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なお、これはわたしが個人的にテレビを見て書いたものであり、各テレビ局や番組とは全く関係はありません。
すべての文章の無断使用・転載を禁止いたします。
またここの情報を使って、何か問題が起こったとしても私は一切責任は持ちませんのであしからず。


テレビ番組「にじいろジーン 地球まるごと見聞録 ポーランドのグダンスク」

 2010年11月6日放送。

●グダンスク
 スカンジナビア航空で、コペンハーゲン経由でポーランド共和国・グダンスクへ到着。バルト海沿岸のポーランド最大の観光都市。1000年を越える長い歴史に育まれたルネサンス様式の街並み、ドゥウーギ広場は訪れる人々を虜にする。14世紀からポーランドの海の玄関口として栄えた。モトワヴァ運河にも船が行き来する。巨大な木造クレーン「ジュラフ」はかつては貿易船の荷物の積み下ろしに使用されていた。グダンスクはかつては城壁に囲まれた街だった。「緑の門」は残された城壁の一部。
 にじいろガイドはカーシャ・シュートビッチさん(23歳)。

 レストラン「タベルナ」でグダンスクの代表的な家庭料理「ピエロギ」、「ビゴス」をいただいた。小麦粉の生地を薄く延ばし、グラスで丸くカットし、そこに炒めたキャベツや旬のキノコなどをのせて、ギョウザのように包む。フライパンで表面をカリッと焼けば「ピエロギ」約900円の完成。ピエロギは家庭によって中に入れる具が違う。フルーツを入れてデザートにもする。煮込み料理「ビゴス」(約900円)は酢漬のキャベツやお肉を2,3日かけてじっくり煮込んだもの。クリスマスとかみんなが集まる時に作る家庭料理。巨大なパンの器にスープが入った「ジューレック」(約650円)は、発酵させたライ麦を使ったスープ。パンの中に入れる独特の食べ方は、グダンスクで中世の頃から楽しまれている伝統のスタイル。

 「囚人塔」に行く。この建物の中には、「琥珀博物館」があり、様々な琥珀が展示されている。グダンスクは世界的な琥珀の産地。コハクは松や杉などの針葉樹の樹液が長い年月をかけて石のように固まったもの。磨けば神秘的な輝きを放つ。4000万年前の琥珀には、中にトカゲが閉じ込められている。琥珀はタイムカプセルでもある。ジュラシック・パークは有名な話。
 街中の「聖マリア通り」には琥珀専門店が並び、観光客にも人気。シンプルで簡単なデザインのものから、ゴージャスでモダンなものまである。ネックレスは約1.1万円、指輪約3.8万円などが紹介されていた。琥珀は昔からポーランドの女性の一番身近なアクセサリー。こするとリラックス効果のある香織も楽しめる。
 街角の琥珀のお店では、ビンに入った琥珀がある。約250円。これで琥珀のお酒を作る。風邪や筋肉痛にとても効くという健康法がある。「Spirytus 」という90%以上のアルコールを琥珀入りのビンにたっぷり注ぎ、10日ほどでお酒も琥珀色に変わる。できた琥珀のお酒を紅茶に2、3滴垂らして飲むという健康法。テレビでは実際にはスプーン一杯入れていました。

 国民的スイーツ「ポンチュキ Paczek 」1.9ズローチ(約60円)を「スワゴミル・シェルミック」で購入。これは揚げドーナツで、中に入っている「バラのジャム」と相性がピッタリ。
 もう一つお勧めのスイーツは、飴。飴専門店「チュウチュウ」で作業風景を見学できる。お土産として大人気の商品。白と緑の飴で作っているところを紹介していました。赤い「グダンスクの紋章」の金太郎飴が一番人気。1袋約250円。天然の着色料を使っているので、子供にも安心。

 不動産情報。観光にとっても便利な物件。メインのドゥーギ広場に面するマンションで、1LDK40平方m。1日単位でも住むことが可能な観光客用のレンタル・アパートで、1日110ズローチ(約3500円)。

●マルボルク
 グダンスク中央駅から電車で約1時間のマルボルクに行く。片道約300円。水辺にそびえる世界遺産「マルボルク城」を見学。13世紀に建てられた赤レンガ作りのお城で、東京ドーム5個分の大きさ。ヨーロッパで最大のレンガ作りの建物。150年の歳月をかけて完成した。対立する国々からポーランドを守るために常駐していたドイツ騎士団の暮らしが再現されている。城内では800人が一同に集まっていた食堂や、当時の様子を再現したキッチンが公開されている。勇敢な騎士団の生活ぶりが伺える。トイレも展示してある。便器の上のキャベツは高価な紙の代わりに使用していたもの。
 当時の衣装を着て写真も撮れる。約4500円。お城の中にあるレストラン「ゴシック」で、文献から忠実に再現した「騎士のメニュー」をいただいた。「チキンとビールのパンケーキ」(約900円)はパンケーキの中にビールやガーリックがたっぷり。これは4人しかいなかった騎士団の団長しか食べることができなかった。ハーブをまぶしたコロモをつけて焼いたチキンをパンケーキに添えていただく。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん モルドバ共和国」

 2010年9月25日放送。

●モルドバ共和国 Moldova
 旧ソ連。イスタンブール経由で13時間の空の旅。九州と同じ面積で、人口約360万人。19年前にソ連から独立。元はルーマニアと一つの国だった。話す言語はルーマニア語。国旗も左から青、黄、赤色のパターンが同じで、真ん中に紋章があるだけの違い。

●キシナウ Chisinau
 モルドバ共和国の首都。豊かな自然に囲まれ、人々がゆっくり暮らす。人口約71万人で緑が多い。犯罪も少なくて、とても暮らしやすい街だとか。
 中央市場はとても賑わっている。トマト、なすなどが多い。一番多く食べるのは、リンゴで1日4−5個食べるという。世界一リンゴを食べる国で、リンゴ1kg6レイ(約40円)。
 ジュースの自動販売機もあるが、自分で買えないので、店員さんに頼む。旧ソ連時代の品で、現在の通貨が使えないためらしい。コップを洗う機能もついていて、とてもエコ。メロン・ソーダ、黒パン・ジュースのクワス、水の3種類で、大が3レイ(約20円)、小が1.25レイ(約10円)。
 中心部のステファン・チェル・マーレ通りだが、木陰は気持ちいい。お花屋さんばかりが並んでいる通りがある。男性が女性に毎日のように花を贈る習慣がある。バラは1本200円と少々高め。いつでもプレゼントできるように、お花屋さんは24時間営業。
 ニコラエ・ルキアンさん(20歳)が紹介してくれたのは、レストラン「ロアタ・ヴレミー Roata Vremii 」で、名物の「プラチンタ」40レイ(約280円)をいただいた。味付けしたチーズなどを甘い生地で包み油で揚げた料理。チーズをフルーツに変えるとデザートにもなる。
 緑の通りの屋台で楽器を演奏している人がいた。羊の置物のお尻から息を吹き込むと音が出る。ブドウをモチーフにした置物も多い。モルドバはワインの産地としても有名。
 少し郊外に行くとブドウ畑が美しい。モルドバは全土でぶどうの栽培が盛ん。世界一のワイナリーもある。お城みたいなワイナリーで、噴水にはワインが、と思ったら、ただの色をつけた水でした。ここには世界一大きなワイン貯蔵庫がある。全長60km、2000万リットルのワインを熟成中だそうです。16世紀創業のワイナリー。ボトルの数も200万本以上で保存数も世界一。50年前から貯蔵庫として使われている。モルドバのワインは昔からヨーロッパの王侯貴族のために作られていて、ワイン通には有名。

 新婚さんの朝ごはん。ヒルブ・ナタリアさん(32歳)が作るのは、1品目「ザーマーというスープ」。骨つきの鶏肉とたまねぎを丸ごと鍋に入れてじっくり煮込んでスープを作る。小麦粉と卵で作った生地を作りのばしていく。細切りにして乾かす。スープは骨をだし、にんじん、たまねぎを細切りにして加える。パスタも加える。鶏肉は細かくほぐして再び鍋に入れる。このスープ専用の調味料「Bors Clasic 」(野菜のブイヨンなどを発酵させたもの)を加える。最後にパセリを入れて完成。
 2品目「プラチンタ」。リンゴを粗くすりおろし、砂糖をまぶしてしっかり混ぜる。ほんのり甘いプラチンタの生地にリンゴをのせ、しっかりと包み、卵黄を塗り、20分オーブンで焼く。粉砂糖をふりかけて完成。
 3品目「リムバ・ソアクレイ」。なすを薄く切り、塩をふってから両面をしっかり焼く。にんにくをすりこんだマヨネーズを塗り、パセリ、トマトをのせる。これは「姑の舌」という名前の強烈な料理。
 4品目「ロマンチック・ソーセージ」。最後にソーセージを縦に切れ目を入れ、端を楊枝で留めるとハートの形になる。これをフライパンで焼いて、真ん中に卵を落とせば、ロマンチック・ソーセージ・エッグの完成。これは奥様のオリジナル料理です。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん モスクワ」

 2010年9月4日放送。

●モスクワ
 日本から9時間半で到着。この夏は観測史上最も暑く、15度以上高かったとか。人口1050万人。
 ドミトロフスコエには「KBAC」と書いた黄色のタンクがある。クワスという焦げ茶色の飲み物屋さんでした。黒パンを発酵させて作ったロシアでは伝統的なモスクワではポピュラーな飲み物。200ccで10ルーブル(約30円)。スーパーでも売っているが、タンクで買う方が美味しいそうです。
 ピンク色のタクシーがいる。「ピンクタクシー」という会社のもので、女性専用。運転手も全て女性。チャイルドシートやぬいぐるみまで積んでいる。予約がひっきりなしらしい。

 モスクワの街は色彩豊かな建物がたくさんある。街の北東部のイズマイロフスコエに白やカラフルな変わった建物がある。「ウォッカ歴史博物館」でした。10年前にできた。展示してあるウォッカは1000種類以上。ウォッカの販売もしていて、とても珍しい貴重なものもある。ロシアのシンボルであるカラシニコフ(自動小銃)の形のボトル。過去に1本だけ売れたそうです。7400ルーブル(約20200円)。

 アレクサンドル・リャビンキンさん(28歳)が紹介してくれたのは、レストラン「マリ・ワンナ Mari Vanna」の「スヴェコーリニク」350ルーブル(約950円)という冷製スープ。赤いビーツなどが入っている。夏バテ解消に昔から飲まれている。
 CSKAモスクワの「ファンショップ」に行くと、本田選手のグッズをたくさん売っている。彼は人気があって、レプリカ、ユニフォームなどは品切れ状態とか。

 新婚さんの朝ごはん。街の北部の高層アパートに住むタチアナ・シドロワさん(23歳)が作るのは、1品目「アクローシカ」という夏にピッタリの冷たいスープ。じゃがいもの皮をむき、お鍋に入れ水をいっぱいにいれ、柔らかくなるまで煮る。キュウリを銀杏切りする。ハムも賽の目に切る。ゆで卵も同様に切る。ジャガイモのお湯を切って、賽の目に切る。ボウルに全て移し、ネギをたっぷり加え、塩で味付け、クワスをたっぷり加える。全体を軽く混ぜて完成。
 2品目「イクラのクレープ」。ボウルに卵、牛乳、小麦粉を入れてダマにならないように注意しながらよく混ぜる。スプーンに重曹を入れ、レモンをかけて発泡させた後に、さらに混ぜて生地を作り、油を敷いたフライパンに流し入れる。クレープのようにしっかり焼く。別にクリームチーズにたっぷりの砂糖を入れて混ぜあわせる。全体がなじんだら、クレープの上にのせ、四角に包んでいく。さらにクリームチーズをトッピングし、イクラをのせて完成。
 3品目はロシアでは一般的な「オリビエ」。たまねぎをみじん切りし、辛みを抜くために水にさらす。キュウリのピクルスを小さく切って、ボウルにジャガイモ、ハム、ゆで卵を入れる。キュウリのピクルスを切ったもの、辛みを抜いたタマネギを入れ、マヨネーズをたっぷり加え、全体をよくかき混ぜる。


テレビ番組「2010年6月の旅サラダは島谷ひとみさんでロシア」

 1ルーブル=3円で計算。人口は1億4200万人。面積は約1700万平方km。5月は暑くて、日差しも強くて、日焼けしたそうです。朝4時から夜10時まで太陽が照っていたそうです。JALで行きました。

●モスクワ
 人口2000万人の首都。
 「雀が丘展望台 Воробьёвы Доры」は、市内を一望出来る人気スポット。
 市内を見る反対側に先端の尖った建物がある。これはスターリン・ゴシックと呼ばれる7つの高層建築物の1つ、モスクワ大学本棟「Главное здание МГУ」。1953年竣工、高さ約235m、36階建てのスターリン建築で、アメリカのエンパイア・ステートビルに対抗して作らせたという。
 露店が並ぶ。そこには、マトリョーシカなどが並ぶ。マトリョーシカは1890年代後半に日本を訪問したロシア人が中から次から次へとでてくる人形に感激して、その細工に興味を持ったのが始まり。
 結婚式を挙げたカップルは、モスクワの町が一望できるので、ここに記念写真を撮りにくるそうです。友人たちは「ゴーリカ(苦い)」と言いつづけ、カップルはキスをして「甘く」するそうです。
 展望台の端にある「クローシュカ・カルトーシュカ Крошка-Картошка」(住所:雀が丘展望台・他モスクワ各所、定休日:無休)は緑の平屋建ての建物。ジャガイモを持った可愛いおじさんの看板が目印。一番人気の「カルトーシュカ」127ルーブル(約380円)は、ジャガイモをふかして、バターとチーズを練りこんで、サラダなどをトッピングしたファーストフード。お店は混んでいた。今回はマスタードで和えたソーセージとハムチーズ。ベースのジャガイモ・バター・チーズだと57ルーブル(約170円)。トッピングは1個35ルーブル(約105円)。ロシアに300店舗以上を構える。
http://www.kartoshka.com/

 スターリン・ゴシックは町中で目立つ。中でも「ロシア連邦外務省 МИД Россий」は、1953年竣工、高さ約172m、27階建て。

 また同様に目立つのはスターリン・ゴシックの「ヒルトン・モスクワ・レニングラーツカヤ Хилтон Москва Ленинградская」(電話:+7-495-627-5550 )で、1953年竣工、高さ約136m、17階建て。2008年にヒルトンホテルとして、オープンした。浴室、シャワー、蛇口はソ連時代のもの。部屋の間取りも1953年当時と同じ。料金は、アンバサダー・スイートで約3万ルーブル(約9万円)〜。
http://www1.hilton.com/en_US/hi/hotel/SVOHFHI-Hilton-Moscow-Leningradskaya/index.do

 モスクワの中心を流れうのは、モスクワ川。ロシアのシンボルともいえるのは、「聖ワシーリー寺院」。
 散策したのは、「アルバート通り Ул. Арбат」は、クレムリンの西、アルバーツカヤ広場からスモレンスカヤ広場まで延びる歩行者天国。路上ライブをしている人も多い。終わるとダンスが始まった。ブレイク・ダンスをしていました。レストラン・カフェだけでなく、お土産屋さんが軒を連ねる。そのうちの1軒に入ってみた。
 「ルッスキエ・スベニルィ Русские сувениры」(住所:Москва, ул.Арбат, 12、アルバート通り12番、営業時間:10:00〜20:00、定休日:無休、場合によって国家祭日に一日休日もあり)は、帽子、マトリョーシカ、ウォッカなど様々なロシア土産がなんでも揃う。帽子は1000ルーブル(約3000円)〜。「マトリョーシカ・ウォッカ」350ルーブル(約10500円)は中に聖ワシリー寺院が写し出される。
http://www.artshop.ru/

 モスクワ川沿いを散歩した。大阪のクルーズ船のようなのがいた。折角なので、水上バスに乗った。「モスクワ川クルーズ(レチノイ・トラムヴァイチック)」(運航会社:首都船舶会社、電話:+7-495-225-6070、開業時間:11:00〜21:00(コースによって営業時間も多少異なります)、定休日:無休だが、運航は4月中旬〜10月初旬)。料金は400ルーブル(約1200円)。モスクワ中心部を往復する水上バス。レチノイ・トラムヴァイチックとは、「レチノイ・トラムヴァイチキ−川の路面電車」の意味。出発駅は、キエフスキー駅前で、20分おきに出発。市内をS字型に大きく蛇行するモスクワ川を南東に、約2時間で「ノヴォスパッスキー橋」に至る。
 見えてきたのは、金色の「ノヴォデヴィッチ修道院」、モスクワ大学、ここを通りすぎると、みんなの生活が見えてきた。出発して30分もするとモスクワ観光の目玉がめじろ押し。救世主キリスト大聖堂、宇宙船ブラン、ゴーリキー・パーク遊園地、ピョートル大帝像、要塞という意味のクレムリン、赤の広場、聖ワシリー寺院。
http://www.cck-ship.ru/

 「トヴェルスカヤ通り Ул. Тверская」はモスクワの一番の目抜き通り。クレムリン寄りの南端には高級ホテル、通り沿いにはブランドショップやレストランが立ち並ぶ。
 通りに面した可愛いお店を発見。「テレモーク Теремок」(住所:モスクワ各所で、地下鉄駅付近に多い )は、ロシア式クレープ「ブリヌィ」の専門ファストフードチェーン店。何を頼んでいいのかわからなかったのですが、親切な人が教えてくれました。ブリヌィにはスメタナ(サワークリーム)がついている。このお店は、市内ファストフードレストラン59軒(取材先のレストランを含め)、屋台32軒を展開している。蜂蜜やベリーなどをはさむ甘いタイプと、イクラやサーモンをはさむ甘くないタイプがある。今回は、「ブリン・ス・クラスノイ・イクロイ(いくらのブリヌィ)」236ルーブル(約710円)。ブリヌィは朝食に限らず、いつでも簡単に食べられる。

 親切にしてくれた女性ナターリアさん(19歳)が、夕方まで少し案内してくれました。飛行者天国アルバート通りを歩く。ブリヌィ以外にも美味しいものがあると紹介してくれたのが、「ムームー Му-Му」(営業時間:店舗によって異なるが、9:00〜23:00、24時間のカフェもある、定休日:なし)で、牛が目印のロシア料理チェーン店。トレイの上に好きな料理をのせるセルフサービスのお店。午後3時を過ぎていたのに、店内では行列ができていた。オーナーは、アンドレイ・デロスという、ロシアで最も知られている高級レストランオーナーのうちの1人。高級レストラン「カフェープーシキン」で有名になったアンドレイ・デロス氏が作った。
 今回お皿にとったのは、「チキンスープ(ラプシャー・ダマシニャヤ・ス・クリツェイ)」(中にパスタも入っている鶏肉のスープ)、「ロシア風揚げギョウザ5個(ワレニキ・ス・グリバミ・ジャレニイェ)」、「ロシア風カツレツ・ポテト添え(カトレタ・パジャルスカヤ)」、「リンゴのフレッシュジュース(ヤブロチヌイ・フレッシュ)」で、合計338ルーブル(約1100円)。
http://www.cafemumu.ru/

 ナターリアさんの職場は、「モスクワのツベトノイ並木道駐在 ニクーリン名誉サーカス Московский Цирк Никулина на Цветном бульваре」(住所:Цветной Бульвар 13、電話:+7-495-625-8970 )でした。1880年創設のロシアの最も古いサーカスのひとつ。料金は400ルーブル(約1200円)〜2500ルーブル(約7500円)で、座席により異なる。
http://www.circusnikulin.ru/

 サーカスに招待されたので、それまでの30分間、サーカスの副会長アレクサンドル・オグルトフさんが案内してくれました。ロシアには常設の劇場を持っているサーカスが40ほどあるそうです。ユーリュ・ニクーリン氏が1982〜1997年まで代表を務めていた。 その前は数十年間クラウンをやっており、サーカスのクラウン(ピエロ)として超有名。映画俳優としても有名だった。現在はニクーリン氏の息子のマクシム・ニクーリン氏が代表を務めている。モスクワで年中ほぼ毎日サーカスを行い、世界各国に毎年興業にいく人気のサーカス。生後1年のトラと記念撮影させてもらいました。ほかにもサル、プードルなど。
 ナターリアの技は空中曲芸体操でしたが、世界でただ一人とか。


 「クレムリン Кремль」(電話:+7-495-695-3776、時間:10:00〜17:00(チケットオフィス9:30〜16:30)、定休日:木曜日 )の中に入った。料金は350ルーブル(約1050円)。この日はブラジル大統領がモスクワを訪問中だった。中に入るとサボールナヤ広場は金色のたまねぎだらけ。かつて歴代皇帝の戴冠式が行なわれた「ウスペンスキー大聖堂」、皇帝専用の寺院だった「ブラゴヴェシェンスキー大聖堂」など見所が満載。首都モスクワの中央に位置し、歴代皇帝の住まいにして権力の中枢、ロシア正教の中心地でもあった。ソヴィエト時代以降、現在も国の中枢。世界遺産にも登録されており。大統領府がある。「大砲の皇帝」は16世紀では世界最大だったそうです。「鐘の皇帝」は重さ200トンで世界最大と言われている。
http://www.kreml.ru/

 「赤の広場 Красная Площадь」(電話:+7-495-698-3304、時間:夏期:11:00〜18:00(チケットオフィスは17:30まで)& 冬期:11:00〜17:30(チケットオフィスは16:30まで)、定休日:火曜、毎月第1月曜)を歩く。クレムリンを出て、巨大なレンガ色の建物の前を通り、中に入る。奥には聖ワシーリー寺院。ロシア語の「赤」は「美しい」という意味があり。赤の広場は、「美しい広場」ということになる。14世紀後半、クレムリンの門前に出来た市場が始まりだといわれている。クレムリンの北東の城壁に面している。誰でも自由に入ることができ、今年5月9日に第2次世界大戦の戦勝65周年記念のパレードがこの場所を中心に行われた。
 「レーニン廟」は赤の広場のほぼ真中あたりにある。入口から700m、「聖ワシーリー寺院 Храм Василия Блаженного」がある。入場料150ルーブル(約450円)。イワン雷帝が建立した。あまりの美しさに、もう二度と同じものを作れないようにと、イワン雷帝は、建築家の目をつぶしたと言われている。たくさんの絵画が展示されていた。
http://www.shm.ru/pokrovskiy.html

 赤の広場に面したレストラン「ボスコ・カフェー Боско кафе」(住所:赤の広場3番(グム百貨店の中)、電話:+7 (495) 620-3182、営業時間:10:00〜23:00、定休日:無休 )で食事をする。ここは、モスクワ市民のイタリア料理通の間で評判が高いイタリア料理レストランとして有名。特に生パスタが評判で、もちろんロシア料理もおいしいと評判。1017年頃社会主義革命前に、あるロシア貴族の専用シェフが貴族の家族のために作った当時のレシピが今も利用されている。今回は、「ビーフ・ストロガノフ Бефстроганов(Beef Stroganoff)」890ルーブル(約2700円)で、ツボの入っている。
http://www.bosco.ru/restoration/bosco_cafe/

 「グム百貨店 ГУМ」(住所:赤の広場3番、電話:+7 (495) 788-4343、営業時間:10:00〜22:00、定休日:無休 )は、高級ブランド店が集まる百貨店。ソ連時代、品物が足りないときにはソ連全土から一般市民が集まるデパートストアだった。
http://www.gum.ru/


●黄金の環
 モスクワの北に、古い都が円を描くように点在している。

●ヤロスラヴリ
 その一つ、モスクワから北東に266kmの古都。人口およそ63万人で、黄金の環では最大の都市。今年街が生まれて、ちょうど1000年の記念。トロリーバスが走っている。オシャレな女性が多いそうです。
 街に数あるロシア正教会の中で、一際美しいのが、「イリヤ・プロローク教会 Церковь Ильи Пророка」(電話:+7-4852-32-92-40、営業時間:10:00〜13:00 & 14:00〜17:30、休日:水曜日、雨天時 )。17世紀半ばに 建てられた教会で、ソヴィエト広場に5つの円屋根と高さの違う2つの鐘楼をもつ。料金は70ルーブル(約210円)で、撮影料100ルーブル(約300円)。教会を通りぬけ、近くの遊歩道を散策した。
 この街の絶景ポイントに到着。ボルガ川はロシア人の母なる川で、ヨーロッパで最も長い河。

 「スパソ・プレオブラジェンスキー修道院 Спасо-Преображенский Монастырь」(電話:+7-4852-30-38-69、営業時間:10:00〜20:00、休日:月曜日(鐘楼と聖堂を除く)/聖堂:火曜日・水曜日、雨天)は、ロシア北東部で最も古い修道院といわれている。市の防衛を兼ねて12世紀前半に建立された。とても広い敷地です。料金は、院内20ルーブル(約60円)プラス聖堂60ルーブル(約180円)プラス「博物館・展示場など」は40ルーブル(約120円)、撮影料150ルーブル(約450円)。
 鐘の音が修道院中に響いた。鳴らしていたのは、鐘の達人の「アンドレイАндрей」さん。指先だけでなく、体全体を使って、鐘を自在に鳴らしていた。不定期に、修道院の庭でデモンストレーションを行ったりするそうです。
 修道院の中を歩いていて、思いがけない出会いがあった。中庭でカリンカを演奏していたのは、ヤロスラヴリ市立ロシア民謡楽団「ストルーヌィ・ロッシイ Струны России」でした。指揮者エフゲニ・アゲエフさんЕвгений Агеевを中心に約40名で活動を行っている全ロシアの民謡団音楽会でも何度も優勝した経験をもち、1999年に来日したこともある。世界中で活躍する民謡楽団。もう1曲「パールィニャ」、「トロイカ」も演奏してくれました。

●スーズダリ Суздаль
 モスクワから222km。人口1.2万人ののどかな町。市長のオルガ・K・グーセエワさんと会談した。市長自らお気に入りの場所に案内してくれた。ここで願い事をすると願いが叶うそうです。この街は中世の面影を残す、博物館都市と呼ばれている。野原でアコーディオンを演奏するおじさんがいました。
 文化会館を訪問した。館長のスベトラナ・コールビナさんが案内してくれたのは、レストラン「トラペズナヤ・レストラン Ресторан <Трапезная>」(電話:+7 (49231) 2-17-63、営業時間:11:00〜23:00、定休日 無休 )だった。ここは、元修道院の食堂だった場所を改装したレストランで、伝統的なロシア家庭料理が味わえる。
 ツボに入っていたのは、「ジュリエン・イズ・ベルィフ・グリボフ」176ルーブル(約550円)は高級キノコ「ホワイト・キノコ」(イタリアのフンギに近い)を使ったツボ料理。サワークリーム、マヨネーズ、チーズで焼き上げたもので、グラタンのような味わい。次は、「ボルシチ・モスコフスキー」199ルーブル(約800円)で、赤カブ、キャベツと牛肉を煮た料理。出来上がったらスメタナと呼ばれるサワークリームをチーズに混ぜて入れる。最後は「ミャーソ・ポ・モナスティールスキー」345ルーブル(約1100円)で、豚肉とキノコを赤ワインベースのトマトソースで煮て、パン生地をのせて焼いたもの。食べる前にパンを割って食べるのかと思いきや、ひっくり返して食べるものでした。丸いのは豚肉で、トマトソースで煮込んだもの。
 食事中にいつもこのレストランでロシア民謡を演奏している楽団「ゾロトエ・ヤブロコ(金りんご)Золотое яблоко」が音楽を演奏してくれました。ロシア国内を初め、ロシアを代表して国際演奏も行なっているそうです。4人なのかな?演奏したのは、「ポーリュシュカポーレ Полюшко-поле」、「一週間  Неделька」でした。

●ウラジーミル Владимир
 モスクワから185km東北の町。人口34万人。この街はとてもカラフルでした。
 「ウラジーミル市立ダンス学校」の女生徒が声をかけてきたので、入ってみた。6歳〜16歳の約220人の生徒が在籍。一般学校の授業が終ってから、このダンス学校に子どもたちが週に3〜4回ぐらい通う。ダンスクラスはクラシックバレエダンス、モダンダンス、民謡ダンスに分かれている。民謡ダンスはイリーナ・エゴロワ先生が指導している「ザバワ子供民謡団 Ансамбль<Забава>」でした。14〜15歳のグループで、この日は最終リハーサル中だったので、踊りも見せてもらいました。

 街を歩いていて世界遺産の「ウスペンスキー大聖堂 Успенский Собор」に行く。12世紀後半、石灰岩を用いて建設されたウラジーミルを代表する優美な建築。後年、モスクワの同名の大聖堂建立のお手本となった。

 その前の通りを歩いていくと、豊かな自然がそこに広がっていました。突然、大聖堂の前から合唱の声が聞こえてきた。「ヴィシェンカ」ウラジーミル市立民謡団 Ансамбль<Вишенка>という民謡団で、お祭りやイベントの時に、この場所でよく演奏しているそうです。突然演奏が始まり、みんなで輪になって踊っていました。男性がハンカチを渡し、受け取った女性が逃げる。そして捕まるとキスをするというゲームでした。この民謡団は、1962年に創立された。世界中の数10カ国に出演した経験をもつ。特徴は必ず観客を巻き込んで楽しませること。

●セルギエフ・ポサード
 モスクワからおよそ70km。人口は11万人。14世紀頃に街が生まれた。中心にあるのは、大きな修道院で、世界遺産の「トロイツェ・セルギエフ大修道院」(電話:+7(496) 540-53-34、営業時間:5:00〜21:00、ガイドつきの観光は9:00〜17:00、休日:無休だが、祭日は儀式のため教会内部に入れないこともある、博物館:月・火・毎月最終金曜 )。ロシア正教会において最も重要な修道院のひとつであり、その精神的な支柱ともいうべき位置にある。料金は、無料だが、撮影料は100ルーブル、ビデオは150ルーブル(教会・博物館内部の撮影は禁止)、博物館は160ルーブル。
http://www.stsl.ru/

 ウスペンスキー大聖堂を訪問した時は、ちょうどミサをしていた。ソビエト時代は聖堂などが物置などにされていて、人々は自由に信仰できなかった。

 窓にマトリョーシカがズラリと並んでいたのは、「美術品とおもちゃ」株式会社(電話:+7 (496) 540-22-07 )に行く。約110年の歴史を持ち、ロシア中で有名だとか。1960年、共産主義時代からソ連内閣によって「ザゴスルスク市(セルギエフ・ポサードの前の名前)の工場ナンバー1」に指定された。画家長のイリナ・アナトリエブナさんにいろいろ話を聞いた。値段は180ルーブル〜6000ルーブル(約540円〜1.8万円)。工房で絵を描くのを見せてもらいました。1つ描かせてもらいました。
http://www.rus-dusha.ru/

 「スコモロシヤ・スロボダ」民謡楽団 Скоморошья слободаが、ドイツの公演に行く前の練習をしていました。2010年民謡のモスクワ州フェスティバルで優勝した14歳〜68歳の15名で構成されている。ロシア正教を含む古いロシア伝統を守って生活や楽団活動をしている。必ず観客を巻き込んで楽しませる。
 監督のご自宅に招待された。ピロシキと切り分けて食べるピローグを用意してくれていました。古くから使われているポット「サモワール」からお湯を注ぎ、お茶を入れてくれました。お客さんを招いたら、歌を歌って歓迎するのが慣わしとか。「モスクワ郊外の夕べ」を歌ってくれました。

●ロシアの旅の案内
 今回ご紹介したロシアへの旅は「阪急交通社」が便利だそうです。
詳しくはHP
http://www.hankyu-travel.com/russia/


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ワルシャワ」

 2010年5月15日放送。

●ワルシャワ
 ポーランドの首都であり最大の都市。人口171万人。中央ヨーロッパの重要な場所。中性の町並みが残る旧市街は、第二次世界大戦で崩壊した町並みを市民が誠実に再現し、世界遺産となった。その旧市街市場広場には人魚の像がある。これは人魚がワルシャワの町を救ったという伝説による。町のシンボルでもあるので、町の至る所でマークを観ることができる。おみやげまで人魚。ワルシャワという名前は、漁師夫妻のワルスとサワが網にかかった人魚を逃したところ、商売が繁盛するようになったという伝説による。

 クラクフ郊外通りを歩く。子供たちが集まって、下を見ている。そのベンチからはクラシックが聞こえてくる。ショパン生誕200周年を記念した特製ベンチで、ゆかりのある15カ所にこのベンチが設置してあり、音楽が流れる。

 ハラ・ミロフスカ市場に行く。生鮮食品が有名。コーヒーを売っている出張屋台(移動式)もある。市場の人は食事をする時間もあまりないので、インスタント・ラーメンも人気とか。ラーメンにミルクも入れるとか。4スヴォティ(約110円)。

 旧市街市場広場で可愛いメロディが流れている。手回しオルガンを演奏している。このおじいさんは12年やっている。相棒はオウムです。

 アイスクリーム屋さんはワルシャワ市内に約100店舗以上ある。

 ダリウシュ・マルキエヴィッチさん(28歳)が紹介してくれたのは、とてもリラックスできる人気スポット。岩塩はポーランドの名産品で、塩を使って作られた洞窟。地面も塩。塩に含まれるミネラル豊富な空気を吸うことで、ストレス解消、ぜんそく、アトピーに効果があるという。「アルモニス」は1回45分19スヴォティ(約530円)〜。

 新婚さんの朝ごはん。住宅街に住むドロータ・ボンゴスフスカさん(26歳)が作るのは、1品目「ベーコンとジャガイモのグラタン」。名産のスモークベーコンを一口サイズにする。樽の形をしたポーランド名産のオスツデック・チーズ?。これを細かくする。切ったにんにくを細かくし、具を盛りつける。塩茹でしたジャガイモの上にオリーブオイル、ベーコン、チーズ、さらにタマネギ、にんにくをのせ、オーブンの中で20分焼いて、グラタンの完成。
 2品目「キュウリ・スープ(ズパ・オゴルコバ)」。鍋で煮ていたにんじん、セロリなどを取り出し、そのスープに細かく切ったジャガイモを入れ、柔らかくなるまで煮込む。キュウリ漬けを細かくおろし、バターと5分煮て、スープに入れる。
 3品目「春のサラダ」。キュウリの酢漬けを切り、旬の春野菜の上にのせ、塩、胡椒を軽くふり、味をなじませる。


テレビ番組「美の巨人たち 放送500回記念スペシャル・愛と野望の美の宮殿」

 2010年3月27日、28日放送。2000年4月開始で10年、番組も500回。小林薫さんが案内。シェーンブルン宮殿のマリア・テレジア、ヴェルサイユ宮殿のメリー・アントワネット、エルミタージュのエカテリーナ2世の3人は不思議な縁で結ばれていた。

●シェーンブルン宮殿
 ウィーンはかつての世界の中心だった。市内のそこかしこで見かける「双頭の鷲」の紋章を掲げたハプスブルグ家は、スペイン、オランダ、イタリア、ドイツ、ハンガリーなどを治めていた。南西およそ5kmにシェーンブルン宮殿がある。
 200ヘクタールという広大な宮殿を持つハプスブルグ家の夏の離宮。シェーンブンとは「美しい泉」という元は清らかな泉に建てられた小さな宮殿だった。それを現在の形に変えたのがマリア・テレジア。外壁は鮮やかな黄色で、テレジアン・イエローと呼ばれている。
 正門から入ると、部屋数1441室の壮大な夏の離宮。夏が始まると宮殿で働く人々の引越しの荷車がウィーン市内から途切れることなく続いたという。
 宮殿学芸員のアルフレッド・ダイムさんが案内。まず青の階段をあがり、宮殿の目玉というべき大ギャラリー「大広間」がある。今、110年ぶりの大修復中だった。長さ43m、王家の晩餐会や国際会議で使用された。大きな天井画が特徴。また支配した12の地も描かれている。トスカーナのワイン、チロルの人々と岩塩、オランダの人々、ハンガリーの牧童など。その中心に描かれているのが、マリア・テレジアが描かれている。これでハプスブルグ家の威光を感じさせた。1777年、建てられて20年後に最初の修復が行なわれたようだ。今回の修復は3年続く。この大ギャラリーは、いろいろな場面で登場する。フルシチョフとケネディの会談もここで行なわれた。

 マリア・テレジアは1717年にハプスブルグ家の皇帝の娘として生まれた。ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国の帝位まで兼任していて、王の中の王と言われた。サファイア、ルビー、エメラルド、真珠が並ぶ王冠を使っていた。1741年、父カール6世が男子を残さずに死去した。マリアは23歳で後継者となった。すると、プロイセン国王のフリードリヒ2世、バイエルンのカール・アルブレヒトなどの隣国のライバルたちが次々と領内に侵入し、領土と王冠を奪った。その中でマリアはシェーンブルン宮殿の大改造を命じた。各国の王にハプスブルグ家には余裕があることを示し、領民には自信を持たせた。そしてハンガリーの騎馬隊が味方につき、王冠を奪い返した。マリアはより美しく見せるために、取り入れたのがバロック。「バロック」とは「ゆがんだ真珠」の意味で、形や空間をわざとゆがませることで、ドラマチックな空間を作り出すこと。シェーンブルン宮殿にも、大ギャラリーに採用されている。天井はドーム状にうねっている。その空間に命を吹き込むのは、柱やシャンデリアの複雑な装飾。
 小ギャラリーは、庭に向かう途中にある。バルコニーで窓を開けると広大な景色がある。小ギャラリーを通るからこそ、壮大な景色が印象付けられる。見える森までも計算されていて、森に木々を植え足したという。シェーンブルンは建物だけじゃないということ。バルコニーから見えた丘に登る。丘の頂上に到着。宮殿と街が一望できる。
 宮殿には必ず廊下がなく、部屋から部屋に抜けるしかない。皇帝の部屋は一番奥にあり、周辺は側近で固めた。会議室にマリアが入ると、別のドアが開き、側近が覗き窓がある小部屋につながる階段を利用することができるようにしてあった。

 シェーンブルン宮殿に、作曲家のシルベスター・リーヴァイさんは住んでいる。この宮殿の最上階は賃貸アパートになっている。住民用のエレベータで4階に行く。元々は侍従たちが使っていたが、1960年代に今のようなアパートになった。現在52世帯が住んでいる。4LDKで家賃は言えないそうです。自慢はリビングからの眺めで、宮殿の庭園が一望できる。ドアなどの取り替えが禁じられていて、当時のまま。ガスも使用禁止。入居には審査があるが、奥さんがハプスブルグ家の研究者だったのがよかったそうです。
 ハプスブルグ家は「戦争は他家に任せ、幸いなオーストリアよ。汝、結婚せよ」という家訓がある。マリアもこれにならい子供を16人産んだ。フランスのルイ15世からマリアに贈られた貴重な食器が保管されている。この中には子供を産むためにマリアが毎日食べたスープが入れられた。ハプスブルグ家研究者のイングリッド・ハスリンガー博士が説明してくれました。100年以上作られていなかった幻のスープのレシピ本をハスリンガーさんは蚤の市で発見した。レシピには30種類以上の肉や野菜が書き込まれていた。味については、筆舌に尽くし難いと書いてあるだけ。
 ウィーンを代表する老舗レストラン「シュヴァルツ・カメール」は、かつての王家のご用達。マリア・テレジアのスープの再現に協力してもらった。野生の鴨、ガチョウ、野生のウサギ、仔牛の脚、セロリの根などを使って、マレーク・コヴァルスキーさんが作ってくれました。野生の肉、肉、野菜を別々の鍋で煮込んだ。3日煮込み、布でこし、3つの鍋を合わせて完成。濃い味だそうですが、スキヤキの割り下の感じとか。
 マリアは身辺を東洋の陶器で飾った。ほとんどがオランダ経由で手に入れた物だった。日本の徳利もある。歴史学者のレナーテ・ツェディンガー博士は、東洋の陶器は当時最先端の流行だったという。相当の高値だったが、マリアは家族のために買い求めたという。マリアと夫のフランツ・シュテファンは当時一風変わった夫婦だった。政略結婚が当たり前だった当時、異例の恋愛結婚。マリアは何通も夫にラヴレターを書いた。書き出しはいつも決まって「私の愛しい子ネズミ様」だった。子供たちのサロンがある。このサロンの隣に、自分と夫の朝食用の特別室を注文し、子供たちの声を聞きながら朝食をとった。
 58歳で夫を失うと、それ以降は死ぬまでの15年喪服で過ごしたという。国を支え、家族を愛したマリアのことを国民は「国母」と呼ぶようになった。
 夕陽を浴びるとシェーンブルン宮殿の黄色が一層輝きを増す。最初は国威向上のための宮殿だったが、後には優しさが感じられるようになった。
 一番の心配が末娘のマリー・アントワネットでした。

●ベルサイユ宮殿
 パリ市内から電車で30分、「ベルサイユ・リヴ・ゴーシュ駅」に到着。狩猟のために別荘を建てたルイ13世。息子のルイ14世は父の残した館を囲むように50年にわたり改築を重ね、稀に見る壮大な建築物を作り上げた。建築当初の敷地面積は、およそ2400ヘクタールで、皇居のおよそ20倍。森を切り開き作った道の全長は、およそ20km。樹木の数はおよそ20万本。大地に描いた水と緑の幾何学模様は、まるで自然をも自在に操っているかのよう。

 宮殿内、まずは向かって左手前の「アポロンの間」。ルイ14世の肖像がある。それに向き合っている絵は、「王妃マリー・アントワネットと子供たち」。次は「戦争の間」。天井には、ルイ14世が勝利した戦いの場面が描かれ、黄金の装飾でその偉業を称えている。
 次は「鏡の間」で宮殿のクライマックス。全長73m、天井まで12.5m。まばゆい巨大なギャラレーで太陽王の権力の象徴。庭側に大きな17の窓、それに対面するように並ぶ17の鏡。よく見れば、小さな鏡をつなぎあわせて、大きな鏡が構成されている。鏡の総数は567枚。庭からの日差しを鏡が受け、天井画を光らす。そこにはルイ14世の偉業の数々。その頭上には、ライバル国が擬人化して描かれている。シャンデリアの位置が異様に低くして、天井画を見やすくしている。2年前の修復で絵を調べなおしたところ、1670年頃ルイ14世に日本の将軍から贈られた甲冑が描かれているということがわかった。日本の兜をかぶっていて、横縞の鎧をつけている絵がある。
 「ベルサイユの壮大さを見ぬ者はまだ何も見ていない」と作家シャトーブリアンは書いている。

 1770年、ここにオーストリアからマリー・アントワネットが嫁いできた。14歳のマリー・アントワネットは当時ハプスブルグ家と敵対していたブルボン王朝に嫁いだ。ウィーンからパリまで馬車で23日かけてやってきた。マリー・アントワネットは1755年に生まれ、ダンスや音楽が好きな活発な少女だった。ルイ・オーギュストと結婚した時は、まだ幸せになれるのだと信じていた。しかし後のルイ16世は錠前作りが趣味という地味な男性。妻への愛も乏しく、なかなか子供にも恵まれなかった。母からは「子供を産むことが使命」だという手紙が送り続けられた。
 マリーの部屋は儀式的な部屋だった?せいか、毎朝、婦人たちが起こしに来た。スケジュールが詰まっていた。宮殿の暮らしに疲れ、逃げ込んだ場所は、寝室の隠し扉の向こうだった。金色の間は一人で過ごし、安らいだ部屋だった。肖像画も描かせた。画家の名はルブランで、斬新なファッションに包まれたアントワネットの姿を可愛らしく描き、そのファッションは婦人たちの間で流行した。しかしその影でオーストリアの贅沢でワガママな娘、などと噂された。しばらくして夜な夜な宮殿を抜け出し、仮面舞踏会やパーティ三昧にふけった。
 ベルサイユ宮殿近くのホテル「トリアノン・パラス」でアントワネットが愛したお菓子を再現してもらった。有名ホテルで修行したパティシエのエディ・ベンガネムさんは、マリー・アントワネットのお菓子を今も作っている。ホテルのエレーヌ・デュケさんと一緒にいただいた。「クグロフ」とメレンゲは彼女が大好きなお菓子だった。メレンゲは彼女が自分で作っていたという。「いちごのシャルロット」も18世紀に登場し、彼女が好んで食べたケーキだという。

 マリア・テレジアはコーヒーにリキュールを入れて飲むのが好きだったそうです。マリー・アントワネットはシャンパンが好きだったという。

 ベルサイユ宮殿から1km離れた敷地にアントワネットの館「プチトリアノン」がある。1774年、夫から贈られた。学芸員のピエール=グザヴィエ・ハンスさんが案内してくれました。
 最初の部屋は「王妃の寝室」で、実にシンプル。部屋にあるものは素朴なデザインのものが多い。マリー・アントワネットは小さな花柄が大好きだった。次は「動く鏡の間」で、鏡が上下に動く。窓にはチェーンがついている。通常は鏡を降ろしていて、人目を避けたい時は鏡を上げていたようです。
 庭にでて向かったのは、非公開の「王妃の劇場」は外見は質素だが、中は青、白、金で装飾されている。青っぽいイスと壁と美しい天井画の部屋。実は大理石も金箔もニセモノで、決して贅沢だったわけではない。小さいながらオーケストラピット(オケピ)もある。自ら舞台に立つのも趣味だったとか。2階席は天井に手が届きそうな感じ。さらに上に行くと、イスのない秘密の三階の部屋があった。

 ベルサイユの町のノートルダム広場では終末恒例のマルシェが開かれる。街の路地にあるアンティーク村に行くと、宮殿とこの街の結びつきがよくわかる。ルイ15世時代のイスや家具があり、職人も多く住んでいた。小さなアンティーク銀食器の店「ETMA」を見つけた。18世紀から19世紀初頭の銀製品が並ぶ。ドミニク・ドゥルベルグさんが説明してくれました。マリー・アントワネットはいろいろな人にプレゼントをするのが好きで、そういう際の指輪もありました。マリー・アントワネットは貧困にあえぐ国民のことは知らなかった。ただ、「退屈が怖かった」。

 「アモー」は王妃が作り上げた農村。「自然に帰れ」という哲学者ルソーの言葉が当時大流行していた。「文明を捨て、自然の恩恵を受けて生きていくことこそ、人間らしい生き方」。その思想を一つの村にしてしまった。彼女はここで農村の娘のように振る舞い、卵を集め、お菓子を作った。
 しかし、1789年宮殿に市民が押し寄せ、「国王をパリへ」と叫び、国王一家を幽閉した。
 「ランビネ美術館」はベルサイユの町の18世紀の記録を残す美術館。日本のカメラが初めて入った。ここに牢獄で描かれた最後の肖像画「タンプル塔のマリー・アントワネット」があった。38歳にして自慢の金髪は白く、喪服姿。筆のタッチが気になった。彼女は毅然とした態度で肖像画に臨んだ。「不幸にあって初めて人間は自分が何者であるかが分かります」という言葉を残し、1793年、断頭台に消えた。

●エルミタージュ
 母マリア・テレジアは娘の処刑の13年前にこの世を去っていた。ところがそのニュースに怖れ慄いたもう一人の女帝がいた。ロマノフ王朝最強の女帝と謳われた第8代皇帝エカテリーナ2世。マリー・アントワネットは処刑の1年前、エカテリーナ2世に1通の手紙を送っていた。自らの窮状を訴え、力を貸して欲しいという懇願だった。当時のロシアはヨーロッパ諸国に睨みをきかせるほど強力な権力を有していた。その権力の象徴がエルミタージュで、世界に類を見ない美の殿堂となっていた。

 モスクワから北西におよそ650km、ロシア第二の都市サンクト・ペテルスブルグ。北のベニスと称えられた美しい街は春先の今も川は凍りつき、白一色の世界。300万点を誇る美術コレクションの基礎は、エカテリーナ2世によって集められた。
 18世紀に皇帝の宮殿として造られ、最初に作られたのが「冬宮」で川から見て、一番右、その左に細長い「小エルミタージュ」、その左手前が「旧エルミタージュ」、その奥に「新エルミタージュ」、さらに左に「劇場」の5つの建物を総称し、現在「エルミタージュ美術館」と呼んでいる。
 白い柱に引き立つ黄色い彫刻。草花をモチーフにした門の装飾。見るものを圧倒させ、威厳を高めるバロックの手法です。最初に向かえてくれるのは、驚くほど手のこんだ階段「大使の階段」で、これを大使が登ってから皇帝と謁見していた。どっしりした花崗岩の円柱、濃いグレーが広い空間を引き締める。赤いビロードの壁に覆われた「ピョートル1世の間」。部屋の奥に大切に掲げられた肖像画の人物こそ初代ロシア皇帝ピョートル1世。
 サンクト・ペテルブルグの街は18世紀初頭にピョートル1世によって作られ、帝政ロシアの首都として発展した。冬宮が建設されたのは1762年。その最初の主となったのがエカテリア2世だった。彼女の指示により絢爛を極めた内装が施された。その先に息を呑む空間が待っていた。2階の「黄金の客間」は部屋全体が金箔に覆われている。ここは元は皇帝のプライベート・ルームだった。続いては「孔雀石の間」。鮮やかな緑色の柱はロシアのウラル山脈で取れる孔雀石を加工して作ったもの。薄くプレート状にした孔雀石をモザイクのように貼り合わせてある。

 「エルミタージュ宝物室」には、コレクションの中でも貴重なものが展示されている。エカテリア2世が特に力を入れて収集していたのが、「嗅ぎタバコ入れ」。ダイヤモンドを並べた高価な箱の表面には、彼女の好きだった「役に立つ」という言葉がかかれている。自分の肖像をあしらったタバコ入れには、ダイヤモンドとサファイヤが散りばめられている。貴族の必需品だったタバコ入れは、エカテリーナは日に3度持ち換えるほど好きだったという。

 1729年ドイツの北にあるシュテッティン Stettin という街で、後のロシア皇帝エカテリーナ2世となるソフィー・フレデリーゲ・アウグスタは生まれた。貧しい貴族の娘でしたが、何より書物を愛し、勉学を愛し、知識を身に付けていた。10歳の時、舞踏会で一人の少年と会った。後の皇太子ピョートル3世。14歳の時、ピョートル3世の花嫁候補となった。彼女はものすごく勉強した。母国語ではないロシア語の書物を何ページも暗誦できるほどになった。当時の皇帝に気に入られた少女は皇太子妃に選ばれた。改宗し、名前もエカテリーナ2世と改めた。しかし皇太子ピョートル3世は皇帝の器ではなかった。結婚して7年、全く妻の体に触れず、オモチャの兵隊遊びばかりしていた。「幸福を夢見てロシアに来たのではなく、政治を司るために来た」と気持ちを切り替えた。30歳の時、運命を変えるグリゴーリー・オルローフという近衛部隊員と恋に落ちた。1762年、オルローフは近衛隊員とクーデターを起こし、ピョートル3世を廃し、エカテリーナ2世を皇帝に押し上げた。

 冬宮の奥にあるのは、エルミタージュ「大玉座の間」。イスに座ることを許されたのは、ロシアを治めるただ一人の人物だけ。1762年第8代ロシア皇帝エカテリーナ2世即位。双頭の鷲はロマノフ家の紋章。エカテリーナ2世はロシア全土に号令を発した。「わが祖国ロシアをヨーロッパの列強へ」。外交政策は素早く大胆だった。70以上の戦争に勝利し、ポーランドから黒海まで国土を飛躍的に拡大した。
 彼女は戦争に並行して、すさまじい情熱を注いだのが「美術品の収集」だった。膨大な数の芸術品を買いあさった。当初は西欧にも誇れる美術コレクションを揃えることだった。その中には22枚にも及ぶレンブラント・コレクションがある。「キリストの降架」や最晩年の作品「放蕩息子の帰宅」もある。コレクションが進むにつれ、エカテリーナは絵画コレクションにのめりこんでいったという。2枚の作品のためだけの部屋もある。「レオナルド・ダ・ヴィンチの間」。26歳の作品「ブノワの聖母」で、イエスを大人のように描き、マリアを少女のように描いたという。しかも立体的に描いた革新作だった。もう1枚は30代の終わり頃に描いたとされる「リッタの聖母」。エカテリーナは10年で2600点も買ったという。スペースが必要となり、「小エルミタージュ」を作った。ここが最初にエルミタージュと呼ばれた。彼女は「小エルミタージュ」の南端に愛人の部屋を作った。北側は宴会場「パヴィリオンの間」だった。間をつなぐ廊下を絵画ギャラリーにした。彼女にも生涯を通じて数十人の愛人がいたという。ただ一人永遠の恋人という愛人は天才的軍人グリゴーリー・ポチョムキンだった。
 「パヴィリオンの間」は白と金で優雅に装飾された女帝のプライベート・ルームだった。床に施されたのはタイルによるモザイク。古代ローマの共同浴場跡で発見されたモザイクを再現した。天井も素晴らしい。ここにポチョムキンがエカテリーナに贈ったプレゼントがある。金属で作られた動物たち。部品保護のため、最近では動かしてないという装置を動かしてもらった。イギリス製の極めて精密な仕掛け時計だった。
 「ラファエロのロッジア」は細長い廊下のような場所で、金色の輝きに目を奪われる。細やかな彩色が施された。バチカンの宮殿にあるラファエロのギャラリーをそっくりに再現させた。芸術のためには、お金に一切糸目をつけなかった。女帝は愛人と絵画に囲まれていても孤独を感じていたという。

 サンクト・ペテルブルグの街を歩いてみた。レストラン「猟師の家」で、エカテリーナ2世も好きだったという伝統的なロシアのスープをいただいた。発酵キャベツと牛肉を煮込んだ「シチー」というスープ。

 市内から車でおよそ40分、「エルミタージュ修復保管センター」を訪れた。ここに日本のテレビ・カメラが入るのは初めて。300万点を越えるコレクションを保管し、修復や研究のために2003年に開館した。1日4組限定ではあるが、一般の人が館内を見学できる。エフゲニア・スースロヴァさんが案内してくれました。エカテリーナが最初に飾った作品もある。実際に使われてきた家具や装飾品も見ることができる。最後に驚くべき部屋が待っていた。ロマノフ王家がずっと使ってきた馬車が一同に会している。オルローフから贈られたイギリス製の馬車もある。車体にエカテリーナの肖像をわざわざ描かせている。王冠が載った金色の豪華な馬車がある。あらゆる場所に木彫りの彫刻が施され、金箔が貼られている。

 「小エルミタージュ」には当時はエカテリーナの部屋を通らないと入れなかった。そして入口には「エカテリーナ十か条」が書かれていた。第一条「全ての位を扉の外で脱ぎ去るべし」。第二条「傲慢さを全て扉のそばで捨て去るべし」。第七条「あくびをするべからず。また何人をも退屈させるへからず」。もしこれらに違反したら、コップ1杯の冷水を飲むこと。これはエカテリーナのユーモア。女帝はエルミタージュ会という夜会を開いて、親しい人と夜を過ごした。「パヴィリオンの間」などで。「エルミタージュ」はフランス語で「プライベートな」という意味。彼女は誰にも邪魔されず隠遁生活を楽しんだ。
 しかし宮廷内では、権力闘争が繰り返され、裏切り、ねたみが横行していた。女帝はロシアを思い、発展させたが、女帝は結局最後までロシア人を信頼できなかったとも言われている。エカテリーナはエルミタージュを歩きまわるだけで慰められるとも言っている。彼女は67歳で生涯を閉じたが、30年以上も大国の頂点であり続けた。それから120年後、ロシアにも革命の嵐が吹き荒れ、300年にも渡るロマノフ王朝の時代も終わりを告げた。女帝の作った美術館は世界有数の美術館となった。


テレビ番組「THE 世界遺産 地球を測る」

 2010年3月28日放送。世界遺産と聞いて思うものは、ピラミッドとか、万里の長城でしょうか?今回は小さな穴。

●地球を測る
 ノルウェーの北緯70度、ある記念碑が建てられた。世界遺産です。そこから南へ2820kmウクライナの黒海にも世界遺産の記念碑がある。スウェーデンでは岩に刻まれた奇妙な十字。フィンランドでは教会。いくつもの点を結んだのは、地図を作る時の測量器。19世紀、それで地球を測ろうとした男がいた。今回はその男が残したノルウェー北部からウクライナまで10カ国にまたがる世界遺産。
 地球を知ることは、はるか昔から人類の永遠のテーマだった。古代ギリシャの人たちは既にその形を知っていた。地球は丸い。その一方で、宇宙は地球を中心に回っている。その証しがプラハに残る天文時計。作られたのは15世紀末。太陽と月が地球の周りを巡り、時を刻んでいく。その常識が覆った。「地球が太陽の周りを回っている。」この仮説を実証したのは、近代科学の父ガリレオ・ガリレイでした。しかし地球の正確な形はわかっていない。

 エストニアのタリン。男の名はフリードリッヒ・シュトルーヴェ。1793年ドイツに生まれた。15歳の時、時のフランス皇帝ナポレオンから徴兵されそうになり、ドイツから逃げ出した。エストニアに暮らす兄の元に身を寄せ、物理、数学、天文学の学者を究める。若くして、タルトゥ天文台の所長になった。新しい星の発見などで成果を挙げたが、やがて興味は天文学会のテーマへと向かった。地球の形。地球は完全な球体ではなく、楕円ではないのか?それならどういう形か?ロンドンのウェストミンスター教会にアイザック・ニュートンが埋葬されている。17世紀、彼は地球の形について仮設を発表した。地球は赤道がわずかに膨らんだ楕円形である。
 シュトルーヴェは測量によりそれを確認しようとした。天文学者のテヌ・ヴィークさんが説明してくれました。子午線沿いの測量点の緯度と傾度を測ることで、地球の姿を描こうとした。当時の測量器を使った三角測量という技法が使われた。基準となる直線を決め、木枠に入ったモノサシを何本もつないで距離を測る。1kmにつき数mmの誤差しか許されないため、平らな場所が選ばれた。次にもう1点を決め、基線の両側から測量器を使う。2つの角度がわかれば距離が割り出せる。こうした三角形を楔のように連ねていく。一つ一つの点を測量点と呼ぶ。その測量点から天文観測を行なう。例えば北極星と地球の中心の角度から測量点の緯度がわかる。地上の測量と天文観測が必要だった。彼は測量の点を天文台の近くからスタートさせた。エストニアの測量だけで3年かかった。長い距離の測量が必要だとわかった。資金がかかるので、ロシア皇帝の援助が不可欠だった。

 野心的なロシア皇帝により、辺境の小さな街だったヘルシンキにもヘルシンキ大聖堂、大学、国会議事堂などが次々と建てられたいた。時の皇帝はアレキサンドル1世で、皇帝がシュトルーヴェを呼び出し、首都サンクト・ペテルブルグの近郊に天文台を作るように命じられた。立派な天文台を持つことは大国の条件、しかも正確な地図作りにも欠かせない。さらに時代が味方する。
 きっかけは、フランス皇帝ナポレオンの失脚だった。1814年、「会議は踊る、されど進まず」という名文句を生んだウィーン会議が開かれる。シェーンブルン宮殿にヨーロッパ中の権力者が集まった。ナポレオン失脚後の平和を維持するためだった。しかし会議はもめにもめ、平和が長く続かないことを誰もが予測した。アレクサンドル1世は国境線を決めなければと思った。それでシュトルーヴェに資金を与え地図を作るための測量を命じた。
 測量の範囲をさらに北に伸ばすには、スウェーデンの許可が必要で、国王に会って許可を得た。

 北を目指したシュトルーヴェはフィンランドの小さい島ムスタヴィーリ島にさしかかった。エストニアで測量を開始してから既に14年が過ぎようとしていた。フィンランド測量局?のペッカ・タティラさんが岩に開けられた小さな穴はシュトルーヴェが開けた穴で、世界遺産。測量は地道な作業だった。穴はこの上に測量点を置きなさいという目印。測量点として、櫓のようなものを建てることもあった。その先端が目標物となる。また、そこに測量器を置き、そこから次の目標物を測った。
 フィンランド北部のトルニオ。18世紀に建てられた小さな教会「アラトルニオ教会」も世界遺産に登録されている。塔の先端部分が目標物となった。高さ40m、見晴らしのいい塔が測量点として利用された。ここでの測量は1842年。スタートから27年目のことだった。
 そしてスウェーデンにさしかかった。小さな村ハバランダの森の中に十字の印がある。これも世界遺産。

 一方南に向かったのは、シュトルーヴェと親交のあったロシアの軍人。ついにドナウ川の河口のデルタ地帯に至った。北緯45度が南の果て。現在のウクライナのスタラクラウシカという黒海に面する小さな村。ここに南の果てを示す記念碑がある。シュトルーヴェの測量点は全部で250。そのうちの34箇所が2005年に世界遺産に登録された。

 北に向かったシュトルーヴェはどこまで行ったのか?ヨーロッパ最北端の岬ノール・カップ。ここは既に北極圏。測量が行なわれたのは、そこからやや南に下った小さな港町ハンメルフェスト。ここにも記念碑がある。彼にチャンスと資金を与えたアレクサンドル1世の名も刻まれている。ここが北の果て。
 一人の男の思いが、子午線沿いに2820kmを結んだ。その成果は2冊の本にまとめられた。彼は40年という歳月をかけてニュートンの仮説を実証した。こうして人類は地球の姿を解き明かしてきた。
 実は彼は日本にも影響を与えていた。国土地理院の村上真幸さんが説明してくれました。彼と同時代に生きたベッセルという人がシュトルーヴェのデータを使って、地球の正確な大きさと形を計算した。彼は1841年に結果を公表した。明治政府はヨーロッパの技術と共に、その理論も取り入れた。それはGPSが普及する2002年まで、日本のあらゆる地図の元になっていた。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ウラジオストク」

 2010年3月27日放送。

●ウラジオストク
 美人が多いことでも知られるロシア連邦東部の町。日本から一番近い海外の町とも言われる。人口60万人。極東のサンフランシスコとも呼ばれる。アジア貿易の拠点としてにぎわっている。日本から飛行機で1時間半。町並みはヨーロッパの感じ。
 この日はマイナス14度と寒い。棒を持ったおじさんがツララを落としていた。
 眺めがよいという高台から観ても白い平原が見えるだけ。近くに行くとおじさんたちが釣りをしている。ここは海の上だとか。凍っているために白くなっていた。キュウリウォなどを釣っていました。フライにするとおいしいそうです。
 大きく穴をあけている人がいる。水着の男性が走ってきて、飛び込んだ。仕事の昼休みに毎日ここに来て泳いでいるとか。寒中水泳クラブのメンバーは会員数300人以上で、定期的に大会も開かれている。ここに来てから病気になったことがないという人もいました。

 暖かいものでも食べよう。屋台がある。ロシア風の肉まん「ヒャンセー」は28ルーブル(約80円)は、中にキャベツとお肉。

 木造のレストラン「トリー・ボガティリャー」は、伝統料理がおいしくて、美人のマネージャーさんがいるという。クラシックダンスが趣味というコシュカリョーバ・エレーナさん(29歳)のオススメの料理は、とても暖まるロシア伝統の「つぼ焼き料理」だった。「カルショーチキ」420ルーブル(約1260円)という伝統料理で、仔牛の肉とジャガイモ、にんじん、カブなどの野菜をワインとともに炒め、容器に移し、サワークリームをのせ、パイでしっかり蓋をして暖炉で一時間ほど暖めたもの。

 美人の秘訣を街の人に聞いてみたら、ハチミツだという。人気の美容法もあるという。二人の女性について行ってみたらサウナでした。ロシアでは頭を暖めすぎないように、帽子をかぶる。じっと汗がでてくるのを待つ。汗がでてきたら、ナラの木の葉で身体を叩く。これで新陳代謝が盛んになる。次にハチミツを全身にまんべんなく塗る。ハチミツは保湿効果もある。ビールを焼けた石にかける。これでビールの細かい蒸気を浴びて、肌をシルクのようにきれいに保つ効果がある。ロシアの人は毎週こうしてサウナを楽しむとか。

 新婚さんの朝ごはん。身長180cmのカザンツェバ・ユーリア・ユーリエゴナ(25歳)が作るのは、1品目「ビーツのスープ(スヴェコーリニク)」。豚肉を一口大に切ったら、ビーツを刻む。ボルシチなどにも使われるビーツはビタミンC、食物繊維、鉄分が豊富。沸騰したお湯に豚肉を入れ、ハーブ塩で味付け。ビーツ、ジャガイモ、にんじんを入れ、柔らかくなるまで煮込む。最後にパセリを加え、器に盛ったら、サワークリームをかけて完成。
 2品目「カニサラダ」。お米をといだら、炊飯器で炊く。日本の炊飯器で炊くと美味しいというので、ウラジオストクでは置いてある家庭が多いとか。カニを刻み、キュウリ、ゆでたまごも刻む。それにお米、コーンと共に混ぜマヨネーズで味付け。
 3品目「チーズパンケーキ(スィルニキ)」。ハチミツと卵を容器に入れ混ぜる。ケフィアを入れる。ケフィアを入れると便秘にならないし、お肌の調子もよくなる。カッテージ・チーズをたっぷり入れ、干しぶどうも加えて、しっかり練るように混ぜる。小麦粉をまぶし形を整え、フライパンで揚げ焼きにする。


テレビ番組「世界の果てまでイッテQ! 床屋さんでおまかせ」

 2009年10月4日放送、2010年1月16日再放送。世界の床屋さんでおまかせで頼むとどうなるの?日本テレビ製作。

●エストニア
 アシスタント・プロデューサー(AP)の円城寺剛さん(32歳)。一番人気のお店「ピック40 PIKK40 」は美人美容師が多数在籍しているヘアサロン。「あなたに魔法をかけてあげます」で始まった。最初から切らずにカーラー?で巻いていく。そして一気にカット。オバQの小池さん、楳図かずお先生のようになりました。
http://www.pikk40.ee/main.php?lang=en


テレビ番組「世界遺産への招待状26 ロシア」

 2009年11月30日放送。クレムリン、ロシアの古都、ロシア正教の教会。NHK製作。

●クレムリン
 モスクワ川にのぞむ赤い壁。周囲2kmの城壁の中がクレムリン。帝政ロシアの時代、ソ連、ロシアと権力の中心。石畳が敷かれた広場が「赤の広場」。この広場には1917年の革命で誕生したソビエトの歴史が刻みこまれている。レーニンはここで演説を行なった。レーニンの死後、彼を記念して特別な建物「レーニン廟」が建てられた。現在も見学に訪れる人が絶えない。中には防腐処理をしたレーニンの遺体がある。
 もう一つ重要な役割を果たしていた。レーニンの後継者スターリンがレーニン廟の真中に立ってパレードを見て以来、最高権力者が真中に立つ慣例ができた。社会主義国家ソビエトの中枢部は厚いベールに覆われていたから、序列の判断として使われた。ブレジネフが死んだ後、チェルネンコが次の指導者と目されていたが、アンドロポフが葬儀の際には中央に立っていた。
 赤い見張り台の中はかつてのソビエトの頂点。バロック風に飾られたロシア連邦大統領府は、今でも政治の中心。警備員がいつも見張っていて、職員以外は近づけない。
 許可を得れば観光客でも中を見られる場所「クレムリン宮殿」に向かった。ソビエトの末期から新生ロシアへの時代を色濃く反映した場所。「グラノヴィータヤの間」は外国の要人を迎える晩餐会の場として使われている。壁と柱には美しいイコン、キリストや聖人の肖像が飾られている。この部屋で1988年5月30日、歴史的な晩餐会が開かれた。アメリカ大統領レーガンとソビエト書記長ゴルバチョフが首脳会談を開催した。翌年に行なわれる冷泉終結宣言に道筋をつけたという。晩餐会ではなごやかな雰囲気が流れた。金色の「ゲオルギーの間」は幅20m、長さ61mで、クレムリン宮殿一番の間。ピーチン大統領はここを歩き、新生ロシアを内外に宣伝する恰好の場となった。次の「アンドレエフスキーの間」も金色。床は10種類の材木で作った見事な寄木細工。部屋の奥には、帝政ロシア時代の皇帝の玉座がある。ここはかつては皇帝の謁見場だった。
 帝政ロシア時代を探ることができる遺物が「武器庫(博物館)」にある。館長のエレナ・ガガーリンさんが説明してくれた。ここはロシア最古の博物館で300年以上前にクレムリンに設置された。歴代ロシア皇帝の宝物庫でもあった。ロシア最初の皇帝「イワン雷帝」の王冠を見せてくれた。彼はモンゴル人の国を滅ぼし、ロシアを初めて統一した。王冠には、智恵を授けるエメラルド、王を反逆から守るサファイア、心臓を強くする赤いスピネルなどがついていた。しかしモンゴルを追放するのに最も強力だったのが、十字架だった。
 ロシアの領土を世界最大にしたのは、エカテリーナ2世だった。1762年6月28日に行われた戴冠式では豪華な王冠をかぶっている。王冠には5000個のダイヤモンドが疲れていて、その頂点には十字架を配した。ドレスには「双頭の鷲」の紋章が描かれていたが、これは東ローマ帝国の紋章だった。つまり東ローマ帝国の正統な継承者であること、正教の最大の擁護者であることを示していた。
 宮殿の隣の広場「サポールナヤ広場」には、6つの教会が聳えている。その教会群の中心が、ロシア正教の本部が置かれた「ウスペンスキー大聖堂」。歴代皇帝は全てここで戴冠式を行なった。イコンに覆われた壁と高い天井と柱。ロシアの大聖堂の中で最も美しいとされている。銀のシャンデリアは19世紀にナポレオンを打ち破った時に作られた。大聖堂の正面に祭られていたのが、聖母マリアとキリストを描いたイコンで、ロシアの守り神とされる奇跡のイコン「ウラジーミルの聖母」である。人々がこのイコンに祈ったので、モンゴル軍の侵略をモスクワは3度しのいだという。その前のイス?で、正教の最高指導者である総主教が新しい皇帝に神の祝福を与えた。帝政ロシア最後の皇帝「ニコライ2世」の最後の戴冠式(1896年6月26日)の様子を描いた絵もある。
 当時、教会が中心となって共同体「オプシーナ」が維持されていた。しかし1917年に起こった革命が全てを変えた。ソビエト政府が誕生し、宗教は禁じられ、ロシア正教への弾圧が始まった。国内の8割にも及ぶ教会が破壊された。特に鐘が徹底して壊された。さらに破壊を免れた施設にも悲劇が及んだ。世界遺産「ソロヴェツキー修道院」では、酷寒の地に建てられたこの修道院は、強制収容所として使われた。ここに収容されたロシア正教の聖職者たちが次々に処刑された。クレムリンの「ウスペンスキー大聖堂」は博物館に転用された。

●スーズダリ
 モスクワから200km離れた古の都。宗教が暮らしと深く結びついていた町を訪ねた。文化遺産「ウラジーミルとスーズダリの白い建造物群」がある。ここでも鐘はつぶされた。そのうちの一つ「ボリスとグレープ教会」は、12世紀白い石で組み建てられた。現存するロシアの最も古い石造建築。ソビエト時代に壁のフレスコ画はほとんどはげ落ちてしまった。近くに住むナタリア・レパヒナさん(91歳)はこっそりと自宅でイコンを拝んでいたという。
 1991年12月25日、ソビエトが崩壊し、新生ロシアが誕生した。新たな政府は民主化を推し進め、宗教の自由を宣言した。これでロシア正教も復活した。しかし、人々は大混乱に陥った。物価は高騰し、生活必需品が手に入らなくなった。
 教会にガスボンベを吊して、叩いて鐘の代わりにした。2007年、教会に鐘が戻った。現在鐘突きを担当しているのは、司祭のアンドレイ・オセトロフさんの息子ピョートル君。この町では鐘が復活してから、教会に集まる人は増えてきているという。

●セルギエフ・ポサード
 文化遺産「セルギエフ大修道院」は、ロシア正教の聖地。ここは博物館として利用されたので、建物は残されていた。しかし鐘は破壊された。5年前に75トンもある鐘が復活した。鳴らすことができる鐘としては世界最大。
 2009年10月7日は聖セルギエフの聖誕祭の前日だった。アントーニー・イワノフ司祭は、数万人の寄進で造られたという。聖セルギエフはここに修道院を設立し、森林に住むクマに残り少ないパンを与え清貧の中で生きた。これが今のロシアの人々の心を掴むのだという。
 修道院に巡礼に来た人が身体を清める場所がある。「聖セルギエフの泉」は彼が祈りを捧げたところ、岩の間から泉が湧いたという。気温は7度ですが、巡礼者は冷たい水に飛び込んでいく。この泉にはロシアという国を回復っせる力があると、碑文に書いてある。
 10月8日、聖誕祭。ロシア正教のキリル総主教が儀式を司る。ロシア正教は現在国民の7割の信仰を集めている。

●クレムリン
 2009年5月7日、メドヴェージェフ大統領の就任式で、祝福を与えていたのは、当時のロシア正教のアレクシー総主教。
 ウスペンスキー大聖堂で大きな変化が起こっていた。ここはソビエト崩壊後も博物館のままだった。しかしこの日、信者がつめかけ礼拝が行なわれた。


テレビ番組「世界遺産への招待状23 リトアニア」

 2009年10月26日放送。ロシアの西に位置するバルト3国。その中で一番西にあるのが、リトアニア。面積は北海道の3分の2。人口は350万人。十字架の丘に花嫁さんが来て十字架を立てた。これは無形文化遺産。黄金色に輝く聖母マリアのいるヴィリニュス歴史地区。リトアニアは小さな国だが、大国に支配された歴史の中で、人々は民族の独立を求めて祈り続けた。そして今自由の喜びを分かちあっている。

●ビリニュス
 首都ビリニュスは町全体が世界遺産。西ヨーロッパとロシアとを結ぶ交易地として栄えた。16世紀から18世紀の建築物が建ち並んでいる。この国は19年前、旧ソビエト連邦から独立した。
 屋台で売っているのは琥珀のネックレス。バルト海3国は琥珀の生産地で、ここでは安く手に入れられる。

 観光客がしきりに写真を撮っているのは、「夜明けの門」。ここはかつての城壁の門で、2階にも人が集まっている。金色の聖母マリア像。道にひざまずき祈る人も多い。通りすぎて向き直り祈る人も多い。リトアニアで一番の信仰を集めている聖母像だという。こぶりだけど、立派な礼拝堂。その壁に聖母の絵が飾られている。金色の衣に包まれた聖母マリア。聖母に祈ったおかげで病気が治ったという人が続出し、奇跡の力があると信じられてきた。その信仰は今も変わらない。連日まわりの国からも大勢この礼拝堂にやって来る。絵の周りの壁も光っている。金と銀の飾りで埋められている。病気が治った人が、手や足の形を奉納しているらしい。圧倒的に多いのがハートの形。心の悩みや苦しみが解けたという意味。絵は17世紀からこの門に飾られていた。その当時は違った姿をしていたという。かつての絵を複製したものがあるが、全く違う。着ているのは濃紺の衣だった。奇跡を起こすのにふさわしいというので、絵の上から金細工が施された。夜明けの門礼拝堂のアンダルタス・トリアタス司祭は最大の奇跡は「不幸や失望にうちひしがれる人々が、この絵に祈ると希望をもつようになる。あきらめないという勇気を持つこと。」と語る。

 歴史地区には数々の聖堂や大聖堂が建ち並ぶ。中世後期から近世にかけての様々な建築様式がまとめて見られる。聖アンナ聖堂はゴシック様式で、ナポレオンが赤レンガ造りの美しい姿を見て、わが手に納めてフランスに持ち帰りたいと言ったという。「大聖堂」はギリシャ神殿のように見える。18世紀後半に古い芸術を見直そうという新古典主義の考え方で古代ギリシャ風に作られた。「聖ペテロ・パウロ聖堂」は豪華絢爛。内部は2000以上の聖人や天使たちの彫刻で埋め尽くされている。バロック建築の粋を集めた建築。エドワルダス・リージカス大司教が説明してくれました。彫刻には街の貴族がモデルになっているが、彼が聖堂を建てた17世紀半ばはリトアニアにとって極めて刺激的なものだった。ビリニュスの町はロシア帝国に襲撃され焼き尽くされた。罪のない数万人の人が亡くなった。この貴族は「周りの国から攻められず、人々が平和に暮らせるように」という願いを込めた。平和を祈った聖堂だった。その象徴が外壁に描かれた彫刻。マリアが踏んでいるものは大砲だった。リトアニアは400年以上、隣接するロシア、ポーランド、ドイツなどに支配され続けた。その歴史から厚い信仰が芽生えた。

●十字架の丘
 ビリニュスから車で3時間。ラトヴィアとの国境近くに人々の信仰の深さを象徴するものがある。ここには百万本を軽く越えるほどの十字架がある。1m以上の十字架だけで26万本。隙間なく立っている。大きな十字架に小さな十字架がビッシリついているので、数え切れない。中には石を並べただけの十字架もある。
 結婚式を挙げたばかりの人たちが来た。新郎新婦は十字架を立てた。結婚したらみんな真っ先にここに来るのだという。この日は週末で、結婚式を挙げたカップルが続々とやって来た。新婚だけではなく、洗礼式を終えたばかりの女の子も十字架を持ってきた。日本でいえば神社の絵馬みたいなものか。
 この丘に十字架が建つようになったのは19世紀の頃。ここでロシア帝国により犠牲になった人々の慰霊のためだった。ロシア時代は反政府的とされ、十字架は全て撤去されたが、何度撤去されても人々は十字架をかけた。この丘は支配者への抵抗と民族自立のシンボルだった。
 十字架には様々な装飾が施されている。その飾りにどういう意味があるのか?十字架造りの職人アレクサス・ステポナヴィチュスさんに話を聞いた。波のようにうねる形は「ヘビ」をかたどっている。毒のないヘビは昔から尊いとされている。両側に1匹ずつ、番のヘビ。最も重要な飾りは十字が重なる部分。太陽を表わしていて、木のように地面に根をはり、まっすぐに伸びるので、太陽がある。昔から受け継がれてきた自然崇拝からきている。

 この日大司教が十字架を清める儀式をした。リトアニア国歌を歌う参列者たちはシベリアから引き揚げてきた人たち。ロシアに併合されていた時に、多くの人々がシベリアに強制移住させられた。そのシベリアで亡くなった人たちを追悼するために十字架を建てた。シベリアへの強制移住はスターリンの時代、65年前から行なわれた。リトアニア人だけでも25万人以上を越えた。その3分の1が亡くなった。ソビエト解体の2年前、シベリアで亡くなった人の遺体はリトアニアに戻ってきた。凍っていた遺体は若い姿のままだったが、妻たちは年老いていた。母国に戻れた遺体はごくわずか。ほとんどがシベリア各地に今も眠ったままだという。
 シベリアでの悲惨な生活を物語るものがある。引き揚げてきたヨーナス・マルカウスカスさんに案内してもらった。シベリアで住んだ家を復元したものだった。厳しい寒さをしのごうと、ありあわせの木で骨組を作り、泥を塗って建てた家だった。窓は氷でできていた。光を通し、寒さをしのぐに丁度よかった。部屋の中は火を焚いても零下2度までしか上がらなかったという。このような家で20人から40人が暮らした。シベリア送りにされた理由は両親が教師だったため。当時の教師は愛国的な人が多かったが、ソビエトに逆らうようなことは何もしていなかった。その可能性があるという理由だけで送られた。子供たちまでも一緒に送られて犠牲になった。

●ケルナヴェ遺跡
 丘陵が連なるこの地はリトアニアの国歌発祥の地。13世紀から14世紀にはこの地に街があり、リトアニア大公国の最初の首都となった。丘の上には木造の城が築かれていた。夏になると、ここでは中世を再現する祭りが開かれる。当時の生活を体験することで、自分たちがバルト民族であることを実感するもの。バルト民族を象徴するアクセサリーの模様もある。卍のようなマークは自然崇拝のもので、太陽を表わす。それと同じ場所から出土したのは十字架。太陽と十字架が融合してリトアニアの十字架ができた。

●ビリニュス
 ソビエト時代を記録する場所もある。「KGB博物館(虐殺犠牲者博物館)」は元々裁判所だったが、1940年からソビエト連邦のKGBが使っていた。この地下に政治犯を収容する監獄があったという。ガイドのリチャルダス・バドワイスカスさんが説明してくれた。捕えられた人の多くはパルチザンで、ソビエトに抵抗し地下活動をした人々だった。彼らの多くはまだ20代の若者だった。幻覚症状を起こさせて自白させる「水の拷問部屋」も残っている。光や音が完全に遮断された「防音独房」では、数時間閉じ込められると正常な精神状態ではなくなるという。自分が生きながら葬られたと感じるようです。牢屋の並ぶ一番奥に殺されたパルチザンの写真がパネルになっている。KGBはその遺体を街の広場や通りに投げた。遺体のもとには家族や仲間たちがやって来る。KGBはその人たちを捕まえた。ソビエト時代に行なわれたことはゆがめることなく、伝えていきたいとリチャルダスさんは語った。
 博物館の脇には十字架が建っていた。これは無残な殺され方をした仲間たちへの鎮魂の十字架だった。大国の圧制の下で苦しんだ50年間、人々はまだ希望を捨てなかった。

 「ゲディミナスの塔」はリトアニアがまだ独立国家だった中世に建てられた城の跡。世界遺産のこの塔がソビエトから独立するための出発点となった。1989年8月23日、塔の上にも大聖堂にも多くの人たちが集まった。ソビエトからの独立を求めてバルト3国の人たちは、全く新しいデモンストレーションを考えた。それは3つの国を貫く「人間の道」を作るという計画だった。人々が互いに手をつなぎあうことで、「人間の鎖(バルトの鎖)」となった。その距離は600km以上で、200万人が参加した。リトアニアだけでも100万人が参加した。暴力を伴わない静かで、しかし力強いアピールだった。これがきっかけとなり、バルト3国はソビエトからの独立を果たした。
 この国の歴史を変えた一人、「人間の鎖」の企画実行者アンゴニタ・ルプシープさんが説明してくれました。この鎖は「ゲディミナスの塔」から始まった。そこの石にそれを示すマークがある。この塔の下から若者たちが手を取り合って、鎖が始まった。自分たちの未来は自分たちの手の中にあると気付いた。大聖堂の前にも多くの人がいた。19時丁度に一斉に手をつなぐことになっていた。向かいのビルの2階にアンゴニタさんたちの事務所があった。アンゴニタさんは各地からの電話対応に追われ、鎖の中に入ることができなかったという。
 各地の道路脇には十字架が立っている。「人間の鎖」に参加した人々が記念に建てたものだった。数km毎に十字架がある。
 8月23日、「人間の鎖」20年目の記念日。みんなが次々とやって来た。民族衣装と民族音楽でみんな踊りだした。最後に積んだ木を燃やした。突然ここにリトアニアの大統領がやってきた。彼女の20年前に「人間の鎖」に参加していた。また鎖を再現し、次の世代に受け継がれていく。
 そしてこの「人間の鎖」はユネスコの「世界記憶遺産」に2009年7月に登録された。


テレビ番組「ピン子と壽賀子の北極ふたり旅」

 2009年7月25日放送。橋田壽賀子、泉ピン子さんが旅した。2003年は北欧(ノルウェー、デンマーク、スコットランド)、2005年はカナダとニューヨーク、2007年東欧(トルコ、クロアチア、バルセロナ)。今回は北極点。TBS製作。

●ヘルシンキ
 フランクフルトから到着。6年ぶりの市場は懐かしい。

●ロシアのムルマンスク港
 北極圏に位置する世界で最大の都市。夜11時でも明るい。船はクォーク・エクスペディション社の「50 years of victory 」号で世界最大・最新・最強の破氷船。本来撮影禁止の軍港だが、「おしん」の作家が!と言ったら特別に許可が出た。ロシアでも有名らしい。
http://www.quarkexpeditions.com/japanese

●クルーズ
 まず船からプレゼントはごつい防寒ジャケットのパルカ?。2日目にスタッフと乗客みんな揃っての自己紹介。1週間の共同生活。ピン子さんは台湾の人にもてていた。「おしん」のママだったかららしい。
 緊急時の避難方法の説明。緊急避難ボート「ゾディアック」に乗る避難訓練もした。また毎日講義が行なわれる。同時通訳もあります。この日は北極点への到達の歴史でした。翌日は北極圏の鳥。実は今回のツアーが一般客を乗せて走る処女航海でした。
 この船は実は戦後50年を記念して建造されたのだが、経済状況などの悪化で、12年後の2007年に完成。原子力による7.5万馬力。
 砕氷船はプロペラで一度氷の上に乗り上げ、船の重みで氷を押しつぶして進む。

 3日目、エンジン・ルームなどを見学。夜はサロンがディスコに変身。かつての旅では、バルト海クルーズでは「コスタ・ロマンチカ号」、大西洋では「セブンシーズ・ナビゲーター号」、黒海では「飛鳥II」。
 船長のバレンティン・タベティアンツさんと話をした。その時、流氷が見えてきたという放送があった。流氷にはいくつかの種類がある。大陸や川の氷が海に落ちたもの、海水が凍ってできるもの。北極の氷は長い年月をかけてできたもので、その厚さは3m。

 4日目、風が強い朝。朝6時半に北緯82度だった。とても寒く、流氷の量がかなりになった。波はやたら静か。船は氷を砕きながら進む。船の先端からまっすぐに氷に亀裂が走る。この時、船の中では震度3〜5程度の縦揺れが続く。
 ここでピン子さんは矢沢永吉のトラベリング・バス?を歌って踊りました。船内に戻り朝9時半から北極グマについての講義に参加。氷は厚すぎても薄すぎても到達はかなわないらしい。お昼前に北緯83度。残り770km。
 北極グマがいた。氷の割れ目にいるアザラシを狙うらしい。1匹食べると11日もつそうです。
 今回の料理はオーストリア出身のシェフが腕をふるったもの。この船には日本人としては、阿部さん、工藤さんという人が乗っていました。
 北極点まで220km。3m級の氷を砕きながら船は進む。緑のヒゲをつけたネプチューンに扮した人から、氷を砕くためのコルク・スクリューみたいなものを受け取った。北極点に上陸許可は、鼻に赤いしるしを付けられた人。

 5日目、いよいよ近づいた。かつては直前で断念したこともあった。北緯89度58分。夜10時頃?全くの白夜の中、乗客に召集がかかった。船に乗ったまま90度になりました。みんなシャンパンで乾杯。
 6日目、短い休息の後に氷の上へ。パーティ会場の設定がしてあった。朝9時、お客が船から氷に下りてきた。気温は1度、風はない。北緯90度の赤い旗があった。北極点に立っているのが不思議な気がすると語っていました。少女時代からの夢がかないました。旗を囲んで輪になった。それからその輪に沿って、世界一周(笑)
 このツアー名物の北極点水泳をした人がいました。ピン子さんはスピード社の水着を着て飛び込みました。上がってすぐにウォッカを飲む。海の中は針で刺されているように痛かったそうです。特に上がる瞬間が寒いとか。番組のスタッフたちも飛び込みました。
 次はバーベキュー大会。パンにサラダ、お肉、スープ。前回までのツアーでは、ロブスターが出たそうです。橋田先生はここの氷で「氷あずき」を作って、ピン子さんたちにプレゼント。とても美味しいそうです。
 太陽がでた。北極で太陽がでるのはとても珍しいそうです。さらに、水たまりの中を歩いた。この水たまりが水色。
 ここからヘリコプターに乗って、空から見学。

 7日目、南下する。長年北極点を見てきたBBCのプラネット・アース製作カメラマンのダグ・アランさんは、気候は変わってきていると語った。
 8日目、ヘリで空中散歩。
 9日目、ヘリで空中散歩。フランツ・ヨーゼフ・ランド巡り。191の島からなる火山群島で、その大部分が人類未踏。1873年、オーストリアとハンガリーのチームにより発見された。その中のジャクソン島のミル岬に降りる。年間を通して溶けることの無い永久凍土の島。島での滞在は1時間。海藻みたいな苔が生えていました。
 次の島に行く間、北極グマがアザラシを待ち伏せしているのに出会った。
 フッカー島では切り立った崖に海鳥が巣をつくり子育てをしている。出迎えてくれたのはセイウチ。
 島の反対側には、ソ連が作った島の観測基地がある。今は野鳥の住みか。
 ノースブルーク島フローラ岬には、黄色い花などが咲いていました。ここで海鳥が多く繁殖している。
 北極グマがいました。ピン子さんは人間のエゴによる地球温暖化から孤独になったと思う北極グマに涙。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ラトビア共和国のリーガ」

 2009年2月21日放送。

●リーガ Riga
 アムステルダム経由で14時間半の旅。冬はマイナス20度まで下がる。人口72万人の都市で、バルト3国細大の都市。13世紀末に貿易の集計地として発展した。当時の面影を残す建物が今も建ち並び、「バルト海の真珠」と称えられる。
 リーガ中央市場に行く。パン屋さんには黒いパンが並ぶ。黒パンはラトビアの食卓に欠かせないそうです。酸味があって歯ごたえがあり、ビタミン、ミネラルが豊富。チーズも種類が豊富。その横においてあった黒いものは「カネビュ・スビィヤス」というバターで、麻の実が練りこんであり、ビタミンが豊富。1個1.5ラッツ(260円)。
 カリュキュ通りを歩く。お土産屋さんに入る。琥珀の製品が多い。伝統の「7日間の指輪」がお土産にいいという。これは幸運のお守りで、7つの神様の模様が描かれている。昔は結婚前の女性はこれをつける習慣があった。1個18ラッツ(3000円)〜。
 プラーガス通り。美人が多い。空気が乾燥しているからスキンケアに気を遣う女性が多いとか。お肌にいいという商品を売っている「ステンダース Stenders 」というお店に行く。天然素材を使ったカラフルな手作り石鹸で、保湿力が高い。米ぬかオイル、フルーツ、ハーブを加えて作られた石鹸で70種類以上ある。好みの香りの石鹸を好きな量だけ量り売りする。店員さんのお勧めは赤い「ヘチマ石鹸」。石鹸の中にヘチマのスポンジが入っている。

 アンリイス・ホウオイシスキスさん(23歳)が紹介してくれたのは、「リド・レクリエーション・センター LIDO atputas centrs 」で、食べたい料理を選んで、お皿に盛ってもらうスタイル。お勧めはデザートの「マイゼスズパ」で、黒パンで作られている。お湯でふやかした黒パンに、りんご、クランベリー、レーズンなどを加え、煮込んだ料理。1個1.1ラッツ(190円)。
 もう一つのお勧めの場所は、郊外の「スィグルダ Sigulda 」。「Bosch」と書かれた大きなビルがあって、その横に通路がある。ボブスレーのコースでした。ラトビアはウインター・スポーツが盛んで、オリンピックのボブスレーで金メダルを取ったこともある。山の斜面を利用した全長1420mのコース。特別な装置で普通の人も滑ることができる。うつ伏せの状態で滑るスケルトン・タイプのものもある。1回7ラッツ(1200円)。

 新婚さんの朝ごはん。街の中心部のマンションに住むクリスティーナ・キトヴアさん(27歳)が作るのは、1品目は伝統的な豆料理「ペレーキェ・ズィルニ・アルスペキ Polokjo zirni arspeki 」。ペレーキェ・ズィルニという豆を柔らかくなるまで茹でておく。その間にたまねぎ、ベーコンを細かく切り、フライパンでたまねぎが飴色になるまでしっかり炒める。茹であがった豆をザルにあけて、水気を切り、深めの器に盛り付ける。そこに先ほど炒めたベーコンとたまねぎをのせる。
 2品目デザート「デベスマンナ Debesmanna 」。クランベリーを鍋に入れ、少量の水を入れて一煮立ち。それを丁寧につぶしてクランベリー・ジュースにする。たっぷりの砂糖を加えて、とろみが出るまで煮て、寒い窓の外に置いて冷ましておく。部屋に戻し、ハンドミキサーで充分に泡だてたら、器に牛乳を入れ、そこに流し入れる。
 3品目「チーズのスープ Sjora zupa 」。スープを作る。お湯にブイヨンを入れ、ミックス・ベジタブルをその中に入れる。炒めたハムと細かいパスタを加え、クリームチーズと生クリームを加え、塩胡椒で味付けする。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ウクライナのオデッサ」

 2008年11月15日放送。イスタンブール経由で14時間。

●オデッサ
 東欧の中でも温暖な気候で、黒海の真珠といわれる。中世から貿易都市として発達した。20世紀初めには、ヨーロッパ貴族の避暑地として発達したことから、アール・デコ調の建物が並ぶ美しい街並みが広がる。一年中晴れの日が多く、日なたぼっこする人も多い。
 ベンチに人の像があり、記念撮影する人が多い。この人はレアニド・ウチョゾフさんで、旧ソビエト連邦時代に活躍した国民的歌手で今でも人気。
 海の傍の広場ボロンツォフ・パラスに行く。この場所にある橋の欄干には南京錠がずらりとかけられていて、恋人たちがつけていく。数年前にあるカップルがこの橋に錠前をつけたのがきっかけで、若者にこの習慣が大流行した。近年は結婚するカップルなどのためにオーダーメイドで錠前をデザインすることも始めたとか。
 街中のボロンツォフ広場。お土産を売っている店がある。港町なので、船や海をモチーフにしたものが多い。肩叩きみたなのにトゲがついているものがある。これはプラバという昔の武器で、ウクライナのシンボルにもなっている。これはコサック民族の首長が持っていた権力の象徴。動物の骨などで作られている。
 デリバスィフスカ通りに一際目立つきれいな建物がある。内部はアール・デコ調の芸術品。ホテル・パッサージュは歴史と伝統のあるホテル。19世紀に建てられたオデッサの老舗ホテル。内部は作られた当時のまま。木でできたエレベータもあるが、最大3人までしか乗れない。内部は改装しているが、床はそのままのものが多い。ダブルベッドの部屋は寒色系、ツインは暖色系となっている。ラグジュアリー・ルームは1泊558グリヴニャ(9500円)。
 アンドレイ・イシュクさんがイケメンがいっぱいいると紹介してくれたのは、「国立オデッサ海事大学」。名門大学で、学生は将来の航海士や船長になることを夢みて日夜勉学に励んでいます。オデッサの女性はここの大学の学生と付き合うことが、一種のステータスなんだとか。

 新婚さんの朝ごはん。アパートに住むアンナ・サカロヴァさん(26歳)が作る1品目「ボルシチ」。牛の骨付きリブ肉をまるごと水を流しながら洗い、鍋に入れ、水を注いでから強火にかける。あくを取る。切ったたまねぎとニンジンをフライパンでさっと炒め、油がまわったところで、肉を煮込んでいる鍋に入れる。切ったじゃがいもも入れる。赤いビートを短冊状に切り、フライパンで炒め、トマト・ピューレと水を加えてしばらく煮込み、お鍋に入れる。千切りにしたキャベツもどっさり入れる。仕上げにローリエなどのハーブを加えて香りつけすれば完成。
 2品目「カーシャ(ウクライナ版ミルク粥)」。カーシャと呼ばれるオーツ麦のシリアルを鍋にあけ、新鮮な牛乳をたっぷりと注ぎ入れ、焦がさないように気をつけながら弱火で煮る。とろみがでてきたら、たっぷりのバターを加える。最後に砂糖で味つけ。
 3品目「オリビエ」。ゆで卵の皮をむき、小さく切り、ピクルスを小さく刻み混ぜる。水煮のグリーンピースを入れ、サイコロ状に切ったハム、切ったジャガイモを入れ、塩胡椒してからたっぷりのマヨネーズを加え、丁寧によくかきまぜてサラダの完成。マヨネーズと具のバランスが意外と難しいそうです。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ポーランドのグダンスク」

 2008年11月1日放送。

●グダンスク Gdansk
 ポーランド北部のバルト海に面した町。古くから交通の要として栄えた港湾都市。第二次世界大戦で市街地の90%を失ったが、住民の熱意と努力で美しい街並みが復興した。
 中心地は旧市街のドゥーガ。人だかりがあって、みんなが見上げているのは、人形。19世紀に書かれた「窓の少女」という小説をモチーフにした人形で、この家に幽閉されていた少女が外を通る海軍兵に恋をするというロマンス。
 今年の「ミス窓の少女」は同じ服装をしているルチナ・マルシャウコフスカさん(23歳)。人形のそばまで連れて行ってくれました。人形は1日3回自動的に動いて登場するそうです。1回およそ2分間、首をかしげたり、目を閉じたりするパフォーマンスをします。
 屋台に人だかりがある。ポーランドの伝統的な飴を売っていました。作っている「チュチュ CiuCiu 」というお店にお邪魔した。大きな飴を何層にも重ねて作っていく。このお店では50種類の味を組み合わせて作っている。
 モトゥワヴァ川の運河に行ってみた。帆船は遊覧船で河口付近まで行くことができる。河口には大きな船が並ぶ。この町の造船所は世界的にも有名だそうです。1980年代のポーランド民主化の波はこの造船所から始まり、国中に広がった。
 プシェメック・クライボルさん(23歳)が紹介してくれたのは、スイーツの店「グリーンウェイ Greenway 」。「スイーツライフ」6.5ズウォティ(200円)は、チョコレート・パフェに見えるが、実はボウルに炊いた玄米を入れ、ヨーグルトをかけ、ブルーベリーやチェリーなどのフルーツをトッピングし、最後にチョコレートをかけたもの。ポーランドの人はみんな大好きという。

●ソポト Sopot
 グダンスクの北西にある町。ゆがんで見えるビルがある。5年くらい前にできたショッピング・センター「グシヴィ・ドメック Krzywy Domek 」。この町はアートの町と呼ばれているので、何か面白い物を作りたいというのでできたそうです。窓など全て特別注文で、建築費は数倍かかったそうです。

●ミコシェボ Mikoszawo
 バルト海の海岸。浜辺で網で黄色い石を拾っている。これは琥珀で、このあたりは2000年以上も前から世界のシェア8割を誇る琥珀の名産地。良質のものが今でもたくさん採れる。

●グダンスク
 マリアツガ通り UI.Mariacka にはほとんどのお店が琥珀を使ったアクセサリーなどを売っている。琥珀は磨き方が一番大切で難しいそうです。採ってきたばかりのものはゴツゴツだけど、熟練の職人が丁寧に磨きあげると美しく変身する。

 新婚さんの朝ごはん。アパートに住むアンナ・ニエジビエツカさん(24歳)が作るのは、1品目「ロールキャベツ Ootabki?」。牛のミンチ肉をボウルにあけてほぐし、たまねぎのみじん切りを加え、塩胡椒で味付けし、手でこねる。温めたご飯を加えて混ぜる。大きなキャベツの葉をテーブル一面に並べ、さきほどの具をキャベツの上にのせて包むように巻く。耐熱性のボウルに入れ、30分焦げ目がつくまで焼く。一度取り出し、トマトソースと湯を加える。さらにオーブンの中に入れて煮込む。
 2品目「ジューレック Zurek」。ニンジンやブーケガルニを鍋に入れ、茹でていく。これにソーセージも入れてさらに茹でる。ゆであがったソーセージや野菜を別々のお皿に盛る。ライ麦を発酵させた「ジュル」を器にあけて小麦粉を入れ、よくかき混ぜ、さきほどのスープに少しずつ溶きながら加える。茹でたソーセージは小さく切って鍋の中にもどし、マイラネックというハーブをたっぷり加える。しばらく煮込んでスープの完成。
 3品目「グダンスク風サラダ」。レタスを細かく切り、ボウルにあける。パプリカも小さく切り分け、トマトも切りボウルにあける。オリーブオイルとミックス・ハーブで作ったドレッシングを加え、混ぜあわせて、一人前ずつ取り分け、サバの身を薫製にしたものを手でほぐしてサラダにトッピングする。
 4品目「ポーランド・インゲン Polska Zolta Fasolka ?」。黄色いポーランド・インゲンの端を一つずつ丁寧にカットし、鍋に入れてぱっと塩を入れ、湯を入れてさっと塩ゆでにする。その間にソースを作る。フライパンにバターを溶かし、パン粉を入れて、弱火で炒める。ゆであがったインゲンにソースをかけて完成。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン リトアニアのビリニュス」

 2008年11月1日放送。

●リトアニア
 旧市街が世界遺産。リトアニアは旧ソビエト連邦に所属していたバルト3国の一つ。11月の平均気温はおよそ0度。聖アンナ教会はナポレオンがフランスに持って帰りたいと言った教会。名産品は琥珀。
 日本とのかかわりでは、日本のシンドラーこと杉原千畝さんが、第二次世界大戦中、日本領事代理として約6000人のユダヤ人に対してビザを発行し、ナチスの迫害から救った話がある。
 ビリニュス郊外には湖に浮かぶトゥラカイ城がある。美しい風景です。

●ビリニュス
 市内の住宅地に住むインテリア・コーディネーターのインドラヤ・マルツィンケヴィンチェスさん(39歳)のお宅を訪問した。ご主人のヴィルマンタスさんは有名な画家で、家の中にアトリエがある。三姉妹のいる5人家族で、4LDK+アトリエ250平方mに住む。
 ヨーロッパ・パークという公園に行く。園内にはオブジェが並ぶ。1989年にリトアニアがヨーロッパの中心であると認定されたのを記念して、この公園は作られた。
 お菓子屋さん「Ruta」は1913年創業?角がたくさんついているように見える、バウムクーヘンに似た「サコティス」は1500円。回しながら焼くので、生地が垂れて角のようになるそうです。伝統的なお菓子で、結婚式などお祝い事にはなくてはならないもの。幸せを呼ぶお菓子とも言われる。
 中世ヨーロッパの建築様式が残っていて、バロック様式やゴチック様式の建物が数多くある。大聖堂など。

 市内から車で30分の森の中でキノコ狩りをする。バレリカスという高級キノコなどが獲れました。シーズンは8〜10月。キノコは根元を残しておきました。
 古くから町にあるというお店で買っていたのはハチミツ。コーヒーやお茶などにも入れるそうです。リトアニアではハチは人の言葉を理解する神聖な生き物と言われている。
 古くから作られているリネン。古代から亜麻科の植物から作られていた糸や布織物をいう。さらっとした風合いが特徴。リトアニア人にとって代々受け継がれてきた誇るべき工芸品。伝統的な白やグレーに加えて、最近はカラフルなものも多く、日本にも多く輸入されている。リトアニアの母親たちはイライラすると、レースを編んで気分を落ち着かせるという。

 橋の上から見ると岸に赤い花で描かれた大きな文字がある。一方には「愛してる」、片方には「私も愛してる」と書いてある。以前ビリニュスで開かれたアート・フェスティバルで人気だった花文字が残されている。人気のデート・スポットだそうです。

 スーパーでお買い物。主食のじゃがいもは1kg40円(日本は280円)。リンゴは60円(日本は540円)。鶏むね肉は730円(日本は780円)。水槽の中にはコイがたくさんいました。リトアニア人は鯉料理が大好きで、お祝いの席などには欠かせない。
 夕食は、「クーゲリス」というじゃがいものプディング。じゃがいもを摩り下ろした後に、フライパンで鶏肉とたまねぎを炒める。ペースト状になったじゃがいもに卵を加えて、炒めた具材を混ぜていく。トレイに入れてオーブンで焼く。野性のキノコでソースを作る。20分で完成。

●十字架の丘
 かなり距離のある郊外にある。19世紀にロシア帝国に弾圧され犠牲になった人たちのために建てられたのが始まりで、墓地ではない。リトアニアの人々の愛国心の象徴的な存在になったという。ソビエト連邦の時代に何度か撤去されたが、その度に人々は十字架を立て直したという。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン モスクワ」

 2008年9月13日放送。

●モスクワ
 好景気に後押しされて、活気に溢れている。クレムリンは城塞で、15世紀の終わりには現在の城壁が築かれていたそうです。赤の広場、聖ワシーリー聖堂などの美しい建築を目にすることができる。
 ピロシキは昔は揚げていたが、今はオーブンで焼くそうです。中身も挽肉だけじゃなくて、ジャガイモやチーズ、甘いジャムなどだそうです。
 若者にとても人気のある橋がある。恋人たちはここにきて、2人で木に鍵をつける。自分が大好きな相手と離れないためのおまじない。
 ロシアでは女性とデートする時は、花をプレゼントするのが昔からの習慣。しかも毎回だそうです。
 地下鉄の駅は豪華なシャンデリアなどで美しい。駅によってデザインは異なる。

 街の中心から少し離れた所に住むスベトラーナ・コルサコフさん(30歳)のお宅を訪問した。夫のバベルさん、娘1人の3人家族で8LDK400平方m。これが一般的だそうです。朝食はクレープだが、イクラやイワシの塩漬けなどをのせて食べる。ロシアでは鮭の卵だけでなく、魚の卵をイクラと呼ぶ。中でもキャビアは黒い宝石とも呼ばれる。以前はクレープに巻いて食べていたそうですが、最近は数が減って、国内では滅多に食べることができないそうです。
 地下では娘のエカテリーナさんが体操をしていた。ロシアではほとんどの女の子は4歳くらいから体操やダンスを習っているそうです。
 家庭菜園は昔から行なわれていた。昔は足りない分を補っていたが、最近は安全なものを食べるためのという。休日は友人と近所の魚釣り公園に行く。平日は家族の日、休日は友人の日らしい。チョウザメが釣れましたが、その場で焼いて食べました。
 帰宅後にみんなでロシアの伝統サウナ「バーニャ」に入る。入る時は必ず帽子をかぶる。白樺の葉で体を叩いて、血行をよくする。冬だと暑くなると外に出て、雪の中に飛び込むとか。
 スーパーマーケットで買い物。トマト1kg240円(日本は610円)、ナス400円(日本580円)など。家庭菜園でビーツ(赤かぶ)などを採取します。
 夕食はまずボルシチ。肉や野菜を煮込んで作る代表的なスープで、ビーツによる赤い色が特徴。これにサワークリームをのせて食べる。次はペリメニという水餃子で、週末などに家族みんなで作るそうです。茹でた後にお湯を切って、バターをからませる。食べる前にサワークリームにからませる。これにウォッカをあわせる。
 図書室が大切な宝だそうです。


テレビ番組「地球街道 中村雅俊さんでモスクワとロシア」

 2008年9月6日、13日放送。中村雅俊さんが案内。高校時代に読んだ「青年は荒野をめざす」に感動したそうで、その冒頭で赤の広場が出てくる。

●モスクワ
 クレムリンは城塞という意味で、大統領府がある。赤の広場はそのクレムリンの横にある。赤の広場の中央にはいつも人だかりができるレーニン廟がある。1920年に共産国家ソビエト連邦を建設したレーニンの遺体が安置されている。ソ連はその後1991年に崩壊し、ロシアは現在目覚しい経済発展をしている。モスクワは新しいビルの建設ラッシュに沸く。
 灰色の古いビルが印象的。高さ170m、27階建のロシア外務省は、エンパイア・ステート・ビルに似ている。同じような高層ビルがモスクワには7つあり、その外観の美しさから7姉妹と呼ばれる。ウクライナ・ホテル、文化人アパート、ロシア外務省、芸術家アパート、モスクワ大学、レニングラード・ホテル、旧ソ連邦運輸建設国家安全委員会。こういった高層ビルの建設を推し進めたのは、スターリンだった。後にスターリン様式と呼ばれ、国威高揚のシンボルとなった。
 「青年は荒野をめざす」の主人公ジュンは、モスクワ中央競馬場で大事な100ドルすってしまう。通訳のナターシャさんが説明してくれました。ロシアの競馬はローマ帝国時代のような二輪車を引きます。2500ルーブル(約100ドル)で1点買いしました。買った9−2は87倍の大穴。
 「青年は荒野をめざす」の中で当時意外だったのはジャズだった。「ジャズ・タウン」でジャズを楽しめました。
 クトゥーゾフ大通りは、200年前にナポレオンがロシア遠征の際に猛烈な冬将軍の前に断念した。この大通りに人気の劇場がある。連日、子供達で満員の「ククラチョフ猫劇場」で猫とピエロがコミカルなショーで楽しませてくれます。スーパースターはヴァーリス。1990年の旗揚げ以来、猫たちの愛らしい姿が子供たちを楽しませてきた。入場料は200ルーブル(900円)〜。
 在ロシア日本国大使館を訪問。公使の今村朗さんが案内。「青年は荒野をめざす」を読んで、中村さんはソ連の外交官になろうと思ったそうです。

●クリン
 モスクワから放射状に伸びる道は恰好のドライブコースになる。モスクワの北西90km。チャイコフスキーが晩年を過ごした街。彼の暮らした家が博物館として保存されている。交響曲6番「悲愴」はここの机の上で生まれた。庭は当時のままにしてあるらしい。

●黄金の輪
 モスクワを南西の中心に環状になっている。北にヤロスラヴル、少し北にセルギエフ・ポサード、モスクワの東にウラジミール、スーズダリなどの中世の面影を残す街がいくつも点在している。

●セルギエフ・ポサード
 モスクワの北東70km。トロイツェ・セルギエフ大修道院は歴代の皇帝も足を運んだ由緒ある教会。古くから木工細工が盛ん。マトリョーシカなどを売っている露店が並ぶ。
 マトリョーシカを作っているナターリア・ボローニナさんのお宅を訪ねた。21体からなるものを見せてもらいました。福禄寿の入れ込み人形も作っていました。19世紀に日本を訪問したロシアの外交官がお土産に持ち帰った七福神の入れ子人形がヒントとなってマトリョーシカが生まれたといわれている。中村さんを描いたマトリョーシカを作ってくれました。白木に焼きゴテで描いていきます。結構気に入ったそうです。

●レニングラード街道
 モスクワとかつての首都レニングラードを結ぶ街道。ソ連の文化と歴史を育んできた道。現在は物流の大動脈。
 モスクワから北西に車で1時間。ぶらりと寄ったのはカメヌスカヤ・タティアーナさんのお宅。日頃はモスクワに住んでいて、週末などには「ダーチャ」と呼ばれるセカンドハウスにやってくるそうです。キュウリを植えました。こういう生活をダーツア生活というそうです。娘のエレーナさんが作った昼食もいただきました。赤かぶを煮込んだスープ「ボルシチ」。
 モスクワから300km。街道沿いに煙が立ち昇っている。サモワールと呼ばれるロシアの伝統的な湯沸かし器。容器の中央にある空洞で薪をたき、その熱でお湯を沸かす。これで紅茶25ルーブル(110円)で、道を行くドライバー用の喫茶店。

●ノヴゴロド
 モスクワから北に500km。ロシアで最も古い街の一つ。9世紀頃、バイキングたちによって築かれた世界遺産の街。「古代楽器センター」には昔の楽器が復元、展示されている。館長のウラジミール・ポヴェートキンさんが説明してくれました。12世紀のグドクはバイオリンの原型の一つ。歌や踊りも栄えてきた。男たちの士気を高めるための踊りを見せてもらいました。

●サンクト・ペテルブルク
 モスクワから700km、ロシアで最も美しい街。ソ連時代はレニングラードと呼ばれた。300年前にロマノフ朝の皇帝ピョートル大帝によって築かれた、かつての都。ピョートル大帝はかつては沼地だったこの地を埋め立て、近代都市にしようとした。建設にあたっては、アムステルダムをイメージしたとも言われて、街には運河がはりめぐらされている。その運河を巡るクルーズは観光スポットとなっている。建物の色あいがよく、水があるのがいいと中村さんは言います。
 エルミタージュ美術館はロマノフ朝の冬の宮殿として18世紀半ばに建てられた。エルミタージュとはフランス語で「隠れ家」を意味する。入館料は350ルーブル(1575円)。「大使の階段」も装飾が素晴らしい。天井にはフレスコ画。この宮殿はイタリアから建築家を招き、8年の歳月をかけて作ったというロシアのバロック建築の傑作。「紋章の間」は黄金色で、舞踏会などが開催された。「パヴィリオンの間」には黄金に輝く鳥の置物がある。実は「孔雀時計」で、特別に動かしてもらうと金の音が出る。これはからくり時計で、18世紀にイギリスのジェームス・コックスによって作られた。毎月1回調整のために動かすので、運がよければ見ることができます。
 この美術館の魅力は豊富な美術コレクション。レンブラント「放蕩息子の帰還」、カラヴァッジオ「リュートを弾く人」、などヨーロッパの名だたる巨匠の作品などが並ぶ。最高のコレクションといわれるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの「リッタの聖母」。19世紀にイタリアのリッタ侯爵が絵を購入したことにより、その名がついた。

●オネガ湖
 キジー島に向かう。サンクトペテルブルクから北東に430km。西岸のペトロザヴォーツクはカレリア共和国の首都。キジー島はこのオネガ湖の中にある。ペトロザヴォーツクから船で向かった。

●キジー島
 北緯62度、東経35度にある小さな島。モスクワから1200km。積み木で組み立てたような構造の教会が世界遺産。50人ほどの人が暮らす。
 プレオプラジェンスカヤ教会は1990年に世界遺産に登録。高さ37m、1714年に建てられた木造の教会。ほとんど釘が使われていない。22個あるキノコのようなドームは雨や雪の影響を受けにくいデザインだと言われている。現在は老朽化により、教会の中に入ることはできない。修復が急がれているが、なかなか作業が進まなかった。構造が複雑すぎて有効な修復方法が見つからなかった。隣に冬用の教会として1764年に建設されたポクロフスカヤ教会は中に入ることができる。イコンはフレスコ画ではなく、全て木製。島に人々にミサの開催を知らせる鐘が鳴った。イゴール・フッテルさんは「大きな鐘を造る技術がなかったので、北方の教会では小さな鐘を複数使うのが伝統だった」と語る。


テレビ番組「THE 世界遺産 ポーランドのヴィエリチカ岩塩坑」

 2008年7月20日放送。かつてポーランドは岩塩のために膨大な富を得ていた。その結果が大聖堂の金色の壁と祭壇と十字架。

●クラクフ
 首都ワルシャワから南へ250km。クラクフは中世の街並みを残す、ポーランドの古都。17世紀初めまでポーランド王国の都はここにあった。今も文化の中心。

●ヴィエリチカ岩塩坑
 地下300mの世界遺産。クラクフ郊外に位置する。地上から見ればのどかな田舎。地底には迷宮のような世界が広がっている。オレンジ色の屋根の建物が地下への入口。最も深い所で地下327m。少し旧式なエレベータで降りる。地下は9層に分かれている。地下9階まであるが、到着したのは地下8階。9階部分は現在水没し、立ち入り禁止となっている。ここで地下290m。このフロアには20世紀になってポンプが設置されて地下空間を保持するための努力がなされている。2000万年前はここは海の底だった。造山活動によるアルプス山脈の誕生とともに海水が干上がって、巨大な塩の層が形成された。

 よく見ると塩だけの層と土が混じった層がある。750年くらい前に開業した岩塩坑だが、1996年に創業を停止した。工夫たちはここを維持、管理するために働いている。坑道の長さは、総延長300km。太古の昔から塩は重要だった。そのために落盤の危険も顧みず、鉱夫たちは掘った。事故の起こった場所に鉱夫たちはキリスト像、十字架などを設置した。
 やがて地下100mにキンガ礼拝堂が完成した。岩塩を掘りぬいた跡に出現した壮大な祈りの空間。床も壁も天井も岩塩。周囲の壁には様々な宗教がのレリーフが飾られた。最後の晩餐もある。シャンデリアの装飾も岩塩。中央祭壇に祀られていたのはキリスト像ではなく、13世紀に実在したキンガ姫。伝説によればハンガリーの王女キンガはポーランドに嫁入りして、ここで岩塩を発見した。その王女を鉱夫たちは聖人と崇めた。鉱内には、その伝説を再現した岩塩の彫刻があった。
 当時、岩塩採掘は国家事業だった。採掘作業は細かく分業化されていた。地上への引き揚げには馬が使われた。鉱夫たちは給料の一部として岩塩の一部を持ち帰ることを許された。塩は白い黄金といわれるほどの価値があった。塩は周辺諸国に高値で売れた。ヴァヴェル城を中心とする王国は塩によって膨大な財を手にした。ヴァヴェル城には金色に輝く祭壇がある。富を生んだ背景には岩塩坑がある。貴族たちの給与も城の改修費用も塩によって賄われた。
 年間110万人の観光客が訪れる。15世紀から観光をしていた。コペルニクス、ショパン、ゲーテも見学に来ている。地底湖は観光アトラクションとして19世紀にわざわざ作られた。水は周りから湧き出る塩水。地底への観光には必ずガイドがつく。ミハウ・アニョウさんもその一人。そのガイドぶりは少しユニーク。ヨハネ・パウロ2世の像はミハウさんの父スタニスワフ・アニョウさんが作ったもの。
 岩塩坑には芸術品のような塩の結晶が数多くある。クリスタルの部屋(地下80m)は一般の人は入れない。1辺の長さが20cm−50cm、7万年の歳月をかけてできあがった塩の結晶。地質学者のヤドヴィカ・ステツカ?さんは世界的にも珍しいという。公開されているエリアにもいくつも結晶がある。キンガ姫の髪の毛と名づけられた結晶、ブロッコリという結晶もある。
 17世紀に作られた最古のアントニ礼拝堂(地下64m?)は地上へと通じる竪穴にあり、観光ルートだったが岩塩が湿度の影響を受けた。その結果、彫刻は見るも無残に溶け出した。今は観光客禁止で湿度と温度を制御している。


テレビ番組「にじいろジーン 世界ぐるぐるジーン ワルシャワ」

 2008年7月19日放送。

●ワルシャワ
 ヨーロッパの様々な文化が溶け合い、民主主義と社会主義を経験した街。「はるか昔、網にかかった人魚を漁師が助けたことで、街が繁栄した。助けた2人の漁師のワルスとサワを街の名に取り入れた。」という伝説がある。今でも人魚は街のシンボル。美人が多いです。
 都心部から車で10分のマンションに住むマグダレナ・ヴォインフスキーさん(35歳)のお宅を訪問した。1男1女の4人家族で、広い庭がついた3LDK115平方m。ショパンはワルシャワの人々にとって心の支え。聖十字架教会の石柱にはショパンの心臓が今も埋められている。
 旧市街市場広場は、第二次世界大戦で徹底的に破壊され、50年前までは何もない焼け野原だった。それを壁のヒビ1本まで忠実に再現し、世界遺産に登録されている。ワルシャワの人々には「不屈の精神」が流れている。

 Pierogarnib? の看板のお店に入る。郷土料理ピエロギのお店で、野菜、肉、チーズなどを包んだりして、週に何度も食べる日常的な食べ物で餃子に似ている。生地にパプリカやホウレン草が練りこまれてカラフル。種類が豊富で、果物入りや、甘いソースをかけてデザートにするものもある。
 看板がユニークで可愛いものが多い。公園にあるマルとサンカクのマークはトイレで、マルは女性用、サンカクは男性用。

 近くのスーパで買い物。イチゴはワルシャワ特産で1kg390円(日本は1380円)、全てのスープの素になる野菜セットがある。

 旧市街市場広場に屋台が出ている。「ワタ・ツクローヴァ Wata Cukrowa 」のお店で、綿菓子でした。
 マンションを建てる際にでてきた土を小山にしている。元々山のない地なので、いくつかできた小山はハイキングやレジャーに最適。冬はスキーも可。
 ワジェンキ公園は自然に限りなく近い美しい公園。他にも10数箇所あるそうです。リス、鳥、クジャクなどがいました。

 夕食の準備。イチゴをミキサーに入れ、ヨーグルトとミルクを入れて攪拌。短かめのパスタを茹でて、お皿にのせ、その上にたっぷりかけました。「イチゴスープ」。夜は軽く食べるようです。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ポーランド共和国クラクフ」

 2008年7月5日放送。

●クラクフ
 かつてはヨーロッパの中心都市として栄えた。16世紀にワルシャワに首都が移るまで首都だった町。町のあちこちに中世のたたずまいが感じられる。
 フォブ通りは緑の並木が美しい。ここからコシチューシコの丘の上にお椀をひっくり返したような緑のものが見える。行ってみるとレンガ作りの壁に囲まれていた。昔の軍事要塞の跡で、今はラジオの放送局として利用されている。
 クレパシュ市場に行く。俵みたいな形のものがある。これはオシチーペックと言って、山岳地方で500年以上も前から作られている、羊の乳で作ったスモークチーズ。
 中央広場はいい雰囲気。人だかりができていて、塔の上からトランペットの音色が聞こえてきた。聖マリア教会では1時間毎に吹いているが、昔は敵が攻めてくるのを知らせるラッパを吹く場所だった。モンゴル軍がクラクフを攻めた時に、ラッパを吹いていた兵士が矢で絶命した。その死を悼んで1時間毎にラッパを24時間吹いているそうです。
 ドミニク・アブラタニスキさんが紹介してくれたのは、「ミハルスチィ Michalscy」のマコービッツというロールケーキ。ケシの実がいっぱい入っている。クリスマスなどの祝日には必ず食べるそうです。1斤12ズウォティ(600円)。

●ヴィエリチカ
 車で30分行った「ヴィエリチカ岩塩坑」。中ではチケットを買ってヘルメットをかぶった人が案内。まず階段で100m地下に潜る。塩の採掘坑でした。壁をなめると塩辛い。13世紀から採掘が始まったそうで、地下通路の総延長距離は300km。地下101mに礼拝堂もあるが、全て塩でできている。最後の晩餐のシーンまで塩で描かれていました。シャンデリアも塩でした。

●クラクフ
 郊外の高級住宅街に住む、カタジーナ・パルシンスカ?さんが作るのは1品目「バルシチ(赤ビートのスープ)」。赤ビートというテンサイの皮をむき、スライスする。水をはった鍋に入れて中火で煮る。ブイヨンを入れてさらに一煮立ちさせて完成。甘いそうです。
 2品目「ナレシニキ」。ボウルに新鮮な卵、小麦粉、牛乳を入れてかき混ぜる。オリーブオイルをひいたフライパンに薄く生地をのばして焼く。ひっくり返して焼く。次にボウルに水分の多い白チーズを入れてよくほぐす。ネギを細かく刻んであわせ、バジルやローズマリーを入れて混ぜ、塩胡椒で味付けする。ほうれん草のペーストをバターを溶かした鍋の中に入れ、生のにんにくをつぶして入れ、弱火でかき混ぜながら火を通す。生地の上にほうれん草のペーストをのせ巻く。白チーズものせて巻く。2つの味のクレープの完成。
 3品目「オシチーペックのジャム添え」。オシチーペックという羊のチーズを厚めにスライスし、バターを敷いたフライパンに並べて焼いていく。こげ目をつけるのが大事。お皿に移し、クランベリー・ジャムをたっぷりかける。


テレビ番組「藤重政孝の大陸横断1万4千キロ 東京〜ロンドン浪漫鉄道の旅」

 2008年3月20日放送。藤重政孝さん。明治時代に東京からロンドンまでの切符が売られていた。昭和12年にも日本旅行協会で市販されていたという記載がある。東京駅を出て、翌朝、下関に到着。そこから船で釜山に向かい、満州、シベリアを横断してモスクワ、ベルリンを経て、ロンドンまでの2週間の旅があった。当時は船か陸路しかなく、船だと1〜2ヶ月かかった。欧亜連絡乗車券と言われ、運賃は1等795円、2等560円、3等390円。800円は当時の銀行員の1年分の給与に相当した。日本からシベリアまでは舞鶴、下関、門司からの3つのルートがあったが、下関ー釜山ルートが最短だった。それでも1.4万km。これに挑む。テレビ山口製作らしい。

●韓国
 下関から釜山までは夜行の船。ソウルまでは高速鉄道KTXを利用。フランスの技術を導入したもので、最高時速は300kmで、2時間50分でソウルに到着する。
 ソウルは韓国語で都の意味。ソウル駅は2004年にリニューアルされた。市場に行き、のり巻きをいただいた。2000W(240円)。
 ドラサンまでセマウル号で行く。9:25AM発、11:10着。韓国で最北端の駅。イムジンガン駅で強制下車。ソウルから52km、ピョンヤンまで209km。ここで荷物のチェックを受けるが、ドラサンからソウルへの帰りのチケットも必要。ここからドラサンまでの列車は1日3本。列車の横には有刺鉄線が続く。ここまでは1列車300人までという制限がある。
 ドラサン駅からバスで北に向かう。有料の人気観光ルートで、北朝鮮が見える展望台まで行ける。ここからの撮影は許可が必要。
 当時は北朝鮮を抜ける鉄道があったが、通れないので、北朝鮮と中国との国境の街タントン?まで船で行くことにした。東方明珠?という船でした。

●中国
 下関を出て5日目、北朝鮮との国境の町「丹東 DanDong 」に到着。鴨緑江に面していて、鉄橋がある。これは日本が占領時代に建設したもの。2本あるが、1本は途中で途切れていて鴨緑江断橋といわれる。朝鮮戦争の際にB29の爆撃によりこうなったと記されている。当時は真中が90度旋回して船を通すシステムだった。もう1本も爆撃されたが修復された。
 丹東駅からは列車の旅。沈阻北行きの快速列車。3時間半で瀋陽南駅に到着。この駅舎の設計は日本人。宿泊は遼寧賓館で1927年創業。当時は大和旅館という名前で、南満州鉄道直営ホテルだった。当時のセレブたちが滞在した記録が今も残っている。溥儀、松岡洋右の名前もありました。溥儀の泊まった部屋に泊まらせてもらいました。
 南満州鉄道が世界に誇ったスーパー列車が瀋陽蒸気機関車博物館に展示されている。青く塗られたアジア号は大連からハルビンまで1000km近い距離を12時間半で結んだ。最高時速110km。
 瀋陽北駅から高速列車で4時間でハルビンに到着。ここは100年前に帝政ロシアによって作られた街で、ロシア建築が今も多く残る。中央大街は欧風建築物が建ち並ぶ歩行者天国となっている。かつては東方のパリとよばれた。中央大街の端はスターリン公園。地面に絵を描いている人がいた。ユウ・キュウジンさんで、掃除用品で描く。
 国境を越える列車にはハルビンの駅ではなく、チケットはハルビンの旅行代理店で購入。かつ駅での荷物のチェックに相当時間がかかった。列車内では平井晶さんという北京在住の女性に会う。ロシアのチタル?で日本語を教えているそうです。午後4時シーツが交換されたが、ベッド・メイキングは自分でやる。

●ロシア
 朝、サバイカルスク駅に到着。入国審査があり、列車は線路の幅が違うので、台車の交換をするがこれに7時間半もかかった。列車内の食事は「キャベツのスープ」450円。
 次の日の朝、平井さんはチタル駅で下車。早朝なのに生徒さんが迎えに来ていました。慕われているのでしょうね。下関を出て10日目。バイカル湖に到着。大きさは琵琶湖の50倍、世界で最も深い湖で、透明度は40mで淡水では世界一。

 イルクーツク駅に到着。バイカル湖まで車で1時間。湖畔ではお土産屋さんが多い。ヴァルカンというブリヤードの楽器で口で音を出している女性がいた。バイカル湖にしか生息しないというホームリという魚の薫製を購入。薫製にすると一段とおいしくなるそうです。本当に美味しいそうです。フクースナ!
 バイカル湖に入ると元気になると地元では言われている。曇りでしたが、水温は11度。藤重さんは飛び込みました。
 イルクーツク子供芸術学校に行く。アレクサンドラ・クロバチョワさん(26歳)は3本の弦のバラライカの名手。バラライカの音色は人間の声に近いという。ボディは三角形です。
 イルクーツク国際言語大学の日本語学科の生徒と交流を深めた。

 12日目、ここからモスクワを目指すが、生徒さんたちが見送りに来ていた。5200km3泊4日の旅。食堂車でオーストラリアのツアーガイドのロッド・キャンベルさんと会ったが、日本語で話をした。ビーフ・ストロガノフ1125円をいただいた。
 13日目、クラスノヤルスク駅に到着。残り4100km。主要な駅では15〜20分停車するので軽い食べ物などを購入できる。車内では紅茶を注文すると部屋まで運んでくれる。これで朝ごはん。車内を散策。有料のシャワー室がある。かなり揺れるそうです。お昼はロシアのスープ「ソリャシカ」675円。
 14日目、スヴェルドロフスク駅でロッドさん一行は下車。モスクワまで1777km地点でアジアとヨーロッパの境がある。とても小さな白いイベリスクが建っています。有料のシャワーを利用。車窓は秋真っ盛り。
 15日目、夕方5時、モスクワ・ヤロスラーブリ駅に到着。

 ロシアの首都モスクワ。人口は約1000万人。モスクワ国際バレエ・アカデミーは世界じゅうからバレエを目指す人が集まる。現在は700人程度が学んでいる。日本人は37名在籍。学生寮に岩瀬まゆさん(21歳)を訪ねる。校長のマリナ・レオノワさんに話を聞いた。
 ベラルーシ駅を夜10時に出る夜行列車でベルリンに向けて出発。2泊3日の旅です。

●ドイツ
 フランクフルトオーダーで入国審査。夜1時半、ベルリンのオスト駅に到着。駅は当然閑散としている。v  1961年のある日、壁が一夜にしてでき、28年間き、1989年に壁は崩壊した。1621年創業ベルリン最古のレストラン「ツァ・レツデン・インスタンツ」は、ナポレオンも訪れたという。名物メニューは「アイスバイン(豚の肉)」2610円。
 ベルリンではマンガが大人気。コミック・ショップ「モダン・グラフィックス」には5000冊も並ぶ。ドイツのアーティストや漫画家はマンガのスタイルを学んでいるそうです。人気コミック作家マリー・サンさん(20歳?)に話を聞いた。似顔絵も描いてもらいました。
 1936年、日本が大人気を博したオリンピック・スタジアム。藤重さんと出身地が山口県岩国市と同じ田島直人さんが三段飛びで優勝していた。

 23日目、ケルンを経由してベルギーに到着。ロンドン行きのユーロスターに乗る。車内でフランス人のリズ・アナニさんと話をした。

●イギリス
 夜、ロンドンのウォータールー駅に到着。郷愁という曲が生まれました。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん モスクワ」

 2008年2月23日放送。アエロフロートで行きました。

●モスクワ
 世界最大の領土を誇るロシアの首都。赤の広場に行く。聖ワシリー聖堂などの歴史的な建物が多い。重厚なつくりの建物が多い。
 リシュスキ市場に行く。茶色のいぼいぼのものがぶら下がっている。チュチヘラというお菓子で、果汁、小麦粉、ナッツで作ったもの。50ルーブル(250円)。
 ストラスノイ通りには屋台がある。奥の窯の中にアルミホイルに入ったジャガイモがある。バターとチーズをのせてじゃがいもと混ぜてトッピング2個をのせた「カルトシカ」という人気のファスト・フードで、80ルーブル(400円)。
 アジンヌソーバに行くと裸で雪のかけあいをしている。サウナでほてった体を冷やしていた。ロシアでは自分の家にサウナがある家庭が多いらしい。
 アルバート通りにはパトリョーシカを売っている屋台がある。有名人の似顔絵とか伝統的なものとかがある。中から人形がどんどん出てくる。今回は15個入っていました。子供に人形の作り方を教えている教室がある。イズマイラバ美術学校に行ってみると、子供たちがオリジナルのマトリョーシカを作っていた。ちなみにマトリョーシカは日本の人形をヒントに作られたもの。19世紀に日本から持ち帰られた箱根入子細工が元となったという説がある。

 エゴルさん(16歳)とセルゲイさん(14歳)が紹介してくれたのは、ウリツァ・ロドチニコワの広場で体操をしている年配の人がいた。突然服を脱いで川に入った。健康のために寒中水泳をしているという。モスクワにはこういうクラブがいくつもあるそうです。

 新婚さんの朝ごはん。市内のマンションに住むオルガ・コズロヴァさん(24歳)のお宅。1品目はロシアでは一番人気のあるスープ「シー」。たまねぎ、にんじん、ピーマン、トマトなどを細かく切り、フライパンで炒める。鶏肉でしっかりダシをとったスープから肉を取り出し、野菜をスープに入れて煮込む。肉は繊維にそって細かくほぐしたら鍋に戻す。塩胡椒、にんにくなどで味を整え、ういきょうとネギを加える。
 2品目「モスクワ風壷焼きチキン」。鶏肉を一口大に切り分け、ミックス・スパイスをふりかけよくもみこむ。深めの素焼きの壷の内部にオリーブを塗り、鶏肉を入れる。スライスしたマッシュルーム、たまねぎ、じゃがいも、サワークリームと牛乳を注ぎこみ、チーズで蓋をしたら、オーブンで30分焼く。
 3品目「ザペカンカ」。卵にたっぷりの砂糖、小麦粉、重曹、レーズンなどを入れ生地を作る。オレンジの皮とリンゴを摩り下ろしたら、中に加え、別のボウルに用意したカッテージチーズに先ほどの生地を入れて全体をまんべんなく混ぜる。油を塗った耐熱皿に平らになるように敷き詰めたらオーブンに入れて、30分焼く。


テレビ番組「路面電車紀行 アジア・オセアニア編 ウラジオストク」

 2008年2月23日放送。番組放送センター配給。トーキョー・ビジョン製作。

●ウラジオストク
 ロシア極東最大の都市。現在も極東艦隊の基地として機能している。19世紀から20世紀にかけてロシアの積極的な極東政策によって開拓された。ウラジオストクという名前もロシア語で「東方を制する」という意味。軍港として発達した歴史を今でもあちらこちらに留めている。潜水艦C−56などが展示されている。
 レーニン像のある黄色いウラジオストク駅。ウラジオストク駅は世界一長い旅をする極東側の出発点でもある。その距離9000km以上。モスクワまでは1週間の旅。開通から100年経った今なおシベリア鉄道はロシアの大動脈であり、今も世界中の旅人を魅了している。

 ウラジオストク駅の駅前広場に路面電車の始発駅がある。市内を縦横に走っている。5系統あり、路線距離22.1km。車両は今もソ連時代のものが使用されており、かなり老朽化が進んでいるが、きちんと整備されている。たまに扉の閉まらないものもある。通常1両で走ります。車体は色も形も異なっており、同じものを見ることは滅多にない。運転手は女性の方が多く、運賃の受け取りも仕事のひとつなので忙しい。運賃は約20円で、降りる際に支払う。
 路面電車の停留所は道路の中央にあり、周囲に鉄柵や標識がないため、初めてこの街を訪れる旅行者にはたいへん危険。街中では日本製の中古車が多く走っている。ウラジオストクでは日本語の企業広告が入ったままのものが人気とか。福山通運の車とか見て笑いました。

 アドミラーラ・フォーキナー通りは色鮮やかな花壇にヨーロッパ調の建物がよく似合う美しい通り。大部分は歩行者天国になっており、カフェやレストランも多く、市民の憩いの場となっている。
 スヴェトランスカヤ通りは町のメイン・ストリート。通り沿いには中央広場があり、帝政ロシア時代の建物がたくさん建ち並び、人通りの多い賑やかな場所となっている。


テレビ番組「世界遺産 サンクト・ペテルブルグ」

 2008年1月27日、2月3日放送。1990年世界遺産。

●サンクト・ペテルブルグ
 モスクワに代わって都が置かれた。皇帝たちは有り余る富で宮殿を飾った。近代の人工都市はヨーロッパに対して開いた窓口だった。
 町の面積の1割を川と運河が占める水の都。水面に映える美しさは北のベネチアと称えられ、訪れる者を魅了してきた。川の中州に築かれたペトロパヴロフスク要塞。そこに建つ鷹さ120mを越す聖堂の尖塔は今でも町のシンボル。バルト海とロシア内陸部をつなぐネバ川の河口に18世紀始めに築かれた都市。詩人プーシキンは「美しい都の前に、古都モスクワの光は薄れた」と記している。革命後に首都は再びモスクワに移ったが、今も460万人の人口を擁するロシア第二の大都市。
 ローマのサンピエトロ寺院を意識した大ドームがそびえるカザン聖堂。時代とともに常に最新の西洋建築を取り入れた町には、バロックや新古典主義などの様々な様式がひしめく。旧海軍省、スモーリヌイ修道院、ミハイロフスキー宮殿など。それでいて美しい景観は奇跡的。
 そういう中にあって一際目をひくロシア風建築は「血の救世主聖堂」。19世紀末、暗殺された皇帝をしのぶため、息子のアレクサンドル3世が事件のあった場所に建てたもの。18世紀に創建された「聖イサク聖堂」。世界屈指の巨大な聖堂で、再建を繰り返して規模を拡大し、19世紀半ばに現在の規模になった。明るく華やかな内部。西洋風の内部はカトリックの聖堂を思わせる。正教会には極めて珍しいステンドグラスのキリスト像もある。徹底した西洋化は祈りの場をも変えた。

 地上で一番美しい町と称えられた町。その誕生の物語を歴代皇帝が冬の住まいとした宮殿エルミタージュは記憶している。「ピョートル大帝の間」は一人の皇帝を記念したもの。改革により西洋化を推進し、ロシア帝国の創設者となったピョートル大帝。ネバ川のシュリッセルブルグ要塞は古くからスウェーデンとの奪い合いが続いた前線基地だった。18世紀初頭、ピョートル大帝は長い歴史に決着をつけるべく、この地に新たな都の建設を決意した。何もないデルタ地帯に夢の人工都市が出現した。スウェーデンに睨みをきかせる軍事拠点でも、バルト海に通じる要所でもあった。1712年正式な都として近代化の舞台となった。内陸の国のロシアが西に領土を拡大していく大きな拠点となった。
 エルミタージュ美術館の一角にピョートル大帝が暮らした冬の宮殿の一部が復元されている。西洋を歩き、ロシアの後進性を痛感した大帝はロシアの近代化を断行した。自らも西洋技術の獲得に異様な情熱を傾けた。身分を隠し、オランダの造船所でも働いたという逸話にも表れている。

 サンクト・ペテルブルクから西に30kmのピョートル宮殿。ピョートル大帝の西への憧れは、夏の宮殿として豪華な水のページェントを作りあげた。その数150を越す噴水。サイフォンの原理を応用し、ポンプを一切使っていない。18世紀の世界最高水準の技術が花開いている。この宮殿は北のベルサイユをめざし、大帝自らが指揮を取って造営した。歴代の皇帝は有り余る財力で宮殿を改築した。漆の間は東洋趣味によるもので、中国の漆絵が一面にあしらわれている。ソファの間。贅を尽くしたロマノフ王朝の生活はロシア革命まで200年続いた。夏は深夜を過ぎても町はセピア色。

 緑に囲まれた修道院「アレクサンドル・ネフスキー修道院」。18世紀初頭新たな都の信仰の中心として建てられた。ロシア正教会は人々の心を一つに結ぶ大きな役割を担った。ソ連時代の厳しい弾圧を乗り越え、人々の心の拠り所となっている。修道院に隣接する墓地にはドストエフスキー、チャイコフスキーなどの芸術家が眠っている。彼らはロシア的なものと西洋化との間で苦しんだ。

 サンクトペテルブルクから南へ25km。そこに建つ宮殿はロシア・バロックの記念碑とされるエカチェリーナ宮殿。中は金色の間が続く。その豪華さと美しさで外国の王侯貴族を簡単させた。55に及ぶ部屋の一つ一つが趣向の限りを尽くしたものだった。琥珀の間など。現在の宮殿はピョートル大帝が妻のエカテリーナに与えた小さな建物を、その娘で後に女帝となったエリザベータが改築したもの。大広間の天井のフレスコ画に彼女の姿が描かれている。善良な人柄で人々に愛されたエリザヴェータ。彼女が作ったもう一つの宮殿により、サンクトペテルブルクは西洋にひけをとらない真の大都市の仲間入りを果たす。
 それが冬の宮殿、現在のエルミタージュ美術館。皇帝たちが買い集めた300万点にのぼるコレクションを有する。世界屈指の美の宝庫と呼ばれる。

 エルミタージュ美術館。莫大な費用を惜しげもなくつぎこんだ巨大建築。エルミタージュは当初の宮殿と、後に増築された3つの離宮と劇場からなる。現在、美術館として公開されている400以上の部屋の中にはロマノフ王朝の栄華を伝えるいくつかの広間がある。まず入口から大使の階段も立派。1812年のギャラリーにはナポレオンの軍勢を撃破した英雄たちの顔写真?が並ぶ。その奥に玉座以外は何もない大広間。鳥たちが時を告げるイギリス製の金色の18世紀のからくり時計。ラファエロの回廊と呼ばれる細長い広間は、バチカン宮殿をそっくりそのまま再現したもの。これを作らせたのはエカチェリーナ2世。その治世に西洋文明はようやくロシア人の心に根をおろした。ピョートルはロシアのために肉体を、エカチェリーナは魂を与えたと称えられる。そもそもエルミタージュとはフランス語で隠れ家。買い集めた作品を集めた小さな離宮の呼び名だった。彼女により始まった大規模な美術品の収集は歴代皇帝に受け継がれた。レオナルド・ダ・ヴィンチの「リッタの聖母」、ヴァンダイク「家族の肖像」、レンブラント「放蕩息子の帰還」、レンブラント「ダナエ」、マティス「音楽」など。

 1703年5月27日、ネバ川の中州で始まった要塞の建設がサンクト・ペテルブルクの発祥となった。要塞跡に建てられているペトロパヴロフスク聖堂。ここに皇帝たちは静かに眠っている。ピョートル大帝、エリザヴェータ、エカテリーナ2世も。聖堂内の小部屋には処刑された最後の皇帝ニコライ2世とその家族も葬られている。
 西洋化によりもたらされた社会主義が人々を革命へと立ち上がらせた。

 深夜、ネバ川にかけられたはね橋が上がると、大きな船が通過する。昔も今も変わらない光景です。首都の座をモスクワに奪われると、歴史の表舞台から去っていった。1990年世界遺産に登録された。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん リトアニア共和国ヴィリニュス」

 2008年1月19日放送。

●ヴィリニュス Vilnius
 東西貿易の中継地として発展した。人口60万人の都市。世界遺産の旧市街には様々な時代に建てられた美しい建物が並び、中世の時代に迷いこんだよう。
 ハーレース市場も歴史を感じさせる。お肉屋さんには、ハムやサラミやベーコンも並ぶ。白いのはラシネイという豚の脂身の薫製。そのまま食べてもいいし、料理のソースにもよく使う。ラシネイは1kg9リタス(410円)〜。手作りの漬物屋さん。赤いのは西洋わさびを赤かぶで色づけした「クリエナイ」1瓶5リタス(280円)。
 アウシュロース・ヴァルトゥー通りでみんな振り返って「夜明けの門」に向かって十字を切っている。中には黄金に輝く聖母マリア像があった。ここのマリア様の絵には奇跡を起こす力があると言われている。祈りを捧げたところ、重病だった子供が回復したなどの伝説がある。
 ピリエス通りなどの旧市街はどこも絵になる。お土産屋さんの屋台が並んでいるところがある。琥珀のアクセサリーがあった。琥珀のお店も多いし、琥珀博物館もある。琥珀は数千年前の松脂の化石で、バルト海でよく取れる。特に中に虫が入っているものが貴重価値が高い。珍しい虫が入っているのは5万ユーロ。
 アンドリュース・シャータスさん(20歳)が紹介してくれたのは、伝統的なじゃがいも料理「ブルビネイ・ベーダライ」も食べられるレストラン「フォルト・ドヴァーラス Forto Dvaras 」。ブルビネイ・ベーダライはソーセージみたいに見えるが、豚の腸の中にじゃがいもが詰まっている。9.9リタス(460円)。「ツェッペリナイ」は10.9リタス(500円)で、じゃがいもの中にお肉が詰められている。

●カウナス
 ヴァイシュガントー通り Vaizganto gatve にある旧日本領事館。杉原千畝さんが第二次世界大戦の時にナチスの迫害を受けたユダヤ人を、独断でビザを発給し6000人も助けた。ヴィリニュスの町には彼の名前がついた杉原通りが作られた。日本のシンドラーとして、高く評価されています。

●ヴィリニュス
 市内にマンションに住む新婚さん。ユルガ・モズーリエネさん(27歳)。1品目はリトアニアの伝統料理「ジャガイモのパンケーキ」。皮をむいたジャガイモをすりおろし、卵、たまねぎ、塩、胡椒を加えて混ぜる。多めの油をひいたフライパンの中に、豚肉を置き、包み込んで焼き上げる。サワークリームをかけて食べるとさらに美味しいそうです。
 2品目は冷製スープ「シャルティバルシチャイ」。ブロカスという赤かぶの皮をむいたらすりおろす。ハーブなど具となる野菜を細かく切って、加え、ケフィアとサワークリームを加え、よく混ぜてピンク色になる。あとはボールに盛り付ける。
 3品目「オブオリュー・スーリス」。リンゴの皮をむいて、細かく切って鉄鍋の中に入れ、砂糖をたっぷり入れて強火で煮る。飴色になるまで煮詰めたら、ビニールをひいたお皿に厚さが均等になるようにのばす。常温で冷やし固め、型から外す。食べやすい大きさに切る。お餅のような食感とか。


テレビ番組「世界里山紀行 ポーランドのビエブジャ・ナレブ湿地帯」

 2008年1月5日放送。NHK製作。

●ビエブジャ・ナレブ湿地帯
 ポーランドの北東部にある湿地帯。輝く水、鮮やかな緑。水辺に息づく命。氷点下30度。冬は湿地は全てが凍りついている。周辺には大小130あまりの集落がある。人々は牧畜で生活している。麦やじゃがいもを食べている。
 3月末、風景が一変する。雪解け水が一気に流れ込み、川が溢れた。東京23区を越える広さが湖へと姿を変える。水位は2mも上がる。栄養をたくさん含んだ水の中で草花が目覚める。
 4月黄金色の夕暮れの中をコウノトリが舞う。アフリカなどで冬を過ごしていたコウノトリ(ジュバシコウ)が帰ってきた。屋根や電柱に巣がある。アンジェイ・ポプコ&ダヌータ・ポプコさん夫妻は何代にもわたって酪農をしている。ポーランド赤牛を育てている。かつてはポーランドじゅうにいたが、今は数百頭らしい。
 4月下旬、水の中にいた草花が水面に出て花が咲く。黄色の鮮やかなリュウキンカ。牧草地には牛の糞をまく。コウノトリはカエルを食べている。上空に水鳥ハイイロガンやクロヅルの大群が現れた。湿地でヒナを育てる鳥は130種類以上にのぼる。
 5月、水に覆われていた大地が再び姿を変え、水がひいて緑色になる。鹿やウサギも躍動する。牛が半年ぶりに放牧される。川を200m泳いで渡って、豊かな草地で過ごす。ユゼフ・ラジボン&エラ・ラジボン夫妻は毎日船で川を渡り、その牛の乳を採る。ダイシャクシギ、タゲリなどの水鳥がヒナを育てていた。ヒメハイイロチュウヒという鷹の仲間は、川のヨシの中で真っ白いヒナを育てる。主な獲物はネズミ。コウノトリもヒナを育てる。牛が歩いて飛び出した虫やカエルを採って食べる。
 7月、草の丈は1mとなった。鳥は水辺に移動する。村人はトラクターで冬のための干草を作る。コウノトリは刈られた草の間にいるネズミや害虫を食べるので、人と共生しているといえる。10日?ほどして草は束ねる。化学肥料は使わない。
 草を刈る大会が5年前から開催されている。ビエブジャ国立公園のアンジェイ・グリゴリュックさんは伝統を守るために始めたと語る。寒い地なので、枯れた植物は土に帰らない。人が刈ることにより新しい芽が出るのを助ける。コウノトリのヒナも大きくなり巣立っていった。
 コウノトリたちは8月末には群れになって南に向かう。
 9月、秋の姿の湿地帯にヘラジカが姿を見せた。立派なツノを持ち、体重は500kgにもなる。高台の畑でじゃがいもの収穫が始まった。隣のトウモロコシ畑からキツネがでてきた。畑から飛び出すネズミを狙っている。
 湿地に再び冬が巡ってくる。
 クリスマスの日、食卓には干草を敷いて、その上からテーブルクロスをかけて、魚とじゃがいもなどをいただく。食後はその干草を牛に食べさせる。牛も家族の一員ということ。


テレビ番組「美都!サンクト・ペテルブルグ」

 2008年1月3日放送。レートは1p=4円。JIC製作。

●サンクト・ペテルブルグ
 プールフヴォ空港に到着。国際線と国内線のターミナルはかなり離れている。市街地から18km。モスクワ経由の方が便数が多い。建都300周年を迎える。ネヴァ川のデルタ地帯に発達した町で、人口480万人。65本の川、100以上の島が365の橋によってつながっている。北のベニスとも呼ばれる水の都。サンクトは聖、ペテルはペテロ、ブルグは町を意味する。

 運河沿いにスポットがある。モスクワの赤の広場にあるワシリー聖堂を再現したようなスパス・ナ・クラヴィー聖堂(血の上の教会)は、入場料は大人250p(1000円)、学生125p、7歳以下無料。内部装飾は6000平方m、外壁では1050平方mをモザイクが覆っている。建築家バレランドが設計した色鮮やかな聖堂。1883年起工、1907年完成。
 青銅の騎士ピョートル大帝像は、1782年エカテリーナ2世によって建てられたサンクト創始者の記念碑。入籍をすませたカップルがここで写真を撮るのが慣わしの一つ。
 元老院広場と呼ばれるデカプリスト広場は1825年?12月、専制君主に反対した貴族たちがこの場所で反乱を起こした。
 その広場を見下ろすのがイサク聖堂で、1万4000人を収容できる。入場料は200p。内部には聖人などが150人以上描かれている。湿地帯の上だったので、建築に40年以上もかかったそうです。螺旋階段を登るとドーム展望台に行ける。ここは重要。

 アングレテル・ホテルは1つの建物に2つのホテルが存在している。アストリア・ホテルはイサク広場に面している。アングレテル・ホテルはアストリア・ホテルの新館として1976年に建てられ、1991年に改装された。193室。スタンダード・ルームは朝食付きで250ドル。イサク聖堂を正面に見ることができる最高のロケーション。スーペリア・ルームは$390で、数あるデラックス・ルームの中でも設計の美しさからリピーターが多い。ホテル内には専用ジムがあり、宿泊者は無料で利用できる。隣のアストリア・ホテルとは廊下でつながっているが、通常宿泊者が行き来することはない。アストリア・ホテルはシックでゴージャスなイメージ。エグゼクティブ・ルームは$370で、オペラ歌手シャリアピン、詩人エフェーヌなどが滞在した。創業は1912年、部屋数は240。チャイコフスキー・スイートは$2200で、2寝室で、世界の要人たちが宿泊する。

 ホテルのやや南西のマリインスキー劇場。サンクト唯一のバレエ・オペラ劇場。歩いて10分にディナー・スポットがある。「レストラン マリインスキー劇場の舞台裏」は2000年創立。劇場の楽屋裏をコンセプトとしたレストラン。インテリアにも小物が置かれている。オペラやバレエの出演者や著名人が多い。2003年2月のブッシュ大統領夫人のサインもある。料理はロシア料理をベースにしたコンチネンタル料理で、野菜と魚が中心。味は濃厚でウォッカとの相性も抜群。グリーンピーススープ120p、マコモと鶏?の肝臓?180p。サケとマグロのロール300p。ムクスンのはちみつソース400p。チーズケーキ150p。
 夕食後、夜のネフスキー大通を歩くのも、サンクトの楽しみ方。18世紀?のカザン聖堂、オストロフスキー広場。アレクサンドリンスキー劇場も夜はライトアップされてきれい。

 早朝、ネヴァ川からペトロパヴロフスク聖堂を見る。ロストラの灯台柱の円柱の高さは32m。
 宮殿広場はサンクトを代表する広場。伝統と芸術の心臓部と言われる。

 エルミタージュ国立美術館。ロシア皇帝の冬の宮殿と3つの建物で構成されている。帝政ロシア時代に世界中から最高級の材料を取り寄せ、一流の職人を招いて作らせた内装と装飾品の数々。入場料320p。総めんせき4.6万平方m。全ての部屋を並べると全長27kmにもなる。作品は300万点。まずは陸軍元帥の間に置かれた見事な馬車。隣がピョートル大帝の間。冬の宮殿とそれぞれの建物をつなぐ回廊には、歴代の皇帝や女帝の絵画などが飾られている。孔雀石の広間などにも世界の最高傑作の品が並ぶ。聖ゲオルギーの間。孔雀時計のあるパビリオンの間は、1760年代、エカテリーナ2世の美術コレクションを展示するために建設された?。ラファエロ回廊は184x年に造られた回廊。テント・ホールにはダビンチなどの芸術が集められている。ルーベンス、ラファエロ、レンブラント、エルグレコ、ルノアール、マチス、セザンヌ、ゴッホ、ピカソなどの作品があり、西ヨーロッパの芸術を完全網羅している。マチスのダンスもあります。

 アストリア・ホテルの1Fラウンジでイギリス風アフタヌーン・ティーを楽しむが、ここでもロシア独特のものがある。ケーキ、サンドイッチを選び、あとは紅茶、コーヒーを楽しむ。
 ネフスキー大通りには、新しいものがたくさん入ってきている。デパートの「ガスティーヌイ・ドヴォール」には1761年から創業している?。海外ブランドの定着ぶりは日本やアメリカとほとんど差はない。マックス・マーラも種々の洋服が揃っている。KENZO もある。化粧品もクリニーク、ディオール、エスティローダー、ゲランなどが入っている。

 トロイツキー橋はネヴァ川にかかっているが、午後2時にははねあがり、見物客が訪れる。夜にはマルス広場とスパス・ナ・クラヴィー聖堂がライトアップされている。
 撮影が行なわれた10月には夜明けは午前7時過ぎ。暗い中を人々は出勤する。
 「夏の庭園」は18世紀は政治、社会の中心地で、250個の大理石の彫像、宮殿などが配置された。入場料は12p。一年で一番美しいのは夏。庭園内にはピョートル大帝の宮殿(1710〜1712年建築:夏の宮殿)がある。1824年に大洪水になった際の、水位を示すプレートもある。

 美術館の北側から高速艇が出ている。ロシア・クルーズ料金は600p、VIP席は700p(往復)。35分間の小旅行。到着したのはペトロドヴァレッツ(「ピョートルの宮殿」の意味)。入場料は250p。公園と宮殿が1714年に建設された。当時の服の人がいて、みんな写真を撮っている。下の公園と上の公園からなり、総面積は1000ヘクタール。下の公園は大滝とサムソンなんとか。64の噴水。3つのアンサンブルで構成されている。アダムの噴水、イヴの噴水、ローマの噴水、チェス山の噴水、ピラミッドの噴水、いたずらの噴水、ライオンの噴水、モンプレシール宮など噴水の芸術。

 マルリ宮殿は今は博物館となっている。


テレビ番組「世界遺産 火山」

 2007年11月4日放送。地球と火山は密接な関係にある。古代ギリシャ人は大地から大理石を切り出すことで、初めて美しい神殿を建てた。この大理石を産んだのがマグマ。マグマは沢山の鉱物を地上へと運ぶ。エジプト文明の壁画の色もそれらの鉱物。地球ができて46億年、今でも地底でマグマが活動を続けている。

●カムチャッカ火山帯
 114もの活火山が連なる。荒々しい息吹を伝えてくれる。様々なタイプの温泉があり、水が吹き上げている。鉱物を溶かし、冷えると鉱物が沈殿する。

●イエローストーン
 バイソンが群れをなす。ここが噴火したのは60万年前。無数にある間欠泉。温泉を虹色に染めるのは鉱物だけでなく、生き物だと発見されたのは50年前。色素を持つバクテリアだった。それを食べる小さな食物連鎖があった。太古の地球に似ていると学者は思っている。シアノバクテリアの仲間が光合成をして地球に酸素をもたらせた。

●ハワイ
 世界最大の火山島。溢れ出す溶岩が全てを焼き尽くす。1200度にも達する溶岩流。ハワイ諸島を生み出したのは太平洋プレートにあるマグマ。プレートは年に10cmずつ北西に移動している。そのために鎖のような火山島の列が生まれた。マグマとは溶けた岩石。

●済州島
 韓国の火山島。120箇所に及ぶ溶岩洞窟が、地下を迷路のように走っている。通り道を溶岩が流れ過ぎると、後には空洞が残される。かつてこのトンネルいっぱいにどろどろの溶岩が川となって流れた。最後は1000年前。

●雲南省
 6000m級の山々。梅里雪山は特別な神聖な山。地球の尾根ヒマラヤ山脈の東。今でも高くなり続けている。

●サガルマータ国立公園(ネパール)
 エベレストを含む。地球の表面を覆う12枚のプレートは、あるところでは遠ざかり、ある処では近づく。アイスランドでは遠ざかっていて、裂け目は広がっている。

●エオリア諸島(イタリア)
 現在地球上にある活火山の数は1500を越える。ストロンボリ火山はずっと噴火している。

●ガラパゴス諸島
 まるで天地創造の神話のように海上に現れた大地。大陸と一度もつながったことがない島。動物は独自の進化を遂げた。イグアナは海に潜り食べ物を求めた。進化に終わりがないように、地球のドラマは終らない。海底では相変わらず熱水が噴出す。


テレビ番組「世界遺産 ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群」

 2007年10月7日放送。北緯65度、北極圏間近の北海は神の国へと続く道だった。かつて多くの巡礼たちが波頭を越え、北の聖地を目指した。ロシア最北の修道院ソロヴェツキー。約500年にわたり営まれた祈りと独自の文化は、美しく壮大な信仰の城を作り上げた。聖地はしかし、悲劇の舞台でもあった。20世紀ソビエト政権の下で、修道院は強制収容所へと姿を変えた。虐待と処刑により数万という人が亡くなった。1992年世界遺産。

●ソロヴェツキー諸島
 15世紀に小さな信仰の火が灯った。始まりは小さな船で海を越えてきた2人の修道士。自分と向き合うのには理想的な環境だった。文豪ドストエフスキーは「正教徒でない者はロシア人たりえない」と言った。厳しく、広大な大地に生きる人の心を長く支えてきたロシア正教。祈りは今もこの地に生きている。
 16世紀〜20世紀初頭にかけて、一大巡礼地として隆盛を極めた。巡礼者は年間2万人にも及び、寄付金も莫大で、きらびやかな十字架やイコンへと姿を変えた。
 残念なことに、20世紀初頭の火災により中世の主だった建築は失われた。大聖堂は近年修復された。修道士の数は多い時で300人を越えた。叡智を尽くして島を開拓し、運河や堤防を作り、塩やレンガを生産し、鹿やイノシシを飼い、温室でスイカやメロンまで栽培した。
 巨大化する修道院を避け、周囲の島に純粋な修行の場を求める者もいた。質素な木造教会。ソロヴェツキー諸島を形成する6つの島に、祈りの場が点在している。
 ある島には不思議な遺跡がある。石を並べた古代の???。4000年以上前に作られたもの。16世紀末、時の皇帝イワン雷帝はここに堅固な城壁を作らせた。最果ての島はロシアの北の守りとして、重要な軍事的な役割を担っていた。さらに、人里離れた島は流刑地としても最適だった。城壁の下に異端者や政治犯が送られた中世の監獄がある。後に20世紀に想像を絶する形で繰り返されることになった。
 20世紀になり、一転する。教会は火事でドーム屋根を失った。ソビエト政権は宗教を弾圧し、ソ連で初めての強制収容所(ラーゲリ)となった。当時の映像が残っているが、それは囚役者へ演技させたものだった。寒さ、病気などで罪なき知識人が多く亡くなった。服役者は毎日15時間働かされ、食事はじゃがいも1個。多くの人が亡くなった。
 聖ゲルマンを祀った小さな礼拝堂、ここには多くの人の遺体が多く積まれたという。修道院の外には大きな穴が掘られ、多くの遺体が放り込まれ、いっぱいになると次の穴が掘られた。
 聖なる丘セキルナヤ。その頂きに建つ聖堂は凶罰監獄となった。待っているのは理由なき拷問と処刑だった。蚊に体を刺させて1時間で発狂させたという。階段を丸太を背負って落とされた人もいた。聖堂の床に囚人たちは幾重にも重なって寝た。冬にはこごえ死ぬ者が多かった。聖堂の扉には囚人を監視する穴が今も残る。
 1939年ラーゲリが閉鎖された日、別の島に運ばれ、1日250人ずつ殺された。収容所の16年間で犠牲者は7万人とも言える。閉鎖の理由はフィンランドとの戦いに備えて、ここを軍事基地にするためだった。1950年代にその軍も去った。

 しかし、島が祝福に満たされていた時代の記憶がある。城壁の上の小さな礼拝堂。修道院を襲った20世紀の大火事でもここは燃えなかった。収容所、軍隊に使われた時も、壁の19世紀のフレスコ画は奇跡的に残った。
 70年の空白を経て、復権を果たしたロシア正教。そして世界遺産となった。長い夜が明け、聖地は蘇りつつある。


テレビ番組「知っとこ! 世界の朝ごはん ロシア・ハバロフスク」

 2007年9月15日放送。

●ハバロフスク
 新潟から飛行機で2時間。人口58万人。2006年にロシアで最も住みよい町に輝いた。街並みはどこもきれいに整備されていて、静かで暮らしやすい雰囲気。町の象徴は雄大に流れるアムール川。河原には公園があり、憩いの場となっている。短い夏にはビキニ姿で日光浴をする姿もある。ビーチバレーをしている人もいる。
 広場で、結婚したばかりの人が写真を撮っている。ロシアでは結婚した日に名所やきれいな場所をバックに写真を撮る習慣があるそうです。
 中央市場は大賑わい。手作りのジャム、木の実を売る自然食品の店には、チャーガという白樺の木にできるキノコがあった。固いので、金槌でできるだけ小さく砕いてから、湯にいれてかき混ぜると茶色になる。これを飲むが、胃にいいそうです。1袋200ルーブル(800円)。
 アムールスキー・ブリバル?通り、花束を持った子供たちが建物の中に入っていく。ステージでは社交ダンス、新体操。一芸に秀でた人がパフォーマンスをしている。9月1日の学校の始業式だそうです。花束はお世話になる先生に贈るものだった。
 イリヤ・バニーショフ?さんが紹介してくれたのは、スーパーマーケットで買えるケフィア。長寿の人が多いコーカサス地方発祥の発酵乳で、ヨーグルトの仲間。酵母も入れて発酵している。
 町の中央にあるレーニン広場には多くの噴水がある。噴水の中にワニがいた。記念写真用にワニを飼っているそうです。5年前から商売を始めたそうですが、最初は15cmだったとか。1口50ルーブル(200円)。

 新婚さんの朝ごはん。市内のマンションに住むボクダノバ?・オクサーナ・アレクサンドロヴナ?さん。1品目はロシア風炊き込みご飯「プロフ」。たまねぎをみじん切りに、豚肉は大きめのブツ切りにする。深めの鍋にいれ、たっぷりの油で肉をじっくり煮込み、細切りした人参を加え、しんなりするまで炒める。たっぷりの湯を注ぎ、クミン、塩で全体の味を整える。よくといだお米を加えたら蓋をして30分。最後に全体をよくかき混ぜて完成。
 2品目は「キノコのホワイトスープ」。鍋に牛乳をあけ、あたたまったら、一口大に切り分けた鶏肉を加え、フライパンでソテーしたマッシュルームを加え、プロセスチーズを賽の目状に切って加え、よく溶けるように混ぜ込む。細かく切ったウイキョウの葉をかけて完成。
 3品目は「ケフィアと香草のサラダ」。トゥボーラクというチーズに、細かく刻んだパセリ、ネギ、バジリコ、ウイキョウなどのハーブとゆで卵を加え、全体をよく混ぜる。次にドレッシングはケフィアをお皿に移し、マスタードを加えてよく混ぜる。これをかけて全体をよくかき混ぜる。


テレビ番組「ピン子と壽賀子の世界遺産ふたり旅 前編 絶景のカッパドキア」

 2007年7月14日放送。関東地区では6月16日に放送。橋田壽賀子(82歳)、泉ピン子(60歳直前)さんが出演。TBS製作。

●イスタンブール
 橋田先生は4月3日から飛鳥IIで横浜を出発、シンガポール、モルジブなどアジアを航海し3週間かけてイスタンブールに到着。

●カッパドキア
 飛行機でカイセリに飛び、カッパドキアに車で向かう。ここは自然遺産と文化遺産の複合世界遺産。溶岩と火山灰が堆積し、雨などに侵食されて世にも不思議な光景となった。カッパドキアの大きさは東京23区くらいの大きさ。

 気球に乗る。現在は気球の会社は7社ある。橋田さんは10年前に1社しかなかった頃に乗ったが、今回のパイロットはその時の人カイリさんだった。橋田さんは涙ぐんでいました。岩に迫ると鳥が鳴いていました。先生の希望で海抜2300mまで上昇した。最後は小さなトラックの荷台に着地しました。チェリー・ジュースで乾杯しました。

 デリンクユ地下都市に行く。現在36箇所確認されているが、推定450以上もの地下都市があったという。かつて1.5万人が暮らしていたとか。地下9階まで行ってみた。本当は20階下まであるそうです。

 パシャバーは奇岩が多い。ラクダ岩、ナポレオンの帽子岩、キスをする小鳥岩がある。ペンギン岩があるというが・・。3人の美女の岩もある。
 岩でできた教会がある。ラクダに乗る。
 夕方、ローズ・ヴァレーで夕陽を見る。

●飛鳥IIで黒海クルーズ
 全長241m、400の客室がある。ジャクージ付きのお風呂もあるし、ミストサウナなどもある。船長の末永守さんの案内でブリッジも見学した。イルカが飛んでいた。
 イスタンブールからウクライナのオデッサに向かった。

●ウクライナのオデッサ Odessa
 1日かけて到着。半日停泊している間に市内観光。屋根の上のバイオリン弾きの舞台。ポチョムキンの階段も有名で、下が広く、上が狭く作られているので、下から見ると長く見え、上から見ると急な階段に見える。馬車も走っている。緑色の細いケーブルカーに乗るが無料。オペラ・バレー劇場は世界遺産だが、修復中でした。様々な国に支配されてきたから、自分たちの町を大事にしているようです。
 市庁舎、プリモールスキー並木通りなどを散策した。

●ルーマニアのコンスタンツァ
 朝7時、到着。半日停泊。首都のブカレストに列車で向かったが、黄色の菜の花畑が続く。

●ブカレスト
 ルーマニア料理をいただいた。キャビア(イクレと言う)をいただいた。「野菜とローカルチーズのサラダ」。キャビアもチーズも塩辛いそうです。ハンバーグみたいなのはミティティ。トレンクはとうもろこしの粉を水で練ったもの。サルマッチェは羊の肉の入ったロールキャベツ。スープみたいなのは何とか食べられるとか。食後のスィーツは甘いそうです。
 市内観光。国民の館は部屋数が3000.チャウシェスクが1500億円かけて建てた物。まだ完成してないそうです。この日は5月1日メーデーでお店は休みが多いそうです。統一大通りには41個の噴水が並ぶ。

●イスタンブール
 朝6時に通過したが、雨でボスポラス海峡はあまりきれいに見えない。海峡が最も狭いところで700m。ボスポラス大橋の下を通過した。


テレビ番組「世界遺産 ポーランド・ヤヴォルとシフィドニツァの平和教会」

 2007年6月10日放送。ポーランドの南西部シレジア地方。教会の建築は他に類を見ない、全く石を使わない巨大な木造建築。聖なる彫刻も大理石ではなく木造。2001年世界遺産。

●シレジア地方ヤヴォル
 ドイツやチェコに至る広大な平野。隣り合う国々の勢力争いに巻き込まれ、戦乱に巻き込まれた。17世紀、長い戦乱の時代の終わりに、平和への願いをこめてヤヴィルの平和教会が建築された。外見は納屋のようで質素、中は壮麗です。バルコニーが教会内部をぐるりと取り囲み、高さ16mの天井まで積み重なる劇場のような感じ。
 16世紀初頭にマルティン・ルターに始まる宗教改革が起こった。利権に群がり腐敗したカトリックの聖職者たちに、プロテスタントたちは反発した。この教会はプロテスタントの教会で、大衆の席は牧師の説教壇に向かっている。カトリックとプロテスタントの対立は、ヨーロッパを二分する争い「三十年戦争」にまで発展した。1648年のヴェストファーレン講和条約で決定したのは、領主が市民の信仰を決定するということ。
 シレジア地方では住民の多くがプロテスタントだったが、当時神聖ローマ帝国の支配下にあった。カトリックを信仰する皇帝は、3つだけプロテスタント教会を許可したが、実現困難な条件がついていた。教会の建設地は城壁の外で、建設に許された時間は1年、材料は石やレンガを使うことを禁止されていた。数千人を収容する規模が必要だった。それだけ巨大な建物を木と土壁だけで建てたことはなかった。しかし建築家や大工らは技術で建造した。その技は350年経った今も証明されている。
 教会の当初2段だったバルコニーは、信者の増加で4段まで増築され、収容人数は6千人を越えた。欄干には143もの聖書の場面が油絵で描かれている。それでも人で溢れ、人々はお金を払って指定席を確保していた。

●シフィドニツァ
 1652年、条件付きで教会建築を許可されたプロテスタントの情熱は、もう一つの傑作を生み出した。古くから商業で栄えた町シフィドニツァでも実現された。先に建てられたヤヴォルの教会での成果をさらに発展させて作られた。複雑な構造を内部に秘めた建物は、上空から見ると美しいギリシャ十字の形をしている。圧倒的な空間で、ここも全て木で作られている。
 プロテスタントの意識は内部にも生かされていて、ここには聖人の彫刻はない。聖人を認めていないから。愛、信仰、希望という神の美徳を象徴化した像がある。祭壇は教会の建設許可100周年を記念して作られた。洗礼を受けるイエスの彫像は木でありながら、大理石と見まがう。大工が組み立て、彫刻家が彫り上げ、画家が色をつけた。どこか温もりを感じる空間にしている。
 父と子と精霊を表わす三位一体の天井画。聖書の世界、喜びに溢れた神の国が再現された。

 この地にプロテスタントが根付いたのは、元々ドイツ系の人々が住んでいたからだった。しかし、ポーランドへの編入と共にドイツ系住民の大半はこの地を去った。現在は信者が200人程度しかいない。礼拝に参加する人も僅かになった。この教会は建築当時から信者の寄付によっていた。ギルドが自分たちの団体席を買い、自分たちの紋章を掲げた。その紋章が今も残る。裕福な家庭はボックス席を買ったという。中でもホッフベルグ家の桟敷席は特徴で、教会建設の木材の4分の3を寄付したという。寓話風の絵の中に彼らの姿がある。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 ワルシャワ」

 2007年4月28日放送。鹿島綾乃さんが案内。19世紀半ばポーランドが生んだ作曲家フレデリック・ショパンがパリで亡くなった。心だけは故郷へという遺言に基づき、聖十字架教会に葬られた。町が生まれて700年、美しさから「北のパリ」と呼ばれ、ナチスドイツにより徹底的に破壊されたが今も修復は続いている。旧市街は世界遺産。

●ワルシャワ
 イスワ川が街中を流れる。旧市街は周囲を1.5kmの城壁で囲まれた小さな町。戦争で大きな被害を受けたという旧市街の広場。街並みが美しい。広場に面した建物の壁には至る処に繊細な装飾が施されている。壁には初めて建てられた年と再建された年が記載されている。特別古くみえる建物の前で、カジミェシ・ニテツキさんが絵を展示している。古いものと新しいものを教えてくれました。広場に面した建物の中に描いた作品を保管している倉庫がある。建物は破壊されても、地下室は残っていた。地下室は隣の家とつながっている。
 ナチス・ドイツはワルシャワを撤退する1944年に徹底的に町を破壊した。戦後、瓦礫の撤去から始まった復興は市民総出で行なわれた。ワルシャワ工科大学の建築学部には戦前の3.5万枚の図面が残っていて、これらが復興のための設計図として使われた。ロベルト・クンケル博士が説明してくれました。当時の学生達はいずれ街が破壊されることを予想して図面を作成した。復興は建物のヒビ1本まで精密に復興されたが、その多くは修道院の柩の中などに隠されたそうです。
 「ワルシャワ蜂起博物館」には、ワルシャワ蜂起(1944.8.1〜10.2)なる抵抗の戦い。武力による抵抗だけでなく、殺人などを記録し、ビラなどを作成し、地下活動を支援した。学生のように命がけで図面を作成した人もいる。ヒトラーによる破壊は、自分たち民族の歴史の破壊になると受け止めた。
 年に1度のパーティが開催されている。レシェク・ジュコフスキーさんは幹事として続けてやってきている。ワルシャワ蜂起の時、ボーイスカウトに所属する17歳の少年だった。今年79歳。現在も銀行として使われている建物に、装甲車用のバリケードを構築した。壁には弾丸の跡がある。仲間40人のうち、戦後に会えたのは2人だった。数多くの市民が教会に連行され、強制収容所となった。即座の銃殺か、ドイツの強制収容所での重労働と死かの選別が行なわれた。レシェクさんはドイツのダッハウに送られ、戦後解放された時、体重は29kgで、2年後に帰郷した。教会?の庭に20万人の人の遺体が眠っている。街の復興にはここで眠っている犠牲者抜きには語れないそうです。
 戦後、ナチスにより破壊された民族の歴史を自らの手に取り戻すための戦いが始まった。しかし、ロシアが入ってきて、旧市街の象徴だった旧王宮は26年間は復興が認められなかった。ここは14世紀に建てられた。ヨーロッパの中でも最も美しい宮殿の一つと言われた王宮は人々の誇りでもあった。王宮は人々にとって民族の自由と独立の象徴でもあった。「五月三日の間」もその一つ。1791年5月3日、ヨーロッパで初めて民主主義をうたった成文憲法が採択された。主権は国民にあり、三権分立が書かれていた。
 戦時中、図面を描く学生たちを指導したワルシャワ工科大学のヤン・ザフファトビッチ教授 Jan Zachwatowicz は、王宮の復興に努めた。旧王宮資料室には多くの資料が残されている。教授の長女クリスティナさんが説明してくれた。さらに、ソ連の主導で旧市街をロシア風の街並みを作ろうとした勢力にも反対した。1971年に王宮の復興が許可された。募金により復興が支えられ、1988年完成した。翌年ベルリンでは壁が壊され、東西冷戦の時代が終焉した。ザフファトビッチ教授は1983年に亡くなった。
 王宮の正面に臨む壁に一枚のプレートが埋め込まれている。「破壊されたものの復興は未来に対する責任である。」
 ザフファトビッチ教授の意思は教え子たちが受け継ぎ、「世界遺産」の選定基準をも変更させた。クシストフ・パブオフスキ教授、フヌタ・クセオク・コズオフスカ博士が教授室の話をした。復興こそが価値があると教え子たちは説いたそうです。初めて復興を行なった人間の活動に価値がある世界遺産となった。彼らの行動に僕は感動しました。

●スターリー・ジコフ
 ワルシャワから500km東のウクライナ国境に近い町。クリスティナさんが夫と暮らしている。ここの教会をポーランドの昔の軍服を着た人々が取り巻いていた。教会の中は映画の撮影の真っ最中。指揮していたのは、クリスティナさんの夫アンジェイ・ワイダ監督でした。ワルシャワ蜂起を描いた「地下水道」(1957年)から戦後ポーランドが向き合う作品を発表しつづけている。1940年、ロシア西部で捕虜となっていたポーランド将校4000人が虐殺された「カチンの森事件」は長い間撮影が許可されなかった。ワイダ監督の父も虐殺された。ソ連が事実を認めたのは1990年だった。「私たちの役割は、過去を未来につなぐこと」


テレビ番組「世界遺産 アウシュビッツ強制収容所(ポーランド)」

 2006年8月27日放送。死者110万人。1945年1月27日アウシュビッツが解放された。その中で何がされていたか、ナチスドイツは自国民にさえ隠し続けた。入口の門に「Arbeit macht Frei (労働は自由への道)」と書かれているが、自由になる出口は死体焼却炉の煙突だけだった。別名「絶滅収容所」、人類史上最大の犯罪をしるす負の遺産ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)。

●オシフィエンチム
 ポーランド南西部、人口5万人の地方都市で、ドイツ統治時代はアウシュビッツと呼ばれた。交通の要所だったので、ヨーロッパ中からユダヤ人を送るのにかっこうの地だった。かつて人口の半分以上を占めたユダヤ人の姿は失われた。
 郊外に収容所が作られたのは1940年。当時、政治犯や捕虜を収容するためだった。
 ホロコーストの背景にはユダヤ人に対するヨーロッパの偏見があった。人種差別に拡大したヒトラーは国民のはけ口をユダヤ人に向けた。当初ナチスが絶滅の対象にしたのはユダヤ人ではなかった。毎年6月14日アウシュビッツでは、追悼のミサが行なわれる。
 1940年6月14日、ポーランドの700人の政治犯が送り込まれ、ほとんどが命を落とした。第二ブロックにある周囲を厳重に壁で囲った、通称「死のブロック」で、政治犯は簡単な裁判で死を告げられ、ただちにこの中庭で銃殺された。ポーランド支配後にナチスドイツがまず行なったのは、指導者層の一掃だった。密かに処刑されたポーランド人は1万人とも言われる。「死のブロック」の地下では、餓死刑、窒息刑などさらにむごい刑が科せられた。死の前の囚人が壁に爪で刻みつけた絵が残っている。懲罰牢には4人が閉じ込められていたが、立ったまま命をなくした。
 86歳のカジミエシュ・スモーレンさんは政治犯として中にいたが、生き残れたのは奇跡だと言う。衛生状態は最悪で、ネズミが人の上を走り、チフスで何百人も亡くなった。1日の労働の後にもらえる食事はパンのかけらとマーガリンで、栄養失調で多くが亡くなった。スモーレンさんは戦後、国立博物館となったアウシュビッツで館長を務めた。今も体験を伝えている。登録されて番号で呼ばれる人は少なく、登録されない人はすぐに殺され、登録された人が労働をさせられた。エウゲニウシュ・ダッチンスキさん(92歳)はここの地に住んでいたが、立ち退きを強要された。故郷を捨てられず、町の工場で働き続けた。労働できそうな者は残され、労働できないと判断された人は殺された。
 アウシュビッツ以外にも5ヶ所、ユダヤ人収容所があった。何日も過酷な長旅を強いられ、旅の途中で亡くなる人も多かった。貨車を降りると生と死の選別が行なわれ、お金の入ったカバンは没収された。約2割が労働させられ、8割はガス室に送り込まれた。髪の毛は衣料品会社に売られ、糸などに加工された。髪の毛で作った絨毯もある。ガス室の隣には死体焼却炉が設けられ、1日数千人処理された。それだけでは足りず、屋外の森でも焼かれた。焼却した灰を捨てた「死の池」では、今でも人骨がでるという。引き込み線の先には新たな収容所が作られようとしていた。1945年1月27日に解放され、ナチスは証拠を隠滅するためにガス室を爆破した。
 ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは「絶滅収容所」をアナと呼んだ。家族も親戚も皆殺しにする事で、彼らの存在を消してしまった。1979年世界遺産に登録された。


テレビ番組「歴史ロマン・スペシャル!エルミタージュの秘密が明かす最後の皇帝ニコライ2世と日本」

 2005年12月31日放送。黒谷友香さんが案内。ロシア皇帝ニコライ2世(ニコライ・アレクサンドロビッチ・ロマノフ:1868-1918年)は、ロシア革命によって処刑されたロマノフ王朝最後の皇帝。きちんとした性格で、1万ページに及ぶ膨大な日記をつけていた。日本人にとってまず頭に浮かぶのは日露戦争。エルミタージュ美術館はきらびやかな美術品でうずめつくされている。倉庫で眠るものも多い。そこにニコライ2世による日本の陶器なども保管されている。日本との関係も深い。100年前の世界を旅する。テレビ東京製作。

●サンクトペテルブルグ
 18世紀にピョートル大帝はこの町を作り、帝国の首都とした。70年間のソ連が崩壊して10年、だから、帝政ロシア時代を知る人はほとんどいない。街の中心にある冬の宮殿は冬に皇帝が過ごしたので、冬宮と呼ばれる。それが今のエルミタージュ美術館となっている。ロマノフ王朝を表す双頭の鷲、今でも道行く人々を見下ろしている。1612年に始まったロシア・ロマノフ王朝は1917年に終る。絶大な勢力を背景に宮廷文化が花開いた。
 エルミタージュ美術館の見どころの一つは、宮廷生活を忍ばせる室内の装飾。孔雀石の間をニコライ2世は普段の居室として使っていた。19世紀はチャイコフスキーをオーケストラが奏で、人々はドフトエフスキーやトルストイを読んだ。貴族はロシア語よりフランス語を話し、衣装や家具をパリに発注した。皇帝たちは美術品を集めた。収納しているのは300万点以上で、現在展示しているのは1割程度。ほとんどが倉庫にある。陶器の部屋もあり、薩摩焼きの壷が目立つところにある。ニコライ2世が暮らしていた時は玄関に置いてあったという。壷には王冠が描かれている。これは薩摩の大名が皇太子時代に送ったもの。これは日置市の沈寿官さんの祖先、12代目が作ったものだろうと15代目が調べてわかった。九谷焼の壷もあり、後に金で装飾が施されていて、ニコライが使っていたという。アラーポワ・タティヤナ学芸員が説明してくれました。象の薩摩焼きの香炉もあるが、日置郡苗代川玉明山の東郷寿勝氏の作品。持ち帰った美術品は帰国後に展示され、いくつかの美術館などに分散した。
 人類学民俗学博物館には日本文化を紹介するロシアで唯一の常設の展示室がある。ニコライが持ち帰った甲冑、沈寿官作の大原女人形などがある。シニーツィン・アレクサンドル学芸員が説明してくれたが、展示していない「しゃちほこ」もある。円山応挙の鯉の絵もあるが、本物なら大発見である。

 マリインスキー劇場はバレエの殿堂で、ここのトップ・バレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤに21歳のニコライは恋をしていた。マチルダの家があったところは政治史博物館となっている。当時マチルダと付き合いながら、ドイツの名門貴族の娘アレクサンドラ・フョードロブナに求婚している。後に皇后となっている。

●モスクワ
 クレムリンもロマノフ王朝時代は王宮だった。歴史的資料も多い。国立公文書館にも関連資料が保管されている。ドミートリー・マイヨーロフ学芸員が説明してくれた。
 ロシア中央シネマビデオセンターには19世紀からのフィルムが保管されている。

●ツァールスコエセロ(皇帝の村)
 サンクトペテルブルクから車で1時間の静かな村。アレクサンドル宮殿に住んでいた。ニコライはこの宮殿がお気に入りだった。当時をしのばせる家具や衣類などが多数残されている。特に目をひくのが、一人息子と4人の娘たちの写真である。
 即位後にはここで政治を行なった。彼が行なったロシアの大事業はモスクワとウラジオストクをつなぐシベリア鉄道。

●旅
 ニコライ2世は皇太子の22歳の時、1890年11月に日本に向けて出発した。同行した軍艦は4隻、サンクトペテルブルクを出て、陸路イタリアのトリエステに出て、あとは水路でアテネ、スエズ運河、ボンベイ、コロンボ、シンガポール、バタビア、バンコク、サイゴン、香港を経て4月27日長崎に着いた。
 明治天皇はニコライを歓迎し、接待役は有栖川宮成仁親王であった。当時長崎には多くのロシア人が住んでいて、ロシア人墓地を訪れた。調査している長崎日ロ協会会長の松竹秀雄さんは「鍵のかかっている門を乗り越えたが、それが報道されて日本人は共感を覚えた」という。ニコライは日本人と中国人は反対の性格で、清潔だと書いている。また夜密かに上陸し、福田半造邸で芸者を呼んで酒を飲んだという。
 サンクトペテルブルクの中央海軍博物館にニコライが長崎でプレゼントされたという美術品が残っている。「アゾフの思い出」号の模型はべっこう(海ガメの甲羅)でできている。ロガチョフ・ゲオルギーさんは長崎のエイミロ・エサキという人が作ったと言われている。ニコライが足を運んだのは「江崎べっ甲店」で、創業1709年で日本で一番古いべっこう専門店。エイミロは5代目江崎栄蔵だろう。店にはニコライの写真があり、上には「親愛なるエザキへ」と書いてある。
 長崎で8日過ごし、鹿児島に移動した。島津忠義が応対し、島津家の別邸に招いた。
 京都では常盤ホテル(現在の京都ホテル)に宿泊した。ニコライには洋室があてがわれたが、それを断り、日本家屋に泊まった。その建物は現在の安養寺に移築されている。西陣の川島織物を見学した。二代目川島甚兵衛が製作した綴織(つづれおり)を背景に写真を撮った。川島織物織物文化館館長の森克巳さんが説明してくれたが、今でも残っている。八坂神社の近くの祇園のお茶屋「中村家(現在の中村楼)」に夜にこっそり行ったらしい。その部屋が今も残っている。
 大津に足をのばした。旧東海道で見ようという人々で溢れかえっていた。左折したところで、警備に当たっていた一人の巡査がサーベルでニコライに斬りかかった。ニコライは逃げた。犯人を取り押さえたのは、人力車を引いていた北賀市市太郎、向畑治三郎の二人で、ニコライは勲章を与えた。後に大津事件と呼ばれた。琵琶湖文化館にはサーベルと血染めのハンカチが残っている。井上ひろ美学芸員が説明してくれた。後に遺骨が発見され、この血がDNA鑑定に使用された。
 事件後、日本じゅうが蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。大国ロシアが攻めてくるのではないかとみんな心配した。明治天皇もどう謝罪していいのか悩んだ。川島甚兵衛が謝罪することになり、周囲に双頭の鷲と菊のご紋が描かれた額縁のついた綴織壁掛の「犬追物」を寄贈した。これがエルミタージュ美術館に残っている。ボゴリューポフ・アレクセイ学芸員が説明してくれた。7人がかりで1年半の歳月をかけて作られたもの。また、お寺の灯篭も1対贈られたが、これは増上寺の徳川ゆかりの清揚院殿のものだったらしい。川島織物はロマノフ王朝のご用達となった。
 大津事件後もニコライは日本に対して、清潔好き、秩序の正しさを好んでいた。川島は京都でもたなした舞妓の等身大?の人形を贈った。お詫びの品が日本全国から集まり、ロシアに贈られた。
 事件後、ニコライは東京に行くことを中止し、ロシアに帰った。

●モスクワ
 帰国後3年後、父親のアレクサンドル3世が崩御した。彼は皇帝に即位し、モスクワのクレムリンで1896年に戴冠式を行なった。戴冠式には各国の代表が贈り物を持って集まった。日本からは伏見宮殿下が参加し、贈り物を持参した。クレムリン博物館のアイヌラ・ユスポヴァ学芸員が、戴冠式の詳細を教えてくれた。明治天皇からの贈り物は特に詳しく説明してあるが、他の贈り物はそうでもない。贈り物は東洋美術館倉庫にあった。屏風と象牙でできた鷲の彫刻だった。鷲の羽根の幅は1.6mで作者は金田兼次郎。当時ジャポニズムの影響で象牙の彫刻は人気があったが、この作品は当時の最高レベルだと東京芸術大学の佐藤道信先生は言う。屏風は表が刺繍で、裏はビロード織だった。

●日露戦争とロシア革命
 1904年に宣戦布告した。バルチック艦隊が敗れた後に、ニコライ2世の国内の支持を急速に失った。1914年にロシアは第一次世界大戦に参戦。自ら陣頭指揮のために陣中に赴いた。しかし、1917年留守中のサンクトペテルブルグで暴動が発生、新政府が樹立されるが、10月にはより過激な社会主義革命が起きた。ロシア革命である。ニコライ2世はアレクサンドル宮殿に幽閉された。最後はシベリアに送られ処刑された。
 ペトロパブロフスク寺院は歴代の皇帝の廟がある。処刑後80年経過した1998年ニコライ2世の葬儀が行なわれ、ようやく彼もここに祀られた。


テレビ番組「世界の絶景100選。5回目」

 2005年10月10日放送。司会は内藤剛志、久本雅美さん。審査員は上戸彩、谷原章介、橋田壽賀子、船越英一郎、さまぁ〜ずさん。今回は、数ある絶景の中から「水辺で迎えるクライマックス」にこだわり、バリエーションに富んだ至高の絶景5カ所を紹介しました。フジテレビ製作。

●南太平洋ロタ島
 アンガールズが紹介。サイパンを経由して3時間半で到着。アメリカ合衆国の自治領北マリアナ諸島にある。テテト・ビーチ Teteto beach は真っ白な砂浜と透明に澄んだ海の美しい海岸。案内はジャン・A・バルシナスさん41歳。
 ロタ・リゾート&カントリー・クラブに宿泊。ここのプールでダイビングの練習をした。次に海で練習した。15mくらい潜るが、透明度の高いきれいな海です。その青さからロタ・ブルー Rota Blue といわれている。バーベキューをごちそうになったが、トカゲ Maniter Lizard だった(笑)
 岬の向こうのロタ・ホールに船で向かう。穴は海の中にあるという。ロタ・ホールは自然にできた洞窟で、L字型になっていて、Lの字の一方が、地上に口を開けている。そのため、太陽が真上にきた時に、洞窟の底まで光が差し込む。晴れた日だけ素晴らしい絶景が見られる。地上の穴は直径2mでわかりにくい場所にある。見られる時間は限られている。スコールの中を船出したが、雨があがったので、潜った。太陽のスポットライトがきれいに見えました。年に数十日しか見えないそうです。

●スイス・アイガー北壁
 杉田かおるさんが紹介。アイガー(3970m)の北壁は1800mの絶壁で、登山家の4人に1人が命を落としていて、悪魔の棲む山と呼ばれている。案内はローランド・ビエリさん33歳、イケメン山男独身。アシスタントの犬はパトラッシュ10歳です。人生を見つめなおすために杉田さんは来ました。
 ラウターブルンネン駅(スイス登山鉄道)Lauterbrunnen にやってきた。窓の外には牧歌的な風景が広がりました。メンヒ、ユングフラウなどの山々も目の前。案内人は2人乗りパラグライダーに乗って絶壁を越えようと提案した。アイガー北壁の西の麓から出て北壁を横断し、裏にまわってグリンデルワルドの三ッ星絶景を楽しむ。初めは走らなかったから飛べなかった。2時間走る練習をしてから休憩し、チーズフォンデュをいただきました。
 宿泊はグリンデルワルトのグランド・ホテル・レギーナ。鉄道で麓のクライネ・シャイデック駅からユングフラウ鉄道で麓の登山道入口の駅まで行き、パラグライダーが飛び立てる場所まで1時間北壁を歩いて登る。濃い霧が出て1時間待った。小石の多い牧草地の上で向かい風を待ち、駆け下りて飛び立ちましたが、とても落ち着いてお話していました。アイガー北壁の氷河を越え、目の前にグリンデルワルドの村が、向こうには高い山が広がっていました。素晴らしい景色に感動していました。全身がアルプスの山々に包みこまれる感じでした。

●カムチャッカ半島
 的場浩司さんが紹介。日本から北に1300km。新潟からウラジオストック経由で飛行機で約7時間で到着。カムチャッカとは「火の国」の意味で、面積は日本とほぼ同じ。手つかずの自然が色濃く残るこの地は、いわば絶景の宝庫。樹海の奥に眠る神秘の湖、クリル湖を目指すが、そこにたどり着くためには、ヒグマを越えないといけない。1万5000頭もいる。案内人はWGVCのガザエフ・ドミトリーさん42歳で、ロシア政府レスキュー隊の副隊長。息子のニキタ君9歳もサポートしてくれた。鉄砲を持参している。
 軍用トラックで移動し、ヘリポートから20人乗りの元軍用大型ヘリで200km先のカムチャッカ最南端のカムチャッカ富士を目指す。しかし、ヘリは180km地点に着陸。7人乗りのボートをふくらませて、ボートで川を行く。ここからはひぐまが多くいるが、川は入れ食い状態で、ニジマスが多く釣れた。熊が川の中を走った。次に40m先にひぐまが登場し、魚を採った。ヒグマ brown bear は体重400−500kgで体長は2.5〜3m。河原でキャンプ。特製カムチャッカ丼(サケ、イクラ、マスの卵)をいただいた。イクラはロシア語。夜中に熊が現れ、ガザエフさんは威嚇射撃しました。
 川の中にベニザケが多くなって川が赤くなっている。200万匹いるそうです。ゴールが近いが、熊が5頭登場。おっかないが、可愛い。目の前にカムチャッカ富士がクリル湖(Kurilskoye)の向こうに姿を現しました。イリンスキー山(標高1577m)で、気象の変化が激しいので、滅多に全貌を現さない山で、幻の山とも言われている。

●ペルー・ナスカ
 永作博美さんが紹介。世界の七不思議は「エジプト・ギザのピラミッド」、全長3500kmの「中国・万里の長城」、600体の「イースター島のモアイ像」、「カンボジアのアンコール・ワット」、700年以上傾いている「イタリアのピサの斜塔」、紀元前600年に存在したという「イラクのバベルの塔」と「ナスカの地上絵」。今から2000年以上前に描かれたもので、1個は全長100m以上に及び、その様子は上空からでしか理解できない。
 ロサンゼルス経由でペルーの首都リマに24時間かけて到着。リカルド・エストラーダさん64歳が案内。先祖がナスカの地上絵を描いたと言い切る。リマから450kmで車で7時間、Lineas de Naska の標識が見える。真中にいると言われてもわからない。溝が見えたが、ハッキリしない。溝の大きさは幅20cm、深さは10cm。酸化した黒い小石を取り除いて、白い地肌を露出させただけ。ドイツの学者が建てた高さ20mの「研究用観察やぐら」に連れて行ってくれた。全長70mの「手」が見えた。この先にもっとすごいのがあるという。1936年に地上絵が発見された。今はセスナを利用するのが一般的になったが、リカルドさんは絵を描いた古代人と同じ方法で見るという。夜は地元の人に一番人気のレストランでチキン丸々をいただいた(笑)。人気はチキンの炭火焼き(800円)。
 朝5時、地上絵のところに行って、気球に乗る。古代ナスカ文明は高度な織物技術を持っていて、現在のパラシュート程度の強度があって、充分気球の素材になりえたそうです。ナスカ周辺で出土した土器には、熱気球のような模様が描かれていたという。この熱気球説を唱えるのが、アメリカ探検家協会のジム・ウッドマンさん。彼は1975年、当時存在した材料だけで熱気球を作りナスカ上空を飛んだ。現在はこの地域は立ち入り禁止なので、「手」の横のところから飛び立って越えながら全貌を見て、着陸するようになった。今回の気球パイロットはデニ・バレットさん(マジカル・アドベンチャーズ代表)で、熱気球世界大会3年連続優勝のすご腕。
 朝6時に風船を飛ばし、風向きを調べ、飛び立とうとするが、気球が破れた。翌朝、再挑戦したが、強風で中止。その次の日に飛びました。上空は寒いからとリカルドさんが服を着せてくれました。上がると朝日が出ました。丘を越えると、ハチドリ Humming Bird、クモ Spider、コンドル Condorなどが見え、永作さんは感動で涙。

●スペイン・アンダルシア
 中尾彬・奥菜恵さんが紹介。アリタリア航空でイタリアを経由して飛びました。15時間。
 ブニョール Bunolの町は、バレンシア地方で人口1万人、気温41度。案内人はハビ31歳、プロのギタリストのアレハンドロ24歳の兄弟。総勢18人の大家族の家に招待して食事をしました。中尾さんがお祭りに行くことになった。静かな町だが、お祭りの日は竹下通りほどの通りに人がつめかけた。高いところから見る中尾さんの目には4万人の群集。上半身裸の人やゴーグルをつけた人が目立つ。号砲を合図にスタート。いきなりトラックからトマトが投げつけられるトマト祭りが始まった。トマトの量は140トン、トラック6台分、100万個。祭りの参加は自由で、ルールはトマト以外は決して投げないこと。中尾さんも参加し、1時間トマトを浴び続けた。
 グラナダ Granadaに到着。色がきれいなアルハンブラ宮殿 Palacio de la Alhambra が丘の上に見える。13世紀前半、イスラム王朝歴代の王が100年以上かけて築きあげた宮殿。2時間歩いて登る丘の上から見える宮殿が絶景だと言う。全長6kmを歩く。町には石畳でできた穏やかなユニークな上り坂が続き、細い路地も素敵。階段が多い。中尾さんは中国桂林で最後の部分でのサンシャインビルに相当する高さの階段登りで苦労した記憶がある。その後の1時間は整備されていない砂利道。2時間後、やっと到着。夕陽に染まるグラナダの町と赤い城、アルハンブラ宮殿が見えました。アレハンドロさんが「アルハンブラ宮殿の思い出」を演奏してくれました。自然に涙がでました。

http://www.fujitv.co.jp/zekkei100/index.html


テレビ番組「旅サラダ」2004年7月は高橋ひとみさんでバルト3国」

 フィンランド航空は日本と9時間半で結ぶ。エコノミークラス事前割引システムはムーミン21&35でお得です。
http://www.finnair.co.jp/

●エストニア・タリン
 北海道の約6割の大きさで、人口130万人。通貨はEEKクローン。首都タリンは世界遺産で、バルト海の窓となっている。旧市街地の中心、ラエコヤ広場は中世の頃から市場としてにぎわった広場で、中世の雰囲気が残る。パリみたいな街並みです。タリンは5月〜9月は百夜が続く。11時に日没。
 Vana turg1 のオルデハンザ横にある路上の屋台でアーモンド菓子を売っていた。4種類の砂糖と16種類のスパイスを使っていて、100g25EEK(250円)。
 セーター街(旧市街のメインストリート、ヴィル通りとムーリヴァ通りとの交差点近く)では、高い塀?の下にズラリとセーターを売るお店が並んでいます。エストニアはセーターなどの織物工芸も盛んです。セーターは950EEK(9500円)でした。

 一番の観光スポットの聖オレフ教会に行く。狭い階段です。拝観料は無料だが、塔の入場料は25EEK(250円)。高さ124mで町で一番高い。248段のらせん階段を15分かけて登った。一番高いところから街を眺めました。この街並みは13世紀半ばにハンザ同盟に参加した時に、タリンが一番豊かだった時に作られたそうです。タリンカード250EEK(2500円)は、市内あらゆる場所や乗り物を楽しめる。
 タリン大聖堂は最も古い教会の一つ。樫の木でできたバルト貴族たちの紋章のコレクションが見所。拝観料は無料。

 小さい機関車ひく豆汽車に、オルデハンザ前から乗る。所要時間は20分で、タリンカードがあれば乗り放題です。通常は運賃40EEK(400円)。

 タリンで一番古い薬局「市議会薬局」(Reekoja plats 11)は創業が15世紀。滋養強壮剤のワイン・クラレットは茶色の壷に入っていて、500mlで180EEK(1800円)。赤ワインをベースに造られていて、創業当時からレシピは全く変わってないが、製法は秘密だそうです。アルコールは15度。1422年にできた。ジンジャーなども入っているようです。

 「カフェ・マダモアゼル」は旬のフルーツを生かしたケーキなどを売っていて、全部で68種類ある。「木苺のケーキ」15EEK(150円)。日本からみると格安の値段だけど、味は格別。というのも、100人の弟子を持つ腕利きのパテシエのユハ・ランタネンさんが作っているから。
 メリトン・グランド・ホテル・タリンの1階にもお店があります。ここに宿泊しました。今回は541号室で、シックで落ち着いた感じ。サウナ・リビング付きのダブルで1泊2100EEK(2.1万円)。シングルで1.9万円。

 「歌と踊りの祭典」は5年に1度の祭典で、世界中から30万人が訪問し、3万人以上が素敵な歌声を披露してくれます。「歌の原」というところで開催される。エレルヘイン合唱団はグラミー賞受賞したこともあり、数百ある合唱団の中でも最も注目されている。指揮者はティーア・ロイットメさん。みんなで「赤とんぼ」を歌いました。

●エストニア・サーレマー島 Saaremaa
 最大の島。タリンからクレッサーレにプロペラ機で45分、385EEK(3850円)。手付かずの自然が残る人気のリゾート・アイランド。
 宿泊は陸続きになっているムフ島のパダステ・マナーハウス。自然に囲まれた高級リゾート・ホテル。2階が寝室のスタンダード(ダブル)で1泊950EEK(9500円)。スィートで3360EEK。
http://www.padaste.ee/index2.html
 各種アクティビティもある。ボートに乗って低い葦?の生えた湖?を漕いでいきます。赤い服を着た男性(タリス君)が恰好よくて高橋さんは感動していました。愛犬のジッピー君のお見送りがあったのですが、途中で泳いで船のところに来て、ずっとついてきました(笑)
 次は乗馬体験。緑の木々の中を楽しめました。
 夕食はエストニアのVIPクラスがお忍びで訪れるというレストラン。料理長は24歳。「サーモン・ヒラメ蒸し、豆のクリームソース添え」240EEK(2400円)。シェフのお勧めは「豚の血のソーセージ、こけももジャム添え」180EEK(1800円)は、中に麦のようなパラパラしたものが入っていて、思ったよりあっさりしていて、パリパリの皮が塩辛い。

 スパは「スパハウス・サーレマー」で様々なエステが格安で体験した。まずはお医者さんによる診断。その後、コースが決定される。高橋さんは「お疲れ解消コース」でした。泥エステは20分135EEK(1350円)で、ミネラルがたっぷり、保湿効果が満点で、神経痛にもいい。少し臭いそうです(笑)次は泡風呂で、15分130EEK(1300円)で、血行を促進します。次は塩サウナ30分100EEK(1000円)。かまくらのような塩の壁の部屋に入って、部屋に飛ばされた塩の粒子を吸い込んで、肺や気管支の機能が改善するそうです。一番感動したのは、石マッサージで、2時間450EEK(4500円)。暖かい石を冷たい石を交互に置いて、その上に横たわります。足の指の間にもはさみます。
http://www.sanatoorium.ee/eng_index.php?menu_id=98
のKuressaareにあるSpa-Hotel Ruutli だと思うのですが、違うかも。
住所 12 Pargi St,93813 Kuressaare。tel:(372)45-48-100

●ラトヴィア・リーガ Riga
 首都リーガは人口80万人の世界遺産の街。通貨はLsラッツ。「バルトのパリ」と言われ、バルト3国の首都とも言われている。市庁舎広場を歩くが、イタリアの街並みに近い感じ。
 高さ123mの聖ペテロ教会が目立つ。13世紀初頭に建てられ、何度も改築され、18世紀に現在の姿となりました。入場料2.1Ls(420円)。展望台に行くエレベータには白髪のコートのおじさんが待っていました。川の流れも含めて、はるか先まで展望できる素晴らしい眺めでした。タリンとは違う洗練された印象を受けました。
 「バルト3国のパリ」と言われるのも、19世紀末に広がった自由で大胆なアールヌーヴォー建築群。
 国立オペラ座の見学ツアーは1Ls(200円)で、シーズンオフの休演日に行なわれている。ガイドさん付きです。金髪の素敵な男性でした。座席は赤で、壁の装飾がきらびやかです。舞台は客席の2倍の広さがあり、ホセ・カレーラスなども訪れています。

 リーガの町には10数人の日本人が住んでいる。「言語」って書いてあるところに行くとブルギッタ・クルミーナ先生の教室があった。「日本語文化養成所」で、6歳から34歳までの40人の生徒が楽しく学びます。習字の勉強でしたが、「蚤」とか道具の「のみ」とか漢字で書いていました。カルタ遊びも楽しく、「聞いて極楽、見て地獄」とか、みんな知っていました(笑)高橋さんは、カレーライスをご馳走しました。住所は Latvija,Riga LV-1010 Rupniecibas iela,7。tel:(371)91-37-559

 宿泊は5つ星のレバル・ホテル・リーゼヌ Reval Hotel Ridzene 。スタンダード(ダブル)で1泊135Ls(2.7万円)。
http://www.revalhotels.com/eng/ridzene/

 中央市場に行ってみた。魚市場では、サーモン1kg5.7Ls(1100円)、イボガレイ1kg2.0Ls(400円)、サバ1kg2.35Ls(470円)だった。加工品も多く売ってました。次は野菜市場。色もカラフルで新鮮でした。パプリカ1kg(4個)1.5Ls(300円)。スイカ?はメロンぽい感じ。肉売り場では、豚頭1頭約5kgで7.5Ls(1500円)。鼻の部分がおいしいそうです(笑)。地元では煮込み料理にして食べるそうです。
 地元の料理を食べさせてくれる「リドレストラン」。休日は家族でここで食べるのが市民にとって最大の楽しみだそうです。デリ形式?なので、たっぷり堪能できます。今回は、スペアリブなど合計10.55Ls(2110円)でしたが、かなり豪華でした。住所はKrasta 76。tel:(371)7504420

●ラトヴィア バウスカ
 ルンダーレ宮殿は南部の国境の町、バウスカにある。電車とバスで行きました。電車の横幅は日本の1.5倍の広さ。菜の花が咲いていました。
 通称「バルトのベルサイユ」とも呼ばれているルンダーレ宮殿。1736年から30年かかって建築された。細部の装飾にいたるまで贅が尽くされたバロック様式の宮殿。最大の見所は、2階の「黄金の間」。細かい金の彫刻、壁の大理石と金箔、天井のフレスゴ画が印象的です。かつてはダンスホールとして使われていた「白の間」。この宮殿は18世紀にロシアの女帝アンナが愛人ビロン公と暮すために建てた宮殿です。ベッドが割と小さいですね。「バラの間」はピンク色です。趣向を凝らした部屋は全部で138。入場料15Ls(300円)。
http://www.rpm.apollo.lv/engl/

●リトアニア・カウナス Kaunas
 北海道の8割ほどの面積。人口350万人。通貨はLtリタス。ルンダーレ宮殿から、リトアニア第二の都市カウナスに向かった。
 「第9要塞博物館」は19世紀ロシア帝国によって作られた要塞の跡地で、第二次世界大戦ではナチスの強制収容所としても使われていた。ユダヤ人を拷問した部屋が今でも残っています。狭い部屋に数十人入れたり、うるさい部屋などがあった。入場料15Lt(600円)。

 そんなユダヤ人たちを救ったのが、リトアニア代表領事の杉原千畝さん(1900-1986)。カウナスにあった旧領事館が今は、杉原記念館となっている。ポーランドから逃げてきたユダヤ人たちに、半年間昼夜を問わず6千というビザの発給をして助けた。日本のシンドラーと呼ばれ、リトアニアでは最も有名な日本人として知られています。館長のシナモスさんが、助けられた人々からの手紙を紹介してくれました。入館料5Lt(200円)。住所はVaizganto 30。 tel:(370)332881

●リトアニア 北部 シャウレイ
 十字架の丘と呼ばれる。すごい数で、墓場みたいにも思える(笑)元々はロシア人に処刑された人々のために建てられたものでしたが、今では、結婚したらここに来て報告したり、様々な願い事をするために来るそうです。

●リトアニア・トゥラカイ城
 トゥラカイ城は湖に浮かぶきれいなお城。東ヨーロッパでここだけだそうです。一度見ると忘れないと言われています。14世紀に建築され、王のための住居として長い間使われてきた。橙色の屋根が印象的です。入場料8Lt(320円)。

●リトアニア・ヴィリニュス
 世界遺産。16世紀に首都となった時に建設されたゲディミナス塔を中心にして街が栄えた。今はヴィリニュス観光の出発点。
 街中ではリトアニアならではの特産品がある。ギンタロ・ミュージアム&ギャラリーに行ってみた。リトアニアは世界有数の琥珀の原産地。琥珀の店で、原石を見せてもらった。元々は数千年前の松ヤニが化石化したもの。中に蚊やハエや蜘蛛などが入っているものが高価なんだそうです。青色の琥珀の指輪は790Lt(3.2万円)。白色の琥珀の指輪は480Lt(2万円)。虫入りの琥珀は1300Lt(5.2万円)。琥珀は昔は魔よけだったそうです。
http://www.baltic.amber.museum/english/index.htm

 リトアニア料理で地元の人の一押しのレストラン「ジャマイチュウ・スムクレ」に行った。レンガが見える作りですが、アコーディオン演奏もある。「冷たい赤カブのスープ」4Lt(160円)。「ツェペリナィ」2個12Lt(480円)は飛行船という意味で、ジャガイモのお餅で、中にはお肉が入っている。住所Vokieciu 24。 tel:(370)2616573

 大聖堂などのどこか優しい教会が多く目につく。聖アンナ教会はレンガ造りが特徴の教会。9つあった城門のうち、ただ一つ残っている夜明けの門は、聖母マリアが祭られている。毎日多くの敬虔な信者たちが訪れ、祈りを捧げている。
 聖パテロ&パウロ教会は荘厳です。2000体の彫刻には一つとして同じものはないと言われています。


「ピン子と寿賀子の新美女ふたり旅 −バルト海クルーズ−」


 2004年1月25日放送。関東地方では2003年10月11日に放送。橋田寿賀子と泉ピン子さんが白夜・フィヨルド、バルト海クルーズ、世界遺産の旅をする。TBS製作。

●ノルウェーのノールカップ Nordkapp
 白夜の地のノルウェーのトロムソに到着。そこから飛行機でヨーロッパ最北端の岬ノールカップに向かった。今度はバスでノールカップに向かった。バスからトナカイが見えた。到着時間は夜中の12時。ノールカップ展望台は、北緯71度10分21秒、世界各地から真夜中の太陽を見るために人が集まる。大きな中がスカスカの地球儀がありました。ノールカップ郵便局では、名前を入れた到達証明記録をくれる。
 ホニングス・グォーグで一泊。

●ノルウェーのトロムソ
 バスでトロムソに戻る。道路にはトナカイがいた。トンネルを占拠していたので、バスがなかなか動けなかった。ピン子さんは半袖のシャツでした。
 トロムソは北極圏を目指した探検家の基地であり、捕鯨の基地でもあった、北極圏最大の町。アムンゼンの像もある。トナカイとアザラシの肉を食べるためにレストランに入った。他にはサメが食べられるとか(笑)アザラシは黒くて、トナカイの方がおいしいそうです。

●デンマークのコペンハーゲン
 まず人魚姫の像に行く。次は世界遺産のクロンボー城で、ハムレットの舞台となった場所。ハムレットとオフェーリアの像もありましたが、実際は Amlethだったそうです。15世紀の頃は上から監視して通過税を取るために作られた城だそうです。シェークスピアの像が石壁に掘り込んであった。さびれた城はフレデリック2世によって1572年に再建された。

 豪華イタリア客船コスタ・ロマンチカ号で、7泊8日のバルト海クルーズに出かけた。船にはエレベータもついています。寿賀子さんの部屋は豪華なスィートで60万円だそうです。全長220m、乗客数1600人、船内にはフィットネスジム、エステ、カジノ、ギフトショップ、いくつものバーがあります。避難訓練をまず行なう。ピン子さんはまずエステ。エステシャンはイタリア人美男子でした。
 クルーズの問い合わせはオーバーシーズトラベル tel:03-3567-4101 へ。

●スウェーデンのヴィスヴィ
 最初の寄港地は世界遺産に登録されている、スウェーデンのゴットランド島ヴィスヴィの街。数十人乗りのボートに乗り換えて上陸。ハンザ同盟の重要拠点だった。バラが咲き乱れ、あらゆるところに廃墟が見られるので、バラと廃墟の町とも呼ばれる。8月の初めの中世週間は、中世を再現するイベントで、町の人も観光客も中世の恰好をして楽しむ。サンタ・カタリーナ教会の廃墟に行った。

●クルーズ内
 その晩はジャン・カルロー船長主催のパーティに出席した。挨拶のあとシャンパンで乾杯しました。
 翌朝、バルト海のご来光を拝みました。
 ある日はイタリア・ディ。イタリア式のダンスで飲めや歌えやの大騒ぎ。

●スウェーデンのストックホルム
 次の寄港地。北欧のベニスと称される。人間と自然の共存が図られた美しい町。田中耕一さんなどのノーベル賞の授与式があったことでも有名。ストックホルム市庁舎を訪問した。ブルーホールでは12月10日に晩餐会が開催される。二階は今も使われている市議会の議場。見学のハイライトは黄金の間。ノーベル賞受賞式パーティの舞踏会に使われる。1900万枚の金箔が貼られた壁は素晴らしい。人間の一生を描いた絵も有名です。
 歴代のノーベル賞の晩餐会のメニューと同じものをいただけるレストランがある。ピン子さんはアインシュタインの時、寿賀子さんは川端康成さんの時のをいただいた。後者の分は、前菜はカメまがいスープ、ロブスター、前者はコンソメでした。
 ちなみに田中・小柴さんの時のメニューは前菜が「赤かぶとヤギのチーズのタルトレット」、メインは「スウェーデン産小鹿のフィレのロースト」、デザートは「バニラとチョコレートのババロア」でした。

●フィンランドのヘルシンキ
 北欧の白い都市、バルト海の乙女と呼ばれ、対岸には緑の島々が点在する。元老院広場にはアレクサンドル2世像がある。対岸のユニサーレ島でサウナに入る。新陳代謝をよくするために、サウナの中では白樺の枝で体をたたきます。30分入ってからバルト海に入った。
 マーケット広場を見学。トナカイの肉が入ったパエリアを食べた。フィンランドではミートボールとピザが多く食べられるそうです。

●ロシアのサンクトペテルブルグ
 300年前にピョートル大帝によりネヴァ川のデルタ地帯に作られた町。その街並みはバロック・クラシック様式を取り入れられて作られている。エルミタージュ美術館は有名。ピョートル大帝の像には毎日、結婚式をすませたカップルたちが記念写真を撮っている。
 300年祭で盛り上げるサンクトペテルブルグ。今度はエカテリーナ宮殿に行く。ここではスリに気をつけるように!全長740mの宮殿ですが、水色の壁が印象的です。第二次世界大戦でほとんどが破壊されたが、戦後60年かかって修復された。中には靴カバーをつけて入る。真っ赤な絨毯を踏みしめて中に入ると有田焼きが目に飛び込んできた。大広間(舞踏の間)はこの宮殿の一番大きな部屋で1000平方mある。ロシアのバロック様式の素晴らしい間で、鏡と金箔が特徴。琥珀の間は内装全てに琥珀が使われていて、世界の奇跡と賞されたが、ナチスドイツが撤退した時になくなっていた。復元は困難を極め、6トンの琥珀をちりばめて修復できた。外で4時間待って入るという。
 金色の丸屋根のイサク聖堂。世界でも3番目に大きい聖堂で、高さは30階建のビルと同じ高さ、14000人を収容できる。完成までに40年かかり、内装も豪華で22人の芸術家の手が加えられ、天井一面には聖書の場面が聖人のモザイク画で飾られている。丸屋根には100kg以上の金が使われている。ソ連時代はここも博物館にされていたが、現在は教会として再び祈りの場所として使われている。
 ホテル・アストリアでロシアン・ティーをいただく。専用の湯沸かし器サモワールで入れる。僕もジャムを入れるものだと思っていましたが、そういう習慣はないそうです。
 マリインスキー劇場も薄緑色できれいで、世界遺産の町は本当にきれい。川の側の屋敷も貴族の家で高さも限定されていたそうで、きれい。

●エストニアのタリン
 中世の空気を伝える街、バルトの窓とも呼ばれる世界遺産の街。2.5kmの城壁に囲まれた旧市街を中心に、バルト海地方独特の円錐形の屋根をもった建物が特徴的。
 ラエコヤ広場はカラフルな、市民の住んでいた下町の中心地。主なイベントはここで行なわれる。エストニアが独立して13年以上過ぎた今は、タリンにかつての社会主義の暗い影はない。中世ハンザ都市の賑わいを再び取り戻している。大聖堂(トームキリク)はエストニア最古の教会。教会の中には大きな棺がありますが、これはお墓です。そこの通路には13−18世紀の墓石があったという。
 世界でも最も古い薬局になる市議会薬局を訪問。1422年建造で、新しいものも古いものも置いてある。15世紀のレシピで作られた秘伝のスパイスワインは今でも作られているそうです。

●船旅の最後
 素晴らしい夕陽に遭遇しました。ピン子さんはこの旅での平和と自然のすごさに触れて涙ぐんていました。夕陽を見て初めて涙を流したそうです。その直後、東から月が出ました。

●ノルウェーのベルゲン
 ノルウェー第二の都市。ブリンゲン地区は世界遺産。カラフルなお家が並ぶ。巨大ロブスターを注文した。爪だけで両手にのるくらい大きい。サーモンが非常においしかったそうです。

●ノルウェーのソグネ・フィヨルド
 フィヨルドの氷河を見ることにした。ベルゲン駅から2時間かけてニュールダールに向かう。最初はトンネルが多い2時間です。ニュールダールからフロム山岳鉄道に乗って1時間。左右には息を呑むような光景が広がる人気コースだそうです。滝を見るためだけに止まってくれる素敵なサービスもあります。滝の真中に赤い服のきれいな女性が、音楽と共に登場しました。尻尾のある女性が街の男性と結婚すると尻尾が取れて幸せになるという伝説を題材にしたものだそうです。下にはすごい渓谷も見えました。
 フロム駅に到着。チャーターしたヘリコプターに乗ってフィヨルドを上から見る。長さ204km、水深1308mの世界一のソグネ・フィヨルドに向かう。氷河の上に立つというのが橋田さんの悲願です。氷河付近は雨で下りることができなかったが、その姿は広大ですごかった。
 次はフロムから船で水上からフィヨルドの姿を見たいという。船からでは静かに見ることができました。

●スコットランドのエジンバラ
 北のアテネとも言われている。8月の3週間に渡って、お城の広場で行なわれるのはミリタリー・タトゥー。バグパイプを中心に世界各地のバンドやダンサーたちがパフォーマンスを行なう。夜もライトアップされた中で行なわれる。踊りはハイランド・ダンスが多い?最後は蛍の光(オールド・ラング・サイン)を歌って花火で締めました。

●イギリスのロンドン
 ロンドン郊外のクリーブデン館。ビクトリア女王がこよなく愛したという庭園や土地は、今は国が管理し、建物は最高級ホテルになっている。美しい庭園を見ながらアフタヌーン・ティーをいただいた。


「福山雅治・西川貴教のオールナイトニッポンTV」


2001年9月30日?放送。フジテレビ制作。

 ニッポン放送のオールナイトニッポンでリスナーの夢をかなえるというも の。オランダ経由でケニアに向かった。次いでイタリア、ロシア、シアトル を回る、18日間世界一周。9月30日?放送。フジテレビ制作。

●ケニア
 岐阜県の大屋さんのリクエストは「キリンに飛び乗る」。トライしたがダ メだった。茨城県の蜷川さんのリクエストは「パラグライダーでケニアを飛 びたい」。早朝出発して、写真家のサイモン・コックスさんの案内でキジャ ベヒルというナイロビから70km離れたところに行く。レストランでコー ヒーとチャパティというパンを食べる。荒れた山道を2時間かけて登る。 標高2670m、高低差600m。東アフリカを南北に縦断している大地溝 帯である。サポート用の車が300m落下してしまった。仕方なく翌日は メイヤーズファーム(標高2300m)に行く。高低差660m。今回は 地元の人に祈ってもらう。しかし風が強くなってフライトはキャンセルされ た。3日目のトライ。男の方がケガをして、3年看護して結婚して、初めて 夫婦で飛んだ。風速3m、着地点はマサイ族のサッカー場だった。
 Great Lift Valley Lodge に宿泊。ダニが多いらしい。
 愛知県のくみこさんから「ヌーの写真を撮ってきてほしい」。西に160 kmのマサイマラ国立保護区に飛行機で行く。土の滑走路。高級リゾートホ テルに宿泊。カバがいた。向こうにはナイルワニ。オグロヌーがいた。数百 kmを移動してきている。噂では何万頭の大群がいるはず。川にワニがいる ので足止めされていた。ヌーは非常に用心深いので、川渡りは地元の人でも 一生に一度見られるか見られないかくらいらしい。それが見れた!2列に なって川に飛び込んで渡っていた。

●イタリア・ミラノ
 東京都の平井さんからイタリア料理を学びたいという夢。ドウォーモ広場 で待ち合わせ。平井さんは5年前にイタリアで修行したが、言葉の壁で挫折 して帰国していた。ミシュランの2つ星「Aimo e Nadia」という店へ。取材 の約束はランチのみ。後は3人で交渉する必要があった。オリーブ、新鮮な 野菜、ハーブとミントを使って独創的な料理を生み出してきた。「バジリコ のパスタ、トマトのピューレとリコッタチーズのせ」「ピエモンテ産子牛の カツレツ、アスパラ添え」など。世界中から料理人が集まってくる。3時間 に及ぶランチの後に、Aimo さんにお願いする。「厨房が狭いし、日本人も いるし、働くのは難しい。」ということだったが、「1日だけでも働かせて くれ」とお願いしたらOKが取れた。朝9時からテストを受けることになっ た。Westin Palace に泊まったらしい。
 朝9時。まずパスタ作りから。塩加減から全部やらされて作ったのは「 モンテロッソ産アリーチ(ひしいわし)のパスタ」アンチョビとイタリア・ サラダを使った。Aimo さんは塩が少し足りないという。しかし、可能性を 秘めているから今年中にまた戻ってきたら働けるという。
 東京都、佳美さんから「ミラノの日本人学校へ手紙を届ける」。磯先生に 渡す。荘厳な校歌も聞いた。
 兵庫県の吉田さん。「イタリア人でパスタが嫌いな人を探してほしい」。 プラカードを下げて探した。47人目に見つけた。20年前から食べてない らしい。
 埼玉県の鈴木さん「ローマ近郊のバレンタイン聖堂でロウソクに火を灯し て欲しい」。日本から持参した赤いロウソクに火を灯した。
 ミラノとローマからオールナイトニッポンを放送した。

●モスクワ
 シェレメチェボ空港。何と38度だった。東京の駒井さんは「ロシア女性 をモデルに写真を撮りたい」という希望。赤の広場、マネージ広場で駒井さ んと待ち合わせ、モデルを街でスカウトしてヌード写真を撮りたいという。 断られるので「クラシーバ」攻撃をする。
 ショッピングモールに移動。ガードマンに撮影中止と言われた。弁護士を 連れていたからOK。国立建築大学で現像するための場所を借りる。明日の 撮影のために花を購入したが、レストランではしゃぎすぎて置き忘れてしま った。仕方なく同じ花屋さんに行って、花を買った。
 ボリショイ劇場の前で待ち合わせ。アンナ・ロマノフさん。アレクサンド ラ・ポジャルスカヤさんの2名。撮影場所はツァリツィノ史跡公園。許可さ れているのは3時間。撮影途中で、たまたまとおりかかった警察の指示で 撮影中止。弁護士の活躍で許可が取れた。ぎりぎりで撮影終了した。フィル ムは10本。古い機材で現像した。福山さんは2時間現像タンクを振り続け た。撮影は大成功だった。それで駒井さんに番組のプロモーション用の写真 を撮ってもらうことになった。
 もしかしたら Sheraton Palace に泊まった。

●シアトル
 宮城県の岩嶋さん「メジャーリーグの佐々木投手と対戦したい」。 小学校の時に最後に勝ったけど、対戦した打てなかった。佐々木の通算300 セーブのかかっていた日だった。相手はミネソタツインズで5対1で勝った 日。佐々木投手と直接交渉する。試合終了後、1時間して登場。しかし、 投げられないとのこと。仕方なく、逆に岩嶋さんが投げて佐々木投手が打つ ことになった。2−3から三塁に打った。ブーン選手のサイン入りバットを プレゼントしてもらった。

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