのムース、デザート・インスピレーション。デザートが2つある。

●ポツダム
 サンスーン宮殿はロココ建築の最高傑作。18世紀にベルサイユ宮殿を模してつくられた。階段の両側には温室。円形に張り出した部屋の内部は大理石の広間で、晩餐会などが催された。300ヘクタールの敷地には、木が多い。中に18世紀大流行した東洋趣味の館「中国茶館」がある。金色!中国は赤でしょう。日本とごっちゃになっていたのでしょうね。中に書いてある絵にはサルが多い。サルは東洋のシンボルだったらしい。
 ユニグフェルン湖など森と湖が多い。ツェツィーリエンホーフ宮殿はイギリスのマナーハウスのような建物。ここでポツダム会議が行われたそうだ。

●グリーニッカー橋
 車で1時間。この橋の真ん中が東西ドイツの国境だった。スパイが多く渡ったことからスパイ橋とも呼ばれるらしい。今でも真中に白い線が残っていました。

●ベルリン
 中心に戦勝記念ジーゲスゾイレ(塔)。勝利の女神ビクトリアが金色に輝いている。高さ67mの塔に上がって街を見渡してみた。森の向こうにブランデンブルク門が見える。そこに行ってみた。観光バスが多い。東ベルリンを歩いてみた。
 1989年11月9日でした。10年前まであった壁は取り壊されて、今は新しいビルになっている。一部残っている。他にもいくつかあるが、East Side Gallery は1.3キロ続くが、もう芸術品となっていた。検問所だった Checkpoint Charlie は、ソ連兵とアメリカ兵の写真が置いてある。象徴的な場所だった。
 東ベルリンの赤の市庁舎、ベルリンで一番美しいと言われる Gendarmenmarct(広場)などが紹介された。
 一番注目されているのは、ソニー・センター。アミューズメントビルでIMAXや、マンションなども入っているらしい。
 Friedrichstadt Passage はアールデコ調のインテリアの巨大ショッピングモール。Zussa という帽子屋さんに入る。店長は新進のデザイナー。2万円〜5万円くらいの品。
 夜のベルリンを気球で楽しむ。風が強く、怖いらしい。


ウィーンのカフェ

 1683年トルコの大軍がウィーン包囲に失敗して敗走、灰緑色の豆の入った袋を多数残していった。この戦いで活躍したコルシツキーが褒美として豆をもらい、それから作る”黒いスープ”を売る許可を得て、最初のカフェを開いたというのが伝説。実際は交易していたアルメニア人がもたらしたもので、最初に開いたのもJ・ディオダードさん(アルメニア人)。
 カフェに不可欠なのは、コーヒー、テーブル、椅子、それらが収まる室内空間である。日本とは重要度が逆で、重要なのは、まず室内、次に椅子(多くはウィーンの曲線美と称されるトーネット・スタイルの曲げ木の椅子)、大理石のテーブル、最後がコーヒーとなる。
 カフェは都市宮殿(シュタット・パレ)と呼ばれる重厚な建物に、贅沢な室内空間を売り物にしてきた。柱と柱のニーシェと呼ばれるくぼんだ空間にある、他の客から半ば隔絶された快適な席に、モカ一杯の代金で長らく居座っていられるのが、最大の魅力だろう。銀盆に載ったコーヒーを飲みながら、大きな窓越しに街頭風景をぼんやり眺めているのも楽しいものだから、その風景も店のこの上ない装飾の一部といえる。
 この種の席を増やすために、角の建物にカフェを開く伝統が生まれた。広々とした空間を誇る「ツェントラール」や「シュヴァルツェンベルク」などがある。売りはコーヒーで、ケーキではない。ケーキが主役なのは女性客対象のコンディトライ(菓子店)で「デーメル」「ハイナー」などだ。多くは喫茶部もついているが、カフェではない。かつてカフェは男性専科の世界で、ウェーターももっぱら男性。最近はコンディトライ同様、ウェートレスを置く店も増えたが、依然としてタキシードに蝶ネクタイの男性だけの伝統派が主流である。
 新聞、チェス、ビリヤードの3点がなければ、伝統的な”ウィーンのカフェ”とはいえない。案内書にも、真っ先に店が常備する新聞名が掲載されているほどである。例えば、高級住宅街にある「ドムマイアー」では、40以上の新聞が揃い、読書にふさわしい静ひつな雰囲気が漂う。
 チェス専用の部屋があるところもあるし、「シュペルル」では、立派な玉突き台そのものが見事なインテリアになっている。ピアノの演奏もよく行われるし、ブルグ劇場横の「ラントマン」のように記者会見に使われるところもある。
 こんなウィーンでも最近では、立ち飲みショップが増え、結構繁盛している。有名店では観光客も目立つようになった。
 客は常連のみというこだわりのカフェも健在である。文学カフェ「ハヴェルカ」と閉店時間があって無きがごとしの「アルト・ウィーン」などである。作家の間では、「自宅にいなければハヴェルカにいる」という言葉が生まれたし、後者には”売れない哲学者のカフェ”というあだ名がつけられている。

 ウィーンでは「ホット一杯」はやぼな注文である。必ず品名を言うのが常識である。一つは「シュヴァルツァー(黒)」。ストレートのコーヒーでモカともいう。器によって大「グロース」と小「クライン」がある。
 次にメランジュ。ミルクコーヒーのことで、通常ホイップクリームが添えられる。「アインシュベナー(一頭立て馬車)」は、グラス入りのシュヴァルツァーにホイップクリームをたっぷり載せる。
 「カフェ・フェアケールド(逆さコーヒー)」はコーヒーよりミルクの分量が多い。
 これらは銀盆に載り、必ずグラス1杯の水が付く。店名入りの紙に包まれ角砂糖を添え、スプーンを水のグラスの上に伏せて置くのがウィーン流であるらしい。

 まぁ、伝統とはいえ、ウィーンは男性社会であり、例えば、ウィーンフィルに女性が入らない理由もわかるような気がしました。


テレビ番組「ウィーン天使の歌声が響く街」

 2000年4月30日放送。若村麻由美さんが紹介。朝日放送製作。

●ウィーン
 650年続いたハプスブルグ家が作り出した数々の文化。ウィーン少年合唱団は500年の歴史を持つ。かつては城壁で囲まれた旧市街一帯は歴史の面影を残すようにされている。高層ビルや派手な色の建物は法律で禁止されている。

●古き良き時代の様式の建物
 マリア・テレジアが愛した黄色い壁のこのホテルは,1870年ヨーロッパで最初のグランドホテルとしてオープンした。部屋の中の調度品もバロック時代の面影を残している。このホテルはリンクに面している。1857年フランツ・ヨーゼフ1世の命令で城壁が壊され,約4キロの環状道路ができた。これに沿って古き良き時代の様式の建物が建てられた。オペラ座とか,  ホーフブルク王宮は13−20世紀の様々な建築様式でできている。最も古いのは王宮礼拝堂で,ここで毎週日曜日にミサ曲を歌うのが,ウィーン少年合唱団。ミサが終わると彼らの写真を観光客が撮っていく。彼らは寄宿舎で生活しているが,日曜の午後は家に帰れるらしい。
 中央墓地にはウィーンゆかりの音楽家たちが眠っている。ベートーベン,シューベルト,ブラームスなどのお墓が紹介された。

●ウィーン少年合唱団
 アウガルテン宮殿に寄宿舎がある。1600年代に建てられた。18世紀にはモーツァルトやヨハン・シュトラウスらもここに来た。ウィーン少年合唱団はもっと前の1498年に,マキシミリアン1世が礼拝合唱隊として作った。
 4つの組に分かれている。ハイドン組,モーツァルト組,ブルックナー組とシューベルト組である。オーストリアは小学校が4年,ギムナジウムが8年。合唱団はだいたい10歳〜14歳くらい。年に3か月は公演旅行に出掛ける。授業は先生1人に生徒3名程度とか。昼食はカフェテラスでみんなで一緒に食べる。喉のためにあまり冷たいものは食べない。午前中は勉強し,午後は歌の練習をする。
 2000年4月にシューベルト組が来日したらしい。練習は厳しい。バイオリニストの庄司紗矢香さん(17歳)を若村さんが連れてきた。彼女は昨年パガニーニ国際コンクールで史上最年少で優勝している。一緒に「野ばら」をやる。新しい試みもやっている。今回は「ドラエモンのテーマ」もやっていた。

●ウィーン市内
 寄宿舎の隣にある,ウィーン磁器工房アウガルテン。1718年に創業。200年以上も前のロココ調の芸術を主としている。今年からアクセサリーも造り始めた。新しい試みである。
 シェーンブルク宮殿は「夏の宮殿」と呼ばれる。1700年代,マリア・テレジアはここをこよなく愛し,東洋からの文化を持ってきた。当時,ウィーンはヨーロッパの中心地だった。このマリア・テレジアの娘はあのマリー・アントワネットであり,15歳までここに住んでいた。
 ホーフブルク王宮にはフランツ・ヨーゼフ1世の部屋がそのまま残されている。
 「ドロテウム」という店ではオークションなども行われている。骨董品も置いてあるので,見るだけでも楽しくなるウィーンの穴場である。
 シュテファン大寺院の上からは,ウィーン市内が一望できる。他にはヴォティーフ教会,カールス教会,ブルク劇場(中はバロック様式)などがある。
 オーストリア航空のカリンさんと陽が暮れてから待ち合わせた。市庁舎はライトアップされている。その前はスケートリンクとなっている。ここで冬のウィーンの飲み物はホットワイン。スパイスを利かせたワインを温め,砂糖を少し入れて飲む。
 ナッシュマルクト(市場)ではサワークラウト(酢づけキャベツ)までも売っている。ハムもソーセージも種類が多い。ケバブというトルコの羊肉料理の店もあった。
 マジョリカハウスは1898−99年にオット・ワーグナーが作った建物で,カールス・プラッツ駅は今でも斬新。アム・シュタインホーフ教会も,オット・ワーグナーの作品。フンデルトパッサー・ハウスは市営住宅だが,1983−85年にフンデルトパッサーが建てた。大胆な色彩感覚。92年のゴミ焼却場の豊かな遊び心は面白い。
 ワインケラー「エスターハージィー・ケラー」は1683年から。ハイドンも来たとか。料理はクネーデル(じゃがいも団子)やキュメルチブラーテン(豚の皮のロースト)など。
 ANAグランドホテルのグランド・カフェ。人気のカフェの一つ。ウィーン子はケーキが好き。今までは甘さが特徴だったが,ケーキに革命が起きつつある。カール・シューマッハさんが作るケーキは,カフェ・オーバラOberlaa に置いてある。彼のは小ぶりでいくつでも食べられる。温泉保養地のために作ったオーバラー・クアバード・トルテは甘さを抑えて大人気。彼はパネトーネというフワフワのパンも開発している。
 カフェ・ショッテンリンクではケーキ造りを体験できる。ここでは若村さんもアップフェル・シュトルーデル造りに挑戦。オーナーのジークフリードさんが指導してくれる。ここはピアノの弾き語りがある。ところでこのお菓子は,新百合が丘?のリリアンテ?とか何とかっていう喫茶店?でやっていて,チューボーですよでやっていたのを思い出しました。
 レストラン「ル・シエール」はウィーン子に今,人気。前菜はマグロのサワラン(沢庵付!!),メインは白身魚のバジリコソースで,魚は2種類だった。デザートはモカ・カフェでアーティスティックな盛りつけ。甘すぎな いとか。


テレビ番組「道浪漫」99年11月27日、12月4日は緒川たまきさんでプラハとボヘミア地方

エールフランスでパリ経由で行ったらしい。
●迷宮の街
カフカがかつてさまよった街でもある。スメタナ、ドボルザークなど もここの出身である。後ろにインターネットカフェも見えた。
●教会、プラハ城
共産主義の時にチェコでは信仰を持ってはいけなかった。プラハ城に は歴代のボヘミアン王が住み、今は大統領が住む。この中で大きいのは 聖ビート教会。15世紀から500年かけてつくられた教会。中から 見るとバラ窓(ステンドグラス)がきれい。さらにうちの1つの作者は アルフォンス・ミシャでした。
●旧市街広場
広場のシンボルは天文時計(15世紀)で天動説によって作られた文字 盤が美しく、1時間毎にカラクリ時計を見る(キリストの使徒が出る)
広場の夕暮れの中、とてもきれいに映えた街なみ。
●ボヘミアングラスの店
多いです。
●マリオネット
店も多いです。国立芸術大学人形劇科という学科もある。ここではプロの 人形使いを養成している。オーストリアに支配されていた時に、ドイツ語 を強要され、唯一チェコ語が使えたのは人形劇だったから、人形劇が人気 があるらしい。
スベイグル(父)とフルヴィーネク劇場は人気。この日は夜の公演。この 二人はチェコで一番人気の親子。入場料は大人40コルナ(120円)、 子供は20コルナ。
●ヤン・シュワンクマイエルさんのアトリエ
65歳の演劇作家、今はアニメ作家で「オテサーネク」というのを作って いた。アニメと言っても劇画ではない。
●露店
チェコ風ホットドッグ 1本11.90コルナ(36円)。穴あきで手も 汚れない。

●プラハの南140キロのチェスキークルムロフ
昔鉱山で栄えた。チェスキー・クルムロフ城の中はルネッサンス・ルーム とかバロック・ルームとかがそのまま残っている。これを守っているのが 熊。ロジェムベルク家の紋章に熊が使われていたから飼われているらしい。
ヨーロッパの宝と言われる劇場は1681年につくられたバロック劇場。 照明はすべてろうそく。ポール・スラフコさんという人が案内してくれた。 300年前の舞台転換装置が今でも使える。楽器はチェンバロでした。
この城は高台にある。ここからの眺めをかつて愛したのが画家エゴン・ シーレ。その代表作「死の町V」と同じ場所へ行ってみた。
●トレボン
元気のよい街へ行きたいというので。鯉漁を見る。人々の楽しみらしい。 チェコ人は13世紀からクリスマスには鯉を食べる習慣があるからで、こ れは牛や豚などの肉食は禁じられていたから。鯉料理はメインディッシュ は鯉のフライ。スープは頭・卵巣・精巣・玉ねぎ・人参・ペトルジェルを 混ぜて煮込む。マグロのアラのお味噌汁を思い出させる味だとか。
また、鯉の鱗を財布に入れておくとお金が貯まるとか。
●ピルゼン(中部ボヘミア地方)
150年前、ドイツの黒ビールを真似して作ろうとしてできたのがピルス ナー・ビール。ドイツは硬水、チェコは軟水だったのでこうなったらしい。 ピルスナーウルケル社。ビール消費量はチェコは一人当たり世界一で、日本 人の3倍らしい。ピボニーツェという居酒屋へ。ジョッキ一杯20コルナ (60円)らしい。安い!
●カルロヴィ・ヴァリ
ヨーロッパの温泉保養地。ゲーテ、シラー、ベートーベンなども来たらし い。みんな奇妙なコップを持ち歩き、時折飲んでいる。中身は温泉水。こ この温泉は入るのではなく、飲むものらしい。コロナーダという美しい回廊 を持つ建物でコップを買って飲む。1人60コルナ(180円)。消化器系 によいとか。緒川さんはまずいと言っていました。この飲むことは、18 世紀に医師ダビド・ベヘールが提唱したそうです。
●ノビーボル
チェコ随一のボヘミアングラスの町。クリスタレックス社(クリスタルグ ラス)、エーゲルマン社(色彩ガラス)が有名だが、緒川さんは個人のガラ ス工房へ。ルネッサンス工房のパベル・ソバーチェックさん。 パベルさんが作っているのは中世に作られていた薄いルネッサンスガラス。


テレビ番組「空飛ぶコンシェルジュ」99年12月9日はウィーン

 テレビ大阪と全日空製作?
CAは長本砂都さんで、35回もウィーンに来ているとか。
居心地のよいカフェと、音楽に浸っているのが好きとか。

●ウィーン
小さいので歩いて回ってもよい。治安はよい。リンクと呼ばれる環状 道路に囲まれている。電車で移動も楽。
●ザッハトルテ
ホテルザッハの分は1832年に作られた。55シリング(550円)。 生クリームは好みに応じて上に乗せて食べる。この生クリームは無料。 砂糖が多いが生クリームには入ってないので、口の中では丁度よい。 電話:512-1487
デーメル。ここは48シリングだが、チョコとスポンジの間にジャムが 入っている。生クリームは別売りで18シリング。甘さ控えめなので、 日本人好みかも。電話:535-1717
ここは、ほかにもチョコレートやクッキーが有名で、猫の手のチョコレ ートは40枚入り235シリング(2350円)。お土産によい。
●料理として、ピアリステンケラー
300年以上前の修道院をそのまま利用したレストランで、ターフェル シュピッツ(牛肉の煮込み)175シリングはリンゴと西洋ワサビをすり おろしたソースで食べる。比較的さっぱりしている。tel:405-9152
●ショッピングとしてRingstrassen-Galerien のピラコートというスーパー エメンタールチーズ20シリング、くるみ入りクリームチーズ29シリン グ。ハムもおいしいらしい。また一番ポピュラーな白ワインである、ニコ ライホフのグリューナーフェルトリーナーは1000円程度。
あとホットワインの素25シリング Gluehfix 。これはワインを暖めて ティーバッグを入れて飲むとよいらしい。
ほかにはハーブ入り岩塩を買っていました。20シリング。
●ホテルはANAグランドホテル
オペラ座まで歩いて1分。泊まったのは222号室らしい。優雅な内装 でした。電話:515-800
●月刊ウィーン
iでくれるらしい。旅行者に便利とか。
●Grinzing というメルヘンチック?な町へ
ホイリゲという1年もののワインの新種が有名で、それを置いている店も ホイリゲと言われる。Kronprinz Rudolfshof という店へ。電話:524-7478 コース料理とオペラのショーがついて490シリング。メインは肉の3種 盛りで、ワインはジョッキで飲みます。

後半はウィーン国立音楽大学に通う北村礼奈さん(フルート奏者)
●観光スポット
シュテファン寺院、モーツァルト像、ヨハンシュトラウス像など。
●ナッシュ・マルクトという市場
カボチャは大味で甘さは足りない。キノコも多いとか。イノシシやガチョ ウの肉まである。豚足もあった。オリーブも種類が多い。酢の秤り売りの 店もあるし、お漬物屋さんもある。
今のこの時期は、Sturm シュトゥルムというワインとブドウジュースの 丁度中間的な存在の飲み物がある。コルクはしていない。醗酵途中なので コルクをすると爆発したり栓が飛んでいったりするらしいので、お土産に は適さないらしい。ここに冬に来て飲むしかないですね。
●カフェ Landtmann 電話:533-9128
どのカフェにも普通20種類以上のコーヒーがある。一般的なのは、 Fiaker 64シリング ブラックコーヒーにサクランボのお酒が入っていて、 上に生クリームが乗っている。
Einspaenner52シリング ブラックコーヒーに生クリーム Cafe Landtmann 74シリング ここの店のオリジナルで、ブラックコーヒー にコーヒーリキュール、ブランデー、生クリーム、シナモンが入っている。 Merange 44シリング 一般によく飲まれている分で、泡立てたミルクが 入っている。
●コスメショップ
イブ・ロッシャという店は銀杏葉入りのシャンプーなど。
ダグラスという店。ヨーロッパの人はあまりお風呂に入らないけれども、 最近は入る人も増えている。そこでお風呂グッズが多い。ここの店では、 ニベアが多いらしい。
●アウガルテンという場所のアウガルテン?
以前は宮殿だったが、今は陶器を売っている。電話:211-240
マリアテレジア・コーヒーセットは9790シリング
ウィーンのバラ・コーヒーセットは9120シリング
全て手造り、予約すると絵付けをしているところを見学できるらしい。
●プラーター
第三の男の舞台。入場料55シリング。観覧車で食事もできる。料金は 100−300シリングで、今回は子牛のカツレツ(ヴィーナー・シュニ ッツェル)を食べていました。電話:729-5430


テレビ番組「旅サラダ」98年11月は川上麻衣子さんでオーストリア

チューリヒへ飛んで中央駅から列車で,国境を越えてインスブルックへ。チロリアンハットは約1−2万円。ケーブルカーとロープウェイでハーフェレカー展望台へ。ここは風がすごく強かった。日頃はどうかは不明。
 オモチャみたいなツィラータール鉄道に乗ってツィラータール渓谷へ。機関車も小さくて可愛い。終着駅はマイヤーホーフェン駅。ヒンタートゥックスという人口170人の村に宿泊。1泊2食付きで13000円くらい。温泉プール付き。夕食中にヨーデルの音楽サービスあり。
 翌日ロープウェイでオルペラー大氷河へ。

プラター遊園地、オペラ座の前のモーツァルトの格好をした人、リンクに沿ったトラム、ウィーン大学、ブルク劇場、観光馬車、ケルントナー大通り、ハース・ハウス、正午のアンカー時計、などが紹介されました。
 レストラン?ではシュニッツェルというところのとても薄くて直径が30センチもあるカツレツが紹介されていました。これにサラダで1900円程度。(個人的注釈:でかいので有名なのは、フィグルミュラーというレストラン/ホイリゲです)
 Cafe には鏡と5紙以上の新聞が揃えてあります。番組では、Kleines Cafe でメランジェ420円を頼んでいました。(個人的意見では周辺と比べて少し高いかも)
 あとは郊外のサヴァーホフ?というホテル。粉ミルクとオリーブオイルのお風呂などのエステは22000円。宿泊は35000円 くらい。


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送