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なお、これはわたしが個人的にテレビを見て書いたものであり、各テレビ局や番組とは全く関係はありません。
すべての文章の無断使用・転載を禁止いたします。
またここの情報を使って、何か問題が起こったとしても私は一切責任は持ちませんのであしからず。


テレビ番組「世界遺産への招待状50 西アフリカのトーゴのタキヤンタ」

 2010年8月28日放送。一風変わった世界遺産がある。

●トーゴのクタマク
 トーゴ北東部カラ州近辺に広がる大草原で、バタマリバ人の居住地になっている地域はクタマクと言われる。広さは50平方km。
 泥で作られていて、高さは3m以上あり、壁には不思議な模様が描かれている奇妙な建物がある。建物の前には埴輪にも似た小さな像がある。バタマリバ人の「タキヤンタ Takienta 」と呼ばれる独特の家。バタマリバ人は数百年前に北からやって来たと言われているが、詳しいことは今も不明。この村に外国人が来ることは滅多にない。今回も、事前の数回の交渉の後にやっと取材が許された。
 ンポー・エメさん(40歳)のお宅を訪問した。子供は15人。埴輪のようなものは、「ディティエンプオ」で、殺したい人がいたら鶏を捧げて、これに話しかける。すると相手は痩せて死ぬそうです。家族の健康を願う時も、動物を捧げるという。子供が一人生まれる毎にディティエンプオを建て、生け贄を捧げる慣わし。この地では、子供一人一人に先祖がついて、守ってくれると信じられている。
 家に入る前に帽子を取り壁にかける。ここでは住人より先にタキヤンタに挨拶する決まりがある。タキヤンタには先祖の霊が宿ると信じられている。羊やウシの寝る場所のすぐ横にンポーさんの寝床がある。ここで羊やウシの番をする。台所もある。屋上には、わらぶきの貯蔵庫がある。酷暑でもこの中では1年は食料がもつそうです。屋上には子供部屋がある。タキヤンタの家には様々な作法がある。大声をあげない、大きな足音をたてない、室内を照らさない、など先祖を敬うための決まり。
 ンポーさんは朝、畑に行く。子供たちも7歳くらいからは仕事をする。やせた土壌にも強いモロコシやポニオと呼ばれる雑穀を植える。その間に女性は家で木の実をつぶしてバターを作る。余ったら市場で売り、タバコやソースを買う。

 1週間後、村の様子が一変した。全裸の少年たちを見かけるようになった。この時期、成人を迎える若者のための儀式が始まる。村の祈祷師の命令で、少年は自分の強さを示すため、裸になる。ンポーさんの家も息子が成人の儀式を迎える。この日はンポーさんが食事を持ち、子供のいる二階へ行く。成人を迎えるのは11歳のバジル君。親が認めれば、若くても成人になる。バジル君は二階で一人で夜を過ごし、やがて先祖の霊が現れ、大人になることの意味を教える。大人になると結婚し、自分のタキヤンタを作ることができるようになる。
 成人式は1日では終わらない。2日後、驚きの行事が待っていた。祈祷師が成人になる若者のタキヤンタを一軒一軒まわり、生け贄を捧げる。その時、村人たちがある儀式を披露する。大人はムチや斧などを手に持ち、先祖が外敵と戦ってきたことを若者に教えるため。儀式の間、成人になる人は二階に姿を潜め、姿を見せてはいけない。ここから先は撮影するなと言われた。他のグループも成人式を行なっていたが、こちらは撮影はOKだった。タキヤンタの前で1対1でムチ打ちが始まった。手加減はしない。音を若者に聞かせるため。この儀式を通して、村を守りぬいた先祖の姿を伝えていくのだという。怪我もするが、勲章だという。
 翌日、ンポーさんの家を訪ねた。ンポーさんの背中は傷だらけでした。バジル君がやって来た。ンポーさんが示したディティエンプオには、生け贄の血がかけられていた。儀式が最後まで執り行われ、バジル君が大人になった証し。ンポーさんとタキヤンタの壁の手直しを始めた。


テレビ番組「世界遺産への招待状40 ベナン ルーツ・オブ・アフリカ1」

 2010年8月21日放送。

●ベナン共和国
 かつてこの地から、100万を越える人々がアメリカ大陸やカリブ諸島へ売られていった。奴隷貿易の港に奴隷を売って莫大な富を得た王朝「ダホメー王国」があった。300年近くにわたり、繁栄を謳歌した。その遺跡が世界遺産「アボメー王宮」。

●ウィダ
 首都ウィダは、古くからヨーロッパとの交易拠点として栄えてきた。18世紀、最も富を生み出す商品として扱われたのが人間。

 カリブ海の地域からベナンに来た3人の留学生が、自分たちのルーツを確かめるために旅をした。ジャッキーチェン・ペルビュー、タリックス・ドッシー、マグダラ・スイールさん。ガイドはマルティン・ダ・スーザさん。
 ウィダ市内に「帰還の木」という木が残っている。奴隷たちはこの木の周りを3周してから海を渡った。この地の王がその決まりを決めた。ここでは死者の魂の力を恐れている。奴隷たちに何の儀式も与えず遠くに運び、死なせては大変なことが起こると心配した。そのためにこの儀式を行ない、奴隷たちの魂がここに戻ってこれると考えた。
 ウィダ市内で一際目をひく巨大な建物が、白人の奴隷商人ドン・フランシスコ・フェリックス・スーザという人が建てた家。スーザ家は代々奴隷商人で、今でも多くの政治家を輩出する名家。ガイドのマルティンさんもスーザ家の6代目の子孫。マルティンさんが忘れられないのは、案内が終わった後に、アメリカ人女性が浜辺で泣き出したこと。慰めようとしたら手をはたかれたという。

●アボメー
 内陸にある町。かつて奴隷たちが運ばれた道「奴隷街道」を遡る。ウィダから舗装されていない道を車で4時間。
 どこまでも続く赤茶けた土壁が、世界遺産「アボメー王宮」。17世紀以来、この地に君臨したダホメー王国の、歴代12人の王が築いたアボメー王宮。40ヘクタールの敷地に宗教行事や、軍の出陣式を行なった広場、王の邸宅が残されている。
 王宮は宇宙の中心とみなされ、王は神のような存在だった。その邸宅には多くのレリーフが刻まれている。そこには同じアフリカの人間の首を切り落とす様が描かれている。当時、西アフリカでは部族間で熾烈な戦いが繰り広げられていた。その勢力拡大に欠かせなかったのが奴隷。奴隷と交換にヨーロッパ諸国から得た大砲。大砲1門につき、屈強な15人の男性、あるいは選りすぐりの美女21人が対価として支払われた。ダホメー王国は周辺諸国を次々と倒していった。その勢力は東は現在のナイジェリア、西はトーゴに達した。100万人とも言われる奴隷をもとに築かれたダホメー王国。それを象徴するものが残されていた。土壁には人間の血が塗りこめられている。奴隷、政治犯、捕虜の血をアルコールや貝殻や水と混ぜた。王は奴隷貿易で得た富を独占し、繁栄を謳歌し、スパイ組織をつくり、徹底的な恐怖政治を行なった。
 レリーフがある。第10代ゲゾ王の王座のレリーフは、人間の頭蓋骨の上に乗っている。敵を殺し、わざわざその頭の上に座った。ゲゾ王の力の象徴。
 ダホメー王国は19世紀に、貿易の相手国だったフランスに攻め滅ぼされた。300年近く続いた王国は終わり、フランスの植民地となった。その後フランスから独立を果たし、20年前ベナン共和国となった。
 学生たちの見学が終わった後に、王宮の広場で彼らを歓迎する踊りが始まった。やがて多くの妻と召使を連れた一人の男性が現れた。ダホメー王の子孫アゴリ・アグボさん。今も王と呼ばれ、尊敬を受けている。3人の留学生は王に挨拶に行けなかった。一人が質問したところ、王は謝罪しました。

●ガンビエ
 旅の最後に訪ねたのは、アフリカのベネチア「ガンビエ」。ひっそりとたたずむ水上集落。300年前、奴隷として捕えられることから逃れた人々がここに逃げ込み、村を作った。現在の人口は4.5万人。家、学校、病院、警察などが全てが水の上にある。
 ガン芸の踊りが始まった。3人も少し踊りを始めた。やがて場の雰囲気が変わった。自分たちの強さを見せよ!ということで「ヴォドゥンの儀式」が始まった。歌や踊りによって神がかりの状態になり、火の上を転げる。奴隷によってハイチにも伝わり「ブードゥー」として発展した。3人はヴォドゥンに「声なき人々」の力強さを感じ取った。


テレビ番組「THE 世界遺産 カメルーン」

 2010年6月13日放送。人口1800万人。250を越える民族集団が暮す。多様な気候、風土を持つことから、アフリカの縮図と呼ばれている。
 この国はサッカーが盛ん。

●ジャー動物保護区
 ジャー動物保護区は中央部に広がる熱帯雨林にある。首都ヤウンデから南東へ300km。手付かずの熱帯雨林が広がる。古くからこの森で暮らしているのは、バカの人々。雨が少ない季節になると、集落に暮すいくつかの家族が集まり森に入り、狩猟と採集の日々を過ごす。家は木の枝をドーム状に組み立て葉で覆っただけで、いずれは土に帰る。
 誰かが太鼓を鳴らすと自然に踊りがでる。バカが住むこの森こそが世界遺産である。
 東西100km、南北50kmを覆うエリアは、3方をジャー川に囲まれている。そんな地形が手付かずの森を残した。氷河期を生き残った原始の森です。遠い昔からアフリカの森で培われた生き物たちの世界。
 バカはこの森で数千年前から狩猟と採集を繰り返しながら生きてきたので、今も許されている。かつては弓や槍を使って獲物を追ったが、今はワナを使う。キャンプのまわり60箇所にワナが仕掛けられている。ワナにセンサンコウがかかっていた。森の獲物の中でも肉は一番のご馳走。肉は必ず煮て食べる。塩で軽く味がついている。葉にもりつける。森で得られたものは、必ず平等に分け合うのが、慣わし。

 森で狩猟をする人に対して、畑を作ったのはフンバン県のバムンという農耕の民。王は王国に幸福をもたらす力を持ち、誰からも尊敬される父親のような存在。街の中心には立派な王宮がある。バムンは14世紀に築かれ、17世紀からこの地で栄えた勇猛果敢な民で、由緒ある王国で、現在は19代目の王が存在する。芸術性の高い仮面文化でも知られている。王は日本人と似ていると語った。

 バカの民。キャンプを率いるピエールさんは近年変化を感じとっていた。多くの人が狩をするようになり、動物が減ったという。野生動物の密猟が増えている。イギリスのNGOが運営する「メフー霊長類保護センター GWAF 」。森の一部を柵で囲って、動物に安らぎをもたらした。特に親を殺されたサルたち。森にはゴリラ、チンパンジー、マンドリルなどが生息している。最近は動物たちの肉が市場で高い価格で取引されるようになり、密漁されるようになったという。

 バカの女性たちがジャー川の支流にやってきた。泥を積み、流れを堰止め、葉を使い水をかき出した。これは伝統的な漁で女性の仕事。また女性たちは土の中から羽虫?の巣を見つけ、ミツをいただいた。
 男たちは枝に火をつけて、木の孔にあるハチの巣を狙った。ハチをいぶりだし孔に手を入れるが取れない。反対から孔を開けて採ろうとしたが、蜜にはありつけなかった。

 バカの民は森にはたくさんの精霊が住むと信じている。100を越える精霊の中で最も大切なのが「ジェンギ」。ジャーの森の奥、取材陣は入れない場所がある。最も大切な精霊が「ジェンギ」の住みかだから。狩猟の神様であると同時に、彼らの日常生活の営みは、すべてこのジェンギによって決められ、守られている。誰かが死んだ時は、ジェンギがやって来て、残された人たちを支えてくれる。死者の魂を鎮めてくれる。ジェンギがいないと狩が成功しないという。何日も狩が成功しないと、彼らはジェンギを呼ぶ儀式を行なう。そしてジェンギが現れた。儀式は夜がふけるまで続いた。
 マラリアにかかった時に使う薬草など、400種類も薬草がある。

●ヤウンデ
 お店が並ぶ。そこには木彫りの仮面が並ぶ。カメルーンに200以上ある民族集団のシンボル。仮面はかつては身分証明書や通行手形として使われていた。多くの民族で生活を支える役割を果たしてきた。
 仮面や彫刻などのアフリカン・アートは、ピカソをはじめ20世紀の西洋美術に大きな影響を与えた。


テレビ番組「世界遺産への招待状33 西アフリカ」

 2010年3月8日放送。ヨーロッパ人が来るまでアフリカの人は幸せに暮らしていた。コレ島の「奴隷の家」からアメリカに向けて奴隷が船に乗せられた。300年以上にわたった奴隷貿易の悲劇。今、その子孫たちが訪れる。自分たちは何者なのか?

●アフリカのジョパス村
 子供たちがバオバブの木で遊んでいる。実はおやつにもなる。この村には電気も水道もなく、昔ながらの生活が続く。村の人はバオバブを信仰の対象にしてきた。樹齢500年のバオバブは、絶対に切ってはいけないという。雨乞いをすると雨が降ると言い伝えられてきた、今でも本当に雨が降ると、ジョパス村の村長イサ・ジェフさんは語る。またこの木のまわりでみんなが踊る。

●セネガル
 ダカールは人口200万人を越える大都市。16−19世紀にアフリカに進出したヨーロッパの国々にとって重要な貿易拠点だった。
 街の沖合いに浮かぶ島が世界遺産「コレ島」。ここに貿易品が集められた。貿易品とはアフリカ各地から集められた奴隷だった。奴隷貿易は利益が大きい一大産業だった。大砲の跡は、ヨーロッパ諸国がこの島を争奪した名残といえる。カラフルな家が並ぶが、そのほとんどが奴隷商人の館だった。小さな島に28軒あった。
 そのうちの一つが「奴隷の家」と名づけられ、一般に公開されている。館長のエロア・コリさんが説明してくれました。二階は奴隷商人の住まいだった。仲買人が庭に奴隷を並べ品定めをした。奴隷は奴隷船が来るまでおよそ3ヶ月ここにつながれていた。18世紀には奴隷1人につき200〜300万円で取引されていた。子供もいたが、大人の半額だった。体重測定した部屋がある。大人は60kgないと重労働に耐えられない欠陥品とされた。痩せた男は別の部屋に監禁され、無理やり食べさせられた。60kgになると商品として出荷された。若い女性は胸の形で処女か処女でないかを判断され、高い値段で取引された。中には奴隷商人の相手をさせられた人もいた。1枚の扉が海に向かってあった。それは「二度と戻れない扉」と名づけられていた。奴隷たちはここから船に積み込まれた。

 奴隷貿易は非常にうまくまわっていた。商人たちは武器やアルコールをヨーロッパからアフリカに運び、特定の部族に渡した。そしてアフリカの部族同士を戦わせた。負けた部族の人々を捕まえ、ヨーロッパの商人たちに引き渡した。この奴隷をアメリカ大陸に輸出した。アメリカでの「奴隷大売出し」の広告が紹介された。男は農夫、女は家政婦として働かされた。
 「奴隷の家」には多くの観光客がやってくる。アフリカの歴史と文化を学ぶための研修旅行で来たのは、モンゴメリー大学ケリー・ルディン教授のクラス。今まで学んできたこと以上の現実がここにあった。奴隷は1つの鎖に2人がつながれ、その間に10kgのオモリがあった。労働の際もトイレの際も同じ。2.5m四方の部屋に15人くらい入れられた。直接奴隷としてアメリカに行ったのは、1500万とも2000万人とも言われる。その背後には間接的に犠牲になった人はもっと多かった。奴隷として送られた1人に対し、6−7人がアフリカの地で亡くなった。つまり4世紀の間におよそ1億人が奴隷貿易の犠牲になったといえる。「許すけど、決して忘れない」と、コリさんは語る。アフリカ系アメリカ人の学生も自分の祖先のこと、人類のことなど考えていました。
 奴隷貿易の頃から歌いつがれている歌がある。恋人が外国に連れて行かれるという歌だった。学生の一人が踊り始めた。奴隷となった人の子孫と奴隷を見送った人々の子孫。
 テレビ・ドラマ「ルーツ」は実話に基づいた黒人奴隷の物語だった。主人公はクンタ・キンテ。15歳で奴隷狩りにあい、アメリカに送られ、競売にかけられた。大農場で農夫として働いた。同じ農場で働く女性と結婚し子供もできたが、幸せは続かなかった。一人娘が別の家に奴隷として売られた。娘は父から教えられた「アフリカ人としての魂を失うな」という言葉を子供たちに伝えていく。作者アレックス・ヘイリーが祖先をたどることで、自分がどこから来たのか、自分とは何者かを見つける物語だった。

●ガンビア
 セネガルに囲まれた国。セネガルはフランスの植民地だったが、川沿いはイギリスの植民地だった。アフリカは支配国の都合で国境が決められた。
 首都バンジュールはガンビア川河口にある。ここにドラマ「ルーツ」に大きな影響を受けた人がいる。イギリス人のジャクリーヌ・ムハンマドさん。ルーツを見て、5年前、ロンドンからアフリカに移り住んだ。最近、欧米からアフリカに移住する黒人が増えているという。彼女はそうした移住者へのサポート活動をしている。子供の頃からイギリスに住んでいることに違和感を持っていたそうです。
 アメリカから移住してきた人が集まった。クンタ・キンテと縁が深い村を訪ねるという。しかもそこは世界遺産だという。彼らは自分たちの祖先の出身地を知らないので、クンタ・キンテの祖先の地が一つの象徴だと思っている。ボートに乗り向かったのは、世界遺産「ジェームズ島とその関連遺跡」。16世紀からヨーロッパ諸国の船がこの川を盛んに行き来した。当時の交易所や要塞の跡が残っている。
 ジュブレ村も世界遺産の一部。この村からも多くの人が奴隷狩にあい、連れ去られた。その一人がクンタ・キンテだった。村にはクンタ・キンテの兄弟の末裔たちがいる。おばあさんが弟の子孫で8代目。クンタ・キンテ一族のラミン・シセさんが案内してくれました。まずクンタ・キンテが生まれた家。クンタ・キンテは村から連れ去られた人たちの象徴になっていたので、家が残されている。原っぱも語りつがれてきた場所。ここはクンタ・キンテが捕えられた場所。
 参加者から、アフリカ人を売ったのはアフリカ人だったのか?という質問がでた。ラミンさんはそういうアフリカ人はヨーロッパ人に利用されたのだという。そういう一部の利己的な部族のせいだという。それは現在でもアフリカの地で同じことが起こっているという。現在でも国民が苦しんでいる中で、支配している国がいくつかある例もそれと同じだという。違った形で奴隷制度が続いていることを知るべきだとラミンさんは語る。
 村に帰ると、歓迎の儀式があった。世界無形文化遺産であるマシディンカ族の儀式「カンクーラン」もあった。カンクーランは悪霊を追い払う。一緒に踊れば明るい未来がやってくるという。ジャクリーヌさんも踊りました。


テレビ番組「世界遺産への招待状19 モーリタニア」

 2009年9月14日放送。アフリカ西北部のモーリタニア。サハラ砂漠の奥地に4つの場所が集まった世界遺産がある。さらにサハラ砂漠の先に突然青い海が出現した。バンダルガン国立公園。

●ヌアクショット
 首都のヌアクショットから旅は始まった。訪ねたのは7月で、日中は50度近い気温。早速砂漠を走る。輪だちを頼りに走るが、すぐにタイヤが砂に埋まった。2日目、最初の目的地が見えてきた。

●ワラッタ
 ワラッタとは「日影の多い場所」という意味。キャラバン交易の場所として発展した。その時代の様子を今に伝えているとして世界遺産に登録された。
 赤土で塗られた家々の入口は様々な装飾で彩られている。まるで街全体が美術館のよう。
 プバカル・ウルドゥ・バルカさん(多分85歳)のお宅を訪問した。中庭にも模様が描いてあった。座って待つ女性のイメージを描いてあるそうです。中庭でお茶を振舞ってもらった。ブバカルさんは昔の話をしてくれた。小さい頃はたくさんのラクダがたくさんやって来たそうです。現在自動車の普及で、ワラッタは交易の拠点ではなくなった。古くから伝わる歓迎の歌を披露してくれた。客を踊りに誘うのがこの町の流儀。
 次の村に向かう時、ラクダの群れに出会った。最近はラクダは交易よりも遊牧の家畜として重要になっている。
 難所のオブドラゲ?の峠でパンクした。実はこの後30回くらいパンクを経験することになったそうです。また、サソリがいたが、都合5回出会った。
 夕食はヒツジのグリルだった。ドライバーのアリティニ・アグ・ハマイダさんは本当にうまく旅ができているという。

●ティシット
 「砂漠の真珠」と呼ばれた。自動車でのアクセスが難しい陸の孤島。街のすぐ傍でキャラバンで扱う品を掘り出していた。地面に浮き出た塩で、人が食べるのではなく、ラクダが食べる。ちなみにラクダ1頭が100kg以上を担ぐ。

●交易
 ワラッタ、ティシット、シンゲッティ、ワダンなどの交易都市の間をキャラバンは塩、なつめ椰子、アラビアゴム、金などを運び、アラブ、地中海世界とアフリカを行き来した。昔ほどの賑わいはないが、今なお続いている地域もある。

●シンゲッティ
 ティシットを経て、次の町まで600km。かつてはその繁栄から、モーリタニアはシンゲッティの国と呼ばれたという。出発して10日目に町に到着。
 石を積み上げて作った壁が迷路のように続く。小学校の教師をしていたというサイーフ・イスラムさんのお宅を訪問した。一家は数百年ここで暮らしているという。
 シンゲッティはイスラム第7の聖地と呼ばれるほど重要な町。メッカ巡礼の出発点として、多くの信者がここのモスクに集まったという。いろいろな町と交流があったという。500年も前の本がある。シンゲッティは西アフリカのイスラム文化の中心地だった。
 到着して3日目、町を砂嵐が襲った。シンゲッティは何度も砂に飲み込まれた。今の町もその上に作られたもの。
 市長もしたことがあるムハマド・ウルドゥ・エブヌーさん(72歳)が自分のナツメヤシ畑に連れて行ってくれた。砂漠化の現実は想像を絶するものだった。2年で高さ2mくらいまできていた。手を施さないと高さ10mのナツメヤシが姿を消すという。埋もれた屋敷がありました。でも対策があるという。鋤でかき出すこと。

●バンダルガン
 サハラ砂漠4000kmの旅。やっとバンダルガンの海に出た。砂漠がそのまま海に入り込み、遠浅の海になっている。遠浅の沿岸一帯で、暖流と寒流が混じり合う。海草が育ちやすく、エサとなる魚が多いので、シベリア、ヨーロッパから700万羽の渡り鳥が集まる。
 ここではイムラゲンと呼ばれる人たちが昔から暮らしてきた。20家族が住むイゥイック村は、トタンや木の板で作られた建物が建ち並んでいた。夕方、漁を終えて帰ってきた。セマッタさんは大きなシロクルビン?を捕まえていて、油で揚げるか茹でて食べるという。500匹近い魚が獲れていた。この海では乱獲を防ぐために、エンジン付きの動力船は禁止されている。
 翌朝、漁にでた。1時間進んでも水深は50cmほどだった。セマッタさんは地形を読み、魚の居場所を予測する。男たちが海面を棒で叩き、網に追い込む伝統漁。魚が跳ねてたくさん獲れた。セマッタさんは動力船で海が汚れて、昔より魚が減ったという。
 その夜、セマッタさんの娘さんの結婚披露宴だった。娘が嫁いだ相手とは一緒に食事をしないのが慣わしとか。新郎はセマッタさんと一緒に漁をしてくれるそうです。


テレビ番組「世界遺産への招待状 マリ」

 2009年4月27日放送。バンジャガラの断崖、次いでアスキアの墳墓、最後は黄金郷のトンブクトゥ。

●コラ村
 大地の表面から金が出る。いろいろな場所から金を探しに人が集まっている。マリは昔から黄金がたくさん採れることで世界に有名。長い間語り継がれてきた一つの伝説がある。「ニジェール川を下ると金がザクザク採れる黄金郷がある」。ニジェール川はアフリカ第三の大河。

●ニジェール川
 乾季の2月に訪問。水深が浅くなる。カバがいた。1隻の交易船に出会った。泥色の河の水で川魚を調理していた。目的地まで2日とか。

●バンジャガラの断崖
 ノンボリ村に到着する直前、車が路肩に落ちた。ドゴン族の人が手伝ってくれた。切り立った崖が200kmに渡って続く。700年前からの伝統的な暮らしが守られているという。断崖に近づくと、子供たちがたくさん集まってきた。アナガラ・キンドーさんが案内してくれた。村では5日に1度市が開かれ、女性たちは色とりどりの服装で着飾る。ニジェール川で採れた魚の薫製。大きな甕に入った飲み物「ニューワ」は、盛んに発酵している。ヒエのビールで、炭酸が効いていて、作りたてが旨いという。
 四角い建物が家、とんがり屋根は穀物倉庫。村の人口は700人。砂漠化の影響で、20年前の半分になった。トグナ?は村で最も重要な建物(裁判所みたいなもの)で、中では長老が昼寝をしていた。
 このような集落がこの断崖には700もある。14世紀、ドゴン族は他民族との衝突を避けて、移り住んだ。伝統の暮らしは、存続が危ぶまれている。

 アンデニエ・ギンドーさんは奥さんが2人、子供は7人。昼食は、魚でダシを取ってスープを作っていた。スープに蒸したヒエを合わせた「トー」。トーを食べ畑仕事をする。週に1度アンデニエさんは子供たちに伝統の踊りを教えている。踊りは小さい頃から覚えないと全部は覚えられない。しかし、習う子供も教える大人も少なくなった。次の世代に文化を伝えていくのは、簡単なことではない。日本の踊りを見せてくれといわれた。お返しに翌日、村の踊りを見せてくれた。断崖で生きるための教えや、ドゴン族の歴史を表現している。精霊や悪魔も登場する長い物語になっている。子供たちにとって、踊りは大人になるために生きた教科書。
 子供たちにプレゼントした画用紙と色鉛筆で断崖での暮らしを絵に描いてもらった。バオバブの木を描いた子もいる。バオバブの葉はソースになり、実はブイヨンになる。ヒモも作れる。

●ガオ
 東へ車で走る。空を覆う鳥の群れがいた。畑の作物を食べ尽くすので、人食い鳥と言われる。しばらく行くと、地球の気まぐれが生んだ巨大なオブジェ「ファティマの手」という岩がある。幸運を呼ぶ印。
 ニジェール川の港町ガオ。ガオは15世紀から西アフリカを支配したソンガイ帝国の都だった。
 アスキアの墳墓は塀で囲まれた場所の中にあった。数多くの木の杭が不ぞろいに飛び出している。ソンガイ帝国の皇帝アスキア・ムハンマドが15世紀に築いた自らの墓。ガオ市文化財保護官のラファエル・カマテさんが説明しました。これはピラミッドの形をしている。皇帝アスキアはメッカに巡礼した時に、エジプトでピラミッドを見て、その姿に圧倒された。突き出した木は足場になっていて、上に登ることができる。2年毎に表面の泥を美しく塗りなおす。その時に必要。真っ暗な穴を抜けると頂上についた。高さ17m。頭を下げ、畏敬の念を持って初めて頂上に来ることができるように仕掛けがしてある。
 最近発掘された遺跡「古ガオ遺跡」がある。西アフリカ最古10世紀頃の宮殿らしい。ここからアラブやヨーロッパと交易をしていた証明になるものが大量に出土した。
 アスキアは交易都市ガオの富を背景に、広大な帝国を築いた。

●タウデニ
 マリ北部地域。交易品として当時から大切だった「岩塩」が今も産出される。岩塩は貨幣にも薬にもなった。掘り出した塩は35kgの大きさにカットし、ラクダにのせて町まで運ぶ。大人のラクダが4枚に板を運ぶ。ラクダは南へ750km離れた街まで運ぶ。塩と引き換えに北に運ばれたのは金。

●トンブクトゥ
 20世紀、多くの探検家が目指して命を落とした。人口は4.5万人。町の北側にはサハラ砂漠が迫る。しかし、普通の町にしか見えない。
 トンブクトゥの金があるというので訪ねた。これは金ではなく、表面を金色に塗った麦わら細工だった。昔、金を求めて色んな略奪者がやって来た。金を守るために、ニセモノを差し出したという。
 町外れの砂丘で、歴史家イスマエル・ディアディエ・ハイダラさんが説明してくれた。南から運ばれる全ての金がトンブクトゥを通る。これを手に入れた商人は地中海などに運んだ。それでアラブ人や西洋人は金はトンブクトゥから来ると信じた。一人の王は、「トンブクトゥでは金は人参のように生えていて、いくれでも採れる」と言い、誤解が広がった。14世紀、マリの王カンカン・ムーサはメッカに巡礼した時に、大量の黄金をばら撒いた。この話が黄金郷伝説を生んだという。
 トンブクトゥは15世紀に最盛期を迎えたが、16世紀にはモロッコに侵略され衰退した。探検家たちがここを目指した19世紀には、町はとっくに衰えていた。
 トンブクトゥに建つ泥のモスク「サンコーレ・モスク」。モロッコに侵略される前は、この町には多くの神学校が建ち並ぶイスラム都市として栄えていた。アスキアの墳墓に似た建物もある。アスキアにとって、トンブクトゥはガオと同様に重要な都市だった。イスマエルさんは皇帝アスキアの末裔。家には当時の書籍1万冊以上が残されている。祖先はこの書物を守るために、砂に埋めたりもした。中には10世紀の本もある。
 3月上旬、トンブクトゥは1年で最も賑やかな夜を迎える。1年に1度のお祭り「マウルード」。イスラムの開祖モハンマドの誕生日。聖職者たちが夜どおし祈りを捧げる。女性たちは着飾って町に現われた。この夜に限り、女性たちは金を身につける。
 岩塩を運ぶキャラバン隊が到着した。往復で37日間かかるという。


テレビ番組「世界遺産 ニジェールの「アイールとテネレの自然保護区」」

 2007年10月21日放送。サハラ砂漠。砂と風が大地に描く一瞬の絶景。風景が生まれては消えていく。乾ききった世界。テネレ砂漠はサハラ砂漠の中で別世界。砂漠に生きる人と生き物たちの最後の避難場所だった。2000mを越えるサハラ有数の山岳地帯と変わり続ける砂漠の景観美。アイール山地とテネレ砂漠はアフリカ最大の自然保護区として1991年世界遺産。

●テネレ
 何もない土地という意味。西に行くと砂漠を遮るのはごつごつしたアイール山地。岩に刻まれたのはキリン。現在のサハラにいるはずのない動物。長さ5.4mで、ほぼ実物大。世界でも最高傑作の一つとされる。これが描かれた7000−8000年前はサハラのほとんどはキリンが闊歩する緑の草原だった。約1万年前に最後の氷河期が終わり、地球が温暖化。サハラには大量の雨が降った。
 サハラに緑の時代があったのは、岩肌を埋め尽くす絵はその証し。豊かな草木が覆い、川には水がとうとうと流れるサハラ。人は動物を飼い、植物を採って生きていた。
 サハラが再び乾きはじめ、砂漠化したのは3000年前。空から見たアイール山地。東部にくっきり弧を描くのはかつての噴火口。直径約10km。その内側には高さ300mにも達する、景観のよいアラカウ砂丘が広がっていた。サハラには絶えず、熱く乾いた北東からの貿易風が吹いている。ハルマッタンと呼ばれるその風が、カルデラの中に砂を吹き入れる。
 アイール山地が誕生したのは約4億年前。地下でマグマが固まってできた巨大な円柱状の花崗岩が地表を貫き、岩山になった。世界にも類のない地形。
 昼と夜とで極めて過酷な温度差、乾いた風が岩を砕き、そのかけらがやがて動き始めた。地表を舞う砂。その正体はほんの1、2mmの石英。砂漠の民は砂丘の頂きから砂が流れる様を「砂漠が泣いている」と表現する。サハラの膨大な砂は最初からここにあったわけではない。風化して岩が砂になった。いつか全てが砂になる。
 そんな場所で生きる人々がいる。らくだと共に旅に生きる遊牧民。オアシスからオアシスへ。彼らにとって大事なのは水場を確保すること。不毛に見えるサハラでも、2−3m掘れば地下水が出る場所がある。木の周りを石で囲むのは水分の蒸発を防ぐため。木が1本あれば人は影で生きていける。アイール山地の山間、過去には川が流れていた。地下にはその水脈がある。突然の雨が枯川を激流に変えた。翌日、雨があがると激流はまたたく間に消えた。雨は砂漠に不思議な光景を出現させる。草の川です。ほんの少し水が与えられただけで、芽が出た。サハラの南の淵は乾季と雨季で変わる。砂漠は300kmも端が移動する。

 テネレ砂漠の東に広がるのは奇岩の台地ジャド高原。吹きすさぶ風が岩を削りだした。アーチ型のものもある。殺伐した荒野には、水があり緑がある。

 サハラの奥地にある2000m級の山並みがアイール山地。雲を呼び雨を降らす。その雨が岩の割れ目にしみこみ水脈を産む。遊牧民トゥアレグはここにオアシスを造り、1000年前から暮らしてきた。それは1本の井戸から始まる。らくだが汲み上げた水がゆっくりと乾いた土地を肥沃な土地へと変えていく。土を耕し、種を撒き、木を植える。砂漠に浮かぶ小さな緑の島。アオシスとは元々自然にあるものではなく、人工のもの。トゥアレグの長老は言う。「砂漠は実に豊かな世界。私たちの人生そのもの。」
 砂漠を愛し、この暮らしを愛する人々と政府の間に激しい軍事闘争が起きたのは1990年代。その影響で、生態系が脅かされ、アイール山地もテネレ砂漠も危機遺産に登録されている。そこは過酷だからこそ、微妙なバランスの上に成り立ったもろい世界だった。
 人が砂漠を変え、砂漠が人を変える。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 マリ共和国ジェンネ」

 2007年9月22日放送。伊藤雄彦アナウンサーが案内。

●ジェンネ
 町ができたのは13世紀、以来泥に囲まれた環境で人々は生活してきた。首都バマコから東へ600km。ニジェール川とその支流に囲まれている。ジェンネとは天国という意味。建ち並ぶ泥の家々に1.3万人が暮らす。
 訪問したのは3月末、猛烈な風と砂が襲ってきた。乾季になると雨は滅多に降らず、草木も育たない。
 改築家の家を見せてもらった。1個3kgの日干しレンガを重ね、それに泥を塗る。泥職人のハシ・ヨヌさんがてきぱき作っていく。45度の気温で土壁はどんどんひび割れる。職人たちは毎年壁を塗り替える。手の平で塗りこんでいく。その最高傑作がモスク。
 世界最大の泥のモスクが町の中心に建っている。高さ20m、幅と奥行きは50m。壮大な町のシンボル。木の骨組みに大量の日干しレンガ。13世紀に原型が作られ、1907年に再建された。今年は再建100周年。

 モスク前の広場は多くのテントに覆いつくされている。数百年続く伝統の市。ここでジェンネの意外な面がある。乳製品を売るのはフルベ人。魚を売るのはボゾ人。ピーナッツを売っているのはバンバラ人。あとはマルカ人、ソンガイ人。人種によりそれぞれ商売が決まっている。住んでいる場所も違う。言葉も違うが、ジェンネでは話かけられた言葉で答えるという習慣がある。
 5つの民族の真中にあり、どの民族にも属さないのがモスク。住民はこれを中心につながってきた。ここに集い毎日祈りを捧げる。古くからの掟がある。「異なる民族同士協力しあい、血を流してはならない。何事も話し合いで解決する。」。14世紀、ニジェール川を通じた交易により町は栄えた。北のサハラ砂漠からは塩が、南西の森林地帯からは金や農産物が届けられた。ジャンネはあらゆるものが集まる神に祝福された町だと当時の書物に書いてある。商品と同時に川の流域に暮す民族が集うようになった。

 ハシさんの自宅を訪問した。自宅にモスクの模型を造っていた。この模型にはハシさんのモスクへの思いが詰まっていた。
 雨季には川になる場所に水が貯めてある。モスク専用の泥の池。この泥でモスクを作る。粘りをつけるために、藁を入れ、1ヶ月かけて発酵させる。臭いのは発酵していい泥になった証拠。モスクの化粧直しはみんなが参加する。しかし、55年前の事件をきっかけに問題が起きている。民族の異なる長老同士が化粧直しの技を競い、対立した。以来、モスクの化粧直しは日をずらして半物ずつ行なうことになった。再建100年なので、100人の泥職人たちが結束しようとした。半世紀ぶりに全ての地区が同じ日に参加するかどうか。今年の化粧直しは4月5日。2日前に泥を見に行くと、いい感じになっていた。
 前日、大量の泥をモスクに運ぶことになっている。次々と泥を籠にのせて運ぶ。町の全地区の人が泥を運ぶ。半世紀ぶりに全ての地区が同じ日に参加することになった。籠1杯の泥で5kg。伊藤アナも運んだがかなりきついそうです。モスクまで800m、これを10回以上繰り返す。川べりでは女性たちが水を汲んでいた。運んだ泥が固まらないように、女性が水をかけ続ける。泥をこねるのは子供たちの仕事。午後7時、化粧直しの準備が整った。

 4月5日午前4時、化粧直しが始まった。壁に張り付いている人がいる。泥職人たちが場所取りをしている。午前6時前、長老たちが集まり、最初の壁塗りをして開始。10mの巨大な梯子が登場し、職人たちに泥を提供する。日差しが強くなる昼までに作業を終えないと、泥が乾いてうまくいかない。時間との戦いです。みんな泥まみれで働きました。ひび割れていたモスクが生まれ変わった。午前11時作業が終了した。翌日、人々がモスクに集まった。
 ジェンネには昔から言われている言葉がある。「この地を訪れた誰もが、故郷より居心地がいいと思える、そんな町を作りあげよう。」伊藤アナウンサーも一体感を体験しました。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 マリ共和国ドゴンの集落」

 2007年9月15日放送。伊藤雄彦アナウンサーが案内。

●行く途中
 場所はバナコからニジェール川に沿って上流に上っていったところ。行く途中に、フルベ人の牛追いの儀式を見た。川のほとりでは草の生える位置が変わるので、牛の川を渡る大移動がある。ガイドのサンバ・ディアローさんが説明してくれた。
 ボゾの人は魚を求めて川を移動しながら暮らしている。なまず、すずき、鯉の仲間など数十種類。マリの住民の半数以上がニジェール川流域に暮す。カバやワニなどの野生動物も数多く生息している。
 ニジェール川の流域から東へ100km、乾いた大地と移動する。この日の気温は45度。着いたが、崖しか見えない。

●ドゴンの集落
 高さ200mのバンディアガラの断崖絶壁が続く。そこに人が暮す。その暮らしが世界遺産に大きい。断崖に約700の村が築かれ、25万人が暮らしている。道のようなただの岩のような生活道路がある。不思議な岩の造形がある。そこを抜けると開けていて、崖の途中に集落がある。村の建物は泥と小さな石を積み上げて作られている。穀物倉庫は萱ぶき?のとんがり屋根。
 ドゴンの人は800年前にここに住み着いた。13世紀に民族の争いから平野から山に移動したらしい。当時はこのあたりはうっそうとした森で、ヒョウや大蛇などがたくさん住んでいた。それで崖の中に集落を作って生きていくしかなかった。自給自足の生活を送る。トンガは村の集会所、議論が激しくなって立ち上がるのを防ぐために天井が低くなっている。
 ノンボリ村は人口700人。ドゴンに古くから伝わる祭りが開かれていた。仮面踊りで、足にくくりつけた竹馬みたいなのに乗っている人もいる。高さ3mくらいになる。農作業が一段落する乾季の3月〜5月に祭りは開かれる。仮面踊りにはそれぞれ物語りがある。働くことを嫌がる怠け者を何とか奮起させようとする踊りがある。断崖で生きていくための教えや、ドゴンの歴史が表現されている。リーダーのアンデニエ・ギンドさん(48歳)の暮す家を訪問した。妻のヤクヌディさんと共に大家族を養っている。粟や稗など5種類の穀物を育てている。屋上には畑がある。唐辛子や野菜を育てている。岩の上の崖の途中にはお墓がある。動物たちがやってこれないお墓は神聖な場所。
 畑に連れていってもらった。小さなカボチャみたいなのはナス。甘いそうです。トマトもおいしいそうです。深さ10mの巨大な穴の中には水が貯めてある。ここから水を汲んで、村人は毎朝100回井戸と畑を移動する。
 近くの高さ8mの大きな岩の上で作業している人がいた。たまねぎをつぶして保存食にする。
 5日に1度市が開かれる。近隣の村からも人が来る。主役はアワのビール。値段は大きなお椀1杯で40円。ノンボリの市は別名「ビール市」と呼ばれる。
 ドゴンには数々の掟がある。誰とでも挨拶を交わす。何人とも争いを起こさない。先祖への感謝を忘れない。
 集落の外れの大きな岩の上で、子供たちが伝統の楽器を鳴らしている。先祖の魂が眠る場所の下で2週間共同生活をしている。壁には先祖が描いたドゴンの歴史や掟。最後の日は300mの崖を駆け上る。
 1930年代にドゴノの人々の存在が世界に広まった。観光の波にさらされながら、自分たちの伝統文化を守ってきた。
 ドゴンの村村が深刻な場面にあっている。人が住んでいない家がある。作物が育たなくなってきたので、家を出た人が多くなっている。この10年で村を出た人は700人。人口は半分になった。なぜ作物が育たなくなったのか?砂漠化の影響らしい。40年前から毎年雨が減ってきているそうです。干ばつが増えている。地球温暖化の影響だろうと言われている。
 仮面踊りが消えていっている。先祖から受け継いだドゴンの誇りをついでいきたいとアンデニエさんは語る。


テレビ番組「世界遺産 マリ」

 2007年6月24日放送。サハラ砂漠にあるのはただ砂ばかり。多くのキャラバンはラクダに乗ってかげろうを目指した。

●ジェンネ
 サーヘル地方はサハラの南の果てで、砂漠の岸辺を意味する言葉。雨季になると氾濫するニジェール川が肥沃な大地をもたらした。かつ重要な輸送路でもあった。北からは砂漠で取れた塩が、南からは大量の農作物が運ばれた。その交易の一大拠点がジェンネだった。ニジェール川とその支流にはさまれた氾濫原に浮かぶ町、天国と呼ばれた泥の町ジェンネ旧市街は1988年世界遺産に登録された。
 語り部が語るマリ帝国誕生の物語。マリの王がアフリカ西部を支配したのは、ニジェール川の上流で金の産地を抑えたから。14世紀、黄金帝国の名はヨーロッパにまで届いた。
 ジェンネは、北の砂漠と南の森をつなぐニジェール川水運の中継地だった。アラブやベルベル商人は、ここで食料や生活物資を調達した。商人たちは品物だけでなくイスラームの教えも伝えた。イスラームは高度な文明の体系だった。イスラームの学識者が統治する自治都市として繁栄を謳歌した。ジェンネの市は、王でさえ立ち入ることのできない神聖な空間だった。
 川の氾濫でとれたのは日干しレンガ。いくらでも取れ、しかもタダ。足でこねてわらくずで包んだレンガを型に入れ、天日で乾かす。ジェンネは町全体が泥で作られている。親方から技術を受けついだ職人は100人近くいる。雨季に備え、油を含んだ土で家の上塗りをする。
 まるで大地からじかに生えたような泥の建築、高さ20mの大モスクは、日干しレンガによるものとしては世界最大。この様式はサハラや北アフリカにまで伝えられた。700年前から幾度と再建を繰り返し、現在の姿になったのは20世紀最初の頃。塔の頂にはダチョウの卵があるが、平和を尊ぶイスラムの教えのシンボル。
 サハラ交易の最盛期とされる16世紀には、ジェンネには1万人を越える人が暮らしていた。かつての裕福な商人の館。そこのモロッコ風の飾り窓は結婚前の女性が外をのぞくためのものだった。
 コーラン学校からはアラビア語を学ぶ子供たちの声がする。ジェンネの人が文字を知ったのは、交易での商人とのつきあいからだった。イスラームの教えは暮らしの隅々にまで浸透した。町はずれの墓地に向かう葬儀の列。ジェンネの歴史は土の中にもある。人々が住み始めたのは紀元前3世紀頃。
 サハラ交易を支えたのはジェンネのまわりに広がる豊かな食料生産地だった。土器作りは女性の仕事。機織は男性の仕事で、熟練を要する。元々裸で過ごしていた人々に着衣の習慣を広げたのもイスラームの人だった。植物などを煮出した色素で染める。それらがジェンネに集まった。
 古の賑わいを彷彿とさせる光景が、大モスク前の広場で開かれる月曜市。ジェンネの市は王でさえ立ち入ることができない神聖な空間だった。遊牧民フルベは穀物、川の民ボゾは魚、農耕民バンバラはスンバラ味噌など、女たちが着飾り、産物をもって集まる。しかしかつて市を賑わわせたアラブやベルベル商人の姿はない。サハラの岩塩も今は海の塩に変わりつつある。砂漠のルートが途絶えた。南方の森で採られたコーラの実、貨幣に使われたタカラ貝、懐かしい品は並ぶが、月曜市は地域の人だけが集まるマーケットに様変わりした。ある意味シルクロードの終点はジェンネだったとも言える。しかし今、サーヘルは世界で最も貧しい地域の一つ。サハラ交易が衰退したからで、それを決定的にしたのは、ヨーロッパ列強によるアフリカ分断だった。砂漠の上にまっすぐに引かれた国境線は人とモノの豊かな交流を断ち切った。それはわずか100年前の出来事だった。


テレビ番組「黒柳徹子のコートジボワール報告、内戦・貧困・エイズ・・子供たちは今 」

 2006年7月16日放送。ユニセフ親善大使として22年、黒柳徹子さんは飢餓や戦火の国を訪問している。日本から約2万キロ、アフリカ大陸の西に位置するコートジボアール共和国(象牙海岸)は黒柳さんの24番目の訪問国。今年2月雨季に訪問した。テレビ朝日制作。

●内戦
 国旗は縦に左からオレンジ、白、緑で、オレンジは北部のサバンナ地帯、緑は南部森林地帯、白は両者の団結?を表わす。1960年フランスから独立し、安定した成長をし、奇跡と言われたが、1999年12月24日に軍事クーデターが起き、民族や宗教の対立が表面化した。2002年9月19日反乱軍が各地で蜂起し、全土が内戦状態となった。国の南側を政府軍が、北側を反政府軍が支配した。内戦での死者は数千人、国内避難民は70万人となった。内戦後北側に初めてテレビカメラが入った。

●アビジャン
 アビジャン国際空港に到着し、車で30分で最大の都市アビジャンに到着。事実上の首都機能を果たしている。マルシェ(市場)も賑わっている。独立後は農業が国家経済を支えてきた。チョコレートの原料のカカオ豆の生産が特に重要で生産量は世界一の100万トン。2位はガーナで38万トン。しかしこの国の子供達はチョコレートの甘さを知らない。街のいたるところでサッカーをする少年を見かける。今年W杯に初出場した。
 一見平穏そうに見えるが、そうでもない。今年1月16日に外国の政治介入に反対する若者たちの抗議デモが行なわれ、道路を閉鎖、国連PKOやフランス大使館を襲撃した。しかし、和平の兆しも見える。国連の支援の下で、政府軍、反政府軍が今年10月までの間に平和的選挙を始めることを発表し、武装解除が始まった。しかし緊張は続いている。外国企業は撤退し、日本なども大使館を閉鎖した。

 危険なので、無線を全員が持たされ、PKOが保護して北側に向かった。130km。ひろびとして緑がある国はアフリカには少ない。家畜はいないから増やしたらいいのにと黒柳さんは言う。南部の人はあまり働いてないらしい。チェックポイントをいくつか通過。事前申請してない車はずっと待たされる。道は整備されています。

●首都ヤムスクロ
 政府軍の支配地域で、ウフェ・ボアニ初代大統領(在任期間1960-1993)の出身地。彼は近隣諸国の人々も受け入れ、農業を奨励し、経済を発展させた。世界最大のカトリック教聖堂バシリカ大聖堂もボアニが建てた。ユニセフのフェリックス・アケボさんは「彼の初期の時代に外国から移民を受け入れ働かせた。人は彼らに土地を売ったが、最近の若い人は土地を取り返したいと思っている。」ことがきっかけにもなっているようです。60もの部族からなるコートジボワールでは、民族の差別、軍人の不満から内戦になった。
 「ミエ・カトリック・センター」に内戦避難民550人がいた。寄付された食料などで生活している。ブーゲル・ヨーランドさん(32歳)は西部の町から600kmの道のりを歩いてきた。足が悪いが、36度にもなる部屋で1日を過ごしている。バブ族だという理由で若者に攻撃されたそうです。ここでも食べる物はごく少ししかなく着物は破れたものしかない。クワク・ニンゲッサン・ジャケリヌさん(40歳)は北部から逃げてきたが、夫は撃たれて亡くなり、子供たちもバラバラになった。

 北と南の緩衝地帯では国連軍6000人が監視を続けている。アビジャンから車で4時間。次に反政府軍のチェックポイントを通過。

●ブアケ
 コートジボアール第二の都市。政府軍との間で激しい戦闘が繰り広げられた町。2004年11月に空爆されたまま残っている反政府軍の本部もある。政府軍との戦いには18歳以下の子供が少なくても3000人が兵士として送り込まれた。学校が閉鎖されて子供たちはする事がなかった。ユニセフは子供たちの社会復帰と除隊のプログラムを行なった。
 アブ君(19歳)は少年兵として内戦に参加した。警備をしたが、給料はもらわなかった。これからは仕事をしたいし、平和であって欲しいそうです。少年兵のためのNGO「デレガシオン・フォンダシオン・アクワバ」に行ってみた。カウンセリング、読み書き、職業訓練などを行なっているが、運営資金の不足が大きな問題になっている。ユスフ君(16歳)もここに通うが、12歳の時に兵隊となった。平和な国になってほしいと思っています。自動車修理工場で実地訓練していました。
 北部の病院の医師(国家公務員)は内戦後に南部に逃げたという。住民たちはサービスが受けられない。破壊されたままの病棟も多い。ユニセフは直しています。日本からは蚊帳がプレゼントされている。マラリアが多いため。産婦人科では医師や助産婦などがいない状態で生むことが多く、母子の死亡率が高かった。各種ワクチンもそろい、BCG接種率は26%から45%に上昇した。それでも国民の平均寿命は46歳。これは1歳未満の死亡率が1000人あたり117人と高いことにもよる(日本は4人)。北部では5人に1人が発育障害が見られるそうです。

 NGO「サントレ・ソリダリテ・アクシオン・ソシアル・ブアケ Centre Solidarite Action Sociale Bouake 」はHIV感染者とエイズの人々3000人に医療や教育の支援をしている。みんなに歓迎されました。オリビエ君(17歳)は、僕一人じゃないんだから、死ぬまで病気と闘うという。アジズ君(12歳)の両親は亡くなっていました。エリカさん(11歳)は困っている人を助けたいそうです。コートジボアールの感染者は国民の7%、薬を投与される子供は2000人以下。31万人の子供たちが孤児となっている。

●コロゴ
 北部の反政府軍の司令部がある。バカヨコ・スマイラ将軍と会談しました。近くのコウノントンヴォゴ村に向かう。農耕と牧畜が中心で、みんなに歓迎されました。木琴を弾いてくれました。ユニセフとアークが共同で保健などの活動をしている。ここ数年の干ばつで飲料水の供給が減り、給水ポンプを設置した。学校の教師も公務員で、内戦で南部に逃げたそうです。青空教室で読み書きや算数を教えています。学校もユニセフが再建していました。子供たちは黒板を持ち歩いて勉強していました。帰りにヤギを1頭いただきました。アビジャンの孤児院にペットとしてもらわれていきました。土地は肥沃で、水が足りないことと、やり方を知らなかったことが問題だったようです。野菜が育っていました。

●ダロア
 中西部の町。カカオ農園に入る。生産を支えているのは子供達で、20万人が奴隷のように働かされているという。子供を売ることがあったようです。ユニセフなどがプログラムを実施している。農業組合カボキバの倉庫の中を見せてもらった。子供を働かせるならカカオを買わないという国が増えている。農園の中に私設の小学校が作られていて、教育をしていました。この農園は14歳以下は働かせない。ユニセフは18歳以下にしなさいと言っています。しかし強制的に働かせている農園も多いようです。

●アビジャン
 アボボ地区は人口が密集し、犯罪が増えている。町の一角にNGO「ルミエール・アクシオン・アボボ」がある。エイズ患者をメインに支援している。カウンセリングや血液検査が受けられる。マラリアを防ぐために蚊帳も配布している。エイズ孤児も多い。みんなで歌とゾウの作ったもの?をプレゼントしてくれました。子供たちは明るかった。

●ブナ
 北東部の国境近くの町に国連機で移動した。車は危ないため。写真家の田沼武能さんが行った。ここは特に貧しい町。北部では、子供の10人に1人がじゅうどの栄養失調で、5人に1人が発育障害の症状を示す。NGO「カリタス」が女性と赤ちゃんのために活動している。毎週金曜日にはWFP(世界食料計画)から届いたトウモロコシの粉が2週間分支給される。

●北部の都市コロゴ
 サッカーでW杯に出場し、アルゼンチンと対戦した。店の外で応援していた。このことが国の統一の一つのきっかけになる。結局アルゼンチンに1−2、オランダに1−2、セルビア・モンテネグロに3−2でした。
 サッカー少年に会ったが、全員がストリート・チルドレン。将来はサッカー選手になってうまくなりたいと思っています。

●募金のお願い
 ワクチン代、HIVの薬代、子供たちの教育費などお願いします。みずほ銀行六本木支店、普通1546555 ユニセフ親善大使黒柳徹子、または、郵便振替、00130-5-8060 ユニセフ親善大使 黒柳徹子、宛。


テレビ番組「なるほど!ザ・ワールド、黄金の祭典スペシャル」

 2005年5月4日放送。爆笑問題が司会。和田アキ子、ユンソナ、石原良純、MEGUMI、ガレッジセール(ゴリ、川田)、堺正章、薬丸裕英、W(ダブルユー)(加護亜依、辻希実)さんがパネラーとして出演。テーマを選んで蔵出しと現在のものを両方お見せしました。フジテレビ製作。

●究極のチャレンジ
 「仁王立ち!」1994年9月27日放送。スイス・ベルナー・オーバーランド。メンヒという4099mの山がある。この山頂に安達祐実さん(当時13歳)がヘリでやってきたが空気が薄い。

 「爆走トラック!」1987年9月8日放送。フランス・ブルグイユで泉ピン子さん(当時39歳)がウィリーをするトラックに乗った。泉さんは号泣してました。

 「空中散歩」1986年4月15日放送。アメリカ・カリフォルニアで、益田由美アナ(当時31歳)が乗ったセスナから男性が飛び降りた。セスナは時速170kmで降下。男は飛行機に飛び移るつもりだった。そして捕まえて助かった。

 「サーフ天国」1991年9月30日放送。アメリカ・コロラド州で、田中義剛さん(当時33歳)の前に砂丘の上でサンド・サーフィンする人が集団で来た。一番下の川のところにみんな滑り込んだ。

●アメリカ・ミズーリ州スプリングスフィールド
 「究極のチャレンジ・危険な家族」。内藤剛志さんが行った。1901年にテキサス州のテイラー夫人がナイアガラを樽で落ち生還した。
 家族でチャレンジしているという人をシカゴの南西の方にあるミズーリ州の自宅に訪ねた。ディビッド・スミスさん一家。家の敷地は東京ドーム4個分。スミスさんはこの仕事でギネス記録を持っている。実は人間大砲で50m飛んでみせてくれましたが、家族みんなでやるそうです。長女レベッカさん(36歳)、長男デイビッドJrさん(27歳)、四女のステファニー(21歳)もやっていますが、今回、ディビッドさん、次女のジェニファーさん、四女のステファニーの3人同時に行ないギネスに挑戦し、成功しました。


●世紀の大発明
 「世界一巨大な自転車」。1990年5月1日放送。ドイツ・ベンリシュリッツで宮崎美子さん(当時31歳)が取材しました。

 「風力発電車」。1987年7月14日放送。益田由美アナ(当時32歳)がオランダで取材しました。トンネルも歩道橋もくぐれませんし、速度も歩くくらいの速さ。最高時速8km。

 「90度傾く船」。1986年4月15日放送。アメリカ・カリフォルニア州で益田由美アナが取材しました。海洋調査をするために90度傾きます。沈みそうで沈まない。

●フランス北部・ムルシャン
 ベルギーとの国境近く。ヒロシが行きました。フィリップ・エルメさん41歳は市役所の職員。庭には水車があり、恐竜が動いたり、ガイコツが音楽を演奏したりします。発明品は廃品を利用しているので格安。ミニチュアの人形のオーケストラを見せてくれた。製作期間は1年で、全て手作り。制作費は200ユーロ(2.9万円)。

●フランス西北部・ノルマンディー地方
 パリから西へ350kmのエコスビル?。田園地帯の中でジャン・ピエール・ダビッドさん38歳と出あった。長さ150m、高さ30mの巨大倉庫の中に発明品があった。携帯できる?一人乗りの人力飛行船。ヘリウムガスを1時間かけて入れていき(30万円)、全長11m、幅5m、体重制限90kgの飛行船になった。世界各地のイベントで飛んでいるが、どこでもみんなに喜んでもらえるそうです。手につけた翼で方向とかを制御する。

●世界の珍体験
 「留学先で」。1995年4月25日放送。福原愛(当時6歳)が中国・上海でみんなに愛嬌を振りまいていました。銅像に「お茶どうぞぅ!」って言いました(笑)卓球小学校に留学しました。

 「レストランで」。1984年2月21日放送。コロンビア・ボゴタで、益田由美アナ(当時29歳)が、アリのふりかけをご飯に食べて食べてみた。シャリシャリした不思議な食感だそうです。

「戦闘機で」。1990年4月2日放送。アメリカ・カリフォルニア州で堺正章(当時43歳)、薬丸裕英(当時24歳)が戦闘機に乗って、急旋回(最大6G)、宙返りして相手の後ろに回りこみミサイルを発射するなどの空中戦を体験できる。

 「ある家庭で」。1994年3月29日放送。イギリス・リンカーンで、和田アキ子さん(当時43歳)が、16人の子だくさんの家庭を訪問。全員が年子でした。

●マカオ
 世界の珍体験「新名物で」。乙葉、KABAちゃんが香港からジェットホイル(片道130香港ドル:1800円)で1時間、マカオに到着。セントポール大聖堂の前では舞龍(マオロン)の踊りをやっていた。
 リスボア・ホテルではカジノが楽しめる。エッグタルトはマカオが発祥の地。1個5.5香港ドル(80円)。新名物はマカオ・タワーで、高さ338m。エリック・ロウさんがガイドしてくれました。60階は展望レストランになっている。マカオ一の絶景が楽しめます。昼食は160香港ドル(2300円)でブフェ形式で、和食やインド料理も楽しめます。1時間で360度回転するので、眺めも変化する。
 ここでしか体験できないことは、地上233mの地点で、スカイウォークX(220香港ドル:3000円)で安全装置をつけてタワーの外を歩く。さらにてっぺんまで登れるそうで、残り105m。マストクライム1人900香港ドル(12600円)。12階分は塔の中をはしごで登りますが、303m地点から外に出て、外側のはしごを上ります。風が強いのが恐いですね。KABAちゃんは一番上まで上がりました。足場は30cmしかありません。揺れていて下りれないって言ってました。マカオタワーをオカマが制覇したと言ってました(笑)

●驚異の達人
 「空飛ぶ野菜炒め投げ」。2004年12月28日放送がありました。

 「巨大すもう達人」。1994年10月3日放送。ロンドン在住のトッド・コーディさん54歳。堺正章、薬丸裕英が背中に3mの力士をかついですもうをしました。会場に来てやってくれましたが、面白かったです(笑)
 爆笑問題の田中が挑戦して勝つかどうかを問題としましたが、あっけなく達人が勝ちました。

●カメルーン
 「田中が一番大きくなれる村」。ピグミー族の村がある。有坂来瞳さんが、身長154cmの田中の等身大のパネルを持参して、首都ヤウンデからピグミー族の村ロミエまでは、まず東北東のベルトアまで移動して、南南西のロミエに移動するという約800kmの旅。途中から車が通れないので、歩いて30分で到着。成人女性の平均身長は135cm、男性は145cm。有坂さんは162cmでかなり高いです。狩の時に体が小さい方がジャングルの中で素早く動けるから、長い時間をかけて小さくなったようです。ピグミー・ムフティ族はコンゴ共和国の北部に暮らし、ピグミー・バカ族はカメリーン南東部に暮す。バカとは現地語で「森に暮す人」という意味。ここで等身大の田中のパネルを出すと、一番高いようです。女性にももてていました(笑)
 村長のビリンバさんに挨拶して、お土産の羊羹を渡したが、とてもおいしいと言われました。お礼にご馳走してもらいました。マニョックはデンプン質を多く含む植物の根で、ピグミー族の主食の一つ。さつまいもの糖分がない感じだそうです。アルマジロを森で捕まえてきました。甘くておいしいそうです。女性が取ってきたのは、イモムシとサナギで、唐辛子のような香辛料と一緒に煮込む。貴重な蛋白源です。女性のオシャレは上の歯をとがらせること。男性もですが、とがらせるにはナイフを使います。男性が求婚して父親からのテストをクリアしないといけない。テストは木のぼりでした。狩の道具が作れることも大事です。あと、やり投げの腕が認められないとダメです。
 結婚後に最初に新婦がやることは、家を建てることで、木の枝で骨組みを作り、葉をのせていく。あとは魚を捕まえること、カゴが編めることができないといけない。夫婦喧嘩をすると、女性が家を壊してしまうそうです。

●太田遺産
 過去の分から後世に残したい太田光が選んだものは、1990年8月28日放送のもの。Mr.マリック(当時41歳)がフランスのパリで馬に乗っていたら、馬が車の騒音に驚いて転倒したというもの。

 1982年5月4日に放送。ギリシャのアテネにやってきた杉田かおる(当時17歳)が、謝肉祭の卵割の儀式を清純に取材した。

 1983年9月13日放送。アメリカ・ロサンゼルスに中井貴恵さん(当時25歳)が逆さ吊りで髪をカットする美容室を取材して挑戦した。

 1994年8月30日放送。アメリカ・カリフォルニアに柳沢慎吾さん(当時28歳)が取材した。1年に1度電車に向かってお尻を丸出しするイベント。柳沢さんも出しました。

 1984年11月20日放送。トルコで行なわれているレスリングを益田由美アナが取材した。体重差のハンディをなくすためにオリーブオイルを塗って闘う。益田さんは覆面レスラーとして参加した(笑)

 1986年10月14日放送。スペイン・サンチァゴで星野知子さん(当時29歳)が、スペイン空軍の所有する消火飛行機が水を撒くのを取材したが、星野さんとカメラマンに向かってかけていました(笑)

 1993年4月13日放送。ニューヨークで吉村明宏さん(当時35歳)が道路のトンネルを封鎖したのを取材した。象、馬、ラクダなどが歩いてきた。これは経費節約とPRを兼ねた大移動するサーカス団の動物たちだった。

●壮絶イベント
 「よくぞ集めた大群集」。1989年8月29日放送。アメリカ・オハイオ州で双子を集めた「ツインズ・デイ・フェスティバル」が開催され、よしざわたかアナ(当時29歳)が取材した。2200組でした。可愛い双子チャンピオンはセーラちゃんとジュリーちゃん。似てない双子チャンピオンはダグさんとジェフさん。

 「夜通し踊る大群集」。1990年4月17日放送。トリニダード・トバゴのカーニバルは50万人の大群集で、阿部知代アナ(当時26歳)が取材。中心になるのは、この国出身の太鼓スティール・ドラム。ラテンの音楽にのって夜通し踊りまくる。

 「危険な競馬の大群集」。1989年10月31日放送。イタリアのシエナの競馬祭りには5万人の大群集を工藤夕貴さん(当時18歳)が取材した。年に2回開催され、群集が真中と外で見て、馬がその間を走る。90度の急カーブもありとっても危険。今回は落馬した騎手のいない馬が優勝しました。

 「謎のタイヤの大群集」。1985年8月6日放送。コートジボアールのアビジャンのワンコー?川で益田由美アナ(当時30歳)が取材した。川にタイヤがたくさん置いてある。これは洗濯をするためのタイヤで、すごい数の人が川で洗濯をしている。それが全て洗濯屋さんでした。タイヤをもってくれば、誰でもプロの洗濯屋さんになれるという。中には体を洗っている人もいました。

●スペイン・バレンシア
 「巨大人形の大群集」。高知東生さんが取材した。市庁舎前広場 Del Ayuntamiento では歓迎の花火が上がり、1500発、火薬100kgが炸裂した。その火薬の煙で前が見えないほど。音がすごいそうです。バレンシアの巨大人形祭りは8日間で200万人を集めるお祭り。高さ20mの巨大人形は、木とボール紙でできた張りぼて人形で、プロの人形師が7,8人体制で1年かけて巨大人形を製作する。制作費は最高で約5000万円。人形はバレンシアの地域ごとに作られ、今年は385体が街に並ぶ。人形のテーマは社会風刺やパロディーで、セクシーなものもある。今年最大の人形は「スペイン出身の画家たちの作品がモチーフ」。ピカソの「アビニョンの娘たち」、エル・グレコの「胸に手を置く騎士の肖像」、ベラスケスの「マルガリータ王女」など。
 メイン・ストリートではパレードが始まった。最後尾を歩くのは女王様で、巨大人形を作った地域ごとに女王様が一人選ばれる。お祭りのフィナーレで行なう女王様たちの仕事は何か?が問題でした。答えは自分の地域の人形に点火して燃やすでした。人形には爆薬が仕掛けられていて、あっという間に燃えました。
 この祭りは別名「サン・ホセの火祭り」とも言う。キリストの父で大工の守護聖人サン・ホセを祝うために町の大工達が古い木材を燃やしたのがはじまり。女王様たちの中には歓喜のあまり涙する人も多い。


テレビ番組「灼熱サハラ砂漠を行く、砂漠に消えた幻の楽園」

 2003年7月21日放送。サハラ砂漠は広大で北アフリカをベルトのよ うに覆っている。赤井秀和と加藤紀子さんが幻の民トゥアレグ族の暮らしを 追う、サハラ砂漠1000kmの旅。地球の砂漠化は四国と九州をあわせた くらいの速度で進んでいる。サハラ砂漠も南に毎年5km進んでいる。 トヨタECOスペシャル番組。中京テレビ製作。

●マリの首都バマコ
 人口1000万人。首都はバマコでニジェール川の河畔に栄えた都市。 市場に行ってみた。生活用品が揃っているが、動物の頭とか、変わったもの を売っている店もある。
 ここから北東に1000km離れた、幻の都トンブクトゥに向かう。

●世界遺産のジェンネ
 黄金都市とも呼ばれていた。女性はカラフルな原色の衣装で、みな違う 恰好をしている。フランス語が通じる。要塞のような建物がある。イスラム 教徒のモスクで、土でできた世界最大のモスクで世界遺産。年若い少女も金 を身につけている。刺青もしている。村に来るともっと大きい金があるとい うので行ってみた。
 プール族の村。ジェンネ同様、建物はほとんど土でできている。お母さん たちは多くの金を頭に飾っていた。赤井さんはひょうきんなことをして、人 気者になった。金は各家庭で祖先から受け継いだもの。口のまわりは黒色に 墨を塗り、針で口のまわりを一定間隔で刺して刺青する様子を見た。

●モプティ
 隣町のモプティに行けばわかるというので、ニジェール川をピロールに乗 って行く。泥川だけど、みんな洗濯している。サハラの砂漠化はここまで及 んでいるという。
 かつて交易で賑わった街で、1mx50cmの岩塩板が並べてあった。こ の岩塩タウデニの交商は12世紀から行なわれた。塩と同じ重さの金が交換 されたという。サハラ砂漠がかつては海だったことの証明でもある。1枚 35kgだという。
 モプティから車で2時間移動したら、岩山の登り斜面となった。高さ20 0mの断崖、バンディアガラの断崖になった。断崖の下の方に岩でできた? 村を見つけた。ドゴン族の集落で、土でできた建物。とんがり屋根の家は 穀物倉庫だった。13世紀にイスラム教徒に追われてから住むようになった という。粟やヒエなどを栽培して暮らしている。水がたいへんで崖のところ に女性がいつも汲みに行っている。断崖を登って、片道1時間行った所に湧 き水がある。女性は約20リットルを頭に載せて運ぶ。
 歓迎の踊りをしてくれた。仮面ダンス。五穀豊穣を願って行なうもの。高 さ1.5mくらいの手を使わない竹馬?の上に乗って踊りをする人もいる。 動物の仮面をかぶっている人も多い。昔はまわりは緑も多く動物も多かった という。今は砂漠化しつつある。ニジェールの岩絵にもあるように4000 年以上前にはサハラにも多くの人が住んでいた。

●砂漠の旅
 ここから先は本格的な砂漠の旅。次第に木が少なくなり、サヘル(半砂漠 地帯)となった。突然、ストーム(砂嵐)が襲ってきた。砂の雨です。空の 半分は晴れているのに、半分は真っ茶色。極端な空気の乾燥などが原因で砂 嵐は起きるという。その後低気圧のために、水の雨が降るという。

●トンブクトゥ
 街のすぐ北には砂漠が来ている。土でできた建物。砂はサラサラ。ターバ ンは太陽と砂から頭を守ってくれる。パンを焼いていた。1個100CFA (約10円?)。パンの中に砂が入っているという。15年前には川があっ て、港があった場所に連れて行ってくれた。この15年で雨量がかなり減っ たという。ファビギム湖もかなり水量が減った。

 さらに北に車を走らせると、そこはサハラ砂漠だった。その先の幻の民の ところに向かう。砂漠のみ。車もスタックして動かなくなった。何とか動か して、2時間行ったら集落が見えた。

●トゥアレグ族の村
 モハマッド・ウルパカさんが村長。歓迎してくれた。テント内は涼しい。 アッタイは紅茶に砂糖を入れたもの。甘くて苦いとか。大人と子供で100 人住んでいる。青いターバンをつけているので、青い部族とも言われる。井 戸は一つしかない。深さ50m。去年までは40mだったが、水が出なくな ったので、今年10m深くしたという。一度に30リットル汲み上げる。こ のまま乾燥化が進めば、水汲みはさらにたいへんになるらしい。
 テント造りは女性の仕事。砂の上に毛布を敷いてくれた。日暮れ時に伝統 料理を出してくれた。羊の丸焼き。砂の中で焼いて作る。肉をまるごと味付 けして、紙に包んで砂の中に埋める。その上で焚き火をして、8時間ほど蒸 し焼きにする。油が少なくて、すじっぽいとか。
 翌朝、テントのまわりにラクダを連れた人が集まった。ラクダに乗るが、 高くて怖いらしい。1頭に2人乗ったが、後ろの人はお尻が気持ち悪いらし い(笑)ラクダのレースに参加しようとしたが、練習で振り落とされた。
 お昼は、粟とラクダの乳で溶いた粥を1日取るだけ。気温は43度。キャ ラバン隊が来た。岩塩を積んでいた。30日間歩いてきたという。ラクダは 一度止めると再度動かすのが大変なので、歩きながら水を飲む。
 夕暮れには子供たちがトゥアレグ・ダンスを披露してくれた。赤井も負け ずに踊った。子供に人気がある。
 夜中に棒を2本立てて、白い布を張った。子供達を連れてきて、映写会を 開こうとした。映像は海だった。みんな目をキラキラさせて見ていました。 映写会はその夜、何度も繰り返された。海を見たことがない大人も多く、好 評でした。
 ラクダレースは300mで20頭によるスピードレース。赤井さんは善戦 しました。優勝者はトゥアレグの英雄。
 シュクラン(さようなら)と言って、別れを告げました。

●砂漠の緑化
 砂漠化がどんどん進んでいるが、陸地の25%が危険信号。約9億人に 影響があると思われる。原因は、乾燥地帯での過剰放牧と木々伐採、人口 増加、エネルギーの大量消費、森林伐採などによる地球温暖化などが考えら れる。
 植林などの砂漠の緑化が、中国内モンゴル自治区のクブチ砂漠などで日本 のボランティアにより行なわれている。
 また、熊本県の九州東海大学の椛田聖孝教授は納豆を使って画期的なもの を開発することに成功した。納豆の糸からできる納豆樹脂は水を加えるとゲ ル状になって、水を吸収する。極めて保水能力が高く、わずか1gで5リッ トルの水を保つ!天然素材でもあるし、植物が利用できるように、水を保っ てやればいい。
 方法は、普通の土壌に、種子を撒いて、納豆樹脂と水を加えて混ぜる。そ の土を固めて、小さな固まりを造り、それに水をやると、土の中の納豆樹脂 が大量の水を蓄え、発芽することができる。少ない雨を有効利用できれば、 発芽定着率が0%から10%とか20%に上がれば、緑化に成功したと言え るのではないかと教授は語る。
 中国ではロケットを使って、ヨウ化銀の粒子を空中にばら撒き、雨を降ら し、黄河は水量が15%増えたという。サウジアラビアなどでは海水をろ過 設備により真水に換えて、砂漠に散布して農業用水として利用している。


「道浪漫」2000年3月19日、26日と5月7日は日比野克彦さんでカメルーン

  オリンピックでカメルーンがサッカーで優勝したので。

●事前
 黄熱病の予防接種が必要。アフリカン・アートとサッカーを見るために。人口1500万人。面積は日本の1.3倍。公用語は仏語と英語。通過は中央アフリカフラン(CFA)で1CFA=0.18円。首都はヤウンデ。みなさたいへんお洒落。エールフランスでパリ経由でいける。

●ドゥアラ
 最大の都市。かなりの大都会だった。市場へ。歩いていると警部が2名ついてきてくれた。プランテン・バナナは主食だが、調理しないと渋くて食べられない。焼くとさつまいものひからびた感じ。おかずは鶏、牛とか生きたまま売られている。猿のヒラキもある。貴重な蛋白源。魚は薫製。
 お面が多い。250の部族がいて各々お面を持っている。アフリカン・プリミティブ・アートはピカソに大きな影響を与えた。つまりキュビズムのきっかけになったという。お面がパスポートになる(パスポート・マスク)。異なる言語のために共通のものが必要だったから。
 ホテルはアクア・パレス。住所:B.P.4007 Duala。電話:+237−42−26−01.料金はスタンダードで8100円。

●バフッサム
 キュビズムの原点を探しに行く。南西部最大の街。カメルーンのナショナルチームのユニホームがある。ユニホームは2000円。ロジェ・ミラというのが1990年のワールドカップのヒーローだった。ガンバ大阪にはエムボマがいた。
 ランチタイム。家庭料理の店マーヴェイユ(=美味)へ。まずたらいで手を洗う。手で食べるのが普通。まず、ンボ、ついでタロ(サトイモ)。12種類のスパイスを混ぜ合わせたンボの黄色いソースがけ(300円)。何ともいえない味がするソース。タロイモだけの方がうまいという日比野氏。
 カメルーン対ガーナの試合をテレビでやっていた。喫茶店か何かでは人が相当数集まっている。1:1の引き分けだった。
 ホテルはレジデンス・サレ。住所:B.P.731 Baffoussam 電話:+237−44−25−99.料金はアパートで4500円〜。

●バムングン村
 赤い土を越えていくと森の中に屋敷が出現した。バムングン村のバミレケ族の王宮だった。門の前には王のシンボルであるライオンの置物。三人の王子(と言っても子供)が出現。草履を食べている (^^;;
 焼き物屋がいるというので家へ行く。ンゾゼトゥンさん。奥さんは7人いるらしい。初婚のときに一夫一婦制をとるか、一夫多妻制をとるかを決める。焼き物を焼くのは奥さんの仕事。毎日壷を作っている。オーダーがあればパスポートマスクを作ってくれた。子供にユニホームとボールをプレゼントした。

●ワザ国立公園
 カンムリヅル、ダチョウ、アフリカハゲコウなどがいる。雨季には湿地帯のようになるらしい。キリンを探して半日。好物はアカシアの樹でトゲがある。暗闇の中帰りがけにであったのはアフリカゾウ。入場料16500CFA(3300円)。

●ディンブロム村
 マバ族。ギガと呼ばれる独特の家屋には、尖った塔がたっている。お父さんの部屋は1階から入って、階段もない2階に入り口がある。金庫と呼ばれるところには豆が隠してあった。北部の村の特徴的な屋根。

●フンバン
 南西部の村。バムン族。木彫りの彫刻を作っている。アフリカンアートの独特な芸術。美術館に芸術品は一般公開されている。独自の文字を持つ部族でもある。2つの顔を持つお面が多くある。入場料10000CFA(2000円)。
 宮廷楽師の人達が音楽を奏でていた。ニェンニェンやパッドパッドという独特の楽器。2002年に日本でサッカーがあるから行くよ!って言っている。

●マガ湖
 変わったトラックが来た。人が超満載。目的地はマガの街。お葬式に行くところだという。その間はずっと歌いっぱなし。

●マガ
 北部の街マガはイスラム教徒ムズグム族の街。ここでサッカーをすることにした。宿泊は高校の隣の民宿のデュラック。夕食はマガ湖の魚。
 1月29日。風速13mの中でサッカーの試合。

●ルムシキ
 カメルーンの聖地といわれる。奇妙な形の岩山がニョキニョキある。異次元トリップしてしまったような感覚。月面のような異様な風景。アンドレ・ジイドは世界で一番美しい場所と言った。

●ドゥアラから北部へ
 チャドとは川を隔てたところ。釣り鐘のような建物が並んでいる。ムズグム・ドームという。高さは10mくらいだろうか。イズグム語でこの家のことをトゥルックという。今では作る人もいない。柱を1本も使わない方法。土にワラを混ぜて粘土細工のように積み上げていく。外壁の模様はつくるための足場だった。
 川を渡ってチャドから毎日牛乳を売りに来る女性がいるというムーラ村。手拍子に合わせてお互いに足を出す。足版のあっち向いてホイ!という遊びを子供達がやっている。ゴロアグナさん(90歳)はこの村で唯一のムズグム・ドーム作製者であるが,後継者がいない。

●ドゥアラ
 ドゥアラ中央市場でカメルーンの女性の髪型をデザインしている。少しずつつけ毛をして,1日がかりである。最近の流行は「ラスタ」というもの。値段は作業量と交渉らしい。
 ドゥアラに昨年秋,インターネットカフェがオープンした。ドゥアラ市アクワ地区の「サイバー・カフェ」の使用料は30分,250CFA(50円)

●北部カンソウチャン。西部熱帯雨林地方。
 ギニア湾沿岸のマングローブの森。霧雨のような雨。水墨画のような世界もある。ブルークラブ(ガザミ)や海老が取れるらしい。急にスコールがやってきた。すごい雨である。ここで取れた魚はドゥアラの中央市場で買えるらしい。
 翌日は快晴。気温35度。ビタコアというナッツを食べる。1つ食べると胃腸によい。4つ食べるとバイアグラとか。苦くて渋いらしい。

●バンジョン村(南西部の高原)
 わらぶきのような屋根の村で道も整然としている。バミレケ族の王宮がある。同じ衣装の女性がくる。王様の奥さんであり,70人以上とか。王様はングニー・カムガ14世。
 この日は特別な踊りをする日だった。100人くらいの踊り手が象のマスクをかぶって,輪になって自由に踊る。クェンタムの踊り。この象のマスクはとても重い。象は強さの象徴で,マスクはビーズでできている。
 ここには美術館もある。入場料1000CFA(200円)。

http://mbs.co.jp/tv/michi/178/index.html
http://mbs.co.jp/tv/michi/184/index.html

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