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なお、これはわたしが個人的にテレビを見て書いたものであり、各テレビ局や番組とは全く関係はありません。
すべての文章の無断使用・転載を禁止いたします。
またここの情報を使って、何か問題が起こったとしても私は一切責任は持ちませんのであしからず。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 3人がクリスマスのパリに」

 2010年12月25日放送。梨花(37歳)、山崎静代(31歳)、中川翔子(25歳)さんがパリに。

●予定
 1日目、21:55、成田空港発。14時間25分の旅。
 2日目、4:20、シャルル・ド・ゴール国際空港着。8:00、タクシーで空港を出発。9:30、トロカデロ広場にてエッフェル塔見学。馬車に乗る。11:00、人気スイーツ発祥の店(しずちゃんリクエスト)。タクシーで移動。13:00、ZARA HOME(梨花リクエスト)。14:30、ギャラリー・ラファイエット(梨花リクエスト)。タクシーで移動。17:00、「王妃の館」にチェックイン。19:00、クリスマス・ディナー。21:30、クリスマス・マーケット。23:00、ホテル着。
 3日目、10:00、ホテル出発。タクシーで移動。10:30、パリで人気のツアー。14:00、パリ最古の市場でランチ。16:00、オリジナル帽子作り。18:00、オペラ座にてスペシャルゲストと合流。18:30、スタジオ入り〜レコーディング。20:30、空港へ移動。23:20、シャルル・ド・ゴール国際空港発。11時間50分の旅。
 4日目、19:10、成田空港着。

●パリ
 朝8時に到着。トロカデロ広場にてエッフェル塔を見学。昨年120周年を迎えたパリのシンボル。
 馬車に乗って移動。チャーダー代は1時間140ユーロ〜(約15800円〜)。凱旋門、シャンゼリゼ通りを通過。しずちゃんリクエストの人気スイーツ発祥の店「ラデュレ」に到着。ここは20世紀中頃「マカロン・パリジャン」を考案した。マカロン2枚をクリームやジャムで挟み、カラフルにした。また映画「マリー・アントワネット」などに登場するマカロンは全てラデュレのもの。
 13時、梨花さんのリクエストでZARA HOMEに行く。「ベロアのクッション」45.99ユーロ(約5200円)、「フリンジ付きタオル」11.99ユーロ(約1400円)。「ファークッション」45.99ユーロ(約5200円)、「ぬいぐるみ」22.99ユーロ(約2600円)。星型の「オーナメント」2.99ユーロ(約340円)。梨花さんは12点2.8万円お買い上げ。
 2時半、梨花さんリクエストで、「ギャラリー・ラファイエット」に行く。店内には巨大なツリーがある。地下1階の世界最大の靴売り場に行く。老舗のバレーシューズ専門店「レペット」。梨花さんはバレエシューズ180ユーロ(約2万円)。しょこたんはピンクのパンプス195ユーロ(約2.2万円)。しずちゃんはローファー185ユーロ(約20500円)。
 5時、ホテル「王妃の館」にチェックイン。400年前からある建物で、ルイ13世の妻アン王妃の邸宅を改築したホテル。「王妃のスイート」は1泊950ユーロ(約10.7万円)。
 7時、クリスマス・ディナー。1766年創業のレストラン「ラベルーズ」で、ファッション業界の顧客が多い。前菜は「生がきとキャビア、じゃがいものブイヨン添え」。メインは「ノルマンディ産牛フィレ肉のステーキ」
 9時半、シャンゼリゼ通りのライトアップとクリスマス・マーケット。メリーゴラウンド3ユーロで楽しんだ。
 チョコクレープ屋さんがあり、4ユーロで購入。ケバブは6ユーロ。サンタ写真館「ラ・デリート・デュ・ペール・ノエル」にてサンタと一緒に記念撮影。写真代20ユーロ。

 翌日、セグウェイに乗ってパリの名所を巡るツアーに参加。皇帝ナポレオンが埋葬されているという教会「アンヴァリッド」を見学した。アレクサンドル3世橋。ゴール地点であるコンコルド広場にて記念撮影した。
 パリ最古の市場「マルシェ・デ・ザンファン・ルージュ」にてランチ。各国の料理や新鮮な食材が揃う。3人は「野菜のガレット」5ユーロをいただいた。モロッコ料理の店「ル・トレトゥール・マロケン」ではチキン串のクスクス、なすのファルシ、クリームリゾットを注文した。

 パリの人気帽子専門店「ラ・スリーズ・シュル・ル・シャポー」で好みのカラーの帽子とリボンを選んで自分だけのオリジナル帽子を作った。フェルト帽(丸型・1個)80ユーロ。フェルト帽(中折れ・1個)140ユーロ。バカンス帽、180ユーロ。

 オペラ座の前でm-floのミュージシャンと合流。オリジナルの番組テーマ曲が完成したので、3人に聴いてもらいたいという。数々の有名アーティストが名作を生み出してきた伝説のレコーディングスタジオ「モーターパス・スタジオ」にて制限時間2時間という弾丸レコーディングを行なった。


テレビ番組「THE 世界遺産 印象派と山水画」

 2010年11月21日、28日放送。

 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはパリで印象派と出会い、色彩に目覚めた。まばゆい光の中のアルルで傑作を生み出した。印象派はアトリエを飛び出し、刻々と移り行く色、心に写る風景を描いた。モネ「印象 月の出」、ゴッホ「麦畑と糸杉」、ルノワール「ボート」。
 それより1000年前、中国で山水画家は仙人の住む景勝の地を墨で描いた。画家たちは険しい山に入り、モノトーンの世界を作り上げた。

●黄山
 3つの絶景で知られる。するどく切り立った岩山。岩の割れ目に根を張る樹木。そして雲海。
 ここに6万段の石段が造られた。1年に200日の雨が降る。雨が上がると沸き立つように雲海が現れる。こういう景色が仙人が住む山という伝説を生んだ。山水画の始まりは1000年ほど前。多くの画家が黄山を描いたが、戦火などで失われた。17世紀の石濤「黄山図巻」(1699年)。李白は太陽の光に輝く峰を見て、その美しさを称えた。金色に光る蓮の花のようだと。
 麓にある町「屯渓」には天下の絶景を描きたいと多くの画家が訪れる。顔世廣さんは15年前に移住した。下書きはしない。霧吹きを使い、雨を降らすのは、山水画の技法の一つ。雲の先「瀑布雲」に魅せられたという。真っ白な紙に向かって1時間で一つ完成。題して「黄山雲海」。山水画は余白の美しさを極めた。
 安徽省の南部に新安江という古い村がある。明から清の時代に塩の販売で大成功した豪商の村「黄山市 宏村」。「承志堂」は豪商江氏の邸宅で金箔が散りばめられている。この商人たちは新安派と呼ばれる山水画を保護した。そして墨の黒をベースにわずかに着色した絵は水彩画のような山水画が大成した。陶磁器の絵付けにも影響を与えた。査士標「晴巒暖翠図」(1675年)。
 この村で200年以上続く墨作りの工房。桐の木を燃やしたススにニカワを混ぜて固める。中国人は墨、硯、筆、紙を「文房四宝」と呼び、名品を生むため、心を砕いてきた。画家の張培武さんも黄山に魅せられた画家。しかし実際の姿を描くのは30%で、残りは心の目で見た印象。

●武夷山
 竹を組んだ独特の筏による清流下りが人気。今から2500年前に、論語の中で孔子は「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」と言った。古くから中国人は山水を愛してきた。

●蘇州
 水の都。文人や官僚たちは隠居生活を楽しむために、庭園を造った。14世紀、明の時代には有数の大都市だった。庭を遊ぶ巧妙なテクニックがある。四方に開けられた窓は自然を切り取る額縁。「留園」の奇怪な姿をした巨石は、太湖の底で取れたもの。この不思議な石が中国の庭園で最も珍重された。これは山水を庭に写し取った模型だった。
 「石湖図」を描いた文徴明は庭園造りにも参加したという。蘇州の古典庭園はいわば立体の山水画だった。

●龍安寺
 中国の山水画は鎌倉時代に日本に禅の教えと共に入った。枯山水が誕生した。山水画を石と砂で表現した。そこには「引き算の美学」がある。そして墨の代わりに石で水を表現した枯山水が生まれた。

●武稜源
 湖南省の奥に石の柱が聳える中国最後の秘境がある。高さ357mの2つの岩山にかかるのは、地球上で最も高い天然の橋。宝峰湖など中国人が心に描く絶景の全てがある。地下には鍾乳洞が広がる。洞窟はもう一つの理想郷。30年前に発見された武稜源は山水の魅力に満たされていた。

●泰山
 全ての始まりは泰山だった。伝説では山の頂きに立つと仙人になれる。歴代の皇帝さえも訪れた。
 麓の町に暮らす傅汝有さんは30年前に移住してきた。全体に墨を入れると色をつける。最後に入れたのは朱色の太陽。

●ルアーブル Le Havre
 パリから北西に80kmの港町。第二次世界大戦で徹底的に破壊された。この町は鉄筋コンクリートで再建された。サン・ジョセフ教会はひときわ高く聳えている。うちっぱなしのコンクリートの壁には1.2万枚のステンドグラスがはめられた。通りは碁盤の目。都市復興のモデルとなった。
 ルアーブルは印象派発祥の地とよばれる。港で描かれた1枚の絵、モネの作品「印象 日の出」がきっかけだった。

●パリ
 モネがパリで暮らした19世紀後半、町は急速に近代都市へと姿を変えていた。セーヌにはいくつもの別の橋がかけられ、密集した住宅を壊し、まっすぐな道路を走らせた。鉄道はパリのターミナル駅と地方を結んだ。新しいシンボルはエッフェル塔。町をふらふら歩くことが娯楽となった。
 オルセー美術館はかつては、パリ万博にあわせて作られたオルセー駅だった。この美術館を抜きに印象派は語れない。モネの代表作「日傘の女」。絵の具を混ぜず、筆のタッチを残した描き方は、全く新しい画風だった。
 印象派の始まりは1874年、パリの写真スタジオで開かれた第一回印象展。参加したのは若い画家たち。マネ、ルノワール、バジール、モネたち。この時33歳のモネが出品したのが、「印象 日の出」だった。批評家は「単なる印象」と揶揄した。それを逆手にとって印象派と名乗った。それまでは神話や聖書などの過去の世界を描いたものだった。モネの「サン・ラザール駅」、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、スーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」など鉄道、カフェ、初夏の水辺などの今の日常だった。

 画家たちは一つの発明品「写真」に刺激された。モネは同じ大聖堂を何枚も描き、日によって変わる色を見極めようとした。「ルーアン大聖堂」。写真は単なる記録である。一瞬を描くことで写真を越えようとした。

 もう一つの大発明は「チューブ絵の具」。パリの古い画材店「セヌリエ Sennelier 」は1887年創業。ここで売っている。お店のソフィー・セヌリエさんは「これが売り出されるまで画家は、アトリエで絵の具を手作りしていた」と語る。鉱物を砕き、細かい粉にし、油を混ぜ、石やガラスの板の上でよく練り合わせていた。1つの色ができるまで3時間もかかった。絵の具を外に持ち出すには、豚の膀胱に詰めなおす手間もかかった。これの発明により画家は屋外で自由に絵を描けるようになった。
 印象派よりも前に屋外で風景画を描いた画家が、パリ近郊のバルビゾン村にいた。アトリエがジャン・フランソワ・ミレー記念館として保存されている。農民たちが働く姿を見つめ、自分が見たままの芸術を描こうとした。壁にミレー自身が撮影した3枚の写真が貼られている。学芸員のイアム・ファラットさんが説明してくれました。細かい部分が写っていなかったので、彼は写真をやめて、再び絵を描き続けたのだという。動きのあるもの、夕暮れの様子がよく写らなかったためらしい。

 1886年、ゴッホが画商としてパリで働く弟の下に転がり込んだ。彼はここで印象派の色に目覚め、日本の絵に衝撃を受けた。「タンギー親爺の肖像」などの作品の背景に浮世絵を描いた。歌川広重の「亀戸梅屋舗」も模写した。明るい光を求めて南に向かう列車に乗った。

●アルル
 南フランスのアルルは、紀元前1世紀にローマ帝国によって築かれた町。古くから伝わる祝いの踊り。円形闘技場をはじめ、古代ローマの建築や教会などが世界遺産。傑作として知られるロマネスク調のサン・トロフィーム教会。かつてこの町にはスペインに向かう巡礼者が集まった。
 1888年2月ゴッホは冬のパリを離れアルルにやってきた。ここに浮世絵にある明るい光があると信じていた。
 「種まく人」は手前に大きな木を置いたゴッホ流の浮世絵。「アルルの跳ね橋」を見て、日本に来たようだと手紙を書いた。「ひまわり」に情熱を黄色にこめた。
 伝統衣装に身を包んだ「乙女の祭り」。ゴッホも「アルルの女」を描いている。3年に1度女王が選ばれる。第20代「アルルの女王」のカロリンヌ・セールさんが説明してくれました。
 もう一つは「闘牛」。起源は15世紀で夏になると開催される。この地方は牛の角にある紐を手で奪い取るのが基本。みんな逃げて客席の手前でジャンプする。ゴッホはこれも描いた。「円形闘技場の観客」。
 夜、「夜のカフェテラス」も黄色に輝いていた。「ローヌ河の星月夜」。数ヶ月後にゴッホは「アルルに芸術家のユートピアを作りたい」と思った。
 町の一角にかつてゴッホが暮らした「黄色い家」があった。ここで画家たちが暮らすユートピアを夢みた。この部屋でアルルに誘う手紙を何通も出したが、誰も答えてくれなかった。答えてくれたのはゴーギャンだけだった。あの「ひまわり」はゴーギャンを迎える部屋を花で飾りたいために描いたものだった。
 二人は一緒に絵を描いている。アリスカン墓地は、ローマ時代からの古い墓地。人々は聖人の傍で眠りたいと願った。参道には石の棺が並ぶ。「アリスカンの並木道」(ゴッホ)と「レ・ザリスカン」(ゴーギャン)。目の前の風景を色彩で捕らえるゴッホと、想像力を膨らませるゴーギャン。強烈は個性は次第にぶつかり、ゴーギャンと暮す緊張に絶えられなくなったゴッホは、発作的に自分の耳の一部をカミソリで切り落とした。ゴーギャンはアルルを去り、心を病んだゴッホは入院した。「アルルの病院の中庭」も描いた。「僕は絵に人生を賭け、僕の心はその為になかば壊れてしまった」と最後の手紙を書くと自殺した。

●ジヴェルニー
 セーヌ川沿いの田舎町。モネはここで生涯、印象派の美を追い求めた。日本庭園を造り、太鼓橋まで作った。ここで200点もの作品を残した。モネは「自然こそが私のアトリエだ」と語った。


テレビ番組「知っとこ! 世界の朝ごはん フランスのルーアン」

 2010年10月2日放送。

●ルーアン Rouen
 パリから電車で1時間。セーヌ川の河口近くにあるノルマンディー地方の中心都市。人口約11万人。この町で目につくのは、「コロンバージュ」というヨーロッパ伝統の木組みの家屋。ルーアンには2000軒以上あり、ヨーロッパでは一番多い。荘厳なゴシック様式の教会も存在していて、町そのものが美術館と呼ばれている。さらにフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクが宗教会議にかけられ、終焉を迎えた地としても有名。
 サン・スヴェール広場 Place Saint Sever も古い家屋が並び、絵になる。「Banque 」と書かれた黒い建物がある。煙突がでていて、中にはハチがいる。「ハチ銀行」で、自然をテーマにしたアート作品だとか。ハチミツを巣に貯める行為を銀行預金に例えている。
 サン・マルク広場 Place Saint Marc には市場がある。ルーアンはリンゴが名産品というので、郊外に見に行った。

 1345年創業のフランス最古のレストラン「ラ・クロンヌ La Couronne 」は、ノルマンディー地方の郷土料理が楽しめる。各時代の著名人によっても愛されたお店として有名で、オードリー・ヘップバーンやエリザベス女王も来店している。この店のマキシム・ラガルドさんが紹介してくれたのは、この店の名物料理で古くから著名人に愛されてきたものが、目の前で仕上げる人気の鴨料理「カナール・ア・ラ・ルアネーズ」2人前84ユーロ(約9500円)。まずは軽く焼いた鴨の肉を一口大に切り、焼きながらコニャックをふりかけ、フランベしながら焼く。「鴨の肝のペースト」と鴨の骨を容器に入れ、圧力をかけて搾り出す。これを赤ワインと混ぜながらゆっくりと煮詰めて、お肉にからめて完成。

●ウイー・デュ・ユーレー Ouilly du Houley
 ここのリンゴは青くて小さい。この「ビスケ種」はお酒用のリンゴで果汁が多く、その状態で収穫する。リンゴ畑の隣の倉庫には、巨大な樽がいっぱい。これはブランデー「カルヴァドス」の製造工場でした。リンゴの果汁を発酵させて、蒸留酒をカシの木で作った樽で2年以上寝かせて作る。世界中で作られているリンゴのブランデーの中でも、この「カルヴァドス」は質が高く、最高級とされている。お土産としても人気が高い。

●ジヴェルニー Giverny
 公園には色とりどりの花が咲いてきれい。画家のクロード・モネがあの「睡蓮」を描いた場所で、美しい池があり、たくさんの人が写真を撮っている。「モネの家と庭園」は、晩年を過ごした家で、4月〜10月のみ一般公開されている。

●ルーアン
 ルーアン美術館を訪れた。クロード・モネの「ルーアンの風景」、ポール・ゴーギャンの「ルーアンの庭の一角」、シャルル・フレションの「夕暮れ」などが展示されている。帰ろうとすると美術館の人から「夜にもう一度来てください」とお誘いを受けた。夜10時過ぎに多くの人が集まっていた。ライトが消え、音楽が流れ、壁に絵が映しだされた。これは「印象派の夜」という人気のイベント。

 新婚さんの朝ごはん。市内に住むアヴリル・アメリーさん(23歳)が作るのは、1品目「ウッフ・ココット・キャロット」。 圧力鍋でにんじんを柔らかく煮込み、裏ごし器を使ってペースト状にする。生クリームを加え、卵と生クリームを加え、チーズをふりかけ、オーブンで10分焼く。焼いたパンにつけていただく。
 2品目「ノルマンディー風サラダ」。アンディーブ?を細かく切り、ルッコラなどの野菜と一緒にお皿に盛り付ける。クルミと焼いたベーコンを加え、カマンベール・チーズとリンゴを加え、ドレッシングをふりかける。ドレッシングはマスタード、オリーブオイル、バルサミコ酢をよく混ぜたもの。
 3品目「リンゴのタルト」。市販のパイ生地を型に広げ、フォークで穴をあけておく。リンゴを切ってたっぷりとのせる。小麦粉に卵黄、砂糖、生クリームを混ぜて生地を作ったら、まんべんなくリンゴにふりかけ、オーブンで表面にこげ色がつくまで焼き上げる。


テレビ番組「にじいろジーン 地球まるごと見聞録 マルセイユ」

 2010年8月21日放送。

●マルセイユ
 エール・フランス航空でパリを経由して到着。フランス第二の都市。シンボルはノートルダム・ド・ラ・ギャルド・バジリカ聖堂で、紀元前600年頃に築かれたフランス最古の都市。貿易の中心地として栄え、海の光が印象的な活気溢れる町。プロヴァンス地方で一番活気のある町。ロンシャン宮は市民の憩いの場だとか。
 にじいろガイドは、ルーシー・ブラーベルマンさん(21歳)。ベルジュ埠頭には毎日新鮮な魚が運ばれて来るので朝は賑やか。タラは1kg約900円。赤ダイ1kg約670円。ブイヤベース用の魚もいいのがある。

 ブイヤベースはマルセイユ生まれの料理で、漁師さんが売れ残った魚を使ったのが始まり。お店毎に新鮮な魚介類によって作られた秘伝のスープがある。ルーシーさんお勧めのお店は「シェ・ルリー」で、2人前約4300円。マルセイユ流の食べ方がある。スープと魚が別々に運ばれてくるが、まずスープだけを食べる。必須なのはルイユというソースで、にんにくとサフランが入ったマヨネーズ。スープにルイユを入れ、さらにパンを浮かべて、まずはスープの味を堪能する。その後、店員がお皿に魚をサーブしてくれる。

●クルーズ
 港から大型遊覧船「クロワジエール・マルセイユ・カランク」に乗船。約2200円で夏のマルセイユ観光の定番レジャー。外海に出ると、海岸線に24km続くカランクと呼ばれる断崖の岩で形成された入江の地形を船から楽しむ。その先には青く輝く海の景色がある。
 カランクのツウな楽しみ方がある。最大9名のグループで乗れば、「トゥルクワーズ・カランク」3時間制約5.7万円というのが楽しめる。高速で進み、好きな場所でレジャーを楽しめる。海で泳いだりとか。断崖の入り江にも入ってくれました。断崖から飛び込みもあり。

●エクス・アン・プロヴァンス
 プロヴァンスを象徴するこの町は、世界的にも有名なポール・セザンヌが生まれ、アトリエを構えたことで知られる場所。
 プロヴァンス地方の象徴の一つがラベンダー。この時期が一番の見頃。町のお土産屋さん「La Picholine 」などでもラベンダー・グッズがいっぱい。ラベンダーは乾燥させて香りを楽しんだりする。ラベンダーの花だけを乾燥させて使ったり、匂い袋もたくさん売られている。
 一つだけ特別なラベンダー・グッズがある。小さなお店「プロヴァンス・ラバンド」では、様々な形をした「ブゾー・デ・ラバンド」というラベンダーグッズがズラリと並ぶ。数本のラベンダーの花の部分を茎で内側に包み、織り込んで編んだもの。これは「愛と幸せ」を意味するもの。この地方では、結婚式などの贈り物によく使われる。大切な人に贈るもの。

●マルセイユ
 マルシェは地元の人になくてはならない市場。食材以外にもちょっとした雑貨が手に入る。「マルセイユ石鹸」は地元の名産品で、約340円で、自然素材なので肌によいとか。お土産にも最適。
 妹のローラさんがマルシェにいた。家族がこの近くに住んでいるため。マルシェには美味しいお菓子がたくさんある。「マドレーヌ」は6個約340円。特に女性に人気なのが「マカロン」100g約620円。

 マルセイユだけにしかないお菓子は、マルセイユの中心部にほど近い場所にあるお菓子屋「ラ・キュール・グルモーンデ」の、マルセイユ名物のビスケット「ナヴェット」100g約340円を紹介。これは昔、漁師さんが小腹が空いた時のためにポケットに入れていた食べ物。このお店では好きな缶の入れ物に詰めることができる。「スイーツボックス」約450円。

 マルセイユのおすすめ物件を町の不動産屋さん「ル・トゥック」のシャルル・ムトンさんに紹介してもらった。高台の高級住宅地に建つ一戸建て住宅で、3LDK190平方m。二階には3寝室。コーナーからの海の眺めが最高。45万ユーロ(約5000万円)でした。


テレビ番組「世界遺産への招待状45 ボルドー」

 2010年7月3日放送。

●ボルドー
 フランス南西部。古くから交通の要所として栄え、中世からワインの産地として栄えた。商人たちは農家と共にワインを造り世界に広めていった。ボルドーが最も栄えたのは18世紀。町には壮麗な建築が至るところに見られる。カイヨー門がある。大劇場は古代ギリシャを彷彿とさせる均整の取れたルネサンス様式。パリのオペラ座はこの大劇場をモデルとしている。こうした華麗な建築はワインによってもたらされた。
 ボルドーでは1万軒ものワイン農家が競ってワインを作っている。ワインの種類もとても多い。特徴はいろいろな品種から作られたワインをブレンドしていること。あるお店には600種類あった。ブレンドしてどう味が変わるのか、観光客に体験してもらうお店があった。ブレンドすると味が複雑になるという。その味わいの豊かさこそ、ボルドーワインが世界中に有名になった理由。
 18世紀、港にはイギリスやドイツなどから貿易商人が集まってきた。ワインを海外に運ぶために港は整備され、多くの船で賑わった。かつてワインを運んでいたガロンヌ川は大型貨物船が運航し、運ぶのは飛行機の羽。一番の難所がピエール橋。ナポレオンが建設を指示した石造りの橋。狭い橋げたがそのままに保存されている。水先案内人のクリストフ・ルーさんは、潮の干満が問題だという。満ちてくると、水位があっという間に上がるという。タイミングを見て船長が慎重に操作する。橋げたとの差は1mしかない。

 港は河が三日月に見えることから、「月の港」と呼ばれた。世界遺産「パレ・ド・ラ・ブルス」(旧商工会議所)。18世紀、当時港に到着した人が最初に見たのは、均整のとれた建物。以前の城壁を壊し、そういう建物を建てるようにした。外壁に彫られているのは、ワインの交易でやって来る様々な国の人々。取引の客をもてなす応接間は王侯貴族の館のよう。現在もこの建物は商工会議所として使われている。ワインの新酒発表会の打ち合わせが行なわれていた。

 貿易商人のヤン・シーラーさんは、18世紀から続く老舗のワイン貿易商の8代目。町外れの倉庫街に会社がある。今は中国に売り込んでいるようです。先祖は1739年に北ドイツからボルドーに移り住んだ。初代はジャン・アンリ・シーラー。当時、外国人がボルドーで商いをするのはたいへんだった。フランス革命の時は、外国人というだけで反革命と疑われ、逮捕されることもあったという。シーラーさんはワイン農園も経営している。250年の歴史を誇る「シャトー・キルワン Chateau Kirwan 」で35ヘクタール。ここには19種類の土壌がある。その土壌に合う品種のブドウを植え、味の違うワインを生み出している。この日はブレンド作業を行なっていた。製造責任者のフィリップ・デルフォーさんが決めて、シーラーさんが承認する。求めるのは、濃厚な味わいの中に、繊細さや力強さを兼ね備えているもの。19種類のワインの中から9種類を厳選し、基本となるブレンドを作ってきた。それに別のワインを追加して微妙な調整をしている。最終的に3種類が残った。1番は基本ブレンド、2番はプラス柔らかさ、3番はプラス渋みとフルーティさ。シーラーさんは3番がいいが、プレスワインを追加したらどうかという。プレスワインとは、タンクの底にたまった残りかすを圧縮して作る調整用のワイン。渋みや濃厚さを加える。それで1.5%追加したら渋みが増した。しかしデルフォーさんは満足しない。さらに1.5%追加した。最終的にシーラーさんが決めるが、3%追加したものが余韻が長く濃厚だというので、決定した。新酒発表会にはこれを出した。

 新酒発表会の前夜、同じ貿易商の家族と夕食を共にし、情報交換した。
 新酒発表会の初日。世界中から人々が集まってきた。会場には132軒の農家が自慢のワインを持ち込む。評価は高かったようです。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 田中美保さんでフランスで鳥と空を飛ぶ」

 2010年5月15日放送。田中美保さん(27歳)は前回2009年7月11日放送で、ザンビアでビクトリアの滝で奇跡の虹をくぐりたいと言った。今回はフランスのオーベルニュー地方の渡り鳥と一緒に飛びたい。エールフランス277便で日本から14時間半の旅。次は列車でパリ・リヨン駅から特急テオズ号で2時間半。

●予定
 1日目、21:55、成田国際空港発AF277便。
 2日目、5:25、シャルル・ド・ゴール国際空港着。9;01、パリ・リヨン駅発TEOZ5955、11;30、ムーラン駅着。11:40、駅前の公園でガイドと待ち合わせ。12:30、アリエ渓谷自然保護区着。15;30、アリエ渓谷自然保護区発。17;30、フランスで最も美しい村着。19:00、レストランで夕食。
 3日目、5;00、ペンション発。7:00、鳥と一緒に飛べるスポット着。7:30、鳥と一緒に空を飛ぶ。11:00、パリに向けて出発。20:00、シャルル・ド・ゴール国際空港着。23:35、シャルル・ド・ゴール国際空港発。
 4日目、19;00、成田国際空港着。

●ムーラン
 オーベルニュー地方の小さな町。パリからテオズ号で2時間半で到着。雨が降っていました。

●アリエ渓谷自然保護区
 ガイドは鳥好きのギヨムさん(25歳)。まずは鳥の勉強からだという。ベルベデール保護区に行く。アリエ渓谷自然保護区は、アリエ川沿いに約20kmが自然保護区となっていて、約250種類以上の鳥を観察することができる。多い時は1日に1万羽以上を見ることができるという。
 保護区ではできるだけ静かにする。1時間しても鳥は見えなかった。仕方なく鳥笛を吹いた。3時間が経過した後にコウノトリ(シュバシコウ)の番がいた。日本では特別天然記念物に指定されている。バードウォッチングは忍耐です。

●モンペイルー
 フランスで最も美しい村。中世の街並みが今もそのまま残る村。フランスでは美しい村を限定し、そこを認定している。国内3.2万のうち、151の村が美しい村と認定されている。この村は「美しすぎる村」と称される。
 今回はペンション「ラ・カントゥ」に宿泊。オーナーはハーマンさん。宿泊代は46ユーロ〜。
 時間があるので、村を一人で散歩。ドンジョン塔は13世紀に建てられた塔で、かつては見張り台として使われていた。屋上からは眺めがとても美しい。

 夕食はレストラン「ラ・ヴィーニュ」で地元の郷土料理をいただいた。メインは「オーヴェルニュ産の豚の腹肉のロースト」。お肉にアプリコットが入っているので甘い。

●オーリャック空港
 6時45分着。マイクロライト・プレーンはハンググライダーにエンジンをつけた超小型飛行機。パイロットはムーレックさん(50歳)。ムーレックさんは鳥をヒナの頃から育て、鳥に親だと刷り込むことで一緒に空を飛べるという妙なアトラクションを実現した。
 7時半。飛行機が飛ぶと同時に、ムーレックさんが育てた鳥たちも放たれた。まず左手に10羽並んで飛んでくれました。手をのばせば触れそうな鳥たち。そして鳥に触りました。真っ直ぐ前を向いて真剣に飛んでいる鳥に胸を打たれたそうです。着陸すると鳥も着陸しました。
 鳥と一緒に飛ぶアトラクション(35分)595ユーロ(約7.7万円)。


テレビ番組「世界遺産への招待状38 フランスのコルシカ島」

 2010年5月8日放送。ナポレオンが生まれた島。2500mを越える山々が連なり、人々は独特の文化を育んできた。

●コルシカ島
 四国の半分ほどの大きさ。北西部に世界遺産ポルト湾がある。海に突き出した岩が折り重なるように連なっているスカンドラ半島。2億5000万年前の火山活動によってできた。奇妙な岩は、縦に重なった溶岩が横倒しになったもの。
 岩場に住む鳥ミサゴは準絶滅危惧種。ポルト湾は地中海では数少ないミサゴの生息地。海の中では地中海の全ての魚が見られるという。エイの群、ダスキーグルーパー、カマスなど。
 湾を取り囲む岩肌にコルシカ特有の植物が鮮やかな緑をたたえている。この丈の低い植物群は全体を総称して、「マキ」と呼ばれる。香り豊かなハーブを中心に様々な植物が花を咲かせ、食用となる実をつける。エニシダ、君子蘭など。

 ポルト湾の中にマキに囲まれた小さな村「ジロラタ村」がある。村に通じる車の道はない。郵便配達さんも船を使う。
 3月に訪れた時は、とても静かで花や鳥の声が溢れていた。サクラのような花、菜の花のような花などがありました。村には民宿やレストランもあるが、冬の間は休業。ここで暮す村人は10人余り。
 民宿の主はジョセフ・ティエさん(60歳)。息子のシャルルさん(28歳)と2人で切り盛りしている。村で代々暮らしているのは、ティエさん一家だけ。祖母は18人子供を産んだが、亡くなる子も多く、生き残ったのは5人とか。多くの若者はヤギ飼などをしていたが、2度の大戦で多くが亡くなり、生き残った者も村に帰って来なかったという。
 村の奥にはマキが広がり、ティエさんはそれを見て歩くのが楽しみ。ミルトは小さな実をお風呂に入れたり、リキュールを造る。「乳香樹」はオリーブの祖先の木と知られ、昔はランプに使われた。ヤマモモはジャムやリキュールを作る。生きた自然の小さな音が素晴らしいという。
 民宿「La Terrasse 」はティエさんが25年前にレンガを1つ1つ手で積み上げて作った。ヤマモモ・リキュールをいただいた。シャルルさんはフランス本土のレストランで働いていたが、去年民宿を継ぐために帰ってきた。今ティエさんはシャルルさんに村の伝統を教えている。3月になると観光客も訪れ始める。
 夏になると1日2000人の観光客が訪れる。別荘の管理人のミッシェル・ゴーチェさんは「問題はトイレで、2000人の人がトイレがないために、マキの中に行く。村にはトイレを作る予算がない。」という。レストラン経営者のクリストフ・グラニョーさんはお客がいればいいという。
 ティエさんは「生きるとは、雨露をしのいだり、食べたりというような単純なことのために働くこと。今はお金のために働いている人が多い」という。
 ティエさんは自分の住む家を作っている。シャルルさんには自立して欲しいと思っている。今シャルルさんにマキの自然を教えている。シャルルさんもここでは生きているということを実感するそうです。

 山間の村「セルマヌ村」にコルシカ独自の文化を大切に保存している人たちがいる。「パジェーラ」と呼ばれる伝統歌謡。一人が歌いだすと次々に後を追うように歌う。去年、ユネスコの無形遺産になった。歌は18世紀にその様式が確立したという。コルシカではこうした独自の文化を大切にする文化があった。18世紀にはコルシカ独立戦争もあった。結局はフランス軍に敗れたが、一時は独立し、独立を宣言したパスカル・パオリは今もコルシカの英雄。


テレビ番組「検索 de ゴー! とっておき世界遺産 第4回」

 2010年5月5日放送。南原清隆さん、首藤奈知子アナウンサーが司会。浅井慎平、森公美子、金子貴俊、Shelly さんが出演。世界遺産検索システム「さぐ〜る」を使って世界遺産を旅する。NHK製作。

 まず「発見」。発見といえばエジプト。
●エジプト
 これまでクフ王のピラミッドは10万人を使い、20年かかったという。巨大な石はスロープを使って運ばれたというが、完成時には1.6km先まで続く巨大なスロープが必要となる。それだと20年では到底無理だと考えた、フランス人建築家のジャン・ピエール・ウーダンさんは、ピラミッドの不可解な窪みに注目した。中には大きな空洞があった。これをトンネルの跡だと考えた。螺旋状のトンネルを作り、石を運び上げたという。角には方向転換する仕掛けを設置したという。労働条件に関しても、ピラミッド建設を指揮したという役人の墓からは、「王が労働者にパンとビールを与えた」という記録が見つかった。労働者の出勤簿からは、「二日酔いで休んだ」、「息子の墓参りのために欠勤」などという記述が見つかった。そのため、農閑期の公共事業だったという説もでてきた。
 ピラミッドの石は1.5mの高さで1個2.5トン。これが300万個使われている。ピラミッド全体で600万トン。
 現在の入口は高さ9mの所にあり、9世紀に開けられたもの。本来の入口はその10m上。
 作られた当初は全体が真っ白だった。化粧石という石灰岩で覆われていた。

 テーベでは、1922年イギリスの考古学者ハワード・カーターが30年かけて見つけた「ツタンカーメンの墓」。2007年、王の素顔が初公開された。死因についても、2010年2月DNA鑑定の結果、マラリアに犯された痕跡が見つかった。

 DNAといえば、ガラパゴス。
●ガラパゴス
 ダーウィンに進化論のヒントを与えた。ガラパゴスゾウガメ、グンカンドリ、リクイグアナとウミイグアナ。最近、この交配種がでてきて、鋭いツメで木に登れるようになった。2009年、ピンクのイグアナも登場した。こうして種を守っている。

 「守る」といえば、ゴール旧市街。
●スリランカ
 16世紀以降、アジア進出のためにヨーロッパ諸国が築いた要塞都市がゴール。周囲は高さ20mにも及ぶ城壁。街中では洋風建築が植民地時代の面影を留めている。
 このゴールを奇跡の世界遺産として認めさせたのが、2004年のスマトラ島沖地震。ゴール旧市街にも5mを越す大津波が押し寄せた。城壁が持ちこたえ、直撃は避けられた。街の裏から海水が入り込み、大洪水になった。しかし、植民地時代に作られた下水道により、排水された。これは忘れられていた。

 「穴」といえば、カナイマ国立公園。
●ベネズエラ
 絶壁のテーブル・マウンテンが100以上も聳え立つ。山の頂きから流れ落ちる「アンヘルの滝(エンジェル・フォール)」は落差979m。滝壷がない。その山頂(ロライマ山頂)は麓と全く異なる生態系。カエル(オリオフリネラ)には水かきがない。雨で流れ落ちないように、オタマジャクシにはならない。
 直径800m、深さ300mの巨大な穴がある。ここで新生物を発見。マツゲが生えたヤモリ。細いサシガメの仲間。高さ5mの堆積物を発見したが、これは植物の種で、アブラヨタカの食事のあとだった。

 次の検索は「黄金」。
●スペイン
 セビリア大聖堂は、大航海時代のスペインを象徴する世界遺産。高さ28m、上から下まで金の祭壇衝立には、3トンの金が使われている。アメリカから運ばれたもので、120年の歳月をかけて作られた。祭壇の傍らには、コロンブスの柩もある。

●ブラジル
 「オウロ・プレト歴史地区」は18世紀金鉱が見つかり栄えた。ピラール聖母教会は黄金で儲けた人が建てた。最盛期には世界中の金の6割がこの街で掘り出されたという。
 連れて来られた奴隷たちが働いていたが、彼らは祈ることを禁じられた。そこで、自分たちだけの「ロザリオ・ドス・プレトス聖母教会」を建てた。掘った金を少しずつ隠して持ち寄り、支度資金にした。

●オーストリア
 ザルツブルグ歴史地区。財力に恵まれ、芸術文化を育んできた。繁栄ぶりを今に伝えるのが「ホーエンザルツブルク城」。最上階は金箔で飾られた「黄金の小部屋」。しかし栄えたのは、司教ルーペルトの持った壷の中に入っている岩塩。塩は食物の保存にも重要で、貨幣のような価値もあった。モーツァルトのクリスマスのボーナスが、重さ60kgの塩の塊だったという記述も残っている。当時、北ドイツではこの岩塩5本で家1軒が買えたという。
 ザルツブルクは「塩の城」の意味。また給料のサラリーは、古代ローマ時代の給料は塩(サラリウム)で支払ったことが由来。

 「塩」といえば
●ポーランド
 「ヴィエリチカ岩塩坑」は13世紀頃から700年以上に渡って掘られたもので、坑道はのべ300km。部屋の数は2000以上。地下に豪華なシャンデリアで飾られた礼拝所がある。彫像までも岩塩でできている。危険が多かったので、坑夫たちは安全を祈った。
 1978年に世界で初めて世界遺産として登録された一つです。

 「料理」と「芸術」で検索すると、
●イタリア
 「サンタ・マリア・デレ・グラツィエ修道院」の食堂の壁に15世紀の末に描かれたのは、「最後の晩餐」。1970年代から一大修復プロジェクトが始動し、ダビンチの描いた当時の姿のみが浮かび上がった。NHKはさらにCGを使い、食卓の上に、ワイン、オレンジの添えられたウナギなども再現した。

 「料理」といえば
●フランス
 「モンサンミシェル」は干潟にそびえる修道院。年間300万人が訪れるこの世界遺産の名物料理は「オムレツ」。特大サイズですが、「前菜」らしい。

●メキシコ
 「テキーラ」はリュウゼツランが原料。この畑とテキーラの工場が世界遺産。葉を切り落とし、ビニャと呼ばれる中心部分にはデンプンがいっぱい。蒸して甘い汁を絞り取る。発酵させ蒸留し、テキーラができる。
 正統な飲み方は、グラスにライムと塩をつけて一緒に飲む。

●イタリア
 「ナポリ歴史地区」。卵城は12世紀にノルマン人が建てたもの。150年後にフランス王家が建てた城もある。そしてスペインの王宮。この時、新大陸が原産のトマトが持ち込まれた。1889年、イタリア王国の一員となったナポリに国王夫妻がやって来た。その時食事作りをおおせつかったのが、ピザ職人ラファエッレ・エスポージドで、新しいピザを考案した。生地に赤いトマトと白いモッツァレラ・チーズ、緑のバジルをのせて、イタリアの国旗を表わしたピザにした。王妃のマルゲリータはその美味しさに感激し、名前を聞いた。エスポージドは「マルゲリータ」だと答えた。

 人生のほとんどを世界遺産に関係している人は、カトリーヌ・ド・メディシス。
●イタリアとフランス
 生まれたのは「フィレンツェ歴史地区」で、フランスに嫁ぎ、当時の最新文化を伝えた。新婚生活と晩年は「ロワール地方」で、生涯の大部分は「パリのセーヌ河岸」だった。
 フィレンツェはダビンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの多くの芸術家を生んだ。カトリーヌが生まれたメディチ家はヨーロッパ一番の富豪一族だった。生まれた時に、産婆は「不吉な星の下に生まれた子」と言った。生後15日目に母が、21日目に父のロレンツォ2世、そして祖母、大伯父が死去した。14歳の時にアンリと婚約。しかしアンリは20歳年上の養育係ディアヌ・ド・ポワチエを愛人にしていた。夫を取り戻すために、カトリーヌはブロワ城で子宝を得るための薬草を使った。11年目にやっと第一子を授かり、後に12年で10人の子を出産した。しかしその子たちはディアヌに預けられてしまった。
 ニコル・ガルニエさんが貴重な資料を見せてくれました。子供たちの肖像画を鉛筆で描いて送ってもらていた。
 そのカトリーヌの前にノストラダムスが現れた。彼女の家族について、こう予言した。「若きライオンに組みふされて失明した老ライオンは、苦悶のうちに死す」。5年後に現実となった。騎馬試合に出場したアンリは若い騎士に目を突かれて重症を負い、死に至った。
 カトリーヌは若い王の摂政として政務に就き、ディアヌとの立場は逆転した。ディアヌからシュノンソー城を返還させ、派手なディアヌの庭園の向かいに、シンプルな新しい庭園を作らせた。愛人によって乱された国を文化によって建て直そうとした。
 イタリアの宮廷舞踏だったバレッティは、後にバレエとなった。料理はそれまで大皿に盛った料理をナイフで刻み、手掴みで食べていた。ここにフォークを持ち込み、優雅な食事のスタイルを持ち込んだ。今では大人気のシャーベットやマカロンなどの多くのデザートも持ち込んだ。これが今のフランス料理とつながっていく。
 次は宗教戦争の解決にも乗り出す。娘のマルグリットを敵であるプロテスタントのナバル国王アンリに嫁がせようとした。1572年8月24日、その結婚披露宴の最中、王家の家臣がプロテスタントの貴族を暗殺し、これを契機にして全国でプロテスタントの粛清が始まった。フランス史に残る大虐殺事件「サン・バルデルミの虐殺」に発展。政治の実権を握っていたことから、カトリーヌは事件の黒幕と噂された。それに喪服の印象が重なり、「黒い王妃」と呼ばれるようになった。
 その疑惑を晴らせぬまま、1589年ブロワ城で亡くなった。

 「発見」で最後に
●ドイツ
 2009年5月にニューヨークで化石「イーダ」についての記者会見が行なわれた。イェンス・フランツェン博士は人類の祖先の可能性があるという。ヒトとサルをつなぐ最古の生物ではないかと研究が行なわれている。
 イーダが発掘されたのは、ドイツのメッセル。「メッセルピットの化石発掘地域」は東京ドームのおよそ15倍。地下には無数の古代生物の化石が眠る。4700万年前の地球を覗ける窓だといわれている。
 恐竜が繁栄していた中生代の時代が終わると、哺乳類の時代「新生代」の時代となる。当時は地球全体が温かく、新しい種類の哺乳類が次々誕生した。馬の祖先の仲間「プロパレオ・テリウム」は今の馬よりも小さく、体長は70cm。「アメリカツヤタマムシ」。スッポンモドキのカメの仲間「アラエオケリス」。

 実はこの地域は巨大なゴミ箱になる運命にあった。1970年代初頭、ドイツは大量のゴミに頭を悩ませていた。当時のメッセルには大きな窪地があった。州政府はここに大規模なゴミ処理場を作ろうとした。地元の人は大反発。工事のためにその窪地から水を抜いたところ、新しい化石が次々と見つかった。オットーさんは人工樹脂を使って化石を壊れないようにした。絶滅した原始のハリネズミの化石「マクロクラニオン」。原始的なツバメの仲間「スカニアキプセルス」。原始的なキツツキの化石「プリモジゴダクティルス」の胃からは、ブドウの種が見つかった。1981年オットーさんは死去し、意志はメッセル化石郷土博物館に引き継がれた。ワニの化石には抗議の意味で「パリフラクタ・テポニアエ」という「ゴミ処理場」という名前が学術名に入れられた。世論の支持を集め、ゴミ処理場計画は中止された。


テレビ番組「辛坊&森 フランスで奇跡の絶景求めて 弾丸珍道中スペシャル」

 2010年3月28日放送。辛坊治郎さん、森たけしアナウンサーが出演。新番組「す・またん」が始まる。これはフランス語で「今朝」の意味。パワーをもらうためにモンサン・ミッシェルに行く。ここは天使達を引き連れて悪魔に打ち勝つ大天使ミカエルを祀ったパワースポット。世界中から多くの巡礼者が訪れる。ルフトハンザで行きました。読売テレビ製作。

●パリ
 コーディネータは佐藤麻里子さん。

●モンサンミッシェルに向かう
 パリから300km。今回は空港から車で移動しました。途中でノルマンディーを通過。この地方の名物はカマンベール・チーズとシードルというリンゴのお酒。

●ブーヴロン・アン・オージュ
 150kmくらい行った場所。午後5時、フランスの最も美しい村々の一つにも選出されているノルマンディー地方の小さな村に到着。博物館みたいな村。
 「スウィート・オージュ」でカマンベール・チーズを物色。この地方のカマンベールは柔らかくて、表面に白カビを生やして熟成させる。4.8ユーロ(約600円)でした。これを「カフェ・ド・クワフール」でシードルをいただきながら食べた。シードルはリンゴで作るお酒で、多くが発泡酒でサイダーの語源となった。甘くて、薄いワインに炭酸が入っている感じだそうです。カマンベールは今まで食べていたのはカマンベールではない!というくらいに味が違っていて、美味しいそうです。
 午後6時出発。

●モンサンミシェル
 宿泊はル・メリディアン。朝6時半にチェックアウトし、モンサンミシェルに向かう。西暦708年、大天使ミカエルのお告げにより、島の頂上に小さな聖堂を建てたことから、多くの巡礼者がこの地を訪れている。聖堂は規模を拡大し、他では見ることができない美しい姿となり、1979年に世界遺産となった。今は世界中から観光客が訪れる場所になった。年間約300万人。
 名前は「聖ミカエルの山」という意味。尖塔の上にたっているのが、大天使ミカエル。門をくぐって参道に入る。
 「Poolard 」は名物のオムレツ屋さん。19世紀の中ごろ、各地から長く旅をして疲れた巡礼者の空腹を満たすために、この店の夫人がオムレツを始めた。「オムレツ」は38ユーロ〜。かなりふわふわしてオムレツの感じではないという。明石焼きに近い。もう一つの名物が「プレ・サレ」で、モンサンミシェル近辺の塩分をたっぷり含んだ牧草で育った子羊の肉。ミネラル分豊かな風味で、肉質が柔らかく甘い。フランス料理の高級食材でもある。「子羊のプレ・サレ」は44ユーロ。外はこんがりパリパリで、中はしっとりジューシーとか。
 午前10時、グランド・リュー通りを歩く。お店をのぞいて歩く。キティちゃんもいました。
 午後0時、修道院の中に入る。聖ミカエルが見える。フランス国立建造物センターのデルフィーヌ・リオさんが案内してくれました。中心的な存在「修道院・聖堂」11世紀に建設されたロマネスク様式の荘厳な空間。
 普段誰も入れない階段を登らせてもらい、聖ミカエルの足下まで行かせてもらう。

 森さんはパイロットのディディエ・ユランさんと共にグライダー?で飛ぶ。今まで落ちて死んだ人はいないそうです。観光客にも大人気とか。モンサンミッシェル遊覧飛行(ULM?)20分80ユーロ〜。

 辛坊さんはそのまま帰国。


テレビ番組「美の巨人たち 放送500回記念スペシャル・愛と野望の美の宮殿」

 2010年3月27日、28日放送。2000年4月開始で10年、番組も500回。小林薫さんが案内。シェーンブルン宮殿のマリア・テレジア、ヴェルサイユ宮殿のメリー・アントワネット、エルミタージュのエカテリーナ2世の3人は不思議な縁で結ばれていた。

●シェーンブルン宮殿
 ウィーンはかつての世界の中心だった。市内のそこかしこで見かける「双頭の鷲」の紋章を掲げたハプスブルグ家は、スペイン、オランダ、イタリア、ドイツ、ハンガリーなどを治めていた。南西およそ5kmにシェーンブルン宮殿がある。
 200ヘクタールという広大な宮殿を持つハプスブルグ家の夏の離宮。シェーンブンとは「美しい泉」という元は清らかな泉に建てられた小さな宮殿だった。それを現在の形に変えたのがマリア・テレジア。外壁は鮮やかな黄色で、テレジアン・イエローと呼ばれている。
 正門から入ると、部屋数1441室の壮大な夏の離宮。夏が始まると宮殿で働く人々の引越しの荷車がウィーン市内から途切れることなく続いたという。
 宮殿学芸員のアルフレッド・ダイムさんが案内。まず青の階段をあがり、宮殿の目玉というべき大ギャラリー「大広間」がある。今、110年ぶりの大修復中だった。長さ43m、王家の晩餐会や国際会議で使用された。大きな天井画が特徴。また支配した12の地も描かれている。トスカーナのワイン、チロルの人々と岩塩、オランダの人々、ハンガリーの牧童など。その中心に描かれているのが、マリア・テレジアが描かれている。これでハプスブルグ家の威光を感じさせた。1777年、建てられて20年後に最初の修復が行なわれたようだ。今回の修復は3年続く。この大ギャラリーは、いろいろな場面で登場する。フルシチョフとケネディの会談もここで行なわれた。

 マリア・テレジアは1717年にハプスブルグ家の皇帝の娘として生まれた。ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国の帝位まで兼任していて、王の中の王と言われた。サファイア、ルビー、エメラルド、真珠が並ぶ王冠を使っていた。1741年、父カール6世が男子を残さずに死去した。マリアは23歳で後継者となった。すると、プロイセン国王のフリードリヒ2世、バイエルンのカール・アルブレヒトなどの隣国のライバルたちが次々と領内に侵入し、領土と王冠を奪った。その中でマリアはシェーンブルン宮殿の大改造を命じた。各国の王にハプスブルグ家には余裕があることを示し、領民には自信を持たせた。そしてハンガリーの騎馬隊が味方につき、王冠を奪い返した。マリアはより美しく見せるために、取り入れたのがバロック。「バロック」とは「ゆがんだ真珠」の意味で、形や空間をわざとゆがませることで、ドラマチックな空間を作り出すこと。シェーンブルン宮殿にも、大ギャラリーに採用されている。天井はドーム状にうねっている。その空間に命を吹き込むのは、柱やシャンデリアの複雑な装飾。
 小ギャラリーは、庭に向かう途中にある。バルコニーで窓を開けると広大な景色がある。小ギャラリーを通るからこそ、壮大な景色が印象付けられる。見える森までも計算されていて、森に木々を植え足したという。シェーンブルンは建物だけじゃないということ。バルコニーから見えた丘に登る。丘の頂上に到着。宮殿と街が一望できる。
 宮殿には必ず廊下がなく、部屋から部屋に抜けるしかない。皇帝の部屋は一番奥にあり、周辺は側近で固めた。会議室にマリアが入ると、別のドアが開き、側近が覗き窓がある小部屋につながる階段を利用することができるようにしてあった。

 シェーンブルン宮殿に、作曲家のシルベスター・リーヴァイさんは住んでいる。この宮殿の最上階は賃貸アパートになっている。住民用のエレベータで4階に行く。元々は侍従たちが使っていたが、1960年代に今のようなアパートになった。現在52世帯が住んでいる。4LDKで家賃は言えないそうです。自慢はリビングからの眺めで、宮殿の庭園が一望できる。ドアなどの取り替えが禁じられていて、当時のまま。ガスも使用禁止。入居には審査があるが、奥さんがハプスブルグ家の研究者だったのがよかったそうです。
 ハプスブルグ家は「戦争は他家に任せ、幸いなオーストリアよ。汝、結婚せよ」という家訓がある。マリアもこれにならい子供を16人産んだ。フランスのルイ15世からマリアに贈られた貴重な食器が保管されている。この中には子供を産むためにマリアが毎日食べたスープが入れられた。ハプスブルグ家研究者のイングリッド・ハスリンガー博士が説明してくれました。100年以上作られていなかった幻のスープのレシピ本をハスリンガーさんは蚤の市で発見した。レシピには30種類以上の肉や野菜が書き込まれていた。味については、筆舌に尽くし難いと書いてあるだけ。
 ウィーンを代表する老舗レストラン「シュヴァルツ・カメール」は、かつての王家のご用達。マリア・テレジアのスープの再現に協力してもらった。野生の鴨、ガチョウ、野生のウサギ、仔牛の脚、セロリの根などを使って、マレーク・コヴァルスキーさんが作ってくれました。野生の肉、肉、野菜を別々の鍋で煮込んだ。3日煮込み、布でこし、3つの鍋を合わせて完成。濃い味だそうですが、スキヤキの割り下の感じとか。
 マリアは身辺を東洋の陶器で飾った。ほとんどがオランダ経由で手に入れた物だった。日本の徳利もある。歴史学者のレナーテ・ツェディンガー博士は、東洋の陶器は当時最先端の流行だったという。相当の高値だったが、マリアは家族のために買い求めたという。マリアと夫のフランツ・シュテファンは当時一風変わった夫婦だった。政略結婚が当たり前だった当時、異例の恋愛結婚。マリアは何通も夫にラヴレターを書いた。書き出しはいつも決まって「私の愛しい子ネズミ様」だった。子供たちのサロンがある。このサロンの隣に、自分と夫の朝食用の特別室を注文し、子供たちの声を聞きながら朝食をとった。
 58歳で夫を失うと、それ以降は死ぬまでの15年喪服で過ごしたという。国を支え、家族を愛したマリアのことを国民は「国母」と呼ぶようになった。
 夕陽を浴びるとシェーンブルン宮殿の黄色が一層輝きを増す。最初は国威向上のための宮殿だったが、後には優しさが感じられるようになった。
 一番の心配が末娘のマリー・アントワネットでした。

●ベルサイユ宮殿
 パリ市内から電車で30分、「ベルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅」に到着。狩猟のために別荘を建てたルイ13世。息子のルイ14世は父の残した館を囲むように50年にわたり改築を重ね、稀に見る壮大な建築物を作り上げた。建築当初の敷地面積は、およそ2400ヘクタールで、皇居のおよそ20倍。森を切り開き作った道の全長は、およそ20km。樹木の数はおよそ20万本。大地に描いた水と緑の幾何学模様は、まるで自然をも自在に操っているかのよう。

 宮殿内、まずは向かって左手前の「アポロンの間」。ルイ14世の肖像がある。それに向き合っている絵は、「王妃マリー・アントワネットと子供たち」。次は「戦争の間」。天井には、ルイ14世が勝利した戦いの場面が描かれ、黄金の装飾でその偉業を称えている。
 次は「鏡の間」で宮殿のクライマックス。全長73m、天井まで12.5m。まばゆい巨大なギャラレーで太陽王の権力の象徴。庭側に大きな17の窓、それに対面するように並ぶ17の鏡。よく見れば、小さな鏡をつなぎあわせて、大きな鏡が構成されている。鏡の総数は567枚。庭からの日差しを鏡が受け、天井画を光らす。そこにはルイ14世の偉業の数々。その頭上には、ライバル国が擬人化して描かれている。シャンデリアの位置が異様に低くして、天井画を見やすくしている。2年前の修復で絵を調べなおしたところ、1670年頃ルイ14世に日本の将軍から贈られた甲冑が描かれているということがわかった。日本の兜をかぶっていて、横縞の鎧をつけている絵がある。
 「ベルサイユの壮大さを見ぬ者はまだ何も見ていない」と作家シャトーブリアンは書いている。

 1770年、ここにオーストリアからマリー・アントワネットが嫁いできた。14歳のマリー・アントワネットは当時ハプスブルグ家と敵対していたブルボン王朝に嫁いだ。ウィーンからパリまで馬車で23日かけてやってきた。マリー・アントワネットは1755年に生まれ、ダンスや音楽が好きな活発な少女だった。ルイ・オーギュストと結婚した時は、まだ幸せになれるのだと信じていた。しかし後のルイ16世は錠前作りが趣味という地味な男性。妻への愛も乏しく、なかなか子供にも恵まれなかった。母からは「子供を産むことが使命」だという手紙が送り続けられた。
 マリーの部屋は儀式的な部屋だった?せいか、毎朝、婦人たちが起こしに来た。スケジュールが詰まっていた。宮殿の暮らしに疲れ、逃げ込んだ場所は、寝室の隠し扉の向こうだった。金色の間は一人で過ごし、安らいだ部屋だった。肖像画も描かせた。画家の名はルブランで、斬新なファッションに包まれたアントワネットの姿を可愛らしく描き、そのファッションは婦人たちの間で流行した。しかしその影でオーストリアの贅沢でワガママな娘、などと噂された。しばらくして夜な夜な宮殿を抜け出し、仮面舞踏会やパーティ三昧にふけった。
 ベルサイユ宮殿近くのホテル「トリアノン・パラス」でアントワネットが愛したお菓子を再現してもらった。有名ホテルで修行したパティシエのエディ・ベンガネムさんは、マリー・アントワネットのお菓子を今も作っている。ホテルのエレーヌ・デュケさんと一緒にいただいた。「クグロフ」とメレンゲは彼女が大好きなお菓子だった。メレンゲは彼女が自分で作っていたという。「いちごのシャルロット」も18世紀に登場し、彼女が好んで食べたケーキだという。

 マリア・テレジアはコーヒーにリキュールを入れて飲むのが好きだったそうです。マリー・アントワネットはシャンパンが好きだったという。

 ベルサイユ宮殿から1km離れた敷地にアントワネットの館「プチトリアノン」がある。1774年、夫から贈られた。学芸員のピエール=グザヴィエ・ハンスさんが案内してくれました。
 最初の部屋は「王妃の寝室」で、実にシンプル。部屋にあるものは素朴なデザインのものが多い。マリー・アントワネットは小さな花柄が大好きだった。次は「動く鏡の間」で、鏡が上下に動く。窓にはチェーンがついている。通常は鏡を降ろしていて、人目を避けたい時は鏡を上げていたようです。
 庭にでて向かったのは、非公開の「王妃の劇場」は外見は質素だが、中は青、白、金で装飾されている。青っぽいイスと壁と美しい天井画の部屋。実は大理石も金箔もニセモノで、決して贅沢だったわけではない。小さいながらオーケストラピット(オケピ)もある。自ら舞台に立つのも趣味だったとか。2階席は天井に手が届きそうな感じ。さらに上に行くと、イスのない秘密の三階の部屋があった。

 ベルサイユの町のノートルダム広場では終末恒例のマルシェが開かれる。街の路地にあるアンティーク村に行くと、宮殿とこの街の結びつきがよくわかる。ルイ15世時代のイスや家具があり、職人も多く住んでいた。小さなアンティーク銀食器の店「ETMA」を見つけた。18世紀から19世紀初頭の銀製品が並ぶ。ドミニク・ドゥルベルグさんが説明してくれました。マリー・アントワネットはいろいろな人にプレゼントをするのが好きで、そういう際の指輪もありました。マリー・アントワネットは貧困にあえぐ国民のことは知らなかった。ただ、「退屈が怖かった」。

 「アモー」は王妃が作り上げた農村。「自然に帰れ」という哲学者ルソーの言葉が当時大流行していた。「文明を捨て、自然の恩恵を受けて生きていくことこそ、人間らしい生き方」。その思想を一つの村にしてしまった。彼女はここで農村の娘のように振る舞い、卵を集め、お菓子を作った。
 しかし、1789年宮殿に市民が押し寄せ、「国王をパリへ」と叫び、国王一家を幽閉した。
 「ランビネ美術館」はベルサイユの町の18世紀の記録を残す美術館。日本のカメラが初めて入った。ここに牢獄で描かれた最後の肖像画「タンプル塔のマリー・アントワネット」があった。38歳にして自慢の金髪は白く、喪服姿。筆のタッチが気になった。彼女は毅然とした態度で肖像画に臨んだ。「不幸にあって初めて人間は自分が何者であるかが分かります」という言葉を残し、1793年、断頭台に消えた。

●エルミタージュ
 母マリア・テレジアは娘の処刑の13年前にこの世を去っていた。ところがそのニュースに怖れ慄いたもう一人の女帝がいた。ロマノフ王朝最強の女帝と謳われた第8代皇帝エカテリーナ2世。マリー・アントワネットは処刑の1年前、エカテリーナ2世に1通の手紙を送っていた。自らの窮状を訴え、力を貸して欲しいという懇願だった。当時のロシアはヨーロッパ諸国に睨みをきかせるほど強力な権力を有していた。その権力の象徴がエルミタージュで、世界に類を見ない美の殿堂となっていた。

 モスクワから北西におよそ650km、ロシア第二の都市サンクト・ペテルスブルグ。北のベニスと称えられた美しい街は春先の今も川は凍りつき、白一色の世界。300万点を誇る美術コレクションの基礎は、エカテリーナ2世によって集められた。
 18世紀に皇帝の宮殿として造られ、最初に作られたのが「冬宮」で川から見て、一番右、その左に細長い「小エルミタージュ」、その左手前が「旧エルミタージュ」、その奥に「新エルミタージュ」、さらに左に「劇場」の5つの建物を総称し、現在「エルミタージュ美術館」と呼んでいる。
 白い柱に引き立つ黄色い彫刻。草花をモチーフにした門の装飾。見るものを圧倒させ、威厳を高めるバロックの手法です。最初に向かえてくれるのは、驚くほど手のこんだ階段「大使の階段」で、これを大使が登ってから皇帝と謁見していた。どっしりした花崗岩の円柱、濃いグレーが広い空間を引き締める。赤いビロードの壁に覆われた「ピョートル1世の間」。部屋の奥に大切に掲げられた肖像画の人物こそ初代ロシア皇帝ピョートル1世。
 サンクト・ペテルブルグの街は18世紀初頭にピョートル1世によって作られ、帝政ロシアの首都として発展した。冬宮が建設されたのは1762年。その最初の主となったのがエカテリア2世だった。彼女の指示により絢爛を極めた内装が施された。その先に息を呑む空間が待っていた。2階の「黄金の客間」は部屋全体が金箔に覆われている。ここは元は皇帝のプライベート・ルームだった。続いては「孔雀石の間」。鮮やかな緑色の柱はロシアのウラル山脈で取れる孔雀石を加工して作ったもの。薄くプレート状にした孔雀石をモザイクのように貼り合わせてある。

 「エルミタージュ宝物室」には、コレクションの中でも貴重なものが展示されている。エカテリア2世が特に力を入れて収集していたのが、「嗅ぎタバコ入れ」。ダイヤモンドを並べた高価な箱の表面には、彼女の好きだった「役に立つ」という言葉がかかれている。自分の肖像をあしらったタバコ入れには、ダイヤモンドとサファイヤが散りばめられている。貴族の必需品だったタバコ入れは、エカテリーナは日に3度持ち換えるほど好きだったという。

 1729年ドイツの北にあるシュテッティン Stettin という街で、後のロシア皇帝エカテリーナ2世となるソフィー・フレデリーゲ・アウグスタは生まれた。貧しい貴族の娘でしたが、何より書物を愛し、勉学を愛し、知識を身に付けていた。10歳の時、舞踏会で一人の少年と会った。後の皇太子ピョートル3世。14歳の時、ピョートル3世の花嫁候補となった。彼女はものすごく勉強した。母国語ではないロシア語の書物を何ページも暗誦できるほどになった。当時の皇帝に気に入られた少女は皇太子妃に選ばれた。改宗し、名前もエカテリーナ2世と改めた。しかし皇太子ピョートル3世は皇帝の器ではなかった。結婚して7年、全く妻の体に触れず、オモチャの兵隊遊びばかりしていた。「幸福を夢見てロシアに来たのではなく、政治を司るために来た」と気持ちを切り替えた。30歳の時、運命を変えるグリゴーリー・オルローフという近衛部隊員と恋に落ちた。1762年、オルローフは近衛隊員とクーデターを起こし、ピョートル3世を廃し、エカテリーナ2世を皇帝に押し上げた。

 冬宮の奥にあるのは、エルミタージュ「大玉座の間」。イスに座ることを許されたのは、ロシアを治めるただ一人の人物だけ。1762年第8代ロシア皇帝エカテリーナ2世即位。双頭の鷲はロマノフ家の紋章。エカテリーナ2世はロシア全土に号令を発した。「わが祖国ロシアをヨーロッパの列強へ」。外交政策は素早く大胆だった。70以上の戦争に勝利し、ポーランドから黒海まで国土を飛躍的に拡大した。
 彼女は戦争に並行して、すさまじい情熱を注いだのが「美術品の収集」だった。膨大な数の芸術品を買いあさった。当初は西欧にも誇れる美術コレクションを揃えることだった。その中には22枚にも及ぶレンブラント・コレクションがある。「キリストの降架」や最晩年の作品「放蕩息子の帰宅」もある。コレクションが進むにつれ、エカテリーナは絵画コレクションにのめりこんでいったという。2枚の作品のためだけの部屋もある。「レオナルド・ダ・ヴィンチの間」。26歳の作品「ブノワの聖母」で、イエスを大人のように描き、マリアを少女のように描いたという。しかも立体的に描いた革新作だった。もう1枚は30代の終わり頃に描いたとされる「リッタの聖母」。エカテリーナは10年で2600点も買ったという。スペースが必要となり、「小エルミタージュ」を作った。ここが最初にエルミタージュと呼ばれた。彼女は「小エルミタージュ」の南端に愛人の部屋を作った。北側は宴会場「パヴィリオンの間」だった。間をつなぐ廊下を絵画ギャラリーにした。彼女にも生涯を通じて数十人の愛人がいたという。ただ一人永遠の恋人という愛人は天才的軍人グリゴーリー・ポチョムキンだった。
 「パヴィリオンの間」は白と金で優雅に装飾された女帝のプライベート・ルームだった。床に施されたのはタイルによるモザイク。古代ローマの共同浴場跡で発見されたモザイクを再現した。天井も素晴らしい。ここにポチョムキンがエカテリーナに贈ったプレゼントがある。金属で作られた動物たち。部品保護のため、最近では動かしてないという装置を動かしてもらった。イギリス製の極めて精密な仕掛け時計だった。
 「ラファエロのロッジア」は細長い廊下のような場所で、金色の輝きに目を奪われる。細やかな彩色が施された。バチカンの宮殿にあるラファエロのギャラリーをそっくりに再現させた。芸術のためには、お金に一切糸目をつけなかった。女帝は愛人と絵画に囲まれていても孤独を感じていたという。

 サンクト・ペテルブルグの街を歩いてみた。レストラン「猟師の家」で、エカテリーナ2世も好きだったという伝統的なロシアのスープをいただいた。発酵キャベツと牛肉を煮込んだ「シチー」というスープ。

 市内から車でおよそ40分、「エルミタージュ修復保管センター」を訪れた。ここに日本のテレビ・カメラが入るのは初めて。300万点を越えるコレクションを保管し、修復や研究のために2003年に開館した。1日4組限定ではあるが、一般の人が館内を見学できる。エフゲニア・スースロヴァさんが案内してくれました。エカテリーナが最初に飾った作品もある。実際に使われてきた家具や装飾品も見ることができる。最後に驚くべき部屋が待っていた。ロマノフ王家がずっと使ってきた馬車が一同に会している。オルローフから贈られたイギリス製の馬車もある。車体にエカテリーナの肖像をわざわざ描かせている。王冠が載った金色の豪華な馬車がある。あらゆる場所に木彫りの彫刻が施され、金箔が貼られている。

 「小エルミタージュ」には当時はエカテリーナの部屋を通らないと入れなかった。そして入口には「エカテリーナ十か条」が書かれていた。第一条「全ての位を扉の外で脱ぎ去るべし」。第二条「傲慢さを全て扉のそばで捨て去るべし」。第七条「あくびをするべからず。また何人をも退屈させるへからず」。もしこれらに違反したら、コップ1杯の冷水を飲むこと。これはエカテリーナのユーモア。女帝はエルミタージュ会という夜会を開いて、親しい人と夜を過ごした。「パヴィリオンの間」などで。「エルミタージュ」はフランス語で「プライベートな」という意味。彼女は誰にも邪魔されず隠遁生活を楽しんだ。
 しかし宮廷内では、権力闘争が繰り返され、裏切り、ねたみが横行していた。女帝はロシアを思い、発展させたが、女帝は結局最後までロシア人を信頼できなかったとも言われている。エカテリーナはエルミタージュを歩きまわるだけで慰められるとも言っている。彼女は67歳で生涯を閉じたが、30年以上も大国の頂点であり続けた。それから120年後、ロシアにも革命の嵐が吹き荒れ、300年にも渡るロマノフ王朝の時代も終わりを告げた。女帝の作った美術館は世界有数の美術館となった。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー パリで視聴者プレゼント買い付けツアー」

 2010年3月13日、20日放送。ハワイとソウルの本が9.5万冊を越えた。視聴者プレゼントを100万円分買い付けるために、風間ゆみえ、伴都美子さんが旅をした。風間さんは以前トルコを旅した。今回のテーマは「香る大人のパリ」。エール・フランス航空AF279便で日本から14時間30分。

●予定
 1日目、9:30、成田空港発AF279便。14:10、シャルル・ド・ゴール空港着。15:15、パリ市内へ移動。16:15、下着屋さん「フィフィ・シャシニル」、17:00、「ギャラリー・ラファイエット」。18:30頃、マレ地区の「アンティック・バティック」。21:00、「ダ・ローザ」で夕食。アパルトマン「セジュール・ア・パリ・トロカデロ」に宿泊。
 2日目、10:00、ザラ・ホーム。11:30、帽子屋さん「ラ・スリーズ・シュル・ル・シャポー」。12:45、エッフェル塔でランチ。13:30、香水専門店「アニック・グダール」。15:00、セレクト・ショップ「ベイビー・ブッダ」。16:30、「ル・テ・ゼクリヴァン」。17:30、ボン・マルシェ。18:00、サンポール通り、20:30、空港へ。23:35、シャルル・ド・ゴール空港発AF。
 3日目、19:00、成田国際空港着。

●パリ
 下着屋さん「フィフィ・シャシニル」(住所:231 rue St Honore - 75001 Paris Metro )。スイートなのに大人の香りが漂う下着・洋服類だそうです。「シュガー・カラーのモヘアカーディガン」335ユーロ(約4.2万円)。月曜から日曜までフランス語で書かれたショーツ7枚セット「7DAYSショーツ」210ユーロ(約2.6万円)。
http://www.fifichachnil.com/

 オペラ座の裏にある人気のデパート「ギャラリー・ラファイエット」は、まるで大聖堂のような壮大なデパート。地下1階婦人靴売場は、約150のブランドが並ぶ世界最大級の靴売場。全世界のスタイリストたちがよく利用しているという。
 ここの「サルトル Sartore 」はシンプルかつ美しいシルエットが人気。ショーと・ウェスタンはスタイリングしやすく、スンプルなデザインは今年注目という。ブルーの37の大きさ(23.5cm)の「ショート・ウェスタン・ブーツ」500ユーロ(約6.25万円)。
 パリといえば「レペット」。フランスの老舗バレエ・シューズ・ブランド。赤い「バレエ・シューズ」サイズ36(23cm)150ユーロ(約1.9万円)。

 マレ地区は個性溢れるお店が並ぶ、ハイセンスなブティックが集中する若者の流行発信エリア。
 フレンチ・カジュアル・ブランドの「アンティック・バティック」(住所:26 rue St-Sulpice, 6e, St-Germain-des-Pres, Paris )に行く。少しオリエンタルな感じがパリジェンヌに人気。シンプルなコーディネートにあわせやすい。白の「花柄ししゅうのコットン・ドレス」130ユーロ(約1.6万円)。「花柄のチュニック」130ユーロ。「スパンコール・カットソー」205ユーロ(約2.56万円)。「ビーズアクセサリー付ベスト」180ユーロ(約2.25万円)。ピンク色の「ベロア素材のクラッチ・バッグ」205ユーロ(約2.56万円)。「ショルダーバッグ」105ユーロ、「ショルダー・バッグ」145ユーロ、「スタッズ・ロングベルト」90ユーロ、「ストーン付レザーベルト」105ユーロ。
http://www.antikbatik.fr/

 「ダ・ローザ Da Rosa 」(住所:62 Rue de Seine, 75006 Paris)で夕食。お勧めは「ダ・ローザ・リゾット」10.2ユーロ(約1250円)。1階で販売している可愛いデザインの食材はお土産に最適。「ダ・ローザ・オリジナル・バルサミコ酢」、「レーズン・チョコレート&シナモン・チョコレート」など5点で54ユーロ(約6750円)を5名分。「ダ・ローザ・オリジナル紅茶セット」12本で110ユーロ(約13750円)。

 宿泊はアパルトマン「セジュール・ア・パリ・トロカデロ」は長期滞在型のアパルトマンだが、短期の人も借りられる。1LDK(56平方m)。
http://www.private-homes.com/paris/fr/d/429--trocadero-schloesing-studio-paris-location.html?num_r=0

 翌朝、朝食は自分たちで作る。チキンのトマト煮。
 「ザラ・ホーム」(住所:2 Boulevard de la Madeleine, 75008 Paris)に行く。日本でもお馴染みのZARA のインテリア専門店。「オリジナル・テイストの写真立て」2個セット37ユーロ(約4600円)。「ソープ・ディッシュ」10ユーロ(約1250円)を3つ。貝殻イメージの「小物入れ」46ユーロ(約5750円)。ボックス型の「小物入れ」46ユーロ。「木製チェア」34ユーロ(約4250円)。「ヒョウ柄グラス2個セット」10ユーロ(約1250円)。「花瓶」30ユーロ(約3750円)。水差し。「テーブル用アクセサリー4個セット」6ユーロ。「お香立3個セット」12ユーロを2つ。
 2階のキッズ・コーナー。飛行機内ではキッズ用が最適とか。「クッション&ブランケット・セット」46ユーロ(約5750円)はオレンジ色セットとピンク色セット。「ハンガー3本セット」24ユーロ(約3000円)を2つ。「ライオンのぬいぐるみ」20ユーロ(約2500円)。「ひょうのぬいぐるみ」24ユーロ(約3000円)。

 11:30、オーダーメイドができる帽子屋さん「ラ・スリーズ・シュル・ル・シャポー La cerise sur le chapeau 」(住所:11 rue Cassette Paris 6e )。ここは帽子とリボンの色を自由に選べる。今回は「ベージュxベイビーxピンク」と「ネイビーxワインレッドxブルー」。MC3名のイメージの帽子を作ってくれました。梨花さんイメージは王道で「アッシュグレーxグレーxピンク」。しずちゃんイメージは「パープルxバイオレッドxミント」。しょこたんは「サーモンピンクxカーキxオリーブ」。1つ130ユーロ(約1.6万円)。
http://www.lacerisesurlechapeau.com/

 エッフェル塔でランチ。目の前のホットドッグの店「Carrousel Gourmand 」。風間さんがパリで必ず食べるという「フランスパンのホットドッグ」4.5ユーロ(約560円)。

 風間さんが必ず立ち寄る香水専門店「アニック・グダール Annick Goutal 」。お勧めはクラシカルなデザインの瓶と香り。2階の下着売場に行く。オリジナルのランジェリーは全て香水の「香り」をテーマに作られている。「ランジェリー&香水」で270ユーロ(約3.4万円)を2つ。
http://www.annickgoutal.com/

 サン・ジェルマン・デ・プレに行く。かつて哲学者や芸術家が集ったエリアで、ギャラリーやカフェや雑貨屋などが建ち並ぶ。セレクト・ショップ「ベイビー・ブッダ」(住所:68 Rue des Saints-Peres, 75007 Paris )。「エスニック風ポーチ」100ユーロ(約12500円)を2つ。小さいのは70ユーロ(約8750円)を2つ。「ピンク・トパーズのピアス」120ユーロ(約1.5万円)。「アメジストのトパーズ」175ユーロ。「チャン・ルーのネックレス」250ユーロ。「ゴールド・ブレスレット・ブルー」110ユーロ。「ゴールド・ブレスレット・オレンジ」110ユーロ。

 路地裏にある「ル・テ・ゼクリヴァン le the des ecrivains 」(住所:16,rue des Minimes 75003 tel 01-40-29-46-25 )。オシャレなステーショナリーの専門店。「読み書きセット」17ユーロ(約2120円)を3つ。「ブックカバー3冊セット」60ユーロ(約7500円)。「書類ケースセット」37ユーロ(約4620円)を2つ。
http://www.thedesecrivains.com/

 風間さんがパリで一番好きなデパート「ボン・マルシェ Bon Marche 」(住所:24 rue de Sevres 75007 )は老舗。3階のインテリア売場。「ベロアのクッション」はベロア素材をアクセントに使うと高級感のあるインテリアにあるという。クッション2点で310ユーロ(約3.9万円)。
 高級ブランドAstier のアロマ・キャンドル「アスティエ・ド・ヴィラッドのキャンドル Delphes 」110ユーロ(約1.4万円)を2つ。「ラデュレのキャンドル」34ユーロ(約4250円)を2つ。ウェッジウッドの「ハーレクイン・コレクション」もある。「ウェッジウッドのカップ&ソーサー」のピンクは92ユーロ(約11500円)。イエローは95ユーロ(約1.2万円)。「靴袋」22ユーロ(約2750円)。「バスタオル・セット」ピンクは184ユーロ。「バスタオル・セット」青は184ユーロ。「紅茶3点セット」49ユーロを3つ。「調味料セット」21ユーロを3つ。

 残りは13万円。この時点で18:30。アンティークの並ぶサンポール通り。家具からアクセサリまで品数は豊富にある。最も古いお店だが可愛いのは「オー・プティ・ボヌール・ラ・シャンス Au Petit Bonheur La Chance 」(住所:13 rue Saint-Paul 75004 )。オブジェとしての洋書5冊で70ユーロ(約8750円)。
 ハンドメイド・アクセサリーの店「アクア・マリーニ AquaMarini 」(住所:26 Rue des Jardins Saint-Paul, 75004 Paris )に飛び込みで入る。「恋を呼ぶピアス」42ユーロ(約5250円)を6つ。「レースカーテン2枚組」153ユーロ(約1.9万円)を2つ。「レース・カーテン」78ユーロ(約9750円)。
http://www.aquamarini.fr/

 残りは504ユーロ。時間は19;20で閉店の店が多い。閉まっている店を開けてもらった。アンティークのレースのセレクト・ショップ「オ・フィル・テリーズ Au fil d'Elise 」(住所:2 rue de l'Ave Maria 75004 Paris )。「ヴィンテージ・レースのキャミソール」125ユーロ(約15600円)。「レース・キャミソール」110ユーロ(約13750円)。「アンティーク・ブローチ&クッション・セット」310ユーロ(約3.9万円)で合計545ユーロ。これを504ユーロにしてもらった。
http://www.aufildelise.com/

 以上合計63品、合計86名分購入しました。


テレビ番組「にじいろジーン フランス共和国シャモニー」

 2010年2月20日放送。エール・フランスでジュネーブ経由で到着。

●シャモニー
 今から86年前に第1回冬季オリンピックが開催された世界有数のスキーリゾート。ステンドグラスにもスキーをする人々の姿が描かれている。
 この街がにぎわい始めたのは、1786年にアルプスの最高峰モンブランの初登頂に成功したことがきっかけ。麓の町でそれ以降登山客が集まるようになった。
 にじいろガイドはスキー場でスキーのインストラクターもするシャルロット・リーさん(21歳)。

 まずはヨーロッパで一番高い場所にあるロープウェイの駅に行く。ロープウェイを乗り継いでおよそ20分で到着。料金は往復で約5500円。展望台は3ヶ所ある。シャモニー側の展望台からはシャモニーが一望できる。次に頂上にある展望台に向かう。「エギュイーユ・デュ・ミディ展望台」は、標高3842mでエレベータで上がる。この時の気温はマイナス30度でした。遠くにマッターホルンが見えました。すぐ目の前がモンブラン(標高4810m)。ダイヤモンド・ダストも見えました。

 シャモニーで流行している新しいスキーは、フリーライド・スキーで、形式に囚われないスキー。次は「スピード・ライディング」でスキーとパラセーリングを一緒に使うスキー。これで今まで行けない場所にも行けるという。
 ユニークなスキーができるというのでやってきたのは、シャモニー郊外の森の中。「スキー・ジョーリング」は馬に牽引してもらうスキーで、料金は1時間約6000円。昔シャモニーですごく盛んなスポーツだったが、最近また新しいスポーツとして流行し始めているそうです。

 カウベルの専門店「ソネット・デヴァスー」に行く。カウベルは伝統工芸品で、フランスでは2軒しか工房がないという。

 シャモニーの伝統料理が食べられるのは、「ル・モンシュ Le Monchu 」で、「チーズ・フォンデュ」約2000円。チーズ・フォンデュはほとんど食べ終わったら、卵を入れ、残ったパンを入れてかき混ぜて食べる。「タルティ・フレット」約2400円は、優しいミルクの香りが特徴のルブロッション・チーズ?を使う。「エコース・ドゥ・サバン」約2600円は、表面を熟成させたチーズにジャガイモをからめて食べる。「ラクレット」約3000円は、ハード・タイプのチーズを温め、ポロリとなったところをジャガイモにたっぷりからめる。

 スイーツの店「オープチグルマン」に行く。名物は「パレ・ド・グラス Palet de Glace 」約310円で、雪のようなメレンゲのお菓子。外はサクッとしていて、中はナッツのカラメル。
 次はケーキ屋さん「サンチョベール」。ショー・ウィンドーに並ぶパイ・ケーキの上には、王冠がある。「ガレット・デ・ロワ」ホールで約1550円。パイの中には一つだけ陶器で出来た人形が入っている。その人形を当てた人はその日一日王様と呼ばれ祝福されるという行事が、毎年1月に行われている。

 街の不動産屋さん「Agence Immobiliere Moderne 」に行く。郊外にシャモニーならではの物件があるという。古い農家のワンルームをきれいにリフォームした1LDK113平方mで、木のぬくもりに包まれている。1年中窓から美しい山と氷河の景色が眺めることができる。38万ユーロでした。

●イタリアのプレ・サン・ディディエ
 モンブラン・トンネルを通ってイタリア内のプレ・サン・ディディエまで約30分。みんなスキーの後に温泉にやって来る。「テルメ・ディ・プレ・サン・ディディエ」では、日本とは違い水着を着て入る。利用料金は約5100円。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 舟山久美子さんでアルザス地方チョコレート街道」

 2010年2月13日放送。舟山久美子さん(18歳)は自分だけのバレンタインデーのチョコレートを作りたい。エールフランス航空277便で日本から14時間30分。

●予定
 1日目、21:55、成田空港発AF277便。
 2日目、4:25、シャルル・ド・ゴール国際空港着。7:00、RERでパリ北駅へ。7:30、パリ北駅着。地下鉄でパリ東駅に移動。7:45、パリ東駅着。8:24、パリ東駅発TGV9213でコルマール駅へ。11:13、コルマール駅着。11:30、ホテル「クエッチェ・エ・ミラベル」の旦那さんと待ち合わせ。11:45、チョコレート屋さん巡り。17:45、ホテル着。
 3日目、9:00、起床。10:00、チョコレート作りスタート。16:00、チョコレート作り終了。16:40、ストラスブール駅着。17:15、ストラスブール駅発TGV9218、19:34、パリ東駅着。21:20、シャルル・ド・ゴール国際空港着。23:25、シャルル・ド・ゴール国際空港発AF278便。
 4日目、19:00、成田国際空港着。

●コルマール
 TGVで行く。アルザス地方の中央に位置し、パステルカラーの家に沿って、ライン川が流れる美しい町。チョコレート街道の出発点で、フランクフルトの方向に向かって、北に伸びている。かつてはカカオの流通路で、現在200軒のお店が並んでいるという。
 ホテル「クエッチェ・エ・ミラベル」の旦那のロジェさん(53歳)と待ち合わせ。ロジェさんの車でお勧めのお店に行く。
 「オ・ルレ・デ・トロワ・ゼピ Au relais des trois epis 」にはロジェさんがいちおしするアルザス名物チョコがある。木イチゴのジャムのチョコ。有名パティシェのクリスティーヌ・フェルベール Christine Ferber が作るジャムで、地元の果実はもちろん、世界中の果物を素材にしている。舟山さんの作るチョコに、地元名産のクエッチェを入れたら?という提案があった。この「クエッチェのジャム」を5.5ユーロ(約750円)で購入。

 2時間後、チョコレート街道最大の町ストラスブールに到着。市内にはチョコレート屋さんが焼く30軒ある。最も有名なチョコレート屋さんに行く。「クリスチャン」は世界中から源泉したカカオを集め、多彩なチョコを作りだす人気店。エチオピア産、アンゴラ産、マダガスカル産などが紹介されましたが、中でもお勧めは希少価値の高い、アフリカのサントメ産の「チョコ・タルト」3ユーロ(約410円)。生地とチョコの間にナッツが入っているのがとても美味しいそうです。

 次は世界一のチョコレートを食べに行く。奥さんのパトリシアさんのチョコでした。ご夫婦は小さなホテル「クエッチェ・エ・ミラベル」を経営。宿泊客にパトリシアさんのチョコレートは大人気。
 舟山さんの部屋は「Douceur Pourpre 」で赤い壁。宿泊費は夕食込みで145ユーロ(約2万円)。
 夕食は「チキンのグリル&マッシュ・セロリ」。ソースはチョコレート。予想していた味とは違っていたそうです。
 夕食後、奥さんに「くみっきーメイク」をしてあげました(笑)

 作るチョコレートは大中小のハートの形のチョコレートで、小チョコレートの中にはジャムを入れたい。大チョコをあけると中に中チョコが入っていて、中チョコを開けると中にハート型の小チョコが8個入っている形にする。
 まずベースとなるチョコレートを室温で冷やす。冷蔵庫で冷やすと湿度が高いので、きれいに固まらないとか。予め着色パウダーを塗ったチョコを用意しておくと、簡単に作れる。チョコレートにジャムを入れる場合は、ミキサーにかけると口あたりが良くなる。
 さらに名人は地元名産のシナモンとアニスを使いデコレーションする。合計6時間で完成。
 あげた相手は有田さんでした。


テレビ番組「魅惑のフルーツ 世界柿ロード」

 2010年2月13日放送。政井マヤ、久本朋子、甲斐まり惠さんが案内。果物屋さんやスーパーにも多くの干し柿が並んでいる。世界には1000種類の柿がある。柿の学名は、Diospyros Kaki Thunberg。柿は日本、韓国、中国が原産とされる。TVQ九州放送製作。

●パリ
 朝市(マルシェ)で柿は売られていた。3個で2ユーロ。
 世界的なスキン・ケア・ブランド「クラランス Clarins 」のパリ本店。予約は1年先までいっぱいというカリスマ・エステティシャンのローズマリー・カスターノさん。「スープラ・シリーズ Soins Multi Intensifs 」には柿の果実エキスとクズが使われている。4年前に登場したシリーズです。

 セーヌ川に面した場所に人気のスペイン料理店「フォゴン Fogon 」がある。ミシュランにも掲載されている店で、名物料理はパエリア。オーナーシェフのアルベルト・エライスさんは6年前から店で柿料理を出している。レパートリーは10種類。薄くスライスした柿にショウガなどで味をつけ、カラスミをはさんでミルフィーユ仕立てにした。2品目は、帆立の貝殻にオリーブオイルのソースをかけ、薄くスライスした柿をのせ、生の帆立を柿のスライスではさみ、最後にキャビアとネギをトッピング。3品目は柿をくし切にして、タラの塩漬、生野菜、オレンジと和える。これはとても美味しいそうです。

●日本
 柿は奈良時代頃から、干し柿は平安時代頃から食べられている。食物繊維、カロテノイド、ソルビトール、ビタミンC、βシトステロール、ポリフェノール、βクリプトキサンチンなどが入っている。
 飯田市の「かぶちゃん農園」の干し市田柿が紹介されました。
http://www.kabuchan.co.jp/

 久本朋子さんが奈良県を訪ねた。柿の生産は全国2位。法隆寺のお土産屋さんには「パゴちゃん」という柿のゆるキャラが販売されていた。柿のソフトクリーム250円、松本屋の「柿ざるうどん」(700円)などをいただきました。「柿博物館」は平成6年にオープンした、五條市にある柿の博物館。数百種類もの柿のサンプルや柿を使った加工品などが展示されている。同じ敷地内にある奈良県果樹振興センターには、200種類の柿が植えられている。イボのある「いぼ柿」、黒柿、長トロ柿、正月、菊平、マメガキなどが特徴がある。
 柿の2大ブランドは次郎柿と富有柿。次郎柿は関東でよく食べられている甘柿で、四角い形が特徴。富有柿は、日本各地で栽培され、甘柿で最も生産量が多い。
 富有柿の名産地の和歌山県九度山町。
 次郎柿の生産地の静岡県の足立さんの農園を訪れた。森町には次郎柿の原木が今も残っている。

 長野県の松川町ではお漬物に柿を使っている。野沢菜と柿の皮を交互に敷いていって作る。

 「マルメゾン成城店」は30年以上の歴史を持つ成城にある、大人気のスイーツ店。甲斐さんが干し柿を現代風にアレンジしてスイーツにしてもらうために訪れた。オーナー・シェフの大山栄蔵さんが作ってくれました。オリジナルのスイーツ4品は2月14日から1ヵ月限定販売されたそうです。できたものは、「クリームブリュレ」、「キャラメルバニーユ」、「シュークリーム」、「マカロン」でした。

●ベトナム
 ホーチミン市の中心近くの市場。作っているのはダラットで、ホーチミン市の北東の高原地帯にある都市。フランスの植民地時代に避暑地として開発され、プチ・パリとも言われている。
 ダラットの端に柿を売る店が並ぶ。市内では、阿蘇大作さんが案内。ダラットでは5種類の柿が作られている。とても美味しいそうです。
 干し柿も売っている。できた干し柿を瓶の底で押しつぶして細くし、薫製にしている。
 柿農園に行く。カイロンという収穫器具を使っていた。桃もこれで収穫するとか。
 「ダラット農業技術センター」でどこから来たのか調べた。所長のトイさんが説明してくれました。1945年頃に日本から来たそうです。日本の Nishi Suchi ?

●ブラジル
 サンパウロから車で1時間半のピエダーデ市。スーパーでは Caqui と書いてあり、干し柿まである。
 「ブラジル移民100周年記念2レアル硬貨」は1908年の最初の移民船が描かれている。コインの裏には柿を収穫する女性が描かれている。
 柿農園を経営する日系人ジョゼ・ヒロシ・ツヅキさんを訪ねた。富有柿を栽培している。

●韓国・ソウル
 韓国は日本を抑えて柿の生産量は世界2位。秋には市場に柿が並ぶ。干し柿もある。
 「水晶果(スジョンカ)」は食後の定番だという柿のドリンク。生姜を煎じた汁にシナモンを加え、干し柿を煮詰めて作る。ニッキの飴の味をお茶にしたような味とか。韓国では缶ジュースの水晶果もポピュラーとか。

●韓国・サンジュ市
 韓国のほぼ真中近く。韓国で柿の生産の6割を占めている。柿の看板が多い。街路樹まで柿。青果市場では柿の競りが行われていた。ここから韓国各地に柿が出荷されていく。キム・ゴクリーさんが説明してくれました。
 郊外では干し柿生産が多い。工場では一度に200万個の干し柿を製造できる設備がある。日本では通すが、韓国では2個ずつヘタの部分で吊るす。
 柿協会会長のパク・キョンファさんに話を聴いた。

●韓国・プサン
 国際市場にはいろいろな食物が並ぶが柿キムチはない。

●韓国・ヨンチョン
 プサンの北にある町。「モア・コーポレーション」という会社で作っている。柿キムチは見た目は普通のキムチ。3年前から作られていて、干し柿が使われている。韓国国内でもまだ知られていない。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 梨花さんでパリとニューヨーク」

 2010年1月16日、23日放送。梨花さん(36歳)が嫁入り前に世界一周する独身最後の旅。パリで靴を、ニューヨークではウェディングドレスを購入する2泊5日の旅。エールフランス航空AF275便で日本から12時間30分。

●パリ
 18時30分、シャルル・ド・ゴール空港着。タクシーで市内に移動して観光。
 エッフェル塔から様々な色に変化するライトアップがされており、レーザー光線が放たれていました。エッフェル塔は高さ324m、2009年に建設120周年を迎えた。
 宿泊は5つ星の「フォーシーズンズ・ホテル・ジョルジュ・サンク」。デラックス・ルームは1泊895ユーロ(11.5万円)。
 21時からディナークルーズ「キャプテン・フラカス号」。メインは「鯛のストロガノフ風」。デッキからはノートルダム寺院などがライトアップされているのが見えました。ディナークルーズは50ユーロ(6400円)。

 翌朝、気温2度。朝食はココ・シャネルが通いつめたという「アンジェリーナ Angelina 」というお店。1903年創業の老舗サロンで9時半では混んでました。空いている2階?でいただきました。ここにはシャネルも認めた有名スイーツの元祖があった。「モンブラン」6.9ユーロ(約890円)発祥の地と言われている。これを食べられないと言っていました。酔いしれたかったとか。何があったんでしょう。
 11時半、人気のジュエリー・ショップ「カリー・オー Karry'O 」。オリジナル・ブランドのジュエリーと質の高いヴィンテージ・ジュエリーが人気の店。今はキラキラのピアスにはまっているそうです。そのピアスは260ユーロ(約3.4万円)。
 14時、「クリスチャン・ルブタン Christian Louboutin 」。世界中の女性達が憧れるフランスのブランドで、美しく洗練されたデザインは、梨花さんも大のお気に入り。1992年ブランド設立後、すぐ話題となり、現在世界的VIPを多数顧客に持つ。今回はルブタンさん本人にデザインしてもらう。まず工房で足の採寸。ジャネット・ジャクソン、ニコール・キッドマン、カイリー・ミノーヴらの足型が置いてありました。2人で話し合ってデザインしてもらいました。

●ニューヨーク
 ビデオで録画しきれなかった。JFK空港に到着。ここでは26時間19分の滞在。
 23時30分にお気に入りの「ザ・バワリー・ホテル」にチェックイン。
 10時、「ABCカーペット&ホーム」で買い物。6階建ての広大なフロアを持つインテリア専門店。梨花さんは、ティーカップやベッドレースなどを購入しました。
 「カフェ・ラロ」は、映画「ユー・ガット・メイル」で使われたお店。オーガニック素材のみを使ったオムレツをいただいた。「プレーンオムレツ」約500円。

 セレブご用達ブランド「リーム・アクラ」でウェディング・ドレスを試着。ここはアンジェリーナ・ジョリー、ビヨンセ、マドンナなどが利用している。


テレビ番組「たけしの世界の七不思議、第3弾」

 2009年1月1日放送、2009年12月30日再放送。ビートたけしさんが選んだ。今回のエントリーはカッパドキア、アンコール遺跡群、モン・サン・ミッシェル。テレビ東京製作。

●世界の七不思議
 紀元前200年頃、ギリシャで1冊の本「世界の七不思議」(フィロン著)が出版された。オリンピアのゼウス像、バビロンの空中庭園、エフェソスのアルテミス神殿、ロードス島の巨像、ハリカルナッソスのマウソロス王の墓碑、アレクサンドリアの灯台、エジプトのピラミッド。この中で今も残るのはピラミッドのみ。

●新世界の七不思議
 第1弾では、マチュピチュ、楽山大仏、ナスカの地上絵からナスカの地上絵が選ばれた。第2弾では、モアイ像、チチェンイツァ、シーギリヤ・ロックの中から、チチェンイツァが選ばれた。

●カッパドキア
 アンカラは1929年に首都となった。古代ローマ時代から栄えていた歴史有る町でもある。今も当時の遺跡が数多く残されている。ここからカッパドキアまで車で5時間。途中にはトルコを代表する塩の産地「トゥズ湖」がある。さらに1時間で岩場が目立つようになり、峠を越えると奇岩が出現する。
 海抜1200mを越える高原に、東京都よりも広い総面積2500平方kmに渡って広がる奇岩地帯。1985年世界遺産。「妖精の煙突」と呼ばれるキノコ型の奇岩が立ち並ぶ。キノコ岩は高いもので、約20m。中にはラクダ、群れをなすオットセイ、金魚、キスをする2人、ナポレオンの帽子などと名づけられた岩もある。夕暮れ時に驚くべき絶景に変わるのはローズ・バレー。
 この岩ができたのは、富士山にも似た名峰「エルジェス山」(標高3916m)にあった。数千万年前にこの付近の火山は噴火を繰り返していて、100mを越える凝灰岩の層ができた。さらに最後の大噴火が起きた時に、その上に「メッサ」と呼ばれる鉄分を多く含む硬い岩が降り注いだ。雨や風による侵食により、凝灰岩が削られた。
 ネヴ・シェヒル考古学博物館館長のハリス・イェニブナル博士が説明してくれた。キノコ岩は侵食され、やがて傘の部分が崩落する。ローズバレーのような波うつ奇岩となる。
 1965年、「デリンクユ地下都市 Derinkuyu Yeralti Sehri 」が発見された。昔から地下にもう一つの都市があるという話はあったという。しかしそれは誰も信じなかった。郷土史家オメル・テミルさんは調査することにした。そこにドイツ人考古学者マーティン・ウルバン博士がやってきた。以来2人で調査を開始した。昔から人々は地下に穴を掘り倉庫として利用していた。そこから調査を開始した。地下3mの倉庫は今も利用されている。そこに地下都市への入口があるのではないかと調べていた。ウルバン博士が汲み上げられた石に隙間があることを見つけた。取り除くと、その先に通路が出現した。石版があり、それを取り除いたら、地下へと続く通路が出現した。その先には数十人が入る広い空間がいくつも出現した。最深部に到達すると、そこから地上につながる竪穴があり、光が差し込んでいた。これは地下45mまで続いていた。ウルバン博士は「アンダーグラウンド・シティ」として1冊の本にまとめた。
 オメルさんが案内してくれた。地下8階まで掘られ、1.5万人が生活できたという。こういう地下都市が他にも200以上確認されている。これは人類最後の日「ハルマゲドン」に備えた、100万人規模の地下シェルターだという説もある。
 次に「カイマクル地下都市」の中に入った。穀物の保管庫があり、小麦粉でパンのようなものを焼いていた跡があった。台所では天井にススがあった。

 巌窟住居に住んでいるズィアー・アタイさんのお宅を訪ねた。壷や瓶の大きさにあわせて岩を削って棚を作る。リビングも岩の上に絨毯を敷いていた。夏は涼しく、冬は暖炉に火を入れるととても温かいという。
 今でも巌窟住居がホテルとして利用されている。「アルゴス・イン・カッパドキア」。スイートルームは1泊600ユーロで、中にはプールも完備されている。
 地下の奥深くでも人は暮せたのか?調査をしている東海大学海洋学部のアイダン・オメル教授に話を聞いた。たった1本の45mの立孔により、ほぼ完璧に空調システムができていたという。自然の空気の流れを作るために、立孔から地下都市に空気が流れるようなシステムになっていた。

 最初に地下都市を築いたのは誰か?「トカル・キリッセ」に見られるように、3世紀頃からこの地に移り住んできたキリスト教徒だというのが最も有力。ハリス博士はこれまでの定説を覆す重要な手がかりを発見したという。田園地帯の中の碑文は、紀元前730年頃に書かれたものだが、後期ヒッタイトの王が戦いに勝利したことが書かれている。ここがヒッタイトの勢力範囲だったことがわかった。ヒッタイト人はアナトリア半島に紀元前2000年頃に王国を築き、世界で最初に鉄を使用した民族。博士は鉄を使って彼らが最初に地下に暮らし始めた可能性が高いという。近くに地下1階の建物があったが、それをキリスト教徒が参考にした可能性があるという。
 デリンクユ地下都市でも、オメル氏は最初の入口はヒッタイトの時代に作られたものだろうと語る。構造がヒッタイトの有名な遺跡「ハットゥーシャ遺跡」にある形によく似ているという。穴の掘り方にも特徴があるという。ヒッタイト人は鉄のつるはしのようなものを使い、地上から数mのところにこうした地下空間を作ったと考えられるという。
 ハリス博士は石版が地下通路の要所要所に仕掛けられていたことから、地上に敵が現れた時に人々が避難する場所ではなかったか?と考えられた。理由はイスラム教徒などから避難するため。または、キリスト教徒にとってここが特別な場所だったという説もある。地下7階に教会があり、100人が毎日礼拝していたと思われる。形が上から見ると十字架の形となっている。または、キリスト教徒たちが復活の日を待つ大規模なシェルターだったという説もある。そもそも3世紀頃にキリスト教徒たちがこの地に暮らし始めたのも、この荒涼たる土地が、ヨハネの黙示録に登場するこの世の終わりの光景に酷似していると考えたからか?カッパドキアの修道士たちは、いつか訪れる終末を考えていたのか?

●アンコール遺跡群
 カンボジアのうっそうとした密林の中にアンコール・ワットがある。そのまわりに大小700もの石像遺跡がひっそりとたたずむ。2001年、上智大学による新たな発掘が歴史を覆した。274体もの仏像を発掘した。そのほとんどが首が切断されていた。
 1860年、フランス人博物学者アンリ・ムオは未開の地に生息する動植物を調査することだった。その過程でアンコール遺跡を発見した。しかし、その200年前に日本人がアンコール・ワットを訪れていた。ある柱に書いてあるのは、1632年、森本右近太夫が墨書をしている。「父義太夫の長寿を奇岩し、また亡き母のぼだいを弔うため御堂を参拝し、四体の仏像を奉納した」とある。祇園精舎がカンボジアに実在していると、当時東南アジアには朱印船貿易により日本人町がいくつも存在していた。祇園精舎の噂は海を渡り、森本の耳にも届いたのであろう。
 水戸の徳川家に代々伝わる「祇園精舎図」はアンコールワットの図面とピタリと一致する。当時の日本人はアンコールワットのことを祇園精舎だと思い込んでいたようだ。元の図面を持ち帰ったのが、森本右近太夫らしい。
 彼は元は加藤清正の部下だった。

 京都市下京区の乗願寺に森本右近太夫のお墓が見つかった。月桂院殿が彼の戒名だとわかったのは、そこに森本佐太夫の名が書かれていたから。お寺の庭の墓石に彼の名前があった。右近太夫15代目の子孫の森本信一さんは消息を探していた。右近太夫が参拝した翌年の1633年、幕府は海外渡航禁止令を出した。帰国者にはキリシタンの疑いがかけられた。容赦のない弾圧があり、右近太夫は名前を変え消息を絶つことで、子孫を守ったと思われる。
 1970年代から90年代のカンボジア内戦はアンコール研究を途絶えさせてしまった。90年代に復活し、上智大学学長の石澤良昭教授率いる調査団が、現地で修復や発掘を教え始めた。そして2001年274体の仏像を発見した。しかし半数以上が首を落とされていた。

 アンコールワット付近の田園では年に3回収穫ができる。乾季には水がなくなるのに、この地はどうして水を湛えることができたのか?彼らが考えたのは、「バライ」という灌漑施設だった。バライとは貯水と排水を考えた巨大な人工池だった。
 アンコール・ワット北東部の「バンテアイ・クデイ寺院」を建築学の三輪悟さんに案内してもらった。アンコールの建物は石だけでできているわけではなく、大量の鉄が「かすがい」として使われていた。1.5kgの鉄を700本程度使っているようだった。では、どこで作っていたのか?
 アンコール遺跡の北東にある「タニ村」では、今でも鉄を使い農具や日曜品を作っている。カンボジアの人々は昔から鉄の加工を日常的に行なってきたという。王朝を訪れた中国人が、王は鉄の鎧を着ていたと記述している。王朝はタイやベトナムまでも領土を広げていた。

 王朝末期に50年にもわたって君臨したジャヤヴァルマン8世(在位1243年〜1295年)は全く寺院を建造していない。それまでの王は即位するとすぐに寺院を建立していた。中でも父のジャヤヴァルマン7世はアンコール・トムの中にあるバイヨン寺院を建立し、今でも偉大な王としてカンボジアの人の尊敬を集めている。このバイヨン寺院は仏教寺院なのか、ヒンドゥー教寺院なのかが不明であった。仏教徒の7世が建立したにもかかわらず、その壁面はヒンドゥーの神々で覆いつくされていた。近年、意図的に改宗されたという証拠が見つかった。バイヨン寺院に多くあったブッダの像が全てはがされていた。重い蓋の下に観世音菩薩像が埋められていたなどがわかった。つまり8世は王になりたかったが、仏教勢力により阻まれた。ヒンドゥー教徒がそそのかして8世を仏教徒嫌いにさせ、血で血を洗う勢力争いの後に8世が王となり、仏教徒を駆逐した。捨てるだけでは生ぬるいというので、仏像の首も切られた。その仏像が274体2001年に見つかった。しかし仏の顔を傷つけないように切られていた。
 8世はアンコールワットも大改造をした。宗教的な意味をそぐために、アンコールワットを金で覆った。橋も金にした。見つかった仏像のうち、首と胴体が一致するものは274体のうち数個しかなかった。まだ残りは埋まっているのだろう。
 8世の時代は滅亡へ向かう衰退した時代とみなされていたが、どうもそうではなさそうだということがわかってきた。

●モン・サン・ミッシェル
 世界で最も美しい世界遺産。海上の岩山にそそり立つ70mもの高層建築。中世の巡礼地だった。モンサンミッシェルとは「大天使ミカエルの山」の意味。尖塔に立っている大天使ミカエルは天の軍勢を率い、悪魔と闘う最強の天使として崇められている。
 現在は堤防で陸と結ばれ、車に乗ったまま行ける。島の周囲はおよろ1km。教会は高さ80mの岩山に建っている。観光客は年間320万人。中でも人気なのが参道に店を構える「ラ・メール・プラール」の巨大なオムレツ。仕上げにリンゴの蒸留酒でフランベし、砂糖をふりかけてある。これは元々は巡礼者に素早く栄養のあるものを提供するために準備したもの。実に100年以上も人々に愛されつづけている。グランド・リュー通りは土産物店などが軒を連ねる。ここを通って20分、急な階段を登ると修道院の建物が見えてくる。そして入口に。
 内部はミサが行なわれていた。8世紀にキリスト教の聖地となった。修道士と修道女は以前と同じように厳しい戒律を守り続けている。

 1337年、イギリスとフランスの間に100年戦争が始まった。この島は要塞として改造された。また1789年フランス革命が起こると、政治犯を収容する牢獄に変えられた。その陰惨なイメージのために誰からも忘れられた。19世紀に文豪ヴィクトル・ユゴーは誰も見向きもしないこの島に注目した。
 1831年ユゴーは愛する妻が友人と恋に落ちたので、失意の中にあった。その時女優ジュリエット・ドルーエに一目ぼれした。それから半世紀に渡って2人はフランス各地を旅しては愛しあった。出会いから3年後の1836年、モンサンミッシェルを訪れた。ユゴーはその美しさに感動し、フランスの至宝が荒廃し、誰からも忘れ去られていることを嘆いた。ユゴーは何枚もデッサンを描き、美しさをアピールした。中でも「モンサンミッシェルは、フランスにとって、エジプトにとってのピラミッドに値する」という言葉をきっかけに、一目見ようという人たちが集まるようになった。1863年、ナポレオン3世はモンサンミッシェルを牢獄として使用することを中止し、歴史的建造物として保存することも決まった。
 この地を取り巻く環境にもユゴーは魅了されていた。大潮の日にそれは起こった。日の出とともに干潟に大量の海水が流れこみ始めた。毎分60mで潮が満ちてきた。この急な潮の流れは浅瀬を渡ろうとした巡礼者の命を奪った。大潮の日の干満の差はおよそ15m。これほどの差は世界最大級。瞬く間に干潟にあったモンサンミッシェルは海の孤島となった。そして1時間後、潮が急激に引き始めた。これはモーゼの出エジプト記を彷彿とさせた。そこでキリスト教徒はこの光景を奇跡として伝えてきた。

 8世紀にキリスト教徒が聖堂を建設し始めた。どうやって建造したのか?アンリ・ドカンさんが説明してくれました。ノートルダム・スーチール聖堂の壁の下から1960年の修復時に古い石組みが出てきた。調査の結果10世紀頃のものだとわかった。当時いかに苦労して石組みを造ったかがわかった。30km離れた砕石場から船で運び、岩盤の上に一つ一つ積み上げていった。11世紀には修道士が暮すようになり、彼らの手により建て増しされていった。12世紀〜13世紀に「西洋の驚異」と呼ばれる建築が行なわれた。最も困難を極めたのは祭壇のある「内陣」と呼ばれる場所で、何度も崩れたという。11世紀には支柱の根元まで崩れたという。これを現在の形として完成させたのは、ギョーム・テストゥートヴィルで、500年を経ても崩壊していない。12世紀のフランスで始まったゴシック建築では、ノートルダム大聖堂・ルーアン大聖堂・シャルトル大聖堂のように、外壁を外側から支えることで、建物の高層化が可能になった。またある部分の天井は柏の木で作られているが、船の底をひっくり返した構造になっている。元々この地方では船造りが盛んだったので、軽くて丈夫にすることができ、建物を高層化できた。またラ・メルヴェールの最上階には、修道士たちが瞑想するための回廊と庭園が作られた。土地をセーブするために、通常は1階にあるものを最上階に作った。
 しかし、14世紀には百年戦争が勃発し、要塞に改造された。15世紀には城壁が作られ、イギリスの攻撃を食い止めた。1789年、フランス革命により政治犯を収容する牢獄に改造された。地下に当時牢獄として使われた場所が残っている。直径6mの大車輪は中に囚人を入れて歩いて回転させ、外の食料を引き揚げるのに使っていた。

 8世紀以前は死者を葬る「モン・トンブ」と呼ばれる山だった。対岸のアヴランシュという町に住むオベール司教の夢に、大天使ミカエルが現れ、「かの山にわが名を讃えし聖堂を建てよ」と言った。オベールは信じなかったので、ミカエルはオベールの頭に指を突き刺した。夢から覚めて穴が開いていたので、オベールは夢を信じ、708年、モントンブにミカエルを讃える聖堂を建てた。しかし、これは事実だったということが、保管されているアヴランシュのサン・ヴェルジュ教会にオベールの頭蓋骨に穴が開いている。ここを訪れた巡礼者に奇跡が多く起こったという。巡礼に訪れた妊婦は、急激に満ちてきた潮のために命を失いかけた。妊婦は大天使ミカエルに祈ったところ、彼女の近くだけは潮が引いたという。また百年戦争でイギリスの攻撃を防げたというのは、城壁が丈夫だったという理由だけではないという。

 今、重大な危機が訪れている。昔からこの地方では漁業が盛んに行なわれてきた。干満の差が激しいこの地で活躍するのは水陸両用車。ムール貝の養殖に適している。年間1万トンとフランスの生産量の7分の1を生む。漁港のカンカルのレストランではそんなムール貝を堪能することができる。中でも人気は「ムール貝のマリニエール」で、蒸したムール貝をホワイトソースやトマトソースで食べる。しかし近年かつてのような豊富な魚介類が取れなくなっているという。養殖業のディディエさんは魚の量も減ったという。モンサンミッシェルは大潮の日でもない限り、完全に海に沈むことがなくなってきている。
 モンサンミッシェル観光局長のアラン・コナンさんは、19世紀になって観光客が増え、1879年に2年かけて堤防が築かれ、鉄道が敷かれた。その堤防が海に悪い影響を与えているという。調査によると130年前に比べ、水深が70cmくらい浅くなったという。これで自然の海流の流れを止め、砂が堆積するようになった。島のまわりは牧草地が広がった。やはり巡礼者たちは海の中に立っているのを見たいと思っているのではないか?モンサンミッシェル湾開発プロジェクト・ディレクターのフランソワ・グザヴィエ・ド・ボーランクールさんに話を聞いた。このままでは2042年にも島のまわりは雑草で埋まってしまうことがわかった。まずは川にダムの建設と人工運河を作る工事を始めた。引き潮の際に一気に沈殿物を流す作戦。第二段階として堤防や駐車場を撤去し、橋をかける。これには車を通さず人のみの歩道にする。2億ユーロかかるそうです。


テレビ番組「世界鉄道旅行 バルセロナ〜モンペリエ」

 2009年12月26日放送。

●スペイン
 バルセロナから地中海沿いを走り、フランス南部のモンペリエに向かう。バルセロナは港に近いフランサ駅。19世紀にフランスに向かう列車用に作られた。むきだしになった鉄骨の天井。8時45分発のモンペリエ行き「タルゴ73」に乗る。タルゴは車高を低くした長距離列車。
 カフェ車両では飲み物や軽食をオーダーできる。
 2時間後、ピレネー山脈が見えてきた。間もなくフランス国境。ポルプー駅がスペイン最後の駅。

●フランス
 右手には地中海が出現し、セルベル駅に到着した。15分停車し、車輪の幅を調節する。スペインとフランスはレールの幅が違うため。
 左手の窓の外は海ではなく湿地帯。
 ベジエを過ぎるとモンペリエ。13時16分にモンペリエ駅に到着。駅から外に出る。13世紀から発展した町で、今でも中世時代の面影が残る。青い路面電車のトラムが走りぬける。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん リヨン」

 2009年11月21日放送。早く始まったので、前半は録画できませんでした。

●リヨン
 フランス第三の都市。古代ローマ時代から交通の要所として栄えてきた。人口約45万人で、美食の街として有名。「サン・アンドレ市場」では、「プラリネ」というリヨン名物のお菓子が売られていた。
 店「ジローデ」では、魚のすり身の「クネル」という名物料理を販売している。
 リヨンの郊外にある公園「モンプレジール」のすぐ隣に、世界初の映写機を発明したリュミエール兄弟が住んでいたという。
 お勧めの庶民的な食堂「ブション・デ・フィユール」。
 フランスのロマネッシュートランにある有名なワイナリー「ジョルジュ・デュブッフ」。この時は、ボジョレー・ヌーボーの仕込みの最盛期で、出荷を急ピッチで行っていた。ボジョレーの帝王・ジョルジュ・デュブッフさんに話を聞いた。

 新婚さんの朝ごはん。サンドラさんが作るのは、1品目「リヨンソーセージの赤ワイン煮込み」。玉ねぎをみじん切りにし、バターをひいたフライパンに入れて、軽く焦げ目がつく程度まで炒める。リヨンソーセージを丸々加え、表面に焦げ目がつくまで炒める。カットした皮付きのジャガイモを加え、赤ワインを加え、蓋をして、しばらく煮込む。ソーセージの中まで火が通ったら、塩胡椒で味つけをし、最後に生クリームをまわしかけ、軽く煮込めば完成。
 2品目「プラリネタルト」。鍋に生クリームを入れ、細かく砕いたプラリネを加え、弱火で混ぜながら煮込む。プラリネが溶けて生クリームとよく混ざったら、タルト生地に流し込む。あとは180度のオーブンで約40分焼き上げれば完成。
 3品目「リヨンサラダ」。ベーコンを細かく切って、強火で炒める。焦げ目がついたら、一旦別の皿に取り出して置いておく。同じフライパンに固めのパンを入れて、焦げ目がつくまで焼く。一片一片の表面ににんにくをこすりつけて、新鮮なレタスをたっぷり入れておいたボウルの中に。炒めておいたベーコンも入れる。ワイン・ビネガーとサラダ・オイルを混ぜあわせて自家製のドレッシングを作る。これをかけて全体を混ぜる。お皿に盛り付け、最後にポーチド・エッグをのせて完成。


テレビ番組「にじいろジーン 地球まるごと見聞録 パリ」

 2009年11月7日放送。

●パリ
 エール・フランスで到着。人口210万人。面積は東京のおよそ6分の1。年間2000万人の観光客が訪れる。町中では、ノートルダム寺院、凱旋門、数々の歴史的建造物を目にすることができる。音楽、ファッション、モンマルトルの丘での絵画などが古くから世界に影響を与え続けてきたことから「芸術の都」と賞賛されてきた。
 シンボルは高さ324mのエッフェル塔。東京タワーより70年早く1889年に建設された。
 にじいろガイドは、アイト・メジュベール・イングリッドさん(21歳)。まずはセーヌ川クルーズ。乗り込んだのは少し小ぶりな「バトビュス」という船。これは水上バスだから旅行者用のアナウンスもなく、船からの景色をゆったり楽しめる。しかもチケットは1日券だから何度乗ってもOK。1600円。

 バスティーユ市場に行く。多くのフレンチ・レストランもある。手軽に味わえるお店は「シュプレーム・デュ・マレ」という老舗のお惣菜屋さん。店を構えて140年という。量り売りなので、好きなメニューを好きな分だけ食べられる。三角形の屋根みたいなものは「ジャンボノ・パネ」で、ハムの外側をパン粉でコーティングしたフランスの伝統的な食べ物。その日は「豚肉のパテ」がお勧めだった。これから美味しいサンドイッチ500円を作ってもらえる。これをセーヌ川の辺でいただいた。
 フランスでは常識の食事のルール。食べ合わせのルールがある。カフェオレとクロワッサンのように味を高める組み合わせは「マリアージュ」と呼ぶ。セーヌ河畔の屋台に行くと「シャブリワイン」と「生牡蠣」がマリアージュ。シャブリワインはブルゴーニュ地方のシャブリ地区で作られるワインで、味がスッキリしているからカキのもつ風味を消さない。そば粉のクレープ「ガレット」はフランスではポピュラーな食べ物で、「シードル酒」がマリアージュ。シードル酒はリンゴから作られ、その甘味がガレットに入っているハムやチーズの塩分とよく合う。

 ファッション。個性的なファッションのパリジェンヌが多い。「ウルトラモッド」などの手芸店は手作りを楽しむ女性たちが訪れる。パリには「メルスリー」と呼ばれる手芸屋さんがたくさんある。このお店にはプロのデザイナーも訪れるとか。この店には生地、リボン、ボタンなどが並ぶ。他にも手芸好きが集まる場所がある。「バスチャン・ドゥ・アルメイダ」は手芸教室を開いていて、洋服作りに励んでいる人もいる。

 ケーキ屋さん「パティスリー・ドゥ・レグリス Patisserie de l'Eglise 」には色鮮やかなお菓子が並ぶ。名前の由来も面白い。エクレアは「稲妻」のように一瞬で食べられるから。ミルフィーユは「1000枚の葉」の意味。フィナンシェは「お金持ち」で、金塊のような形をしているから。
http://www.caradou.com/
 1つに決められないという人のために、リヨン駅内の「ル・トラン・ブリュ」には「食いしん坊のコーヒー」1300円がある。一度のたくさんのスイーツを食べられるように考案されたメニューで、1杯に4個のケーキがついていました。スイーツの組み合わせも自由に選ぶことができる。マカロンもミニサイズ。2年ほど前にパリで誕生してから、女性を中心に大人気。
http://www.le-train-bleu.com/

 不動産屋さんに行く。セーヌ川にほど近いパリの中心地にあるアパート。2LDK50平方mで、5日間から利用可能なレンタル・アパートで、旅行や長期滞在にも対応できる。ピンクのベッドや家具も全て揃っているからすぐにでも入居できる。この物件は6人までシェア可能で、1週間1100ユーロ(15万円)。

●ヴェルサイユ宮殿
 電車で40分。ヴェルサイユ宮殿はフランスが最も華やかだった頃の象徴。ルイ14世が17世紀に50年の歳月をかけて建造した。宮殿内で最も美しい73mの「鏡の回廊」では、ルイ16世とマリー・アントワネットの婚礼の舞踏会が開催された。散りばめられた豪華な装飾品。この宮殿は庭園も美しい。左右対称に作られたフランス式庭園は見事。その広大な面積は100万平方mで、東京ドーム21個分。広い庭園を楽しむツウな方法は、「レンタ・サイクル」1時間900円。その時に忘れてはいけないのがパスポート。


テレビ番組「THE 世界遺産 パリ」

 2009年10月18日放送。

●パリ
 1837年パリで生まれた写真機ダグレオタイプで、ダゲールは銀板の上に、見たままの風景を焼き付けることに成功した。それから170年、ルーブル美術館に最新鋭のカメラを持ち込んだ。
 パリのセーヌ河岸。エッフェル塔から大聖堂から宮殿まで、5kmが1991年に世界遺産に登録された。自由と平等を掲げ、パリは革命の舞台となった。古い物と新しい物が混在している。19世紀には石造りの建物から、鉄とガラスによって(ルーブル美術館、グランパレ)へ生まれ変わった。
 セーヌ川に浮かぶシテ島からパリの歴史は始まった。紀元前3世紀、島にパリシーという人々が住み着き、その名を取ってパリの名が付けられた。ノートルダム大聖堂の前に「ゼロ地点」のマークがある。パリから何kmという道のりを言う場合、ここが起点となる。ノートルダム大聖堂は12世紀に着工、100年余りをかけて完成した。天空を仰ぎ見るゴチック建築、神の光となるステンドグラス。しかし大聖堂にも危機の時代があった。フランス革命による破壊の末、閉鎖に追い込まれた。教会との和解を図り、ミサを復活させたのはナポレオンだった。彼はここで自ら王冠を戴き、フランス皇帝となった。
 19世紀、産業革命を迎えたパリでは貧困が増大し、深刻な問題に直面した。狭く暗い路地にはゴミや汚物が溢れ、衛生状態は悪化の一途を辿った。そうしたパリの大改造をしたのはセーヌ県知事のオスマンだった。ナポレオン3世の皇帝となった1850年、私たちのイメージするパリはその時に作られた。

 オスマンはパリの交通事情をよくするために、多くの橋を建設した。セーヌ川の景観を一変させた。放射状に延びる12の大通りを新設し、世界の都市としてパリは生まれ変わった。並木のある大通りは市民が散策できるようになった。
 そこに絢爛豪華なオペラ座が建てられた。建築家は当時無名だったシャルル・ガルニエ。現在はオペラ・ガルニエと呼ばれている。この劇場は「オペラ座の怪人」でも有名になった。天井画はシャガールの作品。フランスの宮廷文化とロシアから来た前衛画家、それを不自然に思わせないのも、パリのなせる技。建設当時の立体模型が残されている。そこに謎のサロンを見つけた。バックステージのこの部屋は、パトロンたちがお気に入りの出演者たちとパーティを催す場所だった。パトロンたちは事業に成功したブルジョワだった。新たなパトロンの登場は新時代の到来を告げた。
 1889年、万国博覧会のために造られたエッフェル塔。ほぼ11年おきに開催された万国博覧会は、パリ会場に拍車をかけた。石造りの街に、鉄とガラスの新建築を次々に誕生させていった。オルセー美術館も元々は万博に集まる客のためのオルレアン鉄道の駅だった。
 セーヌの岸辺に突然出現した巨大な丸屋根。1900年パリ万博のメイン会場となった「グラン・パレ」。溢れるばかりの光で空間を演出する、まさに未来の建築だった。19世紀最後の博覧会は内外から5000万人の入場者を集めて閉幕した。その後もグランパレは展示会、馬術会などに利用された。パリ万博の大きな特徴は、技術と産業の見本市に、芸術を加えたこと。芸術はフランスが世界に誇る産業となった。グランパレでは多くの展覧会が開かれ、前衛芸術の拠点となった。

 グランパレに集まった客たちの中には、印象派を代表するクロード・モネの姿もあった。独自の光と色彩により、絵画の生きる道を見出した。同じ構図の作品を何度も好んで描いた「ルーアン大聖堂連作」。画家の関心は光と色彩にあった。光の変化は大聖堂の色を刻々と変えていく様をモネはキャンバスに再現した。19世紀ダグレオタイプによる写真の誕生に誰よりも刺激されたのは、印象派の画家たちだった。彼らは絵画にしかなしえない色彩と表現へと向かって行った。オランジェリー美術館にはモネの集大成ともいえる晩年の作品「睡蓮」がある。モネは睡蓮だけで一つの部屋を装飾したいという誘惑にかられた。「壁に沿って包むようにすれば、水平線も岸辺もない水の広がりの幻影が生まれるだろう。」と考えて描かれた。モネの死後にこの部屋は作られた。
 パリからセーヌ川を西へ。郊外の小さな村ジヴェルニーはモネが86歳で亡くなるまで暮らした場所。日本から睡蓮を取り寄せた。それが晩年の昨年につながった。現実を写し取る写真に対して、印象を描き出す。モネはそこに絵画の生きる道を求めていた。

 19世紀、パリで誕生したパサージュ。パリッ子のとってガラス屋根のかけたアーゲードを歩くことは、最新のファッションだった。また「オートマタ(自助人形)」は仕掛け人形で、新しい物好きなパリ市民の好奇な目を集めた。「笛吹き男」は演奏を終えると口上を述べはじめる。より繊細な動きを求め、様々な工夫がなされた。修復家のシルヴィアンヌ・デュガさんは、まぶたには死産した仔牛の皮を使うという。薄くて丈夫なので動きが自然になるそうです。睫毛には毛皮を使っている。手仕事がなしえた究極の芸術ともいえる。
 機械文明の夜明けを告げた19世紀、パリには未来があふれていた。
 「労働者のためのノートルダム教会」は増え続ける市民のために、万博の時に作られたこの教会は、まるで工場のように祈りの場に美しく鉄骨が溶け込んでいる。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん パリ」

 2009年10月3日放送。予想より早く開始したので前半はHP情報。

●パリ
 パリの街をシトロエン2CVなどのレトロな車で巡る、名所巡りツアーがある。
 「ラスパイユ市場」では、パン屋さんや、旬のキノコを扱ったお店などが立ち並んでいた。「グーチュ」は、行列が出来るほどの人気のサンドイッチのお店。1ユーロで買える。
 マレ地区はカフェや雑貨店などが立ち並ぶ。「ミ・アモール」はセレクトショップで、並んでいるのは若手デザイナーの商品ばかり。
 「マイユ」はお勧めだというマスタード専門店。1747年創業で、辛さの違う様々なマスタードを売っていて、お客さんはみな持参の容器に詰めてもらっていた。
 「カルティエ財団現代美術館」は、1984年設立の現代アートの美術館。外壁や建物が落書きらだけになっていた。現在「グラフィティ」とい落書きアートの展示中(11月29日まで)で、外の壁を市民に開放して自由に落書きをしてもらっているのだという。子供たちが服に着色できるコーナーもある。中庭には車が置いてあり、中では自由に描くことができるコーナーもあった。

 新婚さんの朝ごはん。閑静な住宅地に住むマリーヌ・ミロヴァノヴィッチさん(25歳)が作るのは、1品目「野菜スープ」。ポロネギ、たまねぎ、ニンジン、じゃがいもをさっくり切り分け、ポロネギとたまねぎをバター炒め、じゃがいも、にんじんを入れ、水、チキンブイヨンを加えて煮込む。柔らかくなったら、ハンドミキサーで滑らかにする。最後に生クリームをたっぷり加える。
 2品目「レンズ豆のサラダ」。細かく刻んだベーコンとエシャロットを炒め、市販の茹でてあるレンズ豆を加え、さっと炒めお皿に盛る。ソースはマスタード、ワインビネガー、オリーブオイルなどを加え、しっかり混ぜてかける。
 3品目「ミラベルのコンポート」。ミラベルを半分にカットし、種を出す。皮はそのまま。それを鍋にどっさり入れ、グラニュー糖にバニラ風味のついた砂糖を加え、ゆっくり煮詰める。とろみがついたら冷ましてグラスに入れ、ホワイトチーズをのせ、ミラベルをさらに上に重ねる。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 山田花子さんでパリ」

 2009年9月26日放送。山田花子さん(34歳)は間寛平さん(60歳)が1月1日から世界一周アースマラソンに挑戦中で、それを応援に行く。距離は3.6万km、期間3年。まずヨットで太平洋を横断し、アメリカ大陸を横断、大西洋を越えて、現在はヨーロッパを走行中。エールフランスAF279便で日本から12時間35分。間さんの居場所はブログを頼りに探す。ガイドなしの旅。

●予定
 1日目、成田空港発、エールフランスAF279便。

●パリ
 間さんはベルサイユ宮殿で撮った写真がブログに掲載され(No.259)、パリに向かうと書いてあった(17:30)。空港からバイク・タクシー(モーター・タクシー)で宮殿に向かう。18:00、到着。その日のゴールは凱旋門だと書いてある。ゴールするとブログは更新されず、間さんの居所を知る事ができなくなる。凱旋門に行くと既にゴールしていて、黄色い鉢巻が柱に巻いてあった。翌朝はここからスタートする。
 宿泊は「ホテル・マロニエ」。だいたい9時頃スタートすることが判明。7:50、ホテルをチェックアウト、8:00に到着。
 しかし、鉢巻はない。ブログを見ると、7時41分スタートと書いてある。困った。昨日からベルサイユ宮殿、セーヌ川、エッフェル塔と移動しているので、ルーブル美術館かノートルダム寺院と推測。ノートルダム寺院に9時5分に到着。しかしブログで確認すると8時50分に到着していた。さらに10時10分、ワールドカップのサッカー場で写真を撮り、「パリ市内を抜け、コペンハーゲンに向け北上開始!」とある。
 10:50、パリ北駅で考えたら、北上する道は2つある。どっちかを選択しないといけないが、右を選択。電車の中で走っている人を見つけた。降りて探したが、別の人だった。ブログを見ると、13時にSarcelles という街にいるとある。予想が外れ、間さんは左を選択していた。14時30分バスでサルセル駅に到着し、電車で追いかける。ところが電車は終点で終わり。ここから先に移動する交通機関はない。地元の人に聞いたら、シャンティイという街までなら車で連れて行ってくれるという。途中で発見!して追い越した。
 シャンティイで待つ。姿を見つけ、出発の時に演奏したトランペットで「未来予想図II」を演奏。間さんは気がついて感動。間さんはフランスに入ってから足を故障し、安静、リハビリの日々で、マラソンを辞めるかもしれないという状態だった。帽子をプレゼントし、それをかぶって3km一緒に走りました。
 この日のゴールはシャンティイ城で、一緒にゴールしました。


テレビ番組「世界遺産への招待状15 ピレネー山脈」

 2009年7月27日放送。フランスとスペインの国境にあるピレネー山脈。フランス側の標高3000mの巨大な岸壁のペルデュ山、スペイン側のポイ渓谷、アンドラの町。

●ペルデュ山
 フランス側からアプローチ。ピレネー一番の絶景と言われる「ガヴァルニー圏谷」。ヨーロッパのツウたちが集う絶好のトレッキング・スポット。「大地の行き止まり」とも言われる巨大な岸壁が目の前にある。壁は高さ1500m、幅1.2万m。すり鉢の形をしたガヴァルニー圏谷は、氷河が10万年かけて削ったもの。この絶景を求めて、毎年100万人が訪れる。ガヴァルニーの岩肌には無数の滝がある。水源は山頂の万年雪。ヨーロッパ最大の「ガヴァルニーの滝」は落差は423m。語源は「激流の巣」。ここは古くは作家や画家の訪れる芸術家の拠点だった。ヴィクトル・ユーゴーも大絶賛している。
 ペルデュ山周辺には牧草地が広がる。代々暮らしている羊飼いのカルロ・クランプさんと父のシモンさん(75歳)を訪ねた。朝9時、羊の体調チェックから始め、迷子にならないように鐘をつける。羊は180頭。夏にはより美味しい草のある山の高い場所に羊を放す。この日は標高1700m。牧羊犬が助ける。最近ウヴリエという針葉樹が増えている。牧草地はほうっておくとこれに覆われてしまう。羊飼いは新しくできる木の芽を食べさせ続けることで、牧草地が失われるのを防いでいる。またイヌワシなどの天敵もいる。冬は山は10mの雪に覆われ、気温はマイナス20度にもなる。家族で作った歌集がある。
 シモンさんは言う。「全てをもっていても、もってないのと同じ。持ってないと次々欲しくなる。」

 アニメ「名犬ジョリィ」の主人公の白い犬はピレネー産の「グレート・ピレニーズ」。猛獣から羊を守る大型の番犬。最近は猛獣が減り、活躍しているのは、小回りのきく小型犬。最近、昔の生態系を取り戻すために、政府がピレネーにクマを放した。羊が次々襲われて、羊飼いは大迷惑。そこでまたピレネー犬が注目されている。エリック・ブノワトンさんもその一人。犬を飼うまでは夜中も見回りし、心配な夜が続いたそうです。

●ロランの狭間
 フランスとスペインの国境。

●ポイ渓谷
 スペイン側の1000人の小さな村。石造りの家が並ぶ。この小さな谷に中世に流行したロマネスク様式の教会が9つも密集している。教会の中には壁画や美術品も多い。そのどれもが傑作揃い。
 12世紀に建てられた「サン・クリメン教会」には、「栄光のキリスト」という高さ8mの巨大な壁画がある。深みのある青が特徴で、ピレネー産の鉱石から抽出したもの。鮮やかな色彩と力強い輪郭。当時はレコンキスタの時代で、戦乱はピレネーにも及んだ。連勝で村は莫大な報奨金を得た。そのお金で教会や壁画を作った。毎日のように教会に通い続ける深い信仰心。

●山岳列車
 ピレネーを横断する鉄道として100年以上前に開通した。今、ヨーロッパで注目を集めている大人気の列車。

●アンドラ
 ピレネーで最も開発が進んで近代都市。税金がほとんどないので、町のあちこちに免税の高級ブランド・ショップが建ち並ぶ。ショッピングや観光に年間1000万人が訪れる買物天国。
 町は2000m級の山々に囲まれている。平らな土地には隙間がない。人口は7万人、面積は琵琶湖よりも小さい。中世以降、ピレネーにある小さな国々はフランスやスペインに次々と吸収された。アンドラは話し合いの結果、共同統治となって生き延びた。
 その発展は町外れにある世界遺産「マドリウ・ペラフィタ・クラロ渓谷」の入口。12kmに渡って石の道が続く。目的の世界遺産まで急斜面をひたすら歩く。アンドラ政府文化遺産課のダビッド・マスさんが案内。歩き始めて3時間半で到着。17世紀からここで取れる鉄鉱石を使った製鉄が盛んに行なわれていた。鉄は輸出され、巨額の富がアンドラ発展の基礎となった。「ロセイ製鉄所博物館」がある。重要な労力として利用したのは渓谷の川。水車を回し、鉄を叩き続けるハンマーを24時間動かし続けた。ピレネーの松ノ木を木炭にして利用した。18世紀後半、隣国に近代的な製鉄所が出現して、アンドラは次第に廃れていった。20世紀、アンドラが取った政策は、税金を抑えて免税品を売り、海外の客を寄せ集めること。安い税金は世界中の莫大な資本を引き寄せた。その多くはリゾート開発に向けられた。20世紀初頭は人口は5000人だったが、7万人に増えた。
 もう一つ失われゆくものは、羊飼いの生活。ジョアキム・セイラさん(65歳)はこの渓谷に残る最後の羊飼いだが、今年で渓谷を去る。かつては5000頭もの羊がいた。見えてきたのは、150年以上前のカバナと呼ばれる山小屋。壁は石を積んだもので、天井には草や土。草が水をはじき、土が温度と湿度を保つ。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 貫地谷しほりさんでパリ」

 2009年5月23日放送。貫地谷しほりさん(23歳)はパリの名所を巡りたい。人気1位ノートルダム寺院、2位モンマルトルの丘、3位ルーブル美術館、4位エッフェル塔はもちろん、定番スポットのセーヌ川、ムーランルージュ、オペラ座、凱旋門、サン・ジェルマン・デ・プレ教会、シャンゼリゼ通りの合計10ヶ所を自転車も使って回る。エール・フランス航空AF275便で日本から13時間の空の旅。1泊3日の旅。

●予定
 1日目、成田空港発AF275便。17:30、シャルル・ド・ゴール空港に到着。17:45、地下鉄RER線でパリ北駅に向かう。18:50、パリ北駅近くのカフェでガイドと待ち合わせ。25:00、ホテルにチェックイン。
 29時間35分の滞在。

●パリ
 18:30、シャルル・ド・ゴール空港に予定より1時間遅れて到着。18:45、地下鉄RER線でパリ北駅に向かう。19:40、カフェに到着、現地ガイドのグレゴリーさん(25歳)に出会う。残り27時間30分。
 まずはタクシーで、20:35、モンマルトルの丘。高さ130m、パリで最も高い丘。頂上にはサクレ・クール寺院がそびえる。横にはすごい階段がある。歩けば15分かかるこの坂を横にある「フニクレール」1.5ユーロ(200円)でたった1分で上がる。丘の上からパリ市街地が一望。サクレ・クール寺院は1913年完成。3本のドームを持つ白亜の寺院。映画「アメリ」にも登場。貫地谷さんはずっと憧れていたそうです。
 次はエッフェル塔が一番きれいに見える場所にタクシーで向かう。21時頃、レストラン「レ・ゾンブル」に行くと目の前にエッフェル塔がライトアップされかけていた姿を見せた。エッフェル塔は1889年、パリ万博を記念して建造。高さ324m、当時は町の景観に合わないと大不評だった。このレストランは屋根がガラス張りで、テーブルからもエッフェル塔が見える。自慢の料理は「カニとアボカドのトマトゼリー添え」30ユーロ、「舌平目のムニエル」40ユーロ。食事中にエッフェル塔がキラキラ輝きました。
 22:20、ムーラン・ルージュに行く。世界で最も有名な老舗キャバレーで、創業120年。フレンチ・カンカン発祥の地。女性にも大人気のショーをシャンパンとともに堪能。ドリンク・ショー(シャンパン付き)92ユーロ(1.2万円)。
 25:00、プチホテル「ルレ・サン・ジェルマン」にチェックイン。部屋は入ると階段になっていて、屋根裏部屋でした。320ユーロ(42500円)。午前3時に就寝。

 翌朝9時にホテルを出発。まず、サン・ジェルマン・デプレ教会。この教会はパリで最も古い教会。残り時間11時間30分。町中で大渋滞。
 11:10、自転車での移動に変更。ヴェリブ(レンタ・サイクル)を利用。無人自動24時間レンタル可能で、60分まで1ユーロ。時間ごとに加算される。観光客にも大人気。
 これでセーヌ川に到着。8kmにわたる世界遺産「セーヌ河岸」。時間がないので、走りながら楽しむ。
 6番目のノートルダム寺院に到着。12世紀ゴシック建築の最高峰。ノートルダムの意味は「我らが貴婦人」(マリア様のこと)。完成するまで200年かかった。
 7番目のルーブル美術館の前で写真だけ。
 8番目はオペラ座。世界一豪華な歌劇場の「オペラ・ガルニエ」。中に入ると、大理石の階段やロビーの天井や壁の装飾がすごい。劇場はシャガールの手がけた天井画、重さ9トンのシャンデリア、ベルベット張りの客席は1900席。極めつけは豪華絢爛な「グラン・フォワイエ」。城の回廊の様にデザインされたロビーで、高さ18m、長さ54m、幅13mの回廊。
 9番目はシャンゼリゼ通り。長さ2km、幅約100mの大通り。
 10番目は凱旋門。高さ60m、幅45mの巨大な門。ナポレオンの命令で作られた。走り続けて7時間。上に上がる。自転車で疲れているので、ヘロヘロになりながら登りました。残り2時間40分でタクシーに乗る。雨の中、空港には45分で到着。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん フランスのトゥール」

 2009年4月18日放送。

●トゥール Tours
 パリから南西に電車で1時間。中世の時代から貴族の別荘地として愛されてきた。のんびりした時間が流れ、素晴らしい風景がある。人口14万人。フランスで最も長く美しいと言われるロワール川沿いの古都。
 木でできた家が多い。500年前からの伝統的な建物を残している。他にも石造りの大きくて立派な建物も多い。
 トゥールのフランス語は訛もなく、最も美しいというので、世界中からフランス語を学ぶために多くの人が来る。「トゥーレーヌ語学学校 Institut de Tourane」は100年以上も続く。早口言葉を練習。「Un chasseur sachant chasser sans son chien est un bon chasseur. 」(猟犬なしで狩ができる狩人は良い狩人だ)。
 広場に市場がある。花、ケーキなど。変わったチーズがあるが、この町独特のものらしい。工場を見学した。ヤギの乳を採り、1晩置いてから型に流し込み、1日置く。真中には生産者の名前が書かれているライ麦の藁。これがあると国から認められたチーズの証明となる。その後、炭の粉をまぶす。これで臭みが取れ、熟成させてもしっとりとした感じになる。2週間熟成させて完成。「サント・モール・ド・トゥーレーヌ」。
 ゴティエ・ファブルさん(19歳)が紹介してくれたのは、お城めぐり。気球に乗ってみた。ロワール地方にはお城が300以上も残っている。まずクリセ城、ヴァレーヌ城などが見えました。いくつ見えるかは、その日の風向き次第。「エアー・マジック・ロワール・ヴァレー気球ツアー」1人250ユーロ。
 16世紀に建てられたという「アゼー・ル・リドー城」はロワールの真珠と評されたほどの美しさ。「眠れる森の美女」のモデルとなったユッセ城。中ではお姫様が目覚めるシーンが人形で再現されていました。

 新婚さんの朝ごはん。中心に近いアパートに住むフルーレット・ゴティエさん(20歳)が作るのは、1品目この地方伝統のお惣菜パン「フガス Fugas 」。たまねぎをみじん切りにしてベーコンと炒める。前の晩に作って寝かせておいたパン生地をのばす。その上に先ほどのをのせ、オリーブをのせ、パン生地でくるむ。卵黄を塗り、オーブンで焼く。
 2品目「ヤギ・チーズのサラダ」。トゥール名物のヤギのチーズを厚めに輪切りにし、これに小麦粉、卵、パン粉をつけたらフライパンに入れ、バターで焼く。表面がカリっとする程度でOK。それをサラダの上にのせる。ワイン・ビネガー、オイル、マスタード、ハーブミックスでソースを作る。
 3品目はデザート「タルト・タタン Tarto Tatin 」。たくさんのリンゴを切り、バターを塗った耐熱皿に入れる。レモン汁、シナモン、砂糖をたっぷり加え、焦げないように混ぜながらしばらく煮詰める。上からパイ生地をすっぽりかぶせ、端をきれいに折りこんだらオーブンに入れて焼く。出したらひっくり返す。


テレビ番組「世界遺産への招待状 フランス」

 2009年4月6日放送。プレゼンターは真矢みきさん。

●モン・サン・ミシェル
 日本から12時間。パリの空港に着いてすぐに向かった。西に車で4時間。海上のピラミッドと呼ばれる島に到着。10世紀、海に浮かぶ岩山を切り開いたキリスト教の聖地。他に類のない自然と建築物の融合。階段500段を登り、中央の聖堂に向かう。モンサンミシャルは「聖ミカエルの山」という意味。「天使ミカエルの岩山に修道院を作れ」というお告げによってできたといわれる。
 昼、礼拝の時を知らせるため、神父さんが鐘を鳴らしていた。普段お祈りは1日3回、地下の小さな礼拝堂で行なわれる。フランソワ・ド・フロベールヴィル神父は、ここはずっと修道院だったわけではないと語った。14世紀、フランスとイギリスの百年戦争の際は、軍事要塞として使われた。18世紀のフランス革命では、修道士が追い出され、監獄として使われた。最初に投獄されたのは、フランス革命に同意しなかった神父600人。
 20世紀に修道院として復活した。観光客も多くなり、回廊などの美しいゴシック建築は絶賛された。食堂では聖人の伝記が朗読された。

●ロワール渓谷
 ロワール川はフランスで一番長い河。その河の一部、280kmに渡る流域が世界遺産。
 「アゼ・ル・リドー城」は16世紀に建てられた。「河に浮かぶダイヤモンド」と言われた。大西洋から温かい空気が流れ込み、パリよりずっと温暖で、王侯貴族が好んで生活した。「ヴィランドリー城」は特に庭園の素晴らしさで知られている。16−17世紀に流行した幾何学模様のフランス式庭園。ハート型の装飾、音楽の記号の装飾などがある。
 「ブロワ城」は数ある城の中でも特に重要な意義をもつ。ルイ12世が15世紀末に即位して以来、数人のフランス国王の住まいだった。今ブロワ城では地元の人が当時の舞踏を再現し、観光客に披露している。服が4kgあって重くて大変だそうです。毒殺が多かったので、踊る前に手袋を唇にあてて毒はないことを証明したそうです。エリザベット・ラトレモリエールさんが説明してくれましたが、部屋には隠し戸棚がありました。この主はカトリーヌ・ド・メディシスという女性で、16世紀前半イタリアから嫁ぎ、王妃として君臨した後、国王として即位した3人の息子の影で、長年大きな政治的影響力を持っていた。
 彼女はフランス料理に革新をもたらした。料理の歴史に詳しいステファン・ソーザンさんに話を聞いた。彼女の前の時代は、大皿に盛られた料理をみんなで手掴みで食べていた。カトリーヌは食器を一人一人個別にセットし、料理を盛り付ける習慣を推し進めた。毒殺への警戒心もあったようです。フランスにフォークをもたらした。メディシスはそれまでの肉主体の料理に、野菜を積極的に追加する方法を進めた。ナスは色が黒いために嫌われ、食べられていなかった。
 サルコジ大統領はフランス料理を世界無形文化遺産に登録したいと言う。

●無形文化遺産
 カンボジアの宮廷舞踊も。モロッコのマラケシュにあるジャマ・エル・フナ広場の文化的空間での大道芸も。ドミニカのココロの舞踏劇の伝統。ヨルダンのペトゥの文化的空間。

●サン・サヴァン
 ロワール渓谷から南へ100km。教会の尖塔が目立つ。壁画がある「サン・サヴァン修道院附属教会」。天井が高さ17mと高い。天井には壁画が埋めつくされている。11世紀から12世紀に描かれたという。オロール・モレさんが説明してくれた。当時、字が読めない人に伝えるための絵本の役割があった。ここは16世紀の宗教対立で施設の中が破壊された。さらに18世紀のフランス革命では教会から修道士が一人もいなくなった。しかし19世紀教会が復活し、奇跡的に残っていた壁画は蘇った。バベルの塔、ノアの箱舟など。
 マリアンヌ・ラカイユさんがフレスコの手法に近い方法を見せてくれた。石灰と砂と水を混ぜた下地を壁面に平らに塗る。絵の具は全て自然の材料。この絵の具が下地との化学反応で長持ちする。
 教会から近くの農家を紹介された。フランス料理を無形文化遺産にするという話をしたため。ジョジー・ルーさんは代々酪農を営み、チーズを作っている。「シャビシュー・デュ・ポワトゥ」というヤギのミルクから作るチーズ。732年からチーズが作られているそうです。フランスでは地域伝統の食品造りを国を挙げて保護している。塩分を加えて3日、これから熟成を重ねて1ヶ月で完成。ヤギの餌を作ることから、自分たちの手で行なっている。これが重要だという。そうしないとチーズの味と品質を守っていくことにはならない。

●リヨン
 列車で6時間。リヨン・パール・デュー駅に到着。リヨンはフランスを代表する美食の都。15世紀から水上交通が発達し、フランス各地から質のよい食べ物が集まったから。観覧車に乗ってリヨン歴史地区を眺めてみた。約2000年前からの発展の歴史を伝える建物が数多く残る。
 「絹の丘」という場所。絹織物の工房が何千と集まっていたという。全て天然の絹を使っていた。16世紀に始まった絹織物産業がリヨンを発展させ、18世紀にはヨーロッパ最大の産地となった。フランスだけでなく、ヨーロッパじゅうの国王や貴族が買い求めた。あのナポレオンもこの絹織物に魅せられた。
 裕福な絹商人たちは食にこだわるようになっていった。歴史地区に住むピエール・フランソワ・ブルイユさんが友達のパーティに誘ってくれた。豪華料理が出てくるわけではなかった。リヨン名物のソーセージ「ロゼット」をつまみにワインをいただく。リエットは、豚肉と油を煮てペースト状にしたもので、パンにつけて食べる。絹織物産業の発展と共にリヨンで普及した食べ物だという。ちょっと食べ、ちょっと飲んで、延々と話をするのが食の伝統なのだと教えてくれた。贅を尽くすことがフランス料理ではない。
 この町に伝説の三ッ星シェフがいると聞いて会いに行った。ポール・ボキューズさん(83歳)。彼なしに今のフランス料理の繁栄はなかったという。ボキューズさんに、無形文化遺産を象徴するフランス料理を1品だけ見せて欲しいとお願いした。味を逃さないためという豚の膀胱の中に入っていたのは、蒸し煮にした丸ごとの鶏。鶏はリヨン近くの伝統の飼育法で育てられたという。シンプルに塩だけで食べることを勧められた。「伝統こそがフランス料理の秘訣」。


テレビ番組「にじいろジーン 地球まるごと見聞録 ニース」

 2009年4月4日放送。

●ニース
 エールフランスで日本からパリ経由で14時間の旅。ヨーロッパを代表するリゾート地、紺碧の海岸が美しい街。空の玄関口はニース・コート・ダジュール空港から20分で、タクシー・ドライバーのミッシェルさんが町に連れて行ってくれた。高級ホテルはカジノが並ぶ海岸通りを1本入ると、洗濯物が干してある庶民の暮らしがある旧市街。地元の住民や観光客でいつも大賑わい。様々な芸術家たちに愛され、画家のシャガールもこの地で多くの作品を残した。生前に建てられた彼の美術館には450点の作品が展示されている。
 19世紀に建てられた「オペラ座」は、海を背にして建っている。昔の貴族が日焼けを嫌って、日陰部分が入口になった。ガイドのステファニー・レイさん(29歳)が案内。
 海岸沿いの道はイギリス人が作ったので、「プロムナード・デ・サングレ」(イギリス人の散歩道)と呼ばれる。夏にはシャワーなどがある有料のビーチと無料のビーチが交互に並ぶ。この時期、年配の人が海に入っている。4月の平均最低気温は約11度。季節に関係なく毎朝集まって海水浴を楽しんでいるそうです。ここのビーチは砂ではなく、玉砂利ばかりなので、夏は熱くなるのではだしでは歩けない。ビーチサンダルは必須です。
 この玉砂利を使ったユニークなお土産がある。郊外のお店では玉砂利を使ったサントン人形がある。全てここの女性の手描き。キリストが生まれた時の様子を描いたサントン人形は1個520円〜2000円。

 グルメは友人のナターシャ・ポワールさんがつきあってくれました。地元のレストランに行って、「ニース風サラダ(サラド・ニソワーズ)」1400円をいただいた。トマト、パプリカなどの生野菜に、黒オリーブの実、アンチョビ、ツナが入っている。野菜には一切火を通してはいけないとされ、火が入ったものは本物の「ニース風サラダ」とは呼べない。
 20分並んでゲットした食べ物は「ソッカ」330円。これはヒヨコ豆の粉を使ったニースの伝統料理。たっぷりのオリーブオイルを使って、水で溶いたひよこ豆の粉を焼いたもの。大きな釜がないとできないので、家庭では作れない。味は具のないお好み焼きを薄くカリッと焼いて、塩胡椒をかけた感じ。ニースではスナック感覚で、ワインのおつまみとして食べるのが一般的。買った店で冷めないうちに食べる。油が多いので、ナプキンは多くもらった方がいい。日曜のお昼はソッカを食べながらのんびり過ごすのがニースっ子の定番。

 居酒屋?で喧嘩をしているような声がする。ニースに古くから伝わるゲーム「ムーラ」で、二人で同時に指を何本か出し、その指の数の合計が叫んだ数と同じだと勝ちになる。大きな声をだしたり、巻き舌になるのは相手を惑わせて、有利にするため。1950年代は禁止されていたそうです。

 午前7時、座禅の道場を訪問。12年の歴史があるそうです。このような道場がフランス国内に100箇所以上もあるそうです。今ヨーロッパでは古い文化がどんどんなくなってきているから、禅のような伝統を重んじるものに興味を持つ人が多いという。最後は洋風にアレンジされたお粥が配られる。

 旧市街で毎朝開かれている青空市。名物の一つがオリーブ。オリーブはそのまま食べるかオイルにする。ニースではもう一つの食べ方「タプナード」がある。これはつぶしたオリーブに、アンチョビーやニンニクを入れた万能ペースト。100gで230円。
 オリーブ専門店「アルジアリ Alziari 」にはニース通なら知っている優れものがある。今流行しているのがオリーブオイルのスプレー。

 不動産屋さんで物件を紹介してもらった。海岸沿いのマンションの8階。バルコニーからの眺めが素晴らしい。2LDK55平方mで、寝室が2つで6200万円。

●サン・ポール・ド・ヴァンス
 車で40分。丘の上にあり、「鷲の巣村」と呼ばれる集落。入口が一つしかなくて、中の道が狭いので、車は入れない。中は16世紀の雰囲気。この町を愛し、20年に渡って滞在したシャガールのお墓もある。


テレビ番組「モネの”美食美術館” 知花くららのグルメとアート」

 2009年3月14日放送。知花くらら、睡蓮の絵で日本でも特に人気の印象派の画家クロード・モネ(1840-1926)。モネの食卓にのぼったレシピ・ノートがある。「モネの食卓」として1996年にフランスで出版され注目を浴びた。出版を手がけたのはクレール・ジョイさん。モネの妻アリスの娘シュザンヌとクレールさんのご主人の祖父が結婚した。この本の日本語版を手がけたのが、パリで活躍する吉野建さん。知花くららさんは2006年度ミス・ユニバース世界大会2位。テレビせとうち製作。

●東京
 吉野シェフ(57歳)は2006年ミシュラン・ガイドの星を獲得したレストラン「ステラ・マリス」をパリ8区で経営する。鹿児島県喜界島出身。自然の素材を生かし、その味わいを極限まで引き出す料理。中でもジビエと呼ばれる山ウズラ、カモ、シカなどの野鳥獣を使った料理には定評がある。吉野さんは2003年に東京にレストラン「タテル・ヨシノ芝」、「タテル・ヨシノ汐留」を、2008年「タテル・ヨシノ銀座」がオープンした。コンセプトは「テロワ(大地)の料理」。

●直島
 岡山県玉野市宇野から船で20分。周囲16kmの小さな島。世界中のアート・ファンから注目を集めている。島に到着して迎えてくれるのは、前衛芸術家の草間彌生さんのさ九品。港にある「南瓜」、海岸の「ニキ・ド・サンファール」、「カレル・アベル」など。
 ここの美術館に行く途中、モネのジベルニーの庭園にある池を模倣して作った池がある。6〜9月に睡蓮が花を咲かせる。塩田跡地を利用して作られたのが、「地中美術館」。ベネッセが取り組んでいるプロジェクト。建築家安藤忠雄氏の設計で、いくつかの開口部以外、2500平方mの施設全体が地中に埋まっている。ジェームズ・タレルの「アフラム、ペール・ブルー」。ジェームズ・タレルの「オープン・フィールド」は体全体で青色を感じられるようになっている。ジェームズ・タレルの「オープン・スカイ」はLED、キセノン・ランプを使って、単色だった光を無限に変化させている。ウォルター・デ・マリアの「タイム/タイムレス/ノータイム」は部屋の大きさ、採光なども決められている。中央にある直径2.2mの球はインド産の花崗岩。四方に27体の木彫が配置されている。全体を体験するインスタレーション。
 最後にたどり着いたのは、モネの「睡蓮の池」、「睡蓮」、「睡蓮ー柳の反映」など4つの睡蓮が並ぶ。床には70万個の大理石があり、差し込んだ光を柔らかく反射する。
 「ベネッセ・ハウス」は安藤忠雄氏設計で、宿泊施設。各部屋に現代美術の作品が展示されている。テラス・レストランで食事をいただいた。セザンヌ風メバルのブイヤベース。「キャベツ、ごぼう、すね肉のポトフ」。デザートは「スコーンとガトー・ショコラ」。モネの食卓で使われていたものと同じ食器でいただきました。白地に青い和風です。
 島プロジェクト「角屋」では、築200年の民家が舞台。宮島達男「時の海’98」、大竹伸朗「はいしゃ」、杉本博司「護王神社」。
 2010年には7つの島を使って「瀬戸内国際芸術祭」を開催する。

●倉敷
 大原美術館は西洋美術を収集した日本初の美術館で1930年に開館。ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、エル・グレコなどが並ぶ。その中にモネの「積みわら」(1885年)、「睡蓮」がある。この睡蓮は小島虎二郎がモネを直接訪ねて譲りうけた作品。

●パリ
 セーヌ左岸にあるラスパイユのマルシェ(市場)に行く。次はセーヌ右岸にあるバスティーユの市場。パリでも最も規模の大きな市場で、毎週木曜日と日曜日の朝開かれる。魚、野菜、果物などが豊富。パリの市内には常設市場や朝市など80箇所にのぼるマルシェがあり、今では観光名所となっている。パエリァやシチュー、キャベツのマリネなどの惣菜も並ぶ。狩が9月から2月まで許可されているので、ジビエ料理の材料も揃う。
 オルセー美術館のセーヌ・ギャラリーという部屋にモネの食べ物を描いた静物画がある。「静物」は赤い肉。モネの好物はジビエを使った料理だった。吉野さんの店には「リエーブル・ア・ラ・ロワイヤル」オブ・ザ・イヤー(金賞)を2000年に獲得した時のウサビの像がある。
 モネのレシピにある「山ウズラのキャベツ添え」。まずは山ウズラの足をさばき小さく切り分ける。それをキャベツの上に並べ、骨でとったダシ汁、塩をしみこませながら、火にかける。キャベツはにんじん、いんげんなどを敷き詰めた器に入れ、オーブンにかける。山ウズラは表面を軽く焼く。その間に火の通った野菜を盛り付ける。表面を焼いた山ウズラは薄く切り分け、7−8分火を通す。トリュフ、フォアグラと共に盛り付けて完成。「ペルドロー・シャルトルーズ」(山ウズラのキャベツ添え)。「ミルフィーユ・ド・トンマリネ」(まぐろのマリネとフライナス)はステラ・マリスの人気メニュー。デザートは「スュルプリーズ」は砂糖のスフレを盛り込んでいて、「びっくりするような」という意味。

 「モネの食卓」では、「日常の食卓」、「狩の食事」、「日曜日のテーブル」、「クリスマス・ランチ」に分けて45品紹介している。クレールさんのご主人は、ノートの中にブランシュおばさんの筆跡も見つけたという。
 オルセー美術館には印象派の絵画が多く公開されており、モネの作品も多い。モネの「草上の昼食」、「ルーアン大聖堂」連作。「日傘をさす女性」はシュザンヌをモデルに描いたという。
 オランジュリー美術館も睡蓮を展示している。1927年完成時の睡蓮の間はモネ自身が設計した。一時は自然の光を失っていたが、2006年の大改装で自然の光を取り戻した。8つの作品が壁面を埋め尽くす2つの睡蓮の間。エマニュエル・ブレオン館長が説明してくれました。睡蓮の部屋は8の字型になっている。モネの絵はアメリカの作家にも影響を与えた。1950年代にはモネの睡蓮のような手法が再び流行し、今のインスタレーションにつながっていった。この睡蓮の絵の中に人間が絵画の一部となり睡蓮の世界に浸ることができる。

●ジヴェルニー Giverny
 モネは43歳の時、パリの北西70kmにある小さな村に移った。モネの墓はこの村の教会近くにある。モネがアトリエとして使っていた家は4月〜10月に一般公開されている。前の庭はノルマンディー風の「花の庭」と、日本の影響が感じられる「水の庭」に分かれている。モネが集めた作品も今も展示されている。白内障で目が悪くなった後も、モネは睡蓮を描き続けた。
 吉野シェフはキッチンを見学した。モネはウサギは嫌いだったが、野ウサギは好きだった。魚は池からカワカマスを獲っていたそうです。サラダとヒラメも好き。モネは「食べることの喜びは生きることの喜びの一つだ」と感じていた。

●東京
 モネの食卓にある料理をいただいた。日常の食卓に登場する「ニンニク・スープ」。「シタビラメのノルマンディー風」。「子鹿のバラの実添え」。「クリスマス・プディング」はパティシエ成田一世さんの協力で完成。ソーセージ型で作成し、熟成させています。


テレビ番組「地球街道 中村江里子・雨宮塔子さんで南フランス」

 2009年1月17日、24日放送。中村江里子さんと雨宮塔子さんはパリ在住7年と9年。3泊4日で南フランスを旅した。それぞれがお勧めの場所を訪ねながらニースを目指す。

●エクス・アン・プロヴァンス
 TGVでパリから500km南のプロヴァンスに向かう。エクス・アン・プロヴァンスTGV駅に到着。
 2000年以上の歴史を誇る町。湧き水も多く、夏には豊かな緑に包まれる。歩道にはポール・セザンヌのマークがある。これをたどっていけば、セザンヌゆかりの場所に行ける。「セザンヌのアトリエ」など。
 2人が訪れたのは町がクリスマス一色の頃。お店にはサントン人形が並ぶ。クリスマスには各家庭で思い思いの人形を飾るそうです。サントン人形は工房「サントン・フーク」で作っていました。この地方で取れる粘土で焼き上げ、着色して作られる。フランス革命の際に、人形を飾ることを禁止されたので、隠れて行なうために小さくしたのが起源。江里子さんは10個120ユーロで購入。お店の人の知人がコレクションしているというので見せてもらうことになった。シリル・ジョルダーノさん(30歳)のお宅は普通の農家だが大きなお家。幅4mの作品は実際の土も入れて、プロヴァンスの風景を箱庭風に作ってありました。人形たちは祖父の代から70年以上かけて集めたものだそうです。土の入れ替えなど、1年に15時間くらいかけているみたいです。
 エクス・アン・プロヴァンスから東へと伸びる道は絶好のドライブ・コース。その名も「セザンヌの道」。セザンヌが愛した山「サント・ヴィクトワール山」(標高1011m)へと向かう道でもある。この道はセザンヌが画材を抱えて何度も通った道。

●グルドン
 崖の上にある村。中世の頃、異民族の侵入から逃れるために敢えて難所に作られた村。標高720m、堅牢な石造りの家が並ぶ。人口は400人。中村さんは結婚前の10年前に今のご主人に連れて来られたそうで、絶景に感動したそうです。

●ラ・セル
 エクス・アン・プロヴァンスとグルドンの中間よりもエクス・アン・プロヴァンス側。雨宮さんがかつて取材で訪れたが、ランチしか食べられなかった宿「オステルリー・ド・ラベイ、ド・ラ・セル Ostellerie de L'abbaye de la Celle 」。建物は18世紀のブルジョワの家。「市場に面したヒマラヤ杉の部屋」はお姫様のための部屋みたい。1泊250ユーロから。雨宮さんが宿泊。「ド・ゴール将軍の部屋」はド・ゴール大統領が回想録を書くために、何度も宿泊した部屋で男性に人気とか。1泊370ユーロから。中村さんが宿泊。
 自慢は夕食で、アラン・デュカス氏がプロデュースしている。前菜は「ホタテとたまねぎのピサラディエール(南仏風ピザ)」。メインは「スズキとウイキョウ、シトロンソースがけ」。
http://www.hostellerie-abbaye-celle.cote.azur.fr/

●ニース
 雨模様でした。旧市街のサレヤ広場の朝市は賑やか。品揃えも豊富。「ソッカ Socca」3ユーロは、巨大なお好み焼きという感じのニースの名物料理。「テレザさんの店」に行く。小麦粉ではなく、エジプト原産のひよこ豆をひいた粉に、水、オリーブオイル、塩を混ぜて生地を作る。250度の窯で8分間焼いて出来上がり。1日数回200m離れたテレザさんの屋台に運ぶ。

●ヴァンス
 ニースの町の西の方にある中世のたたずまいが残る町。マチスが晩年の一時期を過ごした町。雨宮さんが行きたかったマチスの描いたロザリオ礼拝堂がある。さりげない建物です。この時期は休館中だったが、管理している隣の修道院に御願いしていた。ペンキを塗る作業をしていて、本当は終わっていたはずなのだが、汚かったので続けることになったという。あきらめきれない二人は粘って、2日後の朝に入れてもらえることになった。

●サン・ポール・ド・ヴァンス
 2001年に中村さんがシャルル・エドワード・バルトさんと式を挙げた町。ヴァンスのすぐ隣にある町。中村さんのご主人の故郷でもある。「ラ・コロンブ・ドール」はいいホテルだが、丁度お休みだった。ピカソなどの画家たちが盛んに出入りしていたホテル。その時に彼らが残していった作品が至るところに飾ってあるすごいホテル。1泊200ユーロ〜。
 教会に続く坂道は花嫁姿でお父さんと歩いた道。サン・ポール・ド・ヴァンス参事会教会に到着。完成したのは12世紀とも言われる。

●ヴァンス
 再度礼拝堂を訪問した。ロザリオ礼拝堂はマチスが4年近い歳月をかけて作ったもの。全てのデザインに取り組んだ。ステンドグラスが素晴らしい。黄色、緑、青だけ。青は空と海、緑は植物、黄色は太陽を表す。ここはまたの名を光の礼拝堂という。
 マチスはこのためにアトリエを改修し、巨大な壁画に取り組んだ。試行錯誤の末に生まれた3点のタイル画。「聖ドミニクス」、「十字架の道行」、「聖母子」には一切の無駄がそぎ落とされている。「十字架の道行」は何度も何度も描き直し、3年以上かかったそうです。「聖母子」には一番惹かれたようです。色彩の魔術師と言われた芸術家の真髄、ステンドグラスを通った光がタイル画に生えるようになっていました。


テレビ番組「THE 世界遺産 フランス、ベルギーの鐘楼」

 2008年12月21日放送。ベルギーとフランスに56の鐘楼群が林立する。そのうち4つの都市を訪ねる。

●ベルギーのブルッヘ
 中世、ヨーロッパの金融や貿易の中心として隆盛を極めた町。1000年の歴史を持つ朝市は今も人々の生活を支える。夜明け前。鐘楼の奥深くで動きはじめるものがあった。1日の始まりを知らせるカリオンの調べ。メロディを奏でているのは、巨大な自動演奏装置とワイヤーでつながれた47個の鍵。朝8時から15分毎に響く、昔ながらの音色。
 自動演奏だけでなく、鍵盤を使って演奏することもできる。フランク・ドゥリュさんはこの鐘楼の専属演奏者。週に2度ほど演奏する。1533年の初代から壁に名前が記載されている。デゥリュさんは27代目。
 カリヨンの始まりは14世紀。時報の前に叩かれたという4つの小さな鐘。ラテン語クワテルニオ(Quaternio:4個で1組)が語源。15世紀になると鐘の数が増え、紐でひっぱるチャイミングという方法が編み出された。1480年に鍵盤を持つカリオンが始めて演奏された。調律された音は当時の人々の心をあっという間に虜にしたという。
 ブルッヘの鐘楼は高さ83m。8時の鐘を合図に鐘楼の真下にある扉が開かれる。フランク・ド・ヴォスさんは鐘楼守。階段は366段。点検で日に何度も往復するという。最上階からの眺めは自分の庭を眺めるような特別な愛情を感じるそうです。2階がヴォスさんの住まい。24時間365日ここを離れるわけにはいかない。20年続けています。

●ベルギーのトゥールネ
 ベルギーの南西部、フランスの国境近くに位置する。この町にベルギーに現存する最も古い鐘楼がある。12世紀に建設が始まった。鐘楼の中には小部屋がいくつもあり、会議室や牢獄として使われた。機密書類も鐘楼の中に厳密に保管された。このような鐘楼がベルギーや北フランスに林立した理由は、ある産業の成功があったため。

●ベルギーのメヘレン
 今に伝わる最高級のボビン・レース。古くからフランドール地方は、芸術品のようなレース網やタペストリーの産地だった。遠くは中国でも珍重され、この地に莫大な富をもたらした。ベルギーのメヘレンにある王立ドゥウイト・タペストリー工場が紹介されました。古都メヘレンの資料館に貴重な資料が残されていた。1361年に領主が市民の代表に渡した文書には「都市の自由」が記載されていた。巨大な鐘楼は自治を獲得した市民たちの自治の象徴だった。市民たちは協会よりもさらに高い鐘楼を町の真中に建てた。町同士で鐘の数を増やし、その音色を洗練させていった。
 空から音楽が降る町。という異名で知られるカリヨンの街。高さ97mの鐘楼には49個の鐘を持つカリヨンが2組組み込まれている。総重量は80トンにも及ぶ。カリヨンの修理や組み立ての第一人者リェック・ミケレスさん。鐘は年に1度点検のため全て外される。叩かれる場所も数年に一度ずつずらしていかなければならない。美しい音色を守るのは容易ではない。
 今、ベルギーの国内に修復工房は4軒。中でも最も長い歴史を持つのは、ミケレスさんのアトリエ
 ミケレスさんが一番好きな場所は、1557年から時を刻み続ける大時計の前。この時計は曽祖父の時代から修理などをしているそうです。

 カリヨンを襲った最大の危機は、2つの世界大戦だった。特に第二次世界大戦では、ナチスの武器を作るために、多くの鐘が外され、溶かされてしまった。終戦で喜びの鐘を鳴らすことができた鐘楼はほとんどなかった。その時人々は大切なものをなくしたことに気付いた。
 そして演奏者の育成に励み始めた。カリヨンの学校もある。今60人ほどがここで学んでいる。

●北フランスのドゥェ
 たった一人で練習をする少年がいる。カンタン・ルリッシェさん(13歳)。登校前に練習用のカリヨンで練習してから学校に通う。この2年半、1日もさぼらずに練習している。カンタン君自身は天才少年と呼ばれている。
 ドゥエの鐘楼で演奏が許されているのは3人。小さな演奏会で、初々しいカリヨンの調べが古都の空に響いた。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 中川翔子さんでフランス」

 2008年12月20日放送。中川翔子さん(23歳)がパリでクリスマス・ケーキを買ってくる。5軒の中からチョコでがっつり食べごたえのあるものを1つ選ぶ。エールフランス279便で12時間40分でパリに到着。1泊3日の旅。

●予定
 1日目、成田空港発AF279便。「ダロワイヨ」。
 2日目、「ブレ・シュクレ」、「ル・トリオンフ」、「ラ・プティット・ローズ」、「アルノーデル・モンテル」。

●パリ
 シャルル・ド・ゴール空港に午後2時過ぎに到着。クリスマス・ケーキ屋めぐり。1軒目「ダロワイヨ」(ギャラリー・ラファイエット内)に行くには、シャルル・ド・ゴール空港駅から地下鉄で「オーベール」駅。5分歩いてギャラリー・ラファイエット Galeries Lafayette に到着。1893年創業の老舗デパートで、壁面のイルミネーションはパリの観光スポット。天井がドームになっている場所に高さ20mのクリスマス・ツリーがある。エスカレーターで上がって「ダロワイユ」発見。1802年創業の老舗。王室で料理人を務めたこともある。パリでしか売ってないのは、「ルリジューズ・ド・レーヴ(チョコレート・クリーム入りのシューケーキ)」という51ユーロのケーキ。チョコで作った真珠やレースをあしらっている。星5つ!

 電車代1.6ユーロで凱旋門に行く。パリセンボンと言ってました(笑)。凱旋門から振り返るとシャンゼリゼのイルミネーション。世界一美しいと言われるシャンゼリゼ通りのイルミネーション。今年からシャンゼリゼ通りでは、クリスマス・マーケットが開催。クリスマス・グッズや食べ物の屋台、遊具施設などが並ぶ。コンコルド広場には観覧車がある。上からシャンゼリゼを眺めました。今年限定で土曜日ライトアップされたエッフェル塔を眺めた。

 宿泊はホテル「サン・ジェームス」。22時30分にチェックイン。貴族が住んでいた館を改装したホテル。白とピンクを基調にしている。1泊470ユーロ。

 2軒目「ブレ・シュクレ Ble Sucre 」はレストラン・ガイド「ル・プドロ」で2008年度最高パティシエ賞を獲得したお店。ノートルダム大聖堂の東の方。クリスマス・ケーキでお勧めなのは「赤い実とバニラムースのビュッシュ」で、赤い実のフルーツとバニラムースで作り、中にはイチゴ、フランボワーズが入っている。32ユーロ。切ってみると、中は赤いフルーツのソースとカスタードが入っている。星4つ。

 3軒目「ル・トリオンフ Le Triomphe 」に向かう。11:45着。新鮮なフルーツの素材を生かしたオリジナル・ケーキが自慢の人気店。クリスマス限定「フレッシュ・フルーツと赤い実のムースのビュッシュ」37.8ユーロ。鮮やかな緑とピンクが印象的。星5つ!

 4軒目「ラ・プティット・ローズ La Petite Rose 」はチョコレートを贅沢に使ったケーキが人気。「ホワイト・チョコレート・ムースのビュッシュ(ローズ風味)」26.8ユーロ。舌の上で雪みたいにふわっと溶けるそうです。星5つ!

 5軒目「アルノー・デルモンテル Arnaud Delmontel 」に18時に到着。サクレ・クール寺院のずっと南の方。可愛い店だが混んでいました。味わい深く、独創的なデザインのスイーツが人気。緑のケーキと白いケーキにNOELと書いてありました。「雪の星」は35.5ユーロ。青い部分がサイダーみたいな感じで、ビスケット生地がおいしい。星4つ。

 そこで買って帰ったのは、「ル・トリオンフ」のケーキでした。


テレビ番組「ちょっと贅沢!欧州列車旅行」

 2008年12月7日放送。パリからTGVに乗り、ブルターニュ地方のレンヌに。レンヌからバスでモンサンミッシェルに向かう。その後ノルマンディーの北のモナコと言われるグランヴィル、ノルマンディー上陸作戦のオマハ・ビーチ、庭園の美しいバルロワを巡る。

●パリ・モンパルナス
 59階建のモンパルナス・タワーの目の前にあるのが、モンパルナス駅。150年以上前に完成した歴史ある駅。朝8時、TGVの8611便か8011便などでレンヌを目指す。自動券売機で購入し、切符に刻印、乗車。TGVは最高速度300kmというヨーロッパを代表する列車。今回は9:05発の8011便で出発。レンヌまで2時間の列車の旅。

●TGV
 ファースト・クラスとセカンド・クラスがある。しばらくすると車窓には緑が現れて続く。バー車両ではカフェからスナック・軽食まである。PCも使えます。
 1時間でル・マンの町を通過。湖が美しく、自動車の耐久レースでも有名。次はラベルで、ルソーの生まれた町として知られている。

●ブルターニュ地方
 ブルターニュ地方に入る。ブルトン人の文化が色濃く残る地域。牧場も広がる。終着駅近くになって、やっと車掌さんが切符のチェックにやって来た。
 ブルターニュ地方は日本の近畿地方とほぼ同じ面積。緯度は北緯48度で北海道よりも北にあるが、暖流のせいで温暖。リンゴを発酵させて作るシードルが名産品。

●レンヌ
 ブルターニュ地方最大の都市。TGV8011便の終着駅。11:08到着。レンヌ駅は洗練されたデザイン。人口21万人。学術都市として発達し、学生が多く暮らす。駅の北口にあるバス・ターミナルに行き、11:30発のバスでモン・サン・ミッシェルに向かう。バス代は10.3ユーロ。運転手さんに直接払うそうです。モンサンミッシェルまでは1時間20分。1時間後、小さな村を通り過ぎると、彼方にモンサンミッシェルの威容が見えた。牧草地の向こうに見えました。

●モン・サン・ミッシェル
 聖なる修道院は966年に完成した。中に入ると門前町で、人々で賑わっている。「岩山の上に修道院を建てよ」聖ミカエルが言ったというこの言葉が、モンサンミッシェルの修道院建立の始まりだった。中世は巡礼の地として賑わいを見せた。14〜15世紀の英仏100年戦争では要塞としても使われた。近年歴史的価値が見直され、1979年に世界遺産として登録された。
 修道院に続く参道「グランド・リュ」にはホテルやレストランやお土産物屋さんが並び、世界中の観光客で賑わっている。参道を登りつめると、入口の「護衛の間」に着く。かつては聖職者たちの生活を守るために、厳重な警備が敷かれていた。ここを過ぎるとチケット売り場。5〜8月9−19時、9−4月は9:30−18時。入場料8ユーロ。日本語のパンフレットも用意されている。ここはかつては修道院に寄付された品を分配する場所だった。
 最大の難所は90段の大階段。のぼりきるとテラスに到着する。西のテラスは教会正面にあり、海抜80mにあり絶好の展望台。眼下に広大な沼地などの広がる。ここは歩けるが、潮が満ちるのが早く、たいへん危険なのでガイドなしで歩くことはできない。ここからの眺めに世界中の観光客が魅了される。
 西のテラスに面して建つのは、修道院付属教会。修道院の最上部にあたる。ロマネスク様式の神楼?と、ゴシック様式の内じん?。回廊ではかつては修道士が読書にふけり、神の言葉をかみしめていた。天に開かれた中庭部分は天を意味すると言われている。回廊の隣にあるのが食堂で、59の小窓から明るい光が差し込む。高さ9mの丸天井が覆うマルティヌス礼拝堂。礼拝堂の隣には大型の滑車がある。食料や機材を運ぶために使われていた大車輪。ステファヌス礼拝堂は死者のための教会と言われた。階段を登りきると「散策の間?」が広がる。「騎士の間」は修道士の仕事場だった。柱にはノルマンディー芸術の特徴である植物をモチーフとした装飾が用いられている。
 参道の町を散策する。

 途中サンテレビが不調でカット。

●バルロワ
 整然と区画された街並みが続くバルロワ。まっすぐに伸びた道の先にバルロワ城がある。美しいフランス式庭園がある城。1631年ルイ13世の相談役の邸宅として作られた。フォーブス誌の元発行人のマルコム・フォーブスが1970年に購入し、現在はマルコムの3男クリストファーさんが所有している。フォーブスは美しく改装した。観光客も見学可能で、大人5.35ユーロ、子供4.57ユーロ。3月15日〜10月15日開館。2階から見えるバルロワの街は美しい。
http://www.chateau-balleroy.com/

 敷地内にある「気球博物館」。気球好きだったマルコム・フォーブスが愛したコレクションや気球を発明したモンゴルフィー兄弟に関する資料がある。入場料は大人4.27ユーロ、子供3.81ユーロ。

●グランヴィル Granville
 北のモナコと呼ばれ、海のリゾート地として多くの観光客が訪れる。カジノもあり高級リゾートと呼ばれるにふさわしい。観光地はクリスチァン・ディオールの美術館。幼年期を過ごしたこの地が美術館として彼の功績を称えている。庭にはディオールの歴代デザイナーの写真が展示されている。香水が描かれた表示板は匂いがテイストできる。
 美術館の中には、毎年ディオールに関する展示会が開催されている。入場料5ユーロ。2007年のパリ・コレクションは日本をテーマにしていた。ディオールの原点あここにあった。5月13日〜9月23日、10−18時30分開館(2007年)。


テレビ番組「ちょっと贅沢 欧州列車旅行 第6回 パリ」

 2008年11月30日放送。ヨーロッパの8都市を列車で巡る、ちょっと贅沢な旅。ウィーンから出発し、特急寝台でベネチアに、ついでミラノ、ルガーノからベルニナ急行でサンモリッツ、氷河特急でアルプスの絶景を堪能し、フランス南部のアルシーを経て、TGVでパリに向かう旅。JIC製作。

●パリ
 TGVがパリのガール・ド・リヨン駅 Gare de Lyon に到着。古い街に見えるが、パリこそ時代の最先端を行く街。パリは通称エスカルゴ。ルーブル美術館のある1区からうずまき状に26区から形成されている。どの区にも歴史的な建物がある。
 サンジェルマン・デ・プレはパリの中心を流れるセーヌ川の南側。昔から芸術家や文化人の溜まり場として知られる。交差点の近くにはベル・エポック時代から続く老舗のカフェが当時のままの姿で営業している。「カフェ・ド・フロル Cafe de Flore 」(172 Boulevard Saint-Germain, 6区、地下鉄4 Saint-Germain des Pres)もその一つ。ジャン・サルトルとボーボワールが愛用したテーブルは今も健在。通りに面した1階席は作家や俳優、モデルたちなど常連達の溜まり場。ランチタイムにはかつてサンジェルマン・デ・プレの女神と呼ばれたジュリエット・グレコが訪れたことも珍しくないそうです。
 「ルイ・ヴィトン・シティ・ガイド」は1998年から発行し、独自の視点でセレクトしたスポットを紹介しているガイドブック。今回はこれに従ってパリを案内する。トラベル・ノートブックは水彩画でパリが描かれている。

 トラベル・ノートブックと実際を比較してみた。メトロ「Bastille 」近くのStatue de Beaumareaus ボーマルセ像?、St-Paul 近くのパレ地区 Plades Vosges ボージュ広場、Filles du Calvaire 近くのCirque d'hiver サーカスのメッカのリベール曲芸場、Jacques Bonsergent 近くの Hotel de Nord 北ホテル。

 サンジェルマン・デ・プレ界隈には他にもお勧めの場所がある。「Debauve & Gallais 」(30, rue des Saints-Peres, 7th)は創業から250年の歴史を誇るチョコレートの店。昔ながらのチョコレート・ボンボンが中心。ブルボン王朝ご用達だけあって、王家の紋章入りチョコレートも名物。マリー・アントワネット、ナポレオンからバルザック、プルーストまでこの店の常連だった。
http://www.debauve-et-gallais.com/
 「Madeleine Gely and Alexandra Sojfer 」(218, boulevard Saint-Germain, 7th )はパラソルの名店。1834年開業。映画「シェルブールの雨傘」を思わせるようなカラフルな店内。たった3坪だが傘が溢れている。内側にクリスタルがついた傘は500ユーロ。傘の内側の布は傘の骨を隠すため。こういう細かい気配りがある。店の隣は工房。

 メトロは地下を走っていて、全線1.4ユーロ。乗り換えも自由。現在1900年にできた1号線から14号線まである。一部を除いて手動ドア。基本的に車内アナウンスもない。メトロの構内ではミュージシャンが演奏しているが、市のオーディションに合格した者だけが演奏できる。6号線の一部は地上を走り、エッフェル塔が見える。4号線で1駅の「オデオン」に行く。

 「La Chambre Claire 」(14, rue Saint-Sulpice, 6区)はヨーロッパ一の品揃えを誇るという写真集専門店。世界中から写真集を購入し、販売している。「明るい部屋」という意味の名前で、1981年創業、1.9万冊の写真集を扱ってきた。現在の在庫数は3000冊。珍しい写真集が多いことも特徴。日本ではあまりお目にかかれないアート写真集も豊富。チェコの写真家 Josef Sudek の1956年に出版した写真集は希少本で800ユーロ。
 モダン・ジュエリーの店「Galerie Helene Poree 」(14 rue de l'Odeon, 6区)は1992年にここに移動してきた。エレーヌ・ポレのデザインしたもの以外にも、ヨーロッパ各国のアーティストたちの作品も並ぶ。世界に3つしかないブレスレットはイタリアのデザイナーの作品。
http://www.galerie-helene-poree.fr/

 ユニークなブティック「Editions de Parfume Frederic Malle 」(37 rue de Grenelle, 7区)はメトロのSevres-Babylone駅の近く。他では真似のできない新しい方法で香水を生み出しているブティック。専属の調香師が9人いる。全員オーナーが選りすぐった一流の調香師。オーナーのフレデリック・マルはクリスチャン・ディオールの創業者の孫。束縛は少ないそうです。他の香りと混ざり合わないような工夫がされている。商品や箱にはボトルやタイトルのほかに調香師の名前まで明記されている。モーリス・ルーセル作「退廃のムスク」、エドワール・フレシエ作「一輪のバラ」、ジャン・クロード・エレナ作「雨の天使たち」など。
http://www.editionsdeparfums.com/

 高級食料品店「ダロワイヨ Dalloyau 」(101 rue du Faubourg-Saint-Honort, 8区)は、メトロSaint-Philippe-du-Roule の近くで、フランスを代表するお店。1802年創業の老舗。食料品はデリとペストリーが中心。1700年1月にシャロロ・ダロワイヨがベルサイユ宮殿でルイ14世のパン工房に採用されたのが始まり。1802年美食家のためのレストラン「ダロワイヨ」を開業し、フランスの食文化を高めてきた。偉大なパティシエも存在した。彼のレシピは今もダロワイヨを世界のトップクラスに君臨させている。人気のケーキ「ルリ・ジューズ?」は6人分で36ユーロ。フランスで最も有名なケーキ「オペラ」は7層の味がハーモニーを奏でる。2階はカフェになっていて、オペラやマカロンを気軽に味わえる。

 パリ8区にあるマドレーヌ教会。円柱がギリシャのパルテノン宮殿を思わせる。メトロ Madeleine or Concorde が近い。
 オシャレなブティック「Mina Poe 」(19 rue Duphot, 1区)はマドレーヌ教会の近く。2002年開業。モデルだったオーナーのミナ・ドルナ?が手がける個性的なアクセサリー・ショップ。自らが手がけた衣装がきっかけでデザイナーに転身した。仔牛の皮で作ったバッグは1250ユーロ。レザーのショルダー・バッグは1000ユーロ。どれも手作り。ウサギの毛がポイントのカーディガンは2250ユーロ。ウサギのベストは1850ユーロ。白のガウンは2000ユーロ。
http://www.minapoe.com/

 パリ名物のアーケード「パサージュ」は19世紀初頭には140あったが、今は30ほどが営業している。当時の新素材だった鉄骨で多くのパサージュの屋根が作られた。その一つパリ9区にある「パサージュ・ベルドー Passage Verdeau 」はドゥルオーのオークション・ハウスに近いため、多くのギャラリーやアンティーク・ショップが店を構える。1847年建築された。通りをはさんで「パサージュ・ジェフロワ Passage Jouffroy 」があり、こちらも同じ年に建築され、アンティーク店が建ち並ぶ。19世紀のパリの姿がある。

 8区のホテル「プラザ・アテネ Plaza Athenee 」(25 avenue Montaigne, 8区)はメトロAlma-Marceau or Franklin-D.-Roosevelt 駅の近く。エッフェル塔からもほど近いモンテーニュ通り。改装したばかりで、創業1911年。パリで最も格式の高いデラックスホテル。客室は最低でも25平方m以上。スイートはルイ15世様式、ルイ16世様式、リージェンシー様式のいずれかの内装。レストランは世界的な3つ星シェフの「アラン・デュカス」が入っている。内装はゴージャスでエレガント。天井とシャンデリアが王宮の広間をイメージさせる。まるでアートのような料理。
http://www.plaza-athenee-paris.com/

 パリの北側19区。「L'auto Jaune 」(41 rue Cavendish, 19区)はビンテージ・ミニカーの専門店。1984年開業で、常時2000−3000台扱っている。全てがデッド・ストック。ヴィンテージや姿を消して久しいものが揃っている。インターネット・オークションによりパリでもビンテージものの需要が高まっている。パリのマニアから日本人観光客まで通っている。60〜1000ユーロ。
 セーヌ川の南の5区の老舗ブランド「ディプティック Diptyque 」(34 boulevard Saint-Germain、5区)はメトロ Maubert-Mutualite 近く。1961年創業。伝統的なイギリスの香水とアロマ・キャンドルを大々的に紹介した。国立芸術大学に通っていた3人の学生が創業者。アロマ・キャンドルは1963年、オードトワレは1968年から販売を開始した。オードトワレは50−80ユーロ。ロウソクは55種類あり、キャンドルは大きいサイズが36ユーロ。オリジナル・ショップはここだけだが、商品は世界40カ国で販売されている。オードトワレの第一作は「L'eau」でした。
http://www.diptyqueparis.com/

 生粋のビストロ「ル・ルビ Le Rubis 」(10 rue du Marcht-Saint-Honbre、1区)はメトロ Tuileries か Pyramides の近く。1982年創業で、オーナーの Albert Prat さんが1948年に建てられた店を買い取り、昔ながらの店を続けている。30種類のグラス・ワインと50種類のボトル・ワインをサラミやチーズと共に楽しめる。お客はビジネスマンが多く、ホテルも近いので観光客も多いとか。

 地元の人に愛されているビストロ「ル・セヴェロ Le Severo 」(8 rue des Plantes, 14区)は、メトロ13号線 Gaite 駅の近く。1987年開業。オーナーのウィリアム・ベルネ William Bernet はかつては精肉店を営んでいた。肉料理が専門のレストラン。オーガニックのものを中心に200種類のワインを用意している。中にはジュラ地方産のものもある。牛肉はフランス市場で最高級のブランド牛を使用している。特にレアで食べてもらうと味の違いがわかるそうです。名物の豚足の揚げ物、ブダンという血のソーセージ、オーベルネ地方の生ハム、レアで焼いたフィレ・ステーキ、ユッケのような生肉の牛のタルタル・ステーキなどが紹介されました。パリで一番の味と雑誌で紹介されたこともある。メニューは仕入れた肉によってほとんど日替わりに近い。付け合せの野菜も地元の農家と契約している。安い値段で提供しているそうです。


テレビ番組「THE 世界遺産 ロワール渓谷」

 2008年11月23日放送。ルーブル美術館に世界で最も有名な絵「モナリザ」がある。イタリアが生んだダビンチの最高傑作が何故パリにあるのか?世にも美しい城に眠っていたため。

●ロワール渓谷
 大西洋に流れる全長1020kmのロワール川の中流200kmほどが世界遺産に登録されている。
 ロワール川沿いには140の渓谷があり、フランスの庭と言われている。王の宮廷がおかれ、華やかな文化が育まれた。そしてフランスの文化に多大な影響を与える2人のイタリア人がやって来た。一人はレオナルド・ダ・ヴィンチ、もう一人はカトリーヌ・ド・メディシス。二人によって最新のイタリア・ルネサンスがもたらされた。

 イギリスとの戦いが終わると、フランスの城は堅固な城壁から、美しいシャトーへと変身していった。アンポワール城もかつては要塞だったが、大改築を行い、王の居城となった。1516年頃、この城にダ・ヴィンチがやって来た。当時イタリアの美術界でもてはやされていたのは、若き天才ミケランジェロ。老いたレオナルドは居場所を失い、国を後にし、時のフランス国王フランソワ1世の庇護を求めた。フランソワ1世は身長2m、芸術をこよなく愛し、7カ国語を操ったという。国王は1515年、イタリアに攻め入り、その和平交渉の場でレオナルドと出会った。フランソワ1世はイタリアのルネサンスの導入に積極的で、レオナルドにアンボワール城の近くに居心地のよいシャトー「クロ・リュセの館」を与えた。この時、レオナルドのもとには、肌身話さず持ち歩いたという3枚の絵があった。その1枚が「モナ・リザ」。今も残る秘密の通路で王は暇さえあればレオナルドのもとを訪れた。22歳の王は64歳のレオナルドを「私の父」と呼び、芸術や建築について熱心に教えを請い、ルネサンス様式の建築を次々と建てていった。
 代々の王が居城としたブロワ城、その中庭に華やかな装飾に満ちた一棟がある。そのフランソワ1世棟は10年がかりで建てたもの。カトリーヌ「王妃の執務室」がある。237枚の羽目板があり、羽目板には彫刻が施され、全て違う。初期フランス・ルネサンスの名品とされている。ちょっとした仕掛けがある。羽目板の中には美術品が隠されていた。
 やがてロワールで一番美しいという城が現れる。狩が好きだったフランソワ1世は狩猟のための離宮を建てた。フランス・ルネサンスの結晶「シャンボール城」。フランソワ1世は国の財政をつぎ込んだ。空に向かって林立する282本の塔は、暖炉の煙突。随所に見られる丸や四角の幾何学模様は、当時フィレンツェで見られた装飾を真似たもの。城の中心を巧みに重なりあった螺旋階段が貫いている。独創的なデザインはダ・ヴィンチのアイディアと言われる。彼の1490年頃の手稿に螺旋階段のスケッチが描かれていた。シャンボール城の着工直前の1519年5月にダ・ヴィンチは67歳で亡くなった。

 その年、フィレンツェで女の子が生まれた。カトリーヌ・ド・メディシス。
 宝石のような城の数々。ショーモン城、シュベルニー城。シュノンソー城は別名、「6人の女性たちの城」で、代々、この城の主は女性で、河の上に一部が建っていた。カトリーヌがこの地に足を踏み入れたのは1533年。メディチ家からフランス王家に嫁いだ。相手はフランソワ1世の息子アンリ2世。14歳同士の結婚だった。この時カトリーヌは、イタリアから料理人、家事職人、花火師、占星術師など一流の職人を大勢ひきつれてやって来た。特に目覚しい変化があったのは、宮廷の食卓だった。ルネサンス料理研究家のステファン・ツーザン?さんが説明してくれました。料理人はピーマン、アーティチョークなどの野菜を持ち込んだ。冷たいシャーベットには誰もが驚いた。最も珍重されたのが砂糖で、砂糖漬やジャムが人気を呼んだ。一人一人の前にフォークやグラスが置かれるようになった。それまでは王族も食事は手で食べていた。しかし、その結婚は幸福とはいえなかった。この城にアンリとカトリーヌのイニシャルの紋章があるが、重なった紋章にはDという字が隠されていた。ディアンヌ・ド・ドワティエはアンリ2世の結婚前からの愛人だった。20歳以上も年上の彼女にアンリは終生絶対の愛を捧げた。アンリからディアンヌに贈られた膨大なプレゼントの一つがシュノンソー城だった。30年以上愛人関係は続いたが、1559年、アンリ2世急死。途端に妻カトリーヌの反撃が始まり、ディアンヌの宝石を全て没収し、城からも追い出した。自らシュノンソー城の主となり、城の大改造をした。ディアンヌが作った橋の上に2層回廊を重ねた。
 幼い王子がアンリ2世を継ぎ、カトリーヌは摂政となり、政治の実験を握った。次第にフランス各地で宗教戦争の嵐が吹き荒れ始めた。毎晩舞踏会で地方の有力者を巧みにもてなし、政治的な信任を取り付けようとした。もてなしの踊りはイタリア式で、この時のダンスがクラシック・バレエのルーツとなったという。息子は次々亡くなったが、30年間フランスの政治を動かした。1589年69歳でカトリーヌは亡くなった。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン フランスのリヨン」

 2008年11月22日放送。

●リヨン
 フランス南部の町で、フランス第二の都市。古来より商業の街として発展してきた。中心部は世界遺産に指定されている。季節によって趣を変える。
 郊外の農村地帯ボジョレー地区に住むサンドリン・ゴベさん(35歳)のお宅を訪問した。1男1女の子供の4人家族3LDK、100平方m。裏手のぶどう畑はボジョレー・ワインを造る。造る農家は1300軒。ダビッドさんの畑で作ったボジョレー・ヌーボーは日本に輸出している。今年はできがいいそうです。毎年11月の第三木曜日に解禁になる。生産される半分はフランス国内で消費されるが、輸出される分の1位は断トツで日本、2位アメリカ、3位イギリス。
 リヨンは中世以降、絹の産地として発展した。19世紀の初めには世界的な絹産業の街となった。街中にはトラブールというトンネルがあるが、絹を雨にぬらさずに運ぶために作られたもの。  伝統的なお菓子「クサン・ド・リヨン」も絹に関係がある。絹産業が盛んだった頃に作られた絹のクッションをモチーフにしている。
 街中の歴史的建造物は美しい。街の公園も美しい。テットドール公園は一番大きい。紅葉もきれい。公園は動物園も併設されていて、入園料は無料。ワニ、キリンなどもいます。
 昼食は街のレストラン「Brasserie Leon....」で。リヨンは美食の町として世界的にも有名。お昼は1時間から1時間半かかるようです。
 リヨンには3本の川がある。ソーヌ川、ローヌ川、そしてボージョレー・ワインの川だとダビッドさんは言います。

 クロワルース地区は高級住宅街。秋祭りが開催され、遊園地ができている。これは100年以上続いているお祭りで、大人も子供も楽しむ。元々は「栗の収穫祭」だった。
 ある建物の壁には「だまし絵」が描かれていた。

 リュミエール美術館には、世界で最初の映写機がある。リヨンは歴史上初めて映画が上映された街。ルミエール兄弟によって映画が生み出されたのは100年以上前のこと。
 夕食。バターで炒めた鶏肉をクリームでじっくり煮込む「鶏のクリーム煮」。「ソーセージのワイン煮」も作るが、ボトル1本使います。


テレビ番組「地球街道 ナポレオン街道」

 2008年11月1日、8日放送。

●パリ
 凱旋門の製作を命じたのはナポレオン・ボナパルト。建設が始められたのは1806年、完成は1836年。ナポレオンは生きてこの門で凱旋することはかなわなかった。
 パリ7区にある堂々とそびえる「アンヴァリッド癈兵院」は戦いに倒れた者たちのメモリアル。その中央ホールはたった一人の者の場所。そこにナポレオンが眠っている。

●ナポレオン街道
 フランス南部を走る国道85号線。およそ200年前、再び栄光を目指して、この道を風のように駆け抜けた男がいた。人はこの道をナポレオン街道と呼ぶ。コルシカ島の下級貴族の子として生まれたナポレオンは、鋭敏な決断力と軍事的才覚によって皇帝へと登りつめた。今回は皇帝を追われ、エルバ島に流されたナポレオンが再起をかけて立ち上がったナポレオンの1815年の話。
 ナポレオン街道は南フランスのゴルフ・ジュアンから、カンヌCanne、Mougins、Mouans-Sartoux、Grasse、St.Vallier de Thiey、Escragnalies、Castellane、Senez、Digne-les-Bains、Malijai、Sisteran、Gap、Corps、La Mure、Laffrey、グルノーブルGrenoble へと続く340kmの道。ナポレオンはたった7日間で駆けぬけた。

●ゴルフ・ジュアン Golfe Juen
 ナポレオン街道の起点は南フランスのコート・ダジュールのゴルフ・ジュアンの海岸。ニースとカンヌのほぼ中間に位置し、人口1万人足らずの小さな町。この海岸にモザイクの記念碑がある。「1815年、ここにナポレオンが降り立った」。
 ナポレオン研究家のカミーユ・バルトリさんが説明してくれました。1814年4月4日、ナポレオンは皇帝を退位し、5月4日地中海のエルバ島に幽閉された。1915年2月26日エルバ島を脱出し、1815年3月1日午後3時頃にナポレオンは1000人の兵士を引き連れて上陸したが、当時はここに何もなかった。ここの砂浜は海藻で覆われており、海水浴を楽しむ人は皆無だった。建物も港も何もなかった。
 毎年3月にここではナポレオンの上陸を記念した盛大な祭りが行なわれる。

●カンヌ
 ゴルフ・ジュアンからカンヌまでは海岸沿いに国道7号線を走る。カンヌは有名なリゾート地であり、国際映画祭が開かれる場所。パレ・デ・フェスティバル・エ・デ・コングレがその会場。
 1815年3月2日午前2時頃にナポレオンはカンヌに到着。ノートルダム・ド・ボン・ヴォヤージ教会近くで野営し、3000人分の食料を調達、夜明け前にはカンヌを出発した。ここから国道85号線に入る。

●グラース Grasse
 カンヌから山道を30分走ると到着する香水の街。3月2日の午前11時にナポレオンは到着した。この時地元の住民たちは兵士にはワインを振る舞い、ナポレオンには「すみれの花」を差し出したという。グラースでは18世紀頃から盛んに香水が作られてきた。この町で最も歴史の古い香水工房「ガリマール社」でナポレオンをイメージした香水を作ってもらった。調香師(ルネ)はカロリーヌ・ド・プティニさん。優れた調香師ともなると、数千種類の香りを判別できるという。ルネとは鼻の意味。
 香水は香りの持続時間によって、3種類に分かれる。「トップ・ノート」は、最初に匂い立ち、すぐに消える香り。「ミドルノート」はゆっくりと漂う、核となる香り。「ベースノート」は長時間ほのかに残る香り。ノートとは香りの持続時間です。この3種類を調合して香水は作られる。
 ポイントは「間違った香りを選ばないこと」だそうです。音楽家が間違った音符を選ばないのと同じらしい。新しい傾向は作るけど、全てを調和させなければならないそうです。
 「ナポレオン」という香水、今回はレモンビスト、スイートレモン、グリーンティー、シナモン、ライムツリー、ムスク・ハーモニー、ウッディパンチ、ベルガモット、ベルガモット・フルーツ、ムスキーツリー・オブ・ザ・バレー、エアー・ドゥ・プロヴァンス、リコリス、モス、バニラを使用。柑橘系のフレッシュな香りに仕上げたそうです。
 ナポレオンについては、1日3時間しか眠らなかった。シャンパンを入れた風呂に入っていた。音痴だったが、ギターはうまかった。胃下垂だった上、痔にも悩まされていた。死因は胃がんともヒ素による毒殺とも言われている。などなど。その全てが英雄伝説。

●エスクラニョール Escragnalies
 グラースから険しい山道を経て車で40分。ナポレオンは3月2日日没後にカンヌから60km離れたエスクラニョールに到着した。休憩したとされる宿が残っていて、今は一般の民家になっている。ここで食事をしたが、食べたものは、半熟のゆで卵。
 この町の近くに国道85号線ではない舗装されていない山道がある。この道こそ、ナポレオンが実際に行軍した道で、ほぼ当時のままの姿を残している。ナポレオンがここを通過したのは、雪の降っている3月のこと。さすがにエルバ島から運んできた大砲などの大きな荷物は捨ててしまった。この日ナポレオンはさらに24km先のセラモンの町まで移動し、やっと眠りについた。
 しかし夜明け前に再び移動を開始し、まだ雪も残っていたので、長時間の休憩は逆に体を冷やし、体力を消耗すると考えたようだ。

●カステラーヌ Castellane
 エスクラニョールから30分走ったところ。切り立った岩山がシンボルの町。3月3日の正午、ナポレオンはこの町に入った。現在は空家となっている建物であわただしく昼食を取ると、またすぐに移動を始めた。

●ヴェルドン渓谷 Le Verdon
 今回の旅では、途中で左折して、国道85号線から県道952号線にそれて寄り道をした。石灰岩がむきだしの荒々しくも雄大な絶景。谷の深さはおよそ700m。ちなみにヴェルドンとは「緑の贈り物」という意味。

●バレーム Barreme
 カステラーヌをでたナポレオン軍は、雪の降り積もった標高1100mを超える山道をほとんど休憩せずに突破した。ナポレオンの軍隊には常に先発隊がいて、先に町に入り宿や食事の準備をしていた。
 3月3日午後9時頃、バレームに到着。温かく迎えられたナポレオンは町の判事の家に泊まった。この時判事は郷土料理をふるまったと伝えられている。どんな料理だったのか、「レストラン・ド・ラ・ガール」で聞いてみると、マリー・ジョゼ・カロンさんは、時間がなかったり、材料が揃わないので、今ではあまり家庭では作らなくなったという。その時は、狩猟で獲った動物の料理を食べたのかもしれないという。あとは「ピエ・エ・パケ」も食べたかもしれないという。これは子羊の足先部分と肩肉をトマトソースで煮込んだもの。
 グルノーブルまであと200km。

●ディーニュ・レ・バン Diane-les Bains
 3月4日正午、ディーニュ・レ・バンの町に到着。町の広場には市場が並ぶ。当時もそうだったかもしれない。何故なら、ナポレオンは自らの健在と復活を知らせるために、市場がたつ日にこの町に到着したかったからという。
 今は公営住宅に改装中の「ホテル・プチ・パリ」にナポレオンが休憩を取ったというプレートがある。午後3時にこの町を出ていった。

●マリジェ Malijai
 ディーニュ・レ・バンからおよそ20km。ナポレオンは3月4日夜に到着した。マリジェ城は現在は市役所になっている。ナポレオンはここで仮眠を取り、中庭で夜明けまで過ごした。王統派による襲撃を警戒し、ほとんど眠れぬ夜を過ごした。そして、先発隊の知らせを聞き、朝6時に一杯のコーヒーを飲んで出発した。

●ヴォロンヌ Volonne
 デュランス川の左岸を北上し、3月5日午前中にヴォロンヌの町で休憩を取った。その町外れにナポレオンが訪れたことを記すちょっと変わったプレートが残されている。「ここでナポレオンが用を足した」。街中ではしないというのも英雄のたしなみか?
 これまで山道続きだったナポレオン街道も、ここからは比較的なだらかな道となる。

●シストロン Sisteron
 川にかかる1本の橋がある。町に入るにはこの端を渡るしかない。この町には12世紀からそびえる強固な砦「シストロン要塞」が建っていた。ここで王統派の襲撃を受ければひとたまりもない状況だった。
 その心配は杞憂に終わった。3月5日昼、軍隊は町に入った。先発隊によりナポレオンが来ることを知った王統派は既に撤退していた。ナポレオンは「ホテル・プラ・ドール」で市長と会食をした後、早々に出発した。
 この町を出てからナポレオンに対する民衆の反応は徐々に熱狂的なものへと変わっていく。

●ガップ Gap
 3月5日夜に60kmの行軍の末にガップに到着した。ここで熱烈な歓迎を受けたナポレオンの言葉「ついにだ!我々は確かにフランスにいるのだ」。

●モン・ドーファン
 今回は国道85号線から右折して国道94号線に入る。東に1時間走って、たどり着いたのは、今年世界遺産に登録された町「モン・ドーファン」。17世紀にルイ14世に仕えた技術者ヴォーバンが手がけた城壁に囲まれた要塞の町。現在は人口140人。町の美しさもさることながら、そこからの眺めも実に素晴らしい。

●コール Corps
 ガップから40km離れたコールの街に3月6日夕方到着した。この行軍の中では比較的長い休息を取る。

●ノートルダム・ド・ラ・サレット教会
 コールから北へ15km、寄り道をした。美しくなだらかな山道を20分走ったところに、知る人ぞ知る巡礼地がある。標高1800mに建つ「ノートルダム・ド・ラ・サレット教会」。羊飼いの二人の子供の前に聖母マリアが現われたという実話に基づいて、1851年に聖堂が建てられた。
 世界から毎年20万人の人が巡礼にやって来る。ステンドグラスも美しい。

●ラフレー Laffrey
 3月7日早朝、コールの町を出発したナポレオン軍には最大のクライマックスが待っていた。街道沿いに広がるなだらかな広場と場違いのように建つナポレオン像。
 3月7日午後3時頃、ナポレオンはこの行軍で初めて王統派の軍と対峙することになった。ナポレオン軍の兵士1000人に対し、その数倍の王統派の軍隊が向き合った。戦闘が始まれば勝ち目はないと考えたナポレオンは、一世一代の大芝居をうった。ナポレオンはたった一人、前ででて叫んだ。「兵士諸君、私がわかるか?もし諸君の皇帝を撃ちたい者がいるなら、今だ!私はここに立っている。」すると王統派の兵士の中から、「皇帝万歳!」の歓声が挙がった。ナポレオンは危険な賭けに勝った。
 この地は今は「出会いの草原」と呼ばれている。王統派の軍隊を吸収し、数倍になったナポレオン軍は怒涛の勢いでパリを目指す。

●ヴィジール
 ナポレオンがやってきたその様子を描いた版画が、革命博物館に残されている。城の前にやってきたナポレオンを民衆は熱狂と歓呼で迎えた。この時ナポレオンは反乱軍ではなくなった。

●グルノーブル
 3月7日、午後9時に到着した。町に入るためのボンヌ門は閉ざされていたが、2時間後に民衆の手によって開かれた。その門はもう残っていないが、民衆は歌を歌って歓迎したらしい。そして現在「オーベルジュ・ナポレオン Auberge Napoleon 」というレストランになっている、当時のホテル「トロワ・ドーファン・ホテル」で3日間の休息を取ったといわれている。

●その後のナポレオン
 1915年3月20日、ナポレオンはパリに入り、再び皇帝に返り咲いた。しかし、その絶頂もわずか100日、6月17日のワーテルローの戦いに敗れ、またも皇帝の座を奪われ、絶海の孤島であるセント・ヘレナ島に10月に流された。
 そしてこの島で1821年5月5日波乱に満ちた生涯を閉じた。ナポレオンの亡骸がパリに戻ったのは、1940年12月。皮肉にもこの時、彼は念願の凱旋門を通った。
 ナポレオンは「グルノーブルまでの私は冒険家だった。グルノーブルではプリンスだった。」と語った。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン パリ」

 2008年10月4日放送。

●パリ
 凱旋門などもある。ルーヴル美術館、町中でもアーティストに多く出会う。シモン・オドレーさん(35歳)のお宅を訪問した。息子3人の5人家族で、3LDK95平方m。
 スィーツの店「Patisserie de L'Eglise..」(1887年創業)に行く。マカロンはフランス生まれの伝統的なスイーツだけど、昔とはだいぶ味が変わったという。
 パリで初めての「漫画喫茶」に行く。ここの本は全部日本の漫画。1年前くらいから大ブームになって、従来のベルギーとフランスものを上回った。現在9000冊あり、毎月130冊くらい増えている。料金は1時間約500円程度。一般書店では1冊1000円なので、こちらで読む方が安い。最近はフランスの漫画家が日本の漫画風なのを描いているそうです。
 「Kawaiko」という店?はパリのファッションに影響を与えている。
 ご主人が市場で買い物。トマトは1kg240円(日本は610円)、巨峰は240円(日本は1530円)。
 町中には200箇所以上にレンタル自転車置き場があって、最初の30分は無料、1日使っても150円程度。サン・マルタン運河は静かなので地元の人には穴場のスポット。
 「コンセプト・ストア」が人気で、子供服だけでなく、子供用の品をいろいろ置いてある。靴屋さんの奥では、足裏マッサージ(リフレクソロジー)を行なっている。
 夕食。赤ワインに一晩つけこんだというウサギの肉。「ウサギの赤ワイン煮込み」は煮込んで骨を取り、また煮込む。手間がかかる伝統料理です。うさぎの肉はパスタにからめて食べるのが一般的。
 夜はローラーブレードのイベントに参加。週末の夜にみんなで集まってローラーブレードで街中を走る。多い時は8000人以上参加する。もう10年以上続いています。夜10時過ぎに警察が誘導してスタート。この日は6000人で、午前2時まで続きました。

●モン・サン・ミッシェル
 世界遺産。始まりは1200年以上前に建てられたという小島の上の小さな祈祷所。年月をかけて石組みの建物となった。ヨーロッパで最も潮の満干きが激しい孤島。一番の名物が柄の長いフライパンで焼くオムレツ。100年以上前から伝わる秘伝のオムレツ。外側はサクッとして、中はふわふわ。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ボルドー」

 2008年10月4日放送。

●ボルドー
 フランス南西部の都市。フランスの中でも最も古い商業港の一つ。18世紀頃に作られた華麗な建築をいたる所に見ることができる。
 ボルテール通りにカヌルの専門店「バイヤルドラン Baillardran 」がある。カヌレは16世紀頃から修道院で作られていたボルドーを代表するお菓子。カヌレを入れるための飴で作った器も見事です。1個2.3ユーロ。地元の人は1個買って小腹の空腹を満たすそうです。

●ワイナリー
 郊外のサン・ジュリアン・ベシュベル。ブドウ畑が広がる。あるお宅の畑は90ヘクタールで、50万本のワインができるそうです。
 立派なお屋敷があるが、「シャト・ベシュベル」というワイナリーだった。18世紀の大富豪の屋敷を改築してワイナリーにしている。樽詰めされたワインは1年半かかって熟成される。
 マルチヤックのブドウ畑にも行ってみた。ぶどうを使ったスキンケアを施術するスパ「コータリー・ヴィノテラピー・スパ」は、イギリスで世界のベストスパにも選ばれた高級スパで、世界中からセレブがやってくる。マールというぶどうから抽出したエキスで、お肌にハリとツヤを与えるものもある。お湯は天然温泉を使っている。フレッシュなブドウを使ったトリートメントもある。ボルドー大学の教授と一緒に世界で初めてブドウを使ったスキンケアを開発した。

●ポイヤック
 ボルドーの北にある街。人が集まっている。船のオブジェをかついだり、風車が火をふいて回っている。仮装している人がいる。この日は第24回メドック・マラソンの日。参加者の8割が仮装して走るが、フルマラソンです。給水所にはワインが置いてある(笑)23箇所もあって、それぞれ違うワインをテイスティングできる。35km地点では牡蠣も用意してあった。その先ではステーキも用意してあり、最後はアイスキャンディのデザートもあって、ちょっとしたコース料理になっています。

●ボルドー
 バンサン・レネさんが紹介してくれたのは、ボルドーで有名な郷土料理のレストラン「ラ・チュピナ La Tupina 」。ローストチキンは中にハーブやニンニクなどを詰めて、昔ながらの機械を使って3時間タレをかけながら、じっくりローストしたもの。つけてあるパンはチキンの中で焼かれたものです。

 新婚さんの朝ごはん。旧市街の古いアパートに住むマノン・クラリスさんが作るのは、1品目は郷土料理「サラダ・ランディーズ」。切り分けたレタスの上にプチ・トマトをあしらう。松の実をフライパンにあけて煎る。軽くこげ目がついたら、レタスの上にかける。鴨の砂肝を取り出し、フライパンで炒めて、レタスの上にかける。鴨のロースハムはそのままレタスの上に並べる。マスタードを効かせたドレッシングで食べる。
 2品目「ジャガイモのオムレツ」。熱したフライパンにオリーブオイルを敷き、小さくきっておいたジャガイモを入れて炒める。切ったパプリカを入れてさらに炒める。塩胡椒で味付けした溶き卵をかけてオムレツにする。
 3品目「洋梨のワイン煮」。洋梨の皮をむく。赤ワインを鍋に入れて、レモンをたっぷり絞りいれ、砂糖とバニラを入れて一煮立ち。洋梨を入れ、香りつけのシナモン・スティックを入れて、30分煮込む。


テレビ番組「芸術都市パリの100年展」

 2008年9月1日放送。日仏交流150周年、京都市ーパリ市姉妹都市50周年。「芸術都市パリの100年展」記念特別番組。井川遥さんが案内。毎日放送制作。

●パリ 1900年
 1830−1930年の100年間。その1900年のパリに移動。1900年のパリは新しい光を次々と放っていた。オルセー駅、プティ・パレ、グラン・パレ、地下鉄開通、動く歩道、アレクサンドル3世橋が完成した。ニーチェが亡くなり、フロイトが夢判断を発表した。ベル・エポック。ロダンが未完の大作「地獄の門」を世に問うたのも1900年だった。悲劇の彫刻家カミーユ・クローデルは愛するロダンとの決別の果て。世紀末のモンマルトルにはムーラン・ルージュなどの強い磁場があった。ピエール・オーギュスト・ルノワールの生命の輝き。ルノワール、ドガらを魅了したミューズ(美の女神)は偉大な画家の母となった。内面への旅を続け、運命の女「ファム・ファタール」を描き続けたギュスターヴ・モロー。1889年エッフェル塔を建設した「鉄の魔術師」ギュスターヴ・エッフェル。エッフェル塔は当初は20年以内に取り壊される予定だった。
 パリの人口増加は急激で1801年から50年間で倍増している。グラフが読めないですが、1801年50万人くらいだったのが、1830年に75万?、1960年に115万、1880年に200万のように増えた。1789年からの市民革命で街は汚れ、異臭がただよっていた。
 1851年皇帝となったナポレオン3世が大なたをふるった。ロンドンで近代都市の姿を見て、1853年にオスマン男爵にパリの大改造を命じた。まず中心部のシテ島からスラム街などを一掃し、官公庁、学校などを建設した。パリの市域を倍以上の面積に広げ、広場を中心とした方斜線状の大通りを作った。エトワールの凱旋門からは12本の大通りが伸びている。空気の流れは格段によくなり、軍隊のどうせんも作り出した。大通りの両側に高さを統一したアパートを建設し、オスマンはパリを光の都に変えた。上下水道も整備し、夜は真っ暗だったパリに数千本のガス灯を設置した。
 ナポレオン3世は芸術の保護にも力を注いだ。ルーヴル美術館を世界一の美術館にと命令を下し、フランスの国力を世界に示すために万国博覧会の開催を命じた。パリ万博はロンドンに遅れること4年、5回開催された。1855年520万人、67年680万人、78年1600万人、89年3240万人、1900年4810万人。コンテストを行い、金銀洞メダルを授与した。これがデパートへと発展していった。1855年の万博ではボルドーやブルゴーニュのワインが金メダルを獲得した。67年ではバクテリアによるワインの酸化防止方法を発明したので、フランスワインが世界に輸出できるようになった。ドイツのパビリオンでビールが振舞われ、パリの人々の喉を潤すようになった。
 1861年新しいオペラ座の建設が始まり、ナポレオン3世が失脚した後の1875年に完成した。古典からバロックまで様々な様式が混在しているオペラ座。「オペラ座の怪人」が書かれたのは1910年。
 1889年の万国博覧会では観客動員のために、エッフェル塔が建てられた。1900年の万博でもエッフェル塔は象徴的な存在となった。鉄の勝利と言われた。これに合わせてオルセー駅、グラン・パレなどが建築され、電気の勝利と言われた。ミシュラン・レッドガイドが創刊され、パリは世界の観光都市となった。エッフェル塔は無線塔として価値を見出され、取り壊されずにすんだ。現在はテレビ塔としても機能している。

 オスマンの改革により芸術家たちの視線も変わった。画家たちは街角の絵を描き、写真家たちは日常のさりげないシーンを撮影するようになった。生活の中に喜びを発見するようになった。そんな19世紀末に時代を逆行するような一人の画家ギュスターヴ・モローがいた。幼い頃からギリシャ、ローマの古典に親しんだモローは、内面世界への旅を続けた。首を切られたヨハネとサロメと対峙したり、レダとヘレネの世界など。
 一方ロダンは1900年に大規模な個展を開いた。「地獄の門」を提示した。ヴィクトール・ユーゴーなどの巨匠の彫像をギリシャ神話の人物のように作った。人の一瞬の姿をとられ、そこにその人の考えなどを見出した。「考える人」も右手にひねりがあり、苦しみなどの感情的な部分が表現されている。悲劇の彫刻家カミーユ・クローデルはロダンに弟子入りする。ロダンの「接吻」はロダンとカミーユの姿をモデルにしたと言われている。カミーユの「分別盛り」はロダンを放さない内縁の妻と捨てられるカミーユを表わしているという。
 1900年に作られたプティ・パレは現在は美術館としてパリを支えている。オルセー駅は39年間でその役割を終え、1986年に美術館として生まれ変わった。1876年にルノワールが描いた「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」がある。19世紀に芸術家たちは「創作の自由」を求めてモンマルトルに集まった。不思議な磁場があった。今もテルトル広場には画家が多い。1889年モンマルトルではムーラン・ルージュがオープンした。ベル・エポック、ヨーロッパが第一次世界大戦に入る前の爛熟した時代。ルノワールはニニ・ロペスとシュザンヌ・ヴァラドンを多く描いた。ヴァラドンは芸術家に創造性を与えてくれるミューズの役割を果たした。ヴァラドンには18歳の時に生んだ息子がいた。モールス・ユトリロである。母が家にいないので、小さい頃からお酒を飲み、入退院を繰り返した。絵を描くようになったのはリハビリのためだった。そして母が友人と再婚したのもショックだった。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 西川史子さんでフランスのシャンパーニュ地方」

 2008年8月23日放送。西川史子さん(37歳)がシャンパンを飲みにフランスを旅した。9700kmを1泊3日の旅。

●予定
 1日目、8:15羽田空港発JAL175便、11:40関西空港発エールフランス(AF)291便、19:15シャルル・ド・ゴール空港着。日本から13時間45分。19:53シャルル・ド・ゴール空港第2駅発TGVで、20:47シャンパーニュ・アルデンヌ駅着。20:56ランス駅着。21:30「ル・ビストロ・デュ・フォーラム」でディナー。23:30ホテル「アシエット・シャンプノワーズ」チェックイン。
 2日目、8:45ホテル・チェックアウト。9:24ランス駅発、9:48エペルネ駅着。10:30「モエ・エ・シャンドン」カーブ見学。16:00「オーベルジュ・ル・ルレ」に行く。最高の場所で最高のシャンパンを飲む。19:00「オーベルジュ・ル・ルレ」発。23:35、シャルル・ド・ゴール空港発AF278便。
 3日目、18:00成田空港着。

●パリ
 TGVで30.8ユーロでランス駅に向かう。

●ランス Reims
 歴史と芸術のカタログと言われる街。シャンパンの生まれ故郷であるシャンパーニュ地方の中心都市。
 タクシーで15分、「ル・ビストロ・デュ・フォーラム」はシャンパンと家庭料理が味わえる地元でも人気のレストラン。お勧めは「マンドゥ・ブリュット・オリジーヌ Mandois Brut Origine」で、シャルドネ、ピノ・ノワール、ピノ・ムニエの3種類のぶどうをブレンドした辛口のシャンパン。1杯7.5ユーロ。シャンパンに合う料理は「アンコウのロースト、シャンパーニュ・ソース」15.5ユーロ。
 シャンパン・バー「ラッペ」に行く。常時50種類のシャンパンが味わえる。イケメンがたくさんいる。まず店で一番人気の「アンリオ Henriot 」1杯9.5ユーロで、とがった感じで20代の外資系の男とか。「カナール・デュシェーヌ Canard-Duchene 」1杯8.5ユーロは40代の男の感じとか。そこにいたテニス場経営者と仲良くなる。
 老舗のバー「デジェルマン」では、ランスで唯一シャンパンを使ったカクテルをいただける。「コゼット」1杯10.2ユーロは、黒イチゴのリキュール+ウイスキー+シャンパン。午前2時まで飲みました。
 2時半、ホテル「アシエット・シャンプノワーズ」チェックイン。元貴族の屋敷をモダンに改装したシャトー・ホテル。1泊235ユーロ。

 8:45ホテル・チェックアウトし、9:24ランス駅発の電車でエペルネに向かう。1両の電車で15分、エペルネ着。見渡す限りのぶどう畑。5.8ユーロ。

●エペルネ
 小さな街ながら、世界的なシャンパン・メーカーがある。「ペリエ・ジュエ Perrier-Jouet 」、「ドゥ・カステラーノ De Castellane 」、「ドゥ・ヴェノージュ De Venose 」など。
 今回は、ドンペリ Dom Perignon で有名な「モエ・エ・シャンドン Moet et Shandon」のカーブを見学。シャンパンの生みの親の修道士ドン・ペリニョンさんの銅像がある。ドン・ペリニョンさんの功績を称え、モエ・エ・シャンドンが作ったブランドがドンペリ。カーブ見学は試飲付きで日本からも予約は可能。13−25ユーロ。シャンパンは最低でも15ヶ月は熟成させて初めて飲めるようになるという。ここのカーブは全長28kmもあり、1720年代に手で掘られた。300万本のシャンパンが眠っている。1時間半のカーブ見学終了。
 街で「若すぎない、柔らかい」シャンパンを求める。勧められたのが、「ルネ・ジョフロワ Rene Geoffroy」で「血の糸」と呼ばれる希少で入手困難なロゼ・シャンパン。1本24ユーロ。グラス10ユーロ。タクシーで最高の場所を目指す。ぶどう畑の前で突然涙。
 16:00「オーベルジュ・ル・ルレ」に行く。冷やしてもらう間に着替えた。ここのオープン・テラスでぶどう畑を見渡しながら、最高の場所で最高のシャンパンをいただく。そのシャンパンに合わせて特別メニューを作ってもらった。「手長エビと桃のソテー、バルサミコ・ソース」42ユーロ、「イシビラメの鉄板焼き、シャンパーニュ・ソース」39ユーロ。

 お菓子は「ドンペリ・パルフェ」で、ドンペリをゼリーに使ったスイーツで、結構お酒が入っているとか。銀座カラクの協力。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー ハリセンボンでパリ」

 2008年8月2日、9日放送。ハリセンボンの近藤春菜(25歳)と箕輪はるか(28歳)が旅をした。9700kmの1泊3日の旅。

●予定
 1日目、11:10成田空港発エールフランス271便で12時間30分。16:40、シャルル・ド・ゴール空港着。メトロで市内へ。20:00「バトームッシュ」で夕食。23:00ホテル「ル・プレシード」チェックイン。
 2日目、自由行動。18:00m、レストラン「メゾン・ブランシュ」で夕食。タクシーで空港へ。23:35、シャルル・ド・ゴール空港発AF278便。
 3日目、18:00成田空港着。

●パリ
 空港からメトロで8.2ユーロで市内に行く。18:50シャルル・ド・ゴール・エトワール駅に到着。外に出ると凱旋門がある。10分歩くとエッフェル塔が見えた。
 夕食はセーヌ川遊覧船「バトー・ムッシュ」の船上レストラン。中の人たちはちゃんとした服でした。パリのセレブたちにもブームらしい。ディナー・クルーズ(エクセレンス・コース)で135ユーロ。前菜は「ガスパッチョ風トマトのカプチーノ」と「エスカルゴのワインソース煮、パセリ風味」を選択。メインは「ポークのトゥルヌド・バタイユ、野菜のフリカッセ」と「牛フィレ(シャトーブリアン)のソテー、ポテト(ボンヌフ風)」を選択。食後はライトアップされた街を見ました。22:30クルージング終了。
 セーヌ川にピンク色の船のナイト・クラブ「バトファー」がある。若者が多い。お酒をご馳走になり、ディスコ・フロアで踊った。
 深夜1時、ホテル「ル・プレシード」にチェックイン。2006年秋オープンした人気の4つ星デザイナーズ・ホテル。

 9時、ホテルをチェックアウト。はるかさんは美のコースで、女優が通うサロン、最先端ショップ、最新モードに変身。春菜さんは大流行クレープ、近未来パリツアー、パリNo.1パティシェ。

 サントノレ地区の看板もない古びたビル。その中の「ジョエル・シオッコ」は有名女優ご用達のフェイシャル専門の隠れ家サロン。まずは口の中をマッサージ。血行を促進し、肌の張りを戻す、この店オリジナルの美顔法。
 川の北側サントノレ地区の人気のセレクト・ショップ「コレット Colette 」に入る。ファッションから雑貨にいたるまで流行の最先端。気に入った服は16万円、21万円とかでした。スカーフも470ユーロでしたが購入。
 サンジェルマンデプレ地区で雑貨屋を散策。ヘアサロン「コワファースト Coif first 」はファッション・モデルや女優などのフランスのセレブが通う店。人気の秘密はオーナーのエリック・ファルツグラフさんのオリジナリティ。エリックさんに直接カットしてもらいました。

 マレ地区のクレープリー「ブレッツ・カフェ」は去年オープン以来連日満員の人気のクレープ店。アミューズ・クレープは、ロール状で自家製のキャラメル・ソースをつけて食べる。5.5ユーロ。
 最近人気なのが、セグウェイでパリを観光する「シティ・セグウェイ・ツアーズ」で、日本からでも予約できる。70ユーロ。まずはセグウェイの練習。30分でターンも踊りもできるようになった。参加者のフランス人と仲良くなりました。しかし、ランチは一緒に食べられませんでした。
 昨年オープンした人気のレストラン「レ・ココット」で昼食。「ルバーブ(野菜)とチェリーの焼き菓子」7ユーロで、ココット鍋に入れて焼いたもの。プリンとパイの中間のような感じで、チェリーが入って甘酸っぱく、どんどん食べられるそうです。
 次はパティスリー「ローラン・デュシェーヌ」で、グルメガイド「ゴエミヨ Gault Millau 」でパリのベスト・パティシエに選ばれた。グラスに入った茶色のものは、マンゴーとパッションフルーツの入ったムース。季節のヴェリーヌ4.8ユーロ。今パリで人気なのは、グラスに入ったスィーツ「ヴェリーヌ」。「フォンダン・ショコラ」4ユーロはおまけでもらいました。

 18時、レストラン「メゾン・ブランシュ」で夕食。シャンゼリゼ劇場の最上階に作られた店内の窓からは、パリの街並みを一望できる。「スズキのオーブン焼きトマトバターソース」52ユーロ。「鴨のロースト・フォアグラのロール・キャベツ添え」40ユーロ。


テレビ番組「憧れの都へ とっておきのヨーロッパ パリ」

 2008年8月2日放送。JP製作。

●パリ
 花と芸術の都。シャンゼリゼ通りは18世紀のマリー・アントワネットの時代には既に流行の最先端だったという。通りに面したカフェでくつろぐ。凱旋門は幅45m、高さ50m。モンテーニュ通りはファッションのブランド品のお店が多い。セリーヌ、ブルガリ、シャネル、ルイ・ヴィトン、ディオール、カルティエなどの本店がある。
 コンコルド広場のオベリスクは、3300年前にエジプトで作られたものを移築したもの。調和を意味するコンコルドは、かつては革命広場と呼ばれ、処刑台が置かれていた。
 ルーヴル美術館。長い廊下の突き当たりには「ミロのヴィーナス」。紀元前130年頃に作られたもの。美術館の中には「ナポレオン3世の部屋」もある。ここは元々王宮だった。建物はナポレオンの甥にあたるナポレオン3世の時代に完成した。そして「モナ・リザ」がある。
 小さなアーケードのパッサージュは、デパートができる前の19世紀前半に相次いで作られた当時のオシャレ・ストリート。
 高さ300mのエッフェル塔が見下ろすセーヌ川の岸辺を歩くのも楽しみ。ボン・ヌフ一帯には古本屋さんが軒を連ねていて、400年も続いている。画家も多い。岸辺にはたくさんの船も停泊している。一般の住居です。電気、ガス、水道も使える。
 シテ島にある14世紀完成のノートルダム大聖堂。王家の結婚式や洗礼式など国の重要な式典が行なわれた。ノートルダムとは「私たちの貴婦人」という意味。本当はマリア様を意味します。コンシエルジュリーは14世紀に作られた中世の古城。革命時には牢獄として使われ、処刑台に送られた人はルイ16世、マリー・アントワネットを含め2780名。内部はコルドバのメスキータに似ています。

 サン・ラザール駅から30分、ベルサイユに到着した。駅の前には市場がある。ヴェルサイユ宮殿は太陽王ルイ14世が作り上げた夢の宮殿で、2万人が宮廷生活を送っていた。鏡の間では1万人以上が集まったという。宮殿は庭を含めて、東京ドーム180個分もある。1400もの噴水もあり、中でも「アポロンの噴水」は見事。豊かな水はセーヌ川からここまで引いたもの。花々は今でも100人以上の庭師たちが支えている。マリー・アントワネットは初めて花の香りを香水に取り入れて流行したという。グラン・トリアノンはルイ14世が宮廷生活に息苦しさを感じて作った離宮。マリー・アントワネットも当時の流行の「自然に帰る」ことで、田舎風の家屋で家族で生活した。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 ランス大聖堂」

 2008年7月19日放送。小郷知子アナウンサーが案内。ロダンが師と仰いだ教会堂がある。「人類が神に捧げた森だ。この大聖堂にはあらゆる驚きや限りない喜びがある。心、魂、脳を埋め尽くす感動。私は歓喜の嵐に打ちのめされた。」と書き記した。壁面を飾る彫像は2300体あり、1つ1つが生きている。ゴシック建築の女王と称えられている。「ランス大聖堂なくして、フランスなし」。1991年世界遺産。

●ランス
 パリ東駅から去年6月に開業したTGVで向かう。時速320km、パリ郊外には菜の花畑が広がっていた。訪問したのは5月。45分でランスに到着。
 人口20万人。シャンパンで有名なシャンパーニュ地方最大の町。12歳のジュリエット・ヴィトゥーさんが案内してくれた。正面の道から見える大聖堂はゴシック様式で荘厳。高さ81m、25階建のビルに相当する。十字架の形をしていて、縦149m、横49m。現在の建物は1211年に着工され、200年以上かかって完成した。壁面を飾る2300の彫像が特徴で、「諸王のギャラリー」という高さ5mの彫像も並ぶ。「聖母戴冠」ではキリストが天国で聖母マリアに祝福を授けている姿が描かれている。「ガーゴイル」は雨水落としで、口から水が落ちる。一種異様な姿は魔除けの意味がある。
 正面の入口には聖母マリア。右には微笑んだ天使たち。「ランスの微笑み」と言われている。内部もゴシック様式で、天井の高さは38m(12階のビルに相当)し、広さもサッカー場と同じくらい。森のように建ち並ぶ石の柱。ステンドグラスは巨大なバラ窓がいくつもある。ゴシック建築の一つの完成形と言われる。
 ランス大学のパトリック・ドゥムイ教授に話を聞いた。4時になると、鐘が鳴った。以前は大聖堂の前には、大勢の弱い立場の人たちがおしかけていた。飢え、ペストなどの病など。昔はイスがなく、1.5万人の住民が全て入ることができた。食べ物や病気の世話を教会がしていた。この大聖堂は天国をイメージしている。人々は柱に沿って上へ上へと目をやり、天井を見て安らぎを得た。それで入口には微笑みの天使がいた。
 ランス大聖堂の正式名はノートルダム、我らが貴婦人、つまり聖母マリアに捧げられたもの。この大聖堂はフランスの王様と深いつながりがある。ランスにあるもう一つの世界遺産「サンレミ修道院」は8世紀に創建され、12世紀に現在の形になった。ここにランスにとって重要な彫像がある。西暦500年頃、フランスの創始者と呼ばれるクローヴィスがランスでキリスト教に改宗した場面。元々クローヴィスはキリスト教を信仰しないフランク人の王で、ゲルマン民族の大移動により5世紀頃、現在のフランス一帯を征服した。ところがガロ・ローマ人と呼ばれる先住民がいたために、その支配に頭を悩ませていた。先住民はキリスト教を信じていたので、自らキリスト教に改宗し、民族の統合を図った。その後フランスの王になる者はクローヴィスの故事に従い、ランス大聖堂で同じ儀式を受けることになった。諸王のギャラリーの中心にいるクローヴィスの像は、大聖堂がフランスの王誕生の場所であることを示している。
 ところが中世末期、王家が後継ぎが断絶。その期を狙い血縁関係にあったイギリスの王が王位継承権を主張して攻め入ってきた。この時一人の少女が立ち上がった。大聖堂に彫像があるジャンヌ・ダルクだった。ランスの東にあるスダンという街には中世の古城がある。年に1度中世を再現する祭りがある。ジャンヌの恰好をした女性が人々を連れて歩く。実際には人々を率いてイギリス軍を次々と打ち破った。王の後継者と目されていた人物をランスに連れて行って即位させ、フランスは存亡の危機を免れた。1789年にフランス革命により王制は終了した。その後100年かけて共和国となった。ライシテ(政教分離)し、キリスト教に代わり、自由、平等、友愛がフランスの新たな理念となった。
 近所のユニベルシテ中学校でもライシテを意識している。知識を得る手助けをするだけ。フランス人の6割はキリスト教徒だが、ジュリエットさんがこの日インタビューした人は宗教に関心のない人が多かった。塔に上がってみた。興味がない人に対しても寛容にということを先生に教わりました。
 現在、大聖堂は修復工事が行なわれている。第一次世界大戦には爆撃で屋根が抜け落ちた。もう一つの「微笑みの天使」がある。3年後の800年祭りには修復されて日の目を見る予定。


テレビ番組「タクシーでめぐる世界の街かど パリ」

 2008年6月29日放送。マイケル・クラスさんが案内。放送番組センター配給。オランダのPalazzina Productions 製作。

●パリ
 ドライバーはパスカルさん。7年前まで海軍にいた。宿泊はホテル「Bergene Opera 」。ユダヤ人の多いル・マレ Marais 地区に行く。ここはパリでも最先端の地区で、住むには相当のお金がかかる。20年前は北アフリカの町みたいな感じだったが、建物が相当変わったそうです。
 パリ北部の町「ルート・ドール」は金の城という意味で、アフリカ系の住民が暮らしている。ファッション・ショーを見学しました。
 DJラバンさんについてCD屋さんを回った。1日50枚買うそうです。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン 南フランスのアルル」

 2008年5月24日放送。

●アルル
 プロヴァンス地方は晴れの日が年間300日を越える。歴史の息吹を感じる美しい建物。ロマネスク様式のサン・トロフィーム教会、円形競技場は世界遺産。アルルの不動産は個人売買がお得。高齢者にはピアジェという特殊な住宅売買契約がある。年金のイメージです。
 ジャック・ボンさん(81歳)のお宅を訪問。長男のフレデリックさん(22歳)をあわせた3人家族。平均的な6LDK500平方mに住む。奥さんのルシールさん(53歳)は建築家で、自宅兼用のホテル「マ・ド・パン Hotel Les Mas de Peint 」を経営する。牧舎は大宴会場になった。ボンさん所有の敷地面積は500ヘクタール。敷地の前にバス停「マ・ド・パン」もある。
http://www.masdepeint.com/

 ゴッホが絵のモチーフにした「跳ね橋」がある。ゴッホはアルル市民にとって誇るべき存在だという。他にも「夜のカフェテラス」、「アルルの病院の庭」など2年間で300作品以上を残している。
 郊外にはカマルグ湿原が広がる。野性のフラミンゴの飛来地としても知られている。ジャックさんは乗馬するために毎日腹筋と背筋をしています。カマルグ牛の世話をしています。この牛は闘牛用で、250頭いる。自分の牧場の中に闘牛場もある。アルルではサッカーよりも人気があり、年に数十回開催される。スペイン式とは異なり、牛の頭についた紐を剥ぎ取る方法。
 息子のフレデリックさんはカマルグ米というお米も作っている。フランスのお米の99%はアルル産だそうです。庭で野菜も栽培している。アーティチョークなど。これは生のままアンチョビのソースでいただく。お米は茹でた後に水で洗いサラダ感覚で食べます。闘牛の肉もいただきますが、1時間オーブンで焼きますが、レアに近いようです。
 アルル駅には女性が民族衣装を着て、電車に乗り込んでいく。3年に1度アルルの女王を決めるお祭りがある。2005年から19代目の女王を務めてきたのは、ナタリ・シェーさん(28歳)。


テレビ番組「びっくり法律旅行社 パリ」

 2008年4月24日放送。児玉清、黒崎めぐみ、タカアンドトシさんが司会。秋野暢子、KABAちゃん、矢沢心さんが出演。

●パリ
 エッフェル塔、シャンゼリゼ通り、凱旋門、オペラ・ガルニエ。オペラ座の近くに1761年創業のお菓子屋「Vins Fins Desserts ?」さんがある。昔のお会計ボックスが残っている。現代美術館(パレ・ド・トーキョー)は今年末までの期間限定のホテル「エバーランド」は宿泊料は日・火・水は333ユーロ、木〜土曜が444ユーロで完全予約制、連泊不可。2ヶ月先まで予約はいっぱい。
 エッフェル塔をきれいに撮れる場所。橋の下、シャン・ド・マルス公園。夜もロマンチックです。夕暮れから深夜1時まで10分間光のベールに包まれる。エッフェル塔のエレベーターは斜めに上がっていく。展望台でしてはいけないことは、裸足、肩車、大きな荷物。受け付け係のリヴェリコ・ドスサントスさんが説明してくれました。持ち込める荷物の大きさは長さ50cm、高さ32cm、幅21cm以内。
 大阪の初代通天閣(1912年〜1943年)は凱旋門の上にエッフェル塔が乗っている形だった。

 モンマルトルの丘。サクレ・クール聖堂があり、テルトル広場では画家が自分の自慢の作品を売っている。画家のジャンマルク・ランベールさんが説明してくれた。日曜に法律で禁止されていることは、「仕事をしてはいけない」。弁護士のジャンフランソワ・フンクさんが説明してくれた。週に1度の休みは日曜でなくてはならないという法律があるため(フランス国法 労働法 L221ー5条)。朝市や薬局や花屋や映画観や美術館はいいらしい。

 シェフの神谷充利さんが説明してくれました。レストランなどの食事をサービスする店舗では、水、香辛料、皿、ナプキン、グラス、パンを無料で提供することが義務になっている(フランス国法 値段表示の条令 25−268条)。日本人は大声で「すみません」とお客を呼ぶが、手をあげて目で合図する。パンがほしい時に「パン!」という人がいるが、「シルブプレ」をつけた方がいい。

 ヴェリブという貸し自転車が人気。レンタル料は1日パス1ユーロ、7日パス5ユーロ。今年中に日本語も含めた対応になるらしい。メンテナンスはセーヌ河に浮かぶ船の中で行なう。自転車に乗る時のルールは、信号無視はしない。違反すると最高90ユーロの罰金。歩道を走ってはいけない。違反すると90ユーロ。運転しながらの携帯電話使用。違反すると22ユーロ。イヤホンで音楽を聴きながらの走行。違反すると22ユーロの罰金。

 シャンゼリゼ広場に近い円形広場に名物おじさんがいる。人形師のジョゼ・ルイズ・ゴンザレスさん。ギニョールは19世紀初頭から続くフランスの人形劇で、入場料は3.5ユーロ。公演は水・土・日の15時〜と16時〜。
 カイナ・カリナさんがフランス語について教えてくれました。法律で「フランス語をできるだけ使う」というのがある。教育、労働、取引、公共サービスでは、フランス語を使うこと(フランス国法 フランス語の使用に関する法律 94−665条)。ツーボン法とも言われる。文部省フランス語委員会代表のグザビエ・ノースさんに詳しい話を聞いた。


テレビ番組「美の巨人たち 王立製塩所」

 2008年4月19日放送。

●アルケ・スナン
 ル・コルビュジエはシンプルで美しい直線と直角のフォルムを使う。そのロンシャン礼拝堂から南西に100km、フランス東部スイスと国境を接したアルケ・スナンに、王立製塩所がある。ル・コルビュジエよりも100年以上前の1779年クロード・ニコラ・ルドゥーが作った。直径370mの半円形の敷地に11棟の建物が配置されている。
 高い塀は当時の貴重品の塩が盗まれないため。真南を向いた正門には荘厳な列柱。その奥にグロッタ。正面には監督官の館。円形と正方形を重ねた柱。両脇には製塩工場があり、毎日30トンの塩が精製されていた。150年前に閉鎖された。その周辺には労働者の家が並び、200人が暮らしていた。ほかに馬小屋、税吏番の館などが建てられていた。
 パリ19区にルドゥーの作品が残っている。ロトンド・ド・ラ・ヴィレット。初めての作品は17歳の時でカフェ・ミリテールの室内装飾(1762年)だった。貴族の邸宅を数多く設計した。例えば、ベヌーヴィルの城館(1771年)。そうした中で華美な装飾の排除をしていった。そのシンプルな設計がルイ15世の側室のデュ・バリー夫人の目にとまった。ブサンソン劇場(1784年)、エクスの裁判所、マルセイユの劇場、ヌシャテルの市庁舎などを設計したが、建設費用がなく頓挫したものも多い。
 サラン・レ・バンはかつては塩の一大産地だった。地下246mの地層に岩塩が含まれていた。1リットルの地下水に含まれる塩は330gで海水の10倍の濃度だった。地下水は材木を燃やして加熱し蒸発させた。まわりに材木が少なくなった。そこでショーの森に製塩所を作ることにした。1774年から設計に携わった。列柱にこだわった。また南を向いた半円は太陽の軌道に沿ったもの。半円形で泥棒を防げた。11棟に分けて火災が起こるのを防げた。文字が読めない人のために塩の工場であることがわかるように彫刻を置いた。
 ルドゥーは「よりよい環境がよりよい人間を形成する」と言っている。1789年市民によるバスティーユ襲撃が起こった。ルドゥーは製塩所の残り半分の設計を行なっていた。教育館、擁護館、公共浴場、市場なども構想した。晩年に著作を残したが誰にも注目されなかった。その2年後に亡くなった。


テレビ番組「The 世界遺産 ベルサイユ宮殿」

 2008年4月13日放送。17世紀ルイ14世によって作られた豪華な宮殿。最後に登場した王妃はマリー・アントワネット。1979年世界遺産。

●パリ
 コンコルド広場はかつて革命広場と言われ、マリー・アントワネットは民衆の前でギロチンにかけられた。
 サン・ラザール駅からベルサイユまで電車で向かう。

●ベルサイユ
 パリから30分で到着。まずマルシェがある。周に3回こうした市場が開かれている。フランス料理は元は宮廷料理だった。ベルサイユ宮殿は料理、服装などもヨーロッパじゅうの君主のあこがれだった。
 300年前にルイ14世が威信をかけて建造した宮殿には、従者など5000人も暮らしていた。ハプスブルグ家のマリー・アントワネットが14歳でここに嫁いだのは1770年。宮殿の礼拝堂で結婚式は行なわれた。それまで敵国だったフランスとオーストリアが融和するというのに国民は期待した。結婚式のクライマックスの仮面舞踏会は鏡の間で行なわれた。500枚以上の鏡が壁面を埋め尽くす。当時は鏡は貴重品で同じ大きさのルネサンスの絵画よりも値が張ったという。天井を飾る絵画にはルイ14世の肖像画がある。
 総面積800ヘクタール。セーヌ川から水をひいて舟遊びが楽しめるようにしてある広大な庭園がある。ルイ14世はこの庭園を開放し、人々の憩いの場とした。そこに動物園や迷路などの娯楽施設も備えた。アポロンの泉水。ラトーヌの泉水。
 ベルサイユの宮殿には毎年1000万人の人が訪れる。当時は誰でも宮殿に入ることができた。王の1日は起床から就寝まで全て儀式として行なわれていた。排泄行為さえ人の前で行なったという。王や王妃には私生活がなかったともいえる。貴人の間では毎日決められた時間に面会が行なわれた。
 マリー・アントワネットが母に送った手紙には、9−10時起床、11時髪結い、12時xxミサ、昼食、15時叔母を訪問、16時祖父の訪問、17時歌のxx、19時散歩ゲーム、21時夕食、国王を待つ、23時就寝と書いてあった。
 パリに住むエヴリーヌ・ルヴェさんは誤解されているマリー・アントワネットの生活を訂正しつづけている。マリーにはこういう生活が苦痛で、個人の権利を主張するようになった。特にファッションは注力し、年に170着も注文した。エルザ・マルガン・アモ?さんが説明してくれた。斬新なファッションはパリ発のものとして世界に流行した。現在世界のファッションを牽引するフランスのファッションは彼女に始まるとも言える。しかし、王室の財政は破綻していた。
 ルイ16世が王となり、彼女にはプチ・トリアノンという離宮が与えられた。ここに篭るようになった。気に入った取り巻き以外は立ち入り禁止にした。世継ぎができなかったので、享楽にふけるようになった。しかし虚しさは募るばかり。真に心を癒す場所を求めた。宮殿から2km離れた場所にひなびた農家の家をそっくり再現させた。「田舎の小集落」(ル・アモー)と言われる。当時流行したルソーの思想「自然へ帰れ」の影響かもしれない。王妃の家もある。結婚から11年後、世継ぎが生まれたが、国民の反応は冷たかった。
 1789年7月バスティーユ陥落しフランス革命が起こった。3ヶ月後ベルサイユにおしかけた民衆は国王一家を宮殿からパリへと連行した。その4年後処刑された。彼女のとってベルサイユ宮殿は黄金の監獄だったと言えるでしょう。


テレビ番組「The Best House 世界の美しいステンドグラス」

 2008年4月9日放送。フジテレビ製作。

●3位
 アメリカ・ハワイのユニティー教会。ジョン・ラファージのステンドグラス。王座に腰掛ける女性の姿が描かれ、この王座は、「フィギュア・オブ・ウィズダム Figure of Wisdom」といい、腰掛けている女性は、知恵の象徴。このステンドグラスの色彩表現の技術は、鮮やかな色使いながら、実際に着色したのはごく一部のみで、ほとんどがガラスのみで、ステンドグラス製作に革命をもたらしたといわれる。ガラスに乳白色を混ぜて、光が当たるとグラデーションが鮮やかに浮かびあがるようにし、まるで絵画のようである。
 このユニティー教会は結婚式会場として人気があり、世界のどんな宗派の人でも礼拝や結婚式をあげる事は可能。
http://www.wedding-bythesea.com/unity.html

●2位
 日本一美しいステンドグラスがあるのは国会議事堂。1881年に建設が計画され、昭和11年完成。本会議場の天井にある。唐草模様(アカンサス)で原色を抑えた上品なもので、奥行き22.2m、幅12.6m。入口の高さ32mの天井部分にステンドグラスが敷き詰められている。鳳凰が描かれている。宇野澤辰雄さんが中心になって製作した。今も松本ステインドグラス製作所の松本健治さんが継ぐが、カット技術は世界一という声もある。

●1位
 フランスのランスにあるノートルダム大聖堂。パリから車で2時間。演奏グループ「ピストル・バルブ」が現地に行った。高さ50mを越す大聖堂は13世紀に完成した世界遺産。中世、ステンドグラスは神が宿ると言われて、競って作られた。特にフランスの技術力は高く、このノートルダム大聖堂に最上級のものが残され、700年以上輝き続ける。天井まで38m、バラ窓には2つのステンドグラスがある。下は「聖母マリアの苦悩」、上は「聖母マリアの最後の眠り」が描かれていて、12使途と24人の天使がいる。大聖堂の奥にはマルク・シャガールの作品が1975年に増設された美しい青いステンドグラス。彼はユダヤ教とキリスト教が仲良くすることを夢見て「キリストの到来を告げた予言者」、「子供のキリストを抱く聖母マリア」、「ヤコブの夢」、「アブラハムの召命」、「アブラハムと3人の天使」、「十字架にかけられたキリスト」を描いた。


テレビ番組「The 世界遺産 モン・サン・ミシェル」

 2008年4月6日放送。

●エジプト
 エジプトのピラミッドは4500年以上前に作られた石積みの建造物。2.5トンの石が約230万個で建造されている。人類の宝物。それが消えてしまうような深刻な危機が持ち上がった。ナイル川のはるか上流には岩山に築かれたアブ・シンベル神殿がある。エジプト史上最強の王と言われたラメセス2世の3800年前の岩窟神殿。4体の巨大な像はラメセス2世の像。ところが耳の手前に縦にヒビが入っている。過去に遺跡がダムの建築により水没した。1960年にはアブ・シンベル神殿も水没の危機に見舞われた。ユネスコが危機を訴え、数千個のパーツに分けられ、現在の位置に移された。この成功が世界遺産という考えに発展していった。

●モン・サン・ミッシェル
 フランスの北西部、ノルマンディーの海辺に位置している。車ならパリを出て4時間、鉄道なら最寄駅のレンヌから直通バスが出ている。
 その修道院は四方を海に囲まれていた。潮が満ちると波間に浮かぶピラミッドのように、潮が引けば砂漠のピラミッドのように見える。モーパッサンは「広大な海辺が赤色をしていた。・・」と描写している。
 岩山に修道院が築かれたのは8世紀。19世紀の半ばまで、この修道院は海の上に孤立していた。岩山の麓には民家が建ち並ぶ。中腹からは修道院。お城のようにも見える。小さな門を抜けると参道グランド・リュー(大通り)がある。みやげ物屋やレストランがある。巡礼者たちが行き交った道を今は年間300万人の観光客が行き交う。「プーラール Poulard」はオムレツで有名な店。リズムよく卵を30分かき混ぜる。これが美味しさの秘密とか。1皿2人前でおよそ30ユーロ。巡礼の人が待たなくても食べられるものを出したためだとか。これに何かをかけて火をつけます。
 中腹からの修道院は、苦難な道をやってきた巡礼者たちには、訪ねる価値がある憧れの聖地だった。修道院の入口へは、急な階段が続く。のぼりきると少しだけ空気がキリリとするように感じる。修道院聖堂の奥行きはおよそ70m。中世の頃は数多くの巡礼者たちを迎え入れるには、これだけの大きさが必要だったという。光が窓から多く差し込んでいる。祭壇を見下ろしているのは大天使ミカエル。悪魔を倒すといわれる天使。

 かつてのモン・サン・ミシェルはローマ、エルサレムと並ぶ三大聖地の一つだった。なぜ海の中にあるのか?聖堂の尖塔の先端に立つ大天使ミカエルに秘密があった。
 海をはさんでモン・サン・ミシェルを臨むアヴランシュの街。ここのサン・ジェルヴェ教会には1つの頭蓋骨がある。8世紀にこの地方に暮らしていたオベール司教のもの。頭に穴があいている。大天使ミカエルは司教の夢枕に立ち、「かの岩山にわが名を称える聖堂を建てよ」と言った。司教は信じなかったが、3回続けて夢に現われたミカエルは、光のほとばしる指で司教の頭をつついたという。そこで司教は聖堂の建設に取り掛かった。修道院が現在の形になるのに800年かかった。ちなみに、モン・サン・ミシェルとはフランス語で「聖ミカエルの山」の意味。

 聖堂の北、「ラ・メルヴェイユ」と呼ばれる建物の3階部分に回廊がある。整然とした美しさ。メルヴェイユというのは「驚嘆」という意味。修道士たちの瞑想の場でもあった。柱は内側と外側の石をわずかにずらし、ゆったりした歩調の間隔にあわせて配置された。回廊の奥はこの建物で最も美しいと言われる部屋「食堂」。56の小窓からは光が注ぐ。説教段からは聖人伝が読まれたという。
 10世紀建造のノートルダム聖堂の地下には、1960年の修復工事で、オベール司教が作った最初の礼拝堂の一部と思われる礼拝堂跡が見つかった。
 普段立ち入ることができない見晴らし台を案内してもらった。眼下には潮が引いた砂浜がある。フランソワ・サンジャームさんが説明してくれました。昔は「モン・サン・ミシェルに行くなら遺書を書いていけ」と言われるくらいに命がけの巡礼だった。ヨーロッパ一干満の差が激しく、潮の流れも早いので、波に飲まれて命を落とす者も多かったという。
 この海では独特の漁が行なわれていた。満潮の時に網を張り、干潮の時に魚を集めるので、船は必要ない。春になると海水の温度が上がり、魚が沖からたくさん戻ってくるという。
 実際に海が満ちてくるスピードは馬の速さに例えられた。本当に早い。新月と満月の日も激しいが、春分の日や秋分の日だと最大15mにもなる。砂の上の修道院がまたたく間に海の上の修道院になった。
 修道院の中には大砲もある。14世紀にフランスとイギリスは百年戦争を始めた。海の向こうはイギリスだったので、修道院は要塞として利用された。引き潮で敵の船が動かなくなることもあったという。
 修道院の中には牢獄もある。18世紀にフランス革命が起き、修道院は牢獄になった。多い時は1.5万人が強制労働をされたという。いつしか修道士たちは消えた。牢獄としての役割を終えると、岩山と陸地を結ぶ道が作られ、巡礼の人々も戻ってきた。しかし、今、この海に危機がある。潮が引いた所を歩いてみた。巡礼の人たちが歩いた所に、この100年の間に3mの砂が堆積したという。問題は岩山と陸地を結んだ道路。潮の流れが変わり砂が堆積した。このままでは陸の上の修道院になってしまう。現在、道をやめ橋を作る方向になっている。
 現在12人の修道士が神への祈りを捧げつづけている。
1979年世界遺産に登録された。


テレビ番組「ヨーロッパ世界遺産の旅 フランスのアルケースナンの王立製塩所」

 2008年3月30日放送。Royal Saltworks of Arc-et-Senans 。1982年に世界遺産に登録。Fauna Film製作。

●アルケースナン
 フランス東部のフランシュ・コンテ地方。シュラ山脈のある自然の多い地域。メルポールの街には17世紀頃に設計された要塞が残っている。当時は国にとって重要な地域だった。
 1955年にル・コルビジュエが建設したノアの方舟に似た教会もある。ロンシャンに建てたノートルダムリュオ礼拝堂。20世紀建築の最高傑作とも言われている。
 アルケースナンはロンシャンの南100kmほどにある。ショウの森に近いことから、この製塩所はショウの製塩所とも呼ばれている。設計はクロード・ニコラ・ルドゥー。人々が生き生きと暮す理想の都市をコンセプトに掲げた。1775年から1779年の間に11の建物を完成させた。
 アルケースナンから20km離れたサバン・レバン?の町は、この製塩所ができる前までは製塩で栄えていた。その昔、塩は調味料としてだけでなく、保存料としても重宝された。そのために王室は高い税金を徴収していた。この地では12世紀頃から地下を流れる塩水を利用して塩が作られていた。塩は作られていないが、塩水は近くの健康施設で役立っている。昔は地下246mにある岩塩層から塩分を多く含む塩水を汲み上げ、大きな窯で煮詰めるだけ。そのために大量の木材が切られ、周辺の森の木々が消えた。ショウの森には木が残っていたが、この街からは遠すぎた。1962年にサラン・レバンの製塩は長い歴史に幕を閉じた。今は博物館として残っている。
 ショウの森はフランスで2番目に大きな森。これを使って製塩しようということで、アルケースナンの製塩所ができた。ルイ16世の命により着工した。ルドゥーは一大都市を作る計画を立てた。しかしフランス革命の嵐が吹き荒れ、ルドゥーは王制の支持者とみなされ投獄された。製塩所は機能し続けたが、彼の理想とした都市は完成せず、1895年に閉鎖された。現在では博物館やシンポジウムの会場として利用されている。ルドゥーはイタリアのルネサンス期の巨匠パラディオ?の影響を受けていた。


テレビ番組「知っとこ! 世界の朝ごはん コート・ダジュール」

 2008年3月29日放送。日本からはパリ経由で15時間くらい。コート・ダジュールは、「青い海岸」の意味で、ニース、カンヌを中心とした南フランスの海岸線一帯のリゾート地。昔の様子が残る小さな街が連なっている。またフランスで春の訪れが一番早い地。

●アンティーブ Antibes
 プロヴァンス市場に行く。手作りジャム、オリーブ、塩漬レモンがある。塩漬レモンは魚料理にとても合うそうです。花屋さんも賑わっている。

 「ガリマール Galimard 」という香水の工房を訪問。コート・ダジュールは花を利用した香水はフランスで一番の生産高を誇る。予約すればオリジナルの香水を作ることができる。100種類の原料から15種類を選んで2時間39ユーロで、100mLの香水を作ることができる。名前も自分でつけられる。作成したレシピは保存されていて、電話一本で同じものを追加で作ってくれる。

●鷲の巣村
 崖の上に村がある。サン・ポール・ド・ヴァンス、バール・シュル・ルーなどが紹介された。

●トゥーレット・シュル・ルー Tourrettes sur Loup
 鷲の巣村の一つ。石造りの街並み。お伽噺の世界。芸術家が多く住んでいるので、アートも多い。観光客で賑わっている。アイスクリームの店に行列ができている。スミレアイスで、スミレ風味でスミレのお菓子ものっている。この村はスミレの村とも呼ばれている。100年前からスミレの栽培が盛んで、フランス中に生花を出荷している。フランスのシェアの90%とか。
 お土産物屋さんには、石鹸、リキュール、シロップ、お菓子、マスタードなどもあった。
 パトリス・ワランさん(30歳)が紹介してくれたのは、花のお祭り。広場では花の車がやって来た。花の収穫と春を祝うお祭り。途中からは花を奪い合う。投げたりしています。

 新婚さんの朝ごはん。一軒屋に住むエリーズ・リコーさん(26歳)が作るのは、1品目「ピサラディエール Pissaladiere 」。たまねぎを刻み、鍋に入れてオリーブオイルでしっかり炒める。アンチョビ・ペーストを加えて混ぜ、薄くのばした生地にのせてオーブンで約30分焼く。
 2品目「ポロネギのキッシュ Quiche poireaux 」。ポロネギという太いネギを大量に刻み、沸騰したお湯に入れて柔らかくなるまで茹でる。ボウルに卵、牛乳、生クリーム、塩胡椒を入れてしっかり混ぜておく。耐熱皿にパイ生地を敷き、チーズと茹でたネギを敷き詰め、上から先ほどの卵を流し込む。キッシュのようです。オーブンで30分焼く。
 3品目はデザートで「スミレ風味のケーキ Financiere 」。砂糖にアーモンドの粉、メレンゲを混ぜ、溶かしバターをたっぷり加える。スミレ・エッセンスを加え、パン生地を混ぜる機械にセットして混ぜる。型に流し込みオーブンで焼く。


テレビ番組「地球街道 生田智子さんでフランスのロワール地方と南西部の小さな村」

 2008年3月22日、29日放送。

●オルレアン
 パリから南へ130km、ロアール川沿いの町。ジャンヌ・ダルクの像がある。ロアール川はフランスで最も長い大河。その中流から下流にかけて広がるロアール渓谷は2000年に世界遺産に登録された。フランスの庭とうたわれる風光明媚な大地には中世から数多くの城郭が築かれてきた。

●シャンボール城
 オルレアンから車で1時間。門を入ってから5分間森を抜けてから城が見える。桁はずれの大きさ。幅156m、高さ56m、奥行き117m、1519年にフランソワ1世により狩猟用の離宮として建設された。
 螺旋階段は何の変哲もないように見えるが、レオナルド・ダ・ビンチが大きく設計に関わっている。ガイドのキャロリーヌ・セリエさんが説明してくれた。階段が二重構造になっている。DNAのように2つの階段が二重らせんになっている。フランソワ1世はどこにもないような建築を所望したそうです。
 階段を上がったところにある天井には彫り物がある。Fはフランソワ1世の頭文字で、サラマンダーは紋章。寝室は80平方mもある。お城で一番広い部屋は礼拝堂。テラスからの展望も素晴らしい。

●洞窟の家
 オルレアンの西南。ロアール川沿いの街の崖に窓が見える。これは「洞窟の家」と呼ばれるもので、この地方独特の住居。柔らかい石灰質なので、城や邸宅の石材を掘り出した時にできた洞窟を利用した住居がある。ジャン・ジャック・ラテさんの住居を訪問した。12年前に廃墟になっていた洞窟の家を購入してリフォームしたもの。洞窟を利用したワイン貯蔵庫もある。ラテさんが作っているのは、Vouvray という銘柄。ラベルには「Domaine des volets verts」と書いてありました。少量生産なので、良い条件で良いものを作ろうとしているそうです。お金のためでなく、自分のために作っているそうです。

●シュノンソー城
 霧の中に現われた、16世紀に創建された城。代々の城主が女性だったので、6人の奥方の城と呼ばれている。場所を変えて見えると色々な姿が楽しめる。ディアーヌ・ド・ポワティエの庭園からの眺め、正面入口からの眺め、カトリーヌ・ド・メディシスの庭園からの眺めなど。一番は川べりから。この城は川に建っていて、橋のように建てられた城です。

●ブリサック城
 ロワールの巨人とも言われる7階建の城。シャルル・アンドレ・コセ・ブリサックさんとラリサさんが出迎えてくれた。500年の間、ブリサック家に受け継がれてきたお城。部屋数は大小あわせて200。そのうち4部屋だけが宿泊可能。今回は一番小さな部屋に泊まりました。1泊390ユーロ。寝室は最も小さいものだが、天蓋付きで、部屋は17世紀からそのままだそうです。
 プライベート・ディナーに招待してくれました。「鶏肉のソテー、オマール海老ソースかけ」。
 朝食も朝もやの中でいただきました。馬車に乗って庭を散策。訪れた時間で雰囲気が変わりました。


●フランスの最も美しい村
 Les Plus Villages de France というガイドブックがある。この本に紹介された小さな村を巡って、テーブルウェアを購入するのが生田さんの夢。

●トゥールーズ
 南西部の中心都市。レンガの美しいこの街が出発点。のみの市でお皿、テーブルウェアを物色。

●ロカマドゥール Rocamadour
 北に走る。3時間走ると暗くなった。暗闇の中に浮かんでいたのは、人口600人ほどの村ロカマドゥール。切り立った崖の上にできている村。
 キリスト教の巡礼地。1166年聖アマドゥールの遺体が発見されてから聖地となった。宗教動乱により、ほとんどが19世紀に修復、建築され直したものが多いが、残っているものもある。フレスコ画は12世紀のもの。巡礼者たちはノートルダム礼拝堂を目指す。洞窟の中にある教会という感じです。数々の奇跡を起こしたといわれる黒いマリア像がある。

●カルダイアック Cardaillac
 ロカマドゥールから南東へ1時間の小さな村。ガイドブックに掲載されている。人口は500人ほど。「マルセルの古道具店」に入る。生活雑貨が並んでいる。店主はローラン・マルセルさん。砂糖を掴むものは15ユーロ。塩や胡椒を入れる器は白鳥の形15ユーロ。ナイフやフォーク置きは12個セットで60ユーロ。全部で90ユーロだが、70にしてくれました。

●コンク Conques
 カルダイアックの東。ガイドブックにも掲載されている。サント・フォア教会は12世紀に作られたもので、入口の扉の上にタンパンというアーチ部分の「最後の審判」が美しい。真中のキリストをはさんで右が地獄で、左が天国。

●ライヨール Laguiole
 コンクの北東。切れ味鋭い洗練されたナイフで有名な村。ガイドブックには掲載されていない。「フォルジュ・ド・ライヨール」というナイフの工房を訪ねた。90人ほどの職人が作業している。生田さんの祖父が双眼鏡を作っていたので、工房が懐かしいそうです。工房のブティックでナイフを選んだ。バイオリンの形のものはローズウッドで626ユーロ。ブドウ(オーブラックキの角)は550ユーロ。鶏(ピスタチオの木)は626ユーロ。ナイフを選ぶと好きな文字を彫ってもらえる。Madame Tomoko, Cuisiniere d'amour (愛の料理人)と書いてありました。購入したナイフはオーブラックキの角で142ユーロでした。


テレビ番組「極速ツアー!世界をジャンプ 城咲仁の地球一周チャレンジ 100時間100万円」

 2008年2月16日放送。城咲仁、稲生美紀さんが1月下旬に映画「ジャンパー」を題材に旅をした。杉本彩さんが指令を出した。TVQ九州放送製作。

●ニューヨーク
 東京から10779km、12時間30分。この日はマイナス3度。「マンハッタンでNYらしいハンバーガーを食べてジャンプする」。セントラルパークまでタクシーで45分。聞き込みしたら、55丁目の「Five Guys 」を紹介してもらい、チーズバーガーを食べた。37丁目あたりの「ジョージーズ Josie's East」を紹介してもらい、ベジーバーガーというヘルシーなバーガーをいただいた。エンパイア・ステートビルの近くでジャンプした。NY滞在時間10時間55分でした。
http://www.josiesnyc.com/

●ロンドン
 ニューヨークから5533km、7時間。「ビッグベンの前で、イギリス紳士の象徴と共にジャンプする」。ヒースロー空港から市内まで1時間。ニュー・オックスフォードのTottenham Court Road にある「ジェームス・スミス&サンズ James Smith & Sons 」の傘の専門店。創業1830年の老舗。手作りの傘は一生ものと言われている。イギリス紳士は雨が降っていなくても傘を持つという。傘は柄の部分を右手の腕にかける。ソリッド・アンブレラの柄は1本の木です。今回特別に地下で傘の先を身長に合わせてカットする工程を見せてもらった。
http://www.james-smith.co.uk/
 ビッグベンは国会議事堂に附属する時計塔で、1日1回正午に鐘が鳴る。その前でジャンプしました。この時点で東京から34時間。ロンドン滞在時間4時間39分。

●パリ
 ヒースローから飛ぶよりもユーロスターを使う方が早い。ビッグベンから15分のセント・バンクラス駅から乗る。パリ北駅に346km、2時間22分で午後6時前に到着。イギリスとの時差は1時間。指令は「エッフェル塔の前で、パリの思い出と共にジャンプする」。
 中心地マドレーヌに行く。ワイン販売店「Lavinia 」は6500種類、18万本のワインを所蔵している。プロのソムリエが常駐している。有料の試飲コーナーがある。プリペイド・カードを購入し瓶に挿入すると試飲ができる。1977年生まれなので、その年のワインを飲もうとしたがなかった。稲生さんは1988年生まれなので、その年のにした。88ユーロでした。
http://www.lavinia.fr/
 スィーツの名店「ストレー Stohrer」は1730年創業。行列が絶えないパティシエ鎧塚俊彦さんがパリ時代に修行していたお店。ケーキを購入。フランボワーズとチョコレートのケーキ、フランボワーズをスフレでサンドしたユニークなスィーツ。
http://www.stohrer.fr/
 エッフェル塔に行く。夜の12時まで1時間毎に10分間、特別なイルミネーションを実施している。ここでジャンプ。東京から41時間10分。
 ホテル「オセアン Ocean」に宿泊しました。
http://www.paris-hotel-ocean.com/

●ローマ
 シャルル・ド・ゴール空港まで30分。飛行機で飛ぶ。1099km、2時間5分。「コロッセオの前でイタリアの伊達男にプレイボーイのイロハを学んだ後にジャンプする」。タクシーで市内に35分。まず「真実の口」。
 外に出るとローマ観光バスが止まっていた。ローマ市内の主な観光スポットを周遊するバスで2500円程度で1日乗り放題。サン・ピエトロ寺院を通過し、スペイン広場に行く。イタリアの伊達男を探した。数人見つけてインタビューした。一人にコロッセオまでついて来てもらった。コロッセオの前でジャンプ。東京出発から62時間。ローマでの滞在は9時間45分。

●ドバイ
 カタールのドーハを経由する便で到着。4376km、7時間。気温は25度だった。「砂漠でラクダをバックにジャンプする」。バージュ・アル・アラブは世界最高の7つ星。
 昼食は「Al Shandagha Public Kitchen & Restaurant」で、マカロニと鶏肉をトマトベースで煮込んだドバイの家庭料理、ラム肉と小麦粉を24時間コネて蒸し上げた料理、ラム肉の炊き込みご飯をいただいた。かなり美味しいそうです。
 近所のツアーデスクで砂漠ツアーに参加した。間違ってラリー体験するツアーでした。かなり揺れて気持ち悪いそうです。歩いているとラクダが休憩していた。乗らせてもらってジャンプしました。東京から81時間。ドバイ滞在時間8時間50分。東京に向かう。
 ところが成田までの直行便がない。香港を経由して成田に到着。99時間57分でした。


テレビ番組「うふふのぷ 地球家族スタイル リヨン」

 2008年2月16日放送。エールフランスで到着したフランス第二の都市。美しい街並み。

●リヨン
 世界遺産のリヨン歴史地区には14世紀の建物もある。フルヴィエール教会。美食の街の異名を持つ。一定面積あたりのレストラン数はパリをしのいでフランス第一位。平均年収は一人あたり350万円(東京は615万円)。80平方mのマンションだと4000万円(東京は6400万円)。

 少し郊外にあるマンションに住むデルフィンヌ・デノワイエさん(32歳)のお宅を訪問。3LDK92平方mで、9ヶ月前に4000万円で購入。リビングには時計は置いてなくて、キッチンに置いてある。
 朝7時半でも冬はまだ暗い。デルフィンヌさんは家から車で40分の学校で洋裁を教えている。リヨンは絹織物の歴史がある町なので、モードを勉強したいという学生が多い。貴重な製品を雨に濡らさないために作られたというトラブールという通路が今も多く残されている。
 マルシェ(市場)に行ってみた。1kgでタマネギ160円(日本は200円)、リンゴ200円(日本490円)など。このマルシェは食料品以外を売る曜日が変わる。
 家族で街の公園にでかける。駐車場の車の間隔は狭くて、当てて車を出すようです。メリーゴーラウンドに乗る。街のいたるところにある。リヨンの伝統芸能のギニョルの人形劇を見る。公園の中には無料の動物園も併設されている。
 町で人気なのがレンタル自転車ヴェロヴ。200箇所以上に設置されていて、料金は30分無料、1時間約100円〜。返却場所は自由。
 大型スーパーでお買い物。毎年1月と7月の2回、政府によってバーゲンが決められている。Soldesと書いてあります。
 夕食の準備。「豚の血と肉のソーセージ」などリヨンでは豚を食べることが多い。ソースとなるリンゴのピューレも作る。

 セレブな人のお宅を訪問。歴史地区でアーティストに人気のクロワルースにはだまし絵もある。ここに住むメラニー・バクスター・ジョーンズさん(33歳)のお宅を訪問した。彼女はフランスの女優さん。ご主人のクリストフ・ジャンドゥローさんはミュージシャン。3LDK110平方mで築200年以上、現在の評価額は6000万円。クロワルースは昔絹職人が多く住んでいたので、絹の織り機を入れるために天井が高い。オーガニック食品専門のマルシェで買い物。そのため値段は少し高い。リンゴ1kg230円、タマネギ260円。


テレビ番組「日本の心の旅スペシャル 東海道五十三次 蘇る浮世絵ロード」

 2008年1月27日放送。壇れいさんが案内。1832年江戸の日本橋を旅立ち、西に向かったのが歌川広重(1797-1858)。後の世界の芸術に影響を与える旅となった。19世紀のフランスの画家たちを虜にした。「小枝を持つ少女」などを描いたカミーユ・ピサロは広重は素晴らしい印象派だと言った。2007年春に3年かけて完全復刻を遂げ、1833年の初版完成当時の鮮やかな色彩が復活した。

●東京
 東京伝統本版画工芸協同組合事務局長の本田正明さんが広重の作品を見せてくれました。浮世絵は絵師、版元、彫師、摺師の共同作業。今回は傷みの激しい版木のみが改めて彫りなおされた。彫師は渡辺和夫さん。まず主版が彫られる。東海道五十三次は錦絵(多色摺り版画技法で、19世紀初頭に完成)。1枚の線彫に対し、10枚の色板を彫り色を重ねる。摺師の吉田秀男さん。まず墨で線彫の主板を摺る。ぼかしなどの特殊な専門技が使われている。広重は四季を織り込んでいる。線で雨を表現することは西洋になかったので、ゴッホを魅了した。復刻版を持って旅に出かけた。

●パリ
 マルモッタン美術館に印象派のリーダーのクロード・モネの作品を中心にして多くの作品がある。膨大な量の睡蓮の連作がある。1874年の最初の独立展に出品された「印象・日の出」がある。写生を元にして、筆のタッチと絵の具の質感を生かした作品を作った。これは批評家から総攻撃にあった。実際のルアーブルの港は西向きで、日の出とは逆方向になる。広重も蒲原の雪とか、現実に創作を加えていた。ルーアン「大聖堂」など。
 オルセー美術館にも印象派の代表作が多い。エドゥアール・マネも浮世絵に最初に魅了された一人。「笛を吹く少年」も縦長な画面、背景がないことは美人画や役者絵の影響がある。マネは作品の中にコレクションを描き入れた。扇子などからお相撲さんの絵や屏風みたいなものもある。現実の女性のヌードを初めて描いたのがマネだったが、これも春画などの影響らしい。「草上の昼食」も。モネもマネに影響され、現実の自分たちの生活を描こうとした。同じ名前の「草上の昼食」を描いている。屋外での写生の表現を追及した。「アルジャントゥイユのひなげし」など。モネの「かささぎ」は東海道五十三次の直接的な影響がある。当時のヨーロッパでは雪や雨だけを描く風景画はなかった。ピサロも「雪の大通り」、アルフレッド・シスレーは「雪のルーヴシエンヌ」を描いた。モネの「モントルグイユ街パリ万博の視察」は広重の「名所江戸百景 猿わか町夜の景」に構図が一緒。

●ジヴェルニー Giverny
 パリから車で西に1時間。モネはこの町を愛し、40年近い後半生をここで過ごした。モネが愛した膨大な浮世絵コレクションが残されていた。一階食堂には浮世絵が多く飾られている。300点にも及ぶ。美人画は特に好きだったようで、「ラ・ジャポネーズ(日本娘)」(1876年)もそこから生まれた。風景画は広重と北斎の2人の絵師に集中している。広重は57点と最も多い。葛飾北斎の富嶽三十六景をもとにして、「サン・タドレスのテラス」(1867年)も生まれた。
 クロード・モネ財団のクレール・トゥルグアトさんが案内してくれました。寝室などにも飾ってありました。広重の「名所江戸百景 亀戸天神」に描かれた橋を庭に再現しようとして、日本風の太鼓橋を作らせた。日本の植物を輸入し、庭に植えた。柳、かえで、藤、睡蓮。ここから名作睡蓮が誕生した。

●箱根
 「甘酒茶屋」は創業350年。作り方は当時と全く同じ。成川美術館からの風景が一緒らしい。箱根の風景は誇張されている。由比にも富士が描かれている。当時、富士の絵は人気があった。ライバルの葛飾北斎が1831年に富嶽三十六景がでている。

●パリ
 それがセザンヌにも影響を与えた。セザンヌは浮世絵の富士の姿を故郷の山に思い描いた。連作「サント=ヴィクトワール山」。22歳の時、一つ年下のモネたちに出逢ったセザンヌは浮世絵に出会い、屋外で自然を描くことを学んだ。新たなモチーフを求めてこぞってパリの郊外に向かった。フランス国内に広がった鉄道網が彼らの移動を後押しした。庶民に郊外への興味が増し、印象派たちが市民権を得ていった。パリ・リヨン駅からTGVで南フランスに向かった。

●エクス・アン・プロヴァンス Aix-en-provence
 ルネサンス以前から大学が置かれ、学生の街として賑わっていた。今ではセザンヌの故郷として知られる。到る所で彼の足跡に出会う。
 「グラネ美術館」の中にあった学校に入学した。彼の愛用したパレットが残されている。「花瓶のバラ」(1890年)などの水彩画があった。セザンヌは目の前のものを忠実に表現するよりも、色や形を単純化し、究極の画面構成を追及した。彼の作品はピカソの「アヴィニョンの娘たち」などの作品に影響を与え、キュビズムといわれるようになった。
 ローヴの丘から見たサント=ヴィクトワール山が一番多い。その道はいつしかセザンヌの道と呼ばれるようになった。観光局のロベルト・クレリコさんにお気に入りの「ピペミュスの森」を案内してもらった。セザンヌが使っていた小屋がある。光によって色を変える岩肌を見つめて時間を過ごしたそうです。「紅色の岩」(1896-1897年)。ここの静けさが好きだったそうです。森の先にはサント=ヴィクトワール山が見えた。
 広重や北斎が富士山を何枚も描いたように、セザンヌもこの山を87枚も描いた。アトリエを訪問してみた。

●ルーアン Rouen
 1890年代モネはジュベルニーの近くのルーアンで一つのテーマに打ち込んでいた。ジャンヌ・ダルクが処刑されたことで有名な町。ルーアン大聖堂内にジャンヌ・ダルク礼拝所がある。モネは大聖堂の外側を移ろいゆく光の様子を連作で描いた。大聖堂の斜め向かいの2階?にアトリエを借りていたそうです。今は観光局の所有となっています。11枚描いています。「ルーアン大聖堂」連作はオルセー美術館のモネ室のハイライトとなっている。連作するというのは北斎や広重の影響かもしれない。

●静岡県丸子町
 丁字屋は江戸時代からとろろ汁を旅人にふるまってきた。十二代目の柴山信夫さんが話をしてくれました。松尾芭蕉や野次さん喜多さんまで味わった。特産の自然薯と言われるイモの旨みが旅人を虜にした。

●愛知県赤坂
 大橋屋は今も残る宿屋。創業350年。十九代目の青木一洋さんが説明してくれました。客室は6畳が3間で、毎晩一組の客を受け入れている。広重は二階から見た中庭を描いている。当時は遊女が多かったそうです。

●パリ
 広重は絵の中に心を描いた。それに共感する。ゴッホも絵に激しい感情を入れた。  オランダで画家を目指していたゴッホは27歳の時、パリで浮世絵に出会った。澄み切った色彩は暗かった彼の画風を明るくした。浮世絵の模写を重ね、浮世絵のような影のない風景を求め南仏アルルに向かった。

●アルル Arles
 「アルルの跳ね橋」のように輪郭線を描いてから色をのせていく浮世絵のような絵をまず描いた。弟にあてた手紙には「ここでは日本の美術は必要ない。私は日本にいる。そして唯一必要なことは、眼をよう開き、前にある全てのことを吸収することだ。」と書かれていた。彼は空を青色ではなく、黄色や赤で描く。浮世絵の自由な色使いに驚き、学んだ。1年3ヶ月の間に300以上もの傑作を描いた。今では彼の歩いた道は観光名所となっている。「黄色い家」(1888年)は今はない。この家の2階で親友のゴーギャンを迎えるために描いたのが「ひまわり」だった。2ヶ月後にゴーギャンはアルルを離れ、ゴッホは耳を切った。夜も写生をしたのは、広重の「名所江戸百景 両国花火」の影響か。「アルルのダンスホール」は鳥居清忠の「浮絵劇場図」の影響か。「夜のカフェ」は広重の「名所江戸百景 猿わか町夜の景」の影響がある。夜のカフェの場所に行ってみた。フォーロム広場の「カフェ・ファン・ゴッホ」。行った日は定休日でした。それまでヨーロッパの画家たちは風景として夜を描くことはなかった。ゴッホは「夜は日中より色が鮮やかで濃い」と手紙に書いています。
 日本人がゴッホの絵に心を動かされるのは、心が入っているから。ゴッホは「私は日本人の眼を持ちたい」という言葉を残しています。

●ジヴェルニー
 1890年ゴッホが37歳で死去した時、モネは50歳で、借りていたジヴェルニーの土地を買い取り、以後30年にわたる製作が始まる。1911年、長年支えてきた妻のアリス、1914年に長男のジャンが死去。1923年にはモネは白内障を手術した。1926年クロード・モネは86歳で死去した。
 アトリエに残された膨大な睡蓮の連作は翌年パリのオランジェリー美術館に運びこまれた。2006年に「睡蓮の間」は長い改装を終えて公開された。当時は時代遅れの画家と言われたが、睡蓮が公開されて人々は声を失った。それは光が描かれた大屏風だった。モネの睡蓮の間は楕円形の2つの間からなる。確かに光によって見え方が違いました。

●京都
 三条大橋が終点。広重が得を描いた場所には、創業140年のすき焼き屋さん「モリタ屋」がある。
 広重は1858年9月6日にこの世を去った。翌月から安政の大獄が始まり、大平の江戸の世は終った。辞世の句は「東路へ筆を残して旅のそら、西のみ国の名ところを見舞(みん)」。


テレビ番組「世界弾丸トラベラー さくらさんでリヨン」

 2008年1月12日放送。さくらさん(20歳)が旅した。4日間かけて行なわれる光の祭典。全世界から400万人が訪れる。世界一の光の祭典を楽しむ1泊4日の旅。12月6日〜9日までの4日間開催される。12月8日に出発しました。

●予定
 1日目、21:55成田空港発エール・フランスAF277便。
 2日目、4時シャルル・ドゴール空港着。6:54シャルル・ド・ゴール駅発、TGVでリヨン・パール・デュー駅着。9:30パール・デュー駅発(メトロで移動)。10:00ベルクール駅着。11:30Bouchon 「Chez Paul」で昼食。13:00ホテル「カールトン・リヨン」にチェックイン。17:00ノートルダム・ド・フールヴィエール寺院を訪問。18:00世界一の光の祭典を見る。
 3日目、8:00ホテル出発。8:55パール・デュー駅着。10:59シャルル・ド・ゴール駅着。13:15シャルル・ド・ゴール空港発AF276便
 4日目、9:05成田空港着。

●パリ
 シャルル・ド・ゴール空港からTGVが出ている。電車代は110.7ユーロ。乗れましたが、外は雨。

●リヨン
 地下鉄で町の中心に向かう。メトロ代1.5ユーロ。地下鉄内はピンクの照明だったが、これは光の祭典のある時だけ。中心のベルクール駅に到着すると青空でした。
 マルタン通りにあるブッション「シェ・ポール」で昼食。リヨンの郷土料理「仔牛の煮込み」(コースメニュー)23.5ユーロ。
 ホテル「カールトン・リヨン」にチェックイン。古風なエレベータです。室料190ユーロ。テラスからの眺めもいい。
 16時からフールヴィエール寺院に向かう。16:30ケーブルカーに乗る。17時到着。光の祭典誕生のきっかけになった。昔疫病が流行した時に、人々はこの聖母マリアに祈りを捧げ、多くの命が救われた。それで感謝の意をこめて、12月8日に町全体に灯りをつけ、松明をもって巡礼することにした。そして2003年から現在の形の光の祭典が4日間に渡って行なわれることになった。
 光の祭典は18時から24時まで、リヨン市内の80箇所で開催されている。ベルクール広場は青い光で「I Love Lyon」という作品。リヨン市立病院は緑色で「Cultures(耕作)」。鳥のさえずりは春をイメージしている。そして突然、雷と嵐で暗くなった。わた菓子1ユーロを売っていたが、かなり大きい。セレスティン広場のホテル?の壁には「イメージ・アナグラム(幾何学模様)」。ベラーシュ通りの「忘れられた異物」は、電話ボックスが水槽だったりする。リパブリック広場の「ニュートン」はいろいろ変化する光の球。グリフィン広場は「パラソル」。ジャコバン広場は赤一色で「赤のサロン」。聖ニジェール教会は「自然の再生」で、舞い落ちる木の葉をイメージ。最大の見ものはギヨティエール橋の「1000のライトで」。1000個が様々な色に変化します。地元新聞社のランキングで1位でした。最後に行ったのは、観覧車。壁がない剥き出しの観覧車。


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