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なお、これはわたしが個人的にテレビを見て書いたものであり、各テレビ局や番組とは全く関係はありません。
すべての文章の無断使用・転載を禁止いたします。
またここの情報を使って、何か問題が起こったとしても私は一切責任は持ちませんのであしからず。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん カザフスタン共和国」

 2010年6月5日放送。

●カザフスタン共和国
 最大の都市はアルマティ。中性にはシルクロードの交易地として栄えた。天山山脈の麓に位置する。様々な民族が暮らすので、街には様々な様式の建物が点在している。
 コック市場に行く。リンゴが多く並んでいる。アルマティのアルマはリンゴの意味。アルマティ周辺には野生のリンゴの木が群生し、昔から一大産地だった。ハチミツの店も人気。コーンフラワーのハチミツは肝臓病の予防にいいという。セージは風邪の予防にいいという。

 ロズィバキエフ通りに行く。シャシリクはタレにつけ込んだ羊や豚や鶏肉などをサクサウル?という木の炭火で焼き上げたもの。20分くらいかけてじっくり焼くそうです。たくさんあるお店の中でも人気のお店を紹介していた。1本500テンゲ(約310円)。

 中心部のコナエフ通りを歩く。緑色の建物がある。中はブティックのような感じ。「スィンバット」は専門学校から自社工場まで備えたファッション・ブランド。デザイナーの育成から生産までを行っている。そう語ってくれたバルヌル・アッサノワさんも卒業生で現在はチーフ・デザイナー。彼女のデザインする服はカザフスタンの民族衣装を現代風にアレンジしたもので、色使いがとても鮮やか。カザフスタンだけでなく欧米でも人気があるとか。

 伝統料理の店「ジェルイック」に行く。プリムジャロフ・イリヤスさん(25歳)のおすすめは「ベシュパルマック」1人前3250テンゲ(約2000円)で、昔から来客を歓迎するごちそう。馬肉と馬肉のソーセージ、羊肉などをおよそ3時間スープなどと煮込み、それをスライスしたタマネギなどと盛りつけ、肉のかたまりをのせたもの。カザフ人は肉が好きなのでペロリと食べるそうです。注文は2人前から?

 アブィライハン通りは街の大通り。子供たちがダンスの練習をしている。3−9歳の子に民族舞踊を教えていた。グイデルという国立民族舞踊団が未来のスターを育てるために主催しているダンス教室。子供たちは9歳になると試験を受けるそうです。

 パンフィロフ公園に行く。休日でにぎわっていた。テントがあって、迷彩服を着た人が車でご飯を炊いていた。この日は終戦記念日で、そばなどを入れた炊き込みご飯を作っていた。戦時中に食べていたものを再現した食べ物でした。

 街の西側の住宅街にあるアパートに住むアディケエワ・グリャンダさん(23歳)が作るのは、1品目「ケスペ」。骨付きの羊肉をぶつ切りにし、水をはった鍋に入れ、しばし煮込む。ボウルに卵を割り入れ、小麦粉を加えてこねる。生地はラップをして少し寝かせる。鍋はアクを取る。塩で味付けして煮込む。生地を綿棒でのばし、うちこを使いのばしたら、包丁で切る。卵麺をスープに入れて完成。
 2品目「クィルダック」。牛肉の赤身をサイコロ状に切り、油を敷いて強火で炒める。焦げ目がついたらタマネギ、トマト、ジャガイモを入れてさらに炒める。塩胡椒で味付けしなじませ、ネギや香草を入れて煮込む。
 3品目伝統的なお菓子「チャクチャク」。生地をのばし、お菓子を作る。マッチ棒くらいの大きさに切り、高温の油でカラっと揚げる。お皿に移し、レーズンをかけ、ハチミツをかけ、砕いたクルミをのせる。


テレビ番組「知っとこ! 世界の朝ごはん ウズベキスタンのブハラ」

 2009年12月12日放送。

●ブハラ
 9世紀頃からイスラム文化の中心地として繁栄した。人口約30万人、1993年旧市街が世界遺産に登録された。
 街の中心地にある青空市場「デルクショ市場 Dilkusho 」に行く。たくさんのスパイスに野菜。リンゴを高く積み上げているが、こうすると綺麗に見えてよく売れるのだとか。カボチャは真中がくりぬいてあって、新鮮だという証明にしている。煙で野菜を清めている人もいる。体にもよくて風邪をひかなくなるという。これはイスリックといって、ウズベキスタンに古くから伝わる薬草で、1000スム(約50円)。
 旧市街のメイン通りに行く。ブハラ旧市街を通るほとんどの道が「シルク・ロード」。  一際目立つ塔は「カラーン・ミナレット Kalon Minora 」で、登ってみると、旧市街が一望できる。建物よりも大きな絨毯がモスクの横に見えた。
 絨毯は5mx3.5mで35万スム(約17500円)で、花嫁が嫁入り道具として持っていく。この店の隣は家具屋さん。また逆ではスザニを売っている。スザニは細かい刺繍が特徴で、ベッドカバーやテーブル・クロスなどに使う。ブハラの花嫁さんはスザニを持って嫁ぐ風習がある。嫁入り前に幸せを祈って手作業で作りあげるそうです。
 神学校を見学した。イスラム教のコーランを読んでいた。ここは1418年創設で、中央アジア最古の全寮制神学校「ウルグベク・メドレゼ」。この建物の2階が生徒の寮で、1階が教室や食堂になっている。開けて中に入った時に中に先生など偉い人がいることを想定して、ドアは背が低く作ってある。これはイスラム建築の特徴。

 アクラモフ・ソヒブさん(23歳)が紹介してくれたのは、街の美容室。新市街のメイン・ストリート「独立通り Mustagilik koehasi ?」にはオシャレなブティックやサロンなどが並ぶ。美容室「Vitell 」に入ると、眉と眉をつないでいる。ここではこれが美人。ブハラの市場では、絞り汁を塗ると2〜3週間で眉と眉の間に眉毛が生えてくるという野菜がある。この草はオスマと言って、1000スム(約50円)。

 新婚さんの朝ごはん。ブハラ郊外の一軒屋に住むアコビロバ・マディナさん(23歳)が作るのは、1品目「シルグルチュ(牛乳粥)」。洗ったお米を鍋に移し、水を少し加え沸騰させたら、牛乳をたっぷり加えて15〜20分煮込み、塩で調味し、最後にバターをのせる。
 2品目「ディムラマ」。食材を細かく切る。たまねぎ、じゃがいも、かぼちゃ、トマト、にんじん、キャベツ、ピーマン、かぶなど。牛肉も細かく切る。鍋にメンク油?を入れ、牛肉を炒める。その上に切り分けた野菜を層を作るようにのせ、ローリエ、クミン、黒胡椒で独特の風味を付ける。ウズベキスタンの家庭では大鍋料理が多いとか。塩を加え、40〜50分ほど煮込めば完成。
 3品目デザートの「ホルベタル」。鍋に砂糖を入れ、キツネ色になるまでじっくり加熱する。これに水で溶いた片栗粉を加え、焦げ付かないようかき混ぜながら煮込む。これを皿にうつし、冷やす。特別な時に食べるそうです。


テレビ番組「世界遺産への招待状16 中央アジア」

 2009年8月2日放送。青い都サマルカンド、大草原の岩山にある「タムガリの岩絵」、幻の珍獣がいる「サリ・アルカ自然公園」、遊牧民の聖地「ホジャ・アフマド・ヤサウィ廟」。NHK製作。

●サマルカンド
 ウズベキスタンにある。シルクロードの真中にあり、東西文化の交差路として栄えた街。市場は活気に溢れていた。東西交易で街が繁栄してきたことが実感できる。新鮮な果実は砂漠の民の乾きを癒したに違いない。
 街の中心には壮麗なイスラム建築。サマルカンドは「青の都」、「イスラム世界の宝石」と美しさを称えられてきた。レギスタン広場。建物の壁は鮮やかな青いタイルで飾られている。16世紀に建てられたイスラム神学校「ティラカリ・メドレセ」は中は金色。金箔で飾られた星や植物などの紋様が、まばゆいばかりに輝いている。言葉を失ってただ見上げていた。

 熱心に掃き清められていた広場がある。人々が敬愛してやまない郷土の英雄ティムールの銅像が鎮座していた。14世紀にこのサマルカンドの町を築いた。遊牧民の王者として、ティムール帝国を興し、サマルカンドを首都に定めた。そのティムールが眠る「グーリ・アミール廟」は「支配者の墓」という意味。参拝者は後を絶たない。中央の黒い棺をみんなが礼拝する。ティムールの亡骸はこの中にはない。ティムールは地下室に安置されていた。礼拝用の棺の真下にある。1941年、当時のソビエトの科学者たちにより一度だけ開かれて検証された。そして頭蓋骨からティムールの顔が復元された。モンゴル系遊牧民の特徴的な顔立ちだった。ティムールにはチンギスハンがなしえなかった世界制覇の夢を自らの手で実現することが夢だった。連戦を重ね、周辺の国を支配下に治めていった。そして中央アジアから西アジアに勢力をのばした。チンギスハンは破壊し、ティムールは建設したと伝えられている。ティムールは遠征各地から建築家や芸術家を連れて帰り、サマルカンドの町作りにあたらせた。モザイク細工の手法はペルシャから持ち込まれた。建物に動物の絵が描かれている。イスラムでは偶像崇拝は禁止されているが、ティムールはそのあたりは寛容だったようだ。サマルカンドの青はティムールが好んだ色だった。青はオアシスの水の色。ティムールは美しい建物で暮すよりも、庭にはったテントで暮すことを好んだ。

●カザフスタンの伝統行事「コクバル」
 東西7500km、南北500kmにわたる草原のシルクロード。半分近くを占めているのがカザフスタン。1991年にソ連から独立した。カザフ・ステップという草原で毎週、遊牧民の伝統行事が行なわれる。まず神に祈り、羊が生け贄にされた。男達は2組に分かれ、馬に乗って羊を奪い始めた。伝統行事「コクバル」。羊を奪い、敵の陣地に投げ入れると得点になる。これは単なるスポーツではない。自分たちが騎馬軍団の末裔であり、男を鍛え上げる場である。

●タムガリの岩絵
 考古学者のポタポフ・スタニスラフさんが案内してくれた。今では人影がないが、昔は遊牧民族が次々やってきて、岩に絵を描いていた。辿りついたのはカザフスタン南東部のタムガリ渓谷。青銅器時代、3000年以上に渡って描かれた5000もの岩絵が世界遺産になっている。馬、牛、鹿などの動物の姿が描かれていた。昔からこの渓谷は神聖な場所とされてきた。自分たちの歴史や神話を記した。遊牧民なので、大半が動物の絵。動物は神々の化身と考えられていた。ここにはメッセージがこめられている。「妊娠した牛」には子孫繁栄の願いがこめられている。浮き彫りという高度な技術で彫られたものもある。ラクダの絵は紀元7−8世紀のもの。
 ある絵は牛が生け贄にされる場面を描かれていたが、紀元前10世紀頃に、馬に書き改められ、さらに乗馬する人も描き加えられた。
 宗教的な儀式が行なわれたという絵がある。太陽神が南向きの垂直に切り立った岩に描かれている。紀元前14世紀に描かれた絵は7つの太陽神。
 木に布きれが神社のオミクジのように結びつけられている。風が吹くたびに木の実が不思議な音をたてていた。この音は先祖の魂の声とされ、先祖と対話するために訪れた人が、布を結びつけていくのだという。

●サリ・アルカ自然公園
 6月、長い冬が終わり、大草原は一気に活気づく。鳥や動物たちも動きだす。カザフスタン北部の世界遺産。珍獣がいるという。かつては200万頭もいたが、現在は数万頭にまで数を減らしている。時速80kmあまりで走っている珍獣を見つけた。サイガという鹿と牛と馬の中間のような顔。1日100kmあまりも移動するという。雄には立派な角がある。顔の半分以上が大きな鼻。草原が50度になって脳が痛むのを鼻を経由した血液が冷やすようにできている。
 フラミンゴと白鳥が湖にいた。ニシハイイロペリカンは世界で8000羽しかいない絶滅危惧種。ペリカンは黒いカワウの後ろをつけている。カワウは魚獲りの名人で、ウの魚を奪う。
 カザフスタンでは草の命は2ヶ月。若草前線が北上するのに伴い、サイガはどんどん移動する。80種類以上の草を食べているという。年間数千km移動することもある。

●トルキスタン市
 カザフスタンに世界遺産「ホジャ・アフマド・ヤサウィ廟」がある。青いドームがある。14世紀にティムールの命により建てられたもの。ティムールが崇拝してやまなかったイスラムの聖人ヤサウィが眠っている。その墓を歴史学者のトヤクバエフ・マラットさんに見せてもらった。ヤサウィは12世紀に生まれ、遊牧民にイスラムの教えを広めた。彼はアラビア語ではなく、遊牧民に理解できるキルク語でわかりやすく説いた。モスクでは男性も女性も一緒。
 400km離れた街から7時間かけて巡礼に来たトゥルスンベックさん一家がいた。結婚式の姿で報告をする人もいる。ヤサウィが説いたイスラムは独特のものだった。ヤサウィ廟に高さ4mの穴があった。ヤサウィはたった一人で地下の穴で神と一体化するための修行を続けた。「修行により無我の境地に達すれば、神の声を聞くことができる」彼の教えは神秘主義的イスラムとよばれている。ヤサウィの言葉を繰り返し歌い、首を振り続ける修行法、これを繰り返し、神に近づいていくのだという。
 遊牧民たちは古来から神秘的な声に耳を傾けていた。歴史学者のトヤクバエフ・マラットさんは、遊牧民はイスラムに触れる前までは超自然的な信仰を持っていたという。神秘的な現象を畏れ敬っていた。
 それらが一つになった儀式が大草原で行なわれていた。「アラー以外に神はない」という言葉を繰り返しながら、焚き火の火の上を踏んでいく。ソビエト時代はこういう宗教活動は封印されてきた。


テレビ番組「知っとこ!世界の朝ごはん ウズベキスタンのタシケント」

 2009年6月27日放送。

●タシケント
 人口270万人で中央アジア最大の都市。シルクロードのオアシス都市として栄え、東西の文化が入り混じり、様々な民族が暮らす。市場「チョルスー・バザール」は建物の中。新鮮な野菜などがある。白い玉はスズマ?というというヨーグルトに塩を加えて2日間乾燥させた食べ物「クルド」で、20個1袋4000スム(260円)。酸味が強い。白い石「ギルワタ」も売っているが、これは食べ物。ビタミンやカルシウムが豊富に含まれている。500g1500スム(100円)。子供が食べるといいそうです。
 オアシス都市というだけあって、古い建物もあり、緑・水の多い公園もある。灯篭が置いてある公園は、日本との友好のシンボルとして作られた日本庭園。ウェディング・ドレスを着ている人も多い。この公園はきれいなので、記念写真を撮りに来る人が多いそうです。1日平均20組。
 ボルチ・ゾキロフ通りは、日用品などを扱うお店・雑貨屋さんが集まっている通り。ゆりかごを売っている店もある。真中に穴が空いているが、これはおしっこを器具で集めて下に落とすためのもの。おむつを換えずにすむので助かるそうです。
 ショムロドプ・シュンコルさん(27歳)が紹介してくれたのは、川沿いにある涼しげなレストラン「シャルシャラ」の「ノーリン」という、白と黒のコントラストが特徴的な料理で、白は小麦粉の生地を茹で、重ねて細切にしたもの。黒は塩を加えて1週間置いた馬肉をスパイスと一緒に2時間ほど煮込み、細切にしたもの。これらを混ぜ合わせ、胡椒、油、スパイスで味付けしたもの。1皿5000スム(320円)。馬肉を煮た時のスープにつけて食べる。
 お勧めのお土産は、「アブルコシム神学校」のお土産屋さん。コーランなどを載せる一枚板から作る伝統工芸品の台「ラップ」で、形が8段階にも変化する。約1000年前から作られている。1つ作るのに2週間近くかかる。

 新婚さんの朝ごはん。住宅街に住むグルノーラ・ジャリロフさん(24歳)が作るのは、1品目「マンティ」。マトン、じゃがいも、たまねぎを細かく切り、塩、スパイスを加え、よく混ぜる。水と卵を入れた器に小麦粉を加え、よく練って生地を作る。長い麺棒にまきつけて延ばし、薄く広げる。これを四角に切り分けたら、さきほどの具をのせ、四隅を合わせ、蒸し器に入れて蒸す。
 2品目「ディムラム」。ピーマンの種を丁寧に取り除き、トマトは真中部分はくりぬいておく。牛肉の挽肉に、たまねぎ、お米を加え、塩で味つけし、この具をピーマンとトマトの容器にたっぷりと詰める。油でジャガイモを揚げ、おおぶりの鍋に肉詰めのトマトとピーマンとジャガイモを入れ、少量の水を加え、蓋をして30分煮る。
 3品目「クレムリメーワ」。いちご、プラムを一口大に切ったら、生クリームを泡立て、器にのせる。フルーツを彩りよくトッピング。冷蔵庫で冷やして食べます。


テレビ番組「探検ロマン世界遺産 アルメニアのエチミアジン大聖堂」

 2009年2月21日放送。岡田理江さんが案内。アルメニアは旧ソ連で、1991年に独立した。イランとトルコとグルジアとアゼルバイジャンに囲まれている。関東地方よりもやや小さい面積に300万人が暮らしている。

●首都エレバン
 12月28日、市場では買い物客が多い。ミカン、ザクロなどがある。ザクロは粒が多いから豊かさの象徴でもある。正月の食卓には欠かせない。

●エチミアジン
 首都エレバンの西20kmにある聖地。大聖堂を中心とした宗教施設が世界遺産に登録されている。街の入口には大きな門がある。中に入ると公園みたいに広い空間になっている。
 朝日を浴びて輝くアララト山(標高5165m)。美しいこの山の名前は聖書に登場する。ノアの箱舟が辿り着いた先がアララト山の頂だという。アルメニア人は自らをノアの末裔だと信じている。アララト山を臨むこの街を聖地とした。世界遺産エチミアジン大聖堂。この大聖堂は実に1700年の歴史を持つ。アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教とした国。民族独自の信仰を今なお守り続けている。
 クリスマス・イヴの日はアルメニア人が大集結する。アルメニアはクリスマス・イブは1月5日とされている。

 エチミアジン大聖堂はアルメニア教会の総本山。建築が始まったのは4世紀。加工しやすい凝灰岩を積んで作られている。壁には植物や幾何学模様で繰り返された図形が刻みこまれている。これはキリストが永遠に生き続けているということを表わしたもの。
 中に入ると、柱は下側が黄土色で、上がこげ茶色。まばゆいドームがある。当時の世界的な大都市だったペルシャの都から腕のたつ職人を呼び寄せて作ったという。絵の具を壁面にしみこませて描いたフレスコ画。草花の模様は命の象徴。これもキリストの永遠の命を表わしている。
 真中に置かれた祭壇には、みなさんがキスをしてお祈りをしている。銀があしらわれた十字架と聖書が置いてある。毎週日曜日に開催される礼拝が始まった。祭壇の周りでみなさんが祈りを捧げる。ここの教会では歌も説教も全てアルメニア語で行なわれる。
 壁面に掲げられた1枚の絵。アルメニア教会の幕開けの様子が描かれている。異国から布教にやってきた聖グリコルがアルメニア国王の病気を治し、301年頃キリスト教に改宗させた。この時世界で初めてキリスト教を国教とする国が生まれた。しかし4世紀以降アルメニア人は大国の支配下に置かれてきた。4世紀後半にはササン朝ペルシャ、13世紀にはモンゴル帝国、17世紀にオスマン帝国。アルメニア人は長い間、国を持つことができなかった。それでもアルメニア人は民族の伝統を守り続けてきた。
 礼拝の途中で一人の聖職者が入ってきた。カトリコス(総主教)で、アルメニア教会の最高位の聖職者として代々受け継がれてきた。国なき民の宗教的指導者として、また時には、政治的なリーダーとして、アルメニア人を一つにまとめてきた。
 司祭のアソギク・カラベチャンさんが説明してくれました。アルメニア教会創始者の聖グリコルが祈りを捧げていた時のことだった。キリストは天使と共に、まさにこの祭壇のある場所に降りてきた。金の小槌でこの場所を叩き、聖グリコルに大聖堂を作るように言った。ここにキリストの足跡が残っている。ここでアルメニア人は自分がアルメニア人であることを再確認する。エチミアジンは「キリストが降りてきた場所」という意味。聖グリコスは初代カトリコスとなった。そしてエチミアジンはアルメニア教会の聖地となった。

 12月30日、エチミアジンから5kmのアパガ村 Apaga は雪だった。未来村という意味。ほとんどの人がイブにはエチミアジンに行くという。この村で特に熱心だという人を紹介してもらった。ムヒタル・ムヒタリャンさん(45歳)。アルメニアでは元日からクリスマスまでの間、毎日のようにパーティが開かれる。奥さんたちはその料理を作っていた。ブドウの葉で肉を包んだアルメニアの伝統料理「トルマ」。

 この大聖堂も悲しい話が伝えられている。アルメニアの人々を襲った最大の悲劇は1915年に起こった虐殺。当時アルメニアの人々はトルコの東半分と現在のアルメニア周辺に暮らしていた。オスマン帝国とロシアの衝突により、アララト山付近に国境ができた。聖地エチミアジンはロシア領となった。1915年、オスマン帝国は国内にいるアルメニア人を追放した。アルメニア人がキリスト教徒の国ロシアと結びつくのを恐れたためという。強制移住は壮絶だった。砂漠を歩いて越えた人もいる。150万人が命を落としたという。現在のトルコ政府はこのことを認めていない。
 実はアパガ村の人々はトルコから追われてやってきた人たち。彼らは聖地エチミアジンを目指した。ムヒタルさんが説明してくれました。この周辺には数十万人の難民がいたそうです。飲まず食わずで逃げてきた人たちに、大聖堂の近くで炊き出しが行なわれた。

 1月1日、ムヒタルさんの家を訪ねた。親戚や近所の人が続々と訪れる。長男のアラムさんは19歳で、隣国アゼルバイジャンとの国境で警備についている。アゼルバイジャン領内にアルメニア人が住む地域があった。この問題が発火点となり、1992年、武力衝突が激化した。現在まで死者3万人。その長男からも携帯に電話が入りました。
 未来村から車で1時間、景色のいい場所にムヒタルさんが案内してくれた。アララト山が見えてきた。山の手前に有刺鉄線の柵が延びていた。トルコとの国境でした。先祖の村は今はトルコ領になっている。

 1月5日、クリスマス・イブの日。ものすごい数の人が教会に集まってきた。アルメニア民族はその複雑な歴史のために世界中に散らばっている。海外にいる人は国内の2倍と言われている。世界各地から数万人。礼拝が始まった。集まった人々はみんなロウソクを持っている。ロウソクの火は、キリストが生まれた日に輝いた星だとされている。カトリコスが火を灯し終えると、人々は持ってきたロウソクにその火を移し始めた。聖なる火はそれぞれが家に持ち帰る。この日は訪問客はない。家族だけでこの火を囲み、絆を確かめあう。

 エチミアジン大聖堂に赤ちゃんを抱いた家族がやってきた。洗礼式が行なわれた。


テレビ番組「世界!弾丸トラベラー 高杉さと美さんでウズベキスタン」

 2008年11月29日放送。高杉さと美さん(23歳)は星空が大好き。ウズベキスタンはシルクロードの真中に位置していた国。シルクロードで星空を見たい。アエロフロート・ロシア航空SU582便/SU163便でモスクワ経由で15時間。

●予定
 1日目、12;00成田空港発SU582便。22:25モスクワ発SU163便。
 2日目、3:25タシケント国際空港着。5:15タクシーで移動、ティムール広場へ。6:00ティムール広場でガイドと待ち合わせ。7:00チョルスー・バザールで旅の準備。9:30シルクロードを通ってサマルカンドに。15:00サマルカンド着。16:30レギスタン広場を見学。19:00レストラン「カリムベック」で夕食。21:00シルクロードの満点の星空に癒される。22:30タシケントに向かう。
 3日目、8:05タシケント国際空港発HY527便、19:55成田空港着。

●タシケント
 ウズベキスタンの首都で、経済の中心地。ティムール広場に移動するが、真っ暗。朝6時ガイドのアリシェールさん(21歳)に会う。日本語は達者です。
 7:00チョルスー・バザールで旅の準備。野菜をいっぱい売っている。ドーム型の建物の中が市場。衣料品や食品など生活に必要な全てが揃う。お菓子売り場がたくさんある。携帯型のクッキーもある。ウズベキスタンの服はシルク製品も多い。お店の人が勝手にコーディネートしてくれた。かなりルーズな試着室でした。民族衣装代は148500スム(1.1万円)、スカーフ代9450スム(700円)。

●サマルカンド
 シルクロードを通って300kmの旅。トイレに行きたくなったが、トイレはない。仕方なく公共施設に飛び込む。穴だけでした(笑)
 車は徐々に山岳地帯。ここでどうしても聞きたい音楽があるという。自分の歌「旅人」でした。4時間でサマルカンドに到着。町が青い。
 15時、中心地のレギスタン広場に行く。「ティラカリ・メドレセ」の建物の中に入る。入場料2000スム(150円)。ここは全て金で覆われた礼拝場。繊細な絵が描いてありました。階段を上がっていくと、高さ50mのミナレットの頂上でした。
 夜7時、サマルカンドで一番人気のレストラン「カリムベック」で夕食。ウズベキスタン料理が存分に味わえる。「ボッシュ」はウズベク風野菜のスープですが、トマトの色に近い?ラウラギという赤大根が入ることで鮮やかな色合い。メインは「ベック」で、チーズ、トマト、マッシュポテト、メンの油で揚げた牛のミンチが4層になっている。食事代は1人6400スム(470円)でした。
 食事後、20時10分、アフラシアブの丘に行く。15分で到着。ランプを持って暗い中を進む。意外と急斜面。30分歩きました。360度空を見渡せる場所。たくさん見えました。目には光るものが。気持ちがほどける感じがしたそうです。
 10時30分、タシケントに向かいました。

 おやつは「マスカティー」で、ローズ・ウォーター・ライムジュース・ホーケシールを片栗粉で固めたもの。食欲増進、美容効果が高い。


テレビ番組「路面電車紀行 アジア・オセアニア編 ウズベキスタンのタシケント」

 2008年4月5日放送。

●タシケント
 ウズベキスタンの首都で人口200万人以上。街中には大きなビルがあり、中央アジアで唯一の地下鉄が走る。1966年の大地震で壊滅的な打撃を受けたが、わずか数年で現在のような近代都市に生まれ変わった。その復興振りは中央アジアの奇跡と言われた。
 この街の歴史は古く2000年前はチャチという名前が残されている。11世紀頃からタシケントと呼ばれるようになった。シルクロードの中継地として栄えた。モングル軍やロシア軍の占領によって街の形は変わった。さらに大地震でほとんど過去のものは残っていない。旧市街の一部にイスラム建築がわずかに残るだけ。クカンダシュ・メドレセは16世紀に建てられた神学校。ソ連時代は倉庫として使われていたが、独立後は再び神学校として使われている。
 この地にはウズベキスタン人は20%しかおらず、他にはロシア人、カタール人、朝鮮人などが暮らしている。人種のるつぼ。
 28系統あり、路線距離228km。運賃は15円で、乗車して車掌から切符を買う。車両は上が白で下が緑か青のチェコ製の1両で運行。路面電車は広い範囲に整備されているので、郊外に住む人には重要な交通機関となっている。

 中心のティムール広場にはウズベキスタンの英雄ティムールの像が立っている。ソ連時代にはここにレーニンの像が立っていた。歩行者天国になっていて、露店も多い。美しい外観のティムール博物館、レンガで造られたビザンチン様式のナヴォイ・オペラ・バレエ劇場がある。この劇場はタシケントに抑留されていた日本兵捕虜によって作られた建物で、それを記したプレートがある。この建物は大地震でもほとんど被害がなかったと言われ、彼らの技術力の高さは人々の記憶に残っている。
 大地震後に、ソ連各地から集められた3万人により区画整理が行なわれ街が再生した。そのためイスラーム旧市街以外の市街は近代的な建物の多い街並みになっている。

 チョルスー・バザールはタシケントの中で一番大きく、歴史のあるバザールで、別名オールド・バザールとも呼ばれている。中央にある体育館のような大きな屋内バザールには、約600もの店が並ぶ。野菜、香辛料、ドーナツ型のパンなども並ぶ。市民だけでなく、観光客も訪れる。


テレビ番組「世界遺産 カザフスタンのタムガルの岩絵」

 2008年3月2日放送。カザフスタン考古学研究所のアレクセイ・マリアシェフ博士は「青銅器時代、岩絵のほとんどは石で彫られた。道具は貴重なものだった。」と語る。3500年前に平原に生きる民が描いた岩絵がある。

●カザフスタン
 ユーラシア大陸の中央部に位置するカザフ人の国。どこまでも乾いた大地が続くが、ずっと昔は水と緑が溢れていた。中国北部からハンガリーまでをつなぐ文化の通り道だった。遊牧民は巨大な墓や謎めいたアートを残し、やがて歴史の舞台から去った。叙事詩人アークン?が歌う昔のことを歌った歌がある。古代の人々は風を遮る山の麓に定住し、畑を耕し、牧畜をしていた。

●タムガル峡谷
 1982年にクルガンといわれる墓を発掘した。棺は切り出した石を積み上げて使用していた。墓の大きさは同じで、まだ身分差がなかった社会だったと予想される。足を曲げ、頭を西に向けて埋葬されていた。副葬品の土器から、紀元前14世紀頃の青銅器時代の墓だと特定された。火を巧みに使い、錫と銅を溶かして青銅を作った。棺から未完成の岩絵が見つかった。2人が両手を天に掲げ、祈りのポーズを取っていた。
 50年前に科学者がタムガル峡谷に入ったが、当時は河が流れていた。5000点もの岩絵が描かれていた。儀式で踊る男たちの絵では、手に斧のようなものを握っている。太陽の頭を持つ者は神だと考えられる。強烈な日差しで焼かれた岩を彫ると、そこだけ金属的な輝きを放つ。そういう岩だけを彼らは選んだ。尻尾をつけた人はシャーマンではないかと考えられた。
 当時の人には聖なる土地だったとカザフスタン考古学研究所のアレクセイ・マリアシェフ博士は語る。特に一番高い場所で、巨岩に太陽神が描かれている。人は一番下で、頭に羽根飾りをつけている。これもシャーマンだったかもしれない。12人の人間は1年を表わし、生け贄を捧げる祭壇だったかもしれないという。小さな窪地から牛の骨が大量に発見された。神聖な儀式が行なわれたと想像される。
 平原に忽然と現れる5つの小高い丘「5つのテント Besshalyi?」は墓(クルガン)。紀元前7世紀の鉄器時代になると、巨大な古墳が作られるようになった。生産力が高まり、富を持つ権力者が誕生していた。この地を始めて統治したのは、騎馬遊牧国家を築いたサカ?。5つの墓は平原に点在する数千のクルガンの中でも最大級の大きさを誇る。墓の境界を示すように巨石が置かれた。古墳の中には副葬品も納められたが、9割は盗掘を受け、中身は残っていない。しかし、1969年、中央からはずれた墓室から奇跡的に手つかずの物が発見された。
 主は「とんがり帽子のサカ」と恐れられた10代で死んだ王子。全身金づくめだった。ありし日の姿が復元され、カザフスタンの至宝となっている。その名も黄金人間。女性シャーマンがつけていた純金の頭飾りもある。トルコ石やルビーを散りばめてある。
 7世紀頃になるとモンゴル高原からテュリュク?とよばれる遊牧民が進出してきた。人をかたどった石のメモリアルを草原一帯に好んで建てた。岩肌には彼らが飼った動物も描いた。中でも傑作は牛の中に小さな牛がいる。妊娠により子孫の繁栄を描いている。
 かつての中央ユーラシアに広がっていた森と緑。聖なる谷に沿っていくつも聖域は作られた。神話の世界をモチーフにした巨人の絵がある。3000年前の戦車がある。タズナをつけるクツワが発明され、馬を自在に操れるようになり、強力な騎馬軍団が誕生した。
 現在も遊牧民の末裔がユンタというテントで生活している。数千頭の家畜を連れ、夏と冬とで移動している。


テレビ番組「世界遺産 トルクメニスタンのニサのパルティア時代の要塞」

 2008年2月17日放送。オリエントの工芸とギリシャの神々が一つに混ざりあった。トルクメンの国に綿積みの秋がまたやってきた。砂漠の国だが、いくつものオアシス都市がある。中でもメルヴは交易の一大拠点だった。当時最先端の文化がもたらされた。西の果ての仏教遺跡でもある。キリスト教やイスラム教も入ってきた。アレクサンドロス大王、チンギス・ハーン、英雄が駆け抜け世界を揺るがした。
 20世紀のソビエト連邦時代を経て独立したトルクメニスタン。近年は石油、天然ガスに恵まれ、目覚しい経済成長を続けている。一方で、国土の8割はカラクム砂漠に覆われている。砂漠にはラクダの群れ。

●ゴングル・デペ
 1972年砂漠の上空を飛行中に一人の学者が偶然遺跡らしいものを見かけた。ゴングル・デペ Gangour Depe 。王宮のまわりは三重に城壁が取り囲む。張り巡らされた水道管は水道計画の存在を示した。現在はメルヴの周辺地区として世界遺産に登録されている。
 遺跡の貯蔵庫で作られていたのはハオマ酒だといわれる。ラクダの乳に薬草を混ぜたその酒を飲むと、儀式でトランス状態に陥った。陶器を焼いた窯もある。考古学者は世界四大文明に匹敵する文明がここにあったに違いないという。紀元前1600年の陶器が出土している。大理石製の壷。青銅製の化粧道具。紀元前2000年頃の王の墓もある。4つの炉があり、聖なる火が焚かれていた。王が亡くなるたびに扉を開き、七体の遺骨が副葬品と共に安置された。絵も残っている。農耕の民は川の流れが変わり、土地が痩せると彼らは新天地へと移り住んだ。

●ニサ
 広大な中央アジアの遊牧の民による国々が攻防を繰り返す。紀元前3世紀、ローマ帝国と世界を2分するかのような勢いを誇ったのが、パルティアだった。2007年世界遺産に登録されたニサの要塞は、パルティアの王が住む都だった。ローマからの使節も、自分たちがとるに足らないものだと思い知ったと記録に残している。丸天井を持つ神殿ではゾロアスター教の聖火が燃え続けていた。ゾロアスター教の儀式に欠かせない盃リュトンには、インドの象牙にギリシャ風の彫刻が施された。「ニサのビーナス」像などの発掘品は絹の交易を独占し、3世紀まで栄えた王国のありし日の宮殿を彷彿とさせる。

●古代メルヴ
 ニサと共に交易の中心だった街で、1999年に世界遺産に登録された街。メルヴは彷徨える街と呼ばれた。始まりは紀元前6世紀、城壁に囲まれた新しい町は時代毎に隣に築かれていった。丸い土壁が最も古いエルク・カラ。日干しレンガを積み上げただけの壁は今でも50m近い高さを誇る。高度な築城技術だった。小高い丘になっているところは支配者の館跡だと考えられている。最盛期には数十万人が暮らしたというシルクロード屈指の大都市。かつては幾筋の川が流れブドウ畑もあった緑豊かな町だった。碁盤目状道路を持つギリシャ風の都市は、水道網・貯水槽も備えていた。
 城壁の内側で見つかった仏塔のストゥーパ跡。大仏の頭部も出土した。富裕な商人たちは仏教を拠り所として僧院を建てた。イラン製の壷も出土した。壷には経文とガンダーラ仏が収められた。十字架を作るための型も出土した。街にはキリスト教の修道院もあった。ゾロアスター教やイスラム教など、世界の宗教がここで会した。
 12世紀、最高の建築技術を用いて完成したのが、スルタン・サンジャル廟。キャラバン隊が目印にした端正な塔を持つこの廟は、いつしかイスラームの巡礼地となった。
 砂漠にそびえる2つの泥の城「キズ・カラ Kyz Kala」が作られたのは6世紀頃。波打つような円筒状のヒダ。他では見られないこの独特のヒダは、建物をより堅固にし、敵の攻撃を防ぐ意味でも効果があった。建物はほとんど砂に埋もれ、現在、目にするのは2階部分。ここに住んだのは王侯貴族か大商人か。キズ・カラという言葉は「乙女の城」を意味するため、ハーレムだった、千夜一夜物語の舞台だったと語られてきた。
 メルヴが放棄されて800年。泥でできた建物がどうして風化に耐えられたのか。ようやく始まった遺跡の保存活動。修復用に新たに作った日干しレンガが昔の物より耐久性に欠けることがわかった。わらなどは入れず、昔の方法と同じ方法で作っても質が劣る。圧縮の度合いか、水の分量か、土が違うのか。研究室では遺跡のレンガを解析している。最古の城壁の近くの土が原料だろうと特定した。館長のレジェップ・ジェフパロフ?さんが説明してくれました。
 11世紀、トルコ系の遊牧民が起こしたセルジューク朝の都として絶頂期を迎える。12世紀のイブン・サイド廟などがある。独特の幾何学紋がある。しかし、繁栄のさなかの1221年、チンギス・ハーン率いるモンゴル軍に攻められ、街は徹底的に破壊された。
 遊牧の民が優れた馬具や武器を作り、培った金属の加工技術。それはこの地に伝わった銀や金の加工に用いられ、トルクメンに代々受け継がれた装身具を生み出した。民族も言語も全て混ざり合い、そのエネルギーが世界の歴史を動かした。中央アジアは空白地ではなく、文明のるつぼだった。


テレビ番組「世界遺産 サマルカンド」

 2007年12月16日放送。シルクロードの拠点、かつてここは世界の中心だった。ウズベク人の国ウズベキスタン。600年前、青いドームを描き続けた男がいた。ティムール帝国。アジアとヨーロッパを結ぶ交易の拠点となった。地上で最も美しいと言われたサマルカンドは2001年世界遺産。

●サマルカンド
 サマルカンドとは「人が出会う場所」。砂漠の旅人を癒す豊かな水と涼しい風。このオアシス都市は15世紀ティムール帝国の都として黄金時代を迎えた。グーリ・アミール廟に最大の英雄ティムールが眠る。ドームを二重にすることで、屋内の天井よりもさらに高い巨大な丸屋根をそびえさせた。モザイク装飾もティムール朝で最高の水準に達する。箱型の壁の上にいかに美しくドームをのせるのか、そこにイスラム建築の粋が極められた。英雄が一族と共に永久の眠りにつく墓。しかし本当の棺は地下にあった。死後1回だけ棺の蓋が開かれた。1941年ソ連の調査隊が蓋を切断。現れたのは右足が短く、頭の大きい、言い伝え通りの遺骨だった。戦で傷を負い、右手右足が不自由だった。頭蓋骨から想像されたティムールの肖像画がある。彼は中央アジアを跋扈した遊牧民だった。ティムールが一代で築きあげた巨大な帝国は、中国からインド、ローマ、ロシアからあらゆる文物が集まる十字路を抑えた。
 サマルカンドの曙は紀元前7世紀。アフラシアープの丘に希代の天才ソグド人が町を作ったことに始まる。シルクロードの中心で繁栄を続けたこの地を、13世紀悲劇が襲う。チンギスハーン率いるモンゴル軍の襲来。町は焼き払われ、多くの住民が虐殺された。発掘されたギリシャ風のコイン。ソグドの宮殿を飾った壁画も発掘された。ソグド王に謁見を求める使節団の絵が玉座を囲むように描かれていた。彼らが使った文字も残されている。聖なる火を汚さないように、遺体を鳥についばませ、残った骨を入れたオッスアリ(ゾロアスター教徒の骨壷)。ゾロアスター教を信じたソグドはその言葉も消えた。
 モンゴルの襲撃で廃墟となった丘の南側に新しい都サマルカンドを築いたのはティムールだった。死者の国、シャーヒ・ズィンダ廟群にティムールが敬愛した人物が眠る。この地に初めてイスラム教を伝導したと伝えられる預言者ムハンマドの従兄弟、クサム・イブン・アッパース。クサムは伝導中に首を切られたが、自ら井戸に入り、今も生きつづけているという伝説もある。その井戸の上に墓が作られ、クサム・イブン・アッバース廟となった。ここはイスラームの聖地となり、クサム廟に3回詣でれば、メッカ巡礼に等しいとされた。細い参道に沿って並ぶのは全て廟。ティムールの妻や姉妹、王族たちが葬られた。
 天空を写し取るかのように青いタイルが天井をうずめつくす。チンギスハーンは破壊し、ティムールは建設したという言葉がある。ティムールは遠征に行くたびに、一流の職人や芸術家を連れ帰り、モスクや廟を作り続けさせた。ティムールによって連れてこられたイラン人の末裔が、今もタイル職人として暮らしている。中国から伝わった陶磁器の技術と、ペルシャから運ばれた顔料が結びつき色鮮やかなタイルが誕生した。青の秘密は酸化コバルト。それに地元で取れる草を焼き固まりにしたイシュコールを混ぜることで、独特のつやを出した。昔ながらの石臼でひき、上薬にする。親から子へ何代にもわたり引き継がれた技。赤茶色の上薬が焼くと青に変わる。ティムールが愛した青を「サマルカンド・ブルー」と呼ぶようになった。この町がなければ、後の地中海世界からインドにまで到るイスラーム建築の発展はなかった。
 青の都サマルカンドの中心はレギスタン広場。ここにマドラサと呼ばれる学院を建て、学問の都にしたのはティムールの孫ウルグ・ベク。優れた天文学者、詩人として知られる。ウルグ・ベク・マドラサは全寮制で、生活費も支給された。貧しい人にも学ぶチャンスが与えられた。
 サマルカンドは中世からその名を知られた紙の産地だった。桑の木の皮を柔らかくして繊維を紙にする。20世紀70年間のソ連時代に絶たれた技術は独立後に蘇った。紙すきの技術は、8世紀半ば、中国人捕虜によって伝わった。サマルカンド紙はシルクロードを通じてヨーロッパに伝わり、後にルネッサンスの礎にもなった。それまでのぶ厚い羊の皮と比べて薄くて軽いサマルカンド紙はあっという間に普及し、公文書などに用いられた。細密画ミニアチュールがふんだんに配された写本も盛んに製作された。紙はあらゆる知識を一気に広めていった。
 星の高度を測る巨大な六分儀の跡は、世界を驚かせた。高さ40mに及ぶウルグ・ベクの天文台だった。今残るのは地下部分のみ。ウルグ・ベクは学者集団を率いて天体観測を行い、1441年天文表を発表した。今日の技術と比べても1年の誤差はわずか58秒。当時最も正確な暦だった。
 絹の道、その名残がある。ウズベキスタンの独特の刺繍スザニ。中国から西に伝わったシルクと、この地の伝統的なデザインが出会った布の芸術。女性たちは暮らしの中で伝えてきた。
 バザールの光景はシルクロードの黄金時代を彷彿とさせる。1405年ティムールはこの世を去り、彼の帝国もわずか100年で滅亡した。滅ぼしたのはウズベク人だった。ウズベキスタンが独立した今、ティムールは英雄として復活している。激動の果てに美しい青だけが残された。


テレビ番組「知っとこ! 世界の朝ごはん・ウズベキスタンのサマルカンド」

 2007年3月31日放送。シルクロードが交差するウズベキスタン第二の都市。中央アジア最古の都市。文明の十字路とも言われた。
 レギスタン広場は世界遺産で、美しいタイル?のモスクが並ぶ。青いドームのモスクが多いので、「青の都」とも呼ばれている。これらは600年前のティムール帝国時代に当時の皇帝が好きだった青いタイルで作られた。
 シャブ・バザールは最大のバザール。店先にはザクロ、リンゴなど多くのフルーツがある。ニンジンは太くて赤くない。パンみたいな円形のものはナン。ナンを焼いている工房を見学。1枚500スム(約50円)。
 ウルグット?では、囲いのある大きな台の上で飲んだり食べたりしている。ここはチャイハナで、誰でも自由に使えて、自由にくつろげる場所。
 郊外にあるデフコン・バザールでは、スザニという伝統的な刺繍の布を売っている。全て手作業なので、大きいものだと半年以上かかるという。1枚2.5万〜100万スム(2500円〜10万円)。

 ショムロドプ・シュジカール?さん(23歳)がレギスタン広場のお土産屋さんを紹介してくれた。民族楽器の店で、小泉前首相の写真もあった。ドイラという打楽器、打琴のチャング、長いラッパ、バラライカのような弦楽器などで、店主のバブールさんが演奏もしてくれました。

 新婚さんの朝食。パフマノバ・マフブバさん。伝統料理「プロフ」。塩で下味をつけた牛肉をたっぷりの油で炒め、黄色いニンジン・赤いニンジン・ヒヨコマメを細切りし混ぜて、香辛料のクミンをもみながら加え、湯を加えて20分煮る。洗ったお米と塩と水を加えて30分煮込む。
 「ドールマ」。ボールに牛のミンチ、みじん切りにしたタマネギ、お米を入れて、塩胡椒と混ぜる。予め蒸しておいたキャベツとブドウの葉をだしてロールキャベツのように包む。油をひいた鍋にトマトペーストを炒め、一口大に切ったにんじんとジャガイモを入れ、さきほどの具を丁寧に並べ、湯を加え塩で整えて煮込む。
 「カツラマ」。小麦粉、バター、卵で作った生地を麺棒で伸ばし、広げて羊の油を塗り、巻いて、棒状になった生地を菱形に切る。たっぷりの油で揚げる。砂糖をまぶす。


テレビ番組「青いツバメ〜秋野豊・タジキスタンからのEメール」

 2005年2月27日放送。泉谷しげる、優香さんが出演。国際政治学者、秋野豊さん、享年48歳。1998年つくば大学の助教授だった彼が、内戦が続いていたタジキスタンの国連タジキスタン監視団の政務官として渡航した。だが90日後、山岳地帯で3人の同僚らと共に7月に殺害されてしまった。事件から7年、泉谷しげるが事件を追った。
 そんな中、彼は家族と電子メールを交わし当時、大学生さやかさんと高校生ひかるさんの2人の娘に世界の広さと人生の喜びを語り続けた。父娘が交わしたメールを道しるべに、秋野氏の同国での活動を解き明かしながら、生きる意味を問い続けた彼の姿を浮き彫りにする。北海道テレビ製作。

●秋野豊
 秋野は札幌の三角山が好きだった。娘さんは坂本竜馬にならずに、勝海舟になってねと言っていたという。生まれたのは小樽、父はドイツのオリンピックのスキー団の監督だった。1968年のプラハの春がショックだった。

●ドゥシャンベ
 2004年10月。内戦時代はこの町も主戦場の一つだった。1998年4月28日に秋野さんはここに着任した。現在はUNTOP(国連タジキスタン和平構築事務所)となっている。平和のために命を捧げたという碑が立っていた。
 元情報分析官のメフラリ・トシムハンマドフさんに話を聞いた。ソ連崩壊後にタジキスタンの内戦は、ロシア系勢力とイスラム系勢力との間に1992年5月頃から始まった。8万人の死者と70万人の難民を出した。
 大統領府の裏手の秋野のアパートに行ってみたが、いい部屋です。当時もドゥシャンベは危険な町だったそうです。
 当時野戦司令官が20人いて山岳地帯にいた。秋野は彼らを説得する役目だった。一部は山賊で50人〜1000人のグループだったという。
 秋野さんは現場に飛び込んで調査を行なって、今後の政治を考えた日本で初の研究者だったという。専門は東欧とソ連だった。奥さんは行くことに反対していたようです。
 5月にアフガニスタンに入っていた反政府軍を説得して帰国させた。帰国する船に爆弾をしかけたという話があったが、別の船を用意して無事帰国させた。

●バフシュ渓谷
 タジキスタン南部でエジプト綿が取れる。1930年代に灌漑が行なわれ、綿花が作られた。真面目なガルムの人々が移籍されられた。彼らは商売もうまく働き者だったので、裕福となっていった。次第に彼ら独自の教会を作った。次第に地元の人とガルムの人との間に争いが起き、殺人事件が頻繁に起こった。

●ガルム
 ドゥシャンベの東に180kmのガルムは反政府勢力の最大の拠点だった。ガルムの国連事務所を訪問した。反政府軍との交渉は当時行き詰まっていた。秋野は、反政府穏健派と政府の穏健派を国連がうまくリードしていって主導権を取らせ、平和に持っていくというシナリオを描いていたようだった。
 秋野は交渉のテーブルにつかせるために、当時500人の勢力の野戦司令官だったミルゾホジャ・ニゾーモフさんをその日のうちに訪問したそうである。前任者と違って、ロシア語でないし、見下してないし、お互いにいろんな話をぶつけあったそうです。
 マルンビさんは国連事務所で働いていたが、秋野さんにピラフをご馳走していたという。マトンと人参のピラフでした。泉谷さんもいただきました。
 タジキスタンに来て80日目、和平は進展していた。7月20日、タビルダラという村に向かった。南部の悲劇があった野戦司令官ミルゾ・ジヨーエフと逢った。彼は秋野と話をして感激したという。「もうすぐ平和になるからタビルダラを一緒に立て直そう」と言ってくれたという。午後2時半に彼は射殺された。和平を望まない過激派の若者3人だった。犯人のヨコブジョン・ダルベショフ(24歳)も南部にいて、帰郷した時に人間が変わっていたという。
 現場には土地の人々による手作りの慰霊碑が建っていた。無念だったでしょうね。

 タジキスタンの内戦は秋野の死後2年で終結した。大統領顧問のカラマトゥーロ・オリーモフさんに会って話を聞いた。秋野教授に捧げる詩を作っていました。


テレビ番組「あさパラ」でハイヒール20周年記念ウズベキスタンの旅」2002年7月13日放送

 8時間半で関西空港から直行便でタシケントに到着。野々村真さんと、 美人ガイド・イネッサさんと和泉修。よみうりテレビ製作。
 治安がよくて泥棒がいないらしい。ウズベキ語とロシア語だが英語もOK らしい。「おしん」をTVでやっているらしくて、人気だったらしい。街の 人は金歯の人が多く、眉に特徴がある人が多い。10円が93.6スム。 まけて!はオルゾンという(笑)
 5日間と8日間コースがあって、168000-198000円、218000-268000円。 出発日は金曜日で8月16日、23日、30日、9月6日。 問い合わせは06-6449-1806 とんじゃ予約センター

●タシケント
 人口200万人以上の近代都市。新市街と旧市街からなる。まずは旧市街 から。チョルス・バザール(市場)に行く。モモとリンゴもある。リンゴは 小さいのが200スム(20円)で15個!青くても甘いらしい。モモは2 00スムで2個で甘いらしい。ピロシキ風揚げパンを発見、熱々で中には玉 ネギと内蔵のミンチが入っている。地下鉄はこの国ではここだけ。
 ブドウが名産なので、ワインのお店オナ・イェル・トゥルセ Ona Yer Tuhfasiに行ってみた。試飲もできる。1本1900スム!(190円)。 1本35円の激安ワインもある。
 キャラバン Caravan というレストラン。隣はアートギャラリー?前菜。 シュルパという羊のスープ。シャシリクは串焼きの盛り合わせ。ジャガイモ も串に巻きつけてある。この時期は夜も8時まで明るい。
 ブロードウェイという所に屋台がある。カラオケもある1回400スム。 東洋学大学に行く。4年日本語を勉強する学科もある。エッパ・ドロム・ バザールが非常に大きくて安いというのを教えてくれた。衣類が中心。子供 服を数着で350円。洋服も500円くらいで買う!
 タシケント・レイクサイド・ゴルフクラブでゴルフ。また、ハチミツマッ サージを受けた。1時間半で15000スム!(1500円)。
 ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の横で、休憩。横の噴水に修が飛び込むが 非常に浅かった(笑)。

●ブハラ Bukhara
 かつてはイスラムの文化の中心都市で、シルクロードの拠点だった。世界 遺産カラーン・モスクは1514年建立。カラーンとは大きいという意味。 巨大なモスクで広さは1ヘクタール。1万人の信者が礼拝できたという。非 常にカラフルで、中庭は回廊で囲まれていて、208本の柱で天井を支えて いて、288の丸屋根で覆われている。
 ブハラのシンボルのカラーン・ミナレットは1127年建立。ジンギスカンが ここにきた時に見上げて帽子が落ちて、拾った姿が礼拝しているように見え たので、壊されずにすんだという。高さ46mの塔の先端に歩いて登る。1 4世紀から囚人をここから落としていたらしいが、1868年にロシアに禁 止された。
 タキという丸いドームの建物。老舗のみやげ物屋さんが多い。鳥の形をし たハサミは3つで15ドル。帰ろうとすると5ドルに値引きしてくれた。
 世界遺産の中でランチをいただく。昔はサウナだった。ラグマンという代 表的な麺料理。ハンマム(サウナ)を体験。下着もつけていません(笑) 一人1500スム(150円)。
 旧市街にはチャル・ミナル(1807年)などの遺跡が保存されている。ラビハ ウズが中心。昔のオアシス。子供が10mくらいの高いところから池に飛び 込んでいる。
 ラビハウズのナディール・ディヴァンベギ・メドレセ内で民族舞踊を見た 。見ながら夕食を食べられる。餃子みたいな料理でした。野々村さんが民族 衣装を着て話題になった。後にTV局に取材された。
 ホテルは近代的なブハラ・パレスホテル。

●サマルカンド
 シャンヒジンダ廟群は石畳の両側に多くの廟が並び、青い宝石箱のようで とてもきれい。シャンヒジンダとは生きている王という意味。ラクダに乗っ てみた。
 シャブ・バザール。とてもカラフルでカラフルな服を着ている。ナンは 30cmで100スム!もちもち!でおいしいらしい。
 サマルカンド・ブルーが素晴らしいレギスタン広場。チンギスハンの来襲 以降、サマルカンドの商業の中心ともなった場所。ティラカリ・メドレセの 礼拝所の天井は見事!3つの建物の内部は今はお土産屋さんになっている。 楽器屋さんもあって、いろいろ演奏もしてくれた。広場で結婚式をテーマに してミュージカルを見ることができる。
 一般家庭に宿泊する national house の制度がある。中には豪華な家もあ る。今回はム・バロさん宅。中庭で昼食をいただいた。ピラフみたいな プロフも、うどんみたいなラグマンもおいしいらしい。ホテルで食べるより もいいと言っていた。
 ロバに乗ってみた。ハチミツをたくさん売っている。巣も売っているが、 おいしくないらしい。

●ヒヴァ
 4000年以上前からシルクロードの中継地点として栄えた。街全体が 博物館として保存されているイチャン・カラ。黄土色の街。帽子や毛皮もあ る。子供たちは元気。子供の家を訪問した。中田や稲本を知っていた!
が、アン・ジョンファンのようになりたいと言っていた(笑)




テレビ番組「東京〜ロンドン大陸横断2万キロ・日本のタクシー大冒険」

 2000年11月23日放送。テレビ東京製作。主演は宅麻伸。ドライバーは入江武 正(57)さんと武重(29)の親子。練馬区の日生交通勤務。車は黄色で 「品川531せ1212」だったと思う。越えた国境12箇所。中国、カザフ スタン、ウズベキスタン、ロシア、ウクライナ、スロバキア、チェコ、オー ストリア、スイス、フランス、イギリス。3ヶ月かかった!使用ガソリン 1864.33リットル、乗車時間618時間、最高気温42度、最長連続 運転時間27時間、給油回数46回。

●3月10日
 テレビ東京にて40組のタクシー親子をオーディション。入江さんに決定 した。なぜロンドンか?1897年、ロンドンでタクシーが生まれたから。

●6月21日出発!
 天王洲スタジオ出発!一路神戸へ(620キロ、17.8万円)。

●神戸から中国の天津へ
 6月23日、神戸港から中国の天津へ、2泊3日の旅。6月25日到着。 中国用に許可されたナンバープレートに交換し、免許証をもらった。900 万都市天津。右側通行。お父さんは初めての海外。自転車も多いのでたいへ んだったが、高速に入って北京へ。2時間で到着 (850km 24.5万円)。

●北京〜万里の長城〜洛陽〜西安
 永安旅館1室80元(1260円)の部屋に3人雑魚寝。庶民の生活を味 わうためだとか。6月27日、万里の長城の黄花城へ。ここは客がいないが 、修復されていない。登ること1時間延々と連なる長城に着く。近くの民家 に泊まる。これから西安→敦煌→鳥魯木斉に向かう。
 黄河大橋を渡って、50万円。6月30日、洛陽 (2100 km 59.2 万円) 龍門石窓(400年にわたって堀りつづけた石窟)へ。それから現代の石窟 というか趙中年さんの地面を掘った家を訪問。涼しいらしい。
 7月2日、西安(かつての長安)(2520 km 92.1 万円) 。大雁塔、兵馬 傭を見る。回民飲食街(イスラム教徒回族の街)で砂鍋(サゴワ)5元( 70円)。青菜、キノコ、春雨、ウズラが入って3人分でこの値段。長安城 堡大酒店に泊まる。最後の贅沢かも。タクシーは日本人に人気者となった。 新聞にも出た。翌日、行く先々で地元のタクシーが先導してくれた。シルク ロードの起点となる絲綢路へ。起点群像で地元タクシーの人が激励会を開い てくれた。親子涙ぐんでいました。

●シルクロード
 7月6日。宝鶏付近で道は途端に悪化した。午前2時30分やっと天水に 到着した(3050 km 88.1 万円)。ガソリン1リットル2.7元(38円)。 黄土高原(標高2000m以上)を西に向かう。7月7日午後10時、蘭州 到着 (3390 km 97.7 万円)。10時間も何も食べてないらしい。謦源飯店 で蘭州牛肉麺3.5元(49円)を食べる。日本のラーメンのルーツか? 7月8日午後10時、来塞村到着 (3800 km 110.1 万円)。村人が全て出て きた。長老の家に泊めてもらった。夜が明けると、絵に描いたような牧歌的 な景色!祈連山脈もきれい!全員に見送られて出発。
 敦煌の手前で万里の長城の嘉峪関(かよくかん)という関所(西のはずれ の方)、さらにそって走る。このあたりは土で道路ができている。7月11 日、長城第一○(この字は土へんに敦) (4330 km 125.5 万円)。嘉峪関か ら西へ5km、ここが長城の終点。なぜなら、その先が渓谷になっていた。
 7月13日、気温41度。ゴビ砂漠を行く。砂嵐がきた。すごい風、視界 は10m。やっとその向こうに莫高窟(ばっこうくつ)が見えてきた。南北 1.8kmに渡って石窟の敦厚に着いた(世界遺産)。
 哈蜜(はみ)440kmを一気に走り、正午前に到着。ウィグル族。ハミ ウリというウリが多い。メロンとスイカの味がするとか。収穫を手伝う。
 ウルムチに向かう。道が悪くなる。鳥魯木斉(ウルムチ)大都会。西新宿 よりすごいビル群。7月19日到着 (5990 km 174.5 万円)。世界で最も海 から遠い都市。人口140万人。日本料理「平政」へ行く。
 天山山脈が見える。この天山山脈を西へ。7月21日、温安という場所。 ここに温泉があった。肩までつかって満足。1ヶ月経ってました。
 この辺で一番美しいと言われる湖へ。標高2000mの山の中に突然浮か ぶ塞里木(サリム)湖 (677.5 km 196.4 万円)。周囲100km。カザフ 語で幸福という意味。カザフ族のアーレン・パイハナさん宅(パオ)に泊ま らせてもらう。広さ20畳、お客は大歓迎だとか。羊を1つつぶして食べさ せてくれた。馬乳酒(クムズ)をすすめられた。ドブロクとヨーグルトを混 ぜたような味。夜11時過ぎに料理ができた。片方の耳を子供が、他方の耳 を入江さんの息子が食べて、みんなが食べた。煮込んであったのはウドンみ たいなもの。1時過ぎ、みんなで寝た。
 午前7時、クルト(乾燥チーズ)を女性が作る。あとは揚げパンを作る。 バウルサックという。朝の気温は5度。2日間お世話になって旅発つ。涙。
 33日目。200万円到達。7月23日、伊寧 (6880 km 200.9 万円)。 息子が病に倒れる。

●カザフスタン
 7月25日、カザフスタンに入る。みんなの視線が集まる (6981 km 204 万円)。天山山脈の支脈アラタウ山脈に突き当たる。4000m級の雪を頂 く山々に沿ってアルマトイに着く (7374 km 215.5 万円)。昔の首都。イス ラム教とロシア正教。日本人捕虜収容所があった所で、墓地がある。入江さ んのお父さんは涙にくれる。彼らの苦労のおかげで今、自分たちが幸せだと 宅麻さん。
 7月28日、ウッシャルマ (7868 km 229 万円)に住む日本人に会いに行 く。三浦正雄さん68歳。14歳の時にたった一人で来たという。樺太生ま れで、北海道に住んでいたが、終戦時に樺太に戻ったところをスパイ容疑で 逮捕され、カザフスタンに連れて行かれた。札幌に姪の益村美代子さんが 住んでいて、5年前に札幌に訪問したらしい。その姪のビデオを見せる。こ こに泊めてもらった。自給自足の生活をしている。同じ境遇のドイツ人の奥 さんニーナさんと結婚し、子供を2人育てた。

●ウズベキスタン〜カザフスタン
 8月1日、ウズベキスタン国境 (8855 km 262 万円)。通関に5時間もか かった。タシケントに向かう。国境から25km。人口200万人を越える 街。チョルスー・バザールは中央アジア最大の市場。物々交換に挑戦。「孫 の手」でした。
 再びカザフスタンに戻る途中に、8月6日、1万キロに到達。47日目。 8月9日、アラル出発すると道路が目茶目茶。一応アスファルトなのだが、 デコボコだらけ。横の平原ステップを走っていく車を見つけ、ステップを走 ることにした。これはイルギス・ステップ。本来道ではないのだが、地元の 人が走っていてわだちの跡が道になったもの。砂にタイヤがはまって動かな くなった。板を使って脱出。夜になっても朝になっても街までたどりつけな かった。午前10時前、やっと町が見えた。アクトベ。ここまで600km を28時間かけて着いた (11418 km 357.1 万円)。入江さん親子は、交替 しなかったからというので喧嘩を始めた。翌朝、仲直りした。
 ウラル川を越える。8月13日、オラル通過。そこの川づいたの標識に、 ここから「ヨーロッパ」と書いてあった。

●ロシア〜ウクライナ
 8月15日、ロシア国境を越えた (12633 km 374.3 万円)。8月17日 午前10時にウクライナ国境に着いたが、あと500mのところで停電の ためらしいが、車の列が動かなくなった。5時間待つが動かない。さらに 夜11時だが、まだウクライナに入っていない。17時間待ち続けてやっと 動きだした。9月19日、午前3時11分、入国 (13944 km 413 万円)。
 キエフ通過 (14450 km 423.7 万円)。

●スロバキア
 8月25日、スロバキア入国 (15164 km 449.8 万円)。550万人の国 民で、国土の75%は山岳地帯の国である。長い間、ハンガリーの支配下に あった。スピシュスキー城は13世紀初頭に作られた世界遺産。
 ナブラチロワ・マミさん(37歳)はこの辺に住むただ一人の日本人。夫 はズテナさん。1992年日本で結婚し、日本で職がないのでチェコに帰っ てきた。岐阜県垂井町のお母さんからのメッセージをビデオで届けた。ソー メンを食べさせてもらった。

●オーストリア〜ドイツ〜スイス
 8月30日、ウィーン通過。9月3日、ドイツ国境 (16670 km 493.9 万 円)。わがままでスイスのインターラーケンに向かう。
 9月7日、スイスアルプス、ユングフラウ(4158m)、アイガー(3970m)、 一人山頂付近近くまでヘリコプターで行った宅麻さん。

●フランス
 9月8日、フランスに入る (17900 km ? 円)。シャモニーに宿泊。モン ブランへの入り口の町。
 9月10日、パリ、82日目 (18615 km)。シャンゼリゼを走る。凱旋門 は12本の道が集まっているので、ここのロータリーは出るのがたいへん。 エッフェル塔に登る。3つ星レストラン「タイユバン」にこのタクシーで 乗りつけて、食事をした。宅麻からのお礼だという。前菜「胡椒の衣和え、 シャロス産鴨のフォアグラ」(いちじくのジャム付)、「トリュフ風味マッ シュルーム入りラビオリ」、「岩ひめじの切り身炭火焼き」「ロゼール産 仔羊の脇肉ステーキ」
 9月13日、パリを出る。中国に入ってから3ヶ月ぶりの海を見る。 ドーバー海峡である。晴れていたので、イギリスが見えた。カレーに宿泊。 親子で今までのわだかまりを話しあって解消した。

●イギリス
 9月14日、フランス側のイギリス国境。検査がすむとユーロトンネルの ル・シャトル(乗用車専用列車)に乗る。これでユーロトンネルを35分で 通過する。父が運転を替わったので、息子が泣いていた。
 午前11時、イギリス上陸。フォークストン。ロンドンまで150km。 市内に入る前に父は紋付に着替えた。タワーブリッジ(テムズ川)を渡り、 バッキンガム宮殿を右に曲がり、ロンドン・タクシーの発祥の地 Juxon Street へ向かう。宅麻さんの奥さんの賀来ちかこさんと入江さんの奥さん もそこで待っていた。
 9月14日、午後4時5分、到着。ロンドンのタクシーが並んでこのタク シーを向かえてくれた。入江さんも感動で涙。
 86日間かかっていた。全行程、19184km、パンクなし。 費用は568万4820円だった。
The Long and Winding Road の流れる中、番組は終了した。


テレビ番組「大使の国のたからもの」2000年7月はウズベキスタン

 中央アジアの国 Uzbekistan。シルクロードの歴史的な街。アラル海の東南に位置する。1991年独立。首都タシケント。中央アジアの真珠と呼ばれたヒヴァ。しかし昔は芸術,科学などにも貢献している。中央アジアに流れる川,アブダリア(アムダリア?)。

●ヒヴァ
 ホラズム地方の古い都。アブダリアの下流にあり,イスラム的文化の街。世界遺産。2重の城からなる。外側の城はビシャン・カラ,内側の城はイチャン・カラ。2500年前からあるが,17世紀から2世紀ほどヒヴァ汗国の都となった。科学と文化の中心地だった。昔の建物などが残っているのはベニスの形に似ているとか。
 タシュ・ハウリ宮殿。タシュ・ハウリとは「石の宮殿」で王の館として使われてきた。ハーレムには40人の美女がいたらしい。コバルトブルーのマジュリカ模様。

●タシュケント
 「石の都市」の意味。近代的都市。200万人。2000年前から存在している。チムール帝国時代に繁栄した。学芸の街として発展。イスラム寺院が多くなり,手工芸などが増えていった。1924年ロシアに併合されて,中央アジアの中心都市として外側に計画的に都市が大きくされた。
 バザールの近くにあるチャイハナはかつてはキャラバンが休んだ所。今も残る。新しい建物の多くは1966年4月26日の大地震以降に建てられたもの。1976年中央アジアで初の地下鉄が開通した。ホームは大理石でできており,芸術的である。

●サマルカンド
 青の都,東方の真珠と呼ばれる街。抜けるような青空に青い建物が似合う。首都タシュケントの南西。ソグド人により作られ,かつてマラカンダとして知られるこの街が初めて世界に知らされたのは紀元前4世紀に中央アジア制覇を狙う人,アレクサンダー大王が到達した時。当時既に,オアシス都市として発展していた。3000年の歴史がある。インド・中国・ペルシアを結ぶ要所だった。サマルカンドとは,「道が交差する場所」を意味する。チンギス汗により13世紀にアクラシャブの岡の上にあった街は徹底的に壊された。今でも荒涼としているらしい。
 14世紀にアムル・ティムールにより,Timur 王朝が成立し,岡のやや南東に街を作った。彼は古い街をあきらめ,イタリア・中国・インドなどからすぐれた職人を連れてきて,イスラム建築技術の粋を集めた都を作った。世界で最も美しい都を築こうと試みた。ティムールが好んだブルータイルの建築,そして青の都と言われるようになった。ティムールはモンゴルを破り,14世紀後半にはインドにも侵攻した。オスマントルコも破って,ティムールは遠征に力を注いだが,文化にも力を注いだ。多くのモスクや霊廟が建てられていった。例:シャーヒズィンダ廟群。
 そして遊牧民が定住するようになった。グリ・アミール廟にアミル・ティムールは眠っている。青いドームは象徴的。この青色は忠誠心を表し,栄光も表す。サマルカンド・ブルーと呼ばれる。彼は1405年,明への遠征の途中で病死した。
 ウルグベクはアミルの孫。多方面に秀でた優秀な政治家だった。内政や,教育に力を注いだ。特に天文学には精力的に取り組んだ。小高い丘にあったウルグベク天文台は1420年代,世界一だった。ガリレオの生まれる100年も前に1年は365日6時間10分8秒だと測定していた。今と1秒も違わない。
 イスラム・ルネッサンス。9世紀〜10世紀。アビセンナ,ファラビ,ホリズミなどが活躍した。メドレセという宗教の学校が建てられて,多くの科学者はここで学んだ。

●ブハラ
 伝統的なイスラム文化。7世紀以降急速にイスラム化が進んだ。ここはイスラム文化の中心地だった。今でも重要なものが残っている。オアシス都市でもある。しかし緑が多く,砂漠の都市と思えない。人々はチャイを飲みながら,ゆったりした時を過ごしている。オアシスを中心に街ができ,宗教の学校であるメドレセやモスクが建てられ,その周辺にはバザールやチャイハナが作られた。
 パミール高原の雪どけ水が川となっていて流れている街らしい。チャシュマ・アイユブは水が湧き出る所。チャシュマは泉,アイユブはヨブを表わす神聖な泉を祭る霊廟。ヨブが杖で土地に差し込むと,水が湧き出たという。聖なる水を求めて多くの人が今も訪れている。すぐ近くのバザール,タキという屋根付のバザールもある。
 商隊は各地の文化を伝えていった。土地の文化を融合していった。シルクは紀元前1世紀にはヨーロッパで知られていたという。しかし中国が輸出を禁止していた蚕のために製品しか伝えられていなかった。それが流れていってシルク製品をこのあたりでも作るようになったらしい。今でもシルク製品を作っている。
 街の紀元は2000年前?王の城,アルク城。6世紀までソグド人の街だった。7世紀からアラブ人が侵入。10世紀末にはトルコ系のカラハーン朝が成立。アルクは度々,再建を繰り返した。現存するのは18世紀のもの。街の拡大とともに城壁を外側に作った。文化の中心として栄えた。特に14世紀〜15世紀はイスラム教の中心地でもあった。
 イスラム文化を示す,ブハラの象徴カラーン・ミナレット。メッカへの祈りの時間を告げる塔。かつては罪人を袋に入れて投げ降ろしたという。多くのイスラム都市では中心にメドレセやモスクができている。ミナレットは砂漠の灯台も兼ねていた。

 建築,煉瓦がうまく編みあげられたように作られている。世界の宝とも言える。数学的に計算されて作られている。
 イスマール・サマニ廟は9〜10世紀に作られた端正な美しさを持つ。9世紀にできたマゴキ・アッタリ・モスクも精巧にできている。火災や老朽を経て,継ぎ足されて作られている。イスラム,ゾロアスター教,仏教の影響が見られる。今は絨毯の博物館となっている。
 一度訪れると2度,3度来たくなる国らしいです。


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